一 スペインから雲南へ
およそ一千二百万年前から九百万年前までのことだ。今の地名でいえば、スペインから東へ進み、雲南まで歩いていくと、その道筋のあちこちに類人猿がいた。バルセロナの近くにも、ハンガリー北部にも、トルコの首都アンカラの近くにも、パキスタン北部の古い川筋に沿う森にもいた。そのまま東へ行った雲南にもいた。南へ折れてアフリカに入れば、ケニアにもいた。
そのころ類人猿の分布は、北はドイツ南部やハンガリー北部にまで及んでいた。ほぼ北緯四十八度。今のミュンヘンやウィーンと同じ緯度である。
今日の地図は違う。ここで主に見るのはヒト以外の類人猿だ。東南アジアのテナガザル、ボルネオとスマトラのオランウータン、赤道アフリカのゴリラとチンパンジー。主に森林に依存するが、山地林や林と草地の入り交じる環境にも暮らし、すべてが熱帯雨林にいるわけではない。分類上はヒトも類人猿だが、その枝の展開は本篇の中心から外しておく。
あまり知られていない逆転が、もう一つある。中新世の大半を通じて、旧世界にはサルより類人猿のほうが多かった。今はちょうど逆で、サルの種数は類人猿の何倍にもなる。 これは主に前期・中期中新世の既知の化石が示す分類群の豊かさであり、当時の個体数の調査ではない。
一千万年前、ヨーロッパは地球上でも類人猿の化石がとりわけ密に見つかる場所の一つだった。ところが今、そこには野生の類人猿が一頭もいない。 今回取り上げるのは、この二つの時点のあいだに何が起きたのか、という話だ。
まず、二つの言葉を押さえておこう。類人猿とサルは、どこで分けるのか。いちばん簡単なのは尾だ。類人猿には尾がなく、サルにはある。中国語ではテナガザルを「長臂猿」、マカクを「獼猴」と呼ぶ。この点では、ふだん使う「猿」と「猴」の呼び分けが、そのまま分類に合っている。
ただし、尾はめったに化石にならない。化石を前にしたとき、もっとよく使うのは歯である。類人猿の下あごの臼歯には五つの咬頭があり、そのあいだの溝が「Y」の字を描く。サルの臼歯には、横向きの稜が二本並ぶ。だから下あごの臼歯が一個見つかっただけでも、多くの場合、類人猿かサルかを見分けられる。 二本の稜という比較は旧世界ザルの典型的な臼歯についてのものだ。一歯だけで、すべてのサルと類人猿を誤りなく区別できるわけではない。
もう一つは「属」だ。ライオン、トラ、ヒョウはそれぞれ別の種だが、同じ属に入る。属は種より一つ上の分類階級で、近縁な種をいくつかまとめたものだ。今回は「何属、何種」という言い方が何度も出てくる。この二段階を数えている。
時間の目盛りも、先に置いておこう。中新世は地質年代の一区分で、約二千三百万年前から約五百三十万年前まで、およそ一千八百万年に及ぶ。ふつうはさらに前期、中期、後期の三つに分ける。
中新世が始まった時点で、恐竜の絶滅からは、すでに四千三百万年が過ぎていた。一千八百万年とは、どれほどの長さだろう。中新世の終わりから今日までが五百万年余り。中新世そのものは、その三倍以上も長い。
中新世に類人猿がたどった道筋を、まず四つの文で大まかに描いてみよう。そのあとで、一つずつ拡大して見ていく。
約二千万年前、東アフリカにはすでに何種類もの類人猿がいた。約一千六百万年前、類人猿はユーラシア大陸に入った。約一千二百万年前から一千万年前には、スペインから雲南まで、あちこちにいた。そして約一千万年前から、地域ごとに分布を狭めていき、約六百万年前になると、ユーラシアで類人猿の化石が見つかる場所はわずかしか残らず、最後まで記録が続く数か所は雲南にあった。 ここで追うのは幾つかの中新世化石系統であり、ユーラシアの類人猿すべての終わりではない。オランウータンとテナガザルのその後を見ても、その読み方は成り立たない。
二〇二三年、確実とみなせる中新世の類人猿を一つずつ数えた研究がある。合計は三十五属、五十六種。ライオンもトラもヒョウも、合わせて一属にすぎない。ここには、その属が三十五ある。別の物差しを置くなら、今の世界のネコ科は、イエネコからトラまで全部合わせても十数属だ。
この名簿は、今も書き換わっている。二〇二三年以降、ドイツ、トルコ、エジプトで、それぞれ新しい属が一つ命名された。一方、属ごと名簿から外されたものもある。名前がどう加わり、どう消えていくのかは、第五節で見ていく。
なぜ、この時代をわざわざ取り上げるのか。このシリーズで、「いったん繁栄し、そのあと大幅に削られた」ことが、もっともはっきり見える例だからだ。第十四篇のペルム紀末も、第十八篇の白亜紀末も、地質学的にはごく短いあいだに、多くの生物群がいっせいに消えた。
中新世の類人猿に、そうした出来事は起きなかった。天体の衝突も、一度に集中した大噴火もない。数百万年をかけ、ある地域から次の地域へと、分布が縮んでいった。
しかもこの時代は、現在からそれほど遠くない。いくつかの地域には、十分に密な記録もある。地域ごとに、どう範囲を狭めていったのかが見えるほどに。
第二十篇では、恐竜がいなくなったあとの哺乳類の放散を取り上げ、「空いた場所」は次に埋められたのか、と問うた。中新世の類人猿は、その大きな物語のずっとあとに来る、小さな一章だ。ただし、こちらには後半がある。放散のあとに、目に見える刈り込みが続く。
「刈り込み」は、もともと庭師の言葉だ。一本の木いっぱいに枝が茂る。切られた枝は地面に落ち、何年もたたないうちに、それがどこから伸びていたのか、誰も覚えていなくなる。今回やってみたいのは、地面に落ちた枝を一本ずつ拾い上げ、もとはどこに生え、どう切り落とされたのかを見ることだ。
ここからは、時間に沿って進もう。最初の類人猿はどんな姿だったのか。どう広がり、最盛期には何通りの生き方があったのか。それから、刈り込みがどう進んだのかを見て、最後に問う。刈り落とされたものは、どんな埋めようのない空白を残したのか。
二 最初の類人猿たち
ヴィクトリア湖は、アフリカ最大の湖だ。その東側、ケニアに近いほうに二つの島がある。ルシンガ島と、ムファンガノ島である。
森に暮らす動物は、そもそも化石になりにくい。湿った林床に死骸が落ちると、やや酸性の土の中で骨はすぐに朽ちてしまう。川の水が運ぶ土砂や湖の泥、火山灰などに、すばやく埋められでもしないかぎり。ルシンガは、たまたまその条件に恵まれた場所だった。約二千万年前から一千七百万年前、近くの火山からの噴出物と湖畔の堆積物が、大量の骨をすばやく封じ込めた。
