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Non Dubito

SAE笑論 · 01

まだ、いる

母が顔を覆い、手を離す。赤ちゃんが笑う。知覚は『見えなくなった』と捉え、予測は『まだ、いる』を捉える。12DDの笑いには構と余項の構造が部分的にあるが、自分が判断しているとわかる持ち主はまだいない。笑論はこれを、笑いの傾向として記す。

Han Qin ·

用語について。本シリーズは当サイトで固定した13–16DDの定義に従います。ある具体的な出会いで互いを疑わず目的として認めても、それは二人それぞれの15DDの瞬間として扱います。16DDは、あらゆる事柄にわたって完全に双方向の不疑が成り立つことだけを指し、有限な個人にとっての理想的な極限です。リンク先の論文が一時的な相互承認を16DDとして記している箇所は、この随筆版ではこの区別に合わせています。一緒に笑ったり泣いたりしたというだけで、互いを認めていると判定することもありません。

手を離すと

母が両手で顔を覆う。赤ちゃんはその手を、声を出さずに見ている。手を離すと顔が戻ってきて、声を上げて笑う。また隠し、また見せる。また笑う。いないいないばあ。ほとんどどの家でも遊んだことがあるだろう。

この笑論にとって、これは難問になる。総論は笑いを判断力の表れとした。ところがSAE精神分析シリーズの対応づけでは、主体が現れるのは、自分の否定をさらに否定できる13DDである。六〜八か月の乳児は12DDに位置づけられ、予測は働いていても、予測しているのは自分だとわからない。精神分析第一篇の呼び名はme-without-selfだ。では、主体性のない笑いをどう扱えばよいのか。

二つの答え方は、どちらも行き過ぎる。一方は、乳児の笑いをそのまま判断だと認定する。それでは判断の持ち主がいない。また、誤った判断による笑いはのちに本人が否定し直せるが、12DDには自分の否定を否定できる主体がない。他方は、この笑いを身体だけに任せ、あるいはカントの『無への転化』へ渡してしまう。自我のない笑いは身体の出来事に見え、カントの読み方が最も有力に見える場面だ。ただ、もし笑いが刺激の強さだけでなく、一定の関係を追っているのなら、関係を追う現象として考えるに値する。

第一篇はそのあいだをとり、この笑いを『笑いの傾向』として記す。『傾向は笑論が独自に設ける区分である。』構と余項の構造は部分的に現れ、注意も余項に向いている。だが、自分が判断しているとわかる持ち主が、この判断にはまだいない、という意味だ。

見えなくなった。でも、まだいる

SAEの教育篇はいないいないばあを、12DDの予測を練習する仕掛けと位置づける。消えては戻り、消えては戻る中で予測ができてくる。発達の時間表では六〜八か月の『予測を練習する』時期に置かれている。そこで赤ちゃんが身につける予測は、『お母さんは戻ってくる』だ。

総論の定式で分けると、三つの要素がある。構は知覚による『見えなくなった』。顔が隠れ、いま視野にないという区別そのものは間違いではない。知覚の層、10DD近くの働きである。余項は『まだいる』。いま視野にないことと、その顔がなお存在していて戻ってくることは、同時に成り立ちうる。知覚の『見えなくなった』に収まっていないのは、その点だ。それを受け止めるのが12DDの予測で、顔が存在し続け、戻ることを追っている。

ここには二つの『いま』がある。隠れている間は、いま見えないという知覚が成り立ち、予測はすでに『まだいる』を追う。構は有効で、何も損なわれていない。手が離れて顔が戻ると、直前の知覚状態は記憶によっていまへ持ち込まれる。構はなお目の前にあり、予測は『まだいる』を捉える。どちらの時点でも笑いはありうる。注意が見えないことではなく、まだいることへ向くからだ。見えなくなったことに注意がとどまれば、出てくるのは笑いではなく泣きになる。

二つ、読み込んではいけないことがある。この説明は余項の由来を示すもので、笑ったから『顔は存在しなくなった』という誤信念を乳児が持っていたと逆算するものではない。また、『さっき自分には見えなかった』と反省的に振り返ってもいない。12DDには、自分が見たと知る主体がまだない。捉えているのは知覚の構の余項であり、笑う自分自身の未見ではない。誰に見えて誰に見えないかで区切る総論の表は、まだここには当てはまらない。

違う顔が現れたら

本当に、同じ顔が同じ場所へ戻ることを笑っているのだろうか。パロットとグライトマン(1989)は、いないいないばあで予想を裏切る試行を研究した。原掲載誌の要約によると、六〜八か月の乳児は、戻る大人が別人になったり別の場所から現れたりすると、微笑みが少なくなった。同一人物と場所を追う期待がある、という見方と合う。

この証拠には二つの意味がある。まず、笑いがすでに『同じ顔が元の場所に戻る』という関係に従っていることだ。傾向という説明でも対象を指し示せるし、人物や場所が変わると微笑みが減るという行動上の目印がある。論文の言葉では『単なる滞留や探索ではなく、指し示せる萌芽なのである』。次に、総論のいう突然を、予想外の大きさと読んではいけないこと。予想を裏切る試行ほど意外だったのに、微笑みは増えなかった。

