中国語原文をもとに、日本語で独立して書き直した批評。原文ページでは簡体字と繁体字を切り替えられる。対象は田中芳樹の小説と旧OVA本伝全110話。結末までの内容に触れる。作中の発言は、特記しないかぎり趣旨を日本語で再構成している。
宇宙暦800年六月一日、午前二時五十五分。
巡航艦レダII号は、ブリュンヒルトへ向かっていた。皇帝ラインハルトが会談を申し入れ、ヤン・ウェンリーが応じたのだ。
その艦に、地球教のテロリストが入り込んだ。
計画を知った者はいた。ヤンの出発後、ボリス・コーネフがイゼルローンに到着し、暗殺計画を知らせた。ユリアンたちは、すぐに出港して追った。
間に合わなかった。
艦内で激しい戦闘が起きる。パトリチェフが戦死する。薔薇の騎士連隊の副連隊長も死ぬ。
そして、ヤンが撃たれた。
意識が薄れていく中で、彼はいくつかの言葉を口にする。
最後に何を言ったのか
民主主義についての言葉ではなかった。
総括の演説でも、後を継ぐ者への言いつけでも、この道を歩みつづけよという訓示でもない。記念碑に刻めるような一文は、何一つなかった。
口にしたのは、謝罪だった。
すまない、フレデリカ。すまない、ユリアン。すまない、みんな。
最後にあったのは、幾人かの名前だった。
ほかにも少し話している。こんなに血が出たのだから体は軽くなってもよさそうなのに、という愚痴や、自分はなんと情けない格好なのか、といったことだ。
停戦が成立した直後、和平を結ぶために向かっていた人が、血だまりの中で話したのは、こういうことだった。
この死は、どんな死なのか
ここからは、出来事の形を正確に見たい。それが、この一篇のすべてだからだ。
ヤン・ウェンリーは、戦いに敗れたわけではない。
回廊の戦いでは、見事な指揮を執った。帝国軍の重鎮に当たる将官を何人も戦死させた。だが、彼自身の艦隊も限界に追い込まれていた。そこへラインハルトから停戦と会談の申し入れが届き、和平への機会が開かれた。
戦ったことのある敵に殺されたのでもない。ラインハルトも帝国軍も知らず、ミッターマイヤーもロイエンタールも知らなかった。殺したのは、この戦争とは関わりのない宗教組織だ。その動機は、ヤンの軍人としての歩みと何の関係もない。
この作品は八十話以上を費やして、物語で最も優れた指揮官を描き上げた。そして、その死には何も生ませなかった。
彼の死は戦局を変えなかった。帝国軍は戦う相手を失い、撤退した。
どちらの陣営の目的も前へ進めなかった。和平会談は流れた。一つの戦役を経て、ようやく開けた機会だった。
誰かの覚醒を促すことも、どちらかの陣営を転向させることも、何らかの決断を左右することもなかった。
民主主義が正しいとは証明しなかった。間違っているとも証明しなかった。
何も証明しなかった。
ここでは少し立ち止まりたい。きわめて珍しい扱い方だからだ。
たいていの物語では、重要人物の死は何かを生む。筋を進め、誰かを変え、後の出来事の原因となり、何かの理屈を成り立たせる。物語の中の死は、ふつう投資である。見返りが求められる。
今回は、その見返りがない。
転換点にすらされない。死の前後で、物事の向かう先が断絶するわけではない。帝国はこれまでどおり動き、残った人々はこれまでどおり言い争う。あの言葉は、証明されていない言葉のままだ。
同じ形が、二度現れる
この死と、第二篇で見た死を並べてみよう。
キルヒアイスは、自分を狙ったのではない襲撃で死んだ。アンスバッハが殺そうとしたのはラインハルトであり、キルヒアイスは間に立った。武器はなかった。その資格は、すでに取り消されていた。
ヤン・ウェンリーは、自分の戦争とは関係のない襲撃で死んだ。地球教の求めるものは、その戦争と関係がない。彼は和平の話し合いへ向かう途中だった。
この作品で最も重要な二つの死は、いずれも相手に敗れた結果ではない。
二人は、それぞれの陣営が持っていた最良のものだった。一人は、ラインハルトが本当のことを話せる唯一の相手。もう一人は、同盟を支えきれる唯一の人間。
どちらも、最も得意なことで負かされたわけではない。別の場所で、別のものによって、別の理由で、その生を終わらせられた。
作品は、その配置に説明を添えない。誰かを立たせて運命や無常を論じさせたりもしない。二つの出来事をそれぞれ起こし、そのまま語りつづける。
