鑿構の周期律 · 古生物 · 21

単純化:進化の引き算

器官や遺伝子、分業を失っても、生命はどう続いていくのか。

秦漢 · 読了の目安:約43分 · 公開日

一 わずか数個の細胞からなる動物

粘液胞子虫類という寄生生物がいる。寄生期の体はふつう数個の細胞だけでできていて、大きさは数十から数百マイクロメートル。体軸も、触手も、口も、完全な消化腔も、神経系もない。

クドアの一種では、核ゲノムは約二千二百五十万塩基、タンパク質をコードする遺伝子は約五千五百三十三個しかない。

十九世紀後半から二十世紀にかけて、これらは「原生生物」に分類されていた。つまり、動物とは見なされていなかった。その理由が、あまりに単純な体にあった。細胞が少なすぎて、動物に典型的な体のつくりがほとんど見て取れなかったのだ。

一九九四年、あるリボソーム遺伝子を使った分析で、それまで原生生物とされていた粘液胞子虫類が、実は後生動物に属することを示す、初めての有力な証拠が得られた。その後の二十年間、証拠は一つずつ積み重なっていく。

二〇一五年の系統ゲノム研究では、二百個のタンパク質マーカー、比較可能な五万一千九百四十の部位が使われた。試料には粘液胞子虫類の複数の主要系統のほか、刺胞動物二十二種、ほかの動物三十八種、単細胞のオピストコンタ九種が含まれていた。ベイズ法でも最尤法でも、「粘液胞子虫類とポリポディウム」を合わせた群は刺胞動物の内部に置かれた。決め手となる分岐点の事後確率は一・〇、ブートストラップ支持率は百パーセントだった。

つまり、このわずか数個の細胞からなるものは、クラゲやイソギンチャクの親戚なのだ。 その体に残された指紋が、極嚢という構造だった。胞子の中にある、糸状の構造を裏返すように射出できる小器官で、形態から、刺胞動物の刺胞と相同なのではないかと長く疑われていた。

やがて、その体から刺胞に特有のミニコラーゲンとネマトガレクチンの遺伝子が見つかった。形が似ているというだけだった話が、強い相同の証拠へと変わった。同じ構図を、もっと目に見える形で示す例がもう一つある。根頭類だ。

根頭類は寄生性の蔓脚類である。蔓脚類というのは、フジツボの仲間のことだ。寄生する雌は成熟すると、ふつうの甲殻類に見られる分節した体も、胸肢も、完全な消化管も持たなくなる。代わりにあるのは、甲殻類の宿主の体内へ伸びていく、根のような栄養吸収系だ。体外には、生殖を担う袋だけが残る。

成体だけを見て、これが甲殻類だと見抜ける人はいない。蔓脚類だと確認するうえで主に頼りになったのは、成体ではなく幼生だった。根頭類は今も、ノープリウスと認められる幼生を生じ、そのあとにも蔓脚類の特徴をはっきり備えた幼生期が続く。

泳ぐための付属肢、感覚器、付着のための構造が、ほかの蔓脚類とのつながりをはっきり示している。この二つの事例だけで、本篇の問いはすべて出そろう。

これは学問上の潔癖さの問題ではない。二通りの説明を取り違えれば、動物の系統樹全体で、根を置く位置が違ってしまう。すると祖先の状態、つまり神経や筋肉や腸管がいつ現れたのかまで、すべて連れだって間違う。第七節では、この問題がいまも生きている例を見る。場所は、動物の系統樹の根そのものだ。

単純なものを見たとき、説明は二つありうる。初めからずっとそうだったのか。かつては複雑だったものが、あとで差し引かれたのか。そして、この二つの説明は、形態だけを見ればまったく同じ姿をしている。

両者を見分ける手がかりは、「器官がいくつ残っているか」ではない。系統樹のどこに位置するか、発生の途中に何が残っているか、そして、ごく特異的な分子の部品が今も残されているかだ。

先に、一つの言葉をはっきりさせておこう。本シリーズで「二次的単純化」と呼ぶのは、系統樹や発生の証拠によって、祖先がより多くの構造を持っていたと分かっていて、子孫では指定されたある尺度でそれが減っている場合に限る。この言葉に「単純だから原始的だ」という意味は含まれない。どういう仕組みで減ったのかについても、それだけでは何も主張していない。

本篇は引き算の話だ。答えたいことは三つある。引き算が起きたと、いつ証明できるのか。「複雑さ」という物差しをどう使えばよいのか。そして、本シリーズの相転移の判定基準は、逆向きに使っても成り立つのか。最後の問いこそが、本篇の本当の到着点である。そのための材料を、前の七節でそろえていく。

二 物差しが変われば、答えも変わる

まず、本篇に寄生生物がこれほど多く登場する理由から。寄生という暮らし方は、動物界で少なくとも二百二十三回、独立に生まれており、十五の動物門にまたがっている。主要な十の寄生系統だけで、記載済みの寄生動物種のおよそ九割を占める。まだ記載されていない多数の種まで見積もりに入れると、寄生者は全動物種の約四割に相当する可能性がある。

この規模なら、寄生は動物界の片隅の現象ではない。ただし四割は多数派ではなく、寄生がそのまま引き算を意味するわけでもない。問うべきなのは、多くを失っても、なお生きていける系統があるのはなぜかということだ。

自由生活とは、何でも自前で作ることではない。動物はもともと食物から必須栄養素を得ている。ただ、宿主の体内では、それまで自分で作る必要のあった物質まで、外から安定して得られる場合がある。それを合成する酵素群は、以前ほど不可欠でなくなる。遺伝子の維持やタンパク質の生産にも負担はあるが、その収支は系統や生活段階によって違う。

機能の重要性が下がれば、有害な変異を除く選択が緩むことがある。変異が遺伝的浮動によって残り、やがて経路が損なわれる場合もある。条件によっては、負担の軽減自体が選択される。宿主から得られるなら、自作の必要性は下がりうる。寄生による単純化の一つの道筋であって、この篇のあらゆる喪失を説明する法則ではない。

ここで、この節の本題を据えておこう。「単純化」は一つの量ではない。ある物差しについて述べた言葉なのだ。 物差しを替えれば、同じ対象から正反対の答えが出ることもある。

もう一度、粘液胞子虫類を見よう。「ゲノムの塩基数」で測れば、高度な単純化を遂げていない近縁の刺胞動物より、はるかに小さい。こちらは約二千二百五十万塩基なのに、姉妹群のポリポディウムは約五億六千百万塩基。二十数倍の差だ。