そのおかげで、この二つの島には初期の類人猿の化石が膨大に残った。頭骨も、歯も、胴体や四肢の骨もある。どれくらい多いのか。二〇二五年になっても、犬歯、あごの骨、頭骨を一点ずつ調べ直し、どの種のものか振り分け直せるほどだ。
一九四〇年代の終わり、ルシンガでほぼ完全な類人猿の頭骨が見つかった。数本の歯とあごのかけらだけではなく、中新世の類人猿の顔全体を、人が初めてはっきり見ることのできた標本だった。
この化石群でもっとも数が多いのは、エケンボという類人猿だ。長いあいだ、もっと有名な別の属名の下に置かれていた。プロコンスルである。二十世紀の大半を通じて、この古い属名は、ほとんど「中新世前期の類人猿」の代名詞だった。二〇一五年、分類上の特徴が見直され、ルシンガの標本の大半がそこから移された。エケンボ属が新設され、もとの属名が指す範囲は一気に狭くなった。
尾がない点では、今の類人猿と同じだ。だが、尾以外の体はずいぶん違う。腰は長く、よく動く。胸郭は幅が狭く、前後に深い。肩にも手首にも手にも、ぶら下がるための特別なつくりは見られない。
骨を組み合わせて浮かぶのは、枝の上を歩く動物だ。四本の手足を枝に置き、手のひらを樹皮につけ、一歩ずつ進む。体はおおむね水平である。今でも、多くのサルがこうして歩く。
初期の類人猿には尾がなかった。だが、木にぶら下がってはいなかった。 尾がないことと、枝の下にぶら下がって渡ることは、別の話なのだ。
これは大事な点だ。今、「類人猿」と聞いて思い浮かべるのは、たいていあの姿だからである。長い腕、起こした胴体、枝の下にぶら下がる体。だが、その全部が「尾がないこと」と一緒に現れたわけではない。この先で見るように、それぞれが別々に現れ、その順番も組み合わせも、類人猿によって違っていた。
ここで、とくに役立つ物差しが腰の長さだ。サルの腰椎は、たいてい六個か七個。今の大型類人猿には、三個か四個しかない。腰が短いと胴体が安定し、体を起こして登ったり、ぶら下がったりするのに向く。腰が長いと胴体を曲げ伸ばしでき、走るときにはばねのように縮んでは伸びる。枝の上を四足で走るのに向いている。
だから二千万年前のルシンガに戻れたとしても、木にぶら下がって揺れ動く類人猿の群れを見ることにはならない。見えるのは、太い枝の上を足早に歩く動物たちだ。遠目にはサルに似ている。近づいて初めて、尾が一本足りないことに気づく。
約一千五百万年前のケニア北部、ナチョラには、ほぼ完全な骨格が残されていた。おとなのオスで、日本の調査隊が発掘した。のちにナチョラピテクスと名づけられた類人猿である。ほぼ完全な骨格は、どれほど貴重なのか。中新世の三十数属のうち、これほどの骨格を組み上げられるものは、指折り数えるほどしかない。
腰椎はおよそ六個。腰は長く、多くの関節は、なお枝の上を四足で歩くのに適している。ところが、肩と肘と手には、握る力と上肢の動きを明らかに強める変化がある。長い腰に、いっそうよくつかめる両手が組み合わさっている。
ナチョラピテクスは、作りかけの体ではない。 それ自体で一つの組み合わせをなしており、今生きている動物には、その組み合わせに当たるものがいない。現生の動物だけを手がかりにしていたら、こんな体を思いつくことは誰にもできない。
ナチョラピテクスより、さらに二百万年ほど前。ケニア北部には、ほかの類人猿もいた。トゥルカナ湖の西岸では、頭骨がかなり完全に残ったものが見つかっている。別のものでは、頭骨の顔面部がかなりよく残り、歯のエナメル質が厚かった。エナメル質の薄い初期の類人猿とは、おそらく食べ方が違っていた。
中新世前期のアフリカには、こうした類人猿が少なくとも十属ほど、十八種から二十一種いた。大半は東アフリカだが、北はエジプトにもいた。ウガンダのモロトでは、約二千万年前の腰椎も一つ見つかっている。これを、ごく早い時期に「体を起こした」しるしと読む見方があった。同時代の腰の長い類人猿よりも、胴体を起こして暮らす類人猿に似た形だからだ。この読み方が正しければ、「体を起こす」ということは、最初期の類人猿たちのあいだで、すでに一度起きていたことになる。
これは、まぎれもない放散だった。数百万年のあいだに、同じ大陸で、大きさも食べ方も体のつくりも違う類人猿が、次々と現れた。
第二十篇では、扇のたとえを使った。扇の要が、共通の出発点に当たる。扇骨が一本ずつ開き、それぞれ違う方向へ伸びていく。中新世前期のアフリカで、類人猿の扇はそんなふうに開いた。しかも、かなり大きく。
ただし、ほとんどすべてはアフリカにいた。次に起きたのは、そのアフリカを出ることだった。
三 アフリカからユーラシアへ
約一千七百万年前から一千五百万年前、地球は中新世全体でもっとも暖かい時期にあった。ヨーロッパの多くの場所が、今よりずっと温暖で湿潤だった。暖かく、湿っているということは、森がもっと北へ、もっと大陸の奥へと広がれるということだ。そして類人猿は、森の動物だった。
そのころ、アフリカとユーラシアは、今のアラビア半島からトルコにかけてのあたりでつながっていた。アラビア半島を載せた地殻が北へ移動を続け、その少し前にユーラシアと接した。それまで両者を隔てていた古い海は、ここで分断された。
こうして陸の道ができた。その道を通ったのは、類人猿だけではない。多くのアフリカの哺乳類が、この前後にユーラシアへ入っている。類人猿も、この時期にアフリカを出た。
最初にユーラシアへ入った一群の化石は、約一千六百万年前の中部ヨーロッパとトルコで見つかる。おもに歯とあごの骨で、グリフォピテクスという類人猿のものだ。アラビア半島でも、ほぼ同じころの類人猿が見つかっている。残ったのは上あごと数本の歯だけだが、見つかった場所そのものが物を言う。ちょうど、この通り道に当たるのだ。
その後の数百万年、類人猿はユーラシア大陸に、かなりの速さで広がっていった。約一千六百万年前から約一千二百万年前までに、中部ヨーロッパ、トルコ、西ヨーロッパ、南アジア、中国南西部、さらに南のタイ北部へと、類人猿の記録が次々に現れる。