ただし論文は慎重だ。確認できたのは原掲載誌の要約までで、記されているのは微笑みの差である。全文の方法、尺度、統計は未確認であり、微笑みの回数は内側の笑いと同じでもない。この追跡を構と余項の関係として読むのは、さらに進めた解釈だ。他の仕組みを排除する証拠にはまだならない。

行ってしまう。戻ってくる

教育篇には、12DDが働き始める目印は分離不安だともある。母の足音が遠のくと乳児が泣く。痛いからでも空腹だからでもなく、『お母さんが行ってしまう』と予測するからだ。教育篇自体はいないいないばあと並べて論じていない。ここで結びつけるのは笑論の推論である。

分離不安といないいないばあの笑いには同じ予測能力が参加し、内容が違う。一方は行ってしまう、もう一方は戻ってくる。比べられるのは焦点だ。遊びでは『まだいる』という余項へ向かって笑い、本当に去るときは構の喪失へとどまって泣く。構に向く泣きと余項に向く笑いの区別が、12DDでもすでに見えるということだ。この推論が成り立つなら、同じ乳児で二つはおおむね同じ発達時期に現れ、同じ予測能力が安定するにつれて変わるはずだ、という検証可能な予測が立つ。ただ、関連研究は未確認で、論文は推論として記すにとどめる。

なぜ11DDもこの篇に含めるのか。スルーフとヴンシュ(1972)は乳児の最初の一年の笑いを追った。書誌情報と二次紹介によれば、最初の笑いは四か月ごろに現れ、初めは触覚や比較的強い音が多く、一歳近くになると視覚や社会的場面の不調和が増える。初期の触覚や強い音に直接起こされるものは10DDの知覚的な笑いだが、馴染みの遊びや歌による部分はすでに記憶に依存している。

馴染みの歌のある句、あるいは『来るよ……つかまえた』という遊びのある段階で笑う。この句や段階は、記憶が差し出す馴染みのものだ。それなしには、『まだいる』によって補われる構もない。記憶が構の材料を与え、予測が余項を捉える。最初の傾向の笑いには両方がある、というのが論文の理由である。精神分析第一篇は12DDより下を下限の余項に置くが、笑論は美学の射線九と同じく11DD+12DDでまとめる。その違いは明記されている。11DDが傾向に何を寄与するかは論文の読みであり、もとにする発達研究はなお照合を要する。

本気でかむのではない

じゃれ合いには、飛びかかり、かみ、転がるといった、けんかそっくりの動きがある。ベイトソンは『遊びと空想の理論』(1955)で、遊びのかみつきはかみつきを指すが、そのかみつきが本来意味することを意味しない、と論じた。笑論の読みでは、じゃれ合いは自らの余項を明示的に伴う構だ。攻撃の形も、『本当の攻撃ではない』という余項もあり、双方が動作にそれを含める。動物のじゃれ合いの笑い声も、構と余項がともにあり誰も負けない、と読める。越境して本当の攻撃になれば、通常、笑いはやみ別の反応になる。ただしこれは論文の読みであって、実証的な確認ではない。

傾向とする理由は乳児と同じだ。構も余項も、その追跡もあるが、自分が判断しているとわかる持ち主がいない。種の異なる遊びの発声が同じ種類かどうかは、種ごと、課題ごとに確かめる必要がある。笑いという名前や音の似方だけで層を決めてはいけない。チンパンジーは別に考える。鏡による自己認知が可能であり(ガラップ、1970)、コールとトマセロの2008年の総説では、他者の目標、意図、知覚、知識を理解する信頼できる証拠はあるが、誤信念を理解する証拠はまだないとされた。笑論の現在の読みは鏡像自己認知を13DDの早期の手がかりとし、チンパンジーをその初期段階へ置く。一方、精神分析第一篇はその欺きを12DDの創発に置く。対応はなお調整を要し、笑論は上流の議論を書き換えない。

かくれんぼで隠れている子は、よくくすくす笑う。探す側の構には、ここにいるのに見つからない私という余項がある。いないいないばあの裏返しだ。『いないいないばあでは余項が自分の目の前へ戻り、かくれんぼでは自分が隠れた余項になる。』幼い子は自分の目を覆うだけで隠れたと思うこともある。相手の見えるものと自分の見えるものの違いがまだ成立していない、という読みもある。双方が目を合わせないことが隠れる条件だと子どもは考えている、という研究もあるとされるが未確認だ。どちらも論文の論証を支える柱にはしていない。

