Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ
第14篇、全26篇

第14篇 マッキンリーと米西戦争――帝国はいかにして憲法の問題となったか

Han Qin (秦汉) · 2026年
この篇の目次

一 同じ余項が開いた二つの戦線

前篇の終わりで述べたように、ここからこの「構」は、その設計が想定していなかった経済権力に、正面から応じ始める。マッキンリー時代の数年間を貫く構造は、その応答が二つの戦線で同時に進んだことにある。そしてこの二つの戦線を根までたどれば、同じ余項が見せた二つの顔に行き着く。

一つは国内の戦線である。工業化と通貨引き締めが進むなか、農民、銀鉱山地帯の人々、債務者、そして労働者の一部は、圧迫されて制度の外へはみ出した利害を抱える余項として、この構の制度に自分たちを組み込ませようとした。人民党と1896年の大統領選挙は、その戦線が迎えた頂点だった。もう一つは対外的な戦線である。1898年の戦争とその後の処理は、アメリカを大陸の共和国から海外帝国へと押し出した。そこで生まれた新たな難問は、アメリカが膨張したかどうかではない。平等と被治者の同意を自らの根拠とする政体が、平等な権利を持たず、編入にも同意していない属領の人々に対する支配を、どう正当化するのかという問題だった。

この篇の構造的な焦点を一文にまとめるなら、こうなる。1896年は、この構が国内の社会的要求をいかに取り込み、あるいは押さえ込むかを示した。1898年から1901年にかけては、もともと対外的な帝国の問題だったものを、この構がいかに自らの憲法の問題へと取り込んだかを示した。これは後知恵で抽象化した話ではない。同時代の人々も、すでにはっきりと感じ取っていた矛盾である。反帝国主義者たちは独立宣言の普遍主義的な言葉をそのまま引き、被治者の同意を根拠としない支配をアメリカが海外に築くことに反対した。

この二つの戦線をシリーズ全体のなかに戻してみると、共通の根が見えてくる。このシリーズが追い続けてきた最も深い余項とは、「すべての人は平等である」「政府の正当な権力は被治者の同意に由来する」という約束と、現実にあるさまざまな排除や支配との隔たりだった。国内では、経済権力に圧迫された人々が包摂を求める。海外では、アメリカに支配されながら平等には包摂されない属領の人々がいる。これまでの数篇でたどった、境界に残るあの古い余項が、奴隷制から中国人排斥を経て、ここでまた新しい顔を見せる。海外植民地という顔である。

これまでこのシリーズが追ってきた余項は、おおむね人種、階級といった軸に沿って、順々に展開してきた。マッキンリー時代の特異さは、同じ余項が、ほぼ同時に、内と外でまったく違う姿をとって噴き出したことにある。国内では経済権力に圧迫された人々が、この構にもっと十分に自分たちを組み込むよう求めた。海外ではこの構に支配される人々が、そもそもこんな形で組み込まれることを望んでいなかった。一方はさらなる包摂を求め、他方はそのような包摂を拒む。向きは正反対なのに、突きつける問いは同じである。この構が掲げる普遍主義は、それが実際に関わる人々に対して、果たして実行されるのか。実行するなら、どうするのか。

二 ポピュリズムと1896年の大統領選挙

19世紀末のポピュリズムは、まず人民党と農民同盟の具体的な綱領に即して理解すべきであって、今日の漠然とした反エスタブリッシュメントの語り口を当てはめるべきではない。1892年の人民党オマハ綱領は、ただ曖昧に東部のエリートに反対したものではなかった。そこには明確な制度改革の要求が、一式そろっていた。連邦政府による安全で健全かつ柔軟な国家通貨の発行、銀16対金1の比価での金銀貨の自由かつ無制限の鋳造、累進所得税、鉄道の政府所有と政府経営。さらに付帯決議では、連邦上院議員の直接選挙への支持も明記されていた。

1896年の大統領選挙で、これらの要求は全国政治における頂点を迎える。シカゴで開かれた民主党大会は銀貨自由鋳造路線へと舵を切り、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンの「金の十字架」演説が会場を揺さぶった。とりわけ名高いのが、「人類を黄金の十字架に磔にしてはならない」という一節である。この言葉が重要なのは、修辞として力強かったからだけではない。通貨をめぐる問題を、道徳と社会の問題にしたからだ。金本位制はもはや単なる金融技術上の仕組みではなく、働く人々の額に茨の冠を押しつける秩序として語られた。

