国家の歩みと後戻り · 歴史を読む · 01
閉じ込められたあとも、「なぜ」と問えるのか
非常事態の下でも裁判所は残り、後には選挙が政権を変えた。この二つを並べて初めて、問いを届ける道がどう閉じ、どう再び開かれたのかが見える。
拘束された人が、裁判所に一つだけ確かめてもらおうとする。なぜ自分を閉じ込めてよいのか。その人はまだ、自分を善人だと信じてほしいとも、国に間違いを認めてほしいとも求めていない。まずは拘束の理由を外へ出し、拘束した側とは別のところで見てもらいたい。それだけである。
1976年4月28日、インド最高裁判所は、人身保護を求める一群の事件で、四対一の判断を示した。当時の大統領命令のもとでは、被拘束者はこの訴訟の道を使って高等裁判所に訴え、拘束が違法か、悪意によるものか、それどころか根拠とされる拘禁法に従っているかを審査してもらうこともできない。一般にADMジャバルプル事件と呼ばれる判決である。[1]
裁判所の入口に封鎖線が張られたような話に聞こえるかもしれない。だが、その判断を下したのは、現に審理を続けている裁判所だった。記録も弁護士もあり、多数意見も反対意見も残っている。閉ざされたのは、ある問いを救済へつなぐ道だった。
まずはここにとどまり、国全体への総評を急がずにいたい。外から見る人には、裁判所は動いている。拘束の当否を調べてほしい人にとって、その動きが自分にも関わるものなのかは、別の問いなのだ。
同じ憲法の中に、違う入口ができた
事態はこの判決から始まったわけではない。1975年6月25日、大統領は国内の騒乱がインドの安全を脅かしているとして、非常事態を宣言した。当時の憲法は、実際にこの理由による宣言を認めていた。発動の要件を「武装反乱」に変えたのは、その後の改憲である。後年の文言を使って、当時からそう書かれていたかのように説明してはいけない。[2][3]
当時、法律上の入口があったと認めることは、そこから先のすべての行為を正しいと認めることではない。ある権力に法の中で名前が与えられていても、その都度、要件は満たされているのか、どこまでできるのか、誰が正せるのかを問う必要はある。そうでなければ、一度の発動が、後に続くすべての決定への白紙委任になってしまう。
二日後の大統領命令は、憲法第14条、第21条、第22条の権利を実現するために裁判所へ訴える権利を停止した。平等、生命と身体の自由、逮捕・拘禁に際する保障に関わる条文である。ここは区別しておきたい。条文を憲法から削除したのではなく、それに対応する司法的な実現の経路を、一時使えなくしたのである。第19条の自由には別の非常事態の仕組みも関わっており、複数の違う仕掛けを同じ一通の命令として書いてはいけない。[1]
権利の条文が本に印刷されていることと、今日、その条文を使って助けを得られること。その間には、これほどの距離があった。法律家の細かなこだわりのように聞こえる区別も、拘束された人には、問いを持って行ける場所があるかどうかになる。
ただ、当時の裁判官が全員、道は閉ざされたと考えたわけでもない。最高裁に上がってきた事件のもとには、いくつもの高等裁判所の判断があった。基本権を実現する特定の経路が停止されても、行政による拘禁が、その根拠である法律に従っているかは調べられるはずだという判断である。最高裁の多数は、後にこの道を認めなかった。[1]
単に「政府が裁判所を閉めた」という話より、事情は複雑で、その分よく見る必要がある。なお使える権限を各裁判所がどう理解するかで、同じ被拘束者の置かれる状況は変わる。機関が残っているかどうかだけでは、何ができるかはわからない。同じように、最後の判断が不利だったからといって、それ以前に実際に行われた審査を、なかったことにもできない。
唯一反対したハンス・ラージ・カンナ判事は、身体の自由を、憲法の条文が何もないところから作り出し、一つの実現経路がなくなれば一緒に消えるものとは考えなかった。行政が自由を奪うにはなお法律上の根拠が必要であり、裁判所はその問いを全面的に手放してはならない、と主張した。[1]
重要な反対意見だったが、その日の多数判断にはならなかった。そこに残そうとしたのは、ごく基本的なことだ。国が人の自由を奪うなら、どの法律によってそれができるのかを説明しなければならない。しかし四対一という結果は、その要求を被拘束者が使える救済にはしなかった。最高裁の中で、この道を閉じてはならないと言う人がいた。それでも道は閉じた。
