第十三篇:金ぴか時代――設計図になかった権力
この篇の目次
一、新たな戦線
前篇の終わりで、こう述べた。人種という軸がひとまず南部の高い壁の内側に封じ込められても、果たされなかったあの約束は、まったく新しい戦線で再び噴き出すだろう、と。1881年から1897年にかけて、この「構」が迎えたのは、まさにその戦線の幕開けだった。階級と経済権力をめぐる戦線である。
この時期の大統領史は、ともすれば凡庸な大統領たちの連続ドラマとして描かれる。就任早々に暗殺されたガーフィールド。政治マシーンの出身でありながら改革を進めたアーサー。クリーヴランドの二つの任期のあいだには、ベンジャミン・ハリソンが挟まる。本当の意味で強い大統領が現れるのは、マッキンリー、そして革新主義時代を待ってからだったようにも見える。だが、大統領個人の力量ばかりを見ていると、この時期の本当の構造を見落とす。根にあるのは大統領の弱さではなく、同時に進んでいた二つの動きだ。一つは、そもそも連邦政治の重心が議会に、なかでも権限が各委員会に分散した議会の仕組みに傾いていたこと。もう一つは、さらに深いところで、鉄道、トラスト、大企業、ウォール街の金融網が、市場も運賃も雇用も信用の条件も左右できる、新種の権力の中心を急速につくりつつあったことである。
この篇の本当の主題をつかむには、二つ目の動きが何を意味するのか、はっきりさせておかなければならない。この構がもともと設計されたのは、政治権力を分割し、相互に抑制させるためだった。三権分立も連邦制も、一人の人間、一つの機関が政治権力を独占するのをどう防ぐか、という問題に答えている。しかし、もう一種類の権力には、ほとんど何の備えもなかった。民間の手に集中する経済権力である。一社が全国の石油精製の九割を支配できる。一つの鉄道網が、何百万、何千万もの農民の輸送費と販路を決められる。民間の金融団が、いざというときには国庫の最後の支えになる。そうなったとき、憲法の当初の設計には想定されていなかった支配力が、この構の傍らで、いつのまにか育ち上がっていた。この篇が追うのは、その権力の台頭と、備えのないままそれを前にした構の戸惑いである。
新しい権力とともに、その圧力を受ける新しい人々も現れた。労働者、移民、農民である。ただし、ここには最初にはっきりさせておきたい違いがある。それまでの六篇で、余項は主として政治共同体の成員資格をめぐる形で現れていた。誰を市民と認めるのか、誰に投票を許すのか。今回は違う。労働者、移民、農民の問題は、まず資格の問題としてではなく、経済関係の問題として姿を現す。賃金、運賃、失業、負債、都市での住まいと労働の安全。最も深いところにあるあの余項に、階級という新たな軸が開かれたのだ。そしてこの篇では、経済の新しい軸が現れるのと同時に、成員資格を隔てる古い境界の軸も消えてはいなかったことを見る。それは中国人排斥法のなかで、新しい法律の顔をまとって戻ってきた。
二、ガーフィールド暗殺と公務員制度改革
この時期の最初の大事件は、一人の大統領の暗殺と、それをきっかけに進んだ改革だった。1881年7月2日、ワシントンの駅から出発しようとしていたガーフィールドは、官職を求めて果たせず、精神に異常を来していた男に背後から二発撃たれた。負傷後、二か月余りを生き延びたが、9月19日に亡くなる。犯人が官職を得られずにいた男だったという事実は、公職を党派への貢献に対する褒賞にしてよいのかという長年の論争を、一気に差し迫った政治問題へと変えた。
1883年1月16日、アーサーはペンドルトン公務員改革法に署名した。この法律は、能力と実績にもとづく連邦公務員の任用制度を設けた。対象となる職には公開競争試験による選抜を求め、政治的理由による解雇や降格を禁じ、公務員に政治活動への奉仕や政治献金を要求することも禁止した。実施を担う連邦公務員委員会も設置された。ここでは二つのことを並べて見ておきたい。改革が重要だったことは確かだが、その出発点は小さい。施行当初、連邦の13万2千の職のうち、対象になったのはおよそ一割にすぎなかった。そして、この改革を引き受けたアーサーという人物にもドラマがある。もとは共和党のストールワート派に属し、政治マシーンと深い関係にあった彼が、ガーフィールド暗殺後には改革支持へと転じたのである。