そのくすくす笑いは、いたずらっぽい笑いだろうか。『自分には見え、相手には見えない』と判断するには、相手の知らなさを別の主体の状態として表象する、主体と他者の区別がいる。門が開くのはこの構造が使えるときで、判断としては早くても13DDとなる。鏡像自己認知や、見ていなければ知らないという知識へのアクセスは、その手がかりにすぎない。第三篇のナスレッディンの鍋の話のように、相手が誤って信じるのを待つには、誤信念の理解が必要で、およそ四歳前後とされる。ただし厳密な年齢が論証を支えるわけではない。この構造より前のくすくす笑いは、『まだ見つけていない』という関係を追う、いたずらっぽい笑いの構造の傾向として記す。知っていてもあえて黙っておくという行為のほうは、目的が現れてからの話なので第三篇に譲る。

まだ、手は触れていない

くすぐると笑う。論文はこれを二つに分けるが、まず基準を明らかにする。外からの刺激だから、では分けられない。いないいないばあも冗談も他人が用意するので、それではこの篇の傾向も除外されてしまう。予測があるかどうかでも足りない。ブレイクモア、ウォルパート、フリス(1998)の研究では、自分でくすぐると弱く感じる。脳が運動指令から自分の動きの感覚的結果を予測して、打ち消すからだ。知覚にも独自の予測があることは示すが、層は決まらない。しかも他人にくすぐられる場合、予測に使える自分の動作はない。

基準は、何を予測するかである。予期の部分では、まだ触れていないのに子どもが笑う。他人の動作、『もう来る』という、世界の中の対象や関係を予測する12DDの傾向だ。先ほどの『来るよ……つかまえた』もここに当たる。接触の部分では、触れたあとの笑いが触覚そのものへの反応となり、10DDの知覚的な笑いとして対象範囲の外に置く。

ただしこの境界は説明の候補で、構造上の証明を終えたものではない。自分の動きも触覚も世界にあり、他人がくすぐるときも誰がいつ触れるかは対象や関係に関わる。だから身体か外界かでは線を引かない。その回ごとに働くのは、感覚的結果の補正か、それとも遮蔽や時間を越えて対象を追い続ける働きかを調べる。

分けるのはその笑いがどの層で起きたかであり、誰が笑ったかではない。大人でもくすぐられた接触の笑いで向き合っているのは触覚だ。その笑いは10DDのままで、別のことでその人が13DD以上に立つからといって判断にはならない。

持ち主が、まだいない

『傾向は判断ではない。持ち主も反省性もなく、問い返しを受けることもまだできない。』持ち主がいないとは、予測は働き、構と余項の関係を捉えていても、それを自分の判断として引き受ける主体がいないことだ。反省性がないとは、違う人が現れて微笑みが減っても、誤判断を訂正したのではなく、初めからそちらへ傾向が向いていなかったということだ。ここには誤判断による笑いという分類は適用しない。乳児が大人につられて笑うことも、傾向の伝わりではあっても、『何を笑っているの?』と問い返すこととは違う。

ではカントの無への転化はどうか。主体がなく、最も身体の出来事らしい12DDでは、とりわけ魅力的な説明になる。笑論が言えるのは、一定の関係を追い、人物や場所が変わると微笑みが減るということまでだ。関係を追う現象として考える理由になり、強度だけで説明する考えを制約する。ただ、対象があるだけでカントと矛盾するとは決まらない。第54節にも表象と思考の遊びはあり、無への転化は期待の空振りを指すので、出来事に顔や関係が存在しないという意味ではない。同じ出来事と同じ期待の内容を双方で定めるまでは、反例だと宣言しない。身体の関与と関係の追跡も二者択一ではない。

判断でないのに、なぜ範囲に含めるのか。ここから構と余項の構造が始まるからだ。12DDにはすでに部分的な材料がある。知覚の『見えなくなった』という構、『まだいる』という余項、泣かずに笑うという余項への焦点である。まだないのは持ち主だけではない。自分の見えたことと見えていなかったことの、反省的な落差も現れていない。だから論文は『本篇は笑論の出発点であり、判断としての笑いが何の中から育つのかを説明する』と述べる。

母がまた手を離し、赤ちゃんがまた笑う。その笑いには見えなくなったことと、まだいることがともにあり、誰も負けていない。自分が判断しているとわかる持ち主と、直前には見えていなかった自分への振り返り。この二つが現れるのは13DDである。それが次の篇の出発点になる。

原論文と読み方の注記

現在の中国語随筆を底本に、日本語の読者に向けて独立に書き直しました。対応する原論文はQin, Han(2026)『笑いの傾向』で、この欄に原論文とDOIを示します。原英語版は独立に書かれ、簡体字・繁体字中国語は全文です。技術的な論文全訳ではありません。ParrottとGleitmanは掲載誌要約のみ、SroufeとWunschは書誌情報と二次紹介の範囲であり、本文の未確認箇所を確認済みとはしません。発達の推論、動物の遊びの読み、くすぐりの境界は候補として保ち、チンパンジーの層の上流との未調整も隠しません。各DDはこの回の働きの区別で、人物の永久等級ではありません。

この版について

学術原論文:Qin, Han(2026)『笑いの傾向』(SAE笑論・一)。self-as-an-end.net · DOI:10.5281/zenodo.23287462。