大知が読む『荘子』 · 第六十五篇
説明し終えたあと、読者に何を残すのか―寓言を読む
物語なら自由で、説明なら押しつけなのでしょうか。三つの語りと陽子居の席をたどり、この解読自身の責任にも戻ります。
話し終えたあと、何が変だったのか言えない会話があります。相手は明快で辛抱強く、意見もずっと聞いてくれました。しかし、こちらが違うことを言うたび、例を替えてまた説明し、待っていた一言が出るまで続けます。何度も参加したのに、本当には参加していないようです。「寓言」の冒頭は、どう話すかを論じます。ここで私が最も気になるのは、物語を使っているかどうかより、話す人が聞き手に何を残すつもりなのかです。その問いは、この解読を書いている私にも向けなければなりません。
三つの名は、配合表ではありません
寓言は十に九、重言は十に七。卮言は日々に現れ、自然の境に和する。
寓言は、外のものに託して語ること。重言は、重みのある人の言葉を借りることとよく説明されます。卮言は酒器の像を借り、ものの変化に応じて一端に固執しない語りを述べます。入り口のための説明で、三語に異論がなかったという意味ではありません。「集釈」には、重言を繰り返して述べる方向で理解する意見も、卮言の異なる説明も残ります。郭象は器が傾いたり上を向いたりする姿で、変化に応じることを説明します。その比喩は理解できても、復元を終えた古代の器の実験として扱う必要はありません。
「十に九」と「十に七」も、そのまま足して、全書の九十パーセントと七十パーセントの内容配分にはできません。郭象は、十の言葉のうち九または七が信じられると読み、篇中で用いる割合とする読みもあります。この随筆は数字を統計結果にしません。大切なのは、話すことは文だけの問題ではないと認める一節であることです。誰が、どんな立場で語り、聞き手がどう近づくか。それによって一つの言葉が出会う抵抗も変わります。
父は、なぜ息子の仲人にならないのか
文章は、人情に近い比喩を使います。父が自分の息子を褒めるより、他人が褒めるほうが信じられやすい。父の言葉は必ず嘘だ、ということではありません。聞く側が関係や立場を考えるということです。今日の推薦や紹介でも、なぜこう言うのか、不利な部分を抜いていないかと、まず尋ねます。その懸念は過剰な場合も、とても必要な場合もあります。
原文は続いて、自分と同じなら応じ、違えば反対し、同じであることを正しく、違うことを誤りとする、と述べます。理由を真剣に聞く前に、どちらに立ちたいかをもう見つけてしまう、なじみの傾向を映します。ただし、誰もが必ずそうする鉄則ではありません。異論を直接聞いて目が覚める場合もあり、物語の立場もすぐ見抜かれて拒まれる場合があります。明快さと受容は別ですが、行き来できない二つの世界へ分ける必要もありません。
問題が表現にある場合も、関係にある場合も、相手には同意しない十分な理由がある場合もあります。すべての拒否を、まだ心の防壁を突破できていないからだと説明してはいけません。言い換えればいつかは正答を受け取るはずだ、とするように。
自分で説明することを禁じてはいません
この冒頭は説明しているのだから、外のものに託して語るのが有用なら、なぜ自分では完全な物語を語らないのか、と問う人もいるでしょう。形式で自説を覆していないか、と。鋭い問いですが、結論を急いではいけません。初めに「すべての言葉は寓言でなければならない」という規則を立てたわけではなく、父の仲人という比喩も実際に使っています。ある書き方を説明する際、一文ずつすべて同じ書き方にする必要はありません。
重言を語るところでは、年だけ重ねて相応の見識がない人も問われます。卮言では、語ることと語らないこと、可と不可をめぐってさらに論が進みます。権威を一人探して他者を押さえつけよと単純に教えているのでも、「もう説明するな」の一言でもありません。読者の発見を助けるかは読んで判断すべきで、説明文だからと先に失敗を宣言することはできません。逆に、まとめのない物語も、それだけで自由の保証にはなりません。
伝え方を語る人は、当然その実際の方法を確かめられてよいのです。異論を認めると言いながら、異論が出るとすぐ罰するなら、実際の矛盾があります。ただ「方法を語ること」と「あらゆる場で同じ形式を実践すること」の間には、まだ見極めるべき隔たりがあります。
あの席へ戻る
この篇の末尾は、第五篇で読んだ陽子居です。行きには人々が迎え送り、席を譲り、かまどのそばの人まで退きます。帰りには宿の客が彼と席を取り合います。二つの光景の間で、何も語られなかったわけではありません。老子は彼の尊大さを直接指摘し、「真に白いものは汚れているように見え、豊かな徳は足りないように見える」と言います。陽子居は顔つきを変え、謹んで教えを受けると言いました。原文は直接の教えをはっきり残しています。結末の貴重さは、それでも「道を得た」という証明書をもう一枚発行しないところです。人々が彼とどう過ごすかへ戻って、あの言葉が何を残したかを読者が見る。説明しないのではなく、説明の先にも生活があるのです。
