全文を読む
Non Dubito

行為について · 07

この名前は書かない

業界の不況で、会社は各班の下位一割を不合格とし、翌年契約を更新しない。名簿の下書きを頼まれた彼はどうするか。萌芽期、反転期、まだ訪れていない確立期。それぞれの状況は、何を変え、何を変えないのか。

Han Qin ·

あの名簿

業界が不況だった。会社は二四半期続けて目標を下回り、年初に新規則を出した。年末評価を比率で分け、下位一割を不合格とし、翌年の契約を更新しない。七人の班に適用すれば一人である。上司は最古参の彼に、まず名簿を作るよう頼んだ。

この街では、同じような仕事は見つけにくい。母もこの二年、病院へ頻繁に通っていた。辞める道があるかと、その道の代価を払えるかは別の問題だった。

これが彼の状況だ。他の時代や場所では大きく違いうる。一人の意志が法となり、人が他人の財産になる場もある。仕組みへの力添えを断れば投獄や死が待つ場もある。目的としての扱いが普通になり、自分の身をぶつけず法を行える場もありうる。そうした違いの中で、自分の法を行う人の行動はどう変わり、何が変わらないのか。道徳律と同じく、2000年以前の実際の史例を挙げる。個々の出来事を語り、人物の像を建てるのではない。

混じる現実と、三つの時期

会社がすべて悪いのではない。名簿の規則は本当だが、上司が前年、病気の同僚の半年の欠勤を支えたことも本当だ。勤怠担当も窮しそうな人へひそかに知らせた。同じ人が一件では目的、別件では資源として人を見る。同社内に真剣な関係も、より多くの取引も、よい数字を出すために、人を犠牲にすることもある。

こうした姿を混合現実と呼ぶ。目的としての働きと手段としての働きは、具体的な時と場所で必ず混じる。両端に古い二語、目的の王国と手段の王国を借りる。外だけではない。自分の能力や関係を道具にする傾向としない傾向は、一人の内にもあり、彼もその中にいる。

混合は常態でも比率は違う。道徳律は三期に分ける。萌芽期では手段化にほぼ対抗者がなく、自分の法を行う人は散在して出会えず独りで担う。反転期では出会いが増え、書簡、共同体、機関が受け止め始める。代価は重くても孤立しきらない。確立期では人を目的とするのが既定となり、衝突も手段化も残るが、まず問いと手続へ行き、強圧に戻らない。確立期はまだ来ていない。今は三期が混じり、多くの場では反転期が優勢である。

状況が変えるのは、どう行えるかで、向きや従う法ではない。「人は目的だ」ということに、萌芽期だけの版や、この会社だけの例外はなく、不況だから比率で除ける数にしてよいとはならない。逆に同法から同じ方法は出ない。別の先輩も規則を認めなくても、全く違う行為を選べる。方向が変わらないことは、新事実で具体的判断を変えないことではない。伝達役と思った上司が実は提唱者と分かれば、どう話すかは変わる。変わるのは判断であり向きではない。

萌芽期――独りで担う

八世紀、法学者アブー・ハニーファはカリフのマンスールから首席裁判官に招かれた。支配者の司法の手となり、その必要に沿って裁く席だった。彼は拒んだ。再三の要請も拒み、伝承によれば投獄され獄死した。道徳律は証拠の限界も記す。拒否、監禁、獄死の核は複数記録が一致するが、詳細は異なり、本人の原話が直接残るわけではない。

その席に就かないという行為だった。公然と罵るのでなく、執行の連鎖の一環になることを断った。至る所で仕組みに力を貸す場所で、自分が貸さない一点を守る、最も狭く代価の重い身の隠し方だ。受け止める人も、外から照らす人もなく、自ら問い説明を保つ。厳しい状況では涵育も家や一、二人、秘密の教えと学びへ縮み、後に育つ時を待つ。

