SAE笑論 · 04
目を合わせる、その前に
もう何もないと決めた人が、まだ探している自分を見る。父の『無事に暮らせることが幸せなのだ』という言葉が、ある日ようやくわかる。絶望の笑いと、相手の立つ場所をようやく理解したときの笑いは、どちらも15DDの不疑に立ち、どちらも一方向の笑いだ。目を合わせた笑いが互いの承認を含んでも、それは双方それぞれの15DDの瞬間であって、完全な16DDを認定するものではない。
二度の笑い
二度の笑いから始めよう。一度目は、行き詰まったときだ。試せることは試し、最後の道も閉ざされた。腰を下ろして、もう何もない、と自分に言う。少したって、ふと気づく。まだ考えている。辺りを見回している。あることを別のやり方でできないか、心の中で試している。その自分に気づいて、笑った。
もう一度は、ずっと後になって訪れる。父は『無事に暮らせることが幸せなのだ』と言っていた。若い頃も、うなずいてはいた。自分にも失うのが怖いものができてから、ある日、ふいにわかった。少し笑った。こちらは笑論第四篇に置かれた仮の場面である。
一度目が後述の四条件を満たすなら、論文のいう絶望の笑いとなる。二度目は会心の笑い、相手の立つ場所をようやく理解したときの笑いだ。いずれも15DDに属する。SAE方法論総論§1.7は15DDを、不疑、すなわち『目的なのは私だけではない』と定める。他者もそれ自体が目的だと認めるが、一方向の承認である。『私はあなたを認める。あなたが逆に私を切り開いたのではない。』改訂説明も、他者がそれ自体で目的だと一人の主体が疑わないこと、その主体自身が施す一刀であって、主体のあいだに横向きに成立する規範ではない、と明記する。
SAE精神分析第四篇は、この層を心理構造として展開し、Certと呼ぶ。自分の目的を疑わないことと、他者が独立した目的であることを一方向に確認すること、この二つから成る。『不疑は固い信念ではない。固い信念は妄想であるかもしれない。』疑問がないのではなく、『疑問も余項も構の隙間もある。それでも疑わない』。『完成はできないが、確かであることはできる。』二つを切り離してはいけない。他者の独立性を否定しなければ維持できない『不疑』は、不疑ではなく、構を力ずくで閉じることだからだ。
同じ第四篇は、不疑を妄想的な確信、頑迷さ、他者を従わせる使命への熱狂から分ける最低限の四条件も挙げる。繰り返し余項に揺さぶられても撤回しないが、反応を遮断したり質問を拒んだりせず、余項を認めることで保つこと。他者の方向が自分の方向に奉仕しなくてもよいこと。方向には確かでありつつ、具体的な結果については不確かなのが普通だと受け入れること。代償を前に撤回しないが、自分を強いて続けるのではなく、代償があっても『踏ん張る』ための余分な力を要しないこと。これから見る二つの笑いも、この四つに照らす必要がある。
もう何もない
論文の定義はこうだ。『主体が、いまはもう何も選べないと認めたとき、思いがけず、自分がまだ探していることに気づく。』本当に出口があるかどうかとは、あまり関係がない。笑いの対象となる構は、いまの自分の状況を『もう何もない』と捉えた把握である。この把握は、ここには余項もない、と言っている。『出口の一覧を、状況のすべてと取り違えている』のだ。笑いが見つける余項は、それでも探す自分、なお考え、試し、見ている人である。
出口の集合、状況の把握、探す人。この三つを分けておきたい。『何も選べない』という出口についての判断は、その時点で正しいかもしれないし、間違っているかもしれず、有効かどうかは別に調べる。笑いが見つけるのは出口ではなく、その把握が取り込まなかった探す人だ。『まだ』が構にかかるのは、それが目の前にあり、使われてもいるという意味である。本人はいまも何もないと認め、その把握を見ながら、その把握で自分の状況を見ている。笑ったからといって構が覆るわけではない。探す人も消されない。誰も負けていない。
