第二十篇 プラットフォームとデータの経済:予測できること自体が、商品になる
検索、クリック、追跡、友人関係から予測可能な外見が作られる。データ経済が余項を回収するのでなく、行動の源を作り替える過程を考える。
この篇の目次
一 情報があふれれば
一九七一年、組織を研究するある学者が後に何度も引用される一文を記した。情報があふれれば、注意は貧しくなる。
彼は続けて言う。情報の豊かな世界で、情報が実際に消費するのは受け取る人の注意である。そして、情報にかかる費用の大部分は実のところ、受け取る側が負担している。
当時、この言葉は一つの診断だった。だが、それ以上に目を留めたいのは彼がすぐ次にしたことだ。この希少な資源を測る単位は見つけられないか。うまく配分することはできないか。そう問いはじめたのである。
注意は存在に気づかれたその瞬間から、計算を待つものになっていた。
これまでの十九篇とは出発点が大きく違う。あの篇々で、構が共通の尺度へ収めようとしたものはすでに世界にあった。一片の土地があり、一隻分の積み荷があり、一日分の労働時間があった。共通の単位がなかっただけだ。注意は違う。場所を取らず、運べず、明日まで取っておくこともできない。しかも、使われるそばから消えていく。こんなものを測る物差しを作るにはまず、その痕跡を作らなければならない。
痕跡を作るという仕事はこの先のどの節にも現れ、次第に細かくなっていく。最初は見たかどうか。次はクリックしたかどうか。それから、どれだけ長くとどまり、どこまでスクロールし、どこから来て、次にどこへ行ったか。誰とつながりがあり、それらを合わせると何を推し量れるか。一つ加わるたびに、物差しの目盛りが細かくなる。細かくなるたびに、それまで計算できなかったものが、また一群入ってくる。
二十三年後の一九九四年十月、あるウェブサイトにバナー広告が載った。一般に、ネット上のバナー広告の始まりとされている。後にこの広告が語り継がれたのはクリック率が四十四パーセントに達したといわれるからだ。
だが、当時の業界関係者が振り返って強調するのはようやくネットに広告を出せた、ということではない。広告主が初めて、何人がその広告を見たか、何人がそれに反応して行動したかを知ることができたという点だった。
この違いがその後の三十年を決めた。新聞もテレビも広告を売る。しかし、示せるのは発行部数と視聴率、推計された総数だけだった。テレビで広告を流す。誰が見て、誰が水を注ぎに席を立ち、誰が見たものの何の反応もしなかったか。誰にもわからない。広告主が払った金の半分は自分では永久に確かめられない数字を買うためのものだった。
ここに、分かれ目がある。
このときから、広告を受け取る人々はぼんやりした一つの集団ではなくなる。一回の表示、一回のクリック、一回のやり取り。一つずつ数えられる出来事へと分けられた。
数えられるものは精算できる。精算できれば、入札にかけられる。入札にかけられれば、その数を増やす方法を考える人が現れる。これまでの篇で、すでに何度も通った道だ。ただし今回はその道の先に立っているのが、土地でも積み荷でもない。
前の十九篇で、余項はいつも帳簿からこぼれ出すものだった。どうしても勘定の合わない古い貸し借り。正確に測られながら、細かくは見られない欄。差し出せない証拠。記入欄のない、項目どうしを結ぶ線。システミック・リスクの物差しでは読み取り値がゼロになる人。
構はそれに対処する方法を九通り使ってきた。そして、九つとも守りの方法だった。緩める。名を変える。問わない。換算する。境界を狭める。軌道を与える。証拠を求める。分類し直す。帳簿に載せない。
続く三十年に起きるのはその逆である。
構は余項がこぼれ出すのを待たない。自分から取りにいく。
はっきりさせておこう。取りにいくことはそのまま奪うことを意味しない。しているのはもっと根本的な、別の仕事だ。それまで形のなかったものに、形を与える。今日は上の空だった。昨日は三分長くとどまった。先月、急に何か買いたくなった。こうしたことは昔から起きていた。ただ、記録できる一つの出来事にはなっていなかった。構がまずするのはそれらを出来事にすることである。
二 その仕組み自体が、広告主に偏る
一九九八年、二人の大学院生が大規模なハイパーテキスト型のウェブ検索エンジンについて論文を発表した。後に生まれる、あの会社の技術上の出発点である。
論文の完全版に付された補論には広告で運営費を賄う検索への明確な疑念が記されていた。要となる一文はこうだ。広告で支えられた検索エンジンはその仕組み自体が、広告主に有利な方向へ偏る。
後の批判者が、彼らのために作った逆説ではない。創業の初めに、彼ら自身が書き残した判断だった。
この一文の位置づけは第九篇で切り捨てられたスミスのもう半分や、第十七篇の、ほとんど一度も使われない条項と同じだ。構は自分への警告を自分の記録のなかに残している。その警告はそっくりそのまま保存され、誰でも手に取れる。破棄されたのではない。採り入れられなかっただけである。