このシリーズの流れに置いてみると、ペンドルトン法にはもう一段深い意味がある。第五篇で見たように、ジャクソンは猟官制を広く定着させ、官職を党派の動員への報酬にした。ペンドルトン法は、この構が初めて体系的にその方向を転じ、猟官制を実力本位の任用に置き換え、近代的で専門性を備えた行政機構をつくり始めた出来事だった。その時点では、対象となる職はまだ少ない。だが、そこで切り開かれた道は、この構が後に新しい権力に立ち向かうため、どうしても身につけなければならないものへと通じていた。成熟した国家の統治能力である。
三、産業資本の台頭と新しい権力
この時期に起きた最も深い変化は、産業資本主義が、その組織の形を急速に整えていったことだった。典型は鉄道である。南北戦争後、鉄道の大半は民間が所有し、規制はほとんどなく、営業する地域ではおのずと独占が成立した。鉄道会社は大口顧客に運賃を払い戻すリベートを与え、地域ごとに異なる運賃を課すなどして価格を決めた。大量の貨物をまとめられない農民は、とりわけ不利な立場に置かれる。1890年前後には、アメリカの鉄道網は市場、資本、地域政治を深く縫い合わせていた。
もう一つの集中の形が、トラストだった。その意味を示す古典的な例が、スタンダード・オイルである。1882年にスタンダード・オイル・トラストが設立され、1880年代後半には、同社はアメリカの石油精製の約九割から九割五分を握るまでになった。金融でも集中が進んだ。1890年代の危機のなかで、モーガンはもはや一介の銀行家ではなくなっていた。銀行や鉄道、さらには財務省まで、危機に際して調整し、安定をもたらせる民間金融の結節点だったのである。1895年には、クリーヴランド政権さえ、モーガンを中心とする民間銀行団と協定を結び、金準備の回復に力を借りざるをえなかった。一国の財政の信用を、民間の金融寡頭勢力が最後のところで支えている。となれば、仕組み全体にとって事実上欠かせない存在は誰なのか。答えは言うまでもない。
ここは少し立ち止まって考える必要がある。この時期全体を、さらにはその後の数十年を理解する鍵だからだ。この構が権力を抑えるために用意した手立ては、すべて政治権力を相手に設計されていた。権力を立法、行政、司法の三つに切り分け、互いに牽制させる。さらに、連邦と州のあいだでも分ける。この精巧な設計が防ごうとしたのは、一人の人間や一つの機関が公職を足場に政治的支配を独占することだった。しかし経済権力は、まったく別の道を通る。鉄道王、石油トラスト、金融団。その支配力は、どの公職からも生じていない。だから三権分立のどの歯止めにもかからない。州境を越えて活動するのだから、連邦制による分権にも切り分けられない。彼らは、この構の政治の盤面の外に、経済という別の盤面を置いたのだ。その盤面では、構がもともと用意していた牽制の一手一手が、ことごとく空を切った。
四、労働者、移民、農民――新たに圧迫される人々
新しい権力の裏側には、新たにその圧力を受ける人々がいた。産業資本主義が拡大するにつれ、全米でストライキ、ロックアウト、労使紛争が目に見えて頻発するようになった。1869年に結成された労働騎士団は、1886年から1887年にかけての最盛期には、会員数が百万人近くに達した。労働組合の連合体であると同時に政治運動でもあり、後のアメリカ労働総同盟よりも門戸が広く、多くの黒人労働者や女性労働者を迎え入れていた。働く条件そのものも過酷だった。1890年には、10歳から15歳の子どものうち、働いていた子は18%を超えていた。長時間労働、劣悪な衛生環境、安全基準の欠如、低賃金。それがこの時期の産業労働ではありふれた現実だった。
移民もまた、別の形で圧迫を受けていた。1890年が一つの分水嶺となるが、より重要なのは、移民の出身地域の構成が変わったことだ。1890年から1919年にかけて、新たな移民の波は1,800万人を超え、うち六割を超える人々が東欧と南欧の出身だった。都市の産業が新しい労働力を求める動きと、自国生まれの人々を優先する排外的な反発とは、同時に進んでいた。
