104 / 108 · 他者と空席
シェリング――自分の中の他者
自然の生産力、カロリーネ、自由、ベルリンの教室。自分は自分に透明だという確信を、ひとりの哲学者が問い直す。
一 テュービンゲンの三人
1790年代の初め。ドイツ南部、ヴュルテンベルク公国のテュービンゲン。
神学校は16世紀からルター派の牧師を育ててきた。規則があり、決まった日課があり、学生の多くには村の牧師や神学の教師という将来が待っていた。その一方で、部屋の扉を閉め、新しい本を読み、授業には収まらない話をする時間もあった。
同じ部屋で暮らす、三人の友人がいた。
一人はヘーゲル。シュトゥットガルトの役人の息子で、後年の回想には、落ち着いて本に向かう青年の姿が残る。同い年のヘルダーリンは、すでに詩へと歩き始めていた。
シェリングは二人より五歳若い。入学したときは十五歳だった。幼いころから神童と呼ばれ、ヘブライ語や東洋の言語を研究する牧師の父のもとで育ってきた。
まだ、誰にも哲学史の中の席は決まっていない。彼らはカントを読む。カントについて議論する。そして、その人が引いた境界の先へ進めないかと考える。
当時の仲間たちの気概を伝える、一枚の草稿がある。後に『ドイツ観念論最古の体系プログラム』と呼ばれるもので、ふつう1796年から1797年の成立とされる。残っている筆跡はヘーゲルのものだが、思想の著者については議論が続く。ヘーゲル、シェリング、ヘルダーリン、それぞれを推す説がある。
三人の共同署名はない。それでも、そこに響く願いは、彼らが生きた知的な環境をよく伝えている。
カントが始めたことを、その先まで進めたい。
カントは純粋理性の限界を問い、道徳法則を論じ、「目的の王国」という方向を開いた。同時に、知りたいという願いと、すでに知っているという主張を、簡単につなげなかった。理性が望むからといって、その望みを知識にしてしまわない。
若い友人たちは、まだ先があると思った。
自然、自由、神、芸術、歴史。それらを互いに切り離さず、一つの哲学として考えることはできないか。すべてを含む体系を築けないか。哲学を完成へ導けないか。
ドイツ観念論の一つの出発点は、この若さの切迫した願いの中にある。
二十年もすると、三人の道は大きく分かれていた。
ヘーゲルはイェーナからバンベルク、ニュルンベルク、ハイデルベルクを経てベルリンへ向かう。論理学、自然哲学、精神哲学という巨大な建物を築いた。1818年からベルリンで教え、その影響はドイツの知的世界に広がる。1831年、六十一歳で死去した。
ヘルダーリンは最も重要な詩のいくつかを書き、その後、深刻な精神の危機を経験する。1806年、三十六歳でテュービンゲンの病院に入った。翌年、大工のエルンスト・ツィンマーが、ネッカー川沿いの自宅に彼を迎える。
1843年に亡くなるまで、三十六年間をそこで過ごした。塔の部屋で書いた詩には、「スカルダネリ」と署名したものがある。言葉は簡素になり、日付はときに当時から遠く離れる。しかし、それらを病気の記録だけにしてはならない。そこには、なお書き続ける人がいる。
では、シェリングは。
三人のうち、最初に名を上げたのは彼だった。1798年、二十三歳でイェーナの教授になる。ヘーゲルが来たのは1801年で、二人は協力して仕事をした。教授と助手という関係ではない。シェリングは二十代から自然哲学の著作を次々に発表し、岩石、植物、動物、電気、磁気を哲学の前面へ持ち出した。カントとフィヒテに続く、大きな期待を集める若者だった。
やがて、ヘーゲルの影響が彼を覆うようになる。
1807年、『精神現象学』の序文は、差異を消してしまう絶対者を、すべての牛が黒く見える夜にたとえた。この箇所は一般にシェリングとその追随者に結びつけられる。ただし、シェリング自身は絶対者を、単に差異を消すものとは考えていなかった。
思想の相違とともに友情の溝が深くなる。後年にも会うことはあったが、昔の共同作業は戻らなかった。
シェリングは1854年まで生き、七十九歳になった。ヘーゲルより二十三年長い。ずっと誰にも聞かれなかったわけではない。晩年にベルリンへ招かれたときには、大きな期待が集まった。それでも、後期の仕事の多くは講義や草稿として残り、死後に刊行される。