ただし1896年を、「金本位制が銀貨自由鋳造に勝った」という薄い話にしてしまってはいけない。より正確には、二つの点を並べて見る必要がある。一方で、ブライアンは農民、債務者、銀鉱山地帯の要求を全国政治の中心に押し上げた。他方でマッキンリーは、マーク・ハンナの選挙指揮のもと、保護関税、金本位制による安定への期待、秩序と雇用の約束を掲げ、北部の都市、工業労働者、商業界と金融界をより広く結びつける連合を築いた。共和党は約400万ドルを集め、膨大な量の宣伝物と全国的な組織網に資金を注ぎ込んだ。マッキンリーは選挙人票271、一般投票の得票率51.1%で勝利した。

人民党は1896年以後、急速に衰退した。だが、その争点まで消えたわけではない。少なくとも中心的な要求の一つは、のちにはっきりと制度化された。オマハ綱領に明記された上院議員の直接選挙は、1913年、憲法修正第17条によって実現する。より広く見れば、民主的参加の拡大、鉄道や金融権力に対する公的統制の強化といった人民党の争点は、その後、形を変えながら革新主義の時代へ流れ込んでいった。1896年を、ひたすら金で買われた選挙と説明するのは、長く広まってきたものの、単純化が過ぎる見方である。圧迫されてはみ出した余項は、この年に勝利したわけでも、真に消滅させられたわけでもなかった。その要求は、まだ済んでいない課題のリストとして、のちの革新主義時代に託された。

三 キューバ危機から対スペイン開戦へ

米西戦争に至る直接の危機は、キューバから来た。1895年、スペインに対するキューバの蜂起が再燃すると、スペインは鎮圧のためにウェイレルを送り込んだ。彼の大規模な住民強制集中政策は、深刻な人道上の惨禍を招く。アメリカの報道機関、とりわけピュリツァーとハーストの新聞は、スペイン支配の残虐さを繰り返し増幅して伝えた。事実もあれば、誇張もあった。イエロー・ジャーナリズムが世論の空気を形づくったのは確かだが、現代の研究は一般に、それだけを戦争の原因とする説明を退けている。それは戦争への大衆の支持と、劇的に演出された雰囲気をつくった。しかし、米西間にすでに存在していた政策上の対立を、無から生み出したわけではなかった。

戦前のマッキンリーは、最初から戦争に飛びつこうとしていたわけではない。1898年1月、ハバナで騒乱が起こると、彼はメイン号をハバナ港へ送った。目的はアメリカの市民と権益を守り、開戦を求める騒ぎを鎮めることだった。ところが2月15日、メイン号はハバナ港で爆発、沈没し、将兵266人が命を落とす。アメリカの新聞と強硬派の政治家は、たちまちこの事件を「メイン号を忘れるな」という動員の合言葉に変えた。現代の調査についていえば、1976年にリコーヴァーが主導した技術分析は、外部からの爆発を立証する技術的証拠はなく、現存する証拠はむしろ内部爆発と整合的だとした。一方、1998年の新たなモデル分析は、再び、外部爆発の可能性のほうが高いと示唆した。したがって厳密には、現代の研究は総じて、当時の「スペインによる攻撃」という説明を支持しにくくしているが、決着が完全についているわけではない、と言うべきだろう。

4月11日にマッキンリーが議会へ送った戦争教書は、アメリカの介入を人道上の正当性から説明し、人道の重大な要請に基づく武力介入だと述べた。これこそ1898年の最も重要な修辞の一つだった。公の言葉では、戦争は人道的介入と秩序の回復として包まれた。だが、その帰結は領土の獲得、海外への駐兵、植民地統治にまで及ぶ。この隔たりが、この戦争を理解する鍵になる。表向きの理由は人道であり、実際に生まれたものは帝国だった。