だからこそ、後の転換をよく見ておかなければならない。技術が必然的にそうさせたのではない。事業を成り立たせなければならない圧力と、大規模に広げられる収益の仕組み。そのあいだで、かつて自ら警戒した道へと進んだのである。
避けられなかったのだ、という説明に抗するうえで、これは大事な点だ。後にできた仕組み全体はともすれば、技術がひとりでに成長してそうなったかのように語られる。ネットがあれば広告が生まれ、広告があれば追跡が生まれ、追跡があれば人物像が作られる。だが、二人が初めに記した一文は当時、少なくとも別の道が見えていた人がいたことを示している。そして、こちらの道を行けば何を失うかも、見えていた。道は選ばれた。押し流されて、そこへ来たのではない。
その道の形を同じころ、別の会社が先に走って示した。
一九九八年から二〇〇一年にかけて、ある検索会社がクリックごとに料金を払う検索広告をはっきりした市場にした。二〇〇一年には自社こそが成果報酬型の検索市場を作ったのだと、公に述べている。その年の第二四半期だけで、対象を絞った有料の送客を三億二千三百万回実現した。約四万五千の広告主が検索結果のどの位置に載るかを競って入札した。
誰かがクリックしたときだけ、料金が発生する。
この一歩の重さは見落としやすい。少し、はっきりさせておきたい。
それまで、広告は紙面や放送時間で値づけされていた。全面広告はいくらか。ゴールデンタイムの三十秒はいくらか。発行部数はどれほどで、視聴率はどれほどか。買っていたのは場所であり、目に触れる機会であり、その時間に何人に見てもらえそうかという可能性だった。
クリック課金が変えたのは何に値をつけるかだ。広告主が買うのはもう場所ではない。一回の動作である。
見たところ、価格のつけ方をより公正にしただけに思える。誰も広告に反応しなければ、金を払わなくてよい。広告主が得をしたように聞こえる。だが、本当の帰結は反対側に現れた。動作だけが数に入るなら、機械全体は動作を起こさせる方向へ育つ。内容をよくする方向へ、ではない。第十三篇で述べたとおり、構がいったん計量の単位を選べば、その後の力はすべて、その単位へ向けて注がれる。
そして、その動作をするのはある具体的な瞬間にいる具体的な一人の人間だ。
こうして、広告主とその人とのあいだに初めて、確かめられる一本の線ができた。以前の曖昧な勘定では広告主は推計された総数に金を払っていた。いまは払う一銭一銭の向こうに、実際に手を動かした誰かがいる。広告業界はこれを抜本的な進歩と受け止めた。そして実際、進歩だった。
二〇〇〇年の第四四半期、その検索会社は広告主が自分で出稿できるテキスト広告を始めた。初めは表示回数に応じた課金だったが、二〇〇二年の第一四半期には広告の仕組み全体をクリック課金へ完全に切り替えた。
ここで、一台の機械がその基本単位を得た。紙面の一寸分でも、一秒でも、千回の表示でもない。
一人が、手を動かして、一度クリックした。
この単位にはこれまでのどの物差しにもなかった性質がある。測られる当人が、自分で完成させなければならないのだ。一ムーの土地は測量に同意しなくてよい。一隻分の積み荷は重さを量るのに協力しなくてよい。だが、この単位は違う。誰もクリックしなければ、数そのものが存在しない。機械全体の原料は何十億人もの人が、毎日、自分の手で生産するほかない。そして、そうしているとき、彼らは何かを生産しているとは思っていない。
三 一度の検索が、一度の競売を起こす
二〇〇四年、その会社は上場の準備を進め、提出した書類のなかで、自分たちの機械をたいへん明瞭に説明した。
広告主が金を払うのは誰かがクリックしたときだけ。そして、検索の問い合わせが一回行われるたびに、自動の競売が一回、開かれる。
広告の順位は入札額だけでは決まらない。クリック率のような、関心の度合いを表すとされる指標も使われる。関連が深く、相手によりよく合った広告はクリックされる回数が多いため、自動的に上位へ上がっていく。
書類には価格のつけ方の例もあった。甲は一ドルで入札するが、実際に払うのは六十一セント。乙は六十セントで入札し、五十一セントを払う。丙は五十セントを提示するが、取引は最低価格の五セントで成立する。
ここは立ち止まってみる価値がある。実に巧妙な仕組みが表れているからだ。高い額を提示した人が、その額をそのまま払うとは限らない。支払額を決めるのは次の順位の人がいくら出したか、そして、自分の広告がどれほどクリックされそうかという二つのことなのである。
入札した額と、実際に払う額。そのあいだに、予測という一層が挟まっている。
