大知が読む『荘子』 · 第六十六篇
錠も一緒に持ち去られた―鉤を盗む者は罰せられる
防護が働かないのではなく、よく働くまま大盗を助けるとしたら。箱から国へ進む激しい論を読み、警告と処方を分けて考えます。
長い文章を読んでいて、一文にはっと止められた経験があるでしょう。その部分を切り取って友人に送り、残りは読まずに終わる。「帯の鉤を盗む者は罰せられ、国を盗む者は諸侯になる」。不公平は、これほど短く言えるのです。不当な扱いを受けた人なら、ほとんど注釈なしにその棘がわかるでしょう。確かに残しておきたい一句です。ただ「胠篋」は、偉い人の悪事は罰を免れやすいとだけ言っているのではありません。前へページを戻すと、まず一つの箱を見るよう促されます。
錠を開けたのではありません
箱に物を入れた持ち主は、盗まれるのが心配です。そこで結び目をきつくし、錠を丈夫にします。普通に言う防犯の知恵です。しかし大盗は、しゃがんで開錠の方法を調べたりしません。箱ごと担いでいきます。そのときはむしろ、紐が緩く、錠が弱くて、中身が道中で散らばらないかと心配します。錠は彼を阻むはずなのに、いま彼は、それが十分に働くのを願っています。不快なのは「錠が効かなくなる場合もある」ことではありません。それは誰も知っています。錠を効かなくしなくても盗めることです。一種類の窃盗に備えた持ち主の方法が、別の力の前では、相手の戦利品を守ってしまいます。
ただし「錠が多いほど危険だ」という防犯の法則ではありません。錠はある種の窃盗をなお防げますし、物を一緒にしておくかも錠だけで決まることではありません。物語は箱ごと運べる人を登場させ、最初の問いが小さすぎたと見せます。誰が箱を開けられるかだけを問い、誰が箱も一緒に持っていけるかを問わなかった。保護はなお有用ですが、その範囲を見直す必要があるのです。
「これは正しい」という名目まで持ち去る
続いて文章は、箱を国へ替えます。田成子は斉を奪い、もともとの制度と名目も一緒に手に入れます。これは篇中の政治の叙述で、細部をすべて検証済みの史実としなくても、何を問うかは読めます。財物だけを奪えば、元の規則から賊と判定されるかもしれません。しかし、裁定する規則、命令する地位、統治を擁護する言葉まで握れば、少し多く奪ったというだけではありません。誰が誰を賊と呼ぶ資格を持つかまで、その人が決めるかもしれないのです。
そのため、斗や斛、はかり、割符や印璽へ話が進み、仁義にも及びます。物を量る道具も、権力を確かめる証しも、行動を正す道理も、それぞれ用があります。文章は、それらが一式持ち去られ、奪った人のために働くのではないかと迫ります。「鉤を盗む者は罰せられる」は、この一節にあります。この随筆では『荘子集釈』の本文に従い、あとに「諸侯の門には仁義がある」と続けます。そこに座れば本当に仁慈になる、という意味ではありません。正当な名目まで、なぜ勝者についていき得るのかという問いです。
郭象は前の注で、聖人の法も人が用いるもので、それだけですべてに適う道具とはならない、と言います。制度や方法は人が使い、よい名前だけでどこでも適切だとは保証できません。難問を消すのでなく、札だけを調べて安心できなくする指摘です。日常の例を思います。数人で仕事をして、帳簿は公開し、大きな支出は皆で相談すると決めていました。のちに一人が、金を預かるだけでなく、記録のすべてを握り、どれが大きな支出かを定め、争いの裁定もすべて主宰するようになります。
まだ何かを横領したとは限りません。それでも、問題が起きたとき、以前の「私たちには規則がある」だけで安心できるでしょうか。見たいのは、記録を確かめられるか、決定を問いただせるか、異議を出した人がそのために発言の場を失わないかです。古文から引き出した現代の問いであって、古文にすでに完成した統治案があるということではありません。
警告から断言までは、まだ道があります
ここまで来ると、さらに文章についていきたくなります。盗跖の仲間は、盗賊にも道があるのかと問います。返答では、判断力や勇気、分配などの能力が窃盗の中に配置されます。普段褒められる能力が、それを使う人を自動的に律するわけではありません。この論は後半に突然出たのでもありません。箱の冒頭にも明確な議論があり、有名な「聖人が死ななければ大盗はやまない」も「鉤を盗む者は罰せられる」より前です。あとでは「聖を絶ち知を捨てれば、大盗はやむ」へ進み、ますます断固とした調子になります。
