第十六篇 分配が生む飢饉:食糧はある。誰が食べられるかは、名簿が決める
アイルランド、ベンガル、中国の飢饉を、総食料不足だけでなく購入権、配給資格、行政順位から読む。冊子の外に置かれた人々の歴史である。
この篇の目次
一 食糧のある世界で
一九四五年、ベンガル飢饉を調べた政府の調査委員会は、報告書の結論に、こう記した。大カルカッタの住民には、飢餓で死んだ者が一人もいなかった。一方、農村では、数百万人が飢えに苦しんだ。
告発する側の言葉ではない。その飢饉を調べる任を負った機関が、自ら下した結論である。
同じ報告書には、さらに冷たい一文がある。一九四三年に飢えた階層は、一つしかなかった。農村のなかでも貧しい層である。裕福な人々も、大カルカッタの産業労働者も、飢えてはいなかった。
この二つの記述を隔てるのは、言葉の綾ではない。一本の線だ。線のこちら側では食べられ、向こう側では食べられない。その線を引いたのは、地理でも、気候でも、輸送能力でもなかった。決まりによって引かれた線である。
ふつうは別々に語られる三つの災厄を、ここで並べる。そこには、同じ一つの動きがあるからだ。
アイルランド大飢饉は、自由貿易を信奉する、十九世紀の帝国のなかで起きた。ベンガル飢饉は、二十世紀の植民地の戦時経済のなかで起きた。大躍進の飢饉は、計画経済と人民公社の体制のなかで起きた。三つの制度は、まるで違う。互いに敵対さえしていた。
それでも、この三つの災厄のいずれでも、食糧が物理的に世界から消えたわけではなかった。
価格の機械は回っていた。供出の機械も、配給の機械も回っていた。たいへんな勢いで回っていたものさえある。起きたのは、こういうことだった。一部の人々が、価格、賃金、法律に定められた配給、あるいは政治的な身分を通じて、その機械に加わる資格を奪われた。そうして、食糧のある世界で、餓死したのである。
この一文は、ゆっくり読みたい。ふつう思い浮かべる飢饉の姿とは、逆だからだ。飢饉と聞けば、天災を思う。雨が降らず、害虫が来て、畑に作物が実らなくなり、皆が一緒に飢える。だが、この三つの災厄は、そういう形をしていない。むしろ、一つの分配に似ている。同じ国に、同じ食糧がある。一部の人々は、いつもどおり食べられる。別の人々は、食べられない。そのあいだを隔てるのは、一組の決まりである。
ここまでの十五篇で、構が余項を扱う方法は、八つ現れた。もっと大きな構に、外から緩めてもらう。名前を変えて続ける。正確に測りながら、問わずにおく。費用へ織り込める金額に書き換える。学問の境界を一つ内側へ引く。帳簿の周りを回る軌道を与える。証拠の提示を求める。そして、余項自身の選択として分類し直す。
ここにあるのは、九つ目である。
帳簿に載せない。測れなかったのではない。測ったのに、見なかったのでもない。その人には、勘定に入れてもらえる身分がないのだ。
だから、ここでの余項は、最もむき出しの姿をしている。これまでの篇では、測られなかったものだった。正確に測っても見てもらえない一欄だった。学問の門の外へ追いやられた問題だった。人の関係に根を張り、書き留められない知識だった。それらは、まだ「もの」だった。ここでは、余項は人である。生きていて、いま飢えていて、一人ずつ名前を読み上げられる人々である。構は、その人々を小さくしたのでも、別の何かへ書き換えたのでもない。ただ、名簿に入れなかった。
本題に入る前に、一つ、はっきりさせておきたい。
これまでの十五篇を通じて、一つの決まりを守ってきた。構造を分析し、道徳の判決は下さない。競い合う解釈を並べ、読者に代わって裁定しない。第八篇では、その決まりが通用しないと、一度、明言した。ここが二度目になる。
ただし、通用しなくなる範囲を、はっきり区切らなければならない。そうしなければ、たいへん都合のよい道具になってしまう。
通用しなくなるのは、一点だけだ。食糧がある。別の道もある。すでに人が餓死し、それが目撃されてもいる。それでも、機械は回り続ける。この一点は、どの学術論争の決着を待たなくても、直接、言葉にできる。和らげる言葉も要らない。
なお守るべき範囲は、広い。輸出を止めていれば、本当に足りたのか。供給は、実際にはどれほど減ったのか。どの因果の鎖が、最も太かったのか。何人が死んだのか。特定の一人を、名指しすべきなのか。これらには、いまも定説がない。この先で、一つずつ並べる。ここで決着をつけることもしない。
この二つは、矛盾しない。道徳の言葉で、起きたことを名指せるのは、まさに、決着していない事柄に頼らずに済むからである。
