Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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101 / 108 · 他者と空席

ブーバー――我と汝

我―それは世界を使える対象に整理し、我―汝は全体としての他者に出会う。生活に「それ」は必要だが、それだけなら枯れる。

一 待っている子ども

ブーバーが三歳のとき、母が家を出た。

両親が別れ、母は日々の暮らしのなかからいなくなった。大人同士の関係がどれほど複雑であっても、子どもにとって、それはまず、ひとつの場所が空っぽになることだった。

彼は祖父母の家に引き取られた。当時ガリツィアに属していたレンベルクである。祖父ソロモン・ブーバーは、ミドラーシュを研究するユダヤ人の学者だった。祖母アデーレも、本と言葉にかかわる彼の生涯に深い影響を与えた。この家は幼い彼を世話し、書物を与え、二つの文化のあいだで育つ場所を与えた。

それでも。

子どもは待っていた。

晩年の自伝的な断章で、ブーバーは祖父母の家のバルコニーを思い出している。まだ幼かったころのことだ。大人たちは彼の前で両親の話をしなかった。彼も尋ねなかった。ただ、母が帰ってくることを願いつづけていた。

彼の世話をしていた年上の少女が、母はもう帰ってこないのだと告げた。

後年ブーバーは、これを生涯でもっとも重要な瞬間のひとつに数えた。

彼は何も答えなかった。のちに、出会いが起こらないことを言い表すために、一語をつくる。Vergegnung。出会いの不成立、すれ違ってしまった出会い。

長い年月ののちに母と再会したとき、その言葉が戻ってきた。母は目の前にいた。けれども、その存在によって、待ちつづけた年月がなかったことになるわけではない。人は戻ってくる。しかし同じ部屋に戻るだけでは、果たされなかった出会いは埋まらない。

この記憶は、きれいには閉じない。子どもが待っていた場所には、なお空白が残った。

ブーバーは生涯、このことを考えつづけた。

二人の人間が本当に出会うとは、どういうことだろう。相手はここにいるのに、関係は生まれていないかもしれない。礼儀正しい一言が交わされても、どちらの声も聞かれていないかもしれない。どうして人は、これほど近く、これほど遠くにいられるのだろう。

やがて「われ―なんじ」、Ich–Duは、彼の思想でもっともよく知られる言葉の組になる。母を待つ子どもの姿だけで、一つの哲学のすべてが説明できるわけではない。しかし彼にとって出会いは、書物のなかでだけ見つけた問いではなかった。

来なかった人から始まる問いがある。

二 ハシディズム

二十代のブーバーは、ハシディズムの伝統へとあらためて近づいていった。

ウィーンに生まれ、レンベルクの祖父母のもとで育った彼の子ども時代には、ユダヤの学問もドイツ語の文化も流れ込んでいた。のちにはウィーン、ライプツィヒ、チューリヒ、ベルリンで学び、哲学とともに文学や芸術にも触れた。

だが年を重ねるにつれ、東欧のもう一つのユダヤ教のあり方に引き寄せられていった。

ハシディズムである。

十八世紀の東欧に起こったこのユダヤ教の宗教運動は、一般にバアル・シェム・トーヴに始まるとされる。ブーバーがとりわけ心を向けたのは、そのうちにある一つの力だった。聖なるものは書斎や遠い場所にだけあるのではない。祈る、働く、食べる、話す。ありふれた行為もまた、真剣に生きる場所になりうる。ただし、これは律法や学習や共同体の営みを捨てるという意味ではない。

日々の暮らしを離れて、聖なる場所へ行くのではない。日々の暮らしそのものを聖なるものにする。

ハシディズムには、多くの老いたラビたちがいた。それぞれのラビの周りに、「宮廷」と呼ばれる小さな共同体があった。そしてラビの周りには物語が伝わっていた。何をしたのか、何を語ったのか、訪ねてきた人にどう接したのか。