代価は本当で、極めて重い。しかし悲壮なものとして書かない。称揚される徳でなく、人を手段とする環境が行為にぶつけた結果だからだ。犠牲は代価で、勲章ではない。

二つを区別したい。極端な状況が圧縮するのは条件と余地で、法ではない。可能な言葉や道が減っても、法は本人のものだ。法の存続を無傷の身体で証明する必要もない。抑圧、傷害、殺害によって自動的に植民化されるのではない。逆に自壊して証明せよとも言わず、体系は玉砕を退ける。彼は死を求めず、ただ就任を拒んだ。その時代がその否定に全ての代価を課した。

妥協、身を隠すこと、退出

彼は反転期に暮らし、多くの選択は日常だった。まず妥協した。規則を変えられず、そのため失職するつもりもない。今年一人が不合格になる限定結果を受け入れた。評価には事実だけを書き、会社の言う足手まといや不適合は使わない。今年はどの規則にも正面からぶつかるわけにはいかない、と一時退いた。

妥協とは限定結果を受け入れ、表現を調整し、一時退きながら、制度の人の規定を自分の法としないことだ。下位者は無用だという見方を認めず、規定に沿って表を出すことはできる。ただ、自分もその表の作成に加わった事実はごまかせない。内心は反対、実行しただけ、と両方真でも、無関係は導けない。内心の不賛成で参加は洗い落とせない。植民化との境界は量でなく、その規則が自分の法として立ったかだ。何年か続け、相手を見る時まず順位が浮かぶなら、妥協は別のものへ替わったのである。

評価は出したが、しないこともあった。自動順位式の設計には手が空かないと答え、四半期ごとの制度拡張に同調せず、新規則を称える記事も書かなかった。この篇の隠れは、他者を植民化する制度へ寄与しない方向を言う。貸さずに済む所で貸さず、完全達成を基準にしない。給与も報告も会社の中にあるから、全面達成はどこでもできない。基準にすれば外からの「べき」に戻る。

順位で人を会議で名指す積極的な同僚とは、できる限り協働も交流もしなくなった。一つの関係からの退出である。連絡を絶つのであり、人の資格を否定するのでない。共に働かないことは失格の判定でも、以後変わらないという否認でもない。力添えや交流をやめることは、人であるという承認と共存する。

この名前は書かない

名簿を出す前、第一篇で守った若い同僚の名を書くか、長く迷った。今年は病父の介護で三か月報告が少なく、規則上は最下位だった。

方法は一つでない。規則の働きを考えられる。一年の出来事を順位へ折り、理由を問わず最下位者を除去可能にする働きだ。誰にどう落ちるかを書いて人事に渡せる。彼女を守れる。名を出すのを拒み、しないと言える。労働仲裁や公開の発言にも持ち込める。抵抗とは行為によって手段化の働きを止めることだ。思索、執筆、保護、抵抗、対抗まで選べるが、どれを選ぶかは本人の判断と美意識に属する。

反転期には様々な実例がある。1940年夏、カウナスの日本領事杉原千畝には通過査証の権限があり、眼前には数千の難民がいた。外務省の、書類不備なら発給不可という度重なる電報に背き、閉館後まで書き続けた。およそ二千件余りで、救われた人は六千以上ともされる。戦後退職を強いられ、外交界へ戻らなかった。同じ頃、フランス南部高原のル・シャンボンと周辺のプロテスタントの村は、四年間に三千人超のユダヤ難民ら追われる人を匿った。牧師の逮捕後も釈放後も続いた。妻マグダ・トロクメは後に「どうして拒めたでしょう。助けが必要だったのです」と述べた。

1848年、プネーでサーヴィトリーバーイー・プーレー夫妻は当地初の女子校を開き、主に低カーストの排除された少女を受け入れた。道で石や糞を投げられても続け、後に数校を開いた。1930年代のソ連の植物遺伝学者ヴァヴィロフは撤回を迫られても発表、通信、会議の発言を続け、研究所の人々もできる限り守った。1940年逮捕、1943年獄死した。1879年ポンカ族のスタンディング・ベアは息子の遺骨と共に命令に背き北の故郷へ向かい拘束された。連邦法廷で「この手の色は違うが、刺せば私も痛い。流れる血はあなたと同じ色だ。私は人間だ」と語り、裁判官は先住民も法上の人だと裁定した。

