102 / 108 · 他者と空席
曹植――所有できないもの
七歩の詩の伝承、洛神の別れ、曹彪へ贈る長詩。拘束された王侯は、爵位だけでは言い尽くせない声を残した。
一、七歩
まず、曹植という名を知る人ならほとんど誰もが聞いたことのある話から始めよう。七歩のうちに詩を作ったという話である。
この逸話が収められているのは、曹植の死からおよそ二世紀後に編まれた『世説新語』だ。曹魏の宮廷に残された、その場の記録ではない。これから宮殿や足音や沈黙を思い浮かべるのは、伝承を語り直すためであって、史料の空白を埋めて、ある日の出来事を復元するためではない。
大広間を想像してみる。曹丕はすでに皇帝となり、曹植はその前にひざまずいている。一人は命令を発する場所にいる。もう一人は答えなければならない。
二人は卞夫人を母とする兄弟だった。曹植は曹丕より五歳年下。同じ父、同じ母、ともに育った歳月。いま、その近しさを皇帝と臣下の距離が隔てている。
曹丕は、目の前の弟を見た。
この顔を知っていた。
幼いころから知っている弟である。父の曹操は曹植の才能をとりわけ愛し、一時は跡を継がせようと考えていた。物語の刃は、まさにこの親しさの内にある。お前が誰なのか知らないのではない。よく知っているのだ。
結局、父は弟を選ばなかった。選ばれたのは自分、曹丕だった。
けれど、この顔はまだここにある。
この物語では、弟の才能もまた皇帝にとっての脅威となっている。
彼は命じた。
「七歩のうちに詩を作れ。できなければ罰する」
曹植は立ち上がった。歩き始めた。
一歩。二歩。
逸話の中では、七歩を過ぎないうちに詩が生まれる。後世に最も広く知られる四句を、いまの言葉に移せばこうなる。
「豆を煮るのに豆の茎を燃やす。豆は釜の中で泣いている。もとは同じ根から生まれたのに、なぜこれほど急いで私を煮つめるのか」
四句、二十字。『世説新語』に載るものは六句で、言葉にも違いがある。短いこの詩にも、それ自身の伝わってきた歴史がある。
釜の下で燃えているのは、豆と同じ植物の茎だ。釜の中の豆は泣いている。私たちは同じ根に生まれた。どうしてそんなに急いで私を苦しめるのか。
広間が、一瞬静かになった。
逸話によれば、曹丕は深く恥じたという。
物語はここで終われる。しかし曹植の実際の人生は、ここでは終わらない。
二二〇年に曹操が死んだあと、曹植は曹丕、そして曹叡の治世を生きた。爵位には上下があり、領地も移った。朝廷からは監視と疑念が向けられた。転封のすべてが左遷だったわけでも、同じ牢に入れられ続けたわけでもない。それでも王侯という身分は、望んでいた政治的な活動の余地を与えなかった。
二三二年、曹植は死ぬ。史書では四十一歳、いまの数え方ならおよそ四十歳だった。愛された少年から、幾度も願いを申し立てる王侯へ。その一生は長くなかった。待つことが、その大きな部分を占めていた。
七歩の詩は、兄弟が互いを苦しめることを一つの瞬間に凝縮する。これから読むのは、その瞬間の外に続いていた長い日々だ。他人の決めた場所で生きながら、どうすれば自分の声をなお響かせられるのか。
二、後継者争い
曹丕がなぜ弟をそのままにしておけなかったのかを知るには、二人の若いころへ戻る必要がある。
曹操には多くの息子がいた。後継者をめぐる争いで、有力な候補となったのが曹丕と曹植だった。長男の曹昂はすでに戦死していた。曹丕には年長という強みがあり、曹植には才能によって得た寵愛があった。生まれた順番を見れば、あとは異論の余地がないという話ではなかった。
なぜ、それほど愛されたのか。
曹植は聡明だった。父さえ驚かせるほどに。
『三国志』には、十代の初めには広く書物を読み、文章を巧みに作ったとある。父は作品を見て、誰かに代作させたのではないかと疑いさえした。曹植は、目の前で試してくれればよいと答えた。銅雀台が完成したとき、息子たちはそこに登って賦を作った。曹植はたちまち書き上げ、曹操を驚嘆させた。才能とは、後世が贈った評判だけではない。家族はすでにそれを目にしていた。