テュービンゲンの三人。
一人は大きな建物をつくり、後の世代はそこに入り、造り替え、解体した。一人は詩を書き、その後の長い年月を塔の家で暮らした。一人は二人より長く生きながら、時代の中のどこに置けばよいのか、ますますわかりにくくなっていった。
この文章でたどるのは、その三人目である。
二 自然は背景ではない
二十代のシェリングは、思考の背景に置かれがちなものを、正面から考えようとした。自然である。
カントやフィヒテの哲学では、知り、行為する主体が重要な位置を占める。「私は考える」。自我。自己意識。もちろんカントが自然を軽んじたわけではない。『判断力批判』はすでに、有機体と目的性を深く考えていた。
それでもシェリングには、さらに聞きたいことがあった。自然がただ「私が知るもの」として体系に入ってくるなら、知ることのできるこの私は、どこから来たのか。
岩は、私に見られるだけのものではない。植物は、植物学者が関心を持ったときに初めて存在し始めるのではない。動物には、動物学の説明に先立つ生き方と組織がある。私の視線を待たずに、そこで何かが起きている。
二十二歳の1797年に『自然哲学の理念』、1798年に『世界霊魂について』、1799年に『自然哲学の体系の第一草案』を出す。
彼がつなぎ直したいのは、自然と自由だった。
カントにおいて、現象としての自然は因果法則によって理解される。自由は、理性的な存在者の自己立法に関わる。二つの世界が単純に並んでいるのではなく、同じ人を理解する二つの立場でもある。だが、問いは残る。自然の一部である私が、自分の行為に責任を持てるのはなぜか。
シェリングは、両者の間に通路を探す。自然を完成済みの物の集まりではなく、何かを生み出す働きと考える。意識もまた、その中から生まれるものとして。
いくつかの光景で、その方向をつかむことができる。岩や結晶には構造がある。植物は成長し、自分を維持する。散らばった物質の寄せ集めではない。動物は感じ、反応し、覚える。人間になると、自然の中のある存在者が振り返って、「私は何か」「どう行為するか」と問う。
これは、石が時代を経て人になるという進化の年表ではない。植物がただの受動的な機械だという話でもない。自然の生産力と意識を、一続きに考えようとする哲学的な構想である。
意識はもう、外から自然へ来た客ではない。自分が理解しようとする世界に属している。そして、その根は、自分で照らせる範囲より広い。
後期のシェリングの言葉で振り返れば、明晰な認識に先立つ「暗さ」を、そこに見ることもできる。ただし、初期の自然の生産力と、1809年の論文に出てくる「根拠」は、まったく同じ概念ではない。
それでも、この移動は大きい。自然は、主体の前に置かれた対象だけではなくなる。主体自身が根を下ろしている過程になる。
シェリングの構想には、今日では古くなったものもある。一方で、まだ足を止めさせる問いもある。自然は、人間が利用する材料でしかないのか。生命をすべて外側から説明できるのか。完成した産物を説明すれば、それを生んだ過程まで説明したことになるのか。
ロマン主義、いくつかの生態学的思想、ホワイトヘッドの過程の哲学は、ここで彼と対話できる。すべてが一本の線で彼から生まれた、という意味ではない。進化論にも生態学にも、それぞれ別の歴史がある。
シェリングは若くして問いの種をまいた。本人は別の方向へ進んだが、問いは別の場所でも育っていった。
ここで大切なのは、彼自身の後期思想へ向かう道である。意識が、自分に先立つ世界から育ってくるのなら、自分の根のすべてを目の前に並べ、見渡すことができるだろうか。
それは、まず欠陥を指摘する言葉ではない。問いである。はっきり意識できる私が、私の全部なのか。
体系全体を受け入れなくても、この問いは自分へ持ち帰れる。まだうまく言えないものがある。完全にはつかめていない動機がある。今日の自分の説明には収まらない来歴がある。
この文章では、それを自分の中の他者と呼んでみる。
