Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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← 浦沢直樹『MONSTER』五つの読解
漫画とアニメ · 『MONSTER』
全5篇・第4篇

もう一人

法学部の学生が、二十歳の誕生日を迎える。両親がいて、ケーキがあって、贈り物もある。何もかもが平凡で、わざわざ記録に残すまでもない一日だ。

Aug 31, 2026 · Han Qin (秦汉) · 日本語編集・再構成版
ネタバレ注意: 漫画全巻と74話のTVアニメの主要事件、人物の死、最終場面に触れます。
この版について

原文の版について:原作は中国語で、元のページでは簡体字と繁体字を切り替えられる。中国語の底本には、来院順、511キンダーハイムの暴力の性質、双子の記憶、ルーエンハイムでの手術場所などの事実関係と表現を校訂済みと記されている。以下、作品全編のネタバレを含む。

ハイデルベルクの、ごく普通の家。

法学部の学生が、二十歳の誕生日を迎える。両親がいて、ケーキがあって、贈り物もある。何もかもが平凡で、わざわざ記録に残すまでもない一日だ。

名前はニナ・フォルトナー。法学部に通い、成績もよく、友達がいて、冗談も言う。どこを見ても、何かがおかしいと思わせるところはない。

この日までは、彼女の人生に説明を求めるようなものは何もなかった。

同じ日、もう一人も二十歳になった。

この一篇では、この二人の同じところと、違うところを書く。

同じところ

まず共通する部分を挙げきっておこう。普通に考えるより、ずっと長い一覧になるからだ。

同じ両親。同じ逃亡。赤いバラの屋敷、朗読会、絵本が織りなす同じ世界。子供を計画に巻き込む、同じ大人たち。

同じ一夜。母親が二人の子から一人を引き渡せと要求された、あの夜だ。

同じ銃撃。同じ病院。同じ手術台のそば。一人はその上に横たわり、もう一人は扉の外に立っていた。

その後、二人の生活の条件はさらに分かれていく。

共通点を並べた一覧はあまりに長く、「その後の出来事」の入り込む余地がないようにさえ見える。

普通、二人の人間の違いは、二人の違う部分から説明する。だが、この二人を結ぶものは、人がどこから来たかを語るほぼすべてに触れている。遺伝的なつながり、親、生まれた場所、共に過ごした幼年期、あの本、あの部屋、あの一夜。ただし、来た道が重なることは、まったく同じ出来事を自分で経験したことを意味しない。

違うところ

フォルトナー夫妻は、一人の少女を養女に迎えた。

その子が何者なのか、二人は知らない。どこから来たかも、赤いバラの屋敷も、511も、あの計画も、兄が今何をしているかも知らない。

ただ育てた。

作品はここで、とても抑えた描き方をする。フォルトナー夫妻に特別なところは何もない。心理の専門家でも、聖人でもない。子供の中に治療を必要とする何かを見抜いたわけでもない。したことは、養父母なら誰もがするようなことだ。ご飯を作り、送り迎えをし、誕生日を祝い、どんな友達とつきあっているか心配する。

つまり、修復しなければならない対象として彼女を扱わなかった。

この作品では珍しいことだ。これまでの各篇に出てきた大人は、子供に向き合うとき、誰もが設計図を握っていた。511には仕様書があり、ボナパルタには目的があり、ペドロフにとっては「子供に愛を与える」ことさえ次の実験だった。

フォルトナー夫妻には設計図がない。何になるよう育てるのかを知らない。だから、その方向へ力をかけたことも一度もなかった。

二人は、自分たちが何をしているかに気づかないまま、正しいことをしていた。

だから、一つの方法として再現できない。作品はここから「子供はこう育てるべきだ」と取り出すことができない。二人のやり方がそのやり方であり得た前提は、まさに何も知らなかったことにあるからだ。知ってしまえば、彼女を何とかしようとし始める。そして、彼女を何とかしようとすることは、来た道を戻ることになる。

ここで使ってはいけない説明

とても書きやすい説明が一つある。作品はそれを使わなかった。この連作でも使わない。

兄は実験施設へ、妹は家庭へ送られた。だから一方は怪物になり、一方は普通の人になった。愛が彼女を救った。そういう説明だ。

作品はこの読み方を支えない。作品自身の提示する材料が、そうさせない。

ニナは長いあいだ崩れている。記憶が戻り始めると、自分を保てなくなる。人を殺したいと思い、実際に手を出し、引き金も引いた。いくつもの場面で、彼女の行動は兄の行動と非常によく似た形をしている。

ヨハンを殺すかどうかについても、何度も揺れ戻る。

殺すと決めるときがある。殺さないと決めるときがある。自分でもはっきり言えないときがある。一度は、彼を救いに行くとも言っている。

作品はそれらを時間順に置くが、「次第に成熟していく」順序には並べない。後の判断が、前の判断より正解に近いわけではない。ただ後に来たのだ。

彼女と兄の間で何が違ったのか、どうしても一つ挙げるなら、作品が差し出すのは、彼女のそばに具体的な人がい続けたということだけだ。

フォルトナー夫妻。大学の友達。後に道中で出会う天馬、ディーター、そして、さまざまな大勢の人たち。

その誰も、彼女を救済するために登場したのではない。出会う理由はまちまちで、彼女が誰なのかさえ知らない人も少なくない。

しかも、そのつながりは物語の中で不安定だ。いつなくなるかわからず、彼女自身が何度も手を伸ばし、そこへ戻らなければならない。守ってくれる膜ではない。いくつもの偶然なのだ。

