行為について · 06
あの頃の自分に似ている
新人は上司好みの算出基準を、この仕事の決まりだと思っている。昔の自分に似ている、と思うのは自然だが危うい。涵育は方向であり、他者が引き受ける部分を空けておく。得たものは、他者のものになる。
昔の自分に似ている
報告書を作る彼の班に、新人が入ってきた。新人は上司好みの算出基準を決まりと受け取り、数字が悪いと、別の計算法がないかをまず考える。彼はそれを見ていた。新人の線がどこかは分からず、本人にもまだ分からないかもしれない。ただ、このままでは上司の基準がこの仕事全体の決まりになる、と気にかかった。
気になったのは報告書だけではなく、この人だった。助けたいと思った。人を目的とする人の「助けたい」とはどんなものか。どこから来て、どこまで進め、どこで逆のものになるかを、この篇では考える。
最初に浮かんだのは「昔の自分に似ている」だった。自然な思いであり、最も逸れやすい思いでもある。似ているなら道も同じで、今の新人は自分の未完成な姿だ、と考えてしまう。そうすれば援助は簡単になる。自分が通った道を示し、今の自分の立つ所へ早く到着させればよいのだから。
自分の道を相手の進むべき道にすることを、この体系は植民化と呼ぶ。自分の目的で、他者自身の法を置き換えることだ。強制も悪意も必要ではない。他の援助との違いは手段の強さでなく、行為そのものにある。本人が内側から外へ育つのを助ける反対の働きが、涵育だ。
植民化しないため、まず三つをしない。未完成な自分として扱わない。新人は草稿ではない。法が未成でも本人の筋道で育ち、後に自分へ似るとは限らない。自分への同意を、援助の目的にしない。基準を規則にできないと分かってほしい気持ちにも、相手のためと、昔の自分の正しさを認めさせたい気持ちが混じりうる。後者が入れば同意が成功の尺度になる。「君のため」は涵育の常の自己弁護で、植民化の常の偽装でもある。感謝、服従、加入で精算しない。満足は操作できる。見るのは相手自身の判断がより確かに立つかだ。真に涵育された人は、助け手へも否と言える。言えなくなれば依存であり、判断の依存は穏やかな植民化になる。
与えられる、幾つかの形
何も与えないわけではない。示すことができる。基準をどう説明し、数字が悪い時どう書くかを、新人にも見える所で自分の仕方で行う。見るか、どう考えるかは本人のことだ。問うことができる。誰向けの報告書か、と答えを含まず尋ねれば、想定外の答えもありうる。言葉を明らかにすることもできる。決まりだと言う新人へ、誰の決まりかと聞く。反駁ではなく、新人が自分の言ったことを、もっとはっきり見られるようにする。
共に考えられる。一度、二人とも基準を決めきれなかった時、結論を与えず、考えられる結果を列挙して午後いっぱい考えた。条件も用意できる。データの用途を本人が聞けるようチームの一人を紹介し、新人が最初の四半期に作る報告書には、二日余分に時間を取れないかと上司に話した。
共通するのは本人に見えるよう助けることで、目の前の配置を操作し、こちらの望むものを自動的に選ばせるのではない。人を迂回する助けと、本人を強くする助けの違いだ。技法一覧でもない。同じ問いでも、「そうするのは間違いだと思わないか」と結論を隠した罠になりうる。問いの形だけあって意味は消えている。どの方法も、本人の引受けは代行しない。何を持ち帰り認めるかは、新人の一歩である。
なぜ気にかけずにはいられないか
この節が扱う時を先に限る。一つの事柄で、目の前の相手を本当に目的としている時だ。かつて他者も目的だと認めたことは、どの件でもそうできた証明ではない。ここではこの件で本当に新人を目的としているという前提から一歩だけ進む。