ところが「タンパク質をコードする遺伝子の数」で測ると、残っているのは約三分の一となる。約五千五百三十三個に対して、一万七千四百四十個。物差しは二本。一方は二十数倍と言い、もう一方は三倍と言う。

違いは、遺伝子の内部にある、タンパク質をコードしない空き地にある。ポリポディウムでは平均千百六十三塩基あったイントロンが、粘液胞子虫類では約八十二塩基にまで圧縮されている。遺伝子は残り、その中の空き地がぎゅっと絞られた。さらに極端な例が、寄生植物の側にある。

バラノフォラ・ヒマラヤナは光合成をしない。一生の大半を宿主の根に埋もれて過ごし、花を咲かせるときだけ、短い部分を地上に出す。見た目はキノコのようだ。核ゲノムは約十九億二千万塩基あり、少しも小さくない。

ところが、タンパク質をコードする遺伝子を数えると、約一万三千六百七十個しかない。非寄生性の被子植物の祖先と比べて、祖先の遺伝子の約五十四パーセントが失われたと推定される。消失は、光合成、葉緑体の機能、典型的な植物体の形成、そして一部の防御過程に集中している。

DNAの総量を物差しにすれば、むしろ巨大にさえ見える。祖先の遺伝子がどれだけ残っているかを物差しにすれば、大きく縮減している。この二つの文は、同じ植物、同じシーケンシング、同じ論文について述べている。

ここで、一つの通則も立てておこう。このあとの節でも、同じ種類の厄介ごとに繰り返し出会うからだ。ある数値が傾向の根拠として使われていたら、まず、何をどう数えた数なのかを問う。本シリーズでは、これを何度かやってきた。第四篇では鉱物の数え方、第五篇では細胞小器官の遺伝子数、第十篇では何をもって「爆発」とするかを確かめた。本篇ではこのあと、出てくるたびに説明し直すことはしない。数え方しだいで結論が丸ごと裏返る場所にだけ、一言添えておく。

次は問いを替えよう。寄生すれば必ず縮減するのか。そうではない。反例も少なくない。

糞線虫類は、得がたい比較を用意してくれる。寄生する種と自由生活をする近縁種で、ゲノムの大きさも遺伝子数も同じ桁に収まり、差は粘液胞子虫類で見たほど大きくない。もっと重要なのは、逆向きの動きだ。五つの寄生種につながる枝では、約千七十五の新しい遺伝子ファミリーが現れたと推定され、金属プロテアーゼ、分泌タンパク質、アセチルコリンエステラーゼがいずれも大きく増えている。

寄生に向かう系統は、失いながら増やすこともできる。寄生蜂のキョウソヤドリコバチでは、ゲノムは約二億六千七百万塩基、タンパク質をコードする遺伝子は一万四千二百二十一個。ごくふつうの昆虫の範囲に、きちんと収まっている。では、実際に縮減したものは、何を減らしたのだろう。

最も分かりやすい例は、アピコンプレックス門だ。今も自由生活をし、光合成をする近縁群と比較できるからである。熱帯熱マラリア原虫、つまりマラリアを引き起こすあの原虫の核ゲノムは、約二千三百万塩基、遺伝子は約五千三百個だ。一方、非常に近縁な二つの系統は今も自由生活をし、光合成をしており、遺伝子数は約二万から数万の桁にある。

失う経路は寄生生物ごとに違い、一部のアミノ酸、脂質、ステロールの合成が縮小する場合がある。この一覧をすべてマラリア原虫に当てはめてはいけない。原虫は特定の生活段階で必要な、アピコプラストの脂肪酸合成を保っている。DNA修復の変化も、宿主が代行するからとは単純に言えない。一方、宿主への侵入、免疫回避、生活段階の切り替えに関わる遺伝子群は増えることがある。

その極端な端にいるのが、微胞子虫だ。エンセファリトゾーン・クニクリは約二百九十万塩基、タンパク質をコードする遺伝子は約二千個しか持たない。

二千個というのは、どれほどの数か。大腸菌で約四千、酵母で約六千、ヒトで約二万。これは、細菌一つ分にも満たない家財道具で暮らす真核生物なのだ。

それほどまでに代謝とゲノムを切り詰めながら、この生物は、高度に特殊化した宿主侵入の構造一式と、決して単純ではない生活史を残している。縮減は選択的であって、全体に一様に起きるものではない。では、下限はあるのか。

ない。すべての寄生生物に共通する「最低限の遺伝子数」は存在しない。何を残さなければならないかは、宿主が何を提供できるか、宿主のどの場所に暮らしているか、代謝物を宿主から直接取り込めるか、自由生活をする段階がまだあるかによって変わる。下限と呼ばれるものは、生態的なネットワークに応じて動くのだ。

細菌からも同じ結論が得られる。しかも、逆向きの注意書きが一つ付く。栄養の乏しい外洋では、自由生活をする細菌も、とても小さなゲノムを進化させることがある。何かに寄生しているのではなく、自分のつくりを切り詰めて効率化したのである。小さいというだけで、寄生に伴う縮減だと判定してはいけない。

三 同じ一組の形質が、何度も失われる

洞窟生物は、自然界で最も優れた反復実験を用意してくれる。同じことが、互いに無関係な場所で何度も起きていて、そのたびに出発点も見えているからだ。

記載済みの洞窟魚は二百種を超える。共通の一つの「盲目の魚の祖先」から放散したわけではなく、複数の魚類系統で、眼のある地表の祖先がそれぞれ地下環境に入ってきたものだ。最も目立つ収斂は眼と色素の減少だが、ほかにも概日リズムの変化、一部の行動の変化、そして味覚、嗅覚、側線、摂食系の発達が見られる。ただし、どの洞窟種でも、これらの形質がすべて失われているわけではない。

メキシカンテトラだけでも三十を超える洞窟集団があり、近年の調査では約三十四に達する。地理的にも遺伝的にも、単純に一つの起源へまとめられるものではない。そこで、非常に手ごたえのある問いを立てられる。同じ表現型は、同じ一組の変異によってできたのか。

まず、誤解されやすいことを一つ。洞窟魚の眼は、「胚が初めから眼をつくらない」わけではない。 発生の初期には眼の原基、水晶体、網膜がつくられる。そのあと水晶体でプログラム細胞死が起こり、それに続いて網膜と眼球が縮小する。

まずできて、そのあと退く。これは、祖先が一度も眼を持たなかったという話とは、まったく別のことだ。では、なぜ眼を失うのか。仕組みは三通り考えられ、それぞれに裏づけがある。