一部がユーラシアへ渡ったからといって、アフリカが空になったわけでもない。約一千五百万年前から一千三百万年前、ケニアのフォート・ターナンやマボコのあたりには、エナメル質のとても厚い類人猿が何種類かいた。南のナミビアからも、一種類見つかっている。中新世中期のアフリカにも、類人猿はまだ多かった。
中新世全体を通算すると、ユーラシアの類人猿は、属数でアフリカに引けを取らない。 アフリカが約十三属から十六属。ヨーロッパだけで十二属から十五属あり、そこに西アジア、南アジア、東アジア、東南アジアが加わる。これは、ふつうに抱く印象とはずいぶん違う。類人猿といえば、まず思い浮かぶのはアフリカだ。だが中新世の後半には、ユーラシア大陸そのものが、類人猿の主要な舞台の一つだった。
南アジア側では、パキスタンとインド北部のシワリク丘陵に、約一千二百七十万年前から八百五十万年前の地層がある。そこから大量の歯とあごの骨、そして重要な顔面の化石が数点見つかっている。もっとも有名なものは、顔がほぼ丸ごと残っている。ここでもっとも多い類人猿はシヴァピテクスといい、四百万年以上にわたって存続した。その分布は、いくつもの地層単位と、多くの地点にまたがる。
ヨーロッパ側で、何が起きたかをとりわけよく教えてくれるのは、バルセロナの北西にある場所だ。カン・マタという、ごみの埋立処分場がある。処分場を造るには広い範囲の地層を掘らなくてはならない。その工事で、化石産地が次から次へと姿を現した。
地層は幾重にも重なり、年代をとても細かく分けられる。同じ盆地で、数十万年のあいだに何が変わったのかまで見える。古生物学では、これはぜいたくなことだ。たいていの場所では、数十万年分の出来事を一つの層に押し込めて扱うしかない。
その一か所から、約一千二百万年前の類人猿が見つかった。同じ個体の骨が八十点余り。顔、手首、手、骨盤、脊椎、肋骨がある。一つの化石で顔も胴体も手もそろうことは、中新世の類人猿ではめったにない。
同じ盆地からは、時期を前後して、ほかにも何種類もの類人猿が見つかっている。約一千百九十万年前のものは顔がとても短く、エナメル質が厚い。約一千万年前には、また別のものがいた。ヨーロッパに類人猿が多かったのは、どれか一属が格別に長生きしたからではない。隣り合う時代で、次の属、その次の属へと交代していたからだ。
骨から類人猿の動き方を読むには、いくつかの関節が鍵になる。肩甲骨が背中にあるのか、体の脇にあるのかで、腕を頭より上に上げられるかどうかが決まる。
手首の小指側のつながり方で、手首をどれほど回せるかが決まる。指の骨が曲がっているかどうかで、枝に長く手を引っかけていられるかが決まる。腰椎がいくつあるかで、胴体がばねになるのか、柱になるのかが決まる。
カン・マタの一頭に戻ろう。ピエロラピテクスという類人猿だ。その骨は、かなり意外なことを語っていた。
まず胴体を見る。胸郭は狭くて深いのではなく、幅広くて浅い。肩甲骨は体の脇から背中へ移り、腕を頭上に上げられる。鎖骨は比較的長い。手首の小指側の関節も変わり、より大きく回る。腰は短く、動きにくくなっていた。体を起こして、上へ登れる動物である。
次に手を見る。指は比較的短く、あまり曲がっていない。全身の重みを枝に預け、手から手へとつかみ替えながら渡っていくための手ではない。
胴体は起きている。だが、手はぶら下がるための手ではない。 類人猿の体というと、一揃いの特徴が思い浮かびがちだ。起こした胴体、長く曲がった指、大きく動く肩と手首。ひとまとめに手に入れたように見えるその組み合わせを、ピエロラピテクスはばらして見せた。それぞれは別々に現れうる。順番も一つではなく、組み合わせも一通りではない。
胴を起こす姿勢は、類人猿の歴史で何度か進化したのかもしれない。系統樹は近縁関係を示す家系図であり、多くの復元では直立した中新世の類人猿が別々の枝に置かれる。ただし起源の回数は、化石の位置と祖先形質の復元によって変わる。どんな樹でも必ず二回以上になる、とまでは言えない。
もっと分散させて置くなら、三度、四度にもなる。第五節では、さらに極端な例を取り上げる。そもそも類人猿ではない動物が、類人猿に似た肘と手首を、独自に獲得しているのだ。
同じことを、いくつもの系統がそれぞれやっていた。垂直に起こした胴体と、ぶら下がるための手は、一緒に来たのでも、一度だけ来たのでもなかった。
四 同じ森にいた二種類の類人猿
約一千百六十万年前、ドイツ南部のハンマーシュミーデという場所では、一つの森に少なくとも二種類の類人猿が暮らしていた。今のハンマーシュミーデは粘土の採掘場だ。カン・マタと同じように、土を掘る場所から類人猿が掘り出された。
大きいほうはダヌヴィウスという。すでに複数の個体が見つかり、肘、手首、手、股関節、膝、足、脊椎が残っている。体重は十数キログラムから三十数キログラムと推定される。小さいほうはブロニウス。二〇二四年に命名されたばかりで、標本は数本の歯と膝の骨が一つだけだ。体重は約十キログラムとみられ、小型犬ほどの大きさだった。
二種類の違いが、もっとも目を引くのは歯だ。ダヌヴィウスのエナメル質は、ブロニウスの約二倍の厚さがある。
エナメル質の厚さは、歯がどれほどの摩耗に耐えられるかを示す。厚ければ、硬いものを扱え、長時間すりつぶすことにも耐え、食べ物に砂粒が混じっていても傷みにくい。
薄いエナメル質は、葉を切り裂ける鋭い咬頭と組み合わさっていることが多い。あるいは、柔らかい食べ物に対応している。それ自体が献立表なのではない。その歯が、何に耐えられるようできていたかを示すだけだ。
つまり、同じ森の同じ時代に暮らしていても、この二種類は、おそらく同じものを食べていたわけではない。これほど歯の違う類人猿が二種類とも暮らせたのなら、その森の食べ物には、使い分けられるだけの幅があったということだ。
逆に考えてみよう。片方しか掘り出されていなければ、その森の類人猿の食べ方は一通りだったと、私たちは思ったかもしれない。薄いエナメル質の歯が数本加わるだけで、森全体の見え方が変わる。
歯の形からは、もっと細かいこともわかる。葉は厄介な食べ物だ。繊維が多く、栄養は少ない。細かく切らなければ消化しにくい。高く連なった剪断稜は、小さな刃の列に似ていて、丈夫な葉を切るのにちょうどいい。