四 短い戦争と海外帝国の誕生

米西戦争そのものは、きわめて短かった。ジョン・ヘイはこれを「見事な小戦争」と呼んだ。最初の大きな戦闘は、1898年5月1日のマニラ湾で起きた。デューイ率いるアジア艦隊がスペイン海軍を破り、その後、アメリカ軍はキューバに上陸してスペインの守備軍を孤立させ、打ち破った。

アメリカの制度上の立ち位置を本当に変えたのは、戦場の英雄譚ではなく、戦争の決算だった。1898年のパリ条約により、スペインはキューバに対する主権を放棄した。プエルトリコと西インド諸島にあるその他のスペイン領の島々、そしてグアムはアメリカへ割譲された。フィリピン諸島もアメリカへ割譲され、アメリカはスペインに2,000万ドルを支払った。同じ年、アメリカは両院合同決議によってハワイを併合している。キューバ、プエルトリコ、グアム、フィリピン、ハワイを同じ一年の地図の上に置けば、1898年が単発の戦争ではなかったことがわかる。太平洋とカリブ海の両方向へ膨張するアメリカにとって、制度的な転換点だったのである。

この海外への膨張は、構の内部の権力配置もひそかに変えていった。金ぴか時代の大統領は比較的弱く、議会と政党マシーンが優位を占めていた。ところが対外戦争と海外帝国は、大統領権力が再び伸びるのにうってつけの土壌となる。戦争は最高司令官たる大統領が指揮し、海外領土は行政府が統治する。列強との駆け引きや条約交渉も、おのずと権力をホワイトハウス側へ集める。マッキンリーはハワイ併合の両院合同決議を推進し、戦争教書で議会に開戦を求め、パリ条約の交渉で主要な属領の処遇を方向づけた。いずれも行政府が主導権を握りやすい仕事だったが、併合や開戦には議会の立法・授権が、条約には上院の同意が必要だった。帝国の誕生と大統領権力の復興は、一つの過程の表裏だったのである。

名目上の独立と実質的な支配の違いを示すには、とりわけキューバの地位がわかりやすい。1898年のテラー修正条項は、対スペイン戦争の決議のなかで、アメリカには、平定のために必要な場合を除き、キューバに対する主権、管轄権、支配権を行使する意図はなく、平定後には島の政府と統治をキューバの人々に委ねると明言した。ところが1901年のプラット修正条項では、キューバの独立の維持と、生命、財産、個人の自由の保護のために、アメリカがキューバ内政に介入する権利を認めるようキューバに求めた。さらに、アメリカが海軍基地と給炭所を取得することも認めさせた。この一連の文書が重要なのは、アメリカが対外的に掲げる普遍主義と、実際に行う支配との距離を、連なる立法と条約の形で明瞭に示しているからだ。テラー修正条項があの普遍主義の約束であり、プラット修正条項が現実の支配である。そのあいだの距離こそ、海外に現れた余項の姿だった。

五 米比戦争

フィリピンは、この篇で最も軽く扱ってはならない部分である。1898年のフィリピン革命家たちは、アメリカを新たな宗主国として見ていたのではない。スペイン支配を終わらせる手助けをしてくれるかもしれない勢力と見ていた。1899年2月4日、米比両軍の武力衝突が起きたとき、アギナルド率いる民族主義者たちが求めていたのは独立であって、植民地の支配者を取り替えることではなかった。

戦争は大きく二つの段階に分かれる。第一段階は1899年2月から11月までで、フィリピン側は正規戦を試みたものの、装備、補給、制海権のいずれでも劣勢にあった。第二段階ではゲリラ戦へ転じ、1901年にアギナルドが捕らえられるまで続き、その後も一部地域では1902年まで戦闘が続いた。当時のアメリカの公式な語りは、これを多くの場合「反乱」と呼んだ。この語を使うだけで、フィリピンは対等な交戦主体ではなく、アメリカの管轄下で反乱を起こした者だという前提が、すでに埋め込まれていた。

