第十七篇 ブレトンウッズと一九七一年:信用は、ずっとそこにあった
金を共通分母としながらドルを頂点に置いた戦後通貨体制。その安定が生んだ矛盾と、金兌換停止が露わにした信用の階層を描く。
一 共通の分母
一九四四年に署名された国際通貨基金協定には、実に率直な一文がある。各加盟国の通貨の平価は、共通の分母である金、または一九四四年七月一日時点の重量と品位を持つ米ドルによって表示するものとする。
共通の分母。
この言葉に、事の性質が尽くされている。四十四の国。政治の境界ははっきり分かれ、信用の条件は大きく違う。戦争はまだ終わっておらず、互いに清算の済んでいない勘定も山ほどあった。この取り決めがしようとしたのは、それらの国の通貨を一本の物差しへ押し込み、債務も黒字も、為替も準備も、すべて一冊の共通の帳簿へ換算できるようにすることだった。
それがどれほど難しいかは、何を同じ尺度で測ろうとしているのかを考えればわかる。一国の通貨は、一個の商品ではない。その背後には、国の徴税能力がある。中央銀行が自制する気があるか、来年、議会の顔ぶれが変わるか、戦争をすれば勝てるかということがある。こうしたもののあいだに、換算の関係はない。「共通の分母」が求めるのは、まさに、その換算の関係を与えることなのである。
第十四篇でも、同じ抱負を見た。あのときは、それぞれの通貨を一定の重さの金と定義した。二つの法律を割れば、小数点以下七桁まで正確な換算率が出る。その仕組みは、一九三一年から一九三三年にかけて、ばらばらになった。
十一年後、同じことが、もう一度試みられた。今度は、いっそう周到に。
周到だったのは、自動的に動くふりを、今度はしなかったことである。
戦後の取り決めは、十九世紀の古典的金本位制を復活させたわけではない。誰でも紙幣を窓口へ持っていけば金に換えられる、という制度には戻らなかった。普通に紙幣を持つ人は、金を受け取れない。
小さくない違いなのに、教科書のあの短い図式には、ほとんど書き込まれない。かつての金本位制で、最も人を引きつけたのは、紙幣を手にした誰に対しても成り立つ一言だった。信じられないなら、換えに行けばよい。大多数の人が一生に一度も本当に換えに行かなかったとしても、制度の説得力は、すべてこの一言から来ていた。戦後の取り決めでは、個人に対して、この一言はもう成り立たない。兌換は、誰もが使える権利から、国と国との取り決めへ変わったのである。
金との交換を実際に約束したのは、アメリカ政府だった。その相手も、主に外国の公的な保有主体と、各国の中央銀行である。同時に協定は、経常取引の支払いを妨げないかぎり、加盟国が資本移動を規制してよいと、明文で認めていた。
つまり、客観的に見える金属の制約は、初めの日から、主権国家の判断、中央銀行どうしの協力、外交交渉、政策上の裁量に取り囲まれていた。
このことによって、一九七一年に何が切られたのかが決まる。
何ものにも汚されたことのない、純粋な金属の鎖が切られたのではない。ずっと以前から、信用と協定と政治によって、何度も結び目を作られてきた縄が切られたのだ。
この違いによって、出来事の語り方は変わる。もとが純粋な金属の鎖なら、一九七一年は一つの断絶である。制約のある世界から、制約のない世界への移行になる。もとから結び目のある縄だったなら、意味は違う。あの年に起きたのは、結び目が公にさらされることだった。
これまでの十六篇に、構が余項に対処する方法は、九つ現れた。ここから書くのは、十番目の方法ではない。別のことだ。ずっと認めようとしなかったことを、構が、自分で認めたのである。
二 帳簿をつける世界
会議は、一九四四年七月一日から二十二日まで、ニューハンプシャー州ブレトンウッズのホテルで開かれた。四十四か国から、およそ七百三十人の代表が集まった。議長は、アメリカの財務長官。イギリスの代表はケインズで、アメリカ側の主な設計者は、財務省のホワイトだった。
表向きは、多国間の会議である。だが、土台となる案は実質的に二つしかなく、その二つが競っていた。
ケインズの案は、国際清算同盟と呼ばれた。最もよく知られているのは、超国家的な帳簿上の通貨を提案し、それに名前をつけたことだ。しかし、本当の要は名前にはない。国際決済を、どのような仕組みにしようとしたのかにある。
本人の言い方では、銀行制度の根本原理を、国際的な仕組み全体へ広げることだった。
具体的には、各国の中央銀行が、この同盟に口座を開く。黒字国は貸方に、赤字国は借方に立つ。同盟は、帳簿への記入と当座貸越によって動く。一時的に金やドルが足りなくなった国が、すぐに輸入を減らし、雇用を減らすよう迫られずに済む仕組みである。各国には、戦前三年間の輸出入総額のおよそ四分の三に当たる割当額が与えられ、その範囲内なら、口座を借り越すことができる。
一方、長年にわたって巨額の黒字を積み上げる国にも、圧力をかけるべきだと、ケインズは主張した。
ここが、案全体の心臓だった。彼が書き記した目標は、世界貿易に、収縮させる圧力ではなく、拡張させる圧力を働かせることだった。