低く丸い咬頭に、広くくぼんだ咬合面が組み合わされば、果実を扱うのに向く。大きくてエナメル質の厚い奥歯は、硬い殻を砕くのに向く。歯がどんな形をしているかで、その持ち主が一生を通じて何を食べる体だったのかが、おおよそわかる。
歯の表面には、顕微鏡でなければ見えない、ごく細かな傷もある。こちらに記録されるのは、その類人猿が死ぬ前の数日から数週間に、実際に何をかんだかだ。硬い種子や木の実は小さなくぼみを、かみ切りにくい葉は細長い引っかき傷を残しやすい。
おもしろいのは、二つが食い違うこともある点だ。歯の形が語るのは、何を食べるつくりだったか。傷が語るのは、最後の数週間に、実際に何を食べたかである。 ヨーロッパの中新世類人猿の歯の傷を見ると、柔らかい果実を中心に食べたもの、葉を中心に食べたもの、種子や硬いものを中心に食べたものと、さまざまな食べ方があったことがわかる。
エナメル質の化学成分からは、食べた植物を大きな類型に分けることもできる。樹木や草本の大半が属する側なのか、それとも、のちに熱帯の開けた土地を覆うようになった、いっそう暑さと乾燥に強い草の側なのか。調べられた中新世の類人猿は、ほぼすべて前者を食べていた。
同じころ、少し西へ目を向けると、別の生き方がある。スペインのカン・リョバテレスとカン・フェウからは、約一千万年前のヒスパノピテクスという類人猿が見つかっている。頭骨も、部分的な骨格もある。カン・フェウの個体はおとなのメスで、体重は約二十二キログラムから二十五キログラムだった。
指は長く曲がり、手は力強くものをつかめる。肩も肘も手首も大きく動き、胴体も起きている。枝の下にぶら下がる利点として、よく挙げられることがある。体が多少重くても、細い枝の先まで移動して、いちばん外側の果実に手を届かせられるのだ。細い枝の上では安定して立てなくても、下にぶら下がれば、何本もの枝に重みを分けられる。
二〇一二年、その部分骨格を調べた研究は、ヒスパノピテクスを、ぶら下がりへの適応が疑いなく認められる、当時知られていた最古級の類人猿の一つとした。ただし、その手には、枝の上に手をついて歩くための特徴も残っていた。この一頭でさえ、両方の技を持っていたのだ。
東へ進んでハンガリー北部のルダバーニャに行くと、同じ時期の類人猿の頭骨がいくつも見つかっている。胴体、骨盤、四肢の骨もある。スペインの類人猿にとても近く、かつては同じ属にまとめられたほどだが、近年は別属に分ける分析のほうが多くなっている。
さらに東の、ギリシャ北部マケドニア地方には、大型の類人猿がいた。エナメル質はきわめて厚く、あごは頑丈で、推定体重は数十キログラム。より硬く、季節によって得られ方の変わる食べ物に対応していたと解釈されている。地上で過ごす時間が長かったとする見方もあるが、その判断はおもに、歯と体格、そして化石が見つかった環境に基づく。
足首の骨が一つあるだけでも、物は語れる。二〇二五年、カン・マタの距骨が再記載された。その骨が示す木の上での動き方は、今のどの類人猿の型にも収まらなかった。最盛期のヨーロッパの類人猿には、手や胴体だけでなく、足首にさえ、現生の対応物がない。
最盛期の類人猿たちを並べると、その多様さの幅が見えてくる。体重は約十キログラムから数十キログラム。大きいものは七、八十キログラムに達した可能性がある。
食べるものは、柔らかい果実から葉、種子、硬いものまで。移動のしかたも、枝の上を四足で歩くもの、枝の下にぶら下がって進むもの、その両方ができるものがいた。地面によく降りていたものも、いたかもしれない。一種類の類人猿にいくつかの変形があったのではない。互いに異なる、いくつもの生き方が、同じ時代に並び立っていたのだ。
五 その数を、分類学はどれだけ作ったか
いちばん古い名前から始めよう。中新世の類人猿で、最初に命名されたのはドリオピテクスだ。一八五六年、フランス南部のサン=ゴーダンスで見つかった。百年余りのあいだ、この属名には、ある時期には各地の標本がいくつも入れられ、のちには少しずつ外された。境界は、何度も広がったり狭まったりしている。
今では、ヨーロッパの小さな一群だけを指す。ただ、その歯は教科書に名前を残した。第一節で述べた、五つの咬頭とY字の溝を持つ下あごの臼歯は、「ドリオピテクス型」と呼ばれる。
次は、名前が消えた話だ。
かつて教科書の多くのページを占めた、ラマピテクスという属がある。あごの骨と歯をもとに設けられ、長いあいだ独立した属とされてきた。半世紀近く、教科書の中に居場所があった。
その後、シワリク丘陵で、もっと完全なシヴァピテクスの顔面化石が見つかった。一九八二年、両者を系統的に比較した研究は、二つの形は同じ属の形態の幅に収まる、と結論づけた。命名の先後に関する規則に従い、ラマピテクスという名前はシヴァピテクスに統合された。
それまで二つの型を分けていた違いのかなりの部分は、オスとメスの違いだった可能性が高い。こうして一つの属が消えた。骨は一本も減らなかった。
もっと大きな組み替えもある。2015年、プリオバテスは肘や手首の形などから初期の類人猿と解釈された。2024年の頭骨・歯の分析はプリオピテクス類への配置を支持し、著者らは狭鼻類の幹群と、関節の収斂進化という解釈を選んだ。ただし頭骨以外の骨格形質を加えると樹は変わった。すべての解剖学的証拠が一致した判決ではない。
中国語名には今も「猿」があるのに、分類上の位置は丸ごと動きうる。二属を一属にまとめる以上の変更であり、第三節の独立した反復を考える有力な候補となる。問題は名前だけではない。似ているところのどれが近縁関係を、どれが収斂を示すのか、骨格の各部分を合わせて判断する必要がある。
逆向きの例もある。トルコの約八百七十万年前の化石群は、もともとギリシャのあの大型類人猿と同じ属に入れられていた。二〇二三年、新たな頭骨の顔面部の標本をもとに、それらを切り分け、アナドルヴィウスという新属を立てた研究がある。それまでいなかった動物を発見したのではない。新しい標本が、属と属のあいだの境界を変えたのである。