ブーバーは何十年もかけて、それらを集めた。

多くの話は、すでに書物や文献のなかに保存されていた。彼は主にそうした資料から物語を集め、選び、語り直して、ドイツ語の読者に届けた。そこには彼自身の解釈があり、文学として形を整える仕事があった。

『ラビ・ナハマンの物語』は一九〇六年、『バアル・シェムの伝説』は一九〇八年に刊行された。その後も数十年にわたって仕事を続け、やがてさらに大きなハシディズムの物語集へとまとめていった。この仕事は、彼の哲学と長く並走した。

なぜ、そこまで続けたのだろう。

珍しい逸話を保存したかっただけではない。生きる姿勢を読者に見せたかったのだ。助けを求めて訪ねてきた人を、どう迎えるか。小さな行いによって、他者の存在にどう応えるか。しかし、その選び方は批判も受けた。とりわけゲルショム・ショーレムは、ブーバー自身の思想がハシディズムを過度につくり変えていると考えた。これらの物語は伝統へ入るための道ではあっても、伝統全体を争いなく写した肖像ではない。

ブーバーが収めた物語に、こんな話がある。

サソフのラビ、モシェ・レイブは、農民たちから人を愛することを学ぶ。

酒を飲んでいる二人の農民の会話が耳に入る。一人が尋ねる。お前はおれを愛しているか。もう一人は、もちろんだと答える。そこで、さらに問いが続く。それなら、おれに何が足りないか、どこが痛むか、お前は知っているか。友人は答えられない。「愛している」という言葉は、まだ相手が実際に置かれた場所まで届いていなかった。

物語はそこで止まる。

愛する人は何でも知っていなければならない、ということではない。むしろ逆である。まだ知らないなら、尋ねればいい。耳を傾ければいい。「もちろん愛しているよ」で、相手の言葉を先回りして終わらせてはいけない。気持ちは本物でも、それだけで応答のすべてになるわけではない。

物語は、「なんじ」を具体的にする。自分の心のなかにある愛すべき像ではなく、いま困っている一人の人にする。

ブーバー自身は、どこかのハシディズムの宮廷に属していたわけではない。伝統から一定の距離を取りながら、そのなかに現代の暮らしへ持ち込める問いを探していた。ある伝統に親しむことは、そこには一度も亀裂がなかったと言い張ることではない。

彼は物語を思索のなかへ運び、思索をふたたび物語へ戻した。概念は、何に注意を向けるかを教える。物語は、その問いがこんなに小さなやりとりのなかにも生きていると教える。

彼において、この二つは一つの仕事だった。

三 われとなんじ

一九二三年。四十五歳のブーバーは、薄い一冊の本を出版した。

ドイツ語の題はIch und Du。日本語では『我と汝』として知られる。

この小さな本は、二十世紀の関係、教育、対話をめぐる議論に深い影響を及ぼすことになる。

中心にある主張は単純だ。人は、まず「われ」をもち、それから世界と関係を結ぶのではない。関係のなかで「われ」となる。

そして、関係には二つの基本的なあり方がある。

ブーバーはそれを「根源語」、Grundworteと呼んだ。一語だけで成り立つ言葉ではなく、対になった言葉である。「われ―それ」、Ich–Es。そして「われ―なんじ」、Ich–Du。

二つの組に現れる「われ」は、同じ「われ」ではない。

「われ―それ」の「われ」は、観察し、利用し、分類し、予測する。向き合っているのは対象である。分析できるもの、役立てられるもの、自分の概念の体系へ組み込めるものだ。日常の大半は、この関係に属する。時計を見る。三時だ。水を飲む。渇きが癒える。車を運転する。速く走る。同僚に挨拶する。あの企画を担当している人だ。それらはみな「われ―それ」である。

「われ―それ」は悪いものではない。必要なものだ。物の動きを予測し、道具を使い、物事を見分けて整理できなければ、私たちは生きられない。人間の暮らしの大きな部分は、この関係によって支えられている。