当時としては、新しい言い方である。それまでの何百年ものあいだ、国際収支の帳簿は、一方にしか力をかけなかった。借りのある者が、暮らしを切り詰める。ケインズは、この帳簿に、逆向きの力を加えようとした。帳尻が合わないときに、全員を一緒に引きずり下ろす道しか残らない、という事態を避けるためだった。
抽象的な言葉の飾りではない。その背後には、二つの大戦のあいだの歳月の記憶が、重くのしかかっている。デフレ、失業、所得の崩落。そして第十四篇で見た、自国の賃金を押し下げて平価を守るしかなかったイギリスである。
ケインズのこの一歩を見定めるには、ごく素朴な問いへ戻ればよい。国際収支の帳尻が合わないとき、誰が合わせるのか。
従来の答えは、一方しか向いていなかった。赤字国が合わせる。金利を上げ、需要を抑え、輸入を制限する。国内の物価と賃金を下げていき、帳尻が合うまで続ける。黒字国は、何もしなくてよい。何も悪いことはしていないからだ。
ケインズが変えたかったのは、まさにそこだった。帳尻が合わないのは、両側が共同で作り出している状態であって、片側だけの落ち度ではない。調整の義務をすべて赤字国へ押しつけることは、算術の上では筋が通る。だが、その結果は、一つの国のなかで最も交渉力の弱い人々へ、代価をすべて回すことになる。
ホワイトの案は違っていた。世界の中央銀行というより、限りのある資金を共同で蓄える仕組みに近かった。
彼の設計では、基金は国際通貨を無から作り出さない。各国があらかじめ金、自国通貨、証券を拠出して、共同の資金を作る。草案には、当初の出資引受総額は五十億ドルを下回ってはならないとある。各国の払い込みの四分の一は現金、四分の一は利付きの政府証券とし、現金部分の少なくとも半分は、金で支払わなければならなかった。
ホワイトが求めたのは、各国の出資引き受けに基づく、規模が限られ、管理の利く安定の仕組みだった。短期の流動性は供給できる。だが、世界の準備資産を生み出す権限を、大規模な貸越を認め、しかも黒字国の側まで縛れる超国家的な清算同盟へ渡すつもりはなかった。
最終的にまとまったものは、ホワイトの案に近く、ケインズの案のかけらを残していた。
イギリスは、あの帳簿上の通貨を手放した。清算同盟も、より潤沢な貸越の仕組みも手放し、ドルと金を中心とする構造を受け入れた。
この結果は、理解しにくいものではない。陰謀を持ち出す必要もない。戦争はまだ終わっておらず、金はアメリカの手にあり、誰もがドルを欲しがっていた。イギリスには、多額の借りがあった。案が受け入れられるには、金を出せる側がうなずかなければならない。ケインズのしようとしたことには、道理があった。しかし、あのテーブルで力を持っていたのは、道理だけではなかったのである。
残ったケインズの跡のうち、最も重要なのは、いわゆる希少通貨条項だ。ある黒字国の通貨が長く不足する場合、基金は、その通貨を割り当てによって配分し、他国には、限定的な輸入制限を認めることができる。
この条項が、のちに実際に使われることは、ほとんどなかった。
重要なのも、使われたことではない。あの会議の場で、完全には消し去られなかった意見の違いを、記録に残したことにある。世界の不均衡を調整する負担を、いったい誰が引き受けるのか、という違いである。
正式な条文に書き込まれながら、ほとんど使われない条項とは、ずいぶん特別なものだ。構が自らの文書に、一つの場所を残している。ここには、もともと別の道もあったと、印をつけているのである。
第九篇でも、これに近いことを述べた。構は、一つの世代が何を読むかを決められる。しかし、永遠には決められない。削られたものと、削った人が、同じ表紙のなかに収まっているからだ。ここでは、さらに徹底している。そもそも削られていない。正式な条文のなかに印刷され、誰でも開けば読める。ただ、誰も使おうとしなかった。使われない条項と、存在しない条項は、効果の上ではほとんど同じである。記録の上では、まったく違う。
三 階層
会議の結果は、金本位制への復帰ではなかった。築かれたのは、階層のある仕組みである。
いちばん上に金がある。中間にドルがあり、一オンス三十五ドルという公定価格で金につながる。その下に各国通貨があり、ドルに対して、固定されているが調整もできる平価を定める。市場の為替相場は、その平価の上下およそ一パーセントという、狭い幅のなかに保たれる。
固定されているが、調整もできる。この言葉のなかに、制度全体の難しさが隠れている。完全に固定すれば、逃げ道がない。国が持ちこたえられなくなったとき、国内を締めつけるしかなくなる。自由に調整できるなら、固定する意味がなくなり、明日の値は誰にもわからない。そこで、間を取った。ふだんは固定し、根本的な不均衡が起きたら、改めて協議する。しかし、何をもって「根本的」とするのか、誰がそう認定するのか。協定には、計算して答えを出せる基準がなかった。
加盟国には、基金への加入時に割当額が定められる。それが出資義務の額を決め、同時に、基金からどれだけ資金を利用できるかも決める。最終的に採択された割当総額は、およそ八十八億ドル。原則として、四分の一を金で、四分の三を自国通貨で払い込むことになった。