三 カロリーネ
少しだけ、概念を離れよう。1803年六月、ムルハルト。二人が結婚する。
新郎は二十八歳。すでに名の知られた哲学者である。新婦はカロリーネ。三十九歳で、その年の九月に四十歳になる。彼女にとって三度目の結婚だった。
ゲッティンゲンの学者の家に生まれた。父ヨハン・ダーフィト・ミヒャエリスは東洋の言語を研究していた。彼女は読み、書き、文学について判断した。最初の夫は医師ヨハン・フランツ・ヴィルヘルム・ベーマー。夫は若くして亡くなり、彼女は子どもたちとの死別も経験する。
1793年、マインツ周辺の革命の動きに巻き込まれて投獄された。釈放されたときには、フランス軍人との子を身ごもっていた。生活の困難だけではない。一人の女性の人生を、社会全体が裁こうとする。
友人たちが彼女を助けた。その中にアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルがいた。後に二人は結婚する。
彼によるシェイクスピアの翻訳は、ドイツ文学の重要な仕事になる。カロリーネも相談に加わり、文章を直し、翻訳の作業に関わった。声と草稿の間で共同につくられたものが、刊行された本では一つの名前になる。
彼女の仕事も、その本の歴史の一部である。一つの署名の後ろには、ともに考えた声が隠れている。
イェーナの家は、初期ロマン派の集まる場所の一つになる。シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、ティーク、若いシェリング。周辺にはゲーテ、シラー、フィヒテの仕事と論争がある。
いつも仲のよい天才たちの集まりではない。親しさも衝突もある。その中で、カロリーネは壁際に黙って座っている人ではなかった。
十二歳近く年下のシェリングに会う。気持ちが育ち、シュレーゲルとの結婚は終わりに近づく。1803年に離婚し、数か月後にシェリングと結ばれた。
すでに、そこには一つの不在があった。最初の結婚で生まれた娘アウグステは、彼女の生活の中心だった。1800年、十五歳で赤痢により亡くなる。新しい生活を始めても、その悲しみまで後ろへ置いていけるわけではない。
二人はヴュルツブルクに住み、その後ミュンヘンへ移る。読み、話す。彼女は書かれたものについて考え、提案し、ときには異を唱える。
会話はいつも本の表紙に署名を残すわけではない。シェリングの特定の論証を、確実に彼女の発案だと指せるとは限らない。それでも、署名がないことと、相手がいなかったことは違う。
そこには、一緒に考える相手がいた。
後の物語は彼女を「哲学者の妻」として記憶しがちだ。恋愛、早すぎる死、偉大な男の悲しみ。しかし手紙を読むと、別の声が聞こえる。政治、演劇、友人、風景、死別。機知も好き嫌いもあり、同意する力も反論する力もある。
未来の哲学史のために、すべての手紙を書いたのではない。だからこそ、ある呼び名では言い尽くせない人が、そこにいる。
彼女は単なる助手でも、着想を与えるだけの人でもない。自分の判断を持つ対話者だ。そのことを認めるために、夫より頭がよかったかどうかという競争をさせる必要はない。
女性の思想を男性の伝記にしまい込む習慣は、優しい名を使う。霊感、ミューズ、妻。一つの声が、いつのまにか背景になる。
1809年九月、シェリングの両親を訪ねていたカロリーネは、マウルブロンで亡くなった。四十六歳になったばかりだった。記録には赤痢と高熱が伝えられる。シェリングは三十四歳。
『人間的自由の本質に関する哲学的探究』は、この時点ですでに書かれ、刊行されていた。
喪失は、自由や生命やその根拠をすでに問い続けていた人を襲った。そしてその問いに、論証では取り戻せない重さを与えた。
後の仕事には、死が居続ける。自然と精神世界をめぐる対話篇『クララ』。何度も書き直され、定まった形へ至らなかった『世界年代』。存在についての問いは、机の上だけにとどまらない。
だが、哲学に深みを与えるために、カロリーネが死んだのではない。
彼女を物語へ戻すことは、その死を傑作に必要な材料へ変えることではない。シェリングを語るときに思い出す人物である前に、彼女は彼女自身だった。