一つ目は、中立的な変化と選択の緩和だ。暗闇では視力が以前のようには適応度に貢献しなくなり、視覚に関わる遺伝子に働く浄化選択が弱まる。そのため、有害な変異も固定されやすくなる。

この仕組みなら、独立した洞窟系統はそれぞれ、異なる遺伝子、異なる変異の経路を通って視覚を失うはずだ。近年のゲノム研究では、実際に洞窟に専らすむ系統で、選択の緩和を示す部位がより多く検出されている。

二つ目は直接的な選択、つまり省エネルギーだ。メキシカンテトラで測定した研究がある。体重約一グラムの地表型では、眼と、視覚処理を担う中脳の視蓋を合わせると、安静時代謝のおよそ十五パーセントを占めていた。

体が大きくなるにつれて、この割合は約五パーセントまで下がる。小さな魚では、眼の組織だけでも約八パーセントを占める。脳全体まで数えれば、約一グラムの地表型で、眼と脳を合わせて約二十三パーセントに達し、洞窟型では約十パーセントとなる。

これは、視覚の維持に相当な費用がかかることを示している。しかし、進化の歴史の中で眼を小さくしたのが、省エネルギーを有利にする選択だったと証明しているわけではない。答えているのは、「選択が利用できるほどの費用が存在するか」という問いであり、答えは、存在する、だ。「歴史上、決め手となった選択係数は眼の費用から来たのか、それとも別の形質の利益から来たのか」には、答えていない。

三つ目は多面発現、つまり間接的な選択だ。発生実験による証拠は、これが最も直接的である。胚の頭部で働くあるシグナル伝達経路は、洞窟型では作用範囲が広がり、眼の形成領域に関わる重要な調節遺伝子の発現を抑え、水晶体の細胞死を促す。ところが同じ経路が、顎や味蕾といった摂食構造の拡大も促している。

遺伝的な交雑では、眼の大きさと顎・味蕾の表現型に逆向きの関連がある。この経路を実験的に強めたり抑えたりすると、両方の形質群が同時に変わる。したがって、「摂食能力を高める方向の正の選択が、多面発現を介して、付随的に眼を小さくした」という説明には、明確な分子・発生レベルの証拠がある。

量的遺伝学からは、別の手がかりも得られた。交雑第二世代の五百三十九個体を含む分析で、約二千二百センチモルガンの遺伝地図がつくられ、眼や水晶体の大きさに関わる多数の量的形質遺伝子座が検出された。総合すると、少なくとも十数個の遺伝子座が関与すると考えられた。「盲目の遺伝子」が一つある、という話ではないのだ。

この研究は、純粋な遺伝的浮動という説明にも難題を突きつけた。検出された眼に関わる遺伝子座では、洞窟型の親から来た対立遺伝子が、ほぼ一貫して眼を「小さい」方向へ押していた。中立的な変異が無作為に蓄積しただけなら、眼を大きくする変異も小さくする変異も混ざっているはずだ。

面白いことに、同じ研究で色素に関わる遺伝子座を見ると、変化の方向はもっと入り交じっていた。したがって、色素の消失は眼の消失よりも、遺伝的浮動や選択の緩和と両立しやすい。「洞窟の形質」を一つの仕組みでまとめて説明するわけにはいかない。

異なる洞窟集団が、いつも同じ遺伝子を使っているわけでもない。別々の盲目の洞窟集団を交雑させると、第一世代の子に、両親のどちらよりも大きな眼ができることがある。視覚さえ一部回復する場合があり、両親の欠損が、互いに補える別々の遺伝子座にあったと分かる。その一方で、繰り返し使われる遺伝子や遺伝子座も確かに存在する。進化の道筋には、平行な部分と、そうでない部分の両方があるのだ。

三つの仕組みは、互いを排除しない。考えられるモデルの一つは、時間の流れに沿って重なっていくというものだ。初期には直接または間接の選択が表現型の縮小を進め、その後、視覚の遺伝子は機能を失ってから選択の緩和に入る。洞窟集団ごとに、それぞれの重みが違っていてもよい。最後に可逆性を見ておこう。第七節に直接つながるからだ。

最も強い「回復」の証拠は、ある洞窟集団が自然の地表環境で、祖先の眼をそっくり進化させ直したというものではない。遺伝的相補だ。異なる洞窟集団の盲魚を交雑させると、子孫にある程度の眼の構造と視覚が回復する。相補による再構築なのである。

発生の水準では、証拠はさらに強い。地表型の水晶体を、洞窟型の胚の眼杯へ移植すると、洞窟型の眼の組織は成長を続け、かなりの程度まで正常な眼の形を取り戻す。逆向きの移植では、正常な地表型の眼を維持できない。

ここから分かるのは、「表現型として眼がもうない」ことと、「眼をつくる遺伝的なモジュールがすべて消えた」ことは別だ、ということだ。 引かれたのは表現型であり、下流の部品の一部は、もとの場所でまだ待っている。

四 寄生でもなく、洞窟でもなく

引き算には、寄生も洞窟も必要ない。この節では視野を広げる。十分に多くの、異なる来歴を持つ引き算を見ておいてこそ、第八節の判定に重みが出るからだ。

一つ目の道筋は固着生活。二つ目は小型化。三つ目は極限環境。四つ目は捕食圧の低下。五つ目は水中への回帰。五つの道筋に互いのつながりはないが、どれも差し引きでの喪失を生みうる。このこと自体が、引き算は、特定の一つの暮らし方の副産物ではない と教えている。

これから挙げる例には、共通の構図がある。先に一度だけ述べて、あとは一例ごとに繰り返すのをやめよう。ある面での喪失は、別の面での増加と両立する。 測られたのは失ったものの集合であって、失わなかったものや新しくできたものは、たいてい同じ見出しには入っていない。

一つ目の道筋は、固着だ。ホヤの幼生は、小さなオタマジャクシに似ている。尾があり、脊索があり、背側には神経管が一本通り、前後の軸がはっきりしていて、泳げる。

しばらく泳ぐと、石を一つ見つけ、頭から飛びついて張り付き、変態を始める。尾は吸収され、脊索と幼生の神経構造の大半は消える。残った部分は、石に固着して水を濾して食べる、袋のような体になる。

これは「原始的な、脊索のない動物」ではない。ほかならぬ幼生の脊索、背側神経索、尾の筋肉と、分子系統樹とが、ホヤを脊索動物門の中にしっかり位置づけている。成体に脊索がないことと、一度も脊索がなかったことは別なのだ。その一方で、成体には大きな鰓籠と、濾過摂食のための仕組み一式ができあがる。