仕組みを図にすれば、美しい。赤字国は、まず自国の準備と国内政策で調整する。それでも短期的な困難が残るなら、基金から外貨を引き出せる。不均衡が根本的なものなら、平価の調整を申請する。
その一方で、共通の尺度を求めるこの取り決めは、各国が政策を動かせる余地を、意識して残した。協定第六条には、加盟国は国際的な資本移動を調整するために必要と考える規制を実施できる、と明記されている。
一九三〇年代から学んだ教訓であり、設計全体で最も正直な箇所でもある。これは、一国が三つのものを同時には持てないと認めることだった。固定為替相場、資本の自由な出入り、そして、自分で決められる国内政策。三つのうち、一つは手放さなければならない。一九三〇年代に手放したのは、国内政策だった。その代価は、第十四篇ですでに数えた。今回は、資本の自由な出入りを手放すことにした。
何を手放すのか、当時の人々にはわかっていた。資本に鍵をかけるとは、金を国外へ出すのに理由が要り、許可を申請し、待たなければならなくなることだ。もうけの減る人がいる。成り立たなくなる商売がある。これらの代価は、本物だった。代わりに得たものは、政府が、今年は雇用を守るために少し支出を増やそうかと、自分で決められることだった。その翌朝には自国通貨が売りたたかれる、という事態に直面せずに済む。どちらにより大きな値打ちがあるのか。当時も争われ、その後も争われ続けている。
だから、これは初めから、純粋な市場秩序ではなかった。国家と中央銀行が、注意深く管理する市場秩序だったのである。貿易のために為替相場を十分安定させ、価格を比べられるようにする。資本移動には鍵をかけられるようにして、政府が、たちまち通貨危機を招くことなく、雇用と成長を目指せるようにする。
この設計には、見落とされがちな非対称も、一つあった。
戦後の紙幣が、どこでも金と交換できたわけではない。公的な保有者に金との交換を約束していたのは、主としてアメリカの財務省だった。各国通貨が匿名の決済を成り立たせるには、最後はドルを経由しなければならない。そのドルは、一つの国を経由して、金へつながっていた。
戦争が終わったとき、世界の公的な金保有の大半を、アメリカが握っていた。ヨーロッパと日本は、輸入、復興、清算、返済のために、切実にドルを必要としていた。そこで初めの数年間は、共通の尺度と、アメリカへの信頼が、ほとんど完全に重なっていた。
重なっていたからこそ、のちに多くの人が、この体制の土台は純粋に金属だったと、思い違いをすることになる。
それは、ずっと金属と信用の混合物だった。ただ、初めの数年間には、その二つの配分を見分ける理由が、誰にもなかった。
同じ時期に同じ答えを出す二つのものを、人は同じものだと思ってしまう。見分けるには、別々の答えを出す日を待つしかない。しかも、その日が来たときには、仕組みを組み直すには、たいていもう遅いのである。
四 金の謎
本当の難題は、この体制がうまく動くようになってから、初めて姿を現した。
西ヨーロッパは一九五八年、経常取引における通貨の交換性を回復し、日本は一九六四年に交換性を実現した。ここへ来て、ブレトンウッズ体制は、ようやく全面的に動く段階に入ったといえる。
ある経済学者の警告が耳に痛く響き始めたのも、ちょうどこのころだった。
彼は一九五九年に議会で証言し、一九六〇年には本を出した。そこで示した論理は、簡明だった。アメリカが国外へドルを供給するのをやめれば、世界は準備不足に陥り、デフレと貿易の縮小に直面する。供給を続ければ、いつか外国の公的機関が持つドル債権が、アメリカの金保有を上回る。市場は、一オンス三十五ドルという金価格を守れないのではないかと疑い、一斉に金との交換を求める。
どちらへ進んでも、難局に行き着く。
この板挟みの形は、覚えておきたい。貨幣だけの話ではないからだ。一つのものに二つの用途を担わせれば、こういう構造にはまり込む。ドルは、世界の流動性であると同時に、アメリカの債務でなければならない。前の役目からすれば、多いほどよい。後の役目からすれば、少ないほどよい。構が自分に二つの役を与え、その二つが逆向きの要求をするなら、うまく働くほど、破綻に近づいてしまう。
もはや書斎のなかの問題ではなかった。日付まで、はっきりしていたからだ。
一九六〇年八月、アメリカの対外ドル債務残高の総額は、すでに金保有を上回っていた。一九六五年十二月には、外国の公的機関が保有する分だけでも、アメリカの金保有を超えた。一九六六年には、これはもう現実だったのである。
アメリカの貨幣用の金保有は、一九四七年一月のおよそ二百六億ドルから、一九七〇年十二月には、およそ百十一億ドルへ減っていた。
共通の物差しが、その場で折れたわけではない。ただ、部分準備で営む一つの国際銀行に、ますます似てきた。帳簿にある兌換の約束の額が、金庫にある金属を、すでに上回っていたのである。