彼の生活の中の他者。愛し、頼りにし、完全には理解できず、引き留めることもできない人。
その死に先立って書かれた本へ、戻ろう。彼は何を問うていたのか。
四 自由
なぜ人は悪いことをするのか。
簡単な問いに見える。誰かが別の人を傷つけ、よいものを壊し、その害を知りながら同じ道を進む。なぜ、止まらないのか。
一つの答えは、無知を重く見る。本当に善を知っているなら、なぜ悪い選択をするのか。ソクラテス的な問いの重要な一筋である。プラトンの倫理思想の全部が、この一文で済むわけではない。
別の答えは、罪と恩寵を語る。善を知っていても、人はそこから背を向ける。アウグスティヌスはこの難しさを問いながら、人の責任を手放さなかった。
環境、制度、経済関係を見る答えもある。ルソー、マルクス、後の社会理論はそれぞれ違う形で、人の選択をつくる世界を問う。同じ答えではなく、すべてが個人の行為の余地を否定するわけでもない。
シェリングが強く問うのは、説明によって、その人が本当に選んだということまで消してしまわずにいられるか、という点だ。
人には現実の自由がある。
無知も歴史も状況も重要である。それでも、自分が他人を傷つけていると知りながら続けることはある。よい行いを褒めるときだけ自由を登場させ、悪い行いの話になった途端、消してしまうわけにはいかない。
その自由は、どこから来るのか。
カントは自由を理性的な自己立法と結びつけるが、「根源悪」も論じていた。悪を単純に自由の外へ追い出したのではない。シェリングはさらに、その善悪の現実の可能性が、生きた存在者のどこに根ざすのかを問う。自由の形式的な定義だけでは、まだ足りない。
善しかできない人間の自由は、善い必然性に似てしまう。責任を本気で考えるなら、拒絶、転倒、望んで行う害悪も、可能性として見なければならない。
シェリングは、その可能性を存在の内的な構造に求める。
存在の「根拠」と、現れて理解可能になった存在とを区別する。暗さと光という像を借りると、少し近づきやすい。
暗さは、生まれつきの邪悪さではない。憧れや生命の衝動、明晰な説明へ全部は渡せない根である。光も、冷たい計算だけではない。秩序、理解、孤立した自我を越えるつながりに関わる。
人がこの特定の人であるための自己意志と、より広い秩序につながる普遍的な意志がある。二つの敵対する部品ではない。
人においては、その関係を保つことも、ひっくり返すこともできる。
善のために、自分の生命力を消して、何も望まない抜け殻になる必要はない。感情があること、衝動があること、自分を全部わかっていないことが、ただちに悪なのでもない。
悪は、自己意志が中心の座を奪うところで生じる。共に生きる世界が、すべてこの私に仕えるものへ変えられる。私の特殊性が、自分の場所を求めるだけでなく、あらゆる場所の法になろうとする。
ここで方向が分かれる。自分らしさを保つことと、その自分らしさに、周囲をのみ込む権利を与えることは違う。
1809年の論文は、悪を現実に可能なものとしながら、不可避とはしない道を探った。暗い根は生命と個体性を可能にするが、その人に代わって選択するわけではない。
だから、自分を知らない部分があることは罪ではない。自分について何かを理解したからといって、善い行いが保証されるわけでもない。
根拠と現れの区別を、シェリングは神にまで持ち込む。ただし、人において関係を転倒できることを、そのまま神へ移してよいわけではない。
ここから、最も戸惑う場所に入る。
五 神の中の暗さ
神の中にも暗さがある。
大胆な言葉だが、突然生まれたものではない。シェリングはキリスト教思想、とりわけヤーコプ・ベーメのような神秘思想の伝統と対話している。善い神の内部へ、ひそかに悪魔を入れようとしているのではない。
静止した完全性の概念だけで、生きた存在を言い尽くせるのか。
そして古い問いが戻る。神が善なら、なぜ世界には悪があるのか。
人間の自由意志があるから、と答えても、問いは移動する。そのような可能性を持つ存在者は、どこから来るのか。神を悪の実行者にせず、かといって悪を単なる見かけにもせず、この可能性を考えられるか。