この予測の層こそ、機械の最も大切な部品だ。広告主の支払う金はいくら出したいかだけでは決まらない。プラットフォームが、その広告のクリックされる確率をどう見積もるかにも左右される。つまり、プラットフォームは競売の主催者であると同時に、値を見積もる者でもある。そして、自分で見積もった数字が自分の受け取る額を直接決める。以前の市場に、この立場はなかった。競売会社が値づけに加わることはなく、取引所がどの株が上がるかを予想することもなかった。
ここが、この機械と、それ以前のすべての市場との違いである。
以前の市場では価格は二人のあいだで生まれた。買い手が値を出し、売り手が別の値を返す。あるいは競売人が声を上げ、誰もそれ以上の値をつけなくなるところまで進む。価格は一度の交渉、一度の競り合いの結果だった。そこに加わるのは売り手と買い手である。
ここでは価格を作ることに、もう一人、第三者が加わっている。ところが、その第三者はその場にいない。加わっていることさえ、知らない。
いま検索している、その人だ。
入力した検索語が、この競売に入る。過去のクリックの癖が入り、推定された関心が入る。その人が、誰を上位に載せるかを決め、上位に載る人がいくら払うかを決めている。
だが当人は競売があったことすら知らない。エンターキーを押してから、ページが現れるまで。そのすべてが、一秒もかからずに終わる。
一秒もかからないというのは技術上の細部ではない。この仕組みが成り立つための条件だ。どこか一か所でも、人が反応するのを待てば、何十億回も繰り返せる速さではなくなる。そして、人が気づく間もないほど速いものには疑問を向けようがない。かつての構は覆いをかけることで、問いを減らしていた。第十七篇で述べたとおり、覆いは手間を省くためにあった。ここではその覆いさえ要らない。気づかれる前に、すべてが済んでいるからだ。
二〇〇三年の第一四半期、同じ会社はこの論理を検索の外へ広げた。ネットワークに加わったウェブサイトは自分のページに、この広告を載せられるようになった。広告主は引き続き、クリックごとに金を払う。
検索する一瞬だけではない。閲覧している多くの瞬間が、同じ精算の仕組みへつながれた。
ページの内容、広告を置く場所、広告主の出稿、見る人の動作。それらが一緒に結びつけられた。
二〇〇七年、ある連邦機関が、その会社による三十一億ドルでの広告技術会社の買収を認めた。その際、プライバシーを理由に、この取引を阻止することはしないと明言した。独占禁止法上の権限を超えるからだ。同時に、オンライン広告市場全体に、プライバシーの問題があることも認めている。
振り返れば、この買収の意味は検索広告の競売の論理と、ディスプレイ広告の配信、追跡、第三者による広告配信の基盤が、いっそう深く縫い合わされたことにある。
縫い合わされると、ネット上の足取りはばらばらな断片ではなくなる。あるサイトで見たものが、別のサイトで何を見せられるかに影響する。昨日、検索した言葉が、今日までついてくる。第十八篇ではあの機械は最後に、別の帳簿を記しはじめたと述べた。ここでの方向は違う。記しているのはなお外の世界だ。ただ、その世界を一本の線につないでいる。
四 消費者が、一度も広告をクリックしなくても
行動を一つの軌跡につなぐには必要なものが一つある。同じ人だと、見分けることだ。
一九九九年から二〇〇〇年ごろ、ブラウザーに保存される識別のための印が、広告ネットワークと結びついた。あるサイトで何を見たかを記すだけだったものが、いくつものサイトをまたいで何をしたかを記すものへと変わっていった。
二〇〇〇年、あの連邦機関が、オンラインのプロファイリングについて、議会へ報告書を提出した。
そこには広告ネットワークの集める情報は多くの場合、誰かの実名に直接ひもづくのではなく、ネットワークが持つ識別番号にひもづけられる、とあった。
そして、もっと大切な一文が記されていた。こうした情報は消費者が、一度も広告をクリックしなくても収集される。
この一文が示すのはこれまでにはなかった境遇である。
前の十九篇で、人が帳簿に入るにはまず何かをしなければならなかった。金を借りる。契約に署名する。賃料を払う。工場へ入る。品物を買う。あるいは少なくとも一度、何かの名簿に登録される。帳簿が記すのは起きた取引だった。
ここでは取引は要らない。クリックも要らない。同意も要らない。知っている必要もない。
ただ、通りかかればよい。
この短い言葉が、一本の境界を引く。前の十九篇では人と構とのあいだに、必ず一度は接触があった。署名した。金を払った。登録された。仕事を受けた。裁きを受けた。接触があれば、そこだと指せる時点がある。その時点について争えもするし、後から責任を問うこともできる。だが、通りかかっただけではそのような時点が残らない。
ここから、余項の性質も、もう一つ見えてくる。前の篇々で、余項が姿を現すにはたいてい、あるときを待つ必要があった。清算の日。裁定の場。資源が足りなくなる数週間。ここでの記録は連続しており、そういうときがない。ずっと記され続けるのに、一度も帳簿を突き合わせる日が来ないものがあるとしたら、何が記されているのかを表に出して確かめる機会も、永久に来ない。