ただし、部分準備であること自体が欠陥なのではない。どの銀行も、そのように動く。そうしてこそ、預金は貸出になり、お金が動き出す。必要な条件は、ただ一つ。全員が同じ日に、返してほしいと言いに来ないことだ。一九六〇年以降、この取り決め全体が置かれたのは、そういう状況だった。日々の勘定が、どこかでつかなくなったわけではない。その日から毎日、皆が一斉に取りに来ないことに、成り立つかどうかが懸かるようになった。
各国は、取り付けが起きるのを、ただ待っていたわけではない。継ぎ当てを、一つ、また一つと加えていった。
一九六一年十一月、西側八か国の中央銀行が、ロンドン金プールを設けた。ロンドン市場で共同して金を売買し、一オンス三十五ドルから金価格が離れないように支える。当初の金売却限度額は、二億七千万ドルだった。その後、規模は繰り返し拡大された。
同じころ、アメリカの中央銀行は、一九六二年から通貨スワップの取り決めを大幅に広げていった。一時的なスワップと短期信用によって、差し当たりドルを金へ換えるつもりのない外国の中央銀行の持ち高を支えたのである。一九七一年に金兌換窓口が閉じられるまでに、スワップの枠は、当初の九億ドルから百十二億ドルへ増えていた。
この二つが示すのは、同じことだ。表面では、匿名のルールによって動いているように見える体制が、実際には、中央銀行どうしの保証、暗黙の了解、その場その場の火消しに、ますます頼るようになっていた。
そのなかに、ひときわ取り出して見るべき現象がある。
のちの研究者が見いだしたところでは、戦後の各国中央銀行は、一部の設計者が予想したように、金を徐々に手放してはいなかった。むしろ、金準備を積み直し、持ち続けていた。
帳簿の上では、割に合わない。金は利息を生まず、保有すれば、その分の機会費用が生じる。ドルなら、アメリカに預ければ利息がつく。それでも金は、他国の信用よりも余計なものの混じらない、いざというときの資産と見なされていた。
研究者は、これを、ブレトンウッズの金の謎と呼ぶ。
建前の上では、ドルが金に代わり、国際準備の主要な媒体を務める体制になっていた。現実には、各国の公的部門は、最後の保険を、すべてドルへ委ねる気にはなれなかった。
この歴史のなかで、余項が初めて顔を出す。しかも、ほとんど注目されない場所に出てくる。排除される側にはいない。構の身内の、貸借対照表のなかにいるのである。
それらの中央銀行は、毎日ドルで決済し、毎日平価に沿って相場を示し、毎日、公の場でこの体制を支持していた。同時に、金庫のなかには、万一のための備えを残していた。共通の物差しが、いつか通用しなくなるかもしれない、その日のために。
口ではこの物差しを認め、手元には別の備えを残す。第六篇では、余項の一つの姿は、もう一本の物差しだと述べた。市場は、人目につかないところにそれをしまっておく。ふだんは音を立てず、構が信用を失ったときにだけ、浮かび上がる。今回は、その別の物差しをしまっておいたのが、日々こちらの物差しを使っている人々自身だった。
五 二つの価格
フランスは、この疑いを公のものにした。
一九六五年二月四日、ド・ゴールは記者会見で、世界の通貨制度は、徐々に金を土台とする仕組みへ戻るべきだと主張した。国際金融に責任を負う国は、国際収支上の借りを、紙の債務ではなく、金で清算すべきだというのである。
同じ時期、フランスの財務相は、ドルが中心にあることでアメリカが得る便宜を、一つの表現にまとめた。「法外な特権」。アメリカは、自分で発行した債務で、国際的な支払いを済ませられる。他国なら、その支払いに使う国際準備を手に入れるために、実物の商品やサービス、あるいは質の高い資産を差し出さなければならない、という意味だった。
フランスの立場は、純粋に原則だけから出たものではなかったかもしれない。地政学や、自国の地位への配慮もあった。それでも、この体制の最も触れられたくないところを、公然と指したのは確かである。匿名とされる国際通貨は、実のところ、一つの国の信用を表す証書なのだ。
一九六七年から一九六八年にかけて、亀裂は、目に見えるものから、塞げないものへ変わった。
一九六七年十一月十八日、イギリスは、ポンドの対ドル平価を二・八〇から二・四〇へ改めた。およそ十四パーセントの切り下げである。その後、ドルと金にかかる圧力は、急速に強まった。
一九六八年三月、ロンドン金プールが崩壊する。
金プールの解散後、七か国の中央銀行は、金市場を二層にすることで合意した。公的機関どうしの取引では、引き続き固定の公定価格を使う。一方、民間市場では、価格を自由に動かす。各国中央銀行は、貨幣用の金を、もう民間市場には売らないと約束した。
同じ月の十八日、アメリカは、連邦準備券の二十五パーセントを金で裏づけなければならないという、法律上の要件を正式に廃止した。
ここは立ち止まって、何が行われたのかを見ておきたい。
金価格、為替相場、準備、決済を、もともと一本の物差しへつなぎ留めるはずだった制度を、当局自身が初めて、二つの価格のある世界へ解体したのである。
公定価格は、なおルールの言葉だった。協定に書かれ、中央銀行どうしの清算に使われる。正式な勘定は、すべてそれに従ってつけられる。民間の市場価格は、それとは別の判断を示し始めた。しかも、もっと不安を帯びた判断だった。
