SAE笑論 · 独立した特論
間に合わなかったこと
通夜の夜、長男は父が最後の半年、弟の結婚をよく気にしていたことを思い出す。間に合わなかった。その間に合わなさは父のもので、痛みは長男自身の痛みだ。笑いでは判断が直接に感じられる。15DDの不疑の泣きは、まず情を経る。その情には判断があり、相手を認める姿勢もそこにある。
通夜の夜に
父は二年間病んだのち、秋のある明け方に亡くなった。通夜の夜、長男は何度か泣いた。後になって、それぞれのとき何を考えていたか、おおよそは話せる。一度は、これからの自分はどうすればよいのかと思った。もう一度は、弔問の人々が一人ずつ頭を下げるのを見て、人はいつか死ぬのだと思った。そして、弟が入ってきたときにも泣いた。父は最後の半年、弟が家庭を持つことをよく気にかけていた。間に合わなかった。
これは笑論の専論『判断力と泣き』に置かれた仮の場面で、実在の誰かの話ではない。論文は、長男が何を泣いたのかと問う。自分が失ったことか。父の痛みが彼に伝わったのか。それとも別の何かか。その夜の泣きがすべて同じ種類である必要はない。論文の答えも、そのうち一つだけに当てはまる。
笑論はここまで笑いを見てきた。総論には、その隣にある二つを述べた一節がある。『泣きと恐れはどちらも構に焦点を合わせる。泣きは構を失うこと、もうなくなったということ。恐れは構が脅かされ、もうなくなるかもしれないこと。笑いは余項に焦点を合わせる。』専論はこの言葉を受け、泣くほうへ向き直る。中心となるのは15DDだ。
対象は、こういう泣きである。相手がある構の中で何かを失った。私は、『この喪失は相手のものだ』と判断し、相手を目的として認め、自分のものへ取り込まない。それを痛むが、痛みは私自身の痛みだ。その後、情を経て、そうならざるをえない泣きが来る。これを不疑の泣きと呼ぶ。痛くて泣くこと、離れるのが怖くて泣くこと、自分の喪失を泣くことも本当の泣きであり、重要でないのではなく、ここで論じる範囲にないだけだ。長男を『私』、父を『相手』とすれば、問うのは三度目となる。
失い始めている
笑論の二つの言葉を戻そう。構とは、いま働いている捉え方すべてをいう。期待、定義、礼儀の仕組み、自分の状況の理解などだ。泣きでよく現れるのは、計画、共に暮らす生活、信念である。余項とは、その構が収め尽くさず、それでも目の前にある一点だ。笑いは余項に焦点を合わせ、泣きと恐れは構に焦点を合わせる。後二者を分けるのは時制である。
恐れは予測に向く。構がなくなるかもしれず、失うことはまだ先にある。泣きは構造に向き、構の中ですでに何かを失い、喪失が始まっている。境は、失い始めたかどうかだ。ただ、それを使うにはどの構かを先に示さなければならない。診断の日に泣いたなら、失ったのは見通せる未来かもしれない。しかし、それで未来への泣きをすべて『見通せる未来を失った』と言い換えられるなら、反証できなくなる。そこで論文は独立の目印を補う。その後の言動が、『退職したら二人で、と約束していたのに』と、すでになくなったものへ向くか、『あとどれくらいか』『痛い思いをするのか』と、来るかもしれないことへ向くかを見る。言葉は間違いうる手掛かりであり、泣いたかどうかから逆算しない。注意がいくつも混じって分けられなければ、証明にも反証にも数えない。
分類の基準は、この瞬間にすでに始まったと判断された、その喪失である。事実に合うかは別に確かめる。そうしないと、事実としてすでに失ったことを条件にした時点で、誤判断による泣きが除かれてしまう。家族が重病なら、亡くなるのを恐れることも、すでに失った健康、計画、以前の日々を泣くこともできる。二つは別に記し、時制は一件ずつ調べる。
孟子は、幼い子が井戸へ落ちそうなのを突然見た人には、みな怵惕惻隠の心がある、と述べる。子どもはまだ落ちていない。朱熹の注で怵惕は驚き動く様子だから、恐れの側だ。一方、惻は切実な傷み、隠は深い痛みとされる。こちらは驚きでなく、喪失に先立つ痛みであり、この境を圧迫する。論文は無理にどちらかへ入れず、末尾に余項として残し、後の議論に渡す。
何を失うのか。論文は例として三つ挙げる。共に過ごす生活が続けられないこと、行動の道が実行できなくなること、信念の根拠が撤回されることだ。構が目の前にあるとは、いま思い出し、振り返れることをいう。構自体が存続するという意味ではない。人が死んでも関わる構は振り返れ、哀悼はそこへ向く。また、相手の構が壊れたとは言わず、その構の中で相手が何かを失ったと言う。抑圧する仕組みが順調に動きながら、人のほうが損なわれることもあるからだ。
合格発表を見るとき
第三篇にもあった瞬間だ。まだ緊張したまま発表を見て、合格の二文字に出会う。そこでは二つの焦点を分けたが、専論は二つを加える。苦笑は第三篇第四節から、うれし泣きは専論による第三篇4.1の拡張から来る。四つとも、発表を見る本人の14DDの話だ。『もうかなった』に注意が向けば、それが余項となって、得意な笑いになる。『さっきは危うくかなわないところだった』なら、後からの恐れであり笑いではない。長年の代償を、この目的に収まらなかったものとして見れば、『すっかり白髪になった』と苦笑する。同じ代償を、この構の中で自分が失ったものとして見れば、うれし泣きとなる。
後二者は同じ代償への二つの見方だ。余項なら苦笑、構の中の喪失なら泣きとなる。分けるのは代償でなく、注意が余項と構のどちらへ向くかである。言葉にも違いが出ることが多い。『あの何年も戻らない』と取り返せなさを語るか、『こんなに大変になるとは』と思わぬ余分を語るか。ただし、これも間違いうる手掛かりで、排他的な暗号ではない。子どもの幼い時期をまるごと逃してしまったとは思わなかった、という一言には両方ある。この一回で何を判断したかを問わねばならず、分けられなければ数えない。うれし泣きに、危うく失うところだったという前提を補う必要もない。それを補うと後からの恐れになる。泣きが向くのは、実際に払って、戻ってこないものだ。