報告書にある数字はそのまま並べておきたい。当時の標本ではアクセスの多いサイトの五十七パーセントが、第三者による識別用の印の設置を認めていた。そのうち、プライバシーポリシーで、第三者の印やデータ収集に触れていたのはわずか二十二パーセントだった。最大手の百サイトでは七十八パーセントが第三者の印を認め、開示していたのは五十一パーセントにとどまった。
もう一つ、この境遇をよく表す数字がある。当時、こうした識別用の印について聞いたことがあったのはコンピューター利用者の四十パーセントだけだった。
報告書にはそのころの懸念も残っている。作られた人物像が、商品やサービスの価格と条件を決めるために、さらには生命保険にまで、使われるのではないか。論者たちはかつて銀行が地図に線を引き、融資しない地域を囲んだ慣行になぞらえて、これをネット上の線引きと呼んだ。
ここは曖昧にできない。あなたのことが、もっとよくわかる。そんな穏やかな言い方の先に、別の場所があるからだ。
人物像を作られるとは自分に合った広告が出る、というだけではない。同じ商品でも、自分には別の価格が提示されるかもしれない。保険に別の条件がつくかもしれない。ある機会はそもそも目の前に現れず、本当はそんな機会があったことさえ、知らないままかもしれない。
第十九篇では、救済の物差しは機関を照らしても、個人までは照らさないと述べた。ここでは逆だ。物差しは一人の人間を当人すら気づかないほど、細かく照らす。
二つに共通するのは照らされる側が、その場にいないことである。
その場にいない。この言葉はこれまでの篇々が巡ってきた問いの、もう一つの姿だ。第十三篇で、証拠を示せない人々は裁定の場にいなかった。第十六篇で、名簿の外にいる人々は名簿を作る場にいなかった。第十九篇で、家を失った人々は誰を救うか決める場にいなかった。今回はさらに徹底している。その場にいないだけではない。自分が計算に入れられたことさえ、知らないのだ。
五 友人がよいと言ったから
二〇一二年、別の会社が、上場を準備していた。その書類にはまた違うものが書かれていた。
ある人が「いいね」を押したり、投稿にコメントを残したりすると、その動作はフィードを通して友人たちに共有される。ブランドはこの種の交流が届く範囲、配信される頻度、目立ちやすさを大幅に高める商品を買うことができる。
普段の言葉に直せば、こうなる。あなたが、あるものをよいと思った。そのこと自体が、買える在庫になった。
公平のために、一言添えておこう。これは使ってよかった、と友人に伝えることは昔からあった。市場のなかでも、最も古い営みの一つだ。第一篇で触れた、互いの恩義を覚えているやり取りを支えたのも、それだった。プラットフォームが発明したのではない。そこに、料金表を取りつけたのである。
この一歩はクリック課金より、さらに先へ進んでいる。
クリック課金で買うのはあなたの動作だ。ここで買うのはその動作が、他の人にとって持つ重みである。
その重みに値打ちがあるのはまさに、それが広告ではないからだ。
ページに広告が出れば、人は身構える。金で買った場所だとわかっている。話している側が金をもらったこともわかっている。友人が押した「いいね」にはその知らせがない。同じフィードのなかに、他のものと同じ顔で現れる。だが、その表示にはすでに金が払われている。友人は一つの広告なら半信半疑で見る。あなたが「いいね」を押したことまで、同じようには疑わない。人格に根ざす信頼はここでは迂回されていない。原料として使われている。
それを可能にしたのは技術上の小さな違いだった。ソーシャル・プラットフォームは誰と誰が友人かを知っている。先ほどまでの広告の機械はある人が何を見たかを知っていた。この機械はそれに加えて、その人が誰を知り、誰がその人のすることを見て、誰の言葉ならその人が耳を傾けやすいかも知っている。関係はもともと当事者の記憶のなかにだけあった。名簿も、番号も、強弱の区分もなかった。記録されたとたん、その三つを持つようになった。
匿名の価格と人格に根ざす信頼は、どちらかがどちらかに取って代わるものではない。これまでの篇で、何度も述べてきたことだ。
第六篇の交子は人が認めてこそ成り立った。第十七篇の共通の物差しは最後には人々がその勘定を認め続けるかどうかにかかっていた。第十八篇では標準契約と格付けの下でも、つなぎ目の一つ一つに、相手を信じるほかない部分が残っていた。
そこでは人格に根ざすものが下から支え、匿名の機械を持ちこたえさせていた。
今回は違う。
匿名の機械が、自分から手を伸ばして、人格に根ざすものを取りにいく。それを値づけできる配信の力へと換算する。
信頼が、機械を支えるのではない。機械に投入される原料になったのである。
