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Non Dubito

国家の歩みと後戻り · 歴史を読む · 03

あの投票の後にも、議会はあったのか

ドイツ · 1933年

ヴェルスは反対する理由を述べ、九十四人が反対票を投じた。それでも法案は通った。失われたのは、一度の採決だけでなく、次の反対を有効にするための条件だった。

Han Qin ·

実際の歴史を読む随筆です。架空の事例、現行法の案内、国の順位づけではありません。史料に記された出来事、裁判所の法的判断、筆者による構造の読み取りを区別し、対話や内心、複数人を合成した人物を創作していません。

1933年3月23日、オットー・ヴェルスは、ある法案に反対して立ち上がった。政府に国を治めるなと言ったのではない。むしろ、与党はすでに多数を得て、憲法に従って統治できるのだから、いっそうそうする義務がある、とその場の人々に訴えた。批判は、国家から取り除くべき障害ではない。公の事柄を、なお誰かが調べなければならない理由なのである。[1]

その日、ドイツ国会はベルリンのクロル歌劇場で開かれた。元の議場は2月の火災で損傷していた。臨時会場の外には親衛隊が、内には武装した突撃隊員がいた。席に着ける人もいれば、逮捕された人も、追われて身を隠している人もいた。最終記録は賛成四百四十四、反対九十四。出席した社会民主党議員は全員、反対票を投じた。[2]

反対の声が出なかったのではない。記録に入り、発言者の名と票数も残った。だが、反対意見が記録されることと、反対する側が次の機会に結果を変えられることは、ますます別のものになっていた。

この投票を、簡単に読み過ごせない理由もそこにある。全員が黙ったのでも、手続きがすべて止まったのでもない。人々は話し、議員は投票していた。その場で通そうとしていた法案が、将来どんな事柄を彼らに持ってくる必要があるのかを、変えようとしていたのである。

投票の前に、誰がすでに欠けていたのか

3月23日だけを映せば、ある午後に議会が突然、自分を不要と決めたようにも見える。だが、投票する人々は、同じように安全で、同じように自由な街路から入ってきたのではない。表決の前に、公然と反対するための条件は、すでにひどく損なわれていた。

2月28日、ヒンデンブルク大統領は、一般に国会議事堂放火令と呼ばれる命令に署名した。身体の自由、言論・出版、集会・結社、通信の秘密などの重要な保障を停止し、通常の法的制限を越える介入を可能にした。停止が終わる確定した日付は定められていなかった。[3]

火災による恐怖を、ナチ政権は政治的な反対者への弾圧の支えにした。この命令が何をしたかを見るために、放火を裏で指図した人物を、確かめられていないまま書き足す必要はない。命令の文言にも、その後の逮捕や制限にも、それ自体で確認できる記録がある。

授権法案の投票時には、共産党の八十一人の議員は参加できなかった。社会民主党にも、拘束中や逃亡中の議員が少なくなかった。会場内では人数を数えられるが、外での逮捕が、誰をその数に入れられるかを先に変えていた。この賛否を、強制のない自由な意向調査として扱うことはできない。[2]

ただし、「反対者を追い出したので必要な票がそろった」で、すべてを説明できるわけでもない。ナチ党と連立相手は、なお他党の支持を取り付ける必要があった。中央党などが投じた賛成票も、この結果の一部である。排除、威嚇、約束、政治的な選択が同時に起きており、そのどれか一つで、残りのすべてに代わって答えることはできない。[2]

なお入場できた議員には、支持できる議案もあれば反対する議案もある、という慣れた区別が目の前にあったかもしれない。だが、この議案が求めたのは、通常の政策への賛成ではない。これからは、ある種類の政策について、あなた方の同意を待たなくてよい、ということへの同意だった。

すでに拘束された議員には、その区別はもっと残酷だ。自分ならどう投票するかを説明する機会すらないかもしれない。国家機関はその人の席を撤去しなくても、まず参加者を拘束される対象へ変えられる。残された手続きと、連れ去られた身体が、同じ歴史の中にある。

ヴェルスの発言は、会場の外にも触れていた。新聞には自由に報じる余地がなくなっている。国内で人々がなお真偽を判断できるなら、国外の誇張や誤った話にも、よりよく応じられるはずだ、と。うわさを防ぎたいのは政府だけではない。国民にも、政府の説明を信じてよいか判断するための条件が必要なのだ。[1]