だから絶望の笑いは、公式の極限的な場合になる。『構には必ず余項がある、というのは、ほかでは一般的な命題である。ここでは、すでにすべてを収め尽くしたとする一つの把握の上で、まさにその場で見えてしまう。』
絶望の笑いは、出口を見つけたことでもない。笑ったあと、まだ道があると気づくことはよくある。けれど、それは笑ったあとのことで、先ほどの笑いが何であったかを後から変えない。自分で危機を脱するかもしれない。状況と折り合うかもしれない。何も起きないかもしれない。どれも笑いの後日談であって、笑いそのものの内容ではない。同じ状況でも、『もう何もない』に注意が向けば泣き、『それなのにまだ探している』に向けば笑う。交互に来ることも、一緒に来ることもある。絶望の笑いは、その涙を否定しない。
それなのに、まだ
『思いがけず』は飾り言葉ではない。総論の見える・見えないの表でいえば、一人の中で突然起こる笑いだ。少し前の私は『もう何もない』の中にいて、なお探す自分を見ていなかった。いま見え、落差が一瞬で閉じる。発見ではなく、『この先も探し続けよう』という決定なら、それは意志であって笑いではない。
ここでは、思いがけなさにもう一つ意味がある。歯を食いしばり、意志の力で探し続けているなら、本人はずっと探していると知っている。『それなのに、まだ探していた』とはならない。探すことが決定ではなく発見として現れるのは、意志で支えているのではないことを示唆する。『方向はそれ自体で進んでいて、誰も押していない。』それで論文は、この方向が踏ん張って保たれてはいないことの目印に、思いがけない発見を置く。不疑の第四条件がもともと問うていた、方向がどう保たれるかに対応するのだ。
ただし、これは目印にとどまる。意外だったという感覚だけでは認定できない。踏ん張っているかは独立した手掛かりで確かめ、あの笑いがあったかどうかから逆算してはいけない。論文は二つを問う。探すことは発見されたのか、それとも意志がずっと見張り、押していたのか。これは、それ以前の言動から答える。そして、その瞬間、探す自分へ注意を向け続けるのに余分な力が必要だったか。ただし後者は補助的な証拠だ。歯を食いしばってしていることを、力まずに眺めることもできるからである。注意は混じっていてもよく、一方で踏ん張りながら、一方で見ていることもある。後から振り返って、あの日々の探索はずっと歯を食いしばって保ったものだったとわかったなら、そのとき笑っていても、論文がいう絶望の笑いではない。その瞬間にどこに立っていたかで、別に記す。
徒労の自分、自分自身の方向
同じ行き詰まりの中で、13DDの人も自分を笑える。『見ろよ、道がないと知っていて、まだ探している。』構は道がないと知ること、余項はまだ探すことで、絶望の笑いと同じ構造だ。だがこちらは13DDの自嘲になる。違いは構ではなく、探す人を何として見ているかにある。自嘲が見るのは、こっけいで徒労に終わる自分だ。絶望の笑いが見るのは、自分自身の方向である。同じ構と余項でも、層は違う。いま働く層を決めるのは、笑いの対象となる構ではなく、その瞬間に向き合うものだからだ。
論文は四条件で絶望の笑いを定める。探す人を自分自身の方向として見る。その方向は歯を食いしばって維持されておらず、思いがけず気づいたことを目印とするが、目印は別に検証する。未来の自分に開かれ、今日の方向を実現するよう求めない。そして、その方向は他者の服従を必要としない。四つとも不疑の特徴なので、この定義では絶望の笑いは15DDになる。満たさなければ、論文のいう絶望の笑いは起こっていない。何層へ『下がるか』という話ではなく、同じ状況で別の笑いがあれば、その笑い自身の立ち方に従って記す。