農民を追い詰めた仕組みは、おもに三つあった。鉄道運賃、負債の圧力、そして引き締まった通貨供給である。ただし、通貨の引き締めについては慎重に書かなければならない。現代の経済史研究が注意を促しているように、19世紀後半の物価下落は、すべてが悪いデフレだったわけではない。生産性の向上や供給の拡大による部分もあった。それでも農民や債務者が、金本位制のもとで通貨を厳しく絞るあり方に強く反対したのは、経済学を読み違えたからではない。返済義務、農作物の価格、借り入れの条件を通じて、通貨の収縮が彼らの負担を現実に重くしていたからだ。グレンジから農民同盟へ、そして1892年の人民党へ。農民の政治が組織化されていく道筋は明瞭である。1892年には、人民党の綱領はすでに銀の自由鋳造、累進所得税、鉄道の政府による管理または所有を要求していた。
経済的な苦境を制度への要求へと翻訳していく、この過程自体に目を向けたい。労働者は組合をつくり、農民は同盟や政党をつくった。彼らがしていたのは、新たに現れた経済の軸を語るために、政治の言葉を探すことだった。労働騎士団による動員も、人民党の綱領も、新しい経済権力に押しつぶされそうな人々が、自分たちの苦しみを工場や畑からこの構の政治手続きのなかへ運び込もうとする試みだったのである。
五、労使紛争と連邦の介入
この時期の労使紛争は、一つの問いを繰り返し突きつけた。経済上の対立が激しくなったとき、この構はどのように介入するのか。多くの場合、答えは福祉国家型の調停ではなく、司法と軍隊・警察による秩序維持だった。それを象徴する爆発点がヘイマーケット事件である。1886年5月4日、シカゴで八時間労働制を求める集会が開かれ、警察が解散させようとしたところに爆弾が投げ込まれた。続いて銃撃が起こり、警官七人と複数の市民が死亡した。八人のアナキストが裁判にかけられ、有罪となったが、誰が爆弾を投げたのかは証拠によって特定されていなかった。生き残っていた被告たちをイリノイ州知事アルトゲルドが赦免し、裁判手続きを厳しく批判したのは、1893年になってからである。
1892年のホームステッド・ストライキでは、資本、民間の実力行使、州の権力の関係が、さらにむき出しになった。7月6日、会社に雇われた約三百人のピンカートン探偵社の要員が工場の占拠を試み、労働者との激しい銃撃戦になった。少なくともピンカートン側の三人と労働者七人が死亡した。その後、ペンシルヴェニア州は8,500人の州兵を送り込み、工場は代替労働者を使って操業を再開した。鉄鋼労組は大打撃を受けた。
1894年のプルマン・ストライキは、連邦政府を労使の戦場の真ん中へ押し出した。鉄道経営者協会が、プルマンの車両をわざわざ郵便輸送の車両につないだため、ストライキは連邦郵便と州際通商を妨げる行為と解釈された。連邦裁判所はそれを根拠に差止命令を出し、クリーヴランド政権はイリノイ州知事の意向を飛び越えて、数千人の連邦軍兵士と連邦保安官を投入した。軍と労働者の衝突では、約三十人が命を落とした。最高裁はその後、連邦政府が州際通商と郵便を管轄する権限にもとづいて、州をまたぐ交通や郵便輸送の障害を取り除けると認めた。民事の差止命令を、ストライキを抑える重要な手段とすることも許されたのである。
このシリーズの枠組みから見て、ここはとくに指摘しておく必要がある。ストライキが、郵便、州際通商、公共の秩序を妨げる行為へと読み替えられる。そのうえで国家が介入するとき、国家の守る秩序は、まさに資本の必要とする秩序になる。工場を動かし、鉄道を走らせ、代替労働者を工場に入れる秩序だ。労働者の要求が正当かどうかは問わない。問われるのはただ一つ、秩序が破られたかどうかである。そして当時の条件のもとでは、秩序を破ったことになるのは、いつも仕事を止めて抗議する労働者だった。その状況をつくり出した資本ではない。この構は、政治の争いであれば、各勢力のあいだにある程度の均衡を保つすべを知っていた。だが経済の争いを前にすると、中立の場所に立つことさえ、まだ学んでいなかった。
六、初期の規制と制度の食い違い
州際通商法とシャーマン反トラスト法は、連邦国家が経済権力の集中に体系的に対処しようとした、最初の試みとされることが多い。1887年の州際通商法は州際通商委員会を設け、鉄道を、継続的な連邦規制の対象となる最初の産業にした。運賃は公正かつ合理的でなければならず、特定の荷主だけに与える割引やリベート、同様の条件で同一路線を同じ方向に輸送する場合に、短距離の運賃をその区間を含む長距離の運賃より高くする扱い、鉄道会社間の路線をめぐる共謀も禁止された。ただし、実際の効き目はそれほど大きくなかった。最も成果が上がったのは、鉄道会社に年次報告書の提出を義務づけたことと、一部の露骨なリベートを抑えたことだった。