もう一つ、理由がある。すべての論争が決着するまで口にできない判断なら、永遠に口にできない。この種の論争には、決着がつかないからだ。そして、待ち続けるその年月のあいだ、利用できるものとして差し出されるのは、沈黙だけになる。
二 市場への影響を、最小限に
一八四五年の秋、ジャガイモ疫病が、初めてアイルランドを激しく襲った。一八四六年には、被害がさらに重くなる。同じ年、ピール政権による限定的な介入は終わり、新たに発足したホイッグ党政権は、いっそう徹底して市場に委ねる方針へ転じた。
災厄の物質的な出発点が、病害だったことは確かだ。飢饉の前には、人口のおよそ三分の一が、主食としてジャガイモに大きく頼っていた。だが、一八四六年、一八四七年になると、誰が生き残れるかを決めたのは、芋がどれだけ腐ったかだけではなくなる。ほかの食べ物が、どのように商品として運び出され続けるのか。どんな値がつくのか。誰の手に現金があり、誰に救済を受ける資格があるのか。そのことが、命を分けるようになった。
財務省で救済を主管していた官僚は、トレヴェリアンという。のちに、この危機について一冊の本を書いた。政府が初めにアメリカからトウモロコシを買い付けた目的を振り返り、彼自身の言葉で、こう述べている。民間の取引と市場価格への影響を最小限に抑えながら、不足を埋めるためだった、と。
後世の批判者が、彼に代わって要約したのではない。本人が書いた。しかも、記録に残すべき原則として、書いたのである。
この言葉の重みを見るには、二つのものが、同じ天秤に載せられていることに注意しなければならない。一方には、数百万人が食べるための糧がある。もう一方には、民間の取引と市場価格を乱さずにおくことがある。同じ天秤に載せるとは、互いに換算できるということだ。譲り合うことができ、どちらを多く、どちらを少なくするか、相談できるということだ。そして、換算が可能になれば、その後に何が起きても、不思議ではなくなる。
一八四六年十二月、スキバリーンの惨状が、ロンドンへ伝わった。そのときトレヴェリアンは、政府が海外へ食糧を買い付けに出てはならないと主張した。商人と競合し、彼らの計算をすべて狂わせてしまうからだ。こんな言葉も残している。アイルランド人のような大きな人口を、外国に養ってもらうなど、聞いたことがない、と。
この二つの言葉の背後には、きわめて具体的な仕組みがある。貧しい人を生かすにも、まず直接、食べさせてはならない。先に、貨幣で物を買える人へ変えなければならない。そして、国家が自ら食糧を買い始めれば、商人を市場から押し出してしまう。
この推論は、それ自身の論理のなかでは完結している。支える理由も、容易に挙げられる。政府が大口の買い手になれば、民間の商人は仕入れをためらう。商人が仕入れなければ、来年の供給は、いっそう見通せなくなる。短期には人を救えても、長期には、もっと多くの人を餓死させる。この議論は、当時、真剣に信じられていた。今日も、そのいくつかの形を、真剣に信じる人がいる。問題は、議論そのものが成り立つかどうかではない。それが、どの問いへの答えとして使われたかである。いま、この人々に食べ物を与えるべきか。その問いだった。
こうして救済は、できるかぎり、賃金の問題へ書き換えられた。
一八四六年から一八四七年にかけて、大規模な公共事業が、数十万人を、道路、石垣、堤防、橋の工事現場へ駆り立てた。一八四七年三月には、現場で賃金を受け取る人は、七十万人を超えた。家族も合わせれば、この仕組みは、三百万人以上の暮らしを支えていた。
帳面の上では、相当な規模の動員である。
問題は、賃金を払ったかどうかではなかった。一家が食べるのに必要な量で支給するのではなく、現金で払ったことにある。賃金額は、食糧価格に連動していなかった。しかも、支払いはしばしば遅れた。
結果は、トレヴェリアン自身が、その本に書いている。その賃金は、アイルランドの農業労働者が以前に得ていた額より高かった。それでも、当時の食糧価格では、一家を養うには足りなかったと認めている。さらに、公共事業の現場の周囲では、救済の工事が進むかたわらで、毎日、餓死者が出ていたとも記した。
この一文が、この節の重心になる。重みがあるのは、何かを暴いたからではない。何一つ、暴いてはいないからだ。
人々はすでに、貨幣と賃金という共通の物差しに組み込まれていた。数字は、そろっている。工事現場も、人数も、賃金も、記録にある。そして、その物差し自体では人々の命をつなげないということも、同じく記録にある。主管する本人が、書き残していた。