その才能には、気質も絡み合っていた。
伝記は、曹植が威儀にこだわらず、飲酒を慎まなかったことを伝える。一方の曹丕は、自分の見せ方を心得ていた。一人は好みや気持ちを表へ出しやすく、もう一人は他人に何を見せるべきかをよく知っていた。ただ、一方を「飾らない人」、他方を「計算高い人」と名づけても、それだけで政治的な判断の代わりにはならない。
息子の文章を愛することと、その息子に権力を任せられると信じることは、まったく同じではない。
曹植には支持者がおり、曹操も何度か迷った。父親の好みは、臣下と継承と政権を巻き込む問題になっていった。
曹植自身、父の信頼を損なうことをしている。車で専用の道を走り、許可なく司馬門を開いた。これは単に、若者がわがままな外出をしたという出来事ではない。禁令が破られ、公車令がそのために処刑され、曹操は諸侯への制限をさらに厳しくした。一人の振る舞いが、すでに別の人の命に及んでいた。
二一九年、曹仁が関羽に包囲されたとき、曹操は曹植に兵を率いて救援させようとした。だが伝記によれば、曹植は酔っていて命令を受けられず、この任務は取りやめになった。
ただし、この事件を二年前の後継者決定の理由にすることはできない。出来事の順序は大切だ。
二一七年、曹丕は魏王の世子に立てられていた。
二二〇年、曹操が死ぬ。曹丕は魏王を継ぎ、数か月後には最後の漢の皇帝を退位させ、魏を建てた。
曹丕は皇帝になった。曹植は、その地位に届くかもしれなかった者から、皇帝の弟になった。しかも、かつてその皇帝に取って代わるかもしれなかった弟である。
曹植の失敗を批判することと、その後の抑圧を認めることは両立する。前者が自動的に後者を正当化するわけではない。失敗したからといって、本当は政治的な役割など望んでいなかったと決めることもできない。
才能のある人も自制を失い、状況を見誤る。才能は、すべての行動が正しいという保証書ではない。
書簡や上表文には、真剣に仕事をし、功績を立てたいという声がある。それをすべて「父に愛されたかっただけ」と書き換える根拠はない。父に認められたいことと、世界で何かを成し遂げたいことは、一人の中に同時にあってよい。願いを一つだけ残す必要はない。
しかし願いよりも脱ぎ捨てにくかったのが、後継者争いの中で定まった立場だった。その後どのように自分を説明しようと、皇帝に代われたかもしれない弟は、皇帝の政治的な記憶に入り込んでいた。
それからは、自分を説明することさえ危険になった。
三、黄初
二二〇年、曹丕は元号を黄初と改めた。
黄初二年、二二一年に、曹植は安郷侯へと降格され、同じ年に鄄城侯へ改封された。二二二年には鄄城王となった。名号は変わる。だが、自分の生活をどれほど自分で決められるかは、名号だけでは測れない。
侯から王になるのは、本当の昇格でもありうる。領地の変更がすべて同じ理由から行われたとも限らない。それでも栄誉や移動は、朝廷の宗室への警戒を取り去らなかった。
監督する使者がいれば、日々の言動は政治的な材料になりうる。二二一年、灌均は曹植が酒に酔って不遜な態度を取り、使者を脅したと告発した。その後、処罰と降爵が続いた。あらゆる手紙や足取りが余さず記録されていたと想像しなくても、危険は十分に分かる。自分の生をどう語るかは、自分一人の手にはなかった。
曹植は兄に、のちには甥に上表した。兵を率いたい。国の役に立ちたい。才能を詩賦の外でも使いたい。待遇に褒賞がまったくなかったのではない。それでも望む活動の広さと、許された場所との隔たりは大きかった。
養われる王侯には俸禄があり、邸宅があり、仕える人がいた。その利点をなかったことにしてはいけない。しかし物質的な豊かさと、自分の進む方向を決めることに参加できるかどうかは、別の問題だ。