もう一層ある。どちらの死にも、そうでなくてもよかったはずの、具体的な取り決めが関わっている。
キルヒアイスに武器がなかったのは、組織のあり方に関する主張のためだった。ヤンがあの艦にいたのは、会談への招待を受けたためだった。一つの戦役を経て、ようやく開けた会談の機会であり、この物語で最も和平に近づいた機会だった。
二人とも、自分なりによい方向へ踏み出した、その一歩で命を落としている。
証明されなかった一つの言葉
民主制の下で悪政の責任を負うのは国民であり、専制の下で負うのは統治者である。ヤンが残したこの言葉は、彼の死の時点で、どんな状態にあったか。
まだ、確かめられていなかった。
守っていた国は、すでに併呑されている。勝利をいくつ重ねても、最後にはそれを防げなかった。彼自身の死も、この言葉に最も不利な注釈となる。その道を選びつづけた人間が、その道の途中で、何の意味もなく死んだのだから。
一方、よい専制君主なら民衆に公正な裁判と税制を与えられる、という向こう側の主張は、同じ時点で、大規模に、目に見える形で実証されつづけている。
ここまで来ると、一方には順調に動く帝国が丸ごとあり、もう一方には一つの言葉と、国を失った一群の人々しかいない。
ユリアン
ユリアン・ミンツは、戦災孤児の救済制度を通じて、ヤンに引き取られた子どもだった。
ヤンは多くのことを教えた。戦史の読み方、状況の見方、皆が口論しているときに、何が問題なのかを取り出すやり方。地球にも行かせ、外の世界に触れさせた。
ユリアンはヤンの家で育ち、料理をし、家を切り盛りし、ヤンの友人たちにも身内として接してもらった。後には、自分で志願して軍に入る。ヤンは止めず、進路を用意してやることもしなかった。
何になれ、とヤンが命じることはなかった。
ユリアンを後継者に指名してはいない。遺言めいた指示も残さない。自分が死んだらこうしろ、とも言わない。実際、死はあまりに突然で、何も手配する暇がなかった。
後継者は指名しなかった。残したのは、考えるための材料だった。
その違いは、死後すぐに具体的になる。イゼルローンに残った人々は、どこへ進むかを自分たちで決めなければならない。手元にあるのは、ヤンが教えたことだった。ヤンの指示ではなかった。
ユリアンは後に、イゼルローン共和政府の軍事司令官となる。そこで下す決定は、一つひとつが彼自身の決定である。
ただし、居心地の悪い部分もある。作品はそこも避けていない。決めるたびに、ユリアンはヤンならどうしただろうと考える。何度でも、ヤンを基準に戻してしまう。
一人の人間の残したものが、別の人間の頭上に掲げられた採点表にならないか。ここでは、その問いが宙に残る。作品はユリアンに、自分でそこから歩き出させる。足取りはおぼつかず、途中では、ヤンのやり方には従わないと明確に決めることもある。
この節で、それをより優れた方法だと宣言するつもりはない。作品も宣言していない。ただ、その過程を描く。一人が死に、何の手配もなく、残った者たちが自分で動きはじめる。
なぜ、その言葉は残っているのか
最後に、何も証明されなかったあの言葉へ戻ろう。
ヤンの死後も、その言葉は消えなかった。ただし、制度が存続するのとは、まったく違う仕方で残っている。
制度は、機関、文書、手続き、財政によって持続する。誰一人信じていなくても、何年も動きつづけることができる。
だが、ヤンの死後、あの言葉があるのは、それを覚えている人々の中だけだ。機関も文書も財政もない。一日存続するには、その日に、まだそのために何かしようと思う人がいなければならない。
ひどく脆いあり方だ。いつ途切れてもおかしくない。皆が死んでしまうか、散り散りになるか、もうやめようと思えば、それで終わる。
そして、もう一つの性質がある。誰かに代わりに保管してもらうことはできない。
一人が手放せば、その人の中から消える。一人が拾い上げれば、その人の中に生まれる。間をつなぐ仕組みも、代理人もいない。
ヤンの死後、作品は何話も使って、一群の人々がこれをしている姿を描く。つまずき、言い争い、間違える。去る者がいて、加わる者がいる。
その向こうでは、すべての戦争に勝った人が、二十五歳で病に倒れた。
次の一篇へ。