1968年3月16日、ソンミ村で米兵が村民を殺害する時、偵察ヘリ操縦士ヒュー・トンプソンは進む兵士と村民の間へ降り、二人の乗員へ、村民に発砲すれば兵士側を撃てと伝えた。十数人を守り、溝の生存男児を病院へ送り、報告後に地上部隊は停止を命じられた。1994年ルワンダ虐殺時、セネガル人大尉・国連将校ムバイ・ジャニュの救出は任務、交戦規則、ニューヨークの指示を越えていた。非武装で民兵検問を繰り返し通り、数百、おそらく千人規模を安全へ送った。5月31日、帰営中、車脇の迫撃砲弾で死亡した。

これらは上下の梯子ではない。査証は学校より低くなく、法廷は匿いより高くなく、着陸も検問通過より上ではない。制度の名で割り当てもせず、この国では執筆しかなく別国でだけ抵抗できる、ともしない。人格の種類でもない。個々の出来事で、杉原の二か月から生涯を判定できない。

保護については補いたい。涵育の条件は待たない。話を聞きたいか、適するか、時かとは別に、手段化され傷つく眼前の人を見る。傷害は事実に照らす。本当に最下位か、失職するか、今調べられるなら調べる。阻むのは他人の手段化で、本人の選択ではない。翌年辞めるか転職するかは彼女のことだ。守った後の分も本人に属し、保護を口実に線を代筆しない。

今回は二つをした。介護の三か月を事実として上司と人事へ記し、この名前は書かないと上司へ言った。最後は上司が別の同僚の名を書いた。知っている人だった。後にも長く考えた。一人を守っても、規則が切る一人は減らなかった。判断後にも未決で消してはいけないものがあり、この件は残った。

極限と、三期を通して変わらないもの

反転期は容易になるのでなく、完全な孤独ではなくなる時期だ。代価の絶対量は減らず、命を払う人もいる。1942年8月、ワルシャワ・ゲットーの小児科医・孤児院長ヤヌシュ・コルチャックは約二百人の子どもと移送点へ歩いた。自分だけの脱出路は数度断り、共にトレブリンカ行きへ乗った。法は自壊の証明を求めず、彼も証明に出向いたのではない。自分だけの道は子を置き去りにできる相手と見ることを要し、それができなかった。その瞬間の本人の線で、誰への要求でもない。

確立期は未到で、ユートピアでもない。衝突と手段化は残る。変わるのはまず問いと手続へ向かい、強圧へ戻らない既定の道である。身をぶつける代価は個々人から共同の方法へ移る。抵抗は後景へ、保護は多くが共有の仕組みへ移る。危険も二つある。人は目的だという言葉が外の規則になること。周囲へ倣って慣れただけで認めていない場合だ。目的の王国の言葉で、手段の王国の行為をすること。皆が尊重と承認を語る場ほど、かえって見分けにくい。

第一篇の文型は三期とも使える。就任拒否と名を書かないことは「しない」で、それ自体が選択だ。保護と査証は、不保護と不発給を否定した必須である。強い行為ほど自分の法に由来するのではなく、弱い行為ほど少なく由来するのでもない。怒りや外の標語で対抗することも、静かな否定が自分のものであることもある。強弱は源を示さず、その確認には振り返りが要る。

模倣用の一覧でも時代別配給表でもない。三期で変わるのは余地、代価、出会える人、使える方法で、変わらないのは法だ。彼はなお同社にいて表を出し、貸さずに済む所で力を貸さない。解雇された同僚は後に仕事を見つけ、時折食事を共にしている。

原論文と読む範囲

公刊された中国語の読者向け散文を底本に、日本語で独立して書き直した。学術論文を短く要約した訳ではない。第一〜六篇の報告書をめぐる物語は架空の例であり、第七〜九篇の史例はいずれも2000年以前の個々の出来事を扱う。人物全体を認定しない。対話篇の異論は対話のために組み立てたもので、歴史上の人物の発言を捏造しない。各篇の原論文が詳しい論証へ通じる。逆境の専論には、それ自体の限定と史料への入口を付した。

原論文 ↗