激しいから思想がないとは言えません。高尚な規範を作れば権力は当然善の側に立つ、という見破りにくい安心を攻撃しています。その名目に押さえつけられた人には、激しい言葉で初めて問題が語られるかもしれません。それでも私は、ここで止まります。よいものが濫用され得るなら、それを全部撤去すれば濫用は消えるのでしょうか。強者が物差しを持ち去れることは、弱者が物差しを失えば安全になることを意味しません。仁義は不義の顔を覆えますが、不義を暴く根拠にもなれます。二つは別に論じなければならず、より大きな声の一句で飛び越せません。
「胠篋」は、その先で道具を壊し、名人の感覚を損なう激しい像まで描きます。旧注はしばしば、競ってまねる外の標準を取り去ることで、字義どおり傷つけることではないと読みます。ただしその解釈で、原文の鋭さも丸めてはいけません。文明一式の自信に実際に挑んでいるのです。その挑戦を真剣に聞きながら、現実に知識や規範を廃し、人を傷つける許可とはせずにいられます。明るみに出した危険を受け入れることは、処方のすべてに従ったことではありません。
郭象も、ずっと一緒にうなずいてはいません。天下のさまざまな技巧が残るのに、聖人の知恵だけを取り去れば、害がかえって増えかねないという、別の懸念を示します。もっと徹底した変化を望むのですが、一つの防護を外せば万事よしとはしませんでした。その違いを残したいと思います。古人が古人を読むときも、信じるか信じないかの二つの立場だけではなかったとわかります。方法が悪人を助け得ると認めることと、いまそれをどう変えるかを決めることの間には、なお人々にどんな影響があるかという問題があります。
あのよい言葉は、その後あなたのために何をしたか
初めのスクリーンショットへ戻りましょう。短句に罪はありません。複雑な説明の中で最も明らかな不公正を見失わないために、覚えられる一句が必要なこともあります。転送や共有は、読書の終わりでなく、始まりにもできます。違いはその先です。具体的なことに出会ったら、誰が何を、どう持ち去ったか、誰が誰の正当性を証明しているか、どんな資料ならいまの判断を変えるかを、続けて問えるでしょうか。
その問いが見えやすくなれば、言葉は役立っています。どんな異論も先に大盗の擁護と判定してしまうなら、代わりに扉を閉め始めています。問題は何度広まったかでなく、何に使ったかです。広く伝わっただけで理解は必ず浅いと断定する理由はなく、全文を読んだ自分のほうが一句だけ覚える人より明晰だとも証明できません。
この連載にも問わなければなりません。「物語は人に余地を残す」「結論を代わりに済ませない」も覚えやすい言葉です。その言葉を当てはめて、「胠篋」の政治的な怒りを低い書き方へ分類するなら、使いやすい錠を取り替えただけです。第六十四篇で「駢拇」を読み、第六十五篇で説明そのものを見直したのに、ここでまた「荘子はどこで止まるべきか」の一言によって、説明の責任を免れるわけにはいきません。なぜ初めの観察には賛成し、その後の結論までついていかなかったか。確かめてもらえるよう、理由をここへ出すべきです。
案内では問いを読者に残すと言いました。それは各篇の末尾に疑問符を一つつけることではありません。問いにも予定した答えが隠れ得ますし、陳述も率直に反論を受け入れられます。本当に残すべきは、原文へ戻り、ほかの可能性を見つけ、この解読を受け入れない余地です。あの箱はまだあります。使い慣れた防護も別の目的に利用され得る、と教えます。その教え自体も同じです。覚えてから、目の前のことを見ましょう。その一句があるだけで、すべての錠を見抜いたと思わないように。
原文と出典
この日本語版は、Non Dubitoの中国語散文の全文を底本に、日本語の読者へ向けて独立に書き直しています。『荘子』全体の翻訳ではなく、古文の引用もここでは内容を日本語で述べ直したものです。もとの中国語ページには古文を残してあります。既存の英語版も独立に執筆され、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。現代の出来事とのたとえや、そこからさらに考えを進めた部分は、この随筆の著者の読みであり、古典に別の事実が書かれているという意味ではありません。
原文と読み方について
原文と読み方:「胠篋」中国語原文 ↗
中国語ページには古文の引用が残っています。既存の英語の語りは、この版のために独立に書かれたものです。この日本語版では引用の内容を日本語で述べ直しています。現代とのたとえや、そこから先の考察は著者による読みであり、原典に別の出来事が記されているという意味ではありません。
注釈と引用の字句:『荘子集釈・胠篋』中国語 ↗
引用の後半は『集釈』に従って「仁義」としました。上記ウィキソースの本文では「義士」となっています。