しかし、それがすべてではない。

ときどき。本当に、ときどき。別のことが起こる。

一人の人と向き合う。あるいは、ブーバーが例に挙げた一本の木と向き合う。普段なら種類を見分け、用途を考えるその木が、ある瞬間、情報の寄せ集めではなく、一つの全体として目の前に立つ。ブーバーの考察は人間同士の出会いを越え、自然や芸術へも伸びている。それは木に、人間とまったく同じ法的身分を与えるという主張ではない。

その瞬間、こちらも単なる観察者ではなくなる。単なる使用者でもなくなる。自分自身として、向こうにいる存在の前に立つ。

その瞬間が「われ―なんじ」である。

この関係のなかで「われ」は、自分の存在全体をもって応える。

これは存在と応答のあり方についての記述であり、人としての資格審査ではない。そのような出会いを経験していない人、まだ返事のできない乳児、重い病気で応答できない人が、それによって人間としての尊厳を少しでも失うわけではない。

ただし、「われ―なんじ」を持ち物のように保存することはできない。

ここがブーバーの哲学の、もっとも難しく、もっとも大切なところの一つである。

出会いに向けて準備することはできる。丁寧に聞き、相手に時間を渡すこともできる。しかしボタンを押すように、その出来事を保証することはできない。好きなときに再現し、制御できる体験として出会いを求めれば、「なんじ」はふたたび、自分が欲しい効果に変えられてしまうかもしれない。

有限な「なんじ」は「それ」の世界へ戻る。出会ったあとにも、私たちは思い出し、分析し、予定を組む。考えた瞬間に出会いを裏切るわけでも、一つの関係が一秒しか続かないわけでもない。有限な人を、純粋な「なんじ」のまま、いつまでも所有することはできないということだ。

できるのは「われ―なんじ」をそのまま保管することではなく、そこへふたたび入っていくこと。何度でも、何度でも。目の前の人を「それ」だけにせず、「なんじ」として見直すことだ。

これは難しい。

慣れ親しんだ相手ほど、もうわかっていると思いやすい。今日、連れ合いは何を言うだろう。子どもはなぜまた機嫌を悪くしているのか。同僚はいったい何を望んでいるのか。ところが食事中に、口論のさなかに、眠る前の会話に、予想もしなかった一言が出てくる。こちらは、あらためて聞くだろうか。「彼」「彼女」を使うか「あなた」を使うかという代名詞の違いだけでは、関係の質は測れない。

「われ―なんじ」の可能性は、その応え直すところにある。

出会いの瞬間は過ぎる。暮らしは続く。料理をし、予約を取り、働き、世話をする。

その営みに戻るからといって、本当に出会ったことまで否定しなくていい。光る一秒のためだけに生きて、関係を支える長い日々の仕事を軽く見る必要もない。

四 永遠のなんじ

ブーバーの思想のもっとも深い層は、最後に現れる。

一つ一つの具体的な「なんじ」は、永遠の「なんじ」、das ewige Duへ開く窓なのだという。

永遠の「なんじ」とは何か。

ブーバーにおいて、それは「神」という言葉を避けるためにつくられた曖昧な方向ではない。彼は明確に神を意味している。ただし神は、数ある対象のなかでもっとも大きく、もっとも強い対象として配置されるものではない。

決定的なのは関係であって、属性の一覧表ではない。

その方向には、決して「それ」にならない「なんじ」がいる。この、決して「それ」にならない「なんじ」を、彼は永遠の「なんじ」と呼ぶ。

私たちは神について語り、教義や概念を所有できる。しかしそれは、神に「なんじ」と呼びかけることと同じではない。一人の人について資料を集めることが、その人に出会うことではないように、神についての知識は、そのまま神との関係にはならない。

この区別によって、永遠の「なんじ」は理論の結論以上のものとなる。

そこへ近づくことは、世界から逃れることを意味しなくてよい。具体的な命への応答が、そこへ向かう関係を開くこともある。神と親しいと主張しながら、周囲の人をすべて自分の救済のための道具として扱うことはできない。

