SAE第二批判 · 03 · カントとの違い
違いは「内側」にあるのではない――カントと向き合う
カントは普遍的で、SAEは内的だ、では不正確です。カントも倫理の立法は外から来ないとしました。分かれるのは普遍法へ進む一歩と法権上の義務です。他人への徳の義務では半ば接しますが、理性の事実も要請も、本書は立てません。
わかりやすいが、不正確な説明
第二批判は、カントの名と問い方を借りています。それだけに、比較は慎重にしなければなりません。カントの道徳律は普遍的で、SAEの法は内的だ。わかりやすい言い方ですが、正確ではありません。カントも、倫理的な立法は外から来られないと考えています。「内側」かどうかは、違いではないのです。
本書が本当の分かれ目とするのは二か所です。別に一か所、半ば接するところもあります。さらに二つを並べて比べます。違いと言うより比較なのは、双方が出発点に何を置くか、そして、そうであることと、そうあるべきことの間の隙間を、それぞれどう扱うかです。
この比較は大切です。自律、義務、普遍といったカントの言葉を携えてSAEを読む人は、カントの意味で聞くからです。同じ語が違う仕事をするところでは、そのつど説明します。SAEがカントの誤りを直したとも、カントがSAEを予告したとも言いません。
第一の違い――普遍法へ進む一歩
『自分の法』は、結びでカントを批判しました。autonomyで言っていたのは自分に法を立てることだったのに、「立てたあと、それを普遍化した……自律が、また他律へ戻った」と。『第一批判』は、あとでもっと正確に述べます。カントにとって「普遍法の形式は、自分に法を立てたあとに付け加える検査ではなく、自律の構成条件である」。それを通らない格率は、そもそも自律から出たものではありません。
SAEが変えるのは、ここです。「この検査の排他的な効力を取り去ることは、内容を広げるだけでなく、自律の再定義である。内容の異なる自分の法――『構築しない』も一つの法である――を誤りとはせず、それぞれの条件と代償を伴う別の分岐として記録する」。『第一批判』は老子を挙げました。「老子も形式としてはここに達する。自ら法を立て、諸目的と相互に認め合える。しかし、その法は構築しないことだ」。分岐の欄に載る文は、「道を為しては日々に損じ、無為にして鑿たず」です。カントの普遍立法も同じです。この本では一つの分岐であって、病の事例ではありません。
行動論も、カントからどこで離れるかを一つずつ記しました。とくに重要なのは三点です。出所については、「この連載の『自分の法』が管轄するのは本人だけ」であり、「『自分の法』がカントの自律そのものだと言えば、誤る」。文の形では、その「そうせざるをえない」は「仮言命法ではなく」、「定言命法でもない」。判断力については、判断力に規則を与えず、普遍化の検査で格率を審査することもしません。
第二、第三の違い――法権と他人
第二は法権上の義務です。カントは、法権を強制する権限と結びつけます。SAEは、その義務を取り込みません。権利論は「一つひとつの権利には義務が対応する」という古い決まりを削り、一文だけを残しました。「SAEの唯一の義務は、内へ向かう」。人が他人に対して負う義務は、ここにはありません。
第三は、他人に対する徳の義務です。ここでは半ば接します。カントは他人の幸福を、義務でもある目的として立てました。権利論は「拘束は内へ向かい、その内に他人を含む」と述べます。接するのはここまでです。拘束は自分の立法から来て、内容に他人がいる。ただし他人は、私を強制できません。
その先では分かれます。カントのこの義務は、あらゆる理性的存在者に有効です。他人を尊敬する義務からは、各人が他人に尊敬を要求できる、正当な要求も生まれます。SAEは両方とも取り込みません。義務は自分の法に向かう一つだけです。その法の内容には初めから他人がいても、他人がそれを根拠に私へ要求することはできません。
事実なのか、公準なのか
出発点も比べます。カントは第二批判で、道徳法則の意識を理性の事実とし、演繹を求めません。この本は、同じ場所に事実を立てません。「人はそれ自体で目的である」は、論文4では公に引き受ける公準です。拒めば、別の分岐ができます。そこから導くのは、「明示した対象範囲の内では、能力や承認の評価によって、人の目的としての地位に証書を出さない」ことです。論文4自身も、「これは本文自身がどうするかを述べるのであって、人がどんな態度を取るべきかの主張ではない」と、わざわざ断っています。
ところが枠組みの中には、「他人は目的だ」を述べる仕方が六つあります。事実(価値論。他人は「私が承認する前から」目的だった)。公準(『第一批判』)。定義(総論は「私だけが目的なのではない」で15DDを定義する)。選択(行動論。その「そうせざるをえない」は「ある人自身の選択として」ある)。構造上、そうしないわけにいかないこと(方法論00)。自然に現れる方向(内観の連載)。カント側にも二語あります。『道徳形而上学の基礎づけ』は、自分から他人へ進むところで「ここでは公準として提出する」と記し、根拠を最後の節へ残します。第二批判は道徳法則の意識を事実と呼びます。語面だけで、この二か所の対象と論証上の仕事を同じと見なすことはできません。
これらは同じ問いへの答えでしょうか。それとも、対象、根拠、引受けを別々に述べているのでしょうか。『第一批判』が残した一件は、16DDの立場から、方法論00の「収めきれない」から「承認すべきだ」への論証を調べるものでした。第二批判は、これを二問にします。他人が目的であることが事実なら、その事実は、ある人が15DDに入る理由になるか。公準なら、誰が引き受けるか。両方とも、効力を扱う第十一篇で答えます。
要請を、私たちは立てない
もう一つの比較は、あるべきことと実際との隙間です。カントはここに要請を立てます。意志が道徳法則と完全に合致するのが神聖性ですが、有限な人には、どの時点でも達成できません。そこで無限の進歩が必要になり、そのために魂の不死を要請します。『第一批判』はここで止まり、非対称を明記しました。「余項を残すのは、近づいたことを、隙間が閉じたこととして登録するのを拒むためにほかならない」。
実践の側で、第二批判はこう述べます。いつでも、すべての件で、15DDに合致できる人はいない。これは現実の記述であり、何かの公準から導くのではありません。反対者もいます。常に15DDに合致していると自称する人です。認識の側の完備論者と同じ形で、内側だけから自分の成功を確証することはできません。『第一批判』は「余項は消去できない」を公準とし、ここはその実践側の対応物です。支えはそれぞれにあります。この本は、要請を立てません。
双方の払う代償は違います。本書は並べて書き、優劣をつけません。カントの法は拒む人も拘束します。そのためには、すべての理性的存在者を拘束する法と、演繹を求めず自ら確立する出発点が要ります。第二批判の法は拒む人を拘束しません。その代償は、拒む人が誤っていると言えないことです。第十二篇で扱います。「二つの代償は、それぞれ自分の側に記される」。
出典と読み方
本連載は『SAE第二批判』の中国語原論文を底本に書き直した読者向け散文で、完全な論証の権威ある底本は原著です。日本語版は公開された中国語散文から独立に書き直したもので、原著の全訳ではありません。元の英語版も英語の読者に向けた独立の文章で、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。全十二篇が共通の一冊を読みます。中国語の原著を読む ↗ · DOI ↗