違いはこう考えると見えてくる。機械を支えるものは機械が壊れたとき、初めて思い出される。原料にされたものは機械が毎日、正常に動くあいだに消費される。前者は危機のなかで姿を現し、後者は平穏な日々のなかで少しずつ減っていく。しかも、減ったと誰かが気づく特定の日はやってこない。
原料は使えば減る。友人の勧めに、金で買われた配信が混じっていると知った人は次に友人の「いいね」を見るとき、もう一段、考えるようになる。その変化はすぐにはどんな数字にも表れない。ゆっくりと積み重なり、ある日、原料にしていたものは以前ほどの値打ちを持たなくなる。ここで構が出会うのは扱いの難しい相手だ。掘れば掘るほど、鉱脈が薄くなる。
六 推定アクション率
ここで、いちばん大切なところを見ることができる。
ディスプレイ広告の側では二〇〇九年ごろ、リアルタイム入札が登場した。業界を振り返るある資料によれば、一つの広告取引プラットフォームで、リアルタイム入札を通して売買された広告在庫の割合は二〇一〇年一月の八パーセントから、二〇一一年五月の六十八パーセントへ跳ね上がった。
一年余りで、一割未満が、七割近くになった。
この曲線の形には前の篇々でも出会っている。第十八篇の想定元本、第十四篇の準備資産と負債。増えるときにはみな、こうだった。どこかの年に突然変わったのではない。毎年、前年より少し多く手がけただけなのに、振り返ると、世界が変わっている。
ここまで来ると、広告はページの隅の場所を一度売って済むものではなくなる。一回表示するたびに、自動で、瞬時に、複数のプラットフォームをまたぐ入札が起こりうる。
その入札の順位を決める式のなかに、一つ、取り出しておきたい項目がある。
あのソーシャル・プラットフォームが、広告主に示した説明によれば、競売で見るのは総合的な価値であり、三つの要素から成る。入札額、推定アクション率、そして広告の品質だ。
推定アクション率。
この言葉はゆっくり読んでほしい。
目の前の、この具体的な人が、広告を見た後、その動作をする確率はどれほどか。プラットフォームが、それを見積もるという意味である。クリックするか。インストールするか。フォームに記入するか。買うか。
そして、その見積もりが、直接、価格に入る。
はっきりさせておきたいのは予測は当たらなくてもよい、ということだ。競争相手の予測より、ほんの少し当たればよい。しかも、膨大な数をまとめて見たときに、ほんの少し当たれば足りる。一人だけを見れば、まるで的外れかもしれない。だが、何億回もの表示を平均したときの、わずかな優位が金になる。ここも、この機械と、以前の物差しとの違いである。ある具体的な一人を正確に測るつもりは初めからない。大勢をまとめて、他より少しだけ正確に測れればよいのだ。
前の十九篇で、構が値をつけたのはすでに存在するものか、すでに起きたことだった。土地には面積があり、一日の労働には長さがあり、債務には元本があり、契約には想定元本があり、家には売買の成立価格がある。オプション、スワップ、合成商品といった、最も抽象的なものさえ、すでにある原資産が、将来どうなるかに値をつけていた。
ここで値をつけられるのはまだ起きていないことだ。しかも、永久に起きない可能性が高い。
あなたはクリックしていない。ずっとしないかもしれない。それでも、あなたがクリックするかどうかは数十ミリ秒前に、すでに一つの数に見積もられている。その数はどの広告主が今回の表示を手にし、それにいくら払うかをもう決めている。
一人の人間の可能性が精算された。その可能性は実現していない。実現する必要もない。
ここで、一度、後ろを振り返ってみよう。第十一篇で、労働力という商品が特別だったのは売るものが、すでに済ませた仕事ではなく、ある時間、働くことのできる力だったからだ。あの時点で、すでに一歩、先へ出ていた。取引の対象は、まだ実現していない。ここではさらに大きく先へ出る。労働力なら、少なくとも、実際に使わなければならない。雇い主は金を払えば、人を呼んで働いてもらう。ここでは要らない。あなたの可能性は売られた。そして、あなたは何もしなくてよい。
工業の時代に共通の尺度だったのは労働時間、個数、運賃、価格、金利である。これらはすでに完了したことを指していた。
この時代、新たに共通の尺度へ加わったのはクリック率、クリック一回当たりの費用、関連性スコア、品質ランキング、推定アクション率、一つの広告の平均価格、一人の人間の生涯価値である。
これらが指すのはまだ起きていないこと。そして、その人が、どれほど予測しやすいかだ。
厳密にいえば、内面を所有することではない。誰も、あなたの考えを手に入れてはいない。
所有し、取引するのは内面が外に残した痕跡と、その痕跡から算出された、予測のしやすさである。
この区別は守らなければならない。大げさにしてはならない。誰も、あなたの考えを読んでいない。意志を奪ってもいない。予測できるという性質は内面そのものではない。内面が外に残す、規則性だ。人はいつでも、その規則どおりに動かないことができる。そして、それこそが、この先で取り上げることである。
