ブレトンウッズと1971年――金の覆いが剥がれ、信用が姿を現した日
金を共通分母としながらドルを頂点に置いた戦後通貨体制。その安定が生んだ矛盾と、金兌換停止が露わにした信用の階層を描く。
共同分母
1944年のIMF協定は、各通貨の平価を金または1944年7月1日のドルの重量と品位で表示すると定めた。だが普通の紙幣保有者が金を受け取る古典的金本位ではない。
金属の客観性は、主権判断、中央銀行協力、外交交渉に囲まれていた。金は制度を政治から切り離すのでなく、政治を日々見なくて済む覆いになった。
鑿構周期律で今回は、構自身が信用なしには立たないことを条文内で認め始める。金という物体は信用の代替でなく、信用を見えにくくする共通記号だった。
ケインズとホワイトの帳簿
1944年7月、44か国約730人が会議へ集まり、英国のケインズと米国のホワイトが異なる案を持ち込んだ。ケインズは国際清算同盟とバンコールを構想した。
赤字国だけに緊縮を課せば世界需要が縮むため、黒字国にも調整義務を負わせるのが狙いだった。帳簿の不均衡を一方の過失でなく両側の関係として扱う。
成立した制度はホワイト案に近いが、資本規制の許容などケインズの断片も残った。使われない条項は効果上存在しないに近くても、後世が再読できる記録として残る。
ドルを頂点にした階層
各国通貨はドルへ、ドルは一オンス35ドルで金へ結ばれた。国際決済の匿名性は、最終的に米国政府が外国当局へ金を渡す約束に依存した。
固定相場と資本規制は、為替安定と国内雇用政策を両立させた。戦前の金本位へ戻らず、共通尺度の中に国家の政策空間を残した点が重要である。
ドルと金が同じ答えを出す間、二つは同一に見えた。違う答えを出した時に初めて、金属でなく階層的な信用構造だったことが見える。
トリフィンの矛盾と二つの価格
世界が準備通貨を求めるほど米国はドル負債を海外へ出す。しかし負債が金保有を超えれば兌換への信頼が揺らぐ。1960年代半ばには外国公的ドル保有だけでも米国金保有を上回った。
ロンドン金市場の価格と公式35ドルの差を抑えるため金プールが作られたが、1968年には二重価格へ分かれた。公的尺度を使う当局自身が、別尺度を暗に残した。
ユーロダラー市場は規制の外で成長し、SDRは1969年に補完準備資産として創設された。規則が強いほど、同じドルが規則の届かない場所へ流れる誘因も強くなった。
一時停止が恒久化する
1971年8月15日、ニクソンはドルの金兌換を一時停止すると発表し、輸入課徴金も導入した。米国が調整圧力を自国から外へ押し返した措置でもある。
崩壊が必然だったか、米国が物価安定と政策協調を選べば続いたかは論争がある。通貨、冷戦同盟、軍事費、海外基地を別々に見ない説明も必要である。
金窓口が閉じても貨幣が無根拠になったのではない。根拠が経済力と国家の信頼へ公然と移った。覆いが切れ、以前から下にあった人格的・政治的信用が見えただけだった。
中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English