だからといって、反対意見に何の働きもなかったわけではない。後の人が拾い直せる、別の判断を残した。ただし、「反対する理由が残る」ことと、「今ここにいる人の拘束が審査される」ことは同じではない。後になって正しかったとわかった、という一言で、歴史の中を生きた人にとってのこの隔たりを飛び越えてはいけない。
一票が、実際に人を職から退かせた
1976年で話を止めると、行政による拘禁が続き、司法的な救済が狭まり、最高裁の多数がその縮小に法的な支えを与えた、という図になる。それはひどく完結した図であり、同時に大事なものを欠いた図でもある。インドはその後、ずっとこの図のまま進んだわけではなかった。
1977年に下院選挙が行われ、国民会議派は中央の政権を失った。インディラ・ガンディー自身もラーエ・バレーリー選挙区で敗れ、ラージ・ナーラーヤンが当選した。選挙委員会の結果記録を読むのに、有権者一人ひとりの投票時の気持ちを想像して書き足す必要はない。[4]
ここには素朴だが確かな変化がある。それまで非常権限を動かせた人が、元の地位に自分をとどめておくことはできなかった。一票は、態度を表すだけのものではなかった。誰が政府をつくるのかを変えたのである。
だから、以前の経路が狭められたことを理由に、後の選挙も中身のない殻だったと書くことはできない。現に起きた変化を消してしまう。逆に、選挙で政権が変わったからといって、それ以前の拘禁や救済の妨げを、制度が育つ途中の小さな挿話として済ませてもいけない。それでは拘束された人を消すことになる。
私たちは今、選挙の結果を知っている。1976年に救済を求めた人は知らなかった。まだ投じられていない一票を先に持ってきて、待っている審査の代わりにすることはできない。結末を知った物語として歴史を書くと、当の人にはあとどれだけ待つのかわからなかった、ということを見失いやすい。
1975年に宣言された非常事態は、1977年3月21日に解除され、その後に新政権が発足した。非常の状態を終わらせること、別の人々を統治の役につけること、以前の制限を可能にした規則を変えることは、さらにそれぞれ別の仕事である。[2]
人が代われば、権力がひとまず以前と同じようには使われなくなることもある。だが、それだけでは後の人が同じ使い方をできない保証にはならない。後任が信頼できるとしても、問いは残る。次に信頼できない人がそこへ座ったら、どうなるのか。
すべての権力者がいつか必ず悪くなる、と決めつける必要はない。規則が大切なのは、毎回一人の性格に賭けなくてよくするからでもある。目の前の人を信頼するのは、人と人の間の判断だ。後に影響を受ける人にも問える場所を残すのは、それとは別に作り上げなければならない仕組みである。
選挙のあとに、何を留めておくのか
その後の第44次憲法改正は、非常事態の入口をいくつか狭くしようとした。「国内の騒乱」を「武装反乱」に変え、内閣が決定を文書で大統領に伝えることを必要とし、議会による承認や延長の条件も厳しくした。非常権限をなくしたのではない。発動し、続けることを、以前ほど容易にはさせない試みだった。[3]
もう一つの変更は、冒頭の被拘束者に直接戻ってくる。改正後の第359条では、この仕組みを使って、第20条、第21条の権利を実現するために裁判所へ訴える権利を停止することは、もはや許されない。守られるのは、尊重すべき一行の文字だけではない。その一行を持って問いを差し出す道も含まれている。[3]
条文をすべて暗記する必要はない。前の経験を踏まえ、別々のところに打ち込んだ留め具と考えてもよい。宣言の前に、誰が正式な決定をしなければならないのか。宣言後には、誰が定期的に同意するのか。不同意の人が終結を求めて動かす方法はあるか。最も基本的な自由への問いが、権利を裁判で実現する道を止める一通の命令で、裁判所の外に締め出されてよいのか。
その留め具が本当に効くかは、実際の使用を見なければわからない。承認、公示、施行、執行を一つの日付にまとめてはならない。改正法の名には1978年とあるが、大統領が承認したのは1979年4月30日で、各条の施行は別に通知を調べる必要がある。簡潔に書きたいからといって、歴史の途中の手続きがなくなるわけではない。[3][5]