ここで、第六篇と照らし合わせてみよう。かつて交子を使った人々が、ひそかに別の物差しを持っていたのは、役所のあの紙を、全面的には信用できなかったからだ。今回の二層市場は、民間がこっそり残したものではない。当局自身が線を引いた。当局が、第二の価格の存在を認め、合法的に動ける場所まで用意したのである。構は、別の物差しがあると知っているだけではない。そのための場所を、区切って与えた。
二つの価格の併存は、技術的なその場しのぎではない。自分が決めた数字と、市場が払ってもよいと思う数字は、もう同じではない。構が初めて、それを公に認めたのである。
第十篇で述べたように、構にとって最も手間のかからない方法は、答えられない部分を、門の外へ出してしまうことだ。ここでも、同じ形のことが行われた。しかも、もっとあからさまに。外へ出されたのは、ある種の問いではない。同じものの、もう一つの価格だった。門の外で自由に動かしておき、目に入れずに済ませるのである。
ただし、この方法には前提がある。門の外の数字を、内側へ持ち込んで使わせてはならない。だから、あの約束が必要だった。二つの世界のあいだには、水門が要る。なければ、裁定取引が一日のうちに、公定価格を押し流してしまう。
ちょうどこの段階で、基金は、新しい国際準備資産を導入した。特別引出権である。
公式の説明は明確だ。一九六九年に創設された、加盟国の公的準備を補うための、補完的な国際準備資産である。最初の三十億単位は、一九七〇年一月一日に配分された。一九七〇年から一九七二年までの配分は、合わせて九十三億単位だった。
象徴的な意味を持つ改革である。金は足りず、ドルは多すぎ、しかも脆い。そのとき体制は、さらに抽象的で、いっそう制度に根ざした国際準備の単位を、もう一つ作ろうとした。
価値を、統一された尺度へ仕立てようとする衝動が、ここにも現れている。同時にこれは、金だけでも、ドルだけでも、もはやあの物差しを支えきれないことを示していた。
この新しい単位の置かれた立場にも、目を留めたい。金属の身体がなく、背後に一つの国があるわけでもない。複数の国が、一緒に帳簿をつけることで生まれた数字である。より抽象的で、より純粋だった。それでも、主要な国際通貨にまで育つことはなかった。物差しになれるかどうかは、どうやら、定義が明確かどうかだけでは決まらない。
一九六〇年代後半には、もう一つ、急速に制御の外へ出ていくものがあった。
アメリカ政府が資本流出を抑えようとすると、多国籍企業や銀行は、ますます規制を迂回し、アメリカ国外の銀行制度のなかで、ドルを運用するようになった。一九六九年前後には、ドイツの中央銀行は、このオフショアのドル市場を、国内の信用供給を抑制する力を弱める重要な要因と見なしていた。
協定のなかの、資本移動を規制してよいという条文は、紙の上では、そのまま残っていた。資本は、すでに紙の外に居場所を見つけていた。
公的な会計表に載る、測定可能な準備や赤字は、帳簿の外にある、オフショアの、国境をまたぐ、より強く関係に依存した金融の連鎖に、ますます取り囲まれていった。
典型的な、枠からのあふれ出しである。構がルールを立てる。そのルールが押さえられるのは、ルールのなかで定義できる取引だけだ。資金は、定義の届かない場所へ向かう。誰かが、わざと法を破ろうとしているからではない。向こうには制限がなく、その分だけ安いからだ。締めつけるほど、外へ向かう動機は強くなる。第十二篇で述べた、境界は組織の形のあいだに引かれるということが、ここで場所を変えて、再び現れる。同じドルでも、ニューヨークに預ければ規制を受け、ロンドンに預ければ受けない。それでも、同じドルなのである。
六 一時停止を指示した
一九七一年になると、危機の性質が変わった。
問題は、アメリカが三十五ドルという金価格を守れるかどうかだけではなくなった。他の国々が、アメリカと一緒に、この芝居を続ける気をまだ持っているかどうかが、問われるようになったのである。
一九七一年四月末、ドイツの中央銀行と政府の中枢にいる人々は、すでに基金の専務理事と、マルクを変動相場へ移す可能性を話し合っていた。五月六日、ドイツの経済相は、マルクを一時的に変動させるよう命じた。
固定平価の体制で、主要な黒字国が、もう守り続けないと決めたなら、それはアメリカだけの問題ではなくなる。
同時に、資本移動の規模も急に膨らんだ。アメリカからの資本の純流出は、一九七〇年には百二十九億ドル。一九七一年には二百九十六億ドルとなり、そのうち百十億ドルが、第三四半期に集中していた。
つまり、公的な金保有が足りるのかという議論を、ひとまず脇に置いても、流動性の衝撃だけで、固定平価と公的な金兌換を合わせた約束は、すでにひどく不安定になっていた。
一九七一年八月十三日から十五日にかけて、ニクソンは、経済政策を担う中枢の側近たちを、キャンプ・デービッドへ集めて協議した。財務長官、中央銀行の議長、国際通貨問題を担当する官僚たちが出席した。この週末に決めるのは、新たな経済政策の一式だった。