二つ目の道筋は、小さくなることだ。極端な小型化に伴って、骨格を構成する要素の数は繰り返し減ってきた。カエルの比較研究では、体が非常に小さい系統ほど、頭骨の一部や足指・手指の骨を失ったり、融合させたりしやすいことが分かっている。

しかも、仕組みは「使わない器官を選択が削除する」だけではない。発生に使える空間の不足、異時性、幼形の持続、機能の再統合、力学的な制約によっても、骨が形成されなくなったり、一緒にくっついて育ったりする。動物が小さくなるとき、部品が一つずつ抜き取られているわけではない。組み立ての全工程が、より狭い空間でもう一度走るのである。

三つ目の道筋は、極限環境だ。深海の熱水噴出孔で、棲管の中に暮らす蠕虫は、成体に機能する口も腸管もない。養っているのは、体内の共生細菌だ。細菌は硫化物の化学エネルギーを使って有機物を合成し、蠕虫はその住まいと原料を提供する。

ただし幼生期には、消化管の構造が一時的にでき、成体になると失われたり、つくり替えられたりすることがある。また同じ構図だ。成体には見えないことを、幼生が明かしている。

深海魚が示すのも縮減であって、全体が一様に下がる話ではない。海溝にすむクサウオ類のゲノムには、視覚に関わる遺伝子の消失や退化が見られる。一部の超深海種では、嗅覚受容体のファミリーも浅海の近縁種より少ない。その一方で、圧力への適応、膜の恒常性、化学感覚の別の部分は拡大している可能性がある。

四つ目の道筋は、天敵がいなくなることだ。島で飛翔能力を失う現象は、動物の大進化の中でも、とりわけ頻繁に起こる構造的喪失の一つである。鳥類の半数以上の目に分布し、何度も独立に起きている。何回なのかは数え方による。独立した起源がおよそ百回余りという推計から、千を超える島嶼系統が飛べない方向へ進化したという推計まである。

二〇二〇年の地球規模の分析は、さらに面白い結果を示した。すでに絶滅した島の鳥も数に入れると、飛べない鳥は歴史上、現在の数十種だけから想像するより、はるかにありふれていたのだ。いま見られる飛べない鳥がこれほど少ない主な理由は、その大半がすでに人間に絶滅させられたことにある。

仕組みの面で、最も一貫して効いている変数の一つが、低い捕食圧だ。まだ飛べる島の鳥を系統を考慮して比較すると、島にいる捕食者の種類が少ないほど、胸筋が小さくなる、後肢が相対的に長くなるといった「飛べなくなる方向」の形態変化が、よりはっきり現れる。

鎧については、さらに堅い証拠がある。イトヨの淡水集団では、骨板や棘が繰り返し減少している。実験によれば、ある種の水生昆虫が捕食者となる環境では、棘が短く、装甲の少ない遺伝子型が直接有利になる。防御構造を差し引きで失うことは、放っておかれた結果であるだけでなく、選び出された結果でもありうるのだ。

五つ目の道筋は、水に戻ることだ。ウキクサ類の異なる属を並べると、皮層の層数が段階的に減り、根の組織が大きく単純化し、最後には根そのものが完全になくなるという系列が見えてくる。その一方で、水面での複雑な生活と、速いクローン繁殖をこなさなければならない。

海草は、それぞれ独立に海へ戻る過程で、陸上環境に関わる遺伝子を繰り返し失った。たとえば、気孔、揮発性物質によるシグナル、エチレンやテルペンの代謝に関する機能の一部だ。その一方で、海水中でのイオンの恒常性維持や海中での受粉という、新たな能力一式を手に入れている。五つの道筋、まったく異なる五つの理由。それでも結果は、いずれも差し引きでの喪失である。

五 「複雑さ」という物差し

まず、一匹の虫を見よう。もとは百個あった体節が、二十個に減ったとする。部品の数は減った。ところが、その二十節がそれぞれ、まったく違う機能の単位へ分化していたらどうだろう。食べることを担うもの、動きを担うもの、生殖を担うもの。部品の差異化は進んだことになる。

同じ動物の、同じ一回の変化である。一方の物差しは単純になったと言い、もう一方は複雑になったと言う。それでも、どちらも測り間違えてはいない。

この節で扱うのは、そのことだ。「複雑さ」は、測定を待つ一つの量ではない。その中から選び取るべき、複数の量の集まりなのだ。 実際に測定に使える指標だけでも、少なくとも九つある。

最も直感的なのは細胞型の数だ。形態、組織学、あるいは遺伝子発現の状態に基づいて、繰り返し識別できる細胞の種類がいくつあるかを数える。ヒトにはおよそ二百種類余り、海綿には十種類ほどしかない。この物差しが答えるのは、「分化した種類が増えたか、減ったか」であって、遺伝子数とも、行動の複雑さとも、生態的ネットワークの複雑さとも別である。

ついでに言えば、この物差しが本当に使いやすくなったのは、ごく近年のことだ。一つひとつの細胞について遺伝子発現を測る技術が成熟すると、「細胞には何種類あるのか」は、目で見分ける問題から、統計的に扱える問題へ変わった。

次に、ひとまとめにされやすい二つがある。形態的な部品の数。骨、肢の節、付属肢の種類、歯、体節といった、一つずつ数えられる単位だ。そして、部品の差異化。同じ数の部品が、より専門化したかどうかである。冒頭の虫が示したように、この二つは逆方向にも動く。

残りは、それぞれ別の水準を測る。遺伝子数と遺伝子ファミリー数が測るのは、遺伝子の持ち札の規模だ。形態の複雑さとの結びつきは弱く、重複、選択的スプライシング、調節によって対応関係が変わる。調節ネットワークの規模が測るのは、調節の水準でどれほどの組織ができているかである。

発生状態の数が測るのは、発生の道筋がどれほど長く、いくつに分岐するか。階層の数が測るのは、部分と全体が何層入れ子になっているか。情報理論による尺度が計算するのは、配列の中に環境についての情報がどれだけ蓄えられているかだ。この九本の物差しはどれも本物だが、足し合わせて総合点にはできない。

この一覧は、思いつくまま並べたものではない。「複雑さ」を同じものではない複数の種類に分けること自体が、一つの方法論上の主張なのだ。構造も過程も、違うものは別々に定量化しなければならない。先に総合点へまとめてから傾向を探すわけにはいかない。