ここに、きわめて特異な失敗が現れる。見えなかったのではない。計算を間違えたのでも、知らせが遅すぎたのでもない。見ていた。計算できていた。書き残していた。それでも、同じやり方を続けた。ここで構が抱えたのは、情報の問題ではない。自らを変えようとしない、という問題だった。
一八四六年十月、トレヴェリアンは、ある貴族に宛てた私信に、こう書いた。アイルランド社会の悪弊には、すべてを見通す摂理の直接の一撃によって、すでに治療が施された、と。
この言葉に、形容詞を添える必要はない。何をした言葉なのかを見ればよい。
いま進んでいる死の過程を、いま成就しつつある目的として、語り直したのである。起きていることに目的を与えさえすれば、それは、止めるべきものから、遂げるべきものへ変わる。
三 四千隻の船
飢饉のさなかにも、アイルランドから食べ物が運び出され続けた。このことをめぐる論争は、百年以上続いている。その論争の形自体にも、目を留めておきたい。
この時代を専門とする一人の歴史家は、繰り返し指摘している。議論は長いあいだ、狭すぎる一問に押し縮められてきた。穀物は、結局、輸出超過だったのか、輸入超過だったのか。問いをそう立てたとたん、ほかの食べ物も外へ流れていたという事実が、見えなくなる。
彼女が港の記録から示した数字は、こうである。一八四七年の一年だけで、四千隻近くの船が、アイルランドから、ブリストル、グラスゴー、リヴァプール、ロンドンなど、イギリスの主要港へ食べ物を運んだ。一八四六年から一八五〇年までに、生きたまま輸出された家畜は、三百万頭を超える。一八四七年にイギリスへ送られた子牛だけでも、九千九百九十二頭に上った。同じ年の初めの九か月には、大量のバター、魚、卵、ウイスキー、穀物を原料とするアルコールが、なお輸出されていた。
これらをすべて引き留めれば、必ず全員を救えた。彼女が言いたいのは、そういうことではない。飢饉のあいだも、アイルランドは、商業的な農業生産地、食料の輸出地としての働きを、止めていなかった。そのことを言っている。
この区別は、しっかり押さえる必要がある。どの次元で争うかが、ここで決まるからだ。輸出を差し止めれば、全員を救えたのか、と問えば、答えはおそらく、できなかった、になる。そして、その「できなかった」が、ほかの問いまで一緒に閉じてしまう。飢饉のさなかにも、この土地は、いつもどおり輸出地の役割を果たしていたのか、と問えば、答えは、果たしていた、である。しかも、港の記録が残っている。
差し止めた量で足りたのかどうかについては、歴史学界は長く分かれ、いまも一つの結論に至っていない。
彼女自身は、一八四六年から一八四七年までに運び出された量で、二百万人を十六か月、食べさせられたと考えている。別の研究の流れは、外へ運ばれた穀物をすべて引き留めても、ジャガイモの壊滅による巨大な不足は埋められなかった、とする。しかも、一八四七年以後、穀物の差し引きの流れは、すでにアイルランドへ入る向きに変わっていたという。
近年の研究動向をまとめた論考は、かなり的確に整理している。現在の主流は、後者に近い。ただし、政府の対応をイデオロギーが支配していたことは、ほぼ誰も否定しない。
この二つは、分けて覚えておきたい。量が足りたかどうかには、論争がある。自由放任の信条が、人命を優先することに勝った。その点の隔たりは、もっと小さい。
救済の側にも、一つ、別に取り出しておくべき規定がある。
当時の四分の一エーカー条項では、四分の一エーカー以上の土地を持つ人は、土地を手放さなければ、救済を受けるのが難しかった。
平たく言えば、まず、小農である自分を、何一つ持たない人間へ変えなければ、救済の仕組みに入る資格は得られない。
この条項は、二つのものを縫い合わせた。土地は身分であり、救済は金と食糧である。そして、後者を受け取るには、先に前者を差し出せと求めた。今年の冬を生き延びるために、来年の春、畑を耕す可能性を手放さなければならない。見落としではない。条文は明確で、狙いも隠されていない。救済は、小規模な土地保有を存続させる補助金であってはならない、というものだった。第十三篇で見た囲い込みは、土地を一画ずつ奪っていくものだった。ここでは、本人に差し出させる。飢えているのだから、という理由で。
匿名の貨幣や価格が、人に結びついた身分の秩序に、本当に取って代わったわけではない。両者は、重なって働いていた。先に身分で分類し、そのあとで、現金に応じて、買える量を決めるのである。
別の道が、初めからなかったわけではない。
一八四七年の春から夏にかけて、公共事業が打ち切られたあと、臨時の炊き出し制度が設けられた。最盛期には、毎日およそ三百万人に食事を出した。死亡も、それに伴って減ったように見える。