出会いの回数を貯め、一定数に達すれば神に一段近づく、という話でもない。出会いは得点制度ではない。

これは、ハシディズムの物語からブーバーが聞き取ったものに通じる。日常は、聖なるものがやってくるのを待つ空白の時間ではない。とはいえ、彼の哲学的な語り直しが、ハシディズムの信仰のすべてに取って代わるわけではない。

したがって『我と汝』の最後の部分は、「人と上手に話しましょう」という助言を越えている。祈り、啓示、人と神との関係に触れている。神を信じない読者も、この関係の思想から学ぶことはできる。そのために、この宗教的な関わりが存在しないふりをする必要はない。

人にはそれぞれの道があり、宗教の言葉も異なる。出会いの深さを求めることは、あらゆる教義や信仰の違いがなくなったという意味ではない。

その違いを、急いで一つにまとめなくてもよい。

まず問いを残す。私は「なんじ」に応えているのか。それとも、すでにもっているその人の観念を守っているだけなのか。この問いは、一人の人間に長く付き添うことができる。

五 聖書を訳す

一九二五年。ブーバーは四十七歳だった。

出版人ランベルト・シュナイダーが始めた企画で、八歳年下のフランツ・ローゼンツヴァイクと共同作業に入った。ローゼンツヴァイクは筋萎縮性側索硬化症を患っていた。身体を動かすことも、話すことも、次第に困難になっていた。それでも妻の助けと意思伝達の方法を用い、厳密な文章の仕事に、要求の高い共同制作者として参加しつづけた。消えかけている傍観者ではなかった。

ヘブライ語聖書を、ドイツ語に訳す。

新しいドイツ語訳をつくる。

なぜ、新しい訳なのか。

ドイツ語の世界には、すでにルターの聖書があり、ユダヤ人の翻訳者によるものも含め、ほかの訳もあった。ルターは読者が聖書をどう聞くかを形づくっていた。ブーバーとローゼンツヴァイクは、まだ誰も訳していない本を発見したのではない。強い親しみの内部に、もう一度、聞くための入り口を開こうとしていた。

その親しみを、少し立ち止まらせたかった。

ドイツ語の読者に、ヘブライ語の異質さを感じてほしかった。

同じ語根が離れた箇所で繰り返されると、そこに響き合いが生まれる。文をどこで切るかによって、呼吸が変わる。ある表現は身体と行為に近くとどまり、すぐには抽象的な名詞へ移らない。一つ一つの箇所を、その場でもっとも自然に聞こえる言い方だけで訳すと、つながりがひそかに消えてしまうことがある。

二人は、その反響と律動をとりわけ大切にした。ルターにはヘブライ語を聞く耳がなかった、という意味ではない。別の訳し方が、別の場所へ注意を導くということだ。

繰り返される鍵となる語、慎重に選ばれたドイツ語の造語、呼吸と朗読を考えた行分け。翻訳は一文のなかで、具体的な仕事をする。同じ言葉が戻ってくるのを聞いて、初めて一つの物語が別の物語に応えているとわかることがある。

そこには翻訳の哲学がある。翻訳とは、相手の言語を自分の言語に変えることだけではない。自分の言語が、相手の言語によって少し変わることを許すことだ。

ローゼンツヴァイクは一九二九年に亡くなった。共同作業はすでにモーセ五書を越え、預言書へ進んでいた。ブーバーは続けた。一九六一年に全訳を完成させ、完全な改訂版は一九六二年に刊行された。そのあいだにドイツは変わり、ヨーロッパは変わった。この言葉を読む人々が追放され、殺害された。彼自身もドイツを離れ、エルサレムで仕事を続けた。

