SAE第二批判 · 02 · 必然性を解き分ける
三つの「必然」を解きほどく
「選択ではない」「離れれば格が下がる」「すべては唯一の公理から出る」。実践を必然で満たした古い主張を問い直します。立場を条件とし、一件ごとに離れられる拘束へ戻し、法を「非」の定理とせず、九種類の言い方を分けます。
私たちが述べてきた「必然」
実践の「そうせざるをえない」について、枠組みは必然性をいくつも述べてきました。『自分の法』は、主体が15DDに至ると「あらゆる主体の余項の抑圧に、反対せざるをえない。これは選択でも高潔さでもなく、存在の仕方だ」と言います。「『反対しない』選択肢はない」、その律は「無条件である。どんな前提にも失効させられない」とも。『理性の「そうせざるをえない」』はさらに、止まる主体は「14DDの手段の構造にのみ込まれ、道具になる」とし、「離脱は降格だ」と言いました。
15DDは、この枠組みの段階の一つです。自分だけでなく、他人も目的として扱う働きを指します。余項は、一回の境界づけで尽くせなかった部分です。第二批判は、この「必然」を一つずつ切り開き、本当に必然なのかを調べます。検討するのは、どれも自分たちの言葉です。
最初の文には、簡単な問いが残ります。「『反対しない』選択肢がない」とは、証明したのでしょうか。それとも断言したのでしょうか。『自分の法』自身が「一致するのは道徳的であり、そこから外れるのは不道徳だ」と書いています。その本自身の中で、外れることは可能なのです。
第一に、ある立場に立つことが条件になる
自分も他人も目的とする立場にいる人が、一件についてそこを離れると考えます。今年の自分の評価のために、チームには隠してもかまわないと思い、数字を変え、何も言わなかった。この想定に矛盾はありません。行動論は、数字を変えたかだけでは「まだ決められない」と明記します。恐れや圧力のためかもしれないからです。本当にそのように離れたなら、「この一件について、この『そうせざるをえない』は彼にとってなくなる。それだけである……離れるのは一件ごとだ」。一つだけ両立しないことがあります。「私は人を目的とする者だ」と言いながら、「あのチームには隠してよい」と言うことです。「誰かが禁じるからではなく、その二つの文が、一人の人の上で同時には成り立たないから」。
そこで、主張を一段弱めます。取り除くのは、条件も選択肢もないという言い方です。残るのは、ある立場に立つことを条件とする「そうせざるをえない」です。それには二層あります。共通の層は主に人の扱い方で、その立場に立つ間は取り消せません。個別の層は今回何をするかで、本人の判断であり、問い返しも修正もできます。立場からは一件ずつ離れられ、その代償は本人の側に記録されます。それが記すのは、自分の法が自分に持つ効力です。チームにしたことまで、その記録で清算されるわけではありません。
代償も正確に言わなければなりません。「道具になる」「離脱は降格だ」では、身分そのものを失うように述べており、強すぎます。『第一批判』は、その働きを止めた主体について、すでにこう述べました。「自分を目的とすることが、この働きを通しては実現されなくなる。それだけである。それは規範的な目的の地位を取り消さず、誰にも、その人を単なる手段として扱う権限を与えない」。論文4は、人はそれ自体で目的だという公に引き受けた公準から、さらに直接に言います。「能力の損傷、強制された変化、他人の承認がないことは、目的の地位を取り消す根拠にならない」。この公準に立つなら、離れた人に失われるのは、その一件でその法が自分に実現されることです。その人が誰であるかではありません。この公準を受け入れない人なら、なお「降格」と言えます。それは、自分の条件と代償を伴う、別の分岐です。
モーターを取り外す
同じところで、もう一つ、力を取り除きます。枠組みは、余項には「内部崩壊を避けるため外への出口が必須で、唯一許される出口は別の15DD主体だ」と書きました。問い返しは「16DDのengine」だとも、二人が一緒に行うことは「各々の目的が出会ったあとに、強いられて生まれるやり方だ」とも。これらの文には、モーターが潜んでいます。余項が人を押し、出口が他人へ向かわせ、出会いが共同行為を押し出すのです。
『第一批判』は、認識の側ですでにこのモーターを外していました。「余項は、一つの欠けにすぎない……それ自体は何も押し動かさない」。余項は、何が欠けたかを示し、次にどこへ向かうかの手がかりもそこにあります。でも、進むか、どこを先にするかは、進む人にかかっています。二人が一緒にすることも、行動論自身の区別では「今回何をするか」であり、二人の判断です。「理由は自動で行動にはならない」。それを「強いられて出てきた」と呼べば、判断を力に置き換えます。