宗室の管理には、一つの論理が見える。地位を与え、同時に行動を制限する。
殺す必要はない。
毎日起き、食べ、書物を読むことはできる。その一方で、「私は何をしたいか」を、実際に話し合える問題にするのがほとんど不可能になる。生きていることが死と同じなのではない。ただ、生きることの重要な一部分が、長く他人に握られている。
曹操の死から曹植の死まで、十二年。
それは沈黙だけの十二年ではなかった。
彼は一つのことをした。書いた。
制限のあるそれぞれの領地で、書き続けた。詩を書いた。賦を書いた。皇帝に差し出す正式な文章である表を書いた。書くことで、自分が消えてしまわないようにした。
多くの文章は皇帝のもとへ届けなければならなかった。謝恩、陳情、登用の願い。その言葉は危うい読み方にも耐えなければならない。才能ある人が、自分を脅威とみなすかもしれない相手へ書く。どの言葉も、狭い足場を渡っていく。
詩や賦は、別の声を受け入れられた。上表文には必ず偽りがあり、詩には技巧がないということではない。同じ一人が、悲しみや望みや憤りに、異なる言葉の居場所を与えられたのである。のちには彼の知らない読者が、その言葉を通じて近づいてくる。
朝廷は彼に場所を割り当てた。だが文章の中には、その場所だけが残ったのではない。
四、洛水
『洛神賦』の序は、物語を黄初三年、二二二年、都から領地へ帰る途中に置いている。
馬車が止まる。洛水のほとりで、旅人がしばらく休む。
洛水は洛陽の南を流れる、さほど大きくない川だ。中国の伝承では、そこに宓妃という女神がいる。伝説の伏羲の娘とされる。
ここから私たちは賦の世界に入る。旅人が神女と出会うことは、歴史上の曹植が実際にそうした体験をした証拠にはならない。だが言葉は、不可能な出会いを読者の前でゆっくり起こしてみせる。
まず語り手が水辺の美しい姿を見て、驚き、御者に尋ねる。御者は、あれこそ洛水の女神、宓妃ではないかと答える。突然の「見る」が、ありふれた旅程を中断する。
彼は、もう一度見る。
賦はその一回のまなざしに、長い言葉を費やす。姿について、こう描く。
「驚いて舞い立つ雁のように軽やかで、泳ぐ竜のようにしなやか。秋の菊のように光り、春の松のように豊かに茂る。あるときは薄雲が月を覆うように、あるときは風が雪を舞わせるように」
驚いた鳥から竜へ、花や木から雲や雪へ。どの比喩も彼女を一つの姿にとどめない。日常の尺度を越え、その像を人間の外へ押し広げていく。
動きについては、こう書く。
「波の上をかすかな歩みで渡り、薄絹の靴下から塵が立つ」
その足は水面にほとんど触れない。絹は身体に属しながら、人の身体の重さには従っていない。波、軽い歩み、絹、塵。絵として静止させるのがほとんど不可能な一筆だ。身体の像と、人ならぬ動きが同じ一句にある。寸法や比率を書けば尽くせる肖像ではない。
旅人は彼女を見つめる。そして二人の間に起きることを書く。
心を引かれ、水を隔てて思いを伝え、玉の飾りを贈ろうとする。彼女も応える。立ち止まり、ためらい、動き、言葉を発する。だが間には疑いがあり、礼があり、人と神の違いがある。互いに引かれたからといって、距離が消えるわけではない。
けれど。
彼女は神で、彼は人だ。
賦の後半は別れになる。水上に、神々、車、雲を伴う行列が広がる。去っていく光景は華やかで、それと同時に遠い。旅人には見送ることしかできない。
別れの言葉を、女神自身が語る。
「人と神の道が異なることを恨み、盛りの時をともにできぬことを悲しむ。絹の袖を上げて涙を隠しても、涙は襟を濡らして流れる。この美しい出会いが終わり、一たび去れば別々の地にいることを嘆く。愛を示すわずかな品として、江南の輝く玉を贈ろう。暗い深みに身を置いても、心は長く君のもとに寄せよう」
袖を上げるのは彼女だ。玉を贈るのも、相手に心を寄せ続けると約束するのも彼女だ。男性のまなざしの下で描かれる美であるだけではない。ここで賦は、彼女自身の悲しみと別れに声を与えている。