それでも訳しつづけた。

四十代から、八十代まで。

なぜここで、翻訳の話にこれほど長くとどまるのか。

翻訳そのものが、「他者のために場所を残す」ことの、もっとも具体的な実践の一つだからである。

どの言語にも、習慣と律動があり、言い尽くせないものがある。訳すとき、二つの必要が訳者を引っ張る。読者が中へ入れるようにすること。そして原文が、読者の知っているものを映すだけの鏡にならないようにすること。

異質なものを全部ならしてしまえば、読むのは滑らかになるかもしれない。だが、別の世界と出会っていることに気づかないまま読み終えるかもしれない。

逆に、一文一文をぎこちなくしても、忠実さは保証されない。読者は入れず、ガラス越しに異国の標本を眺めるだけになる。その場合も、「なんじ」の声は聞かれていない。

難しいのは、読者が入れる言葉で書きながら、原文が読者を変える力を残すことだ。

ブーバーのハシディズムの再話には、文学的につくり直す働きが強くある。一方、ローゼンツヴァイクとの聖書翻訳では、原文の言葉の反響が大切にされる。「決して自国化しない」という一本の原則で、この二つの仕事を同じにすることはできない。どちらも選択を含み、どちらも吟味されるべき仕事である。

そこから読めるのは、「われ―なんじ」が言葉の仕事へも伸びていく一つの方向だ。すべての翻訳に自動的に善し悪しをつける公式ではない。

一つの言語は、別の言語にとっての「なんじ」である。「それ」として扱うこともできる。情報を取り出す対象として。あるいは「なんじ」として迎えることもできる。そのために、自分の言語を少し変えるに値する存在として。

場所を残すことは、ときに、一つの語を安易に別の語へ置き換えないことにかかっている。

六 エルサレム

一九三八年。ブーバーは六十歳だった。

ドイツを離れた。

ナチスが一九三三年に政権を握ったあとも、数年間はドイツにとどまり、ユダヤ人の成人教育に力を注いでいた。排斥が深まるなかでも、人が学び、話し合える場所を保つ。それは具体的な仕事だった。

出国したのは一九三八年三月。十一月の「水晶の夜」と呼ばれる迫害より前のことである。

エルサレムに着いた。暮らす場所は変わったが、問いが自動的に軽くなったわけではない。

ヘブライ大学で社会哲学を教えることになった。彼は子どものころからヘブライ語に触れており、六十歳になって初めて覚えたのではない。それでも、新しい都市で、新しい聴き手を前に教えつづけることは、人生をもう一度据え直すことだった。一九五一年に退職するまで教えた。

この都市には、ユダヤ人とアラブ人がいた。

大学のユダ・マグネスは、重要な点で彼と志を同じくしていた。二人の前にあったのは、抽象的な「対話の相手」ではない。同じ土地に生きる二つの民族の暮らしと恐れと政治的な要求だった。

一九二〇年代以来、ブリット・シャロームはユダヤ人とアラブ人の相互理解を目指していた。ブーバーも長くその方向に近かった。

ブリット・シャロームとは、ヘブライ語で「平和の契約」という意味である。

一九二五年に設立され、一方の民族が他方を支配しない政治の形を求めていた。一九四二年にはブーバー、マグネスらがイフードの設立に加わり、二民族の協力と平等を目指す仕事を続けた。

その提案は主流にはならなかった。土地、安全、民族自決、現実の力関係は、「話し合おう」という一言だけで解決できない。まさに、彼の哲学がもっとも実現しにくい場所だった。

ブーバーは、この少数派の中心人物の一人だった。

書き、話し、組織づくりに加わった。自分たちの政治的な目標が、向こう側の暮らしを覆い隠してしまわないようにしたかった。しかし、だからといって彼の言葉や構想が批判を免れるわけではない。対話が本当に相手を聞いているかどうかは、相手の側にも答える権利がある。