自分を目的とし、自分の法を行っていると、この生が指す先は自分だけでなくてよいと気づくことがある。著者はそれを「人生の意味は人生の外にある」と表現した。ただ著者の言い方で、体系のどこかの定理ではないとも断っている。この生の向きが自分に限らないということで、意味が外のどこかへ保管されるのではない。
この件で新人を目的とするとは、法が本人のもので、彼や上司の筋道でなく本人の筋道で育つと認めることだ。帰属だけでなく、その育ちが今回の考慮へ実際に入っている。具体的な一人への承認は、その法の向きを代わりに決めず、育つ条件だけを与える接し方になる。体系はこれを、人を目的とする人の他者への接し方とする。だから今回、涵育は彼の向かう方向になる。
内側では、この方向は取り消せない。ここに立つ人は、新人の法が育つかを無関係にできない。この件で立場を離れることはできても、立ちながらその関心を消せない。ただし考えることは今回実行することと違う。能力は人により、今回はするか、誰がどうするかは本人の判断だ。黙り、待ち、適任でないと決めてもよい。動きがないだけで、新人への方向が消えたとは導けない。
誰も常時この立場にはいない。涵育は方向で、毎時できる行為ではない。他者が目的という前提ゆえ要求は高く、常時できなくても、立つ瞬間には高いままだ。三つを混ぜてはいけない。方向は能動的に取り消せない。今回何をするかは本人が判じる。今回動かないだけでは、前の二つのどちらに問題があるかは分からない。
空けておく
同じ承認を裏から見ると、彼を制止する。新人の法は新人のもので、代わりに立てたり、その線の前まで代わりに歩いたりできない。「自分と同じ線を引かせる」なら援助でなく置換だ。外に向かう涵育は方向にとどまり、必ず空白を残す。言葉を減らすのではない。見たこと、考えたこと、なぜ変えなかったかは十分語れる。残すのは、認めるか、どう判じるか、変えるか、一歩を踏み出すかどうかという新人自身の分だ。代わりに埋めれば置換になる。
三条件は相手が受け取りたいこと、受け取るのに適すること、時機が熟すことだ。一件ごとに問い、答えは相手側にある。代答せず、手がかりと質問から自分の判断をする。
意思。訪ねてこないだけで、望まないとも望むとも言えない。「変えなかった理由を聞きたいか」と聞ける。ただ彼には評価への発言権もあり、その問いが相手に代価を伴うかを自分で決められない。できるのは代価を足さず、拒否を受け入れ、後で何かを減らさないことだ。適合。望んでも必要とは限らない。新人の状況は違い、線よりも誰向けの報告かを知りたいかもしれない。別の問いへ正答を渡しても、渡し間違いだ。時機。先週皆の前で叱られ、防御しているなら、どの言葉も非難に聞こえる。聞けないのは望まないからでなく、今は置き場がないからだ。
時、相手、方法を誤れば、涵育は植民化になりうる。相手の分へ手を入れたなら、穏やかでも植民化だ。渡し間違えただけで、本人の指摘に応じ引っ込め、責めず同意も求めなければ、不成功の涵育である。すでに踏み込んだなら撤回しても発生は消えない。誤りを押し通すその時には、もう涵育ではない。
過ぎることも不足もある。侵入は過剰だ。二度の遠回しの質問を雑談と受け取り、その後新人が上司の基準を業界規則とするなら不足になる。自分が与えるとの判断が残るのに与えないのも不足で、どちらも不達成だ。与えない側が安全とは先に決めない。今回の危険を比較する。何でも半分にせよという話でもなく、自分の分は十分に差し出し、新人の分だけを残す。迷えばまず尋ね、本当に否を受け入れればよい。
涵育しない時も、消せない二つ
自分にできるかも判断である。別の先輩は得意で可能と判じるか、同じく不能と判じるかもしれない。それぞれ自分と新人との関係を判ずるので、違っても両方正しい場合がある。自分にはできないは、新人の悪さや愚かさの判決ではない。能力が少なくても目的視が少ないとは言えない。ただ「できない」が「したくない」の言い換えにもなりうる。それは振り返る。少なくともこの言葉では嘘をつかない。