他人のためのうれし泣きに移ると、変わるのは代償の持ち主である。私でなく、相手の代償だ。立つところは別に調べる。相手の喪失に注意を向け、相手を認め、取り込まないとき、初めて15DDに至る。ここには狭い門がある。簡単には得られなかったことと、何かを失ったことは違う。時間も労力もかかったこと、そのために相手が実行できた別の何かを失ったり手放したりしたこと、いま泣く人がまさにそれを見たことは、別々のことだ。長い勉強の日々を、望んで生きた日々であり何も失っていないと振り返る人もいる。正例は、その人が道中で失った何かを、この回に実際に判断している場合に限る。戻らない数年、居合わせなかった子どもの幼い頃、手放した別の道。『あれほど苦労して、子どもの小さい頃にも間に合わなかった』といった言葉が、その手掛かりになる。
公式も広げない。『この喪失は相手のものだ』のままである。容易には得られなかったことは相手のものだ、まで入れると、喜びが判断の内容に入り、泣きは構の中の喪失に焦点を合わせる、という主張の歯止めがなくなる。論文はこの主張を検証できるものにする。注意は構に向くが、いま始まったと判断された喪失が何も見つからず、それでも本人が内側の泣きを報告する例があれば、主張を狭めなければならない。見知らぬ人の善意に打たれ、代償を見つけられない涙や、プレスナーが挙げる崇高、美、子どもの無垢への涙は、主張に圧力をかける例として記す。泣いたからと前提を補わない。美への涙で注意が余項に向くなら、さらに広い『泣きは構へ向く』を問い直す。人はこんなふうにもなれるのかと気づいても、自動的に笑いとは数えない。
中心はまだ私にある
専論が扱うのは15DDの不疑の泣きだけである。他の層の構造も記すが、表現は一貫して、ここでは扱わない、とする。重要でないとも、判断がないとも言わない。感知の泣きは下限にあり、痛み、空腹、生理的な涙は、くすぐる手が触れたあとの笑いと同じ側にある。予測の泣きは傾向で、分離不安などがある。他の赤ん坊の声を聞いた新生児も泣くが、この例は低い層の境界の材料だけに用い、すでに別の人の喪失を表象したとは言わない。自己の泣き、自己を目的とする泣きでは、失ったのは私だ。自己憐憫、不合格、失業、成功までの道で自分が失った何かを見たうれし泣きがある。苦労しただけで喪失を見いだせなければ、圧力をかける例となる。判断力との関係がそれほど強くないのであって、ないわけではない。自分の喪失という、別の由来があるのだ。
特に分けたいのは、失ったのは相手でも、中心が私に戻る場合だ。精神分析第四篇は、他者への姿勢を三つに分けた。あなたがわかるという13DDの共感、あなたのためにするという、自分の目的を相手へ向ける14DDの働き、あなたが独立した目的だと確認する15DDである。上からの憐れみも、ここで分ける側に入る。いずれも相手の喪失を見ており、正確に理解することさえできる。ただし中心はなお私にあり、不疑の泣きと認定するには足りない。自己の泣きか、自己目的の泣きか、ほかの何かかは、それぞれの働きに従って別に記す。一つを除外しても、別の層を積極的に認定したことにはならない。
代名詞でも中心は決まらない。私はあなたを目的と認める、の文法上の主語は私だ。あなたのせいで私は悲しい、の主語はあなたでも、その独立性を残すとは限らない。判断の内容と、保つ姿勢で決まる。理解と不疑は共存でき、理解が必ず取り込みになるわけでもないが、理解だけでは不疑の証拠にならない。カントが、憐れみからする善行は人を侮辱する善行だと言うのは、相手が私の善心の対象になる、上からの憐れみを指す。こうして自分の目的を他者のためへ向けること自体に、悪い意味はない。論文が検討するのは、その喪失を自分の計画の完成や第三者への要求の材料へ取り込む場合だけである。相手自身の法を私の目的で置き換えるときにだけ、植民と呼ぶ。憐れみはすべて植民だとは書いていない。
泣きを使ってすることは別に記す。見せるために泣く、涙で迫る、善心を示す、許しを求める、といった行為は、第三篇が判断としての笑いと笑いを使う行為を分けたのと同じである。同じ泣きが本当に起こり、なお他人への要求にも使われうる。二つを分け、後者から前者がなかったと逆算しない。他人の喪失を自己像の材料にするのもこちらだ。DDは一回の働きがいま立つ層をいうのであって、人の永久の等級ではない。同じ人も、同じ夜に、いくつもの層で泣ける。
この喪失は、その人のものだ
不疑の泣きは狭い種類である。六条件はいずれも、すでに起きた内側の泣きについて述べる。同じように他者を尊重しても泣かなかった人は、この定義の中にいないだけで、承認がなかったとは言わない。第一に注意の向きだ。この注意と、この泣きが経た情は、相手がある構の中で被る喪失へ向き、それが私へ与える損失へは向かない。自分も同時に失うことはあり、その分は別に記す。第二に判断の内容は、『この喪失は相手のものだ』となる。この判断は間違いうる。
第三に、相手を目的と認める。これは命題でなく姿勢だ。道徳律第一篇は、承認は認知ではなく実践的な姿勢であり、具体的な他者を目的として認めざるをえず、手段へ還元できない、と述べる。認めることと賛成することは違う。道を選び間違えた友人のためにも泣ける。選択には賛成しなくても、それは友人の人生と喪失だと認めるのだ。ただし、間違った選択への同情を15DDだけができるとは限らない。反対しながら泣くこと自体で層は決まらない。