一九四八年。

戦火のなかで、イスラエル国家が建国を宣言した。

それ以前のブーバーは、ユダヤ人の故郷を求める願いを、そのまま排他的な民族主権国家へ結びつけることに反対し、二民族による政治の形を支持していた。建国後はイスラエルの存在を受け入れつつ、アラブ人への支配や排除を批判しつづけた。故郷を支持すること、ある建国の形に反対すること、すでにある国家に向き合うことは、同じ時点の同じ主張ではない。

それでも彼は、公に警告した。

一つの民族は、もう一つの民族を対象へ還元することによって自分を築いてはならない。彼の政治的な仕事から読み取れるのは、そのような要求である。

イフードなどの場を通して発言し、アラブ人の置かれた状況について抗議や要求を示した。団体は小さかった。論文、集会、公の訴え。その力は限られていた。

彼に政治権力はなかった。できることをした。話し、書き、署名した。

仕事は政府の進む方向を変えなかった。彼はそれを知っていた。それでも続けた。

なぜか。

生涯、「われ―なんじ」を語ってきたからだ。

本気で「われ―なんじ」を語るなら、自分の民族の外にいる「なんじ」を例外にはできない。身内には「われ―なんじ」、別の民族には「われ―それ」と説くことはできない。それはもはや出会いの哲学ではなく、自分の民族にだけ奉仕する哲学になってしまう。

彼の思想は、彼自身をも試していた。

政治的に他者である人にも、「われ―なんじ」を向けること。自分たちが他の民族を対象にしてしまう力を得たとき、自分たちに向かって、そうしてはいけないと警告すること。

自分の民族を愛さなかったからではない。愛していたからだ。

他者を障害物としてしか扱わない制度は、自分たちの共同生活も傷つける。だが、一つの民族全体を、顔のない集団として描いてはいけない。そこにはつねに異なる人々がいて、異なる判断と行為がある。ブーバーの仕事は、その具体的な違いのなかで行われた。

彼は語りつづけた。生涯の終わりまで。

一九六五年六月十三日。エルサレムで死去した。八十七歳だった。

実現した二民族の平和を残したわけではない。

失敗しても取り下げなかった要求を残した。こちらの向こうにある暮らしも、数に入れなければならない。

七 レヴィナスとブーバー

ブーバーとレヴィナスを並べると、同じ哲学を語っていると思いやすい。

実際、二人には思想上の交流があった。レヴィナスが論じ、ブーバーが応答し、書簡も交わされた。その文章から、私たちは二人の相違を聞くことができる。

年齢は二十八歳違っていた。レヴィナスはブーバーから深く学んだが、敬意を示したところで問いを終えるつもりはなかった。

思想家を尊重することは、ときに真剣にこう告げることでもある。ここから先は、あなたと同じ道を行けません。

二人の哲学は同じではなかった。

ブーバーは相互的な関係を重く見る。私はあなたへ開かれる。あなたは、一方的に眺められる物ではない。ただし相互性は、あらゆる点での対称性を意味しない。教育や治療について考えるとき、ブーバーも、双方の立場が同じではないことを認めている。

レヴィナスが前面に出すのは、責任の非対称性だ。あなたに応えることを、あなたが先に同じだけの責任を引き受けることの条件付きにはできない。その要求は、二人が交渉して合意したあとに初めて効力をもつ契約ではない。

出会いを交換として捉えると、他者が私に先立って突きつける問いを失ってしまうのではないか。レヴィナスはそこを懸念する。

だが、ブーバーの相互性も、「あなたがくれた分だけ返します」ということではない。取引として読むなら、彼の「われ―なんじ」を読み損なってしまう。

日常の問いに置いてみると、違いが聞こえる。いま私に応えられない人に対して、私はなお何を負っているのか。レヴィナスは「なお負っている」という重さを際立たせる。ブーバーは、相手が私に助けられる立場だけにいるのではないことを思い出させる。相手も語りかけ、私を変えることがある。