ここに、この歴史全体のなかでも、最も大切な転換が現れる。
予測できること自体が商品になれば、予測しやすくすることが商売になる。
この仕組みを研究するある学者はその意味を最後まで言い切った。行動を予測する最も確かな方法は行動の源へ入り込み、その形を作ることである。
第十八篇では、モデルは市場の傍らで市場を描くのではなく、中に入って市場を変えると述べた。測られるものはじっと立っていない。物差しが示す読み取り値に従って、動く。
ここではもう一段、先へ進む。
物差しは測る相手が動くのをただ待つのではなくなる。自ら手を加え、相手をもっと測りやすい形へ直しはじめる。
予測しやすい人ほど、この帳簿では高い数字が出る。だから、人を予測しやすくする方法にはどれも経済上の理由が生まれる。決まった合図。立ち去ろうとする、ちょうどそのときに現れるおすすめ。一日を同じ長さの小さな断片へ、いくつにも切り分けること。
誰かに悪意があるからではない。この帳簿では予測できることが、そのまま価値だからだ。
構のなかでも、最も対処しにくい形の一つである。前の九つは構が余項を処理する方法だった。ここに現れたのは十番目であり、ただ一つ、外へ力を向ける方法だ。すでにこぼれたものを処理するのではない。こぼれ出す源そのものを作り替え、こぼれる量を少なくする。初めから物差しの外へ出ていかないものなら、構はそれを収め直す手間をかけずに済む。
七 新しさを言いすぎたのか、語り足りないのか
ここまでの一連の説明はある学者の提起した命題に由来する。その命題には大きな論争があり、両側を並べておく価値がある。
彼女の主張の中心はこうである。インターネットの初期、あの検索会社は人の行動の痕跡が、サービスをよくするための副産物にとどまらず、取り出し、加工し、売れるものだと発見した。彼女は取り出されるものを「行動余剰」と名づけた。行動余剰は予測商品に加工され、人の将来の行動を取引する市場へ売られていく。やがてプラットフォームは行動を予測するだけではなくなる。さまざまな設計を組み合わせて、行動を調整し、誘導するようになる。
彼女は数字も一つ挙げている。あの会社の収入は二〇〇一年の八千六百万ドルから、二〇〇四年には三十二億ドルへ増えた。もとの収入に対して、三十五倍を超える増加である。この成長の速さこそ、それまで隠れていた発明を表に出したのだと彼女は考える。
支持する人々が重んじるのは名を与える、この力である。無料のサービス、個人向けの調整、赤い通知の印、おすすめのフィード、スマートホーム、中の見えない競売。散らばっていた経験が、一続きの歴史のなかへ置かれる。ある論者はこの本は記述の力作であると同時に、理論の勝利でもあると評した。そして、新しい事業の仕組み、新しい取り出し方、新しい支配の仕方を確かに描いたと認めた。
批判は四つに分かれる。そして、互いに異なっている。
四つをそのまま並べておく必要がある。同じ反対ではないからだ。新しいものを新しすぎるように描いたという批判。古くからあるものへの説明が少なすぎるという批判。言葉が強すぎるという批判。以前から、もっと根に近いところで論じられていたという批判。どれも、前の六節で示した事実をすべて認めたうえで、成り立ちうる。
第一は新しさを強調しすぎた、という批判だ。先ほどの論者はより古い研究の蓄積が、十分に扱われていないと指摘する。また、この仕組みを法のない土地の占拠として描くだけでは足りない。法との関係ははるかに複雑であり、法はこの仕組みを生み出す役割も、はるかに大きく担っているからだ。新しいものがあることを否定しているのではない。それは法制度、基盤、統治の、もっと長い歴史の上に成り立っている、というのである。
第二は監視が多すぎて、資本主義が少なすぎる、という批判だ。ある批判者は鋭い一文を残した。監視資本主義は案の定、資本主義よりも、監視の話である。プラットフォームを弁護したいのではない。行動余剰だけに目を凝らすと、さらに深い資本蓄積の論理が、背景の雑音にされてしまう。そこには長期的な利益、競争の圧力、費用を外へ押しつけること、国家の支え、世界的な不平等がある。そう言っているのだ。
第三は法と政策の分析者からの批判である。ある長い書評は彼女が現実の危険を捉えたと認めながら、議論がしばしば過剰な誇張に覆われると指摘した。彼らは監視資本主義より、監視経済という呼び方を好み、それ以前の仕組みとのあいだに根本的な断絶がある、という判断を明確に問い直そうとする。問題があるかどうかを争っているのではない。それを資本主義の新しい段階と名づけるに足る問題なのかを争っている。
