103 / 108 · 他者と空席
ジラール――欲望は別のところから来る
子どもが奪い合う木のトラックから、群衆が指さす一人の人まで。欲望を形づくる他者の影と、同じ敵意が人々を結ぶ怖さ。その仕組みが見えたあと、私たちはどうするのか。
一 木のトラック
部屋に、二人の子どもがいる。
床には十個のおもちゃが散らばっている。小さいほうの子は、さっきからここにいる。どのおもちゃも見た。けれど、特に遊びたいものはない。
そこへ大きいほうの子が入ってくる。床を見渡し、かがんで一つ拾う。小さな木のトラックだ。それで遊び始める。
さっきまで退屈していた子が、すぐに立ち上がる。駆け寄って、取り上げようとする。
「それ、ぼくの」
少し前まで、そのトラックには見向きもしなかった。残りの九個も、やはり欲しくない。しかし、いま別の子が手にしている一個だけは、どうしても手に入れたい。
子どもと暮らしたことのある人なら、思い当たる場面だろう。ルネ・ジラールの仕事へ入るにも、この場面はよい入口になる。
子どもは、ただトラックが欲しいのではない。もう一人の子が欲しがっているトラックを欲しがっている。物は最初からそこにあった。価値を変えたのは、他人の手だった。
ジラールは、それは子どもだけのことではないと言う。何を欲しいと思うようになるのか。大人になってからも、その過程には別の人がいる。
性能を調べたからあの車が欲しい。そう思っていても、性能を調べ始めたきっかけは同僚が買ったことだったかもしれない。あの土地へ旅行したい。景色が美しいのは確かだが、誰かの写真に、自分もそこへ行ってみたいと思わせたのかもしれない。恋愛にも、周りの人の賞賛や、小説と映画が育てた理想像が入り込む。ただし、好かれる側も自分の意思を持つ人であり、競争に勝った者の賞品ではない。
少し身もふたもない話に聞こえる。だがジラールは、影響された欲望はすべて偽物だと言っているのではない。ひとりで生まれたように見える欲望の中に、関係を見ようとしている。
単純な図には、私と対象だけがある。見た、気に入った、欲しくなった。一本の線だ。
ジラールの図には、もう一人いる。あの人が欲しがるのを見て、私も欲しくなる。私、対象、手本となる人。三角形になる。
彼は、この三角形を人間の欲望の中心に置く。強い説明力を持つ一方、議論もある考え方だ。空腹や渇き、個々の願いのすべてが模倣だと実証されたわけではない。問いはむしろ、自分だけの内面から出てきたと思っている願いに、どれほど他人の姿が入り込んでいるか、ということだ。
アメリカで文学を教えながら、彼はセルバンテス、スタンダール、プルースト、ドストエフスキーを読み返した。一九六一年の『欲望の現象学』では、それぞれの作品に見いだした関係が結びつけられる。
ドン・キホーテは、何もないところから騎士になりたいと思ったのではない。騎士道物語を読み、アマディスを手本にする。ジュリヤン・ソレルの野心には、ナポレオンの姿が重なる。プルーストの社交界は、他の人が入りたがるから、いっそう魅力的になる。ドストエフスキーでは、恋、屈辱、対抗心が絡まり、いつしか恋の相手より恋敵の動きに目を奪われる。
作家たちは、その絡まりを登場人物の暮らしの中に書いていた。ジラールはそれを一つの理論的な名前で照らした。
模倣的欲望。
これが最初の石になる。暴力や共同体をめぐる、その後の仕事も、この石に何度も戻ってくる。
二 この願いは、どこまで私のものか
この考え方には、落ち着かない含みがある。私の欲望が他人に形づくられているなら、「自分らしく」とはどういうことなのか。
自分らしく生きよう。本当にやりたいことを見つけよう。心の声を聞こう。そんな言葉はしばしば、心の奥に、まだ誰にも触れられていない本来の願いがあることを前提にしている。周りの影響を取り除けば、それが見つかるというわけだ。
ジラールは、その心の図を疑う。
画家になりたいと思ったとき、その前に読んだ伝記はなかったか。ある暮らしに憧れるようになる前に、インスタグラムの一枚を見なかったか。結婚相手の理想には、映画や小説がすでに居場所を得ていないか。職業を選ぶときには、親の期待も、その期待を裏切ろうとする気持ちも働く。正反対へ行こうとする人さえ、反対する相手から方角を受け取っていることがある。