これは、市場が自然に変わっていく過程の一こまではない。きわめて政治的な、週末の意思決定だった。選挙、貿易、インフレ、国際交渉。いくつもの思惑が入り交じっていた。
八月十五日の夜、ニクソンは、全国向けのテレビ演説で告げた。私は財務長官に、ドルを金、またはその他の準備資産へ交換することを、一時的に停止するよう指示した、と。
「一時的」という言葉は、その後、果たされなかった。
ただし、はっきりさせておきたい。当時から、口先だけの言葉だったとは限らない。国内向けの措置は、確かに一時的なものとして設計され、九十日間という凍結期間が明記されていた。対外的な一手についても、まず止めておき、続く交渉でより有利な位置を取ろう、という考えが主だったのだろう。後に元へ戻らなかったことは、初めから戻す気がなかったことを意味しない。構は、扉を閉めるときも、少し開けておいただけだと、本気で思っていることが多い。
ニクソンは同時に、この決定を、国内政策の一式に組み込んだ。九十日間の賃金・物価凍結、十パーセントの輸入課徴金、歳出の削減、税制の調整。危機については、国際通貨の投機家に対する防衛戦として語った。
しかし、この演説で最も重要だったのは、別の二つの言葉である。
この日の本当の重みは、その二つにある。当時は、それほど目立たなかった。聞いている人々が気にしていたのは、物価が本当に凍結されるか、輸入品が値上がりするか、明日から自分の賃金はどうなるかということだ。そうした切実な問いのあいだで、貨幣の定義が、入れ替えられていた。
一つ目。一国の通貨の力は、その国の経済の力の上に築かれる。
二つ目。国外に向けて、アメリカはこれからも、未来を見据えた、信頼に足る貿易相手であり続けると保証した。
この二つを並べて読めば、この日に本当に起きたことが見える。
貨幣の土台は、金と交換できることから、経済の力と、一つの国が信頼に値することへ、公然と言い換えられたのである。
金属に覆われていた部分があった。ある具体的な国への信頼。その国が政策の規律を守るかどうかの判断。その信用への賭け。それらはもう、貨幣の背後に隠れなくなった。大統領自身の口によって、貨幣を正面から支える土台だと語られた。
第十五篇で述べたように、物差しは書き換えられる。いったんそれを実際に示してしまえば、その事実は二度と取り消せない。一九三四年のあのときは、金価格を二十・六七から三十五へ変えた。今回は数字の変更ではない。その数字が表していた約束を取り消し、同じ一枚の紙を支えるために、人前で別の説明へ切り替えたのである。
演説には、しばしば読み飛ばされる箇所が、もう一つある。読み飛ばしてはならない箇所だ。
ニクソンは、退職者、主婦、賃金を得て働く人々を、インフレの被害者として挙げた。賃金凍結と関税は、雇用と購買力を守る手段として差し出された。
この説明を受け入れるかどうかにかかわらず、一つのことはわかる。国際通貨制度は、抽象的な盤面ではない。
固定相場を守れなくなれば、その代価は、賃金、輸入価格、雇用、予算へ及ぶ。ある平価を守ろうとすれば、赤字国は、しばしば金利を上げ、需要を抑え、輸入を制限しなければならない。最後には、現実の雇用と所得が失われる。
第二節のケインズは、なぜ、調整の圧力をすべて赤字国の側へかけることに、あれほど反対したのか。ここで、いちばんよく見える。二十七年が過ぎ、退けられた問いが戻ってきた。しかも、それを退けた国の大統領自身の演説のなかに、戻ってきたのである。
かつて捨てられた案が目指したのは、黒字国にも、調整の義務の一部を負わせることだった。二十七年後、アメリカ自身が、調整を求められる側になった。そこで出した答えは、窓口を閉じ、十パーセントの輸入課徴金をかけ、圧力を他国へ押し返すことだった。ケインズの方法を採ったのではない。自分の方法を使ったのである。それでも、解こうとしていたのは、かつてケインズが、いずれ現れると述べた、あの問題そのものだった。
七 必然か、選択か
一九七一年をめぐる研究には、おおよそ三つの、競い合う説明がある。違いは、好みの問題ではない。何が問題だったのかという、その捉え方にある。
第一の説明は、構造上の、避けられない出来事だったとする。
最も早く、最も大きな影響を与えたのが、先ほどの経済学者の示した板挟みである。準備通貨を発行する国は、世界へ流動性を供給し続けなければならない。そうすれば、いずれ対外債務は金の裏づけを超え、信認の危機を招く。のちの一連の研究は、崩壊の原因を、この体制の二重の欠陥に、より強く求めた。一方では、準備の増加がドルに依存しすぎていた。他方では、中心国であるアメリカが、一九六五年以降、よりインフレを起こしやすい財政・金融政策の組み合わせへ転じ、低いインフレ率と、金価格への信頼を維持するルールを守らなかった。
この見方では、金兌換窓口の閉鎖には、確かに具体的な引き金があった。しかし、大きな方向は、制度の矛盾と、アメリカが政策の規律を外れたことによって、すでに決まっていた。