論文はこの点を隠さない。『ほかを除く働きは、この定義が担うのであって、一回の笑いの内部から導かれるのではない。』他人を服従させなければ方向を保てない人を考えよう。その人も行き詰まりの中で、なお探す自分に不意に気づける。探すことを自分自身の方向と捉え、踏ん張らず、未来の自分にも開かれているかもしれない。その瞬間だけを見れば、絶望の笑いと区別がつかない。第四条件が除くのは、この場合だ。問題は、自分の方向として見た、その方向自体にある。この除外は定義によるしかなく、その瞬間の見た目からはできない。
確かめられるのは、別の立ち方でも探す人をこう見られるかどうかだ。13DDでは自分を振り返れるが、自分自身の方向は持たないので、探す人をその方向として見るとは言えない。多くは、閉じ込められた徒労の自分を見て、自嘲したり、観察するほど不安になる状態に陥ったりする。14DDでは自分を目的を通して捉える。もう道がないと認めれば目的は動きにくく、方向を保つには多くの場合、意志で支える必要があり、第二条件を満たさない。14DDの目的も固く保ちうるが、固さと、自分を強制せずに保つことは別だ。苦笑できるのは、まだ目的が働いているからである。15DDの不疑は余分な力なしに方向を保ち、未来の自分が向きを変えたり止まったりしてもよく、他者にも服従を求めない。どんな場合に主張を狭めるかも論文は明記する。二つの反証条件の前提は、いずれもこの笑いの外にある言動から判断し、笑いの有無から逆算しない。
笑われるのは、13DDの主体による状況の把握だが、判断する人は15DDに立つ。対象の構の層で数えれば13DDへ戻ってしまい、笑いの構造と合わない。総論が『一回の笑いは、笑うその人について数える』とする理由がここにある。絶望の笑いは主体性を取り消さない。13DDの主体はなおそこにいて、道はないと認めている。変わるのは見る立場だ。その把握に閉じ込められたままでいるところから、そこに閉じ込められていても探す人を見るところへ移る。
論文には例示だけを目的とする一例がある。金聖嘆は処刑される間際にも、ある二つの日常的な食べ物を一緒に噛むと独特の味になる、と人に話したという。伝承には異同が多く、何と何だったかも版によって違うので、論文は構造だけを採る。刑場で選択肢はない。それでも味わい、発見し、人へ伝える。つまり、なお探している。もしその瞬間に、まだ世界を味わう自分を笑って見いだし、四条件も満たしたなら、それが論文のいう絶望の笑いだ。代償は命、余項はなお探す自分になる。しかし伝承は、四条件に必要な立ち方までは教えない。読者に読めるのは構造であり、処刑前の気の利いたひと言だけで15DDを認定はできない。
未来の自分
15DDの定義には他者がいる。他者が目的だと、一方向に疑わないことだ。絶望の笑いが起こるとき、周りに誰もいないことは珍しくない。では誰が他者なのか。論文の答えは、未来の自分である。ただし、これは笑論による拡張した読みだと明記する。方法論総論§1.7の他者は『私はあなたを認める』という他人の例であり、笑論は未来の自分まで広げている。会心の笑いの他者は他人で、直接その定義に入る。絶望の笑いの他者は、この拡張を通して入るのだ。
いま見えるのは、私がなお探すことだ。『このとき見ることは、いまの私が未来の自分へ開かれることである。』未来の自分は今日の探索を続けるかもしれないし、方向を変えるかもしれないし、止まるかもしれない。今日の方向を実現して、自分を証明する必要はない。私は先に決めず、いまの自分に合わせるようにも求めない。
時制を守ろう。いま見えているのは『私はまだ探している』という現在のことだけだ。『未来の自分を確認することは、そこへ開かれることであって、それを規定することではない。』見込みと要求も分けたい。未来の私はきっと見つける、と信じるのは結果の予想で、見込みが強すぎれば別に検討する。さらに、その結果を必ず実現するよう未来の自分に求めたとき、別の一人を規定することになる。論文はこれを試す例を設ける。まだ探す自分に気づき、そこへ注意を強いて向けたわけでもないが、未来の自分に今日の方向を完成するよう求める人だ。未来の自分へ要求した以上、論文のいう絶望の笑いにはならない。それでも笑いがあるなら、実現できない運命の自分を見た自嘲かもしれず、苦笑に近いかもしれない。その立ち方を別に調べる。