第四はさらに古い労働研究の系譜から来る。ソーシャルメディアを遊びがそのまま労働になる場として捉え、余暇と労働の時間の境界が崩れることを重んじる研究者がいる。また、プラットフォーム化とは報酬が低すぎる、あるいはまったく無報酬の仕事を利用者へ大量に割り振り、その貢献を標準化、細分化、個々の作業への分解によって組織することだと捉える研究者もいる。この立場で大切なのはまったく新しい資本主義の論理ではない。デジタル資本主義が、労働、消費、遊び、交流を価値を増やす過程のなかへ組み直すことなのである。
このほか、世界的な不平等を重く見て、データをめぐる関係を一種のデータ植民地主義と捉える立場もある。今日、昔の植民地主義が、そのまま繰り返されているという意味ではない。人間の生活そのものが、蓄積の原料として、絶えず徴用されているということだ。
この点について、同じくデジタル労働を研究するある学者が、一つの注意を促している。そのまま覚えておきたい。現代のデータの仕組みを奴隷制、帝国主義、植民地支配に、じかに重ね合わせると、この新しい仕組みの、歴史上の独自性を見失うかもしれない、と。
この歴史をどう書くかにかかわる、大事な注意である。
第八篇では人を丸ごと、価格の平面へ押し込むことを扱った。そこには法的な権利による所有と売買があり、暴力があり、人を保険証券に書き込んだ記録があった。ここにはそれらはない。
違いは暴力の有無だけではない。もっと大切なのは何が取引されるかだ。あちらで価格の平面へ押し込まれたのは一人の人間そのものだった。しかも、それは法に明記され、担保にでき、相続でき、保険証券に書き込むことができた。こちらには誰が誰に属するかを記した書類は一枚もない。書くこともできない。取引されるものが、そもそも、誰かに帰属させられる実体ではないからだ。
ここで起きているのは別のことである。法の上で、あなたを所有する人はいない。それでも、あなたの注意と行動をいつでも値づけでき、計算でき、売れる状態に保とうとする力が働いている。
二つを一つに混ぜれば、歴史を不当に扱うことにも、目の前にあるものの独自性を取り逃すことにもなる。
この書き方の規律は以前にも一度、使った。第十六篇で三つの飢饉を並べて読んだときも、人を排除する三つの技術を区別する必要があった。どれも同じだと、大づかみに片づけることはできなかった。区別するのは重みを軽くするためではない。むしろ逆だ。具体的な形を正しく言い表してこそ、それが、いったい何をしたのかを知ることができる。
八 外へ逃れていくもの
最後の一組の論争は「では、どうすればよいか」をめぐるものだ。これにも、まだ決着はない。
一方の立場はデータを労働として扱おうとする。二〇一八年、数人の研究者が、少なくともある程度まではデータを労働と見なすべきだと提案した。企業が観察すれば自然に生まれる資本、と考えるべきではないという。主張はこうだ。プラットフォームはデータの支配的な買い手であり、買い手が独占する市場に近い力を持っている。データを無料と見なせば、利用者の貢献を低く評価し、分配の不平等を深め、支配的なプラットフォームに、ゼロという価格から長く利益を得させることになる。
この立場の強みは無料という言葉をほどいてみせたところにある。
無料という言葉はこれまでの篇にも現れた。第十二篇で、家事が帳簿上ゼロだった理由の半分は一度も価格を示すよう求められなかったことにあった。ここは似ているが、同じではない。あちらでは誰も計算しなかった。こちらではきわめて細かく計算する。ただし、計算から生まれる利益が、向こう側のものになる。利用者は何も貢献せず、ただでサービスを使っているわけではない。プラットフォームの価値の一部は彼らが絶えず生み出す信号、好み、文章、画像、クリック、ラベルづけ、フィードバックに、確かに依存している。
異論も、いくつかある。
一つは概念をめぐるものだ。二〇二四年、ある学者はデータを提供することは本当に労働なのかと、正面から問うた。彼の答えは普段、仕事と呼ぶものの捉え方に照らせば、データの提供は多くの場合、重要さ、かける努力、人と人とのあいだでの承認について、私たちが直感的に求める条件を満たさない、というものだった。規制するなと言っているのではない。データの提供をすべて労働と呼ぶのは概念を広げすぎるかもしれない、と言っている。
もう一つは政治経済をめぐるものだ。ある研究者は労働としてのデータより、資本としてのデータと呼ぶほうが適切だと考える。利用者に未払いの賃金を渡すことより、データが、終わりのない蓄積の運動へ、どう入っていくかを問うべきだという。
さらに根本的な異論もある。報酬を中心に置きたくない研究者たちがいる。データに賃金を払う問題として語れば、プラットフォームが定めた共通の尺度をあまりに早く受け入れてしまう可能性が高い。補償さえすれば、何もかも解決できるかのように。彼らが指摘したいのは、プラットフォームは金をいくらか払い足りなかっただけではない、ということだ。生活世界の境界を作り直し、本来、絶えず徴収されるべきではないものをもっと多く、いつでも取り出せる投入物へ変えている。