九項目のうち、大進化のスケールで本当に系統的な集計がなされているのは、わずかしかない。発生状態の数などは、測るのが難しい。状態をどう区切るかが観察の解像度に大きく依存し、顕微鏡が一世代新しくなるだけで、状態の数は変わりうる。情報理論の項目では、逆の事情がある。デジタル生命なら直接計算でき、定義も厳密だが、そもそも測っているのは形態ではない。

この物差しの集まりに何ができるかを、よく示す例がある。六十六の甲殻類の分類群について、直列に並ぶ付属肢の差異化の程度を測った研究だ。もとは似たような形だった一列の脚が、何種類の違う脚に分かれたか、ということである。その結果、複数の系統で広範な複雑度の増加が検出された。著者らは、「駆動型の傾向」と両立する、数少ない大規模な例だと考えた。

甲殻類の脚では、複雑度は本当に上がっている。 本篇の中でも数少ない肯定的な結果の一つだ。そして、その適用範囲は、まさに測定が行われた範囲に限られる。特定の分類群を、特定の物差しで測った結果なのである。

だから第二節の通則は、ここでは具体的にこうなる。「何々は、より複雑になった」と読んだとき、最初に問うべきは「本当か」ではない。「どの物差しで測ったのか」だ。

六 受動的な傾向と、何を帰無仮説にするべきか

ここからは、本篇で最も抽象的で、しかも最も役に立つ節になる。一九九四年、「平均的な複雑度が時間とともに上がる」という現象が、根本的に異なる二つの過程に分けられた。

駆動型の傾向。状態空間の大部分で、系統の内部に、複雑度の増加を持続的に有利にする力、あるいは変化の偏りがある。つまり下限から十分に離れていても、増加が減少より系統的に多くなる。

受動的な傾向。系統そのものの変化は、ほぼ無方向でもよく、局所的には減少に偏っていてさえよい。ただし、出発点が、越えられない下限の近くにある。

下向きの空間は切り落とされているのに、上向きには同じ制約がない。そのため拡散は、上方の空間をより多く占めるほかなく、集団の平均値と最大値は時間とともに上がる。二つの過程から、見た目にはまったく同じ曲線が生まれうる。そこが厄介なのだ。

受動的な傾向の仕組みは、具体的に説明できる。許される最低の複雑度に近い場所から、いくつもの系統が出発したとしよう。一回ごとの変化そのものには方向がなく、上に行く確率も下に行く確率も等しい。ただし、下側には壁がある。ある程度を下回ると、生物はもはや生物として成り立たない。

だから下向きの変異は壁にはね返され、上向きには同じ制約がない。一回ごとの変化に方向がなくても、分散が広がることで、分布の右裾、最大値、さらには平均値まで、時間とともに上昇する。

壁が一枚と、ランダムウォークが一つ。それだけで、曲線は方向を持つように見える。 これは比喩ではない。書き下すことができ、モンテカルロ・シミュレーションで確かめられるモデルだ。そして、二つの過程を見分けるための、明確な統計的方法もある。

いちばん重要なのは、「平均値が上がったか」ではなく、「下限も動いたか」だ。 駆動型の傾向なら、最小値が時間とともに上がると予測される。受動的な拡散のモデルなら、最小値が固定された下限に長く張り付いたまま、平均値と最大値が上昇してもよい。

二つ目は、境界から離れた場所で祖先と子孫を対にすること。下限に近く、幾何学的な制約のために下がれない系統を除いても、子孫での複雑度の増加が減少より有意に多いなら、初めて駆動型の傾向が支持される。増加と減少がおおむね釣り合っているか、減少のほうが多いのに、全体の分布は高い値の側へ広がっているなら、受動的なモデルのほうによく合う。

三つ目は、系統内の分布の歪度だ。下限に近い祖先から偏りのない拡散が始まれば、高い値の側に長い裾を引く、右に歪んだ分布になる。一方、下限から離れた部分系統樹では、歪みの向きによって、普遍的な駆動力と境界の効果を区別できる。では、実際の結果はどうだったのか。

一九九六年の後生動物についての総説は、後生動物全体に関して、長期的な上昇を説得力をもって支持できる材料は非常に限られる、と結論した。比較的明瞭なシグナルは、主に顕生代の初期と、特定の複雑度の側面に集中していた。

現在までのところ、「すべての生物群、すべての複雑度指標にわたり、複雑度は一般に時間とともに増加する」という、広く受け入れられた定量的な結論はない。成り立つのは、もっと狭い命題だ。ある分類群の、ある期間を、ある具体的な物差しで測れば、確かに駆動型の増加がある。別のデータには、受動的な拡大しか見られない。多くの指標では、一貫した傾向すらない。ここでようやく、この節で本当に持ち帰るべきものにたどり着く。

帰無仮説は、「複雑度は一定で変わらない」であってはいけない。より厳密な帰無仮説は、方向のないランダムな変化に、既知の境界と、分岐・絶滅の過程を加えたものだ。この帰無仮説は、覆すのがより難しい。だからこそ役に立つ。「壁がつくる形」を、あらかじめ差し引いてくれるからだ。

境界から離れても増加の偏りが続く、最低値自体が上がるなど、観測がモデルから持続的に外れるなら、系統をまたぐ駆動機構を検討すべきだ。ただし、標本の偏りやモデルに欠けた条件も調べる必要がある。一つの帰無モデルを棄却しても、生命に上昇の力が内蔵されていると証明したことにはならない。

ついでに、「最小値は変わらず、最大値は上がる」という観察の正しい読み方も、書いておこう。別の意味に読まれることが多いからだ。

そこから最も直接に言えるのは、実現可能な複雑度の範囲が広がった、ということだ。進化は、それまでなかった高い複雑度の領域を占めるようになった。その一方で、最も低い側のものも、長く存在し続けられる。

単純な生命が複雑な生命に押し出されたわけではない。微生物は今も広く存在し、生態系で欠かせない役割を果たす。ただし炭素量で推定した地球全体の生物量は植物が最大であり、生物量を「最も単純なものが最多」の証拠にはできない。

この違いは、技術的な細部ではない。同じ上昇曲線を、「進化には複雑になる傾向がある」と読むのか、それとも「進化は壁のそばでランダムウォークをしている」と読むのかを決める違いなのだ。

七 失ったものは、また生えてくるのか

まず、ほとんど起こるはずのない出来事から。ナナフシは、自分を木の枝に見せかける、あの昆虫だ。二〇〇三年にその系統樹を再構築した研究は、ナナフシの祖先はいったん翅を失い、その後、少なくともいくつかの系統で、飛べる翅をふたたび生やしたと結論した。