四条件を一つずつ当てよう。『もう何もない』という認定自体が、余項による揺さぶりだ。主体は何もないと認め、出口があるふりはしないが、方向は撤回しない。他人に服従を求めず、未来の自分が方向を変えたり止まったりしても、今日を実現する義務は課さない。方向には確かでも結果は不確かだ。もう何もないと思いながら、見て、考え、試すことは止めず、『必ず見つける』とも言わない。そして探すこと自体を、歯を食いしばって保ってはいない。精神分析第四篇は、笑いも未来の自分も論じていない、と論文は断る。ここでしているのは、その四条件を借りて笑論の主張を調べることであり、第四篇の議論を勝手に付け足すことではない。
基礎にせず、見下ろさない
絶望の笑いとデカルトの『我思う』には、似た発見の形がある。すべてを疑うデカルトは、疑っている自分を発見した。何も選べないと認めた人は、探している自分を発見する。どちらも閉じきったように見える状況の中で、なお働くものを見つける。違いを正確に言おう。デカルトは、考えるとき私は存在すると確かめて止まったのではなく、自分は何かと問い続け、この確実な点から知を組み直した。分かれ目は、確かめた後も問うかどうかではなく、何に用いるかだ。彼は確実な点を再建の土台にして、思考するものを導いた。絶望の笑いは、笑いを土台にせず、実体も導かず、何も再建しない。ただ、探すことが続いていると見る。『探すこと自体も一つの構であり、それにも余項がある。』未来の自分は方向を変えても、止まってもよい。
フロイトの絞首台のユーモアについて、第三篇では候補となる読みを残した。ここでは絶望の笑いとの違いだけを見る。フロイトでは、超自我が大人から子どもへするように、おびえる自我を慰める。世界を子どもの遊びと捉え、危険を小さくし、現実の要求を退ける。原論文はこれをはっきりと、実際の慰めとして述べており、笑論は和らげて言い換えない。絶望の笑いは状況を小さくしない。本人はいまも何もないと認め、その把握は目の前にある。形も違う。超自我は上からいまの自我を慰めるが、絶望の笑いには見下ろす側がいない。いまの私が未来の自分へ開かれるのであって、その自分は上ではなく、前にいる。
ショーペンハウアーはhumourを反語と対にする。反語は真面目さの裏に隠れた冗談で、humourは冗談の裏に隠れた真面目さだ。主観的で真摯かつ高尚な心境から生まれ、その心境は、自分の意志によらず、平凡な外の世界とぶつかる。世界から逃れられず、かといって屈したくもない。絶望の笑いに近いが、論文はこう分ける。彼が描くのは心境と世界の持続する衝突で、絶望の笑いが描くのは突然の一瞬、自ら余項がないとする構の上に探す人が見えることだ。同じ人に交互に現れるかもしれないし、一回の笑いを二つの仕方で描いているのかもしれない。言葉が違うだけで両立しないとは決めない。
論文が記憶と二次的な紹介に依拠するかぎりで、プレスナーの『笑いと泣き』は、行為や言葉ではもう応答できない境界状況で、身体が応答を引き受ける反応として笑いと泣きを見る。笑論とも、同じ種類の境界状況に両者が起こるという観察を共有する。論文は、違いを結論ではなく要確認の問いにする。身体が引き受けるのは、どんな応答能力なのか。それは判断を排除するのか。笑論の側は、行為と言葉による応答が働かず身体の制御を失うことと、内側でなお判断することは、論理的に両立しうると主張する。原書を読む前に、この対照で勝敗をつけはしない。
ベケットの小説『ワット』では、アーセンが笑いについて独白し、三つを分ける。苦い笑いは、悪いものを笑う倫理的な笑い。空虚な笑いは、真でないものを笑う知的な笑い。喜びのない笑いは、不幸を笑うもので、彼はこれを精神の笑いと呼び、笑いそのものを笑う笑いとして最も高く置く。論文は記憶と二次的な紹介に依拠しており、原書の確認はまだである。『喜びのない』はベケットの意味のまま残し、自分の笑いの種類の名に借りない。彼の笑いは不幸そのものを笑うが、絶望の笑いが笑うのは不幸ではなく、不幸の中でも探す自分だ。一段ずつ退いて見る反省的な働きは、笑論では13DDですでに可能である。絶望の笑いは後ろへ退かず、前を見る。