変わるのが属ではなく、種という場合もある。類人猿には、オスとメスで大きく違うものが多い。オスの犬歯は、メスよりひときわ大きいことがある。ルシンガのエケンボは、これまで小型と大型の二種に分けられてきた。
二〇二五年、大量の標本を振り分け直したところ、二種の体の大きさは大幅に重なっていることがわかった。かつての「小さい種と大きい種」という分け方には、オスとメスの犬歯の大きさの違いを、種の違いと見なしていた部分がかなりあった。二種という区分は残ったが、大量の標本が所属を変えた。
こうした話の背後には、同じ事情がある。中新世の類人猿は、およそ半数以上の属が、おもに歯、あごの骨、顔面の断片をもとに設けられている。まとまった頭骨や、顔面の大きな部分が残るのは、九属から十二属ほど。同じ個体に属する部分骨格があり、胴体と四肢を一緒に論じられるのは、六属から八属しかない。
歯の比重がこれほど大きいのは、エナメル質が脊椎動物の体でもっとも硬い組織だからだ。骨は朽ち、砕け、水に流されて散り散りになる。それでも歯は残ることが多い。だから中新世の類人猿は、まず歯として知られることになった。
もちろん、歯から属や種を分けることはできる。咬頭の数、歯冠の比率、エナメル質の厚さ、歯根の形。どれも情報を持っている。ただ、同じ種の中でも、オスとメス、年老いた個体と若い個体で、歯はかなり違う。
雲南の禄豊からは、類人猿の歯が数千本出ている。標本数は十分に思える。だが、それが何種を表すのか、それとも一つの種のオスとメスなのかは、何十年も見直され続けてきた。「歯の寸法のばらつきから種数を数える」方法を、シミュレーションで検証した研究もある。結論は、この手だけでは見分けられない、というものだった。
体重の推定値さえ、その多くは歯の大きさから計算されている。近年は、類人猿の内耳を比べる研究もある。耳の奥にある何本かの管の形は、歯や骨とは別系統の証拠になり、近縁な属どうしを区別するために、すでに使われている。
2023年の一覧は固定されていない。ドイツのブルオニウス、トルコのアナドルウィウスに加え、2026年には約1800万年前のエジプトからマスリピテクスが報告された。プリオバテスの位置も議論中だ。分類上の選択次第では36、37属、57、58種ほどになるが、これは変動を示す概算であって、正式に更新された世界の総目録ではない。
ここでようやく、ごく自然に浮かぶ問いに答えられる。中新世の類人猿は、今よりどれくらい多かったのか。
今生きている類人猿は、テナガザルが約四属二十種ほど、オランウータンが一属三種、ゴリラが一属二種、チンパンジーが一属二種。合わせて七属、約二十七種である。三十五属から三十七属を七属と比べれば、五倍余り。五十六種から五十八種を約二十七種と比べれば、二倍を少し超えるだけだ。
二つの倍率がこれほど違う理由の一つは、今のテナガザルが二十種ほどに分けられ、現生の種数を押し上げていることだ。だが、もっと重要な理由は、分子と分母そのものにある。中新世側の数字は、約一千八百万年のあいだに、前後して現れたものを全部数えた値だ。今の側は、この瞬間に生きているものの数である。
たとえるなら、ある学校の十八年分の卒業生名簿と、今年の在校生名簿を比べるようなものだ。卒業生名簿のほうが多いのは当然だが、そこに載る全員が、同時に同じ教室に座っていたわけではない。
だから、確かに言えるのはこういうことだ。中新世全体で現れた類人猿を通算すると、属の段階での多様化は、現在をはるかに上回る。これは揺るがない。だが、ある一時点で同時に生きていた類人猿が、今よりどれほど多かったかとなると、その差はずっと小さく、確かさもずっと弱い。今ある化石と年代の精度では、「五倍」「十倍」といった数字は支えられない。
この先、属数や種数というときは、いずれも累計を指す。中新世の類人猿が「今の五倍いた」というのは、約一千八百万年分の全員と、今日一日だけの出席簿を比べているのだ。
この数え方で中新世を前期、中期、後期に区切り、それぞれを数えると、前期が約十属から十三属、中期が約十五属から十八属、後期が約十八属から二十二属となる。一つの属が二つの時期にまたがれば、両方で一回ずつ数える。だから、この数字は全体の形を見るには向くが、足し算には向かない。形としては右上がりで、後期がもっとも多い。そしてその後期こそ、刈り込みが始まった時期でもある。
六 刈り込み
約一千四百七十万年前から一千三百八十万年前、地球全体が大きく寒冷化した。その記録は、深海の堆積物にある。この時期、南極の氷床は大きく広がり、海流もそれに伴って組み替わった。
中新世でもっとも暖かかった時期は、ここで終わる。その後の気候は、一直線に冷え続けたわけではない。より寒冷な状態を基調に、地球の軌道の周期に合わせて、行きつ戻りつしていた。
もっとも素直な推論は、こうだ。寒くなり、森が縮み、森に頼る類人猿も減った。このつながりの一つひとつには根拠がある。類人猿の多くは樹上の動物で、移動のしかたも手も胴体も、木の枝で暮らすためのものだった。森を離れては生きられない。
しかも、のちに類人猿が姿を消すときには、ほかの動物も消えることが多かった。同じころ、ヨーロッパではほかの多くの森林動物も減っている。さらにあとには、南アジアで草地が広がる時期が、その地の類人猿の退場する時期と前後している。この説明は、食性にも、ほかの動物にも、その後の植生にも合う。思いつきで言っているわけではない。
ほころびは、時期にある。この全球的な大寒冷化のあとも、ヨーロッパの類人猿は四、五百万年にわたって繁栄した。 西ヨーロッパと中部ヨーロッパで類人猿がもっとも多かったのは、まさに約一千二百五十万年前から一千万年前。大寒冷化の前ではなく、あとだった。
だから、「寒くなったら類人猿が消えた」という話では、年代が合わない。寒冷化は背景であって、スイッチではなかった。
たとえば、大干ばつがあったあとも、ある老舗は何年も営業を続け、それからようやく閉店したとする。干ばつは、もちろん関係するだろう。だが、閉店したその年に何が起きたのかは、別に探さなくてはならない。
