Non Dubito · SAE笑論
判断力と笑い
ビールの泡、いないいないばあ、知らせずに取っておく答え、父のひと言。小さな場面から、笑うとき私たちは何を見ているのかを考えます。
英国人の食卓で、インド人の客が不思議がる。ビールが瓶から泡立って出ることではなく、どうやって中に入れたのか、と。カントは笑いを、張りつめた期待が突然無に変わることと捉え、悟性はそこから何も得ないとした。この笑論は、笑いを判断力の表れとして考える。笑いが判断するのは『この構には、まだこんな余項がある』ということだ。その瞬間、構と余項はともに目の前にある。笑いは構を残すか捨てるかを決めず、誰も負けていない。
いないいないばあで笑う乳児の傾向(12DD)から、自分の判断だとわかる持ち主の出現(13DD)へ。自分の目的が笑いの対象となる構に入り込む14DDでは、得意な笑いと苦笑、嘲笑、笑いを使ってする行為が現れる。そして15DDの不疑には、絶望の笑いと、ようやく相手の言葉がわかって浮かぶ笑みがある。具体的な出会いの中で互いを目的として認めることにも触れるが、それは双方それぞれの15DDの瞬間であって、完全な16DDではない。この意味で、この笑論は美学シリーズの裏側にあたる。
六本の論文から六篇の随筆へ。総論一篇、各論四篇、専論一篇という構成である。専論は向きを変えて泣くことを考える。笑いでは判断が直接感じられるが、15DDの不疑における泣きは、まず感情を経る。ビールの瓶、母の両手、急に笑いだす部屋、合格発表と三つの流謫の地、父のひと言、差し出された花、通夜の一夜。古い物語や小さな場面を通して、考えを進めていく。
はじめに
誰も負けていない
英国人の宴席で、インド人の客がビールの泡を見つめる。カントは笑いを、期待が無に変わることと捉えた。笑論が考えるのは『この構には、まだこんな余項がある』という判断だ。笑いの瞬間には構も余項も目の前にあり、誰も負けていない。
随筆を読む →01
まだ、いる
母が顔を覆い、手を離す。赤ちゃんが笑う。知覚は『見えなくなった』と捉え、予測は『まだ、いる』を捉える。12DDの笑いには構と余項の構造が部分的にあるが、自分が判断しているとわかる持ち主はまだいない。笑論はこれを、笑いの傾向として記す。
随筆を読む →02
何を笑っているの?
部屋じゅうが笑いだす。あとから来た人もつられて笑い、それから尋ねる。何を笑っているの? 13DDで初めて、笑いに『この判断は私のものだ』とわかる持ち主が現れる。自嘲、つられる笑い、誤判断の笑い、見物人の笑い。そのすべてに通るのは、笑いは構を残すか捨てるかを決めない、という一点だ。
随筆を読む →03
黄州、恵州、儋州
合格発表で『合格』を見つけた人が笑う。晩年の蘇軾は自画像に、生涯の功績を問うて三つの流謫の地を答える。14DDでは自分の目的が笑いの対象となる構へ入り、得意な笑いと苦笑が対をなす。比較は嘲笑へ滑ることがあり、笑いを使う行為は別に吟味する。
随筆を読む →04
目を合わせる、その前に
もう何もないと決めた人が、まだ探している自分を見る。父の『無事に暮らせることが幸せなのだ』という言葉が、ある日ようやくわかる。絶望の笑いと、相手の立つ場所をようやく理解したときの笑いは、どちらも15DDの不疑に立ち、どちらも一方向の笑いだ。目を合わせた笑いが互いの承認を含んでも、それは双方それぞれの15DDの瞬間であって、完全な16DDを認定するものではない。
随筆を読む →独立した特論
独立した特論
間に合わなかったこと
通夜の夜、長男は父が最後の半年、弟の結婚をよく気にしていたことを思い出す。間に合わなかった。その間に合わなさは父のもので、痛みは長男自身の痛みだ。笑いでは判断が直接に感じられる。15DDの不疑の泣きは、まず情を経る。その情には判断があり、相手を認める姿勢もそこにある。
随筆を読む →六篇は中国語の読者向け随筆をもとに、日本語の読者に向けて独立に書き直したものです。技術的な論文の全訳ではありません。原英語版も独立に書かれ、簡体字・繁体字の中国語版はいずれも全文です。リンク先の学術論文は英語・中国語で、日本語版があるとは案内していません。息抜きの笑い話の選集は中国語の入口です。DDはその瞬間の働きを分けるための目印で、人に一生の等級を付けるものではありません。
原論文と読み方の注記
このシリーズは六本のSAE笑論を背景に持つ、読者向けの随筆です。日本語版は現在の中国語随筆から独立に書き直しています。引用された物語に笑いが記されていない場合、笑ったことや人物の内心を史実として補いません。研究の要約だけを確認した箇所、記憶や二次紹介による比較、候補の説明や未検証の予測は、その限界を保ちます。原英語版は独立に書かれ、簡体字・繁体字中国語には全文があります。各篇に対応する原論文とDOIを示しますが、本随筆は論文全訳でも、そのすべてを新たに検証したとの宣言でもありません。