彼女が去ったあと、旅人はすぐに落ち着いて旅を再開するのではない。流れをさかのぼって姿を探し、夜になっても眠れない。最後に手綱を取って馬を進めようとしても、なおためらい、立ち去りがたい。
賦は終わる。
千八百年にわたり、読者は問い続けてきた。彼が書いたのは、洛神だけなのか。
彼女は、望んでも所有できない存在を思わせる。だがその読みは、賦の動きや声や距離から育つべきだ。初めから「本当は彼女のことではない」と宣言する必要はない。
歴代の注釈には異なる解釈がある。女神は甄后、つまり曹丕の妻であり、曹植は若いころ彼女を愛したのだという読み。この説は文学批評で盛んに語られてきたが、確かな裏づけに乏しい。女神は政治的な理想、才能を発揮できたはずの、失われた地位なのだという読みもある。さらに抽象的な、美そのもの、自由そのもの、世界に収まりきらない存在だとする読みもある。
ここでは、どれか一つを選ばない。ただ一つのことを言いたい。相手の美を書き尽くしたからといって、その相手の所有権が手に入るのではない。賦は、望みをきわめて深く書きながらも、なおそうであることを見せてくれる。
彼女の一つひとつのしぐさを書ける。自分がどれほど彼女を望むかも書ける。けれど、彼女をつかまえておくことはできない。
彼女は他者なのだ。
愛し合い、ともに暮らせば他者でなくなる、という意味ではない。親密さも約束も本物でありうる。ただ、「私があなたを望むから、あなたは私の望むとおりにだけ存在しなければならない」とは言えない。
洛水のほとりにいるのは、すでに感情の始末をすべて終えた聖人ではない。
彼はまだ、名残を惜しんでいる。
賦はその思いを消さず、所有によって決着もつけない。彼女は去り、彼は眠れず、立ち去れない。相手は自分のものではないと認めても、痛みがただちに終わるわけではない。
だからこの作品は、一句の教訓より厚い。考えは言葉にできても、感情はまだ歩いている。彼女は彼女、彼は彼。距離は悲しみをもたらす。それでも、自分の悲しみを止めるためだけに、一方的に距離を消すことはできない。
五、白馬王彪へ
二二三年、曹丕は何人かの兄弟を都へ呼んだ。曹植、任城王曹彰、白馬王曹彪である。この朝見が、長い詩の背景となった。
洛陽にいる間に、曹彰が突然死んだ。正史では病死とされる。
後の『世説新語』には、曹丕が毒入りの棗で曹彰を殺したという話がある。一方、『三国志』本文は、邸で病死したと記す。逸話は、後の人々が兄弟間の恐怖をどう受け止めたかを照らす。しかし、それだけで先行する記録と同じ証拠の重みを持つわけではない。
伝承と記録を分けても、曹植の喪失が軽くなることはない。
曹彰は死んだ。曹植と曹彪は、それぞれの領地へ戻らなければならない。死による別れのあと、せめて帰路では、もう少し一緒にいたかった。
詩の序には、担当の役人が、帰国する二王は道中で別々に宿泊すべきだとした、とある。曹植はこの隔たりを詩の前に記した。兄を一人失ったばかりなのに、生きている弟とも思うようには時を過ごせない。
兄弟の再会は、また宗室の管理の仕組みに従わされる。曹植も曹彪も、従うほかなかった。
別れの日、曹植は長い詩を曹彪に贈った。『白馬王彪に贈る』である。
七つの章は互いに結びつき、悲しみの場所も移っていく。旅路の困難、強いられた別れ、死んだ兄、生きている弟、そしてどうにか支えとなる強さを持たせなければならない、自分の言葉。
中ほどで、彼は曹彪にこう語る。
「男子の志は四海に及び、万里も隣家のようになろう。私たちの情が欠けなければ、距離は親しさを深めることもできる。同じ夜具をかぶらねば、心は示せないのか。憂いが病となるまで思い悩むのは、私たちの志に比べて狭すぎる情ではないか」