影響されていることは、自分で判断できないことではない。ただ、判断は誰もいない部屋から始まるわけではない。
「私は欲しい」の下を掘ると、「あの人も欲しがっていた」「あの人に期待されていた」の跡にぶつかる。内面は、手つかずの泉であるだけでなく、鏡でもある。誰がその前に立っていたのだろう。
これは落胆するための問いではない。少し場所を空けるための問いだ。
強く欲しくなったとき、一度止まる。この欲望に、私はどこで出会ったのか。どの人、どの映像、どの物語だったか。その人自身は、誰からそれを受け取ったのか。
問いかけただけで欲望は消えない。トラックはまだ欲しい。それでも、「これこそ私だから、手に入れなくてはいけない」という声は、少しだけ絶対的でなくなるかもしれない。
そうなれば、いくつかの選択ができる。由来を知りながら追いかけてもいい。手放してもいい。願いは持ち続けながら、すべての決定をそれに任せないこともできる。
もう一つ見えてくる。他人の欲望にも、来歴があるということだ。
同僚が同じ昇進を望む。二人が同じ人に愛されたいと願う。ある国で、同じ集団への恐怖や憎しみが広がる。そのとき、どうしてそんな気持ちになったのか、と一つ余分に問える。誰がそれを、勝ち取らずにはいられないものにしたのか。誰があの人を、憎まずにはいられない相手にしたのか。どんな映像が何度も繰り返されているのか。
だからといって、外から他人の動機をすべて見抜いたつもりになるわけではない。それもまた傲慢だ。ただ、同じ方向に向かう感情を、説明のいらない自然現象として片づけなくなる。
ここに小さな自由がある。欲望がなくなる自由ではない。欲望に全部を決めさせずにいられる距離だ。
その距離が必要になるのは、手本だった人が障害に変わるときである。あの人が欲しがるものを私も欲しい。だが、その人が邪魔をする。いつしか対象より、その人を追うようになる。
三 みんなで一人を指す
模倣は欲望を一か所に集めることがある。一人が追いかけ、もう一人がさらに激しく追いかける。相手の動きが、自分にとっての賭け金を上げていく。
実際に限りのあるものもある。職、一つの土地、一つの賞。比較によって手放せなくなるものもある。「父にいちばん愛される子」の位置などがそうだ。二人が同じ人を愛した場合、求めているのはその人の返事であって、所有権ではない。愛される側は、分配される資源ではない。
現実の物不足も、すべて模倣と呼べば済むわけではない。分配の仕方、制度、権力が関わっている。けれど模倣は、現実の対立に、相手を負かすことだけを目的とする激しさを加えることがある。
二人が敵になる。集団の中で敵意が伝わる。昨日なら話し合えた違いが、今日は我慢ならない脅威になる。共同体が危機に陥ることもある。
「こともある」と言わなくてはいけない。模倣は学びや協力も可能にする。似た願いを持つことが、必ず暴力に行き着くのではない。
ジラールはギリシャ神話、聖書、人類学の研究、祭祀の記述、ヨーロッパの魔女狩りを含む迫害の記録を読んだ。その中から、一つの繰り返しを取り出す。ばらばらになった共同体が、共通の標的を通してまとまるという動きだ。
一人、あるいは少数の人々が、危機の原因にされる。
あの人が疫病を持ち込んだ。あの女が作物を枯らした。あいつらが神を怒らせた。国がおかしくなったのは、あの連中のせいだ。言葉は変わっても、いくつもの怒りが同じ場所へ流れ込む。
殺す。追放する。閉じ込める。焼く。
ジラールが描く仕組みでは、そのあと一時的に平穏が戻ったように感じられる。少なくとも、共同体はそう感じる。
告発が正しかったからではない。対立していた人々が、一緒に行動したからだ。全員対全員の争いが、全員対一人へとまとまった。
模倣が止まったのではない。同じ敵意を模倣するようになったのだ。誰かが指さすから私も指さす。誰かが殴るから私も殴る。その一致から、仲間になった感覚が生まれる。
ジラールはさらに、集団が取り戻した平穏を、犠牲者の死のおかげだと考える場合を想定する。災いを招いたはずの人が、今度は平和をもたらした存在になる。恐ろしく、ありがたい。この二重の意味が、彼の神聖さの説明では重要になる。