涵育しないのは、何もしないことではない。三条件や能力を問わず二点は消せない。新人の代わりに立法しない。陰で報告を直さず、勤め続けるかを決めず、心で先に線を描き本人が「自ら」そこへ来るのを待たない。道を閉じない。拒否、変更、退出、転向の扉を閉めず、年末評価と引換えに従わせない。上司へ新人の仕事ぶりを尋ねられ、事実と班での職務に沿って答えるのは、道を閉じることではない。
三つは涵育の条件で、二つは植民化しない境界だ。涵育は起きなくてもよいが、非植民化が不要になる時はない。別の根拠で待たずにすることもある。基準が他チームを傷つけるなら事実を報告し、元来の職務を行い、傷つく人をまず守る。その際も新人の線は代筆しない。自己への一点もある。この人のため自分を使い果たさない。過耗は与えるものを歪める。待つ間も何もしていないのではない。最も大切な準備は、来て質問でき、聞けば話すと本人に知らせることだ。
やがて、聞きに来た
新人が来た。変えるべきかでなく、なぜ昔変えず、なぜ伝えたかと聞いた。自ら来て、自分の問いを、聞ける時に聞いたので、三条件がそろった。彼は自分の考え、消したものと残したもの、なぜ伝えずにはいられなかったかを話した。新人の行動は指示しなかった。持ち帰って引く線は本人のことだ。与え終えれば退く。
数年後、よく働く新人を、人は彼が育てたと言う。条件を与えた半分は真実だ。しかし報告の見方を認めたのは新人自身の法である。私から得たものでも、本人の法が引き受ければ本人のもので、本人の成立を私が代行した構成にはならない。これは成立の帰属だけの話で、功績、著者性、利益は別々に調べる。喜びも実際の役割も否定せず、条件を与えたから自己になる一歩も代わった、という文だけを退ける。質問が減り、線が異なることも失敗ではない。しかしそれだけで成功の認定もできない。
家にはもっと見分けにくい例がある。建築を学び設計事務所で働く娘へ、進学時には勧めた。若い自分が叶えなかった志望だった。二年時の転科は嫌だったが、意見を伝え本人に決めさせ、結局転科しなかった。今、人には自分が導いた道だと語る。娘のためか無念の穴埋めかは分からず、後に振り返る。ただ動機が不明でも二点は成り立つ。法を代わって立てず、転科は本人が決めた。学費や不機嫌を使い扉を閉めなかった。今建築家なのは本人の法が認めたことだ。勧めた事実と、その一歩を代行したことは違う。
涵育する人も、されうる。新人の問いに午後中答え、その後数日、昔の関心が自分のものかを考えた。それまでしていなかった問いだ。後には、長すぎる説明は誰も読み切らないと指摘され、納得して短くした。条件を与える側は片側に固定されない。
なぜ代わりに立法しない人が、他者の法の育ちを気にかけるのか。そしてなぜ、その関心を他者へ課す行為にできないのか。最後は一つの答えになる。この件で、その人を目的と認めたからだ。承認が目を向けさせ、同時に強要を止める。二規則でなく同じことの両面である。いつ出し、いつ退くかを決める規則はなく、必要でもない。目の前の一人を目的と認め、その都度自ら判断する人がいるだけだ。
原論文と読む範囲
公刊された中国語の読者向け散文を底本に、日本語で独立して書き直した。学術論文を短く要約した訳ではない。第一〜六篇の報告書をめぐる物語は架空の例であり、第七〜九篇の史例はいずれも2000年以前の個々の出来事を扱う。人物全体を認定しない。対話篇の異論は対話のために組み立てたもので、歴史上の人物の発言を捏造しない。各篇の原論文が詳しい論証へ通じる。逆境の専論には、それ自体の限定と史料への入口を付した。