シェリングは、神の存在の根拠と、現れた存在、精神、愛としての神を区別する。「根拠」Grundは、神が害をなそうとする意志ではない。背後にもう一柱の神を置くのでもない。
神において分かちがたく結ばれているものが、人においては乱れうる。神は、今度は善にしようか悪にしようかと毎回迷う、大きな人間ではない。
悪は、暗さが現れることではない。関係の転倒である。個別の意志が全体の位置を占め、生命の力を、共通の世界を支配するために使う。
暗さそのものに罪はない。消し去るべきものでもない。
概念は難しく、読み方にも議論がある。それでも、一つの問いは持ち帰れる。明るく見える部分、言葉にできる部分だけで、一つの存在は尽くされるのか。
混乱を称える話ではない。「自分を制御できないから」と人を傷つける口実にもならない。正しい説明が得られたら、その存在を丸ごと自由に扱えるようになる、という考えへの限界である。
ここで本稿は、シェリングをそれまでの人物たちと並べて読む。同じ学説を語っていたというのではなく、著者による対読である。
カントの目的の王国は、完成品として所有できない方向を開く。レヴィナスは、簡単には清算できない責任の前へ私を置く。ブーバーの永遠の汝は、手元の品物の一つにならない。
曹植の欲望は、所有できない距離と出会う。ジラールは、集団の語りが見えなくしてしまう被害者を浮かび上がらせる。シェリングは、概念による回収より先にある存在へ目を向ける。
問いは同じではない。それでも一緒に読むと、こう聞きたくなる。一人の人は、私がその人について言えることの中に、全部入っているのか。その人自身が自分について言えることにさえ、全部入っているのか。
私の前に来る以前から、その人は透明な物を所有するようには、自分を所有していない。
それを受け入れると、近づき方が変わるかもしれない。すべての理由を差し出してもらわなくても、相手の場所を残してよい。本人にもまだわからない部分があるからといって、壊れた装置のように扱わなくてよい。
その動きは、自分から始められる。私はすべての動機を知り、すべての行動を説明できると言い張るとき、相手にも同じ透明さを求めやすい。予測できる人であれ。分類できる人であれ。こちらの説明に収まれ。
抵抗する部分は、取り除くべき厄介事に見えてくる。
すべての人に当てはまる心理法則ではない。見覚えのある危険である。自分の中の未知を認めることは、自分も持っていない透明さを他人に要求しないための助けになる。
全部説明し終わる前から、相手に居場所があってよい。
この読み方が、シェリングから他者という主題へ受け取るのは、そういう通路である。
六 ベルリンの教室
1841年。シェリングは六十六歳になった。
後半生の長い時期を、バイエルンのミュンヘンやエアランゲンで過ごした。1812年には、カロリーネの友人の娘であるパウリーネ・ゴッターと再婚し、新しい家庭をつくった。
書き、講義し、草稿は増え続ける。新刊が少ないからといって、考えることが止まったわけではない。後期の仕事に、公に差し出せる形を与える難しさもあった。
1831年にヘーゲルが死ぬと、後継者たちの道は分かれた。体系を保守的に引き継ごうとする人々。他方で青年ヘーゲル派は、宗教、国家、社会への批判を進める。シュトラウス、フォイエルバッハ、バウアー、やがてマルクス。
1840年、プロイセン王となったフリードリヒ・ヴィルヘルム四世は、こうした急進的な動きを警戒した。対抗する哲学的な権威を求め、シェリングをベルリンへ招く。
政治的な期待の中へ、彼はやって来た。同時に持参したのは、長年考え続けた自分の問いである。宮廷の期待だけで、彼が話すことのすべてが決まるわけではない。
1841年十一月、「啓示の哲学」の講義が始まる。大きな関心が集まった。後にまったく異なる方向で有名になる若者たちも、その講義に足を運んだ。
キルケゴールは二十八歳、コペンハーゲンから来た。エンゲルスはベルリンで兵役に就き、この講義の時期に二十一歳になる。バクーニンは二十七歳。スイスのヤーコプ・ブルクハルトは二十三歳だった。