二つの立場を二つの問いに縮めると、こうなる。
利用する人が価値を生んでいるのなら、なぜ金を払わないのか。
なぜ、生活を切り分けて、精算できる投入物にするという前提をまず受け入れなければならないのか。
前者は契約と分配のなかへ、その人々を再び迎え入れようとする。後者は契約という言葉で語りはじめる時点で、もう一歩、遅いのではないかと疑う。境界はそれより先に、書き換えられているからだ。
実は二つとも、同じ事実は認めている。そこから進む方向が違うのである。人に属する何かが、絶えず取り去られている。そして、それを取り去る過程に、一度の本当の話し合いもなかった。違いは話し合いの言葉を使って、それを取り戻すべきかどうかにある。
ここでは裁定しない。
だが、どちらに立つにせよ、資料のうえで、はっきりしていることが一つある。この物差しは一度も、すべてを測りきっていない。
二〇〇〇年の報告書には、すでに記されていた。当時、あの識別用の印について聞いたことがあった人は四割にすぎず、作られた人物像は当人には見えなかった。識別用の印は消せる。ブラウザーの設定も変えられる。しかも、本人が知らないこと自体が、その人物像を不安定にする。
その後の出来事はさらに直接的だ。ある地域でプライバシーの規則が導入されると、ディスプレイ広告が購入意向を変える効果はおよそ六十五パーセント下がった、とする研究がある。
この数字は両側から読まなければならない。
一方では、対象を絞る広告の価値は想像の産物ではない。実際にあり、しかも、かなり大きい。
他方では、内側に値をつけるこの機械は追跡する力に強く依存している。そして、その力は元に戻せないものではない。法律によって一部を削れ、ブラウザーによっても、基本ソフトによっても、一部を削ることができる。
これは覚えておきたい。これまでの十九篇にはめったに現れなかったことだからだ。構が測れる範囲はずっと外へ広がってきた。粘土板から硬貨へ、硬貨から紙へ、紙から方程式へ、方程式から数百兆に及ぶ契約の額面へ。今回はその範囲が、人の手で、いくらか押し戻された。押したのは危機ではない。規則と機器だった。構の境界が、初めて、外から内へ押し戻される。そして、実際に動く。
あのソーシャル・プラットフォームは二〇二四年の年次報告でも、投資家に認めている。規制環境や、第三者のモバイル用基本ソフト、ブラウザーの変化は信号を得て、対象を絞り、効果を測る能力をすでに制限している。そして、広告収入に悪い影響を与えている、と。
予測できることを本業にする会社が、正式な書類に、この一文を記す。それはあることを認めたに等しい。物差しで測れる範囲を決めるのは測られる世界ではない。どこまで伸ばしてよいと、許されるかなのである。
ここで、広く知られた、あの言葉へ戻ることができる。あなたは顧客ではない。売られている商品なのだ。
粗い言い方だ。そして、正確ではない。
プラットフォームが、一人の人間を丸ごと値づけすることはめったにない。つけているのはもっと細かく、絶えず揺れ動く、一連の影の価格だ。次のクリックはいくらか。あと三秒とどまれば、この広告の関連性はどれほど高まるか。友人の「いいね」一つはブランドにどれほどの増幅効果をもたらすか。買う意向が高いと判定されれば、広告主はいくら余分に出すか。あなたの人物像によって、ある市場で高リスクと分類され、もっと高い代金を払うことになるか。
市場の対象に作り替えられるのは法の上でのその人ではない。
その人の、予測可能な外観である。
穏やかに言い直したように聞こえるかもしれない。だが、そうではない。何かが、あなたとして取引されることと、あなた自身が取引されることは法的な権利の上ではまったく違う。それでも、日々の経験のなかで、二つの距離はそれほど遠くない。保険を申し込む。向こうが見ているのはその外観だ。ページを開く。提示された価格はその外観に従って計算されている。仕事を探す。先に読み取られるのはやはり、その外観だ。本人はいつもそこにいる。だが、そこにいる本人はそれらの計算に加わっていない。
人のなかで最も予測しにくい部分はまさに、その人が最もその人らしくある部分だ。気を変える。合図どおりに動かない。スマートフォンを伏せる。今日は買いたくない。明日は急に買いたくなる。なぜかはうまく言えない。
この帳簿ではそれらは価値ではない。雑音である。
前の十九篇で、余項は帳簿が外に取りこぼしたものだった。ここでの余項は帳簿が雑音と判定したものだ。見落とされたのではない。測られている。そして、差し引かれた。予測の精度を下げるからである。
だが、予測の精度を下げるということこそ、それが、まだそこにある証しなのだ。
勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。
中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English