それは誰の記憶か

もう一つの層がある。作品は後に事実を明かす。だが、それで二人に代わって理解を完成させるわけではない。

赤いバラの屋敷で惨劇を見たのはニナだった。ヨハンは、その場に居合わせていない。

戻ってきたニナは、見たものをヨハンに話した。後にヨハンはその話を自分の体験と思い込み、ニナのほうは一時、自分の記憶を確かにつかめなくなった。二人の記憶はたしかに絡み合う。だが、誰がそこへ行ったのかまで、最後までわからないわけではない。

連れていかれたのがどちらかは確定する。母親がなぜその子を引き渡したのか、そのとき二人を正しく見分けていたのかは、それだけで同じように明らかにはならない。

事実が一つ戻れば結べる糸ではない。作品は事実を取り戻すと同時に、距離を見せる。何が起きたかを知ることと、それがその人にとって何を意味したかを知ることの間には、なお道がある。

ここで最も重要なのは、他人が実際に経験したことを、自分の人間観の土台だと思い込むことがあり得る、という点だ。

誰が惨劇を経験したかがわかっても、誰がどんな責任を負うのか、誰が誰に何を負うのか、誰に相手を裁く資格があるのかまでは、自動的に明らかにならない。

だから、あの経験がどちらのものかをやっと区別できたとしても、それだけで相手に「今なら、あなたが経験したことをすべて知っている」とは言えない。

互いを理解することこそ、二人がいちばん必要とし、いちばん実現するのが難しいことなのだ。

ヨハンは、自分の経験を疑わず、そこから人間についての結論を得ている。その確信が彼の行動を支えている。作品は彼に、その土台の一部が妹の話だったと気づかせる。その結論を、自分の実体験から直接生まれたものとは、もう扱えない。

事実は明かされる。だが、それで足元が固くなるわけではない。

ディーター

もう一人について書こう。この作品で、別のやり方が一通り描かれる、ただ一つの例だからだ。

ディーターは、天馬が旅の途中で出会う子供だ。養父に虐待されており、天馬がそこから連れ出した。

その後、天馬は珍しいことをする。この子に、何になるべきかを教えなかった。

助手に育てようとも、証人にしようとも、「誰に救われたかを忘れてはいけない子」にしようともしない。一緒に逃げ、ご飯を食べさせ、寝る場所を用意し、怖いときにはそばにいて、別れなければならないときには安全な場所へ預ける。

その後に何をするかは、ディーター自身が決めた。

これまでの各篇に現れたやり方のどれとも、違っている。

511には仕様書があった。ボナパルタには目的があった。ペドロフは愛を与えるときでさえ、闇に呑まれない製品を得ようとしていた。与えたものはそれぞれ違う。それでも、与える手には、どんな結果が出てくるかという期待が握られていた。

天馬がディーターに与えるものには、その期待がない。この子が将来どんな人になるかを知らないし、知っておこうともしていない。

作品はこのやり方に何の注釈も加えない。「ほら、これこそ正しい」と言う役を、誰にも与えない。ただ、旅をする男が子供を連れ、ご飯を食べ、眠り、道を進み、別れるところを描くだけだ。

二十歳になった日の二人

冒頭に戻ろう。

ハイデルベルクのあの家で、少女が二十歳の誕生日を迎えている。両親がいる。ケーキがある。

別の場所では、もう一人も二十歳の誕生日を迎えている。彼にあるのは、絵本から来た名前と、自分で経験したと思い込んでいる妹の記憶と、あらゆるものを消し去る計画だ。

同じ日に、同じ子宮から生まれ、同じ歴史に巻き込まれた二人だ。だが、その中でまったく同じ場所に立っていたわけではない。

作品は最初から最後まで、二人を同じ物語の中に置き、繰り返し近づける。名前は並べられ、記憶は混ざり、顔は同じで、それぞれの身近な人まで見間違える。

そのため読者は、どちらか一人を「別の種類の人間」として片づけられなくなる。

何が二人を違う場所へ運んだのか。あの家庭か、運か、あの夜の母親の動きか、それとも別の何かか。作品は答えない。答える機会は何度もあり、そのたびに通り過ぎる。

一度、ほとんど答えそうになる。物語のかなり後で、ある人がニナに、兄がああなった理由を説明しようとする。説明はよく整い、筋も通って聞こえる。

だが、その先の展開が、その説明の一部をひっくり返す。

作品はずっとそれを続ける。説明を一つ差し出し、新しい材料を足して足りなくし、また次を差し出す。最後に読者の手元にあるのは、どれも半分は当たったいくつもの説明で、全部を覆えるものは一つもない。

最後の対面の場は、ルーエンハイムという小さな町だ。

ヨハンの前に天馬が立ち、銃を握っている。作品の全編を費やして、ここまで追ってきた。

そして彼は、1986年のあの夜と同じ決断をする。

次の一篇へ。

浦沢直樹『MONSTER』。1994年から2001年まで小学館『ビッグコミックオリジナル』に連載、単行本全十八巻。本連作では原作漫画を基準とする。