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Non Dubito

SAE第二批判 · 07 · 自分たちの文章を調べる

持つ以上の資格を示す――自分たちの事例集

法や「そうせざるをえない」が、まだ得ていない効力を名乗るとき。SAE自身の既刊文から、無条件、演繹、他人への要求、人の段階分け、最終判定、駆動、基準、代償なし、出所不明の効力、必然の収斂を読み分けます。診断は人を有罪にするためではありません。

Han Qin ·

一つの形を、七つの欄で読む

『第一批判』の幻相論は、認識の側のいろいろな問題を、一つの形にまとめました。「一つの構が、まだ獲得していない証明書を提示する」。判定は記録との照合です。主張が使われるときに示す資格のうち、検査、再検討、索引づけによって認められた項目にないものが一つでもあれば、持たない資格を主張したことになる。「提示する集合が、持っている集合をはみ出す」のです。この判定は「あとから照合し、動機を問わない」。診断するのは示され方であり、示した人の思惑ではありません。

実践でも形は同じで、主語だけが変わります。法や「そうせざるをえない」が、獲得していない効力の証明書を示す。欄も実践に合わせます。様相――無条件か、定義にかかるか、ある立場にかかるか、どの仕方で拘束するか。出所――公理からの導出か、公準か、定義か。管轄――本人だけか、他人にも及ぶか。時点の立場――今日の私か、昨日や明日の私か。対象――一回の働きか、一人の人間か。根拠――導いたものか、引き受けたものか、出所の記載がないか。代償――どこにかかり、それを言っているか、です。

『第一批判』が入口に置いた規律も守ります。「判定するのは資格の過剰な主張であり、人を有罪にしない」。事例は、枠組み自身の既刊文からだけ取ります。カントの普遍立法は、本書では一つの分岐であって、病の事例ではありません。

無条件、演繹、他人への要求

無条件を名乗る場合――様相の欄。「これは選択ではない……存在の仕方だ」「無条件である」。示すのは「条件なし」ですが、持っているのは、ある立場での拘束です。その文自身に、「君のDD段階がそこまで来たら」という前提がついています。公平のために、もう一つ加えましょう。『自分の法』は管轄を正しく書きました。「拘束力が落ちるのは、それを持つ主体自身にだけだ」。問題は様相にあり、管轄ではありません。

演繹を名乗る場合――出所の欄。道徳律第一篇は四定理を、「SAEの唯一の公理『非』を複数のSelfの場面で具体化したもの」とします。権利論Paper 0は、一ページに三度、違う言い方で同じことを言います。さらに二か所は、別の公理を立てます。戦争論は、導出の根拠を「SAEの公理そのもの――主体性は消去できない……」とし、経済学P6は「SAEの核心の公理は『余項は発展せざるをえない』」と述べました。どれも方法論0が「ほかはすべて定理」を撤回する前の文章です。本書はそのまま記し、代わりに書き換えません。

横向きの効力を名乗る場合――管轄の欄。法が、立てた本人の範囲を出て他人に要求します。論文5には診断があります。「自分一つのcannot-notを普遍化し、個別の行動必然性を、全員が従うべき法として押しつけた」。最後には「君も私と同じようにするべきだ」だけになります。とくに起こりやすいのは、重なりを推論の前提にするときです。あなたも私も人を目的とする。だから、あなたもこうすべきだ。 定義から保証される一致を、他人への命令の根拠に使っています。「誰もが自分自身の哲人王になるべきだ」も、その一つです。

人を段階で数える、最終判定する、今日へ持ち込む

人の型として名乗る場合――対象の欄。15DDを人の一種類にして、人数で段階を数える。「12DDが大多数、14DDが中間、15DDが少数」。問題の場所を正確にしましょう。同じ一覧の次の項目には、同じ人が文脈によって別の段階で働く、「固定した型ではない」とあります。元の文に留保がないのではなく、割合の文が、その留保から離れて使えてしまうことが問題です。修正は文を削ることではなく、文の中に働きの索引を戻すことです。適切な形も枠組み内にあります。経済学P3は、行動の出力を観測の代理とし、代理は定義ではなく、誤りうると明示しています。

最終判定を名乗る場合――時点の立場と根拠の欄。一回の読取りを、その人についての最終結論にします。道徳律P3は評判に、そこへ近づく傾向を与えました。「動機は観測できる。ただし時間が要る。長く見れば人の心がわかる」。また、15DDの評判を戦略的に偽り続ければ、「本当に15DDになる方にしか収斂しない」とも。超えているのは二点です。動機を読むことと、収斂を保証すること。反対の言葉は、衝突論にすでにあります。「止めるのはこの道であって、この人への最終判定ではない」。