1890年に施行されたシャーマン法は、連邦レベルで初めての反トラスト法だった。トラストの形をとるか、別の形をとるかにかかわらず、州際通商を制限する契約、結合、共謀を違法とした。だが、当初の法律はトラストや独占という肝心の概念を定義しておらず、ほどなく司法によって適用範囲を狭められてもいった。1895年の合衆国対E・C・ナイト社事件では、製造と通商が区別され、砂糖製造の独占は州際通商そのものの独占とは同じでないと判断された。その結果、連邦の反トラスト法が手を届かせられる範囲は大幅に縮んだ。
したがって、シャーマン法の初期の効果を見るときには、二つのことを同時に押さえる必要がある。一つは、象徴としての大きな意味だ。連邦は初めて、トラストと独占を全国的な立法の対象にすると明言した。もう一つは、運用上の効力は当初ごく限られ、しばしば労働組合に向けて使われたことだ。1890年代の裁判所は、同法の「通商の制限」という文言を、労働者の団結やボイコットにも適用できると解釈した。1894年のデブスをめぐる事件で、差止命令が政治的な力を振るったことは、その傾向を広く知らしめた。つまり、経済の集中に対抗するため国家が初めてつくった道具は、ひとりでに資本だけへ向かうわけではなかった。その打撃は、労働者にも向けられた。
この時期をシリーズ全体の筋道に戻して考えるなら、いきなり「憲法は失敗した」と断じるよりも、制度と相手が噛み合わなかった、と言うほうが正確だ。この構は政治的対立を受け止めるために設計されていた。誰が権力を握り、誰が誰を抑えるのかを処理する仕組みは揃っている。ところが、その設計に織り込まれていなかった経済権力が台頭すると、政治の争いに合わせて仕立てた道具は、すぐにはうまく使えなかった。経済権力を本当に統治の対象へ組み込むには、この構は新たな統治能力を育てなければならなかった。専門の規制機関、継続的な行政能力、トラストや金融の動きを見抜く専門知識である。1890年代には、その基盤はまだ断片的で弱く、十分な体系には育っていなかった。
七、中国人排斥法――境界の余項がとった新しい形
階級という経済の新しい軸とは別に、この時期にはもう一本、独立して取り上げるべき線がある。1882年の中国人排斥法だ。それが直接扱ったのは労使の分配ではなく、政治共同体の境界だったからである。これは移民を制限する、最初の重要な連邦法だった。中国人労働者の入国を十年間停止し、法定の基準日より前から適法に居住していた中国人には滞在の継続を認めたものの、出国と再入国には証明書の手続きを課した。また、アメリカの裁判所が中国人の帰化を認めることを禁じた。その後、1892年のギアリー法が排斥をさらに十年間延長し、1902年に再延長されたのち、1904年には期限を定めず継続されることになった。
この法律を歴史のなかでどう位置づけるかは、今日の研究ではかなりはっきりしている。一般的な移民管理の細則ではない。民族集団と職業上の区分を中心に据え、特定の移民集団を体系的に排除することを、広範な連邦立法によって初めて行ったのである。このシリーズの本筋に引き寄せると、ここはとりわけ重要になる。それまでの数篇では、古くからある境界の余項は、おもに奴隷制に姿を現していた。黒人はこの政治共同体の十全な成員なのか、という問いだった。ところが、前の段階で境界の余項をなしていた奴隷制が終わっても、政治共同体の境界で人を排除する仕組みまで消えたわけではない。対象を替え、法律の顔を替えて、中国人排斥法のなかに再び現れたのだ。
つまり、この時期、最も深い余項は二つの軸に沿って同時に展開していた。一方には、新しい経済の軸がある。労働者や農民が、新種の経済権力に圧迫される。他方には、古くからある境界の軸がある。中国人が、新しい法律によって政治共同体の外へ排除される。一方を押さえ込めば、もう一方が浮かび上がる。同じ軸でさえ、ある場所で抑えれば、別の場所で顔を変えて現れる。これもまた、余項を完全に処理して閉じることはできない、ということの表れだ。余項はあまりに深く、あまりに多くの面をもつ。一つの軸、一つの場所に手を打ったからといって、それで本当に片をつけることはできないのである。
八、通貨をめぐる争いと農民の政治