志を世界へ広げれば、万里も近隣になる。離れても情は減らず、同じ布団で眠ることだけが親しさの証明ではない。悲しみを病にしてはいけない。彼は強く言う。当時の「大丈夫」は柔らかな情にとらわれるべきでないという理想も、その声には含まれている。
これは曹彪への慰めだった。同時に、自分への慰めでもあった。
けれど最後の章で、その慰めはまた揺れる。
「苦しみを思い重ねて何になる。天命さえ、まことに疑わしい。空しい仙人の世界を求め、赤松子には長く欺かれた。変事は一瞬のうちに起こる。誰が百年の命を保てよう。この別れに再会はないのか、いつまた手を取り合えるのか。王よ、大切な体をいたわってほしい。ともに白髪の年を迎えよう。涙を拭い、長い道に就く。筆を執り、ここで別れを告げる」
苦しみと思い悩むことが絡み合い、天命まで疑わしくなる。不老長生の約束も、次の再会を保証してくれない。変化はたちまち訪れる。そこで彼は、最も小さな願いに戻る。体を大事にしてほしい。二人とも年を取れたらよい。涙を拭き、旅立ち、筆を上げて別れを告げる。
この別れに再会はないのか。いつまた手を取り合えるのか。
中国語では十字。その十字に、どんな慰めの理屈でも解決できない不確かさがある。
ともに進みたい二人の兄弟が、宿泊先さえ自分で決められない。目の前には道がある。しかし次の再会を、自分たちで日程に書き込むことはできない。
二度と会えないかもしれない。それは詩の深い恐怖だ。次に会えるかどうか分からないほど、「大事にしてほしい」という一言は代えがたい。
権力はここで、何をしたのだろう。
毎回殺せと命じなくても、人の関係を狭め続けることができる。領地、朝見、宿泊、交際。その一つひとつが許可の対象になる。管理する側には一つの規則でも、当事者には次の握手がありうるかどうかを決めるものになる。
曹丕は弟が誰かを知っていた。親しさは自動的に疑いを消さず、血縁は自動的に自由を守らなかった。
それでも、彼は選んだ。
このことは、レヴィナスの「顔」を心理的な保証と読んではいけないことも教える。顔を見たことがあれば傷つけない、とは限らない。人は知っている人を抑圧し、身内の暮らしを自分の安心の後ろへ置く。
行為とその結果は判断できる。しかしそれによって、一つひとつの命令の内側にある動機をすべて見抜いたことにはならない。
ハイデガーについての文章と重ねて読むなら、限られた、しかし鋭い問いが浮かぶ。具体的な一人を知ることと、その人を犠牲にできる側へ置くことは、なぜ両立してしまうのか。
曹魏の宗室政治とナチズムへの支持を同じ出来事にするのではない。状況も規模も制度も異なる。比較は問いを照らせるが、それぞれの歴史の代わりにはならない。
近しさは支配しないことの保証ではない。学問もまた、そうではない。問うべきなのは、恐れと利益が迫ったとき、なお相手に拒むための場所が残っているかどうかだ。
のちに司馬氏が魏に代わり、皇室は別の権力の下に置かれた。権力は自分の子孫を必ず守れるわけではない。しかし、それを曹丕が弟を抑えたことへの必然の報いとして語ってはいけない。歴史は、詩人の敵に罰を与えるための機械ではない。
こうした人生を嵐にたとえることはできる。だが、天候に判断の代わりをさせることはできない。
六、囚われた王侯
最後の十二年間、書くことは曹植に、声を出すための道を残した。
安郷、鄄城、雍丘、東阿、陳。名号と領地は何度も変わり、降爵も昇爵もあった。その間を貫くのは、朝廷の権力との、ほどきがたい距離だった。
監視と告発の可能性は、自分を表すことを危うくした。兄弟の面会は制限され、移動と政治活動は管理された。何の資源も持たなかったのではない。だが、重要な決定のいくつかを自分では下せなかった。
兄の死後も甥に登用を求め、何かを成し遂げたいと願った。後世が最もよく知るのは詩人としての曹植だ。しかしそれは、彼の望みのすべてではない。
その望みは、期待した広さを得られなかった。