とりわけ、新しい保障を過去への補償として扱ってはいけない。その後、人を拘束することが難しくなったとしても、すでに失われた日々が本人へ返ってくるわけではない。制度が一度の失敗を覚えていることと、一人がその後の人生をどう生きるかの間には、なお長い距離がある。
この数年のインドでは、相反するように見える二つの判断がともに成り立つ。とりわけ必要な司法的救済が閉ざされた時期があった。そして後の選挙は、現実に権力を持つ人を退かせた。どちらも、もう一方に代わって話を終えることはできない。
選挙の側からだけ振り返ると、傷を負っても自分で治る身体のように制度を書きたくなる。あの判決からだけ振り返ると、その後のあらゆる手続きを役立たずの飾りと見なしたくなる。どちらも簡単すぎる。誰が何をしたのかを、それ以上見なくてよくしてしまうほどに。
カンナが残したのは、その日の結果にはならなかった反対意見だった。有権者は後に、与党が政権を続けられないという結果を残した。改憲に携わった人々は、経験の一部を将来必ず通るべき手続きにした。裁判官、有権者、立法者は、一人の主人公が章ごとに姿を変えたのではない。行った修復も同じではない。
持ち帰れるのは、もう少し小さな問いかもしれない。次に「権利は保障されている」と聞いたら、すぐうなずかなくても、すぐ冷笑しなくてもよい。影響を受ける人は、その保障を手にどこまで行けるのか。相手が「今は特別だ、また後で」と言ったとき、その「後で」を本当に終わらせることのできる人はいるのか。
国は大きい。前へ進んだか後戻りしたかを判じるだけなら、一言で済むこともある。だが、閉じ込められた人が、別の場所にいる誰かに「何を根拠に」と真剣に問うてもらうには、具体的な多くのものが一緒に支えなければならない。1975年から1979年のインドは、それぞれの道が同じ時に開かれたのでも、同じ時に閉ざされたのでもないことを、私たちに示している。
史料と読書上の注意
公刊された中国語の歴史随筆全文から、日本語の読者に向けて独立に書き直しました。既存の英語版も独立執筆で、簡体字・繁体字の中国語版は全文を載せています。扱うのは実際の歴史であり、架空の事例、現行法の案内、国の順位づけではありません。史料の記録、法的判断、筆者の構造的な解釈は別のものとして扱い、対話、人物の内心、複数人を合成した人物を補作していません。番号付きの史料と利用範囲は下記のとおりです。背景となる哲学論文 · EN / 中文は任意の併読です。問い方の手がかりであって、歴史的証拠に代わるものではありません。
- ADMジャバルプル事件 · インド最高裁判決、1976年4月28日
JUDISの判決文を転載したミラー。冒頭の高等裁判所事件の経緯、1975年6月27日と1976年1月8日の命令、カンナの反対意見、末尾の多数判断を参照。裁判所の旧ダウンロード先は現在404であり、この転載先を公式サイトとは扱わない。
- インド連邦対Bhanudas Krishna Gawde · 最高裁判決、1977年
判例集の印刷頁439–441に、1971年の対外非常事態、1975年の国内非常事態と、それぞれの解除命令が収録されている。後者の宣言は6月25日付、26日公示で、1977年3月21日に解除された。二つの非常事態を混同しない。公式PDFは読み込みに失敗することがある。
- 1978年第44次憲法改正法 · インド公式本文
第1節、第37節、第39–40節および立法目的の説明を参照。PDFの3頁と5頁は、1978年5月9日付の説明と、1979年4月30日の大統領承認を分けて示す。承認されたことで、すべての条項が一律に同時施行されたわけではない。
- インド選挙委員会 · 1977年下院選挙統計報告、第1巻
全国の政党別結果とラーエ・バレーリー選挙区の記録。PDF185頁にラージ・ナーラーヤンとインディラ・ガンディーの得票がある。同時代の表にある政党の略称を、後の分類へ黙って置き換えない。
- ボンベイ高等裁判所図書館 · 憲法改正一覧、第63項
公式機関の一覧は、1979年4月30日の承認と官報記録、6月20日の施行に関する記録を示す。改正法第1節と併読するもので、すべての節が同日に施行されたことの証明にはしない。