ああ、あの人はこのことを言っていたのか
父の言葉へ戻ろう。論文は会心の笑いを、こう定める。『他人がずっと言ってきたことを理解し、その人がすでに言葉にし、私は聞いてもわからなかった、あの場所へようやく自分も来ること。』来たうえで、その場所をなお相手自身のものとして残す。先でも後でも、ここまで来た主体ならこう思う、そのことを疑わない姿が一回の笑いに現れる。
公式に分けてみる。構は、その言葉についての古い把握だ。前から知り、繰り返して言えたが、わからなかった。余項は、古い把握に収まっていなかったもの。『それは言葉の内容だけではなく、その人がそう言ったとき立っていた場所である。』落差は一人の中では突然で、聞いてもわからなかったのに、いま来た。他人とのあいだでは持続していて、相手は前からそこにいた。『まだ』は、古い把握をいまも振り返れるという、目の前にある意味を採る。元の言葉は成り立つか、古い把握は正しかったかは別々に調べ、前者で後者を証明しない。
見える・見えないの表でいえば、会心の笑いは区画を越えることがある。相手は前から『見えている』行にいて、私はいま初めて、見えていない側から見える側へ移る。だが移るだけでは足りない。『友人の冗談が五秒遅れてわかるのも、同じ移り方である。』会心とは、ここでは相手の立つ場所を理解することだ。笑論のいう会心の笑いには、さらに不疑が要る。
精神分析第四篇は、他者への三つの姿勢を分ける。『あなたがわかる』は13DDの共感、『あなたのために何かをする』は、自分の目的を相手へ向ける14DDの働き、『あなたが独立した目的だと確認する』のが15DDだ。相手の言葉がわかり、その人自身がそこへ来たとも知る。それだけなら、合わせても理解の域にとどまりうる。知ることは認知的な把握であって、まだ相手への姿勢ではない。会心の笑いが加えるのは、見えた場所には到達した人々がそれぞれ自分で来たのであり、その人自身の生に属し、私のために敷かれた道ではない、ということだ。『私はそこをなお彼らのものとして残す。私の成果に組み込まず、利用せず、私も来たと誰かが振り返って認めてくれることも求めない。』他者も目的だと疑わないことが、この笑いに現れるのはこの部分である。
父の仮の場面もここに来る。あの言葉には、もう一つ余項があった。下にある恐れだ。『その恐れは父の一生にあるもので、正しいか間違いかを言う格言ではない。』失いたくないものができ、この地点へ来て言葉がわかった人なら、そう思う。父は前からそこにいた。私はその恐れで自分がやっとわかったことを証明せず、父の一生を代わりに語り終えもしない。それはなお父のものだ。余項は具体的で、『真理には未完のところがある』という一般論ではない。言葉にでき、人へ指し示すこともできる。
『ここまで来た人なら』という不疑は、ここまで来た人だけにかかる。まだ来ていない人は含まない。聞いてもわからなかった昔の私もその一人だから、誰にも要求しない。カントとは分けたい。彼は同意を誰にでも帰し(§8)、誰もが同意すべきだと言う(§19)。会心の笑いは、この地点に来た主体を疑わないだけだ。不疑であって予測ではなく、必ず同じ言葉を言うという意味でもない。疑問も余項もあり、問いかけにはなお開かれている。
理解だけがあり、この不疑のない『そこへ来た笑い』も起こりうる。ただ、それを会心の笑いとは呼ばない。論文は支配する人を考える。相手が一貫して拒む意味がようやくわかり、自分のために拒んでいるのでもないと知った。相手自身がそこへ来ており、誰でもそこまで来ればそう見える、とまでわかるかもしれない。けれど、その理解を使える情報として相手の支配に回し、その場所を相手のものとして残さない。『足りないのは理解した命題の数ではなく、取り込まずにおく姿勢である。』その人が笑ったなら、そこへ来た笑いになる。