第二の説明は、必然とは限らず、続けることもできたとする。
一九六六年には、すでに何人かの研究者が異議を唱えていた。この体制は、必ずしも崩壊しない。アメリカはむしろ、世界の金融仲介者に似ている。短期で流動性の高いドル債務を発行する一方、長期の対外資産を持つ。物価の安定を維持するかぎり、この過程は、原理的には続けられる。さらには、金のないドル本位制へ変わっていく可能性さえある、というのである。のちに論争を振り返った文書は、この立場を明確に記している。アメリカ当局が、名目アンカーを維持するのに必要な物価の安定を保っていれば、体制は期限なく続いていられたはずだ、という見方である。
この立場は、危険を否定しない。否定するのは、別のことだ。ドル債務が金を上回ったからといって、自動的に、その場で持続不能になるわけではない。
この議論がどこまでを主張しているのかは、正確に押さえなければならない。債務が金を超えても構わない、と言っているのではない。兌換の約束を守れるかどうかは、人々が一斉に交換を求めに来るかどうかに懸かる。一斉に来るかどうかは、その約束を信じるかどうかに懸かる。そして信じるかどうかは、主として、約束した側自身がルールを守っているかで決まる。つまり、決定的な変数は、金庫のなかではなく、別の場所にある。
第三の説明は、政治的な選択と、歴史の偶然を、さらに重く見る。
一九六〇年代末の結果を、初めから決まっていた結末として書くことに、反対する研究者がいる。平価の体制を殺したのは、誰が調整の負担を引き受けるべきかをめぐる、相互の非難と意見の対立だったという。この筋の議論をまとめる別の文献は、さらに、一九七一年のアメリカ国内の事情を強調する。貿易赤字への不安、日本やヨーロッパの輸出競争力への懸念、議会からの圧力、翌年の選挙への不安。それらによって為替相場は、通貨をめぐる技術上の問題にとどまらず、市場への参入や国内政治の武器にもなった。
外交史からたどる道もある。通貨をめぐる対立を、冷戦下の同盟政治のなかに置いて理解する。ドル、金、基地、軍事費、援助、同盟国の負担分担は、互いに独立した問題ではなかった、という見方である。
この見方に立てば、一九七一年にも、もちろん構造的な背景はある。それでも、金兌換窓口が何月何日に、どのような方法で、どんな追加措置を伴って閉じられたかは、純粋に技術的な推論から導かれる唯一の結果では、決してない。
ここでは、裁定しない。ただ、この三つの説明が大切なのは、貨幣の秩序そのものをどう理解するかという、二つの異なる見方につながっているからだ。
ブレトンウッズを、金を本当の土台とし、ドルを伝達の装置とする客観的な制度だと見るなら、一九七一年は、遅かれ早かれ訪れる、物理的な断裂に近くなる。
金属を象徴とし、中央銀行の協力と、アメリカの信用への信頼に支えられた、政治と金融の混合物だと見るなら、一九七一年は、信用の配分を組み直した出来事に近くなる。金が一夜で蒸発したわけではない。ドルが一夜で国際的な役割を失ったわけでもない。本当に変わったのは、両者の重みづけと、最後の決済を何に頼っているのかを、世界が公に認めるようになったことだった。
二つの理解は、どちらも同じ事実を、筋の通った形で説明できる。ただし、そこに描かれる世界は、二つある。一方の世界では、構は最後には、自分で動かせないものに従わなければならない。もう一方の世界では、構は、初めからずっと人に支えられており、金属は、その支え方の一つにすぎない。
八 覆いが切り開かれる
金兌換窓口が閉じられた翌日に、世界が足並みをそろえて、自由な変動相場へ入ったわけではない。各国はまず、この体制を救おうとした。
一九七一年十二月十七日から十八日にかけて、十か国グループは、ワシントンで協定を結んだ。アメリカは、金のドル建て公定価格を三十五ドルから三十八ドルへ改め、ドルをおよそ八・五パーセント切り下げることに同意した。他の主要国も、それに応じて自国通貨を再評価し、為替相場の変動幅を広げた。
問題は、この調整によっても、金との交換は復活しなかったことだ。アメリカのインフレを誰が抑えるのか、ドルを持ち続ける危険を誰が引き受けるのかも、解けなかった。のちの公式の歴史は、この試みを、ごく短く評している。少なすぎ、遅すぎた、と。
その命は、短かった。一九七三年三月前後、ヨーロッパは、再び深刻な外国為替危機に襲われた。その後、この固定相場の体制は、事実上廃止される。一九七三年二月から三月にかけて、主要工業国は、広く変動相場へ移った。
だから、この二つの日付は、分けて覚えなければならない。一九七一年八月十五日に終わったのは、ドルから金への公的な兌換である。一九七三年の春に終わったのは、主要工業国のあいだに残っていた、調整可能な固定相場の枠組みだった。
法律上の後始末は、さらに遅い。一九七六年の協定改正は、加盟国が自ら適切と考える為替制度を選べることを認め、基金の役割は、各国の為替政策を監視することへ移った。現行協定の第四条第二項には、加盟国は、基金の目的に合うその他の為替制度を、自ら選んで採用できると、明記されている。この改正は、一九七八年四月一日に発効した。