ここから大きな宗教起源の仮説が組み立てられる。儀礼は、共同体の始まりにある暴力を制御された形で繰り返す。際限のない報復を再発させないために、定められた犠牲を差し出す。
これはジラールの理論であり、あらゆる宗教の始まりが同じだと考古学によって証明されたのではない。すべての動物犠牲が、人身犠牲の次の段階だと決めることもできない。
彼はこの仕組みを、スケープゴート・メカニズムと呼ぶ。
この一連の篇のはじめに、私たちはヒュパティアに会った。群衆の確信、見ようとしなかったものを見てきた。ジラールの視点を持って戻ると、一つの変化が気にかかる。具体的な人が、「この人さえ除けばいい」という障害に変えられる瞬間だ。
アレクサンドリアには、複雑な宗教的、政治的対立があった。司教キュリロスと長官オレステスの対立もその一つだった。長官と交流のあったヒュパティアは、二人の和解を妨げていると非難された。
教師であり、数学者であり、その町で人と付き合って生きる一人の女性。そのすべてが、一つの役割に押し込まれる。この人を取り除けば解決する、と。
この重なりは、指さす行為を考える助けになる。だが、彼女の殺害で町が本当に平穏になったと証明するわけではない。一つの理論名で、事件の具体的な歴史を置き換えることもできない。
彼女の社会的な立場、学識、性別、異教徒であること。いずれも罪ではなかった。それでも、彼女を見分けて指すための印として使われえた。
スケープゴートは本当の原因である必要がない。原因として指し示せるようにされればよい。
四 なぜ、その人なのか
なぜヒュパティアだったのか。なぜ社会の怒りは、すでに見分けられるある集団へ向かうのか。
「恣意的」という言葉は誤解を招く。ナチスのユダヤ人迫害は、くじで標的を選んだような出来事ではない。長い反ユダヤ主義、人種思想、国家権力、組織的な絶滅には、それぞれ具体的な歴史がある。スケープゴートという図は、その歴史の代わりにはならない。
ここでいう恣意性は、押しつけられた罪と処罰の関係にある。集団への告発は、集団への迫害を正当化しない。なぜ加害者がその相手を選んだか説明できることと、被害者の側に迫害されて当然の理由があることは、まったく違う。
違いが印になる。肌、顔、体格。よそから来た人の訛り。少数派の信仰。家父長的な社会で女性であること。革命時の貴族、富裕な人々の中の貧しい人。知を嫌う時代の学識、力を崇める場所での障害。人と離れて暮らすことさえ疑いの材料になる。
印だけが迫害を起こすのではない。噂、力関係、集団の歴史が、それを「私たちの一員ではない」という証拠のように扱う。
すると「私たち」がはっきりする。私たちは彼らとは違う。彼らから身を守らなくてはいけない。追い出すことが、私たちの結束を取り戻すことのようになる。
怖いのは、その境界が動くことだ。いま疑われる特徴を持っていないからといって、永久に安全とは限らない。状況が変われば、学歴、訛り、性別、昔言った一言が、決定的な印になりうる。
もちろん、誰もが同じ危険にさらされているわけではない。歴史と権力によって、危険は不均等に配られる。ただ、いまの安全を、原理的に傷つけられない資格だと思ってはいけない。
ジラールは、これをいくつもの文化で繰り返される危険として捉える。特別に邪悪な一団だけの発明ではない。彼の一般化をすべて受け入れなくても、「難しい問題がいくつもある」が「問題はあの人だ」に変わる瞬間には注意できる。
その変化を止めるには、何が必要なのか。
まず、それを見ることだ。
五 被害者の側から聞く
ジラールの宗教思想には、もう一つ中心となる動きがある。物語を語る位置の変化だ。
彼は多くの神話を、迫害する側に残された物語として読む。怪物が共同体を脅かす。英雄が怪物を倒す。みんなが救われる。私たちは危険を見抜き、必要なことをした。その語り方では、殺された側の声は聞こえなくなる。
ヘブライ語聖書のいくつかの物語に、彼は別の声を聞く。
ヨセフは兄弟たちに売られ、エジプトへ送られる。物語は、厄介者がいなくなった兄弟たちの安堵だけで終わらない。家族に売られた人を追う。