花を掲げる
会心の笑いが判断するのは、自分の収穫ではない。そこが14DDの得意な笑いとの境目だ。判断は、あの人はこれを言っていたのか、その人自身があの場所へ来たのだ、ここまで来た人ならこう見るのだ、となる。伴う感情は、感謝でも、申し訳なさでも、喜びでもよい。話した人がもういなければ、寂しさかもしれない。来ることも来ないこともある感情で、証拠ではない。得たことを喜びとしないのも、ベケットのために残した『喜びのない』とは違う。
『無門関』第六則にはこうある。世尊が霊山の会で花を掲げて人々に示すと、皆は黙り、迦葉尊者だけが顔をほころばせて微笑んだ。世尊は、正法眼蔵を摩訶迦葉に付嘱すると述べる。論文の読みでは会心の笑いの正例となる。花を掲げるのが世尊の『語ること』だ。ただしこの読みは、この一則だけにはない設定を置く。以前の説法を迦葉はすでに聞いていた、という設定である。構はそれらの言葉についての古い把握、余項は世尊が語ったときの場所で、花を掲げたとき、迦葉もそこへ来た。皆が黙ったことは原文にもあるが、それを見えなかったことへ書き換えはしない。
迦葉の微笑みは、世尊のいるところへ自分も来たことだ。論文ではさらに、世尊の場所をなお世尊のものとし、ここまで来た人ならこう見ると疑わない笑いとして読む。この笑いは一方向である。記されるのは迦葉の微笑みだけで、世尊が笑ったとも、二人が目を合わせて笑ったとも明記されない。そのあとの付法を迦葉の確認と読んでも、用いたのは言葉であり、法を託すことだ。二人の笑い合いではない。仮にこの一件で互いを目的と認めたと読んでも、双方それぞれの15DDの瞬間であり、完全な16DDとは言えない。この記録は、あらゆることにわたる二人の関係を証言しない。
禅には、青原惟信のよく引かれる言葉もある。『三十年前、参禅する前には、山は山、水は水と見た。のちに知識に会い、入るところを得ると、山は山でなく、水は水でないと見た。いま休むところを得ると、以前のとおり、山はただ山、水はただ水と見る。』ここでいう『知識』は師のことだ。原文には笑いも、その師が何を言ったかもない。以下は論文の読みで、証明の重みは負わせない。もし笑いがあるなら第三段階だ。以前のとおり、とは三十年を経て、かつて聞いた言葉が指すところに来たことになる。山ではなかったのか、という第二段階の反転でなく、山がなお山であり、しかもそれに尽きないと知る。休めるところは、一つの獲得ではなく、立ち止まれる場所なのだ。
原文には続きがある。『大衆よ、この三つの見方は、同じか、別か。』惟信は三つを皆の問いに渡す。総論がいう、問われることへの開かれ方に重なるが、論文が借りるだけで、やはり証明の重みは負わせない。
会心の笑いは、音にならないことが多い。総論の内外の表で、内側では笑い、外には出ない区画には、こらえた笑いのほか、会心しても表に出さない笑いがある。押しとどめたのではなく、もともと表現を必要としない笑いだ。到達した人々の場所をその人々のものとして残し、ここまで来た人を疑わないが、誰にも来るよう求めない。あの言葉を言った人が振り返って私を確認することも求めない。
目を合わせて笑う
二人が同じところで笑っても、三つの違うことがありうる。同じことを笑う場合は、二人がそれぞれ判断して笑い、各自の立つ層で数える。言わずともわかり合う場合は、それに共通知識が加わる。あなたが知っていると私は知り、私が知っているとあなたも知るが、それでも各自の層で数える。さらに互いの承認と読める笑い合いもある。相手がわかったと知るだけでなく、目的である相手を自分の前にそのまま残す。ただし、一緒に笑っただけでこの姿勢は証明されない。実際にその瞬間互いにそうしていても、二つの15DDの瞬間であって、完全な16DDではない。