器官一式を失い、長い時間のあとで、また生やす。広く通用している言い方に従えば、そんなことはそもそも不可能なはずだ。

その言い方は「ドロの法則」と呼ばれ、しばしば「複雑な構造はいったん失われたら、二度と獲得できない」と引用される。しかし十九世紀末に提唱されたとき、もとの言葉はもっと穏やかだった。生物は、完全に同じ仕方で、以前の祖先の状態に戻ることはない、というものだ。「同じ道を引き返さない」と「絶対に戻れない」は、同じ強さの主張ではない。

もう一つの有名な例は、カエルにある。現生のカエルの多くは上顎に歯を持ち、ほぼすべてが下顎の歯を欠く。ところがある分析は、下顎の歯はカエルの共通祖先ですでに失われ、その約二億年後、ある系統がふたたび歯を生やしたと提案した。二億年というのは、どれほどの時間か。恐竜が現れてから退場するまでの、全期間よりも長い。

どちらの例も、まだ決着はついていない。そして、誤っているとすれば、その誤り方は同じかもしれない。祖先状態の復元そのものが、偽の「再獲得」をつくり出すことがあるのだ。根の状態を間違える、系統間で多様化率が非対称になる、不適切な遷移モデルを使う。どれも、独立した一回の獲得を、「いったん失い、そのあと取り戻した」と復元してしまいうる。だから、ドロの法則の例外を主張するなら、再獲得を認めるモデルと、認めないモデルの両方で計算しなければならない。

では、尺度を小さくして、遺伝子の水準では何か測れるものがあるだろうか。ある。しかも、本篇で最も実用的な数字の一つだ。

一九九四年の推計では、不活性化した遺伝子や、停止した発生プログラムは、およそ五十万年から六百万年のあいだなら、一回の復帰変異によって再起動できる可能性がまだ相当にある。だが中立的な変異が蓄積し続けるにつれ、必要な部位がすべて完全なまま残っている確率は急速に下がっていく。 これは変異率や機能上の制約を仮定したモデル推定であり、すべての発生プログラムに共通する有効期限ではない。

だから「不可逆」は確率の話であって、絶対ではない。 おおよその賞味期限があるのだ。

ある表現型が消えたばかりなら、それをつくる多数の遺伝子は、多面発現のためにまだ選択を受けているかもしれない。単に調節のスイッチが一つ切れただけかもしれない。その段階なら、もう一度スイッチを入れることは、それほど想像しにくくない。第三節の移植実験は、まさにこの状態だった。洞窟魚の眼はすでに失われているのに、地表型の水晶体を眼杯に戻すと、眼はまだ育つことができた。

しかし数百万年から数千万年が経ち、その構造専用の遺伝子が多数、偽遺伝子になったり削除されたりし、発生上の相互作用も崩れてしまえば、まったく同じ道筋での回復は急激に難しくなる。

では「生命の系統樹全体で、喪失と獲得はどちらが多いのか」。いまのところ、信頼できる単一の比率はない。ここには、第二節の通則をきれいに示す例がある。「各遺伝子ファミリーは一度しか獲得できず、あとは失うだけ」と強制的に決める。これをドロの最節約法という。そうすると、祖先の遺伝子の持ち札は異常に膨大だったと復元され、「数万回の喪失に対して、千回に満たない獲得」という極端な見かけが生まれる。

この比率は、まずその規則の産物であって、生物学上の結論ではない。再獲得を許すモデルに替えれば、同じデータから出る比率が、まったく違っていてもおかしくない。

ここで、第一節の、まだ答え終えていない問いに戻ろう。形の単純な系統は、なぜいつも系統樹の根元に置かれてしまうのか。

粘液胞子虫類は、歴史的な経緯が最もよくそろった例だ。その訂正は、約一世紀に及ぶ分類の伝統を覆した。一方、「中生動物」という名前そのものも、一つの化石になっている。直泳動物と二胚動物の単純な構造は、かつて原生生物と動物の中間にある原始的な状態だと解釈された。名前にさえ、その考えが書き込まれている。「中間の動物」なのだ。

二〇一八年、長枝誘引を制御した分析で、直泳動物は環形動物の内部に置かれた。ミミズやゴカイのいる、あの門だ。微絨毛を伴うクチクラ、繰り返し並ぶ環状筋、背側の神経節が今も残っており、単純化した系統の位置を決めるうえで使える、数少ない形態の手がかりとなっている。二胚動物はわずか数十個の細胞しか持たないが、分子データでは螺旋動物の内部に位置づけられ、ゲノムではホメオボックス転写因子、ある種の膜貫通型シグナル受容体、神経・筋肉に関わる遺伝子ファミリーがいずれも大きく減っている。

正しく書くなら、「左右相称動物のある系統で、ボディプランが大幅に単純化した」だ。「左右相称動物が現れる前の、生きた化石」ではない。

この論争はいまも終わっていない。しかも、舞台となっているのは、動物の系統樹のいちばん下にある分岐なのだ。

海綿と有櫛動物をめぐる論争が問うのは、ほかの動物から最初に分かれたのは海綿なのか、それとも有櫛動物なのか、ということだ。これは名前の付け方をめぐる争いではない。神経、筋肉、消化、細胞型について、祖先の状態をどう復元するかが直接変わってくる。

二〇二三年には、少し変わった形の証拠が出た。動物と、その近縁の単細胞生物にまたがる古い遺伝子連鎖を比較したところ、海綿、刺胞動物、左右相称動物には共通する染色体の融合と混合の一群のパターンがあり、有櫛動物では祖先の状態が保たれていると分かった。そこから、有櫛動物が残りの動物の姉妹群であるという仮説が支持された。このようなまれなゲノム構造上の出来事は、理論上、速く置換される配列の部位よりも、偶然に似た状態が生じにくい。

それでも論争は終わらない。根の推定はモデル、長枝、標本、遺伝子の選択に左右される。海綿を支持した2025年の論文は、分析の誤りが判明し、2026年に撤回された。これは特定の分析の訂正であり、撤回だけで論争全体の勝敗が決まるわけではない。2026年現在も問題は完全には解決していない。

決着がつかないことで、何が変わるのか。有櫛動物が最初に分岐したなら、神経系には少なくとも二通りの説明がある。共通祖先はすでに神経系を持っていて、海綿、そしてひょっとすると平板動物でも、そのあと大規模な二次的喪失が起きた。あるいは、有櫛動物の神経系と、ほかの動物の神経系が、それぞれ独立に起源した。「誰が何を失ったか」という結論より先に、系統樹上の位置を決めなければならない。