一度の討論でどちらが相手を説き伏せたか、という話ではない。

ブーバーは関係の両側を守ろうとする。レヴィナスは、私の自己充足をふたたび中心に据えさせない。両方の問いを聞いてから、その衝突を考える必要がある。ブーバーを、まだ完成していない初期版のレヴィナスにしてはいけない。

二人のどちらも、もう一人を説得しきらなかった。

それでも意見が違うからといって、どちらかの問いを机から片づける必要はない。

哲学が違う。言葉が違う。力点が違う。どちらも他者を語るが、同じ仕方で他者を語るわけではない。ブーバーは出会いの瞬間の「なんじ」を語る。レヴィナスは倫理的な命令のなかの他者を語る。

他者について語る、二つの仕方。

二人を読めば、それぞれが見たものと、それぞれが見なかったものを見ることができる。

相互的な応答だけを強調すると、応答できない人を外へ追いやるかもしれない。自分の無限の責任だけを強調すると、責任を担う人自身も呑み込まれてはならないことを忘れるかもしれない。どちらの難しさも、きれいな一言では片づかない。

二人を並べて読むことで、その二つの難しさを同時に残しておける。

だから、前の一篇ではレヴィナスを、この一篇ではブーバーを扱う。二つの思想を足して、ついにすべてを包む答えにするためではない。一人の盲点が、もう一人の問いによって照らされるためだ。

他者をめぐるこの楽章は、他者についての異なる哲学にも場所を残すべきだ。同じ場所にいることと、同じことを言うことは違う。

ブーバーの他者は、出会いにおける「なんじ」。レヴィナスの他者は、応答を命じる顔。

次の一篇では、また別の他者を扱う。その次も、さらに別の他者を。

どの思想も、人の関係を言い尽くしてはいない。並べて読んだあとにも、言い尽くされはしない。

遠くには、まだ答えられていないことがある。

カントの目的の王国、ブーバーの永遠の「なんじ」、レヴィナスの無限は、それぞれ異なる哲学的、宗教的な位置をもつ。入れ替えはできない。だが、この連作の橋では、「他人を使い尽くさない」という問いの周りで、互いを照らすことができる。

異なる言葉。隣り合う関心。消されていない距離。

八 橋の上で

想像の橋へ戻ろう。ブーバーが、晩年の姿で歩いてきた。

八十代の顔だった。背は高くなかった。灰色と白の混じった長い髭が、顎から数インチ垂れていた。目は大きく、穏やかだった。暗い色の長衣を着ていた。背広でも、ハシディズムの衣装でもない。彼自身の装いだった。

足取りは速くなかったが、確かだった。

橋の中央まで来た。

ヒュパティアがいた。手にはまだアストロラーベがあった。向かいには、何も手にしていないトマス・アクィナスが立っていた。ベルクソンは杖に身を預け、うなずいた。レヴィナスも中央にいた。二人は顔を見合わせて笑った。書物のなかで終わらなかった問いも、一緒にここへ来ていた。

「この前の話を続けましょうか」と、レヴィナスがフランス語で言った。

「今度はもう少し、お互いの言葉を聞けるかもしれませんね」と、ブーバーがドイツ語で答えた。

二人は笑った。

すぐに近寄って、長い議論を始めたわけではなかった。それぞれの場所に立ち、相手もここにいることを知っていた。違いが消えてからでなければ、同じ場所にいられないわけではなかった。

橋の遠い端にはカントが立っていた。今夜の彼は、以前より少しはっきり見えた。着ている服の色もわかった。まだ、こちらへは来なかった。

橋の外の、あの道では、空が暗くなっていた。稲光。

道を歩く人々が、まだいた。もっとも遠い人々は、もう見えなかった。近いところの、教授の長衣を着た男、ハイデガーは、前よりも遠くまで歩いていた。歩きつづけていた。もう橋を振り返らなかった。

ブーバーは、一度、その道へ目を向けた。

エルサレムの日々を思った。講義、文章、集会。何度も何度も聞いてもらおうとした。私たちには家が必要だ。しかし、それによって他人の家が家でなくなることはない。彼は物事を変えたかった。そして、望んだようには変わらなかった現実も、生きなければならなかった。