だが、この制度は、設計された初日から、短期的で、例外的で、いつでも撤回できるものだった。そして、のちに実際に撤回された。
市場と土地所有をめぐる論理の全体を迂回し、人の口へ直接、食べ物を届けたのは、しばしば民間の慈善と、人々のつながりだった。
クエーカー教徒たちは、コークなどに大鍋を据え、毎日スープを煮た。英国救済協会は、大勢の子どもに、長期にわたって無料の食糧を支給した。関連する研究によれば、一八四六年末から一八四八年にかけて、多くの土地で、民間のつながりは、国家よりも早く被害をつかみ、早く炊き出し所を開いた。市場が正常に戻るのを待つよりも、食べ物を、差し迫った命をつなぐものとして直接、扱おうとした。
価格の機械が働かなくなったとき。あるいは、誰にも邪魔されずに回れるよう、意図して守られていたとき。人々をもう一度、勘定に入れたのは、しばしば、匿名ではなく、名を明かした人々が、信用と評判を頼りに結ぶ、もう一方の連なりだった。
四 飢えた階層は、一つだけだった
一九四二年、ベンガルでは、いくつもの衝撃が、続けざまに重なった。
ビルマが陥落し、米の流入が断たれた。十月には、ベンガル南西部を、サイクロン、高潮、洪水、いもち病が襲った。州境を越える取引の障壁も、強まっていた。同時に、植民地当局は、日本軍の上陸を防ぐため、いわゆる拒否政策を実施した。沿岸や内陸の水路で使われる船を規制し、あるいは破壊した。一部の地域では、米の保有量も制限した。
のちに調査委員会は、この政策の対象地域で、多数の大型船が徴用され、あるいは破壊されたと記した。船の規制が、一九四三年の夏になるまで、食糧の流通を妨げ続けたことも認めている。
市場が、まったく働いていなかったのではない。戦時下の国家が、従来の輸送網を壊しながら、その一方で、市場には、分配の役割を引き続き担えと求めていたのである。
この組み合わせは、一度、取り出して見ておきたい。国家が手を出したのは、輸送であり、船であり、徴用し、破壊できる実物だった。手を出さなかったのは、価格と分配である。それらは市場に任せた。同じ権力が、ある事柄では決定権を振るい、別の事柄では介入しない。そして、介入を選んだ側は、食糧が人の口元まで届く、その道筋にほかならなかった。
一九四三年三月、当局は規制の解除へ転じた。五月に自由な取引が再開すると、カルカッタの市場は、再び州全体の価格を動かす中心になった。その年の半ばには、米価は一九四二年初めの五倍から六倍に達していた。
委員会の分析には、きわめて重要な一節がある。
カルカッタへ入った大量の米は、依然として民間商人の手中にあり、彼らは、値上がりを待ってため込むことができた。政府の統制がないなか、カルカッタの購買力が、ベンガル全体の価格の動きを決めたのである。都市は繁栄し、大きな購買力を持っていた。軍需産業、鉄道、軍や行政の機関、そして優先階層と呼ばれる人々は、補助を受け、あるいは優先的に供給を受けていた。そのためカルカッタは、農村の貧しい人々には、とても追いつけない米価を払うことができた。
価格の機械は、止まっていなかった。それどころか、異様なほど力強く動いていた。
ただし、仕えていた相手は、国家と戦争によって、すでに優先すると決められた買い手たちだった。
ここでの「優先」は、修辞ではない。行政の用語である。具体的な名簿を指している。どの産業、どの機関、どの人々が、補助された価格で、あるいはほかに先んじて、食糧を受け取れるかが書かれている。名簿は、人が作った。作る理由もあり、しかも、その理由は、当時、十分に説得力を持っていた。戦争は続けなければならない。工場は動かさなければならない。鉄道は通さなければならない。都市を混乱させてはならない。どれも、筋が通っている。そして、名簿ができたとたん、そこに載らない人々にも、共通の身分が生まれる。「名簿に載っていない」という身分だ。
名簿に載っていない。それは、ただの記述ではない。一つの身分であり、実際に効力を持つ身分である。どんな値で食糧を買うかを決める。買えるかどうかを決める。誰の後ろに並ぶかを決める。本人は、そんな名簿の存在を、まるで知らないかもしれない。それでも、名簿はすでに、その人が今年の冬をどう過ごすか、代わりに決めている。
こうして、冒頭に引いた二つの言葉へ至る。同じ州のなかでも、食糧の不足は一様ではなかった。誰が食糧を得られるかは、身分、職業、場所、政治上の優先順位に応じて、幾層にも分け直されていたのである。