今日の立場を名乗る場合。昔の評判を、審査し直さず今日の判断にすることです。『第一批判』は「他人の昨日の構で、今日のその人を裁く」と述べました。裏返しは第五篇で見ました。今日の私が明日の私に代わり、代償へ署名し、それを問い返さなくてよい永続の権限にすることです。

駆動、基準、代償なし、出所不明、収斂

駆動を名乗る場合。余項には「外部への出口が不可欠」で、共同のやり方は「強いられて出てくる」とする。示しているのは人を押す力ですが、持つのは条件と判断です。基準を名乗る場合。行動論の「要求はそれほど高い」は、人を量る物差しに聞こえやすい。本書は、定義がどれだけ厳密かという意味に読みます。道徳律自身も「四条はSelfが努力して達成する基準ではない」と言いました。だから本書は、基準ではなく定義を使います。15DDは定義であって、他人が私を量る物差しではありません。

代償なしを名乗る場合。一つの行動や公準が、何も残さないと称せば、実践の側で余項を否定しています。『自分の法』は共鳴について、「一緒に振動しなければ、各々が振動し続け、誰にも損失はない」と言いました。価値の地位を言うなら確かに損失はありません。でも、今回一緒にならなかったことなら、静かな代償はあります。権力論も別の場所で、「沈黙は無代償ではない」と述べます。出所を書かない効力を名乗る場合。衝突論は拘束について、「規範的効力を発しない」と言い、同じ節で、停止の決定を振り返れることを「もっと上流の効力」と呼びます。枠組みが「べき」を差し出す一連の文の中で、本書が見つけた、効力を名乗りながら出所を記していない唯一の箇所です。記録するだけで、根拠を代筆しません。

収斂を必然とする場合。歴史の方向を必然とし、「14DDから15DDへの成長は、存在論的な必然だ」と言う。『第一批判』はすでに「保存は動力ではない」と述べ、行動論はあとで弱めました。速さは「人が選ぶもの」で、「具体的な時期には逆行もある」。歴史の方向を述べるなら、経験的前提、そこから結論への推論、実際の歴史のどの範囲に適用できるかを、分けて示す必要があります。一つも示さず、その上に必然の口調を置くなら、根拠を超えます。最後に「悪」という候補もあります。「悪は位置としての身分ではなく、退化と抑圧の方向だ」のように、操作の方向につなぐなら、過剰な主張ではありません。一生の身分として人につけるなら、別途診断を受けます。

植民と侵入

同じ形でも、過剰な資格主張の下位分類ではないものが二つあります。植民を、価値論P3はこう定義します。「ある内容が、担う人のところで、構成が完成したものと見なされている。しかしその構成は本人の法の内でできたものではなく、その位置を外来の目的が占めている、という構造状態だ」。内容の出所でなく、どこで構成されたかを言っています。核心は、「構成には成功せず、構成されたと見なされることにだけ成功する」という一文です。

これも、持っている以上のものを示す形です。ただ価値論は、両者を互いに還元しません。植民にはさらに、読取りがすでに占領され、照合する道が閉じたという二つがあります。「根拠を超える資格の主張は、照合の道が開いているところでも起こり、そこで直されもする。植民は、その道が閉じた状態である」。むき出しの強制は、それをあなた自身の価値だと名乗らないので、この種類に入りません。

侵入について、権利論P5は「核は奪えない」を立てます。核とは「主体が自分の法で包んだ余項ρ」です。侵入は核を奪うのでなく、「外の立場から、一人称の包み方を代筆すること」。明瞭な例は教え込みです。教える動機があり、教えられる人にも利益の感覚があっても、その作用は侵入です。外の立場が他人の一人称になり代わる場合では両者は重なりますが、植民か侵入かは、それぞれの定義で判定し、一方から他方を導きません。価値論の自己植民には、外の立場すら要らないのです。

出典と読み方

本連載は『SAE第二批判』の中国語原論文を底本に書き直した読者向け散文で、完全な論証の権威ある底本は原著です。日本語版は公開された中国語散文から独立に書き直したもので、原著の全訳ではありません。元の英語版も英語の読者に向けた独立の文章で、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。全十二篇が共通の一冊を読みます。中国語の原著を読む ↗ · DOI ↗

中国語の原著 ↗