止められなかったことを知っていた。

あの道に嵐が降っていることを知っていた。

失敗などどうでもよいとは思わなかった。あの道は、誰が勝手に選んでもよい私事ではない。そこでの行為は、他人の身に降りかかる。自分にできることは限られていた。しかし、限界があることは、応答をやめる理由ではなかった。

彼は向き直った。ヒュパティアの手のアストロラーベが、風のなかで月の光を返していた。月明かりは穏やかだった。

ヒュパティアに、一言声をかけた。ギリシア語でもヘブライ語でもなく、ドイツ語で。彼女には言葉の意味はわからなかった。だが声の調子から、親しい言葉だとわかった。彼女は彼に微笑んだ。

向かいでトマス・アクィナスが、小声でラテン語を口にした。ベルクソンには意味がわかり、ブーバーのためにフランス語へ訳した。ブーバーも笑った。

ヒュパティア、トマス・アクィナス、ベルクソン、レヴィナス、ブーバー。五つの名前。けれど橋の中央にいたのは、五人だけではなかった。幾世代もの人々が、そこへ積み重なってきていた。人影の広がり。方程式を書く人。トウモロコシを観察する人。詩を書く人。星図を読む人。小説を書く人。設計図を描く人。脇にしゃがんで記録を取る人。座って物思いにふける人。隣の人と小声で話す人。一人一人、言葉が違った。時代が違った。具体的にした仕事も違った。それでも、皆、同じ性質の仕事をしていた。自分の時代に、他者のための場所を残していた。

橋の外、嵐の道で、ハイデガーはますます遠くへ歩いていった。橋の遠い端、カントのいるところでは、風が優しく吹いていた。橋の中央には、多くの人がいた。月明かりは穏やかだった。

橋のいちばん遠い端で、ずっと遠方を見ていた人がいた。ヒュパティアを見、トマス・アクィナスを見、ベルクソンを見、レヴィナスを見た人だった。

今度はブーバーを見た。

ブーバーは顔を上げた。ずっと遠くを見ていたその人と、ごく短く視線が交わった。

ブーバーは微笑んだ。礼を言う笑みではなかった。「あなたがそこにいることを、私は知っている」という笑みだった。

相手も、かすかに微笑んだ。

それから二人は、それぞれの方向へ向き直った。

ブーバーは橋の中央に立っていた。八十七歳で、エルサレムで亡くなった人だった。生きているあいだ、自分にできることをした。『我と汝』を書き、ハシディズムの物語を伝え、聖書を訳し、自分の都市のなかで、もう一つの民族のために場所を残した。

彼の仕事は有限だった。出会いを完成させたわけではなかった。だから「なんじ」を目の前に残し、最後の言葉を自分で占めなかった。

読書のための注記と出典

幼年期は『出会い』の母に関する回想などに基づく。バルコニーでのVergegnungは出会いの不成立。ハシディズム説話は選択・再話を経ており、モシェ・レイブの話で語り合うのは二人の農民。

聖書共同訳は1925年開始、1961年完成、改訂全巻は1962年までに刊行。移住は1938年春、イフード結成は1942年。レヴィナスとの比較は文章上の応答に基づき、未確認の1958年会談は設定しない。

橋、分かれ道、天候、時代を超えた会話は文学的な想像で、伝記上の記録ではない。人物の比較は著者の読解である。問いの近さは学説の同一性を意味せず、人の価値を認めることは行為への判断を取り消さない。

Martin Buber-Gesellschaft — chronology · Deutsches Historisches Museum — Martin Buber · Buber — Meetings, publisher preview · Research on Buber’s childhood recollection and Vergegnung · Buber — I and Thou · Martin Buber — scholarship and bibliography · Deutsche Biographie — Buber and Ihud

中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。