彼が書き続けたことを敬うからといって、抑圧されたすべての人に同じ強さを求めてはならない。病む人も、言葉を失う人も、二度と筆を持てなくなる人もいる。それは人としての資格を失ったのではなく、傷つけられたということだ。
まず、そのことを明らかにしておきたい。
曹植は詩、賦、表、書簡、楽府の歌詞を残した。許された範囲で行動しながら、文字をその範囲の外へ、他人の耳元へと送り出した。
文章の中にあったのは、被害者という立場だけではない。
怨みもある。彼はそれを否定しない。「高い木には悲しい風が多く、海は波を上げる。鋭い剣が手にないのなら、友が多くて何になろう」。こうした句から、境遇の現実を見ていたことが分かる。しかし自然の観察、友を思う心、過去の人物への判断、人の生への思索もある。
私たちは、なお見て、判断し、誰かを恋しく思う一人に出会う。
拘束は自由を奪い、表現する力を傷つける。けれど表現できなくなった人も、それによって顔のない物になるのではない。曹植をものさしにして、作品を残さなかった人が十分に人間らしかったかどうかを測ってはいけない。代わりに語る詩集がない人も、聞かれ、守られるべきだ。
作品は傷を消さなかった。美しい一句を書きながら、重い痛みを抱えていることもある。「無傷の天才」と「打ち砕かれた敗者」のどちらかにしか属せないと、彼に選ばせる必要はない。
文章は、別のことを見せてくれる。
権力は、彼に言えることをすべて言い終えたわけではなかった。
朝廷は爵位と土地と制限を与え、警戒すべき宗室として記録できた。しかしその規定は、『洛神賦』の望みも、曹彪との別れを惜しむ思いも、尽くさなかった。
彼が残したものは、他人が作った彼の記録より多い。
傷つかない力を持っていたからではない。書くという具体的な仕事が、いくつかの感情に形を与えたからだ。一字を書く。一句を直す。詩にどの声を残すかを選ぶ。小さな行為ではあっても、その判断を監視者がすべて代わって行うことはできなかった。
書くことが尊厳を発行したのではない。もともと尊厳を持つ一人が、のちの人に届く声を残せたのである。
曹丕は二二六年に死んだ。曹植はさらに六年生きた。曹叡の治世にも制限は続いた。制度は、それを設けた人より長く生きることがある。一人が去っても、握りしめる手がひとりでに緩むわけではない。
皇帝は代わったが、境遇がそれに応じて開けたわけではなかった。それでも詩を読めば、その境遇が曹植のすべてではなかったことが分かる。
七、持つことのできないもの
所有できないことは、これらの作品を繰り返し通る糸である。女神は所有できない。兄の信頼は強制できない。政治的な望みは妨げられ、兄弟の再会も管理される。どれも痛みうる。しかし同じ種類の「できない」ではない。
他人の自由は尊重されるべきだ。一方、自分の奪われた自由は取り戻そうとしてよい。後者まで、静かに受け入れるべき美しい距離に変えてはいけない。
曹植は、これにどう向き合ったのか。
望みを否定しなかった。
ここが大切だ。
人は喪失を和らげるために、「本当は欲しくなかった」と言うことがある。だが手放すことが、本当の変化、自分を守って新しく生きる始まりである場合もある。手放すすべての人に、他者から逃げていると決めつけることはできない。
曹植のこれらの文章は、痛みを急いで無関心に書き換えない。
『洛神賦』は深く望みを書き、女神自身に別れを告げさせる。心を長く君のもとに寄せるという約束は、彼女の声だ。語り手が、彼女を手に入れたと宣言する声ではない。彼女は語る。それでも別れは起こる。
曹彪への詩も、別れなど何でもないというふりをしない。いつまた手を取り合えるのか。文字はその問いを開いたまま残し、未来の保証は書かない。政治的な上表文でも、仕事をしたいという願いは繰り返される。宮廷の形式が言葉を縛っていても、願いそのものが消えるわけではない。