ヨブの友人たちは、苦しみを罪で説明しようとする。何か悪いことをしたのだろう、そうでなければこんな目には遭わないはずだ。しかしヨブは抗議する。苦しんでいる事実は、告発が正しい証拠にはならない。
イザヤ書の苦難の僕も、神に罰せられた者のように見られながら、他者のために負っているものへと読み手の目を向けさせる。外からの確信に満ちた説明が、揺らぐ。
古代に被害者の声があったのは、この伝統だけではない。それでもジラールには重要な筋道となる。責められる側が、責める側を問い返せるようになるのだ。
彼の受難物語の読みでは、その筋道がさらに集中する。
イエスが十字架にかけられる。物語には宗教権威の中の告発者、ローマ総督、煽られた群衆が現れる。処刑はローマ支配の下で、ローマの権力によって行われた。そこから当時の全ユダヤ人を責めることも、後世のユダヤ人に責任を負わせることもできない。
ジラールが注目するのは、福音書が処刑を「みんなが正しかった証拠」にしない点である。被害者の無辜が中心に残る。声の多さ、地位、正式な判決は、それだけで真実を作らない。
これは福音書以前には、無実の人に寄り添う者が誰もいなかったという意味ではない。二つの語り方の差なのだ。みんなでやったのだから正しい。あるいは、みんなでやっても、みんなで無実の人に間違いを犯すことがある。
被害者の側から見ると、美しい結束の見え方が変わる。正義だと思われていたものが、共同の暴力を誰かに押しつける動きとして見える。
ジラールは、この伝統に、仕組みを認識するための長く使える手がかりを見いだす。再発を防ぐ保証ではない。
キリスト教社会も、反ユダヤ迫害や魔女狩り、ほかの暴力を行ってきた。被害者の声は、その後も押しつぶされた。福音書を読んだことで、世紀ごとに迫害が自動的に減ったという歴史ではない。
その隔たりが重要だ。被害者の側から書かれた物語を読むことと、目の前の被害者の側に立つことは、同じではない。
ここからジラールへの問いも始まる。他の伝統を一様にしすぎていないか。キリスト教の歴史に単純すぎる方向を与えていないか。反例をどう扱うのか。好きか嫌いかという宗教への態度だけでは、片づかない問題だ。
一九五九年前後にカトリックの信仰へ戻ったジラールの思想は、その信仰と切り離して済ませられるものではない。同時に彼は、文章と歴史と議論を読者に検討してほしいと考えた。信者でなくても真剣に読めるし、その宗教史の説明を確定事項と見なす必要もない。
この篇は、読者を二つの陣営へ振り分けない。
残るのは一つの問いだ。被害者の側の物語が聞こえることで、集団の暴力は、以前ほど当然のものではなくなりうるか。ジラールがユダヤ教とキリスト教の重要な物語に探したのは、その可能性だった。
彼の論証をすべて受け入れなくても、この動作には意味がある。正義のつもりでいる群衆に、ここには仕組みが働いている、と示すこと。
そこにいるのは、もう「私たちの不幸の原因」だけではなくなる。一人の人だ。与えられた役割では、その生を言い切れない人だ。
ジラールの道は、裏側から進む。他者の場所をどう奪うのかを見て、奪うことを少し難しくする。
六 アーレントの隣で
普通の人が、なぜ暴力に参加するのか。二十世紀の二つの重要な思考が、この問いに向かう。ハンナ・アーレントと、ジラールである。
アーレントは一九六一年、エルサレムでアイヒマン裁判を取材する。アイヒマンはユダヤ人の移送を組織し、絶滅の機構に加担したナチスの官僚だった。彼女は決まり文句、服従への訴え、他人の立場から判断できないあり方に目を向ける。そこから「悪の凡庸さ」という言葉が生まれた。
その言葉は、罪を軽くしない。反ユダヤ思想がなかったと証明するものでも、個人の責任を消すものでもない。「命令に従っただけ」という本人の弁明を、そのまま行動の事実と見なすのは危険だ。
アーレントは、私たちにとって都合のよい像を崩す。恐ろしい罪には、必ずしも芝居がかった悪魔の顔がついているわけではない。自分で判断するのをやめることも、参加を可能にする。
ジラールは、迫害を取り囲む理由を見せる。参加者は、役に立っている、仲間になっている、使命を果たしていると感じる。彼らには言い分がある。その言い分こそが、害を正しく見せることがある。