通貨をめぐる争いは、農業の苦境、地域の政治、大統領の選択を固く結びつけた。二期目のクリーヴランドは、経済危機に対処する中心的な措置として、ハリソンが署名したシャーマン銀購入法の廃止を据えた。クリーヴランドは、1890年のこの法律が金の流出を悪化させたと考えていた。1895年には、財務省の金準備は約4,200万ドルにまで落ち込み、最後にはモーガンを中心とする金融団に、信用回復の力を借りざるをえなくなった。
1893年恐慌の深刻さを数字で語るときには、推計に幅があることを断っておく必要がある。代表的な二つの統計系列は、どちらも不況がきわめて深かったことを示している。1894年の失業率は、一方では約12.3%、もう一方では18.4%にも達する。ここではクリーヴランド自身の姿勢が重要になる。政府の役割を限るという彼の立場は、抽象的なイデオロギーにとどまらなかったからだ。1887年、テキサスの農民に種子を支給する救済法案に拒否権を行使した際、彼は政府が人民を扶養すべきではないと書き、このような個人の苦難を公金で救済する憲法上の根拠は見当たらないと述べた。二期目にも、通貨問題では金本位制を守り抜いた。そのため西部と南部の民主党員の支持を失い、農民と債務者が政治的に独自の道を歩む動きも速めることになった。
このシリーズの枠組みで捉えれば、政府の役割を限定するというクリーヴランドの立場は、この構が自分自身を理解する古い仕方を、そのまま代表していた。政府の責務は限られており、社会や経済の苦難に介入すべきではない、という理解である。それがぶつかったのは、まったく新しい現実だった。鉄道、トラスト、引き締まった通貨供給が一緒になって生み出した、大規模な経済的苦痛である。人民党の登場が重要なのは、鉄道、負債、乏しい通貨に追い詰められた農民の、ばらばらな利害上の不満を、制度を語る一つの言葉へと変えたからだ。クリーヴランドは、連続しない二つの任期を務めた最初のアメリカ大統領だった。そして二期を通じた彼のこの立場は、政府の役割を限ろうとする古い観念と、経済を統治してほしいという新しい要求とのあいだに開きつつある亀裂の、ちょうど上に立っていた。
九、結び
金ぴか時代のこの十数年を、シリーズ全体のなかに置いてみる。そこで何より覚えておきたいのは、この篇を貫く一つの判断だ。設計図になかった権力が、立ち上がったのである。
この構は、もともと政治権力を分け、相互に抑制させるために設計された。誰が権力を握り、誰が誰を牽制し、どうすれば独占を防げるのか。そこには精密な仕掛けが揃っていた。しかし、民間に集中する経済権力への備えは、ほとんどなかった。まさにこの十数年のあいだに、鉄道、トラスト、金融の集中が、市場、運賃、雇用、信用を左右できる支配力をつくり上げた。憲法の当初の設計では想定されなかった権力である。それとともに、最も深い余項に、新しい軸が現れた。階級という経済の軸だ。もはや、まず誰を市民と認めるかという形ではなく、賃金、運賃、負債、労働の安全という経済関係を通じて現れる。だがそれは、果たされないままの同じ約束が、別の顔を見せたものだった。
この新しい権力に対する構の反応を、最も正確に言い表すなら、制度と相手の食い違いということになる。最もよく整った道具は、どれも政治的対立のためにつくられていた。経済権力に初めて対抗しようとした州際通商法やシャーマン法は、規則が曖昧で、担う機関も未熟だった。しかも、すぐに司法によって適用範囲を狭められ、逆に労組の弾圧にまで使われた。労使紛争が激化すれば、この構は確かに強力な介入ができた。だが、その手段は差止命令と軍隊・警察だった。秩序と資本の側に立って秩序を守るのであって、間に立って調停するのではない。経済の集中に抗するため国家が最初につくった武器は、当初、むしろ労働者を打ったのである。
同時に、古くからある境界の余項も消えてはいなかった。中国人排斥法は、前の段階で境界の余項をなしていた奴隷制が終わっても、ある集団を政治共同体の外に排除する仕組みは、法律の顔を替えて再び現れることを示した。最も深い余項は、ある場所で押さえ込まれたからといって、あらゆる場所で沈黙することなどない。
この時期には、金ぴか、腐敗、弱い大統領といった札が、簡単に貼られがちだ。だが実際には、権力の配分が変わっていく転換点だった。ペンドルトン法は近代的な行政機構をつくり始め、州際通商法とシャーマン法は、経済の集中を法律の対象として書き込み始めた。どの出発点もまだ小さく、未熟だった。それでも、それらが指し示していたのは、この構が続く数十年に歩むことになる道だったのである。