望みを認めながら、それを他人を所有する権利に変えない。これは難しい。
二つの誘惑が近くにある。痛まないように相手を価値のないものにすること。自分が満たされるため、相手を自分に属すべきものにすること。どちらも選ばないからといって、永遠に見込みのない望みの中へとどまる必要はない。愛する、話し合う、拒む、去る。それぞれが互いを尊重する行為になりうる。
ただ、この道には一つの特徴がある。
相手の重みは、私の成功や失敗によって授けられるのではない。
関係を失っても、相手に価値がないと宣言しなくてよい。自分の生のために真剣に努力しても、他人にその生を差し出せと要求しなくてよい。「あなたは私のものではない」は痛みへの唯一の答えではないが、軽々しく越えてよい線ではない。
千八百年後も、曹植はこの緊張を感じさせる。近づきたいが、相手に代わって決めることはできない。何かをしたいが、別の人の決め事が道を塞ぐ。前者は私が所有しないことを求め、後者は権力が私を所有しないことを求める。二つは異なり、一人の生で出会っている。
これまでの文章では、倫理、関係、哲学の言葉で他者に近づいてきた。曹植は別の言葉をくれる。
望みの言葉だ。
他者は、恋しさの中にも、別れの中にも、どうしても静かに立ち去れない夜の中にも現れる。だからすべての望みが正しいのではない。だが望みは、自分の声を、そして向かい側の声を、もっとはっきり聞かせることがある。
場所を空けるとは、自分を消すことではない。自分の望みに、全員の結末を書き切らせないことだ。
カントは人が単なる手段になることを拒む。レヴィナスは顔に、私の自由を問い返させる。ブーバーは「汝」に、知っているつもりの関係を中断させる。曹植から読むのは、望みと所有しないことの間にある細い道だ。
四つのまったく同じ哲学ではない。異なる四つの言葉の間に聞こえる、いくらかの響きである。
その方角に風がある。穏やかな風が。
八、橋
想像の橋に、また夜が来ていた。曹植が歩いてきた。
古い衣を着せ、帯を緩め、足取りを軽くしておこう。ここでは朝見の儀仗はいらない。どのように立つべきかを、脇で書き留める人もいない。
手には一巻のものがあった。
ヒュパティアのような星盤ではない。ベルクソンのような杖でもない。竹簡か、絹の巻物だった。その上には、自分の手で書いた文字があった。
急がずに歩いていた。死んだときはまだ若く、四十歳ほどだった。長年の拘束の疲れは、その姿に残しておく。そしてようやく、自分を説明するのを急がなくてよいことにする。
橋の中ほどへ来た。
ヒュパティアがいた。星盤を手にしていた。反対側にはアクィナスがいて、手には何もなかった。ベルクソンは杖に身を預けていた。レヴィナスが立ち、そう遠くないところにブーバーがいた。
橋にいたのは五人だけではない。何世代もの人々が集まっていた。方程式を書く人、トウモロコシを見る人、詩を書く人、星図を読む人、小説を書く人、図面を描く人。しゃがんでメモを取る人、座って遠くを見る人、隣の人と小声で話す人。
曹植は見回した。
ヒュパティア、アクィナス、ベルクソン、レヴィナス、ブーバーは、みな彼より後に生まれた人だった。彼はその本を読んだことがない。顔、出会い、目的について、彼らがどう語るかも知らなかった。カントが生まれるのは、さらに千年以上後だった。
だが、一つ見えた。
彼らがここでしていることは、分かった。
哲学をすべて理解したというのではない。その立ち方が、まず自分の有用さを証明しなくてもよいと感じさせた。手の巻物は開いてもよい。開かなくてもよい。
曹植はうなずいた。彼らもうなずき返した。
長い話をしようとはしなかった。橋の中ほどに場所を見つけ、そこに立った。巻物を傍らに置いた。自分の詩と賦だった。もう握りしめていなくてよい。文字は書かれていた。千八百年もの間、世界にあり、文字のする仕事をしてきた。