ここに至って初めて、戦後の出発点にあった、金を共通の分母として為替相場を固定するという、憲法にも似た企てが、法律の上でも、本当に席を譲ったのである。
これで、冒頭の問いに答えられる。一九七一年に切られたのは、何だったのか。
いちばん簡単な言い方は、世界はこのときから法定通貨の時代に入り、金属から信用へ移った、というものだ。
この言い方は、正確ではない。それどころか、最も大切なものを覆い隠してしまう。
より正確に言えば、貨幣は公然と、いっそう深く信用の上に据えられたのである。
匿名の交換手段は、消えなかった。ドルは、国際的な値づけ、準備、決済の中心的な媒体であり続けた。金兌換窓口の閉鎖後にも残ったのは、まさに金のないドル本位制だったと考える学者もいる。
変わったのは、その媒体の究極の土台が、純粋な金属の制約を装わなくなったことだ。土台は、ますます公然と、いくつかの具体的な問いになった。アメリカの財政当局と中央銀行は、物価の安定を保てるか。アメリカ政府は、なお信頼に値すると見なされるか。基金の監視には、相手を縛る力があるか。主要な中央銀行は、まだ協力し合う気があるか。
内へ向かい、人格と関係を帯びたあの力。信頼、名誉、信用。それが、匿名の貨幣に取って代わったのではない。
よりむき出しの姿で、匿名の貨幣の土台へ戻ってきたのである。
だから、一九七一年を、野蛮な金属から近代的な信用へと向かう、必然の進歩史として書くべきではない。
金は、国家の貸借対照表から、すぐに退場したわけではなかった。むしろ、多くの中央銀行が、最後の保険として持ち続けた。しかも、それは一九五〇年代から続けてきたことで、一九七一年を待って始めたのではない。ドルも、金に換えられなくなったからといって、国際通貨の中心から退いたわけではない。金属を離れたあとも、国際金融を主導し続けた。
本当に変わったのは、振り子の位置である。統一された単位で値をつけることも、価格の標準化も、匿名の決済も、すべて残っている。それらを支える最後の保証が、一つの国の信用と、いくつかの機関の評判に依存していることが、より明らかになったのだ。
切られたあのつなぎ縄は、もともと、人格に依存する要素を消すための縄ではなかった。
それらを覆うものだった。
覆うことは、だますことではない。この違いは、はっきりさせたい。設計者は、何かを隠していたわけではない。あの覆いの役目は、皆が毎日、他国を信用してよいかどうかを判断せずに済むようにすることだった。一つの数字を見れば、それでよい。これは、途方もなく手間を省いてくれる。しかも長いあいだ、本当に役に立った。手間を省く代価は、その数字が頼れなくなったときに現れる。二十年以上せずに済んでいたことを、全員が一斉に、もう一度覚え直さなければならなくなるのだ。
一九七一年は、その覆いに鋏を入れただけだった。
切り開かれたあと、ずっと働いていたものが、初めて正面に置かれた。どの国の約束なら当てにできるのか。誰が誰の後ろ盾になっているのか。どの機関どうしなら、まだ真夜中に電話をかけ合う気があるのか。これらは、一度も働くのをやめていなかった。ただ、それまでは、一つの数字の後ろに隠れていた。その数字は、地面の下から掘り出してきたもののように見えた。
第四節の中央銀行の行動についても、いまなら、もう少し十全に言い表せる。
彼らは、この体制を信じていなかったのではない。毎日、使っていた。ただ、人が立てた物差しには、いつか人によって下ろされる日があると知っていた。その日が来る前に、金庫には、別のものも少し置いておく必要があると知っていたのである。
事実は、彼らが正しかったことを示した。しかも、十年あまりも前から、正しかったのだ。
これは、余項の性質についても、一つのことを教える。これまでの篇の余項は、たいてい押さえつけられる側にあった。声を出せず、証拠を差し出せず、あるいは、そもそも名簿に載っていなかった。今回の余項は、最も多くの資源を持つ人々の手にある。発言する力は十分あった。それでも、言わないことを選び、黙って金庫に備えを残した。余項は、つねに弱者のものである必要はない。誰であれ、この物差しの外に、別に残しておく備えがあるなら、それが余項になる。そして、別の備えを持てる人々こそ、この物差しがどう立てられたのかを、よりよく知っている。
それでも、物差しが消えたわけではない。土台を換え、測り続けている。世界には、依然として、共通の計算単位が要る。最後の決済を担う誰かが要る。毎朝、あらゆるものに値をつけなければならないことも、変わらない。
ただ、一九七一年八月のあの夜からは、この価格が、金属の重さから生まれたとは、もう誰にも言えない。一群の人々が、なおこの勘定を認め続ける気があるかどうか。価格は、そこから生まれている。
勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。
中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English