承認を伴う笑い合いと、言わずともわかることとの差は、不疑にある。『互いに知ることから、互いを疑わないことは導けない。』いじめる子ども二人が、いじめられる一人を前に目配せし、笑い出す。互いにわかっており、相手が笑うと確信しているかもしれない。その確信が、笑われる子を材料にしなければ保てないなら、他者の独立性を否定しないと保てない『不疑』は不疑ではない。構を力ずくで閉じることである。その目配せは三つのうち真ん中、言わずともわかることに当たり、おそらく各自14DDの嘲笑だ。
『不疑は予測でもない。』毎回あの人は笑うという行動の把握から、他者も目的だとは導けない。相手の内側の一瞬を、私が代わりに経験することもできない。表情や自分の推測では、本人に代わって引き受けたことにはならない。本人の報告を聞き、自分の理解を直してもらうことはできる。外で笑わなかったからといって、内側でも笑わなかったとは限らない。内側でも笑わなかったと言う人へ、自分の読みを守るために、本当は笑ったはずだ、あるいは見えなかったのだ、と押しつけてはいけない。残すべきなのは、本人の経験を本人が説明することだ。代わりに経験を書かないのは、主体として認める一つのやり方だが、それだけで目的として扱ったとは証明されない。『相手が笑うことを疑わない』というだけで、完全な目的の関係へ飛ぶこともできない。これらのつながりを説明する仕事は、笑論になお残る。
会心の笑いは、相手が振り返ることを求めない。目を合わせた笑いが相互承認も含むなら、双方の主体が、それぞれその瞬間に不疑の立場を取る。違いは、その瞬間に出会ったかどうかであり、15DDから16DDへの昇進ではない。『荘子』大宗師篇には、こう読める一場面がある。子祀、子輿、子犁、子来の四人が、無を頭、生を背骨、死を尻とし、生死存亡を一体と知る者がいるなら友としよう、と語る。『四人は顔を見合わせて笑い、心に逆らうところがなく、互いに友となった。』論文に沿えば、まずそれぞれがあの問いをわかり、目を合わせることで笑いが視線の中で出会う。心に逆らうところがないこと、友となることは、この出会いが友情へなる道を考えさせる。けれど、その後のあらゆることでも、互いを目的と完全に疑わなかったとは証明できない。当サイトで固定した定義では、各自の15DDの瞬間が接したと試みに読むところまでであり、完全な16DDの認定ではない。
精神病院の屋根の上で
論文は、もう一つの笑い声をいくつかの層で試しに読んでいる。『バットマン:キリングジョーク』の終わりで、バットマンは再びジョーカーを捕らえる。殺したくなく、なお助けたい、変わってほしいと伝えるが、ジョーカーはもう遅いと断り、冗談を話す。精神病院から逃げたい二人が屋根へ上がると、細い隙間の向こうに別の屋根がある。一人目は跳び越えたが、二人目は怖くて跳べない。一人目は懐中電灯の光を渡すから、それを歩いて来いと言う。二人目は、自分を馬鹿だと思うのか、途中で電灯を消されたらどうする、と返す。バットマンとジョーカーは一緒に大笑いする。以上は要約で、原作の台詞の引用ではない。結末の読みには以前から異論があり、論文はあの笑いだけを採る。
この読みには二つの前提がある。どちらも物語の事実ではなく、解釈の前提だ。その瞬間、二人とも相手が目的だと疑わないこと。そして冗談が語るのは、実は二人とも渡れず、それぞれの状況に閉じ込められていることだ。冗談では一人が跳び越えるが、語る人も、跳ぶ人も、跳べない人も、みな狂人である。バットマンは先に渡った側だ。ジョーカーより一歩進んでも、なお同じ精神病院にいて、差し出すのはいつでも消せる光なのだ。