理由があることは、よく考えたことと同じではない。アーレントは判断が止まるところを問い、ジラールは一人の犠牲を通して集団がまとまるところを問う。力点は異なり、同じ説明に置き換えられない。
それでも二人は、「怪物がやったのだ」で説明を終える安易さを拒む。
大量の暴力には、明確な思想、意図的な組織者、普通に見える参加者が同時にいることがある。事務手続きが害を業務に変え、帰属意識が害を忠誠に変える。それを説明することは、意図、選択、責任を取り消すことではない。
前の篇にも、いくつかの違いがあった。ヒュパティアを殺す人々は自分を正しいと思いうる。レヴィナスの他者は、私の説明に収まり切らない。曹植の話では、相手の苦しさを知りながら拘束を続ける者もいる。見えないこと、理由で隠すこと、見えてなお続けること。この違いは残さなくてはいけない。
アーレントとジラールを並べて読むのは、考えないことはすべて罪だと言うためでも、あらゆる犯罪を一つの原因に帰すためでもない。慣習と集団の確信に、自分の判断を丸ごと渡さないためだ。
ここでは二人の仕事を並べて読んでいる。アーレントが亡くなった一九七五年には、ジラールの一九六一年の文学論と、一九七二年の『暴力と聖なるもの』はすでに出ていた。違う道を歩んだ仕事が、互いを照らす。
アーレントから受け取るのは、装置が判断不要と言う場所でも判断を続けること。ジラールからは、視線が集まり、怒りが集まり、やがて指さされた本人が見えなくなる動きへの注意だ。
参加しないためには距離がいる。自分の欲望からも、仲間の理由からも、全員一致の温かさからも。
その距離には代償がある。ついていけば仲間になれる。立ち止まれば一人になるかもしれない。
だが、その孤独は他人を見捨てることとは限らない。集団がたったいま締め出した人の場所を、一人で空けておくこともある。
七 五つ目の声
ここまで、いくつもの声が応答してきた。
カントは、人を単なる手段として扱わないよう求める。レヴィナスは他者の要求の前へ私たちを連れ出す。ブーバーは「あなた」をもう一度聞かせる。曹植を読むと、渇望、別れ、所有できないことに出会う。
同じ教説を四人が繰り返しているのではない。詩人を哲学の学派に入れるのでもない。このシリーズが並べた、違う場所からの四つの声だ。別の人とどう生きるかを、考え直させる声である。
ジラールは五つ目の声を、反対側から加える。何が私たちを、繰り返し他人の場所を奪うほうへ押すのか。その圧力はどう伝わるのか。どこでついていくのをやめられるのか。
「他人の場所を空ければいい」と言うだけでは足りない。周囲がその逆を褒めるとき、一人の決意は維持しにくい。押してくる力を見る必要がある。
だが、仕組みに名前をつけるだけでも足りない。よく理解したうえで参加することもできる。知識は私たちの代わりに選ばない。
二つの向きが必要になる。一つは行き先を示し、一つはそこから押し戻す力を見る。どちらも、次の一歩を代わりに踏んではくれない。
晩年のジラールも、この難しさを追い続けた。暴力の仕組みを明かしても、暴力は消えない。古い正当化を使いにくくすることはあっても、新しい生き方が自動的に手渡されるわけではない。見えたあと、何をするかが残る。
ジラールは一九八一年にスタンフォードへ移り、一九九五年に退職した。その後も思索を続け、学生や読者に影響を与えた。学生の一人がピーター・ティールだった。哲学を学び、後にペイパルの共同創業者となり、フェイスブックにも早くから投資した。ジラールが自分の思考に与えた影響を、本人も公に語っている。
思想がビジネスへ入ると、一つ問いが生まれる。模倣的な競争を離れるのは、互いを傷つけないためなのか。それとも、他人が争えない位置を得るためなのか。重なる部分はあっても、同じ目的ではない。
ジラールは競争的模倣から暴力への移行を考えた。ティールの企業論は、似た企業同士の終わりなき競争を批判し、本当に違うものを作って持続的な優位を得るよう促す。
ブレイク・マスターズとの共著『ゼロ・トゥ・ワン』で語られる創造的独占には、独自の技術や新しい価値という意味がある。混み合った場所でもっと速く走るだけでなく、別の出発点を探すということだ。