橋の遠い端にはカントが立っていた。今夜は前より少し姿がはっきりしていた。大まかな輪郭、髪の色が見えた。
橋の外のあの道では、空が暗くなっていた。稲光。
人が歩いていた。最も遠くへ行った者たちは、もう見えなかった。教授の衣を着たあの男、ハイデガーも、前よりさらに遠ざかっていた。
曹植は一度、そちらを見た。
その道を知っていた。
自分の時代にも、権力は兄弟を引き離した。曹丕は二二六年、彼より六年早く死んだ。曹叡が継いでも制限は消えなかった。のちに魏は司馬氏に取って代わられた。固く握ったと思った場所も、子孫のために永遠に握っておくことはできない。
曹植はしばらく見ていた。
傷はもう痛まないと言う必要はなかった。兄が罰せられる姿を想像して、自分を落ち着かせる必要もなかった。外の雨は、復讐を完成させる道具ではない。振り向いたときにも、命令によって生じた喪失は残っていた。ただ、それだけが彼の見る方向を決めるのではなくなった。
曹植は振り向いた。
ヒュパティアの星盤が、月の光を受けていた。彼はかすかに笑いかけた。彼女も笑った。二人は互いの言葉を理解できなかった。曹植はギリシャ語を知らず、ヒュパティアは中国語を知らない。しかし互いの道具は見えた。星盤と竹簡。異なる時代の二つの道具が、似た仕事をしていた。星を見えるようにし、文字を見えるようにし、それなしには見えないが、見るに値する何かを見せる。
アクィナスが反対側から来た。ラテン語で何か言った。曹植には分からなかった。だがその声の調子には、なじみのあるものがあった。多くの言葉を書き、その後、書くのをやめた人の調子だった。曹植もまた、多くを書いた人だった。うなずき返した。
ブーバーが少し近づいた。暗い長衣、白いひげ、何も持たない手。一人は幼いころ、母がいないことを経験した。もう一人は成人してから、兄と甥の拘束する権力の下で生きた。同じ傷ではない。だが近しい人によっても孤独にされることを認めるために、どちらがより痛かったかを争う必要はなかった。
橋の中ほどには多くの人がいて、月明かりは穏やかだった。
いつも遠くを見ていた、橋の最も遠い端の人影が、ヒュパティアを、アクィナスを、ベルクソンを、レヴィナスを、ブーバーを見た。
今度は曹植を見た。
一瞬、目が合った。
曹植は頭を垂れなかった。ここには服従を待つ皇帝はいない。ただ目を上げて、同じように立っているもう一人を見た。
けれど、そのまなざしには認めるものがあった。
あなたの言葉のすべては分からない。けれど、私の場所を一枚の詔書の中にだけ残したのではないことが、見える。そう言うように。
遠くを見ていた人影も、かすかにうなずいた。
曹植は橋の中ほどに立っていた。何も持たず、誰とも結ばれなかった人生ではない。それでも深く望んだものを多く失った。残された言葉は千八百年を渡り、のちの読者は女神の別れを聞き、曹彪に向けた「大事にしてほしい」を聞き、爵位では書き尽くされなかった一人を聞いた。
不朽でその人生を償うのではない。一人の声は、なお別の一人のもとへ届くことがある。
読書のための注記と出典
伝記の基本は『三国志』巻十九。七歩詩と毒棗は後世の『世説新語』の逸話。217年の後継決定は219年の酩酊事件より前。安郷侯は221年、王は222年。曹丕226年没、曹植232年没で六年差。
『洛神賦』の人神の隔たりから心を君王に寄せるまでの別れの言葉は神女の声。その後も遡行、不眠、逡巡が続く。『贈白馬王彪』は七章、序は役人の別宿要求を記す。曹彪は異母弟。「永無会」は詩の恐れであり行程記録ではない。
橋、分かれ道、天候、時代を超えた会話は文学的な想像で、伝記上の記録ではない。人物の比較は著者の読解である。問いの近さは学説の同一性を意味せず、人の価値を認めることは行為への判断を取り消さない。
中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。