この二つの前提のもとで、笑い声を三つの層に分けて試せる。ただし、三つとも二人両方に当てはまるわけではない。自嘲は両者にある。二人の狂人が自分たちであり、一人は一歩余計に進み、一人は行こうとせず、それぞれ自分の徒労を笑う。絶望の笑いはバットマンにだけ、それも試みとして読まれる。ジョーカーは変わらないと認めつつ、なお変化を願うのは、何もない中で探すことだ。不意に笑い出したのを、なお探す自分に思いがけず気づいたと読む。未来の自分に結論を決めていないという条件は物語からは得られず、論文の読みになる。ジョーカーへ渡すのも命令でなく希望である。一方ジョーカーは、変わりたくないと未来の自分を閉ざし、さらに方向を保つのに他人を材料にする必要があるため、第四条件も満たさない。
第三の層は二人のあいだにあるが、やはり付け加えた読みが前提だ。その瞬間に互いを目的と認めたなら、双方それぞれの15DDの瞬間となる。冗談が話すのは疑いであり、相手が電灯を消さないかという心配だ。共に笑う声から別の出会いを試みに見ることはできても、その承認の証明にはならない。ジョーカーの方向は他人を材料にしないと保てず、それは絶望の笑いを除く。しかしバットマンという具体的な他者への一時の姿勢を、あの前提で読むことは、別に判断すべきことである。それでジョーカーの方向全体を免責はできない。この例は図示であり、証明ではない。一続きの笑いにいくつかの部分があり、それぞれの層で数えられる。自嘲と絶望の笑いも共存しうる。第四条件が除くのは、他人の否定によってしか維持できない方向だ。目を合わせた笑いには異なる笑いが入り、相互承認を伴うこともあるが、16DDの認定が増えるわけではない。
笑論は12DDの傾向から始まり、13DDの主人、14DDの目的を経て、15DDの不疑へ来る。13DD以後、笑いが判断するのは、構にはなおこんな余項がある、ということで、誰も負けていない。12DDには、その傾向の材料だけがある。目を合わせて笑うことで、さらに問われる。別々に判断する二人の主体が、相手を自分の判断へ取り込まず、一件のことで互いをどう認めるのか。それはなお、二つの15DDの瞬間に起こりうる。あらゆることに双方向の不疑が貫く完全な16DDは、一度の出会いから実現を宣言しない。笑論自身の、大きな余項として残しておく。
初めの二度の笑いへ戻ろう。何もないと認めた人は、なお探す自分を見る。認定は覆されず、探す人も消されない。父の言葉がようやくわかった人は、父が以前からいた場所に来て、そこをなお父のものとして残す。どちらも一人の笑いで、相手が振り返ることは求めていない。具体的な出会いで互いにつながることはあっても、到達を宣言できる等級が、そこに一つ増えるわけではない。
原論文と読み方の注記
現在の中国語随筆を底本として、日本語の読者へ独立に書き直しました。この欄の原論文はQin, Han(2026)『絶望の笑いと会心の笑い』です。原英語版も独立に書かれ、簡体字・繁体字中国語は全文です。技術的な全訳ではありません。四条件は笑いの見た目から認定せず、未来の自分という他者は笑論による拡張として示します。金聖嘆の伝承、ベケットとプレスナーに関する記憶・二次資料の範囲、禅の原文にない仮定、作品解釈の追加前提を区別しています。単発の相互承認は各自15DDの瞬間で、完全な16DDではありません。リンク先の学術原論文自体を改訂したと述べるものではありません。
この版について
学術原論文:Qin, Han(2026)『絶望の笑いと会心の笑い』(SAE笑論・四)。self-as-an-end.net · DOI:10.5281/zenodo.23287669。
用語について。本シリーズは当サイトで固定した13–16DDの定義に従います。ある具体的な出会いで互いを疑わず目的として認めても、それは二人それぞれの15DDの瞬間として扱います。16DDは、あらゆる事柄にわたって完全に双方向の不疑が成り立つことだけを指し、有限な個人にとっての理想的な極限です。リンク先の論文が一時的な相互承認を16DDとして記している箇所は、この随筆版ではこの区別に合わせています。一緒に笑ったり泣いたりしたというだけで、互いを認めていると判定することもありません。