ここで、革新、優位、他の人に残される余地が、同じ議論の中に入る。模倣という診断だけでは、その答えは決まらない。
ある読者はジラールを通して、勝たずにはいられない自分を点検する。別の読者は市場の同調を見抜き、優位を築く。後者が他人を害するかどうかは、具体的に何をするかで問うべきことであり、誰の本を読んだかだけでは決まらない。
師弟の関係も、違いばかりではなかった。ジラールはティール、ロバート・ハマートン=ケリーとともに二〇〇七年にイミタチオを創設し、活動は二〇〇八年に始まった。思想の関係は、賛成と反対を分ける一本の線より複雑だ。
それでも、彼らだけに限らない可能性が残る。仕組みを見抜いた人は、その仕組みを、前より巧みに動かすこともできる。
人を解放するための洞察に、自分の使われ方を支配する魔法はない。それを認めることは、どんな使い方も同じだとすることではない。行動する場所に責任を戻すことだ。
ティールは今も選択している。その結果は検討され、批判されうる。生きている人に、まだ書き終わらない人生を認めることは、権力を批判から免除することではない。一つの行動を判断することと、その人を永久に定義し終えることは違う。
具体的な問いは残る。その洞察で誰の場所が広がり、誰にどんな負担が残るのか。心の中を当てようとするより、こちらのほうが精密な仕事を求める。
ジラールは二〇一五年、九十一歳で亡くなった。何かを見えるようにした。そのあと読者一人ひとりがどうするかまでは、決められなかった。
人は単なる手段ではない。他者は私の説明に収まらない。「あなた」は自由に使える「それ」ではない。私は渇望できるが、相手を所有することはできない。そしてジラールの注意が加わる。他者を消す仕組みを見分け、そこに参加しないと選ぶこと。
五つの声、一つの教説ではない。このシリーズの読みにおいて、同じ方角を照らし合っている。
そちらから、穏やかな風が吹く。
八 橋の上
ここからは、このシリーズが想像する場面である。ジラールは普通のスーツで歩いてくる。
痩せていて、眼鏡をかけている。八十代に見える。表情には控えめなところがあるが、冷たくはない。歩みはゆっくりだ。手に一冊の本を持っている。自分の本だが、見せびらかしてはいない。
橋の真ん中まで来る。
ヒュパティアがいる。手にアストロラーベ。向こうにはトマス・アクィナス。杖をつくベルクソン。レヴィナス。ブーバー。巻物を持つ曹植。
名前を挙げた人だけではない。世代を重ねて集まった人たちだ。方程式を書く人、トウモロコシを見る人、詩を書く人、星図を読む人。小説家、図面を引く人、しゃがんで書き留める人。遠くを見る人。隣と小声で話す人。
ジラールはいくつかの顔に会釈する。
橋の別のところにいるアーレントが、うなずき返す。すぐに近づいて長話をするのではない。想像の中の短い挨拶に、違う二つの問いが、違うまま互いを認める時間がある。
レヴィナスも見える。同じ世紀のフランス思想の世界を生きた二人だ。小さく微笑み、微笑みが返る。
ジラールは立つ場所を見つける。
遠い端にはカントがいる。今夜は、その顔の輪郭が、前より少しはっきり見える。
橋の外には、もう一つの道が続いている。上空は暗い。稲妻が走る。
その道を人が歩く。
いちばん遠くまで行った人たちは、もう見えない。教授のガウンを着たハイデガーは、さらに先へ進んだ。振り返らない。
ジラールはしばらく道を見る。
告発、魔女狩り、粛清、ホロコースト、さまざまな時代の集団暴力を思う。一つの仕組みが、これらの歴史をすべて語れるわけではない。だが、ある恐ろしい転換を、彼は長く追ってきた。人々が一緒になって、一人の人を、取り除くべきものに変えること。
その道の天気を知っている。嵐だ。人がその雨を正しいと思い、その歩みを必要だと思う理由を考えてきた。
あそこを行く人々も、一度は橋の前にいた。
誰にとっても、ある瞬間に選択があった。他者を見て橋へ向かった人。見なかった人。見たのに、背を向けた人。
橋は地理的な場所でも、人間として上の等級でもない。ここで想像されているのは、いま他者の場所を空けるという共存のあり方だ。離れていく人も人であり、自分の行為に責任を負い、まだ方角を変えうる。