平板動物そのものが、一つの警告になっている。体は平たく、通常の意味でのニューロン、筋肉、腸管、目立った器官を持たない。初期にはまさにその形態の単純さから、系統樹の根に近い場所へ描かれることが多かった。ところが分子・系統ゲノム解析では、海綿と有櫛動物が分岐したあとの位置に置かれることが多い。

さらに重要なのは、動物の体軸形成に関わる保存的な遺伝子の一部が、その単純な体の中でも、組織だった発現をしていることだ。目立った器官がないことは、複雑な発生調節がないことと同じではない。

だから、二つの戒めを一緒に書いておかなければならない。一つ目。形態の単純さを、そのまま系統上の祖先性と読んではいけない。二つ目は逆方向だ。単純なものを、すべて喪失の結果として説明してもいけない。

この節で本当に得られるのは、そのまま使えるチェックリストだ。ある系統に二次的単純化が起きたと主張するなら、次の四つの積極的な証拠から、少なくとも一つは示さなければならない。系統樹上で、その形質を持つ祖先群の内部に位置づけられること。

発生の途中に、相同な構造がまだ残っていること。その構造に特有の遺伝子、あるいは偽遺伝子が残されていること。もしくは、祖先がかつてその構造を持っていたと、祖先状態の復元が強く支持すること。

この四つは、まさに第一節の二つの事例で使われたものだ。 粘液胞子虫類が頼ったのは、一つ目と三つ目。系統樹上の位置と、刺胞に特有のあの二種類の遺伝子である。根頭類が頼ったのは二つ目だ。成体からは何も読み取れないのに、幼生ははっきりと明かしていた。四つのどれも出せないなら、言えるのは「現生の形態は単純だ」ということだけになる。

八 判定基準を逆向きに使う、そして余項は帰無仮説の中にある

いよいよ、本篇の着地点だ。第十篇では、階層の切り替わりが起きたかどうかを判断するための基準を立てた。三つの問いからなる。もとは独立に複製できた単位が、独立した繁殖能力を失ったか。

適応度を一つに引き受ける、新たな繁殖の主体が現れたか。低い階層の単位どうしの対立が、体系的に抑え込まれたか。三つとも成り立って初めて、階層の切り替わりと呼ぶ。

本篇は、初めから終わりまで引き算をしてきた。そこで当然、一つの問いが出てくる。この判定基準の逆向きに当たるような引き算は、どこかにあったのか。

三つの問いを裏返してみよう。低い階層の単位は、独立した繁殖能力を取り戻したか。適応度を一つに引き受ける主体は、再び低い階層のものに戻ったか。高い階層で築かれた対立の抑制は、体系的に解除されたか。

先に結果を置いて、気を持たせずに進もう。候補は五つ。そのうち点が付いたのは二つだけで、どちらも満点ではなかった。以下、それぞれがどこで引っかかるのか、一つずつ見ていく。

一つ目と二つ目は、まとめて判定できる。ミトコンドリアを完全に失った真核生物と、すでに一体化した細胞内共生体を丸ごと失う場合だ。

ミトコンドリアを失うというだけで、十分に驚くべきことだ。教科書の「真核細胞にはみなミトコンドリアがある」という一文には、例外がある。ある齧歯類の腸内から見つかった単細胞生物では、ゲノムにミトコンドリアの名残さえ見つからなかった。

それでも、この二つはどちらも逆転にはならない。理由は同じだ。ミトコンドリアも、一体化を終えた共生体も、その転換が完了した時点で、宿主細胞を離れて自由に繁殖できるダーウィン的個体ではなくなっていたからだ。

丸ごと削除しても、その祖先が自由生活に戻るわけではない。繁殖と適応度を担うのは、依然として宿主細胞である。対立の抑制も、解除されたのではない。関わる低階層の単位そのものが、なくなっただけなのだ。

判定は、どちらも三項目中ゼロ。正確に言うなら、「高度に一体化した部品に、二次的な喪失が起きた」である。一体化を終えた相手を削除することと、すでに融合した二つのダーウィン的個体を、独立に繁殖できる二つの主体へもう一度分けることは、同じではない。

三つ目は有性生殖の喪失で、自然界では珍しくない。タンポポには、受精せずに種子を作る無融合生殖の系統が多くある。ただし有性生殖を行う系統もあるので、道端から飛んでいく種子をすべて同じに数えてはいけない。

しかし、両性による生殖をやめても、階層の逆転にはならない。かつて低階層の部品にまで抑え込まれた繁殖単位が、それによって独立した繁殖能力を取り戻したわけではない。適応度を担うのは、引き続き生物個体だ。

判定は、三項目中ゼロ。有性生殖の喪失は、重要な進化的転換に対して逆向きの形質変化ではあるが、個体性の階層における相転移の逆転ではない。

四つ目は、真社会性の系統が単独生活へ戻る場合。ここで、ようやく点が付く。

コハナバチ類に、ちょうどよい材料がある。同じ分類群の中に、真社会性の種も、単独生活の種もいる。そして系統樹は、後者が前者から戻ったものだと示している。

多くの真社会性昆虫では、働き個体がもともと絶対に生殖できないわけではなく、繁殖を抑えられているだけだ。ある系統から働き個体のカーストが消えて単独生活に戻っても、それは単に「働き個体の階級がなくなった」だけかもしれない。繁殖能力を失った同じ低階層の単位が、再び繁殖できるようになったとは限らない。

第二の問いには、単独生活の系統なら「はい」と答えられる。ただし、昆虫の個体は、真社会性の祖先でもずっと生理学的な個体ではあった。これが選択の単位の逆転だと証明するには、まず祖先のコロニー自体が、超個体という意味での高階層のダーウィン的個体に達していたと示す必要がある。第三の問いは理論上、成り立つはずだが、実証が必要だ。

判定は、三項目中およそ一から二。祖先的な体制で働き個体が専ら不妊となり、コロニーが明確な繁殖単位になっていた超個体から、単独生活へ戻った場合に限って、三項目すべてを満たす見込みがある。

五つ目は、二次的な単細胞化。これが最も近い種類の候補であり、しかも実験室で試せる。酵母を選抜して、塊になって育つ多細胞の形態にし、そこから戻れるかどうかを見るのだ。