冒頭の議論と末尾の場面を合わせて読むと、形式の違いを味わえ、助け合う働きも見られます。その並置自体が、さらに大きな寓言のようだとするのはおもしろい読みです。しかし、編者が末尾で冒頭を否定するよう意図した、と証明することはできません。一つの篇に異なる声があっても、必ず勝者を決める必要はありません。この説明で何が多く見え、あの場面によって説明のどこが再び考えたくなるのか。そちらの問いのほうが役立つかもしれません。
他者の口を借りても、自由を渡したとは限りません
物語は対立を少し遠ざけ、すぐ自分の立場を守らなくても済むようにできます。先に人物の出来事を見て、それから自分の問題へ戻る。その距離は貴重です。しかし他者の口を借りることは、話し手の意図を隠すためにも使えます。選び抜いた事例、答えが一つしか許されない問い、独立した証言を装う推薦は、直言より点検しにくい場合があります。物語と誘導的な話術の違いは、最後にまとめがあるかだけではありません。結論のない物語でも、材料を一本道になるよう並べられます。直接の説明でも、根拠を正直に示して、聞き手が抜けを指摘することを認められます。
具体的には、相手が「いいえ」と言ったあとも会話があるかを確かめられます。前提へ戻って点検できるか。例が合わないと認められるか。その人がすぐ表明しないことも認められるか。ためらいがすべて未熟さに数えられるなら、物語の優しさは別の催促かもしれません。明確な助けが必要なときには、啓発を重荷にもしないことです。どのボタンを押せばよいか知らない新人には、教えられます。約束への返答を待つ相手には、説明しましょう。毎回こちらの意味を当てさせることが、すべて代わりに決めることより尊重しているとは言えません。
この解読も、問いの中にあります
第六十五篇まで来て、問いを古人だけに残すことはできません。これらの文章はずっと説明し、細部を選び、判断を出し、どこで立ち止まるべきかを読者に伝えてきました。原文が自分で話しているわけではありません。「普通の読者のため」を、あらゆる説明への免責証明にしたくはありません。説明は作品に入る助けにも、読者自身が発見できたはずのものを奪うことにもなり得ます。具体的な文章でどちらになるか見なければならず、著者の好意で先には決められません。
だから最後の一篇まで待たず、ここで私の責任を明らかにします。引用は確かめられ、補ったものと原文は分けられ、判断には理由があり、異論のあるところには別の読みも入れるようにする。説明によって物語が以前より狭くなったなら、その説明は修正されるべきです。一段ごとに免責文を積むという意味ではありません。必要な出典は末尾へ置けますし、重要な分かれ目は目の前に残せます。本文にはなお自分の声が必要です。なければ読者が受け取るのは、間違いが怖くて後退し続ける人だけになってしまいます。
自分が何を読んだかを明確に言いながら、読めるものはこれ一つだと受け取ることまでは求めずにいられます。違う問いを持って原文へ戻るあなたを、この文章たちが急いで呼び戻す必要はありません。末尾のあの席は、なお覚えていたいものです。言葉はたくさん語れても、本当の変化は別の人との時間で見なければなりません。解読を読み終えたとき、読者と作品の間に自分で行ける道が増え、従うべき解説者が一人増えたのではないなら、書いた言葉にも少しは役目があったと言えるのです。
原文と出典
この日本語版は、Non Dubitoの中国語散文の全文を底本に、日本語の読者へ向けて独立に書き直しています。『荘子』全体の翻訳ではなく、古文の引用もここでは内容を日本語で述べ直したものです。もとの中国語ページには古文を残してあります。既存の英語版も独立に執筆され、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。現代の出来事とのたとえや、そこからさらに考えを進めた部分は、この随筆の著者の読みであり、古典に別の事実が書かれているという意味ではありません。
原文と読み方について
原文と読み方:「寓言」中国語原文 ↗
中国語ページには古文の引用が残っています。既存の英語の語りは、この版のために独立に書かれたものです。この日本語版では引用の内容を日本語で述べ直しています。現代とのたとえや、そこから先の考察は著者による読みであり、原典に別の出来事が記されているという意味ではありません。
参照した注釈:『荘子集釈・寓言』中国語 ↗