そのころは、大陸そのものも動いていた。チベット高原が隆起し、アジアのモンスーンが強まっていた。中部ヨーロッパからカスピ海まで続いていた内海は縮小し、東地中海も変わり、ヨーロッパと西アジアの水蒸気の流れや陸の通り道を変えていた。東アフリカでは大地溝帯の高まりが増し、その両側に雨陰ができていた。こうした変化は、それぞれの土地の気候を、それぞれ異なる時期に変えた。
本当の刈り込みが来るのは、ずっとあとだ。約九百七十五万年前、西ヨーロッパの哺乳類の多様性が、ごく短いあいだに目に見えて低下した。絶滅率が上がり、動物相全体が組み替わった。古脊椎動物学では、この時期をヴァレシアン危機と呼ぶ。「ヴァレシアン」という名前は、バルセロナ近郊のあの盆地に由来する。
ヨーロッパの類人猿の大半は、この組み替えの前後に姿を消した。ヒスパノピテクスが属していた森林動物相も、この時期に大きく変わる。約九百五十万年前までには、西ヨーロッパの中心的な地域で、類人猿はほぼ見られなくなっていた。
西ヨーロッパでこれほど正確に時期を絞れるのは、地層の年代が細かくわかるからだ。岩石は、堆積するときに、そのときの地磁気の向きを記録する。地磁気の南北は、長い歴史の中で何度も逆転してきた。一回ごとの逆転が、世界中で照らし合わせられる時間の目盛りになる。
バルセロナ近郊のあの盆地も、こうして一層ずつ照合されている。そのため西ヨーロッパでの消失は、九百七十五万年前から九百五十万年前という、二十数万年の幅に絞り込める。
ここに、意外な点がある。
ネズミやトガリネズミは、種類ごとに好む湿度が違う。そのため、ある地層からどんな小型哺乳類が出るかを見れば、当時どれくらい湿潤だったかを、おおよそ読める。バルセロナ近郊のあの盆地でも、小型哺乳類から当時の年間降水量を逆算した研究がある。結果を見ると、ヴァレシアン危機の前後に、動物相の転換に匹敵するような急激な降水量の落ち込みはなかった。
動物相の顔ぶれは入れ替わった。なのに、その土地に一年で降る雨は、急には減っていない。では、何が変わったのか。
「森林の縮小」というと、地図から森が大きく消し取られる光景を思い描きがちだ。だが、実際によく起き、しかも確かめやすい変化には、別のものがある。枝葉のつながった樹冠が減る。森が小さな区画に分かれ、そのあいだに開けた土地が挟まる。一年のうち、乾季と雨季の差が大きくなる。
ヨーロッパの中新世後期には、こうした変化の中で、季節の差が大きくなっていた。どの変化がどれほど響くかは、類人猿によってまるで違う。
熟した柔らかい果実に頼り、しかも切れ目なく続く樹冠を必要とする類人猿にとって、もっとも怖いのは季節がはっきりすることだ。果実には実る季節がある。季節の差が小さい森なら、一年じゅう、どれかの木が実をつけている。
季節がはっきりすると、多くの木の結実期が同じころに集中し、残りの月には食べ物が途切れる。年間の雨量は変わらなくても、雨の降る月が変われば、実のなる月も変わる。一年でもっとも食べ物の乏しい時期が、長く、しのぎにくくなるのだ。
類人猿は、年平均の中で生きているわけではない。一か月、一か月を生きている。柔らかい果実に頼る類人猿にとって、大切なのは一年の平均ではなく、一年でもっともつらいひと月だ。
これは、「年間降水量は変わらないのに、類人猿はいなくなった」ことへの、一つの説明にはなる。ただし今のところ、歯からわかる食性と、環境変化の時期を照らし合わせて得られた可能性であって、あの盆地で直接測定されたものではない。
この考えに沿えば、エナメル質が厚く、かむ力が強く、果実の乏しい季節を硬い食べ物でしのげる類人猿は、こうした変化の影響を受けにくかったかもしれない。実際、ギリシャとトルコの厚いエナメル質を持つ大型類人猿は、西ヨーロッパの類人猿より百万年近く遅くまで残った。ただし、これはあとから符合した話で、あらかじめ予測された結果ではない。そして、それらも最後まで残ったわけではなかった。
もう一つ、覚えておきたい。ヨーロッパは最初に刈り込まれた地域であり、同時に、もっとも記録の密な地域でもある。この二つが重なることには、最後の節でもう一度戻る。
七 ひとつずつ、灯が消える
約九百五十万年前、西ヨーロッパの類人猿がほぼ消えたあとも、ほかの地域で同時に刈り込みが進んだわけではない。各地の、確実といえる最後の記録を、時間に沿って並べるとこうなる。
中部ヨーロッパでは、ハンガリー北部のルダバーニャが約九百五十万年前。西ヨーロッパに近い。バルカン半島とアナトリアでは、ギリシャの厚いエナメル質を持つ大型類人猿が約八百七十万年前ごろまで続き、トルコのアナドルヴィウスも約八百七十万年前。南アジアでは、シワリクにおけるシヴァピテクスの最後の記録が、約八百五十万年前にある。
東南アジアでは、タイとミャンマーの類人猿が、およそ七百万年前まで続く。残ったのは歯とあごの骨だけだが、そのおかげで中新世の類人猿の分布は、タイ北東部のコラートまでたどれる。東アジアでは、雲南の禄豊と元謀が、約七百万年前から六百数十万年前まで、確かな類人猿の記録をつないでいる。
刈り込みは、一刀で済まされたのではない。 西ヨーロッパから雲南まで、三、四百万年かかった。おおむね西から東へ、一つの地域、また一つの地域と、灯が消えていった。
灯が消える時期は、それぞれの土地で起きた変化に、おおよそ沿っている。西ヨーロッパではヴァレシアン危機。南アジアでは、モンスーンの強まり、河道の変化、そして草地の広がりの始まりだった。
中国南西部の森は湿潤なまま保たれ、もっとも長く持ちこたえた。前節で触れた大陸の変動は、それぞれ別の地域を変えた。だから地域ごとの時間表も、それぞれ違った。
アフリカでは、後期中新世の非ヒト類人猿の記録の乏しさが問題になる。以下は幾つかの例であり、後のヒト族を含む類人猿全体の終点ではない。ケニアのナカリは約九百九十万年前で、下あご一つと十数本の歯。ケニアのサンブルは約九百六十万年前で、数本の歯がついた上あご一つ。エチオピアのチョローラは約八百万年前で、ほとんどが歯だけだ。
三か所を合わせても、一頭の類人猿を丸ごと組み上げることはできない。そのあとには、類人猿の化石がほぼない、大きな空白が続く。
この一覧には、大陸の順番に従わない例外が一つある。