ただし、『第一批判』自身にも残った文があります。実践の「そうせざるをえない」を、「SAEの内在的な駆動力」と呼んだのです。第二批判は一字も直さず、読み方だけを明らかにします。ここで「駆動力」と読むのは条件です。進み続けられる条件を与えるのであって、進ませる力ではありません。『第一批判』にはそれを支える文もあります。「止められるのに続けるのでなければ、自律ではない。止められずに続くのは、ただ機械が回っているだけだ」。モーターを外すのは、歩く人まで外すことではありません。自分の法に従って進む人の、その力強さは、その人自身のものです。
第二に、唯一の公理から出た法ではない
無条件という言い方を退けても、さらに厳かな主張が残ります。実践の法は、唯一の公理から導かれるというものです。道徳律第一篇は「SAEの公理は一つ、非。本連載のすべては、それを複数のSelfの状況で具体化したものとして演繹される」と書きました。権利論も、自律と道徳律の諸定理は「すべてそこから導かれる」と言います。ここで「非」とは、「これ」と「これではない」を分ける、境界づけの動作です。
すべてがそこから出るという主張は、『第一批判』がすでに撤回しました。否定だけの最小のシステムを考えます。どの命題も反対へ返し、また元へ返す。否定は存在して否認できず、繰り返し働きもします。でも余項も、自分自身へ折り返す働きも生まず、前へ成長する系列も生みません。「非から万物は導けない」。方法論0の第二版は、その撤回を明記しました。「SAEの唯一の公理は非。ほかはすべて、各連載内の公準と定理である」。
では、道徳律の四条は何なのでしょう。四つとも同じではありません。第一条の、具体的な他人を目的として扱うことは、15DDの定義と同じです。15DDについて分析的に真であり、定義を言い直しても証拠にはなりません。他の三条は、その定義に何かを加えています。定義と読めば15DDを拡張したのであり、どこからその拡張が来たかが要ります。実質的な主張と読めば、それぞれ根拠が要る。どちらに読んでも、同じことが残ります。「非」から導かれたものではありません。「定理」の一語に二種類が入っていたのです。本書は四条を引くたび、何に当たるかを一条ずつ明らかにします。
第三に、九種類の「そうせざるをえない」
最後に解き分けるのは、混ぜて使われてきた一群の言い方です。内から外へ向かうこの表現は、既刊の枠組みだけでも少なくとも九種類あります。条件も選択肢もないもの(『自分の法』)。存在のあり方であり、仮言を明確に退けるもの(『理性の「そうせざるをえない」』)。構成条件であるもの――「Selfが15DDとして働くなら、そうせざるをえない。そうでなければ15DDとして働いていない」(道徳律)。ある立場を条件とし、一件ずつ離れられるもの(行動論。その形は、「私はこの操作を停止できる」とする衝突論から借りる)。内へ向かう義務(権利論、意味論)。構造上そうしないわけにいかず、自然に現れる方向(方法論00、内観の連載)。吟味に耐え、外からの否定に消されないもの(学習の連載)。他人の目的が、自分への制約に入るもの(文型論)。二重否定の形(総論)です。
九種類の違いは、言葉づかいだけではありません。無条件のもの、定義を条件にするもの、立場を条件にするもの。離脱を許さないもの、離れられるもの、停止できるもの。義務だと明言するもの、命令でないと明言するもの。一群の表現に九種類を載せると、ある種類の力を、ほかの種類が借りてしまえます。ある立場の内で取り消せないことが、誰も離れられない必然に変わる。ある立場について分析的に成立することが、誰に対しても重みを持つ拘束として使われる。解き分け方は、『第一批判』が「保存」を解いたときと同じです。それぞれを元の場所へ戻し、成り立つものはすべて残します。
三つを解きほどくと、実践はどこでも必然だという主張の多くが崩れ、本当の問いが現れます。ある立場を条件とし、そこから離れられ、外の保証人もいない「そうせざるをえない」が、なぜ、そこに立つ人を拘束するのか。答えの輪郭だけ先に言えます。資格は、引き受けることから来ます。他人も目的だということを自分の法の前提に採り、相手がそれに値するかを審査しない。その一歩は拒めます。境界を示すのは代償です。普遍性は、法同士の重なりと、外から読める痕跡から来ます。本書の規範的な言い方は、一文に尽きます。強制せず、代償を述べる。『第一批判』には、すでに原型がありました。「強制執行されるのではなく、違反には代償がある」。
出典と読み方
本連載は『SAE第二批判』の中国語原論文を底本に書き直した読者向け散文で、完全な論証の権威ある底本は原著です。日本語版は公開された中国語散文から独立に書き直したもので、原著の全訳ではありません。元の英語版も英語の読者に向けた独立の文章で、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。全十二篇が共通の一冊を読みます。中国語の原著を読む ↗ · DOI ↗