当局の市場への対応は、揺れ続けた。価格を制限したかと思えば、闇市場を黙認する。一時は買い付けの統制を考えながら、一九四三年三月には、また放棄する。カルカッタで配給が実際に始まったのは、一九四四年一月三十一日になってからだった。最悪の死亡の山は、すでに一九四三年の後半に訪れていた。
この二つの時期を、並べてみたい。配給の開始は、一九四四年一月三十一日。死亡が頂点に達したのは、一九四三年後半。およそ半年、隔たっている。のちに有効だとわかった方法が、半年、遅れて届いた。そして、その半年を奪ったのは、別の用事ではなかった。価格を統制し、統制を解き、また統制する、その往復のなかで費やされたのである。
委員会自身の結論は、こうだった。政府がもっと早くカルカッタへの供給を管理し、配給を始めていれば、価格上昇があのように州全体を襲うことは、なかったはずだ。
今日読んでも胸に刺さる言葉を、もう一つ残している。当時、食糧は十分にあると宣伝したのは、きわめて賢明さを欠いていた。むしろ、国民にこう伝えるべきだった。確かに、不足はある、と。
この一文が、ここまでにはなかったものを、一つ加える。
計測も、統計も、公の発表も、中立ではない。当局が何を公言するかは、食糧のため込み、パニック、価格の行方に、直接作用する。構の発表は、それ自体が一つの投入物になる。自ら描写する出来事のなかへ入り込み、その出来事を変えてしまう。
五 誰を、名指しするのか
ベンガルをめぐっては、いまも決着していない論争が、二組ある。ここで決着をつけるより、そのまま並べるほうが役に立つ。
第一は、誰に責任を帰すべきかという論争だ。
公式の電報によれば、一九四四年四月、チャーチル自身が、ローズヴェルトへ宛てた電文のなかで、前年、ベンガルの深刻な飢饉で少なくとも七十万人が亡くなったと認めている。そして、インドの食糧問題について、引き続き援助を求めていた。
その責任をどう見るかについて、歴史学界の見解は一致しない。一方の研究は、ロンドンが戦時下で何を優先したか、船舶の割り当て、金融と価格の政策、帝国内部の人種的な序列を、より重く見る。もう一方は、自然災害、行政の混乱、ロンドンの決定、市場の機能不全を、すべて容疑者の一覧に載せて検討すべきだとする。戦時の供出と不作も同じく重要で、すべてを一人へ帰すのは、単純化しすぎると指摘する。
つまり、主因として彼一人を名指しすべきかどうか。それ自体が、まさに論争の一部なのである。ここでは裁定しない。
裁定しないことは、回避ではない。一人の名を特に挙げるべきかどうかと、この出来事に責任を負う者がいるかどうかは、違う問いだ。前者には、決着がついていない。後者には、ついている。委員会自身が、もっと早く配給していれば、価格上昇の波及は防げたと記した。その一文には、すでに責任を負う主体が含まれている。
第二の論争は、理論についてのものである。この先に述べるすべてのことの、方法上の背景にもなる。
一九八一年、アマルティア・センは、その後、繰り返し用いられることになる見解を示した。飢饉は、食糧の利用可能量がまずまず、あるいは十分にある状況でも、しばしば起こる。鍵となるのは総量ではなく、人が、法律と社会の認める方法で、食糧を自分のものにできるかどうかだ。この能力を、彼は権原、エンタイトルメントと呼んだ。とりわけ重視したのは、交換権原である。手元の労働力、土地、家畜、貨幣、物品を、定められた価格と決まりのもとで、どれだけの食糧に換えられるかをいう。農村の雇われ労働者の賃金が米価に追いつかないのは、この権原が崩れるということだった。
反論は、早く、しかも激しかった。
一九八六年、ある批判者は、正面から書いた。この理論は、誤った診断と誤った対策を招く。とりわけベンガルについての分析は、信頼できず、不正確な統計に依拠している。セン自身が使ったデータさえ、彼の主張と矛盾する、と。センも同じ年に反撃した。相手の論文には、概念の混乱、経験的事実の誤った記述、系統的な歪曲が満ちている、と。この応酬に限って言えば、双方とも相手を説得できなかった。その後も、本当の和解には至っていない。
別の研究者は、一九四二年の不作が、大幅に過小評価されてきたと主張する。供給の側こそ、なお中心にあるという。センの反論は、次の点を譲らなかった。委員会の修正済みのデータによれば、一九四三年の一人当たり利用可能供給量は、一九四一年を下回っていない。飢饉を本当に説明するのは、戦争による需要、価格の急騰、そして不平等な購買力である。さらに別の研究者は、両極のあいだに立つ。不作、戦時の供出、行政の混乱、市場の機能不全を、一緒に見なければならない、と。