クローン性の多細胞体が、本当に個体性の転換を完了していて、その構成細胞はもはや単独で生活環を完結できなかったとする。その子孫の系統が単細胞での繁殖を取り戻したなら、第一の問いは成り立つ。繁殖のボトルネックが、多細胞の繁殖体から単一の細胞へ戻り、選択の単位が実際に細胞の階層へ移り返したなら、第二の問いも成り立つ。最も難しいのは第三だ。高階層に固有の生殖分業、ボトルネック、細胞接着への依存、アポトーシスといった、多細胞性を安定させる「歯止め」が外されたと示さなければならない。生活史に単細胞の段階が一つ増えただけでは、足りない。

判定は、厳密な基準では、ふつう三項目中一から二。原理的には三項目すべてを満たしうる実験系もあるが、選択の単位と対立の抑制を直接測らなければならない。候補は五つ。三つは門前で止められ、二つが一部だけ通過した。

この結果は、本シリーズが勝手に選び取ったものではない。二〇二六年にはすでに、「個体性の進化的転換と逆転」という枠組みを明示して、同じ問題を論じる文献がある。内部の対立が再び強まることを、集団を高階層の個体性から引き戻しうる結果の一類型と見るものだ。ただし、そこにあるのは理論とモデルの枠組みであって、完成した自然史の事例一覧ではない。本当の逆転の例は、まだ十分にそろっていない。

本篇で見た差し引きの喪失の大半は、眼、翅、消化管、色素体の遺伝子、神経構造、寄生者のボディプラン全体に至るまで、形質や機能を変えても、主要な選択の単位は変えない。祖先の面影が分からなくなるほど大きな変化でも、同じ階層の内部での変化なのだ。なぜ本当の逆転は、これほど難しいのか。大きな転換は、それ自体が歯止めをつくるからである。

分かりやすい例が単細胞ボトルネックだ。多くの多細胞生物は一つの細胞から各世代を始めるので、後の細胞はごく近い遺伝的起源を共有する。これは内部の違いや争いを減らすが、完全になくす保証ではない。発生の途中でも変異は生じ、細胞が全体の利益に反することもある。

ところが、この仕組みがいったん定着すると、構成細胞は体から離れて独立に暮らすことが、ますますできなくなる。生殖の分業、相互依存、不可逆的な遺伝子の喪失、発生の制御は、すべて同じ種類の歯止めだ。

それらは、当初は元に戻せた集団の協力関係を、ばらしにくい高階層の個体へと変えていく。

だから本当の逆転には、少なくとも二つの反対向きの出来事が同時に必要になる。低階層の単位が、十分な自律的複製能力と生態的な生存能力を取り戻すこと。そして、高階層の遺伝、繁殖、対立抑制の構造が機能しなくなり、低階層の適応度が高階層の適応度から再び切り離されること。高階層の部品を一つ削除するだけでは、どちらも実現できない。

ここに基準の役割が見える。すべてを通すのではなく、変化の種類を区別することだ。三つを退け、二つを部分的な通過にとどめることで、「相転移」は単なる「何かが変わった」とは別の意味を保つ。ただし、多く退ければ正しいとは限らない。基準そのものも、反例や測定によって検討されなければならない。

次は、目的論を取り除こう。本篇は、別の目的論として読まれてしまいやすいからだ。

第二節で述べたように、寄生者は全動物種の約四割を占める可能性がある。だから単純化という道が、まれな失敗の状態でないことは明らかだ。

しかし逆向きの、もっと強い主張、「寄生は一般に多様化率を高める」も成り立たない。寄生系統と自由生活をする姉妹群を対にして比べると、全体として寄生群に、自由生活の近縁群より高い種分化の潜在力があるわけではない、という結論になる。現生の寄生動物の膨大な種数は、主に、少数のとりわけ成功した放散が生んだものだ。寄生が起源するたびに、爆発が起こるわけではない。

粘液胞子虫類の比較は、ここでも役に立つ。記載済みの種はすでに二千百八十を超えるのに、系統ゲノム上の姉妹群であるポリポディウムは、単一種規模のごく小さな系統だ。ただし、この比較で「単純化が高い多様化をもたらす」とは証明できない。二つの系統では、起源からの時間も、宿主を利用する機会も、地理的な拡散も、研究の手厚さも違う。反証できるのは、もっと強い、次の一文だけだ。大きな差し引きの喪失を経験した系統は、必ず進化の行き止まりになる。

単純化は失敗と同義ではなく、放散を約束するものでもない。結果は、系統ごとに大きく異なる。最後に、本篇から余項の一覧へ加えるものを見よう。

同じ構図が、本篇には三度現れた。一度目は第六節の「複雑度は時間とともに増える」だ。帰無仮説を「複雑度は一定で変わらない」とすれば、越えられない下限だけによって生じた無方向の拡散を、駆動力の働きと読んでしまう。

二度目は第七節の「喪失は獲得の何十倍も多い」。帰無仮説にドロの最節約法を採用すれば、その比率はまずモデルの産物となる。三度目も第七節で、「これはドロの法則の例外だ」という主張だった。帰無仮説に、「独立した獲得が、いったん失ってから回復したものと誤って復元された」という可能性が含まれていなければ、偽の再獲得が、本物の再獲得として扱われる。

三度とも、まったく同じだ。観察されたあの「方向」は、データの中ではなく、明示されていない比較モデルの中にあるのかもしれない。 そこで第十四の型。余項は、帰無仮説の中にある。

これは、第十三篇の「余項は説明そのものの中にある」とは、分けて記録しなければならない。あちらの余項は、説明の枠組みが初めから持ち込むもので、枠組みを替えれば、余項の一群も入れ替わる。

こちらの余項は説明の中にはなく、その説明を比較にかける基準線の中にある。しかも、その基準線はたいてい、そもそも書かれていない。一方は明るみにあり、もう一方は暗がりにある。

ここから、本篇の個々の内容より長く使える規則を一つ立てられる。傾向でも、比率でも、例外でも、報告されたら、まず何と比べているのかを問う。 答えられないなら、その結論が語っているのは世界ではない。書かれていない、あのモデルのことだ。

本篇では、相転移の判定を一度、逆向きに行った。その結果、大半は不合格だった。この判定基準を逆向きに使ったのは、初めてのことだ。

引き算は、ずっと起きている。ときには、規模も極めて大きい。だが、変わるのはほとんどいつも形質であって、階層ではない。わずか数個の細胞しか残っていない動物も、なお一匹の刺胞動物なのだ。

体が小さく簡素になっても、問うべき歴史が小さくなるわけではない。次は旧世界に広がり、地域ごとに退いていった類人猿をたどろう。

関連研究・確認に用いた資料