残虐行為や鎮圧の方法を語るのに、今日なお、都合の悪い事実を洗い落とした昔ながらの物語を使い続けるわけにはいかない。現在の公式説明でさえ、アメリカ軍が時として村を焼き、民間人を強制的に集中させる政策を行い、ゲリラと疑われる者に拷問を加えたことを明確に認めている。なかでも、いわゆる「水責め」は、当時でさえ戦争法に反する拷問だとほぼ普遍的に認められていたとされる。村や町の焼き払い、住民を強制集中させる収容所、罪のない人質への報復と並び、この戦争をめぐる論争の核心にある。

死者数については、推計であり、しかも推計の幅が大きいことを明記しなければならない。よく挙げられる数字では、アメリカ軍の死者は4,200人超、フィリピンの戦闘員は2万人超となる。フィリピンの民間人は、暴力、飢餓、病気によって最大20万人が亡くなったとされ、ジョン・M・ゲイツが1981年に示した推計では、1902年のコレラ流行による死者も含め、1898年から1903年までの戦争に関連する死者全体が、最大で約32万1,000人に達し得るとされた。米比戦争をこのシリーズの枠組みに戻すと、その意味は明らかになる。海外の境界に残された余項、つまりアメリカに支配されながら植民地化を望まない人々が立ち上がったとき、この構が返した答えは、かつて南部の黒人の抵抗に返した答えと、構造の上で通じていた。武力による鎮圧である。被治者の同意を自らの土台とする政体が、同意しないとはっきり表明した人々を、武力で支配している。その矛盾は、むき出しで、鋭い。

六 反帝国主義の反撃

もっとも、フィリピン問題をめぐるアメリカ国内の意見は、一枚岩ではなかった。反帝国主義連盟がほどなく結成され、アンドリュー・カーネギー、マーク・トウェイン、ウィリアム・ジェイムズ、サミュエル・ゴンパーズらが名を連ねた。1899年の綱領で、この連盟は問題をきわめて明快に述べている。帝国主義は自由に敵対する。政府の正当な権力は被治者の同意に由来し、その原則を誰に適用するかは、人種や肌の色で分けられない。ウィリアム・ジェイムズは、アメリカは独立宣言とワシントンの告別演説を「吐き出してしまった」とまで言い切った。

ここで重要なのは、反帝国主義者たちが外来のイデオロギーに訴えていたのではないという点だ。彼らはアメリカ自身の建国の普遍主義によって、その帝国としての行いを逆に裁こうとした。これは、このシリーズに深く潜む一本の筋へとつながる。前の数篇でも述べたように、独立宣言に書かれた「すべての人は平等である」「政府の正当な権力は被治者の同意に由来する」という約束は、書かれたその日から、果たされていない約束だった。だが、一度書かれた以上、それは永久の基準となる。誰もが手に取り、この構そのものの行動を測れる物差しとなる。奴隷制廃止論者はそれで奴隷制を測り、ハーラン判事は人種隔離を測った。そしていま、反帝国主義者たちが海外帝国を測っている。

ここには、このシリーズの隠れた核心があると言ってもよい。なぜ、あの余項は決して閉じ切られないのか。この構は自らを基礎づける文書に、自分では一度も完全に果たしたことがなく、また完全には果たし得ない約束を書き込んだ。すべての人は平等だと言いながら、黒人を奴隷にし、中国人を排斥し、属領を支配する。政府の権力は被治者の同意に由来すると言いながら、はっきり同意を拒む人々を武力で支配する。この約束と行動の隔たりをなくす道は、本来二つあった。約束を本当に果たすか、いっそ約束を撤回するかである。だが、この構はどちらもしなかったし、どちらもできない。「すべての人は平等である」を本当に実現する力がない一方で、建国の文書からその一文を公然と抹消する勇気もない。いや、それもまたできないのだ。こうして約束は宙にかかったまま、決して錆びない物差しとなる。余項を閉じ切れない最も深い根はここにある。この構の出生証明書そのものに、書き込まれているのである。

七 憲法は国旗についていくのか――島嶼判例

1898年以後、新しい問いが急速に浮上した。「憲法は国旗についていくのか」。つまり、新たに手に入れた属領、とりわけプエルトリコ、フィリピン、グアムの住民には、憲法上の全面的な保障と平等な政治的地位が自動的に与えられるのか、という問いである。これは抽象的な法理の遊戯ではない。アメリカの憲法体制の内側に帝国を収められるかどうかを左右する、要の問題だった。