一九九三年に、たいへん有用な区別を示した人がいる。権原という方法には、二つの読み方がある。一つは、食糧の利用可能量の減少を、直接否定するものとして読む。もう一つは、利用可能量の減少が飢饉を招くことは、もちろんありうると考える。ただし、その作用は、しばしば、価格、雇用、賃金、交換条件を悪化させることを通じて現れる、と読む。後者に従えば、権原は、分析を組み立てる枠組みに近い。総量は重要でない、と宣言するものではない。
批判は、供給の側からだけ来たわけでもない。アフリカの飢饉を調べた学者は、二つのことを指摘した。飢饉のさなか、人はときに、生計の頼りとなる資産を売るくらいなら、食べる量を減らし、飢えに耐えるほうを選ぶ。自ら食事を切り詰めるこの行為は、単純な関数へ収めにくい。また、多くの飢饉では、主な死因は、純粋な飢餓ではなく、疾病の流行だった。のちに、こうした疑問は四つに整理された。自ら飢えを忍ぶこと。死の主因が病気であること。権利の境界が曖昧なこと。そして、法律の定める規則に収まらない、膨大な非公式の移転があることだ。
これらを合わせれば、どちらにも偏らない要約ができる。あの枠組みは、なぜ食糧を買えないかを説明することには強い。だが、なぜ最後に死に至るのかを、余すところなく説明できるとは限らない。
四十年たっても決着しない、この論争そのものの形にも、目を留めておきたい。
一方は総量を問い、もう一方は分配を問う。そして、双方が認めている事柄は、まさに論争の焦点になっていない。世界に食糧がある以上、仕組みのために一部の人が食糧を得られなくなることは、ありえない。そう主張した参加者は、一人もいない。この可能性は、双方とも認めている。そこから先、追う方向が違うだけだ。
そして、双方が認めているその層こそ、ここで足を置きたい場所なのである。学術論争には、一つの性質がある。意見の分かれる場所へ、つねに進んでいく。そこでこそ、論文が書けるからだ。長く進むうちに、共通の理解があった層には、誰も触れなくなる。触れる必要がないかのようになる。だが、名簿の外に立っている人にとって、大切なのは、いつでも、その層だった。
六 多く作った土地で、多く死んだ
一九五八年、大躍進と人民公社化が、同時に始まった。共同食堂、水増しされた生産量、国家への集中的な供出、都市へ偏った分配が、一緒に進められた。
この飢饉が、容易に既存の説明へ収まらないのは、市場から大幅に脱したと自称する体制のなかで、起きたからである。
だが、それによって価格と計算が消えたわけではない。むしろ、姿を変えて、さらに深く社会へ入り込んだ。計画の数値目標、供出の比率、都市の食糧割り当て、輸出のノルマ、行政の目標となって。
ある研究グループは生産、供出、人口を推計し直し、二つのことを見いだした。
第一に、一九五九年の農村で、平均して利用可能だった食糧の量は、なお、高い死亡率を避けるために必要な最低量の、三倍近くあった。
第二に、飢饉の続いた数年間、死亡率と、一人当たり食糧生産量のあいだには、驚くことに、正の相関があった。
第二の点は、ゆっくり読まなければならない。生産量の多い地域は、より安全だったどころか、かえって、より多くの人が死ぬ傾向にあった、という意味だ。
原因は、供出量を決める計算にあった。割り当ては、すでに定められた目標と、過去の生産量を基準にして下ろされる。多く作る土地ほど、基準は高くなり、取り上げられる割合も高くなる。研究者たちは、これをもとに、この供出の仕組みが、飢饉による死者全体の三十二から四十三パーセントを説明すると推計した。
これは、構に広く当てはまる仕組みであり、ほかの場所でも、すでに見たものだ。過去の実績に応じて仕事を割り当てる構は、必ず、よくできた側に罰を与える。ふつう、その罰は、もっと働くこと、もっと金を納めること、もっと多くの数値目標を背負うこととして現れる。ここでは、罰の形が、死だった。
そこから、さらに痛ましい推論が導かれる。供出の基準が過去の生産量なら、生産量を偽って多く報告した土地ほど、基準が高くなり、もっと取り上げられる。そして、当時の虚偽報告は、広く行われ、奨励され、ときには要求さえされていた。誇張された数字が、まず帳簿に入る。その数字が、帳簿を出るときには、本当に運び去られる食糧になる。帳簿の数字と畑の食糧は、もともと違うものだ。だが供出は、前者を、後者があることの証拠として扱った。
制度と身分の結びつきも、ここで最も直接的に現れる。