その後の歴史的な重みは、まだ名前に貼りついていない。彼らの道が、この講壇を通りかかる。
キルケゴールは、実存を問う思考の先駆者になる。エンゲルスはマルクスとともに社会批判を展開する。バクーニンはアナーキズムの中心人物となり、ブルクハルトは文化史に大きな道を開く。
いずれ対立する未来を持つ若者たちが、同じ年長の哲学者を聞いた。
何を話していたのか。
シェリングは、消極哲学と積極哲学を区別した。悪い哲学とよい哲学、悲観的な哲学と楽観的な哲学、という意味ではない。理性は、あるものが何でありうるか、概念がどのような関係を持つかを明らかにできる。しかし、概念を正しく並べても、それだけで世界が存在するわけではない。
ヘーゲルへの批判で彼が力を込めるのは、この隔たりだった。考えられた可能性から、実際に存在するという事実へ、自動的に移れるわけではない。論理だけでは、何かを生み出してここに置くことはできない。
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。ライプニッツはすでにこの問いを有名な形で表していた。シェリング自身もベルリン以前から問い続けている。後にキルケゴールやハイデガーらも、別の仕方でこの難しさに出会う。教室は、そうした道が交わる場所になった。
反応はすぐに分かれ始める。
キルケゴールは初め、強く期待した。個々の人生を概念の運動へ収める哲学に対して、別の扉が開くと思った。やがて失望する。シェリングは、自分で開いた道を十分に進んでいないように見えた。彼は帰った。それでも、この経験が仕事から消えたわけではない。
エンゲルスはシェリングを批判する文章を書いた。ヘーゲルの遺産を押し戻す反動的な介入と見たのである。後にマルクスと進む道は、まったく違った。聞くことは、弟子になることではない。
バクーニンは独自の反抗を続けた。ブルクハルトは、具体的な人間の創造へ視線を向ける。講義は彼らの経験の一部となるが、後の思想すべての単一の原因ではない。
シェリングは数年間教え続けた。関心は薄れ、ヘーゲルに取って代わることはなかった。1846年には公開講義をほぼやめる。その後もベルリンで仕事を続け、1854年、滞在先のスイス、バート・ラガーツで亡くなった。
奇妙な交差点が残った。ある学派と戦うために招かれた哲学者が、自分には支配できない未来へ向かう人々に語る。
彼は、そのどの未来の学派にも属していない。しかし彼らは、彼の言葉を聞いた。
同意を一度も求めない理想の教師だった、ということではない。彼には論敵があり、体系への志もあった。だが、聴衆は一列の従順な弟子にはならなかった。
言葉は教室を出る。別の人の問いの中で、進路を変える。
教えることの大切さには、教師が所有できないその後も含まれている。
七 自分の中の他者
この楽章では、いくつもの他者に会ってきた。
ヒュパティアは、暴力によって破壊された一人の人。トマス・アクィナスは、膨大な仕事の後で書くことをやめる人。ベルクソンは、物理的な計測だけでは尽くせない経験の時間へ目を向ける。
レヴィナスは責任を問う。ブーバーは出会いを語る。曹植は欲望と距離を書く。ジラールは、誰かを全員の標的へ変える仕組みを見せる。
私たちは主に、外から来る相手を見ていた。シェリングとともに、視線が内側へ向き直る。
自分の中にも、つかみ切れないものがある。頭の中に秘密の別人が住んでいる、という意味ではない。自分による自分の説明が、吸収し切れない部分である。
ここから本稿は、学説の紹介を一歩越える。その部分を認めることは、練習できる力かもしれない。相手を認める助けにはなる。しかし、人としての価値を得るための入学試験ではない。
倫理的な責任、関係、距離の尊重、排除の暴露。今度は、それを行おうとする主体へ目を向ける。
私は、自分をもう説明し終えたと思っているのか。
動機は全部わかる。どの行動にも理由をつけられる。次の反応も予測できる。自分についての物語に、隙間がない。そこからはみ出すものは、何もないはずだ。