1901年の島嶼判例は、一連の訴訟から成る。そのなかで最も重要なのがダウンズ対ビドウェル事件だが、そこでの判断は大きく割れており、単一の大原則をすっきり宣言した判決ではなかった。ブラウン判事の意見は、プエルトリコを、アメリカに付属しアメリカに帰属するが、租税条項の意味ではアメリカの一部ではない領土だとした。同じ意見は、当時のあけすけな言葉で「異人種」に言及し、アングロサクソンの原理による統治は、当面は不可能かもしれないとも述べている。一方、ホワイト判事が打ち出した領土編入の理論は、領土を「編入領土」と「未編入領土」に分け、後者には憲法の全条項が自動的に適用されるわけではないとした。

この構が向き合っていたのは、本当には吸収できない余項、海外の属領の人々だった。彼らを完全に組み入れて平等な市民の資格を与えれば、帝国を続けるのは難しくなる。かといって、彼らを完全に手放し、その領土から撤退することも望まなかった。そこでこの構は、矛盾を解く代わりに、それを宙づりにしておく法的な仕掛けを発明した。領土編入の理論によって、アメリカはこれらの領土に対する主権を主張し、市場と軍港を押さえながら、平等な包摂は先送りし、さらには拒むことさえできた。余項は、「アメリカに属するが、アメリカの一部ではない」という中間状態に置かれた。包摂されるでもなく、手放されるでもなく。

この第三の応じ方、宙づりにしておくという方法こそ、実はこの構の本性を最もよく示している。中心へと押し進めるか、周縁へ押し戻すかだけではない。仕掛けをつくり、余項を無期限に宙づりにしておくことまで覚えたのだ。しかし、宙づりもまた、閉じることではない。矛盾はそこに残っている。ひとまず法律の言葉でくるまれただけだ。「アメリカに属するが、アメリカの一部ではない」。この自己矛盾した表現は、そうした回避の見事な標本である。文法は通るのに論理はねじれた一文で、根本的に答えの出ていない問いを、もう答えが出た問いに見せかけている。

八 結び

マッキンリー時代の数年間をこのシリーズのなかに置き直すとき、最も覚えておきたいのは、この篇を貫いてきた判断である。同じ余項が、この数年のあいだ、二つの戦線に同時に現れた。

国内の戦線では、産業資本主義と通貨引き締めに圧迫されてはみ出した余項が、人民党と1896年の大統領選挙を通じ、政治的な表現の頂点に達した。この構の応答は二重だった。選挙では銀貨自由鋳造を打ち負かしながら、その後の革新主義時代には、そこにあった要求のかなりの部分を徐々に取り込んだ。圧迫された余項は勝ったのでも、消されたのでもない。未完の課題のリストとして、未来に残された。他方、対外的な戦線では、1898年の戦争が、もともと対外的な帝国の問題だったものを、この構自身の憲法の問題へと変えた。そこで出された答え、島嶼判例は、矛盾を解くのではなく、それを宙づりにする仕掛けを発明したのである。

米比戦争が示したのは、海外の余項が抵抗に立ち上がれば、この構は国内の余項に対するときと同じく、武力で鎮圧するということだった。一方、反帝国主義連盟が示したのは、建国の普遍主義という永久の物差しが、繰り返し人々の手に取られ、この構自身の背反を測り、裁くということだった。

そして、すべてはまた反宿命論へと戻ってくる。1898年から1901年は、アメリカが突然、自分を裏切った瞬間ではない。より正確には、その普遍主義と排他性が、つねに同時に働いてきたありようが、集中的に浮かび上がった時期である。この構は生まれたその瞬間から、すべての人は平等だという普遍主義を書き記す一方、実際には黒人、先住民、中国人、そしていまや海外属領の人々を、絶えず排除してきた。1898年の帝国は、まったく新しい背反を生み出したわけではない。理想と実践のあいだにつねにあった緊張を、海外植民地という形で、ひときわ目に痛いほどさらけ出したのだ。そして建国のあの約束も、そこにあり続ける。次の世代、そのまた次の世代に手に取られ、この構が自分の理想からどれほど遠くにいるのかを測られる、そのときを待っている。