ある研究は、中国のこの飢饉を、二つの説明が重なる事例として描いた。都市の配給制度は、都市住民に、食糧を得る法定の権利を与える。一方、農村が食糧を受け取れるのは、国家への供出を終えたあとであり、残った分だけである。のちの都市と農村の分断をめぐる研究は、もっと率直に述べている。都市住民には、最低限の食糧が保証されていた。農村住民に権利があるのは、供出後の残りだけだった。
この事例で人を排除したのは、価格ではない。法定の身分と、行政が定めた、食糧を受け取る順序だった。
輸出も、避けて通れない一本の線である。県単位のデータを使ったある研究者の推計では、一九五七年から一九五九年のあいだに、中国の食糧輸出は、百九十万トンから四百十万トンへ増えた。大躍進期全体の輸出は、およそ九百六十万トンだった。その著者は、輸出による衝撃が、超過死亡のおよそ十五パーセントを説明すると考えている。さらに、輸出向けの供出は、いったん行われると、国内の都市で消費するための供出よりも、被災地へ戻しにくいと注意を促す。食糧は、すでに国境の外へ出ているからだ。
この一点は、アイルランドの出来事と、寒々しく響き合う。飢饉のさなかに外へ運び出すことは、単なる輸送の問題ではない。優先順位を、動かしがたい形で組み込むことなのである。
学界に、この飢饉を説明する道が、一つしか残っていないという意味ではない。
よく知られた別の説明は、人民公社の共同食堂が、消費の効率を損なったと考える。所有権の区分が取り払われ、食べ物が無料で提供される。深刻な不足に先立って、浪費と過剰消費が起こり、かろうじて供給が足りていた状況を、災厄へ変えたという。責任のすべてを、最高指導部へ、一直線に帰すことを批判する研究者もいる。四川などでは、地方での実施の違い、天候、そして省ごとの大きな隔たりが、なお、かなり重要だったと強調する。
死者数の推計は、研究者によって、千六百五十万人から四千五百万人まで開いている。この幅そのものを、そのまま示しておきたい。そのなかの一つの数は、選ばない。
ただし、当時の発言を見れば、最高指導部が、末端で何が起きているかを、まったく知らなかったわけではない。
公文書を調べた研究によれば、一九五八年の晩秋、毛沢東は、すでに、大躍進での極端なやり方を厳しく批判していた。農民を過度に働かせ、食事も寝泊まりの場も十分に与えず、疫病と餓死を招いたことだ。一九五九年七月の廬山会議では、彭徳懐が私的に書簡を差し出し、成果を誇張する風潮や、極端なやり方を批判した。だが、会議のあと、右派を排撃する圧力は、かえって強まった。同じ会議の演説で、毛沢東は、一部の幹部が、生産隊から肥えた豚や白菜を持ち去ったのは誤りだとも認めていた。そして、その行為を、等価交換の原則に反するものとして述べていた。
これらの史料を合わせると、きわめて具体的なことがわかる。指導部は、食糧が上へ吸い上げられていることを、知らなかったのではない。末端の食堂では食いつなげないことを、知らなかったのではない。幹部が生産隊の財物を横領していることを、知らなかったのではない。異常は見えていた。それでも、被害を食い止める制度上の手当てには、速やかにつながらなかった。
一九六一年、飢饉を終わらせた方法は、きわめて単純だった。中央が、大規模に食糧を農村へ戻し始めた。およそ三千万トンの在庫を使い、中国を食糧の純輸出国から、純輸入国へ転じさせた。
機械は、止められなかったのではない。逆に回せなかったのでもない。のちに、実際に逆へ回された。
問題は、逆転が遅すぎたことにある。その前の三年間に、機械はすでに、多くの人々を、生きる資格のある者の名簿から、消し去っていた。
七 つながりが、人を救う
三つの事例を重ねて読むと、二つ目の共通点が見える。最初の共通点ほどには、語られていない。
完全に匿名に見える分配の仕組みも、最後には、人の顔が見える、関係を通じた経路で、綻びを繕わなければならない。そして、その繕い方は、一度として平等ではない。
アイルランドでは、クエーカー教徒、英国救済協会、地方の委員会、そして信頼できる目撃者たちのつながりが、本来、国家の優先順位には入っていなかった大勢の人を救った。方法は、単純だった。土地があるかどうかは、問わない。金を払えるかどうかも、問わない。鍋を据え、スープを煮て、来た人に渡す。
その「問わない」ことこそ、当局の方法では、最も厳密に問われたことだった。土地があるかどうかで、救済を受けられるかが決まる。金を払えるかどうかで、食糧を買えるかが決まる。二つの問いをともに手放すと、人を救う効率は、たちまち上がった。慈善のほうが制度より優れている、という話ではない。慈善の届く範囲は、はるかに狭い。不安定でもあり、配り尽くせば、なくなる。ここではっきり見えるのは、一つだけだ。あの二つの問いを問う理由は、人を救うためではなかった。別のもののためだった。