だから議会の入口は、議場だけに通じているのではない。新聞、政党組織、有権者、公に組織できる反対にもつながっている。そこからの声を先に小さくしたうえで、会場内で完了した投票を示せば、手続きは現実以上に欠けのないものに見えてしまう。

五つの条文は、何を運び去ったのか

3月24日に公示された法律は、「民族と国家の困難を除去するための法律」と題され、一般に授権法と呼ばれる。第1条は、憲法が本来予定していた立法手続き以外にも、帝国政府が国家の法律を制定する道を開いた。第2条はさらに、政府のつくる法律が憲法と異なることも認めた。[4]

まず手放されたのは、議員一人ひとりの椅子ではない。政府は法律を彼らに送り、同意を得なければならない、という要請のほうだった。機関は存在し続けても、ある種の決定が必ずそこを通る、という役目を失いうる。

第2条は、まったく境界のない一言の授権でもなかった。国会と帝国参議院という二つの機関には影響を及ぼさず、大統領の権限にも影響しないと書かれていた。この留保は、そのまま読むべきである。当時何が約束されたのかを示す文言を、後の結果からさかのぼって消してはならない。[4]

しかし、機関を残すことと、政府を実際に制限する力を残すことは、必ずしも同じではない。議会を招集し、法令を公示することはなおできる一方で、政府は法律をつくる際に議会の承認を待つ必要がなくなる。外形が残っていても、決定が通る道は変わっていた。

ここで「政府」を、何気なく「ヒトラー個人」に置き換えてもいけない。法の全文が、一人が以後あらゆる権力を単独で持つと直接書いたかのようになってしまう。文言上、立法権限を与えられたのは帝国政府だった。その後、権力がさらにどう集中したかには、別の行動や仕組みが関わる。3月の数条の中で、そこまで先取りして書いてしまってはいけない。

第5条には期限もあった。1937年4月1日に失効し、現政府が別の政府に代わった場合にも失効する。期限が書かれていなかったのではない。難しいのは、その時期が近づいたとき、先に権力者の許しを得ずとも、本当に終わらせよと言える人が、なおいるかどうかだった。[4]

一時的な権力に制限があるかは、書かれた年数を数えるだけではわからない。数年後にも、人々が自由に組織し、選挙で競い、延長に反対し、その不同意に効果を持たせられるかを見る必要がある。期限が来る前にその条件が取り除かれていれば、日付は残っていても、それを待つ人の状況は変わってしまう。

ヴェルスが反対したのは、まさにこの追加の要求だった。政権を担う側はすでに憲法に従って統治できるのに、なぜなお、従来の制限を迂回できる決定を求めるのか。後の惨禍を知っているからといって、未来を予見した人にしか理解できない問いとして描く必要はない。その問いは、すでにあの会議の中にあった。

反対した人々は、その後どこへ行ったのか

3月の後に働きを失ったのは、国会の反対票だけではない。5月2日、自由労働組合の事務所が占拠され、財産を奪われ、幹部が逮捕された。多くの人をつなぎ、一人ずつ権力と向き合わなくてもよくする別の組織が、打ち壊されたのである。[5]

労働者にとって、国の政治が起きるのは議会の建物の中だけではない。賃金や労働条件をどう申し出るか、誰が代表するか、一緒に話す人がいるかは、具体的な組織に支えられる。労働組合を国の物語の背景にとどめれば、人々が現実に失った、もう一つの足場を見落としてしまう。

6月22日、社会民主党の活動が禁止された。3月には会場でなお話していたヴェルスも、この時にはベルリンを離れていた。反対が記録されたからといって、合法的に反対し続けられる保護を得たわけではなかった。[6]

7月14日の新党設立禁止法は、さらに短い二条の法律だった。ナチ党をドイツの唯一の政党とし、ほかの政党組織を維持したり、新党をつくったりすることに刑罰を定めた。一人ひとりの支持者が心で何を信じていたか、ここで推測する必要はない。法律は、別の選択肢を組織する条件そのものを犯罪としていた。[7]

3月の投票から7月の二条の法律までに起きたのは、完了済みの変化を繰り返し宣言することではない。各段階で、後に反対し、正すための条件が、さらに持ち去られた。以前に賛成票を投じたナチ党以外の政党も、それによって自分たちの独立した余地を守れたわけではなかった。

この数か月を「法に従って起きた」と呼びながら、逮捕と武装した威嚇を説明しなければ、法という名が暴力の覆いになる。すべてを「法律は紙くずだった」で済ませても、法令がどう警察を動かし、立法権限を変え、反対を組織することを処罰可能にしたかが見えなくなる。暴力と文書は、互いを排除する二つの説明ではない。ここでは互いを助けていた。