その確信を他人にも向けると、どうなるか。相手にも予測可能であることを求め、分類の中に入れ、用意した筋書きに従わせようとするかもしれない。収まらないものが脅威になる。
極端なところでは、排除が「秩序を守るため」と名乗り始める。
だからといって、内面の不透明さが犯罪の原因なのでも、内省が免疫になるのでもない。行為と制度と責任は、その具体的な現実に即して判断する必要がある。すべての人の心を一つの診断で決めてはならない。
ここで見ているのは、手段の王国が持ちうる一つの内的な論理である。
人を道具にする行為は、いつも「悪いことをしてやろう」という顔で来るわけではない。「自分が何をしているかはわかっている」「理由は十分だ」「あなたのことも考えた」。正当化が隙間なくなるほど、役割を拒む相手の声が聞こえなくなる。
自分の限界を知ることは、制度上の歯止めの代わりにはならない。それでも、そうした言葉だけで会話を閉じてしまわない助けにはなる。
橋の上の人たちも、自分を完全に理解した完成品ではない。並べて見るのは、彼らの仕事が終わっていない場所である。
ヒュパティアが残すのは教える仕事であり、全知の証明書ではない。アクィナスは著作と、書く手を止める瞬間を残す。ベルクソンは全員に、自分と同じように時間を理解させることはできない。
レヴィナスには、責任をすべて返済したという受領書がない。ブーバーは出会いを永久に手の中へ保存できない。曹植は望んだ自分になれない。ジラールも、暴いた仕組みがなお働く世界に生きる。
同じ種類の敗北ではない。だが、どの限界も、その人の仕事が他人への最後の判決になることを妨げている。
人生は互いを照らせる。同じ心を持っていたと決める必要はない。
カントは、人を単なる手段へ縮めないよう求める。レヴィナスは、勝手には取り消せない責任を差し出す。ブーバーは、関係に出会いの可能性を戻す。曹植は、欲望が相手を所有物に変えない距離を残す。ジラールは排除を見せる。シェリングは、すっかり透明だと思い込んだ自我を揺さぶる。
六つの言葉。異なる思想。私たちは、それらを一つの方向へ読み進める。
他人と会う以前から、私はすでに、自分だけの完全な所有物ではない。
それを認めるところから、始められる。
その方向から、穏やかな風が吹いてくる。
八 橋の中ほど
シェリングは暗い色の服で歩いてくる。白い髪を後ろへ流し、落ちくぼんだ目は澄んでいる。橋の上では、亡くなったときの七十九歳より少し若い。ベルリンで講義していた六十代の姿だ。
急がないが、足取りは確かだった。
手には、薄く、地味な装丁の本を持っている。1809年の自由についての論文。この光景では、その本を持ってきた。
橋の中ほどへ着く。
ヒュパティアが星盤を持っている。アクィナスがいる。ベルクソンは杖をついている。レヴィナス、ブーバー。曹植は巻物を握っている。ジラールもいる。
それだけではない。幾世代もが重なった。方程式を書く人、トウモロコシを見る人、詩や小説を書く人、星図を読む人、図面を引く人。しゃがんでメモを取る人、座ってぼんやりしている人、隣の人と低い声で話す人。
シェリングは会釈する。
何人かはわかる。生前に会い、後に離れたフィヒテ。初期ロマン派の詩人たち。二十世紀の人々は知らない。ブーバーもレヴィナスも、彼の存命中にはまだ生まれていなかった。それでも、その立ち方から、どんな仕事をしてきたのか、少し伝わるものがある。
すぐに深い話をしようとはしない。一つの場所を見つけて、立つ。
遠い橋の端に、カントがいる。今夜は服のひだが、前よりはっきり見える。
橋の外の道は、暗い空の下へ続いている。稲光。歩いている人たち。一番遠い人々は、もう見えない。教授の服を着たハイデガーは、また少し先へ行った。
シェリングはしばらく、その道を見る。
二十世紀を生きた人ではない。この道は、歴史を振り返る物語が描いている。彼自身がベルリンへ来たことも、ある哲学を別の哲学へぶつけようとする王室の思惑の中にあった。思考の限界を論じる人も、政治的な利用の外に永久に立てるわけではない。
自分の弁護をせずに、少し見ている。