ベンガルでは、優先階層という身分が、政治に組み込まれた関係だった。抽象的な市場主体としての資格ではない。補助と優先供給を受けたのは、軍需産業、鉄道、軍や行政の機関である。誰を優先と数えるかは、人が決めた。価格が決めたのではない。
つまり、価格がすべてを決めているように見える場所でも、その背後には、なお一冊の名簿がある。市場は、購買力に応じて配分する。その購買力は、補助と優先供給によって配分されている。一つ上流へたどれば、匿名の仕組みの下には、必ず、匿名ではない決定がある。
最も考えさせられるのは、中国の事例だ。ある研究によれば、地元出身の地方官は、外から来た地方官よりも、供出に余地を残し、救済に多くを投じる傾向があった。その結果、管轄地域の死亡率を、明らかに引き下げていた。
三つの場所で、形はまるで違う。それでも、同じことを指している。貨幣も、価格も、供出も、計画も、人々の関係を消し去ってはいない。これらの体制が、最も冷たくなったときに、その関係は再び姿を現す。そして、誰が生き、誰が死ぬかに、直接かかわる。
だが、この言葉には、もう半分がある。そちらも、一緒に書かなければならない。
つながりに頼って生き延びることは、不平等な生存である。
誰かを知っていなければならない。あるいは、たまたま、地元出身の官が治める土地に住んでいる。あるいは、たまたま、炊き出しの鍋まで歩ける距離にいる。これらの条件は、どれも偶然であり、その人が、どれほど助けを必要としているかとは、関係がない。
もっと大切なのは、こうしたものに頼らなければ生きられないとき、誰も等しく扱うと称していた仕組みは、すでに用をなさなくなっている、ということだ。人のつながりが顔を出すのは、制度が穴を埋めているからではない。制度が、もうそこにないからである。
ここまでの十五篇をたどってきた一本の線が、ここでつながる。匿名の物差しと、人に根ざした信頼は、一方が他方に取って代わるものではなかった。ずっと絡み合っていた。そして、あの最も冷たい数年間、働けるものとして残ったのは、後者だけだった。その届く範囲は、狭い。手の届く人しか救えないほど、狭かった。
もう少し、正確に言わなければならない。人の顔がある側は、予備の手段ではない。ずっと動いていた。ただ、ふだんは、匿名の側に覆われ、見えなかったのである。飢饉の年に起きたのは、それが動き始めたことではない。覆っていた層が崩れ、姿を現したことだった。姿を現すと、人を救う。同時に、人を選ぶ。それは初めから、自分の知る人々だけを相手にしているからだ。
だから、第一篇で述べた、もっと古い世界を、もっとよい世界だったと読んではならない。そこでも、人は選ばれていた。選ぶ決まりが違っただけだ。ここで言いたいのは、一つである。最も冷たい数年間、人をもう一度、勘定に入れたのは、誰に対しても同じだと称する物差しではないことが多かった。何人かの具体的な人々が、別の何人かの具体的な人々を、知っていたということだった。
もう一つ、ここで書いておかなければならない。すべての史料のなかで、最も動かしがたい部分だからだ。
三つの事例のどこでも、別の道は、目の前にあった。
一八四七年、アイルランドの炊き出しの網は、最盛期には、一日三百万人を食べさせていた。ベンガルの調査委員会は、事後、明確に記している。もっと早くカルカッタへの供給を統制し、配給を実施していれば、価格上昇が州全体へ広がるのを、防げたはずだ。中国では、一九六一年、在庫を戻し、輸入へ転じると、飢饉は終わった。
三つの場所の別の道は、後世の人が想像したものではない。当時、すでに存在していた。なかには、しばらく実際に使われたあとで、引っ込められたものさえあった。
だから、ここで最も言ってはならない言葉は、これである。当時の条件では、ほかに選びようがなかった。
そして、機械は止められた、ということこそ、道徳の言葉で名指すための、技術上の前提になる。止められない機械が、人を轢いていく。それは、災厄だ。止められるのに止めなかった機械が、人を轢いていく。それは、別のものである。
八 名簿の外で
これで、言葉を最後まで言える。
三つの飢饉には、食糧があった。別の道があった。すでに人が餓死し、それが目撃されてもいた。それでも、機械は回り続けた。
この三点は、推論ではない。記録である。
アイルランドの官僚は、あの賃金では、当時の食糧価格で一家を養えないと、自分で書いた。工事現場の周囲では、毎日、