自分の本が、道を消したわけではない。ジラールは知っている。
何人かには、道を見分ける助けになった。それも知っている。
二つとも本当だ。
ひどく悲しんでもいないし、安心し切ってもいない。彼は一つの移り変わりを見えるようにしようとした。その先を、他人の代わりに歩くことはできない。
振り返る。ヒュパティアのアストロラーベが月明かりを受ける。
遠くでは、本を読んだ人たちが暮らしを続けている。読んだことで、群れについていかないための距離を得た人もいる。もっと巧みに立ち回るようになった人もいる。その道筋は、すぐ橋か道路かに描き分けられるとは限らない。迷い、また別の通り道を探すこともある。
一人ひとりの行き先を彼は知らない。生前も知らなかった。いまも、一人ひとりの行き先は見えない。まだ選んでいる読者がいる。
彼は監視しない。どうでもよいのではない。見えるようにする仕事を信じることと、一つひとつの目を支配することは違う。
向こうへ行って言葉を命じたりはしない。書かれた本は、別の手へ渡る。
橋の真ん中にいる人たちのほうへ戻る。
ヒュパティアが本を見る。彼女はギリシャ語、彼はフランス語を話す。それでも道具なら、言葉に先立ってわかることがある。アストロラーベと本は別の世紀のものだが、人が見たことを別の人へ渡す、その点では近い。
トマス・アクィナスが来る。この想像の会話では、ラテン語で識別について語る。みんなが同じものを見るとき、自分の目を保つことについて。ジラールは聞き、うなずく。
曹植が少し離れて立つ。フランス語と古い中国語では、簡単に話せない。けれど認め合える何かがある。疑いと拘束の中を生きた人と、集団の告発の力を考えた人。違う生が、違う側から一つの圧力に触れている。
橋の真ん中に、たくさんの人。月明かりは穏やかだ。
遠い端の人は、ヒュパティア、トマス、ベルクソン、レヴィナス、ブーバー、曹植を見た。
今度はジラールを見る。
短く目が合う。
ジラールは頭を下げず、ことさら上げもしない。ただ手の本を、少し持ち上げる。
誇示ではない。確かめるように。あなたがそこにいることを知っている。これが私に渡せるものだ。
橋の端で、かすかなうなずきがある。
ジラールは本を下ろす。
ほかの人たちの間に立っている。
生涯をかけて、一つの仕組みを明るみに出した。仕組みはまだ動く。それでも、動くたび、見ている人がいるかもしれない。
終わりのない仕事だった。終わらせられないと、知っていた。
それでも、した。
読書のための注記と出典
模倣的欲望、祭祀の起源、福音による迫害の暴露はジラールの理論と読解であり、普遍的な実証済み説明ではない。ヒュパティアへの告発はソクラテス『教会史』第七巻十五章を参照し、殺害後の都市の安定は推定しない。
年表はスタンフォード大学の追悼文を参照。アーレントとの対読はアイヒマンの思想や個人責任を免除しない。ティールの企業論はマスターズとの共著に基づく。イミタチオ自身の記録は二〇〇七年創設と二〇〇八年始動を区別する。
橋、道、天候、時代を超える出会いは文学的な想像で、伝記ではない。比較は教説の同一性を意味せず、人生を開かれたものとして扱うことは個々の行為の責任をなくさない。
Stanford — René Girard obituary and chronology · Imitatio — mimetic theory keywords · René Girard — interview · Socrates Scholasticus — Ecclesiastical History VII.15 · USHMM — Eichmann Trial · Peter Thiel and Blake Masters — Zero to One, publisher · Imitatio — Advisory Board and founding · Imitatio — launch in 2008 · 法政大学出版局 — 欲望の現象学
中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。