第四に、取り込まない。自分の感覚で相手が実際に何を感じたかを規定せず、その喪失に私の善心や目的へ奉仕するよう求めない。相手の場所を先取りせず、得られる資料にいまの理解を直してもらう。死者や架空の人物にも当てはまり、本人がいつでも口頭で答えられるとは前提しない。第五に、手掛かりは感染と違う。泣き声や表情は喪失を知る手掛かりになり、間違いうるが、感染だけによる反応は、それだけでは不疑の泣きに数えない。第六に、訂正できる。具体的な事実の判断は間違いうる。13DDの反省的な否定は後から判断の効力を撤回できるが、泣きが起こったことは取り消せない。承認は姿勢なので、効力を撤回するという話ではない。
層を決めるのは第三と第四である。ほかを除く働きはこの二条件が担い、一回の泣きの内部から導かない。第四篇の絶望の笑いと同じ方法だ。他の四つは入口の条件になる。第一は自分のための泣き、第五は感染を除き、第二と第六を合わせて12DDの傾向を除くとともに、間違いうることと訂正の規律を立てる。六つは六つの層の証拠ではない。それぞれ成立したからと、第三者が一回の泣きを認証したとは言えない。論文が『あの判断』と言うときは、判断の内容と姿勢を含む。15DDの目印は後者であって、判断の内容そのものではない。
公式の『この喪失は相手のものだ』は判断の内容である。短く言う『痛みは私の痛みだ』は、情の側の言い方だ。どちらも単独では層を決めない。相手が失ったことは13DDの共感も言えるし、私の痛みであることは13DDの自己憐憫も言える。合わせると、取り込まないことの二方向になる。相手の喪失を私のものにせず、私の痛みを相手の痛みともしない。第二篇の、この判断は私のものだ、という言葉と同じく、ここでは喪失は相手に、痛みは私に属すと言う。何が誰のものかの話なのだ。
泣きは待つ
論文はこの泣きを三つに分ける。まず判断。内容は『この喪失は相手のものだ』ということ、保つ姿勢は相手を目的と認め、取り込まないことだ。姿勢は命題を判断することとは違い、承認は姿勢の層で働く。次は情。相手のその喪失を痛まずにはいられないことだ。ある構の中の喪失へ向く構造的なもので、相手の感じることを感じようとも、どれほど感じたかを測ろうともしない。痛みは私の痛みである。そして泣き。情の後、そうならざるをえない一瞬だ。泣きは情の一部ではなく、それ自体も感じられる。その点では笑いと同じだが、先に情を経るところが違う。外で泣くことはその表現であり、あってもなくてもよい。
情には判断の成分がある。向かう先は判断された喪失であり、その姿は保つ姿勢で決まる。相手のものとし、自分へ取り込まない喪失を痛むのだ。だから判断は情の中ですでに感じられ、承認もそこにある。ただし、判断を含むことと、情自体が判断であることは違う。三つは、口頭の推論を一つずつ経る連続した三段階でもない。判断を完成させてから情へ渡す必要はなく、情が止まってから泣くわけでもない。一つの経験にある三つのことと依存関係をいう。その判断がなければ、ここでいう情はなく、情がなければ、ここでいう泣きもない。
美、笑い、泣きを並べられる。美は、見て、認めざるをえないこと。認める根拠は感情ではなく、感情は伴っても伴わなくてもよい。笑いは判断が直接感じられ、判断と一つのことの両面であって、情を経なくてもよい。苦笑の苦さのような情が同席してもよく、先でも後でもよい。泣きも感じられる一瞬だが、先に情を経て、その情には判断の成分がある。どれもそうならざるをえず、判断力に関わるが、関係は同じでない。美と笑いの対象の違いはすでに笑論にある。泣きとの違いは専論が新しく立てた説明で、不疑の泣きが経る情だけを扱い、上流の二論文を変更しない。
著者には、おおよその観察がある。笑いは速く来て、泣きには過程が要る。ここでの構造とは合うが、要素の数から導けることではない。分けるのは待つことだ。笑いは情を待つ必要がなく、苦さが先に来ていても同じである。泣きは、情がそうならざるをえない一瞬へ来るのを待つ。通夜の夜、痛みはずっとあったが、弟が入ったとき初めてその瞬間が来た。この待ちが過程なのであり、長さは決まらない。三つが順に時間を一部分ずつ占める意味ではない。
プレスナーも『笑いと泣き』で、この対照から出発する。専論が英訳を読むかぎり、笑いは契機に直接続くが、泣きでは契機と発作のあいだに、自分自身へ向く反省的な行為が挟まるという。泣きの自動的な過程は多少とも徐々に始まる。開放、直接性、噴出は笑いに、閉鎖、媒介、漸進は泣きに属する。また、感情は泣きの前提だが十分ではなく、痛みと喜び、愛と絶望が真実さと力のすべてで人を占めても、涙を出させないことがあると述べる。専論も、二つの『そうならざるをえない』を因果法則の予測とせず、相手の喪失を見れば必ず泣くとは保証しない。この点は同じ方向だ。
こらえる
感受は9DD、10DDにあり、情と泣きはそれを通して感じられ、感じるのは上の層だ。方法論九の定理二は、下の層が上を構成し、上は下にアクセスし、下は上を感知せず、上は下を決定しない、と述べる。制御もこの向きになる。上が下を否決するのは、私は受け取らない、であって、あなたは送ってはならない、ではない。9DD、10DDより上の13DDは、『そうならざるをえない』を伴わない感受を、自分へ受け入れず、外へ出さずにおける。感受自体は起こる。14DD、15DDのそうならざるをえなさは13DDより上で、13DDには制御できない。できれば、そうならざるをえないとは呼ばない。遅らせても取り消せず、その一瞬はなお感じられる。13DDが抑えられるのは外へ出る部分だけだ。