これは、法律が変わったらいつでも惨事を予言せよ、という授業でもない。南アフリカは憲法案を修正して、政府を調べる人への保護を強めた。インドは非常権限の発動を難しくした。どれも法の変更だが、していることは違う。道具の名前だけで、影響を受ける人がどこに立たされるかは決まらない。

このドイツの歴史には、薄めてはいけない方向がある。政府は従来の制限をますます越えやすくなり、影響を受ける人は、結果を変えられる反対を組織しにくくなった。この方向を捉えるために、すべての細部を同一視する必要はないし、迫害に反対向きの長所を探して釣り合いを取る必要もない。

ヴェルスの発言は、法案を止められなかったから、という理由だけでなく、読む価値がある。当時すでに、起きている変化をどう理解した人がいたかが聞こえるからだ。しかし発言が残ることと、発言者がそこに残れることは違う。反対票を投じた人がいたことも、反対の次の機会があることと同じではない。

では、あの投票の後にも議会はあったのか。名前や、会議を招集する機関を問うなら、あった。異論を組織し、立法や政府の交代をもう一度その異論に向き合わせられたかを問うなら、入口の看板だけでは答えられない。

四百四十四と九十四は、どちらも覚えるべき数字だ。そして、議場へ入れなかった人々や、その後、ますます入れなくなった人々を落としてはいけない。表決の記録は、その日に誰が勝ったかを伝える。その後も問い続けられたかを見るとき、その日に何が失われたのかが、少しずつ見えてくる。

史料と読書上の注意

公刊された中国語の歴史随筆全文から、日本語の読者に向けて独立に書き直しました。既存の英語版も独立執筆で、簡体字・繁体字の中国語版は全文を載せています。扱うのは実際の歴史であり、架空の事例、現行法の案内、国の順位づけではありません。史料の記録、法的判断、筆者の構造的な解釈は別のものとして扱い、対話、人物の内心、複数人を合成した人物を補作していません。番号付きの史料と利用範囲は下記のとおりです。背景となる哲学論文 · EN / 中文は任意の併読です。問い方の手がかりであって、歴史的証拠に代わるものではありません。

  1. オットー・ヴェルス · 授権法に反対する演説、1933年3月23日

    「ドイツ史の文書と画像」が収録する原演説。与党多数派の憲法上の義務、公的な事柄の監視、新聞の自由に関する箇所を参照。本文は内容を言い換えており、対話や発言者の内心を創作してはいない。

  2. ドイツ連邦議会 · 1933年3月23日の国会表決

    公式の歴史紹介。臨時会場、武装した威嚇、共産党議員の排除、社会民主党議員の拘束や逃亡、ナチ党以外の党の支持、444対94の票数を確認する。強制のもとでの投票を、自由な意向調査とはしない。

  3. 国会議事堂放火令 · 1933年2月28日

    米国ホロコースト記念博物館に収録された命令の訳文。とくに第1条の保障の停止と、確定した終期を設けていないことを読む。本文は命令とその使用を扱い、未確認の放火陰謀を断定しない。

  4. 授権法 · 1933年3月24日、第1–5条

    法律の原文全文。官報の出典とスキャンへのリンクを含む。23日の表決と24日の公示、政府の立法権限と個人の権力を区別する。第2条の留保と第5条の期限を保ち、後の結果で原文を書き換えない。

  5. バーデン=ヴュルテンベルク州文書館 · 強制収容所の労働組合員

    文書館の展示紹介。1933年5月2日の自由労働組合施設の占拠、財産の押収、幹部の逮捕を記し、その後にも抵抗した人々がいたことを伝える。組織の破壊を、すべての組合員が以後行動しなくなったことにはしない。

  6. ドイツ連邦文書館 · ヴェルスと社会民主党の禁止

    ヴェルスの特集と同時代の文書。1933年6月22日の社会民主党禁止前に、すでにベルリンを離れていたことを確かめる。離れることや投票することの一つひとつに、私人としての動機を推定しない。

  7. 新党設立禁止法 · 1933年7月14日

    『帝国法律公報』第1部479頁から訳された法律原文。ナチ党の唯一政党としての地位と、ほかの政党組織を維持・設立することへの刑罰を定める。7月に政府が制定した法律を、3月の議会による同じ一度の投票と混同しない。

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