イタリアのトスカーナからサルデーニャにかけての地域は、当時、海で隔てられた島々だった。そこに、オレオピテクスという類人猿が暮らしていた。もっとも有名な骨格はほぼ完全で、トスカーナのバッチネッロにある褐炭鉱から見つかった。ほかにも保存のよい頭骨や骨が数多くある。中新世全体でも、もっともよく保存された類人猿の一つだ。
脳は比較的小さく、歯はとても独特で、手も足も胴体も、大陸の類人猿とは違っていた。歯の長い剪断稜は、葉をかなり食べていたことを示す。島の暮らしは、大陸とは違う。土地は狭く、四方は海で、出入りする動物も少ない。
そんな場所に一つの系統が何百万年も閉じ込められると、大陸には見られない姿へ進みやすい。オレオピテクスも、大陸にはない道を歩んだ。あまりに特殊化していたため、系統樹の中の位置は、これまでまったく異なるいくつもの場所に置かれてきた。
島の類人猿は、西ヨーロッパ大陸部の多くの系統より長く存続した。オレオピテクスの記録は約830万〜670万年前で、早く消えた一部の地域の系統より、二百万年近く長い。ただしユーラシア大陸の類人猿がすべて消えたという意味でも、ヨーロッパ全域の最終出現が同時だったという意味でもない。
東の端にあるのが、雲南だ。禄豊盆地からは、類人猿の歯が数千本、頭骨もいくつも見つかっている。ルーフェンピテクスという類人猿で、中新世全体でも、もっとも標本の豊富なものの一つである。
二〇二五年の新しい分析によれば、その食べ方はかなり幅広く、一種類の食べ物に固執してはいなかった。近くの元謀からは、より小柄な類人猿も見つかっている。残っているのは、おもに歯とあごの骨だ。
当時の中国南西部には、湿潤で森林の多い環境がまだ残っていた。西ヨーロッパから類人猿が消えて、およそ三百万年。雲南の森には、なお類人猿がいた。
南アジアの物語は、草とつながっている。パキスタン北部の古土壌に残る化学的な記録は、約八百万年前から七百万年前、より暑さと乾燥に強い草が、そこで急速に広がったことを示している。
シヴァピテクスの最後の記録は約八百五十万年前で、その急速な拡大より少し早い。ただ、そのころにはモンスーンはすでに強まり、川は流路を変え、草地も少しずつ広がり始めていた。草が広がれた背景には、「乾燥した」ことだけがあるのではない。大気中の二酸化炭素の量、雨季と乾季の配分、野火、草を食べる動物。どれも、木と草のどちらが優勢になるかを変えていた。
類人猿の退場と並べて見ておきたいことが、もう一つある。
類人猿が地域ごとに刈り込まれていた、その同じ時期に、サルは枝を伸ばしていた。 中新世前期と中期には、確実に確認できるサルは類人猿よりずっと少なかった。おもなのは、北アフリカから東アフリカまで分布する初期のサルの一群である。ところが中新世後期になると、今おなじみの二つの大きなグループが相次いで現れ、その後、広がっていった。葉を主食とするコロブス類と、幅広いものを食べるマカク類だ。
サルの臼歯には、横向きの稜が二本ある。二列の刃のようで、葉を切るのがうまい。第一節で触れた逆転、中新世には類人猿が多くサルが少なかったのに、今はサルが多く類人猿が少ないという逆転は、この時期に起きた。
同じ大きな環境変化の中で、サルは類人猿と足並みをそろえて刈り込まれるどころか、新しい枝を伸ばした。「環境が悪くなったので、木に暮らす霊長類が、みんないっしょに減った」という話にはならない。
では、サルが類人猿を押しのけたのだろうか。サルの臼歯、より速い繁殖、葉や多少開けた環境への適応。どれも、季節の差が大きくなるときには有利に働いたかもしれない。だが、多くの場所で、サルと類人猿は長く共存していた。地域ごとの類人猿の消失も、サルの拡大とぴったり重なるわけではない。競争は今なお説明の候補であって、主因と証明されたわけではない。
八 余項は二つの刈り込みのずれにある
まず、何が刈り落とされたのか、数え直してみよう。
三十数個の名前だけではない。今では対応するもののない、さまざまな体だ。ナチョラピテクスのように、長い腰と、よくつかめる両手を組み合わせた体。ピエロラピテクスのように、起こした胴体と、ぶら下がらない両手を組み合わせた体。同じ森にいながら、エナメル質の厚さが二倍も違う二種類の類人猿。島にいた、脳が小さく、葉を食べる類人猿。
手の比率は、わかりやすい例だ。中新世には、指が中くらいの長さで、親指が比較的長い類人猿が何種類かいた。今生きている類人猿には、もうその比率がない。中新世の類人猿の手は、今のいくつかの類人猿の手を、小さくしたものではない。
では、端的に問おう。刈り落とされたものと、長く持ちこたえたものには、何か違いがあったのか。
生き残ったすべての系統を一つで説明できる共通能力は、まだ実証されていない。
エケンボは、標本を一点ずつ振り分け直せるほど大量にルシンガに残したが、早くに姿を消した。シヴァピテクスは南アジアで四百万年以上続き、広く分布したが、八百五十万年前を越えられなかった。エナメル質の厚いものも、薄いものも消えた。一方、島でもっとも特殊化した系統は、かえって遅くまで持ちこたえた。食べ方の幅広いルーフェンピテクスは、さらに遅くまで残ったが、それでも中新世を越えることはなかった。
食性を調べた研究も、森林の変化を調べた研究もある。だが、中新世のすべての類人猿について、体格、食性、分布範囲、生息環境をまとめ、中新世末まで誰が残るかを予測する分析は、まだ行われていない。どれか一つの特徴だけで、誰が長く持ちこたえるかを予測できると、証明されたことはない。 この一文は、ごく自然な読み方に歯止めをかける。長く残ったものと早く消えたものがいるなら、長く残った側には、何か優れたところがあったはずだ。中新世の類人猿では、今のところ、その「何か」が見つからない。
ここからが、今回、余項の一覧に加えたいことだ。今回の類人猿は、二度消されている。
一度目は、実際に消えること。絶滅だ。地域ごとに進み、西ヨーロッパがもっとも早く、約九百五十万年前。東アジアがもっとも遅く、約六百万年前。島々は、別の道をたどった。 この順序は比較対象の地域と化石系統に限られ、全類人猿がユーラシアから消えた道順ではない。
二度目は、記録から消えること。こちらは別の規則に従う。どこに保存に適した堆積物があったか。どこを人が掘ったか。どこの地層なら、一層が数万年という細かさに分けられるか。