これが、こらえて表に出さない区画である。内側の一瞬はなおあり、出ないのは表現だ。総論も、こらえられるのは表情だけだと述べた。ただし、遅らせても取り消せないのは著者の見解で、定理二から出たことではない。泣きより一般的な主張でもある。人に目的があり、せずにはいられないことなら、13DDは遅らせても、最後にはせずにはいられない。専論はこれを泣きだけに用いる。
内外の四区画は、不疑の泣きだけについて作る。内側にあり、外でも泣けば、声や涙となり、判断も表現もある。内側にあって外で泣かなければ、こらえる、表に出さないことだ。内側になく外で泣けば、表現だけを記す。別の本当の泣きかもしれず、笑い涙や善意への感動など、別の判断の涙かもしれず、内側の感がないこともある。内側にも外側にもなければ、他の内的な経験は別に記す。外で泣くかどうかだけでは、その感、姿勢、判断した事実が成り立つかは決まらない。礼儀の泣き、職業としての泣き、演技は、場面、役割、用途を言う。悲しさがありながら儀礼に従って表現することもある。感受、表現、用途、層を四つに分け、互いに代わって判定しない。タマネギの涙は下限だけの話で、この表には入れない。
第四篇はプレスナーについて、身体が笑いと泣きで引き受けるのはどんな応答能力か、それは判断を排除するか、と未確認の問いを残した。専論は原書の英訳を読んで答える。そこで失効する応答は、行為、言葉、身ぶり、表情動作だ。人は心身の統一体としては降参するが、人間としては降参しない。身体の制御を失うこと自体が、理解できないものをなお主宰するように理解する、その証でもある。泣くときには自分の内的な行為によって、自分も身体の名のない応答へ置く。だからプレスナーを、外側の身体だけの議論とは読めない。彼は泣きの理解を判断と名づけていないが、専論の判断も推論の結論ではなく、必ずしも衝突しない。表現による応答の失効だけでは、内側の理解を除外できない、とは言える。
違いは情の後にある。プレスナーは、情の後にも本人の内的な行為、力を抜いて自分を委ねることが必要だとする。それが泣きを引き起こし、泣きを構成する。半ば自ら、半ばやむなく委ね、そのとき緩んでいく勢いを感じ、抑えられるときも、抑えられないときもある。専論は、情がそうならざるをえない一瞬に達することが泣きだと言う。層に沿えば接続は可能だ。抑えて泣かなかった場合、その勢いはまだ『そうならざるをえない』ものではなく、13DDが受け取らなかったのかもしれない。これは内側のことで、表情だけではない。あるいは一瞬はすでにあり、外へ出るのだけを抑えたのかもしれない。抑えられないのは14DD、15DDのそうならざるをえなさで、専論が扱うのはそのうち15DDの一種だ。二者の経験の単位と概念の境は一対一に対応しない。あくまで一つの読みであり、同一とも、どちらが正確とも言わない。
弟が入ってきたとき
通夜へ戻ろう。最初の二度は、論文はいったん脇に置く。一度目の言葉は、これから来るかもしれないことへ向いており、恐れの側にある。同時に、父と暮らす日々がなくなったという、自分の喪失もある。混じった二つを分け、恐れは別に記し、自分の喪失は、私がその中で何かを失ったという行に置く。二度目は人の運命へ向く。父の生の有限さを語ることも、人の運命から自分へ戻ることもありうる。戻るのが将来の自分の死なら、先に時制を調べる。この二つの言葉だけでは、不疑の泣きと認定するには足りない。
三度目の判断は、間に合わなかったことは父のものだ、となる。次男の結婚を見たかったのは父で、その願いは父の人生を成す構の一つだった。間に合わなかったのも父だ。判断には内容があり、間違いうる。いま成立した喪失を述べるのであって、将来の予測ではない。父の死後の位置も決めない。父が失ったというのは三人称の記述で、父がいまもそれを引き受けているかは、人生の意味をめぐる議論に従い結論を出さない。同シリーズ第四篇も、死後その位置が退出するかは本篇では結論しない、と書く。不疑の泣きは、その判定を待たない。
保っている姿勢も見よう。その瞬間、長男は間に合わなさを自分のものに取り込まなかった。父は本当は気にしていなかった、と根拠なく先回りせず、きっと心残りだったはずだ、とも決めない。どちらも父が実際に感じたことを代わりに規定する言葉だからだ。弟へ振り返り、父の願いをかなえるべきだ、とも言わない。言えば父の喪失が第三者への要求の材料となり、中心は自分の目的へ戻る。また、この泣きで弔問客に孝行息子を見せようともしない。そういう行為があっても、泣きを使う別のことであり、この泣き自体には入らない。父の願いと一生を父のものと認め、その場所を先取りしないのである。
父はもう答えられない。場所を先取りしないとは、得られる資料で自分の理解を直すことになる。数か月後、入院前の日記を読み、父はこの件をずいぶん手放していたと知った。そこで判断を改める。間に合わなさはなお父のものだが、あの夜に思ったほど重くはない。資料がさらに強ければ、重みを減らすだけでなく、ある喪失の帰属を撤回することもできる。変えるのは判断の効力である。あの夜の泣きが起こったことは撤回できない。
感じられたことも分ける。判断は情を通して感じられる。父が間に合わず、見たかったものを見られなかったことを、長男は痛まずにはいられない。その痛みは長男自身の、新しく生まれた痛みで、父の苦しみの複写ではない。父は最後の数日、ほとんど眠っていた。感じたかどうかにかかわらず、喪失は父のものであり、長男が自分もそこに横たわったらどう感じるかと想像する必要もない。痛みはその夜ずっとあり、弟が入ったとき、そうならざるをえない一瞬へ達し、その泣きになった。声は出ず、うつむいただけだ。外で泣いたかどうかは、その一瞬の証拠にも反証にもならない。