彼が残した問いがある。世界と自分をすべて説明し終えたと思う人を、何が立ち止まらせ、自分ではない声に耳を向けさせるのか。
その問いは、免罪符ではない。
振り返る。ヒュパティアの星盤が風に揺れ、月の光を返す。光は穏やかだ。
彼が少し笑うと、彼女も笑う。彼女が教えたギリシア哲学と、彼が若いころに問うた自然、精神、全体。そこには互いを認められる場所がある。同じではない。同じでなくてもよい。
アクィナスが反対側から来る。五百年以上の隔たりがある。ラテン語のスコラ哲学とドイツ観念論は、同じ言葉を話さない。それでも存在、自由、必然という問いは、二人をそれぞれ立ち止まらせた。アクィナスがうなずき、シェリングもうなずく。
ブーバーが近づく。彼は『我と汝』を書いた。シェリングは、出会うことのできる存在者がどう成り立つかを問うた。二つの問いが並ぶ。どちらも急いで、相手の仕事を自分の本へしまい込もうとはしない。
ブーバーがかすかに笑う。
少し離れたところに、曹植が巻物を持って立っている。およそ千六百年、そして互いの知らない言語がある。欲望と距離を書く詩人と、存在は概念では尽くせないと問う哲学者。この想像の橋では、同じ月明かりの中で互いを見ることができる。
橋の中ほどには、多くの人がいる。月の光は穏やかだ。
ずっと遠方を見ていた端の人が、ヒュパティア、アクィナス、ベルクソン、レヴィナス、ブーバー、曹植、ジラールを見た。
今度は、シェリングを見る。
ほんの少し、目が合う。シェリングは軽く頭を下げる。礼を言うためではない。あなたはそこにいる。私はここにいる。そう認め合うような動作だ。
遠くの人も、軽くうなずく。
シェリングは本を少し持ち上げる。
地位を誇るのではない。これを書いた。私が差し出せるのはこれだ。そのための動作である。
もう一度、小さなうなずきが返る。彼は本を下ろし、ほかの人々とともに立つ。
後の読者たちも、彼の問いへ戻ってきた。ティリッヒの若いころの研究、ハイデガーの1936年の講義、その後のヤスパースの著作。異なる方向から読み直す仕事は、さらに続いた。
すべて正しかったと、遅れて判決が出たのではない。彼のいくつかの問いは、自分の時代が過ぎても、重さを失わなかった。
橋の物語の中でなら、その後を見ることができる。しかし仕事の重みは、遅れて届く拍手だけでは決まらない。人としての価値はなおさら、いつか理解されることを条件にしていない。
彼の仕事は、一人では終えられない場所へ向かっていた。
終えられないと知っていた。
それでも、やった。
読書のための注記と出典
『体系プログラム』は1796–1797年頃、筆跡はヘーゲルだが思想の著者は争われている。自由論文はカロリーネが1809年九月に亡くなる前に刊行された。喪失後の仕事は『クララ』『世界年代』へつながる。通信と年表は下記資料を参照。
暗い根拠は悪そのものではない。他者の承認へつなぐのは著者による対読で、内省を道徳や人格の資格試験にするものではない。問いの近さは学説の同一性を意味しない。
橋、道、天候、時代を超えた出会いは文学的想像であり、伝記の記録ではない。人の価値を認めることは、行為や政治的責任への判断を取り消さない。
Caroline Schelling: correspondence and chronology · Schelling: Freiheitsschrift (1809), original text and preface · Church archives: marriage and death registers · Deutsche Biographie: Caroline Schelling · Stanford Encyclopedia of Philosophy: Schelling · Notre Dame: critical edition of the Philosophy of Revelation · Caroline’s grave and Schelling’s letters from 1809
中国語・英語版を基に、日本語の読者に向けて独立に再構成したエッセイ。史料と詳注は 原版。