西ヨーロッパの記録は、世界でもっとも密なものの一つで、バルセロナ近郊のあの盆地では、地層の順序がきわめて細かくわかっている。対して中新世後期のアフリカはどうか。以前の総説による集計では、約一千百万年前から五百万年前まで、大陸全体で類人猿の産出が確実な地点は七か所ほどしかない。そして属の半数以上には、歯とあごの骨しか残っていない。
二つの消し方は、重ならない。もっともはっきり見える灯の消え方は、類人猿がもっとも早く姿を消した場所のものなのだ。
もっとも記録の密な西ヨーロッパは、類人猿が最初に消えた地域でもある。一方、アフリカのその六百万年間は、ほぼ真っ暗だ。中新世後期のアフリカで類人猿がどんな姿だったのか、今ある記録からはほとんど語れない。第十八篇で使った考え方が、ここでも役に立つ。記録がまばらなほど、最後の化石と、本当に消えた日とのあいだは、長く空いているかもしれない。六百万年間で七か所というのは、ほとんど手がかりに使えないほどのまばらさだ。
一枚の図を思い浮かべてみよう。横軸は時間。地域ごとに、一本ずつ線がある。線の長さは、類人猿がそこで本当に暮らしていた期間。線の太さは、その地域の記録の密度だ。
西ヨーロッパの線は、長くない。だが、いちばん太く描かれている。アフリカの線は、いちばん早く始まるのに、後半はほとんど見えないほど細い。雲南の線は、いちばん遅く終わる。
二つの消し方が重なると、実際よりも急な曲線ができる。記録の密な地域で類人猿の数が落ち込み、記録のまばらな地域からは、世界全体の数を補えない。各地の属数を足すと、急降下する線になる。
すべてが見かけというわけではない。西ヨーロッパのように、記録が密で途切れず続く場所は、その地域だけでも、約九百七十五万年前から九百五十万年前に複数の属が減ったことを記録している。この部分は確かだ。だが世界全体の減少幅は確かではなく、アフリカの空白は、とりわけ心もとない。
二度目の消去は、別のところにも及ぶ。半数以上の属には歯しか残らない。だから刈り落とされた大半について、いちばんよくわかるのは、どうかんでいたかだ。どう歩いたか、どう枝にしがみついたか、脳がどれほど大きかったか。その話が少しでもできるのは、六属から八属にすぎない。
もっと徹底して消えているのは、どの化石産地にも一度も残らなかった類人猿だ。六百万年間のアフリカに、産地は七か所しかない。一度も具合のよい場所に埋まらなかったものは、どの名簿にも載らない。分類学によって消されたのではない。初めから登録されなかったのだ。
第十一篇で述べたように、化石記録は名簿ではなく、ふるいである。今回は、ふるいが二つある。一つは絶滅そのもの。もう一つは記録だ。どちらも削るが、削る相手は同じではない。私たちに見えるのは、二つのふるいをたまたま両方とも通り抜けた、その一部だけである。
そこで、第十五の型。余項は、二つの刈り込みのずれにある。
第十一篇の「余項はふるいの中にある」とは、分けて記しておきたい。あちらには、ふるいが一つしかなく、余項はそのふるいが取りこぼしたものだった。こちらには二つある。余項は、どちらか一つのふるいの中ではなく、二つのふるいの目が重ならないところにある。
第十二篇とも分けたい。あの回にも、足跡と骨という二つのふるいがあった。だが、どちらも記録のふるいで、ずれた結果、前後の順序を取り違えた。今回は、一方が絶滅そのものだ。測ろうとしている出来事自体が、削ってもいる。ずれが変えるのは順序ではなく、減少の形と幅である。
これも、このシリーズでいう二層の構がとる、もう一つの形だ。絶滅が第一層。進化そのものによる刈り込みである。記録と分類が第二層。古生物学による刈り込みだ。「三十数属」という数でさえ、統合され、分けられ、外されながら変わり続ける。二つの層は、それぞれ削り、それぞれ余項を残す。だが、その二つの余項は重ならない。
進化の層が削ったのは、丸ごとの体、一揃いの食べ方と動き方だ。古生物学の層が削ったのは、うまく保存される場所に埋まらなかった個体、掘り当てられなかった産地、統合されて消えた名前だ。前者の一覧にあるものは、後者の一覧の隙間から、ごくわずかしか見ることができない。
この型の余項には、とても実用的な使い道がある。今後、「中新世の類人猿の多様性の推移」という曲線を見たら、まずこう問えばいい。この線の形のうち、どれだけが類人猿自身の歩みで、どれだけが二つのふるいの目によって決まったものなのか。
最後に、シリーズのいつもの手順として、層が切り替わったかどうかを判定しよう。第十篇では、基準を一つ立てた。繁殖を担う単位が、別の階層へ移ったときにだけ、層の切り替わりと呼ぶ。たとえば細胞の集まりが、一体として繁殖する多細胞の個体になったときだ。今回は、層の切り替わりはない。最初から最後まで、繁殖を担うのは一頭一頭の類人猿で、放散も刈り込みも、同じ階層の内側で起きていた。
最後に、冒頭の地図へ戻ろう。一千万年前、スペインから雲南へ続く森には、何種類もの類人猿がいた。その大半は歯だけを残し、ごくわずかは骨格を丸ごと残した。歯を一本も残さなかったものも、いたのかもしれない。それらを消したのは一つのふるい。それらを私たちに見せるのは、もう一つのふるい。そして二つのふるいの目は、同じ場所には開いていない。
次は生き残った枝から、それを物語る私たち自身が引いた線へと目を向けよう。
関連研究・確認に用いた資料
- Urciuoli & Alba (2023) · Systematics of Miocene apes
- Bouchet et al. (2024) · Pliobates and conflicting anatomical datasets
- Böhme et al. (2024) · Buronius from Hammerschmiede
- Natural History Museum (2026) · Masripithecus from Egypt
- Casanovas-Vilar et al. · Micromammal-based paleoprecipitation (2025 volume; published January 2026)