何度かの泣きを分けるには、後の言葉と姿勢を見る。泣きの重さでは分けない。今後は兄弟二人だけだ、と語れば、自分になくなったものへ向く。人はみなこの道を行く、と語れば人の運命へ向くが、父についてか、それを通じて自分へ戻るのか、さらに見る。父はあれほど次男の結婚を見たがっていたのに、と語れば、父の喪失へ向く。ただし言葉で分けられるのは注意の部分だけだ。不疑の泣きかどうかには姿勢も要る。父の感じたことを代わりに決めたか、願いで弟に要求したか、日記に判断を直してもらえたか。この判断で長男という人をある層に認定もしない。同じ人の同じ夜に、いくつもの部分があってよい。
同じように感じなくてもよい
父は最後の数日、ほぼ眠っていた。長男は自分もそこに横たわったらどう感じるかと想像しなくてよい。これには一般的な根拠もある。第四篇は他人の内側の一瞬を、『私が代わりに経験することはできない。本人の報告を聞き、自分の理解を直してもらうことはできる。ここでいう不疑は、自分の予期でその場所を占めないことである』と述べる。総論も、内側の感受は本人だけが経験でき、他人は代わりに引き受けられず、ただ疑わずにいるしかない、と述べる。
泣きに置き直そう。私は、自分が一度も経験していない喪失など、あなたの痛みを理解できなくてもよい。それでも、喪失はあなたのものだと判断し、あなたを認め、そのために痛み、泣ける。実際に相手が痛み、それを知るなら、その事実は、相手が何を被っているかという判断の内容に入る。だが情は、その痛みを感じようとすることではない。両側を守る。相手の感受を私が引き受けず、私の痛みを相手の痛みともしない。だから死者、眠り込んだ人、自覚のない人、小説の人物への泣きも範囲に入る。いま相手が感じ、私が複写できる痛みを先に証明する必要はない。構造としての喪失があり、それが相手のものなのだ。
スミスも『道徳感情論』で、自分の状態に気づかない狂人を悲しみ、死者に同情することを述べた。彼の説明はどちらも、私ならどう感じるかという想像だ。死者の場合には、生きた自分の魂を生命のない身体へ置く、想像の幻であると自ら呼ぶ。専論の違いは、喪失を構造として見ることだ。本人が感じたかにかかわらず相手の喪失であり、私ならどう感じるかを想像しなくてもよい。スミスは同情が目の前の情念そのものより、それを引き起こす状況から来ると言う。専論はこれを、理解へ通じる材料と判断の内容の比較に用い、直接の感染をすべて排除した人にはしない。この言葉が、手掛かりと感染は違う、に最も近い。想像上で置き換わることも、原経験の複写ではない。
その瞬間、相手に資格があるかと先に問うてから答えたわけでもない。不疑は推論の結論ではないが、疑問が起こらなかったことでもない。総論は、不疑は予測ではなく、疑問も問いかけも残る、と述べる。疑問はその場にあっても、後から来てもよく、不疑は解決を待たない。防波堤は精神分析第四篇に従う。『反対意見が入るのを遮断しなければ保てない不疑なら、それは力ずくの閉鎖である。』
私に何の関わりがあるのか
専論はカントとの比較を置く。同感についての彼の議論には、少なくとも三つの問題がある。第一は美的な位置だ。『判断力批判』§29後の総注は、心を柔らかくする類の情念には高貴さがないが、心性の美へは数えられるとする。柔らかな感動が情念へ高まると価値を失い、その傾向をEmpfindeleiと呼ぶ。小説や涙を誘う劇は心を軟弱にし、厳格な義務への感受性を失わせる。道徳的理念に根ざす悲しみは力強い感情だが、同感を根として愛らしくある悲しみは軟化する類であり、崇高なのは前者だけだ。だから、すべての泣きに価値がないと言った、としてはいけない。同情の悲しみに美と愛らしさを残すが、崇高と高貴さは与えないのである。
第二は義務である。『徳論』§34は、人間性を二つに分ける。実践理性に基づく自由な参与と、暖かさや伝染病のように伝わる不自由な同感だ。義務を言えるのは前者だけである。§35では、同感自体は義務でなくても、他人の運命へ積極的に関わることは義務なので、自然な同情の感受を育て、道徳的原則からの参与の手段にすることは、少なくとも間接的義務だという。そのため貧しい人、病室、債務者の監獄を避けないだけでなく、訪ねるべきだとする。第三は発生だ。§34では、相手を救えないのに苦しみへ感染すれば、苦しむ人を二人にするだけであり、世界の苦を増やす義務はありえないと言う。そこでストア派の賢者も記す。救うために友を望むが、救えないときは、私に何の関わりがあるのかと自らに言い、共に苦しむのを拒むのだ。
専論が一致する点は三つある。感染する同感は対象でなく、上からの憐れみは不疑の泣きでなく、泣くことを誰の義務ともしない。違いは二点だ。第一に根拠。『判断力批判』の悲しみの根は、外から来る同感と、普遍から来る道徳的理念だ。不疑の泣きの根は、この具体的な他者についての判断、具体的な他者を目的と認めざるをえないことである。泣きはそこから生まれ、同意を待たない。総論も、そうならざるをえなさは判断自身から来る、と言う。具体と普遍の対立ではない。一つの具体的判断が普遍的な理由も使える。第二に泣きと判断の関係だ。カントでは悲しみは判断される対象で、力強いか心を軟化させるか、美の側か、高貴さがないかと判断される。専論では内側の泣きが、その判断の情を通した感じられ方なのである。
最も近いのは、『徳論』の自由な参与だ。他人の運命へ向き、実践理性に立ち、外から伝わるだけではない。違うのは三つの様相である。すべきと、そうならざるをえないこと。自由な参与は法則に拘束される義務で、実行できないこともあり、意志で育て、用いる。不疑の泣きは同意を待たず、何かしに行く課題ではない。誰にでも向く要求と、各自の避けられなさの重なり。カントの法則はすべての理性的存在に成り立ち、あなたもすべきだと言える。SAEでは、各自のそうならざるをえなさは重なっても同一ではない。その共通部分で外から要求したり判定したりはできない。一つ一つ、その主体自身の一刀であり、同じ所へ落ちても規範にはならない。最後に手段と承認。カントは同情の感受を参与の手段として育てる。専論では感受は承認の感じられる姿で、用途を成立の根拠にしない。ただし後に、理由ある別の行動へ加わることは妨げない。これは役割と採るところの比較であって、排他的な三組の心理状態ではない。自然な感受、自由な参与、育てることは一人に同居できる。
ここでも人を層に認定はしない。ある一件で15DDに立たない人も、多くのことで立たない人も、他人を害さなければ自分の生を送れる。害さないことは権利の側の境で、15DDのそうならざるをえなさを人へ要求することではない。不疑の泣きがカントの二分法のどちらへ入り、道徳的理念や崇高と読まれるかを、専論は代わりに決めず、そこへ入ろうともしない。一方、ストア派の賢者には問いが残る。彼が拒むのは共に苦しむ情であり、友を取り込んではいない。救うために友を求めたのだから、承認は保たれうる。では、情が同意を待たずに起こるなら、何を拒めたのか。専論は、その情の受け入れと育成を拒んだと読む。そもそもその一瞬がなければ、ここで扱う範囲にない。
もう一人分の苦しみ
カントの問いは残る。相手を救えず、さらに自分も苦しめば、世界の苦が増える。専論はまず認める。対象とする悲しみの泣きでは、情は苦であり、私に新しく加わる。感と情の名を分けて数から消しはしない。相手の喪失のための私の苦であり、相手の苦の複写ではないが、それだけでは答えにならない。カントも、元の被害者と後から共に苦しむ人を分けていた。§34が否定する苦を増やす義務を専論も立てず、§35の育成と手段も、この経験の成立根拠ではない。さらに引き受けるのは、苦が増えたという理由だけで、経験を減らすべき一項へ尽くさないことだ。
どう記すか。減らすべき悪とは記さない。まさにその苦と後の泣きに、承認が感じられるからだ。相手の喪失を、相手の、終わっていない喪失として残す。私に関わりがないと情を拒まず、人はいずれ死ぬものだとも取り込まない。そこにはさらに問える可能性が伴う。問いを開くのは承認だ。取り込まず、得られる資料で自分を直す。不疑があっても、疑問と問いは残る。問いは二種類ある。私に何がまだでき、責任の一端はあるかという、私へ向くもの。相手が何を失い、何が残り、どう見るだろうかという、相手についてのものだ。問いは苦の用途ではなく、苦の量に比例もしない。私の苦が増えても、この経験には苦しむ人数で尽くせない判断と姿勢がある。救えないからと、説明し終えたことにはならない。
つまり、この苦を減らすべき欄へ入れないのは、あの判断が情を通して感じられるときの情であり、承認が含まれるからだ。この記し方は泣く側のものであり、専論の記し方でもある。誰かが本人を慰めることとは衝突しない。苦を求めるべきだとも、多いほどよいとも、泣く人が優れているとも言わない。
そこで歯止めを立てる。義務ではない。SAEは他人へすべきだと要求せず、結果を持ち出して感受を引き受けさせてはいけない。ただし語るよう招いたり、感受を尋ねたりすることは別だ。求めに行くものでもない。大切なのは承認で、苦そのものではない。わざと心を軟化させようとするのはEmpfindeleiの一種で、涙を何かと交換するのは泣きを使う行為だ。人の評価にもしない。泣いても高くならず、泣かなくても承認がないとは決めない。総論の、笑わない人を見えなかったと決めない、に対応する。証拠にもしない。この泣きは承認があるときの感じられ方で、逆向きの証明ではない。13DDの共感の泣きも、内側からは同じに感じられうる。人を評価しないことは、泣かないなら承認がない、を防ぎ、こちらは、泣いたなら承認がある、を防ぐ。
量も問わない。泣きの強さで層を決めず、苦の多さを功績にしない。後で苦が和らぎ、慰められても、それだけで承認まで減ったとは言えない。その人についてなお問い続け、記憶にとどめることはできる。同じ痛みを保つことで証明する必要はない。相手の喪失も美化しない。この泣きを生んでも、相手の喪失がよくなるわけではない。評価できるものがあるなら承認の側だけで、そうしなければ相手の喪失が私の感じやすさの材料となる。救助に代わらず、救助にも相殺されない。できることは助け、助けたから泣きが無効になることもない。別々に記す。
代償が現れる明確な場合がある。相手の喪失を私が起こしたときだ。相手の喪失だと認めるには、自分がした分も認めねばならず、15DDはその代償で撤回しない。ここで撤回するとは、承認し取り込まない姿勢を退き、相手の喪失として扱わなくなることだ。新資料に従って特定の喪失の帰属を撤回するのは事実の訂正で、自分を守るための退却ではない。13DDの自己防衛がここで退きやすいのか、話が相手の喪失から自己弁護へ移るのかは、検証を待つ概括にとどめる。同席する自分の罪悪感や後悔は、自分に向く別の情として分ける。泣いて許しを求めるのは、泣きを使う行為だ。
トリノの馬
トリノでニーチェが馬を抱き、その後精神を病んだという話は広く知られる。専論はTownsendの検討(『ロサンゼルス・レビュー・オブ・ブックス』、2017年)に従い、唯一の元の出所は伝聞が三段階に重なるものだと述べる。警備員が家主Finoに話し、ニーチェの死(1900年)の後に、匿名記者がFinoを訪ねた。元の版には馬の首を強く抱く姿しかなく、御者も鞭打ちも、馬の苦しみも涙もない。それらは後の再話で加わった。だから馬が苦しんでいたという部分は、丸ごと伝説の版に属する。専論はその版の構造だけを、伝えられるところでは、と示し、確かな出典とも、歴史上の人の心を知るとも言わない。
まず述語を分ける。馬が目的価値の担い手である、は価値論第一篇V14によれば成り立たない。V14は、扉のない客体、例えば動物には経験があり、関心を向けられる一端にはなれても、目的価値の担い手としてここの事実の位置を満たすのではない、と述べる。馬が苦しんでいた、は伝説の版に従えば成り立つ。馬そのものを気遣うことも誤りではない。ある事実の位置を満たさないからといって、泣く人が対応する誤った断言をしたとは限らない。鞭打ちが演技で、後に判断した害はなかったと確かめられれば、その事実判断の効力を撤回する。感が起こったことは消えず、関心も自動的には撤回されない。逆に、演技だっただけで、演者や動物が苦しまなかったとも保証できない。
馬のための泣きが認めるのは、目的であることではなく、意識と感知の位置だ。主体性への承認はここへも広がり、猫が苦しめばつらく、馬の鞭打ちを見ていられない。定義上は15DDの姿勢に数えず、不疑の泣きという狭い種類には入れない。二つの方向を、人の分類ではなく、そのときの立ち方として言う。15DDに立つときには、その姿勢の延長である。苦を私の材料にせず、実際に苦しんだかも含め、得られる資料で自分を直す形は通じる。まだそこに立たなければ、動物への同情は15DDへの道の一つの情になりうる。道の上にあるとは、15DDの練習用の手段という意味でなく、義務にもしない。伝説の版のニーチェの泣きは、この延長の一例と読める。
著者には、猫や馬の苦しみを見ていられない人は、多くの場合、人の苦しみも見ていられない、という観察がある。反例がないのではなく、少ないというだけで、証明ではない。カントも『徳論』§17で同方向のつながりを見る。動物への残虐は自分への義務に反する。同感を鈍らせ、対人道徳に役立つ自然の資質を弱めるからだ。同感を手段とし、そのつながりを義務の根拠にする。人間への道徳のために守るのだ。ショーペンハウアーは、これでは練習のためだけに動物へ同情すると批判する。自らは動物への同情が善い性格と密接に結びつき、人への正義と仁愛と同じ源から来ると言う。道の上という方向では、専論はカントと同方向だが、記述するだけで、根拠にも手段にもしない。延長という方向では、他方の練習ではないという点でショーペンハウアーに近い。ただし彼は、意志の同一性を根として両者を同源とする。専論は、動物への承認を主体性への承認の延長とし、意志は一つだという形而上学の根拠を借りない。
小説の人々
小説の人物も入る。読者がそのために泣く相手は、人物と、作品中でその人物が失うことだ。作者はしばしば一人称、方向、喪失を人物に書き与え、読者は自分の泣きの中で主体性を投じる。作者の仕事は、読者にとっては手掛かりと材料にとどまる。投じるのは泣く人自身でなければならず、作者が一人称のない平板な人物を書いても、読者は投じられる。また、作者が主体だからといって、人物が現実の担い手になるわけではない。架空の対象へ泣きを広げる責任は、専論自身が負う。三つを分ける。物語に表された人物とその喪失。これは虚構だと知る読者の、現実に何が存在するかという判断。そして六条件に照らして見る、読者自身の実際の姿勢だ。馬と違い、読者が投じるのは主体性なので、不疑の泣きの狭い種類に入れる。
カントの涙を誘う劇との対話もここにある。彼がEmpfindeleiとする、柔らかな感動が情念へ高まる傾向には二例ある。慰められようとしない参与の痛みと、架空の災いへ想像でわざと浸り、本当だと思うまでにすることだ。後者に対し、不疑の泣きは作品内の喪失へ向き、現実だと思う必要はない。わざと本当と思い込み、心が軟らぐ自分を楽しむのはEmpfindeleiの一種で、不疑の泣きではない。前者も、痛みを保って承認の証拠にするため慰めを拒むなら、専論は採らない。慰めと苦の軽減は立場に反しない。また、感動する自分を楽しんでも、同時にある人物への関心は、それだけでは消えない。同じ場でも部分を分ける。心が軟弱になり厳格な義務を感じなくなる、というカントの結果への問いは、記録するが答えは出さない。
自分へ折り返す
専論の主な比較相手はショーペンハウアーだ。『意志と表象としての世界』第一巻§67で泣きを扱い、専論が用いた英訳では、直接に自分の痛みを泣くのではなく、反省の中でその痛みを再現することを泣く、そして泣きは自分への同情、源へ折り返す同情である、と述べる。他人の苦への泣きにも二つの道がある。想像で苦しむ人の場所に自分を置くか、その運命に人類全体の、ひいてはまず自分の運命を見るかだ。遠回りしても、結局泣くのは自分なのである。
死別の例は、まさに長く病んだ老父を亡くして泣く息子だ。自分の損失を泣くのなら恥ずべき利己の涙になるので、哀悼する人はまず死者の運命を泣く。しかし死が本人にとって待ち望んだ解放でも泣く以上、主にとらえるのは人類全体の運命への同情であり、そこにまず自分の運命を見る。血縁が近いほど、特に父の場合に強いとする。通夜の場面はこれを借り、一点変えた。ショーペンハウアーの例では、その父にとって死は待ち望んだ解放であり、彼はそこから、人類の運命を主に泣くと論じる。一方、あの夜の判断は間に合わなかったことで、解放しても相殺されない。この例ではそこから分かれる。
彼の二層を分けよう。同情の層では個体化を見抜くことから同情が来る。意志はすべての現象の物自体なので、他者に自分の内的本質を認める。tat twam asiであり、この『自己』は他者を含むほど大きい。他者へ向くとも書く。相手の苦を自分のように感じても、自分の中でなく、相手の中で感じる。他人の皮膚に私の神経がないとは承知しながら、同情は分離を越える。泣きの層では、その同情が最後に自分の個体性へ折り返し、人類の運命を経て自分の運命を見る。戻る先は大きな自己でなく、個体の自分だ。
同情の層では経験は近い。どちらも他者を見て、苦は相手にあり、私にはないとする。共通するのはこの層までだ。誰が、われわれの行動が従うべき法則があると告げたのか、と命令的倫理に反対する彼は、他人へすべきと求めないSAEと同方向でもある。違いは表現の重点だ。彼は相手の苦を自分のように感じるため、ある程度の同一化と、自己・非自己の境の一時的な破れを述べる。専論は、痛みは私、喪失は相手のもので、相手の感じることを感じようとしない。彼が問うのは他者を自己の境の内へ入れたかであり、専論は自分は自分、他人は他人、互いを含まない二主体を強調する。対立とは限らない。広い境は利己と同じでなく、彼の無私はその大きな自己で成立する。専論は、意志は一つという形而上学を借りないだけだ。行動論第六篇の著者の言葉でいえば、人生の意味はその人生の外にあり、一生が指す先は自分でなくてもよい。他者を見るとき、他者はなお他者である。
泣きの層では、彼の説明を受け止め、別の一種を指す。他人の苦から反省を経て自分へ戻る泣きは、理解できる発生の説明として受け止めるが、その頻度を述べず、いつもそうだとも認めない。自分がすでに失ったものへ戻れば自分の喪失の行へ、将来の自分の死へ戻れば先に時制の確認へ進む。いずれも判断がないとは言わない。ただし、一度でも自分の運命が表象されたからと、その後や並行して他者を見ることまで消せない。そのほかに専論は、注意も姿勢も相手の喪失にとどまり、自分への折り返しを仮定しなくてよい泣きを指す。
証明の重みも正そう。争うのは、戻らなかったと証明済みだということではなく、必ず戻ると仮定しなくてよいことだ。あの夜の三度目で、その後の言葉も父へ向き続ければ、折り返しを仮定する必要はない。ショーペンハウアーは、死者をまず泣くのを出発点として認めつつ、本質は後の折り返しだと言うだろう。後の報告や得られる言動は説明を分ける助けになっても、真偽の判定にはならない。ある説明を採る理由を強めたり弱めたりするだけで、報告がなければ心理過程もなかったとは証明できない。姿勢の目印が分けるのは13DDと15DDで、専論と彼ではない。彼の哀悼者も三つの姿勢の目印をすべて持ち、なお戻りうる。逆に本人が何と報告しても、内心は自分を泣いていたのだと言うなら、その説も根拠を出す必要がある。プレスナーも、彼の説明は通常より真相に近いが、普遍的原因とした点が誤りだと、いつも、に直接反対する。悲劇の葛藤は泣きの尽きない源で、そこでの泣きはもはや泣く本人へ向かないという。
笑いが先、泣きは後
同じ喪失を二人が別々に判断して泣くなら、同じことを泣く二人である。互いにわかっていることが加われば、言わずともわかることだ。さらにその瞬間、互いを目的と認めるなら、抱き合って泣く姿も、各自の15DDの瞬間と読める。ただし、抱擁、涙の同期、相手の喪失を知ることのどれも、承認を単独では証明せず、完全な16DDも認定できない。後者はあらゆる事柄で双方向の不疑が貫くことで、有限な個人の理想的限界である。第四篇もこの専論も、具体的な出会いの区別を読者へ残し、共通の笑い声や涙から関係の到達を宣言しない。
美、笑い、泣きはいずれも判断力に関わるが、関係は違う。美は見て認めざるをえず、笑いは判断が直接感じられ、泣きは情を経て感じられる一瞬だ。笑いは速く、泣きは待つという著者のおおよその観察とも合う。笑論は層を追い、いないいないばあの赤ん坊から始めた。もう一つ、子どもは物語を聞いて泣けるより先に笑えるのではないか、という推測もある。物語を聞くのは感染でなく判断によるからだ。専論はこの推測を『判断力の練習とゲーム』へ渡す。
通夜へ戻ろう。弟が入ったとき、長男は声を立てず、うつむいた。間に合わなかったことは、なお父のものとされる。痛みは彼自身の痛みで、新たに加わった苦であり、承認はその中にある。そこには、後も続く問いが伴う。あのとき父は何を思っていたのか。自分には、まだ何ができただろうか。
原論文と読み方の注記
現在の中国語随筆から、日本語の読者へ独立に書き直しました。この欄の原論文はQin, Han(2026)『専論:判断力と泣き』で、四つの各論とは別の専論です。原英語版も独立に書かれ、簡体字・繁体字中国語は全文です。技術的な全訳ではありません。通夜は架空の場面、トリノの馬は出所の限られた伝説として扱い、歴史上の人の内面を補いません。プレスナーについては本専論が原書の英訳を読んだ範囲を、第四篇の未確認の対照と区別します。六条件は第三者の認証書ではなく、泣きの強さや苦の量で人を評価しません。先行篇の引用は検討する言葉として残し、共同の涙や抱擁を完全な16DDの証明にはしません。リンク先の母論文を改訂したという意味ではありません。
この版について
学術原論文:Qin, Han(2026)『専論:判断力と泣き』(SAE笑論・専論)。self-as-an-end.net · DOI:10.5281/zenodo.23446536。
用語について。本シリーズは当サイトで固定した13–16DDの定義に従います。ある具体的な出会いで互いを疑わず目的として認めても、それは二人それぞれの15DDの瞬間として扱います。16DDは、あらゆる事柄にわたって完全に双方向の不疑が成り立つことだけを指し、有限な個人にとっての理想的な極限です。リンク先の論文が一時的な相互承認を16DDとして記している箇所は、この随筆版ではこの区別に合わせています。一緒に笑ったり泣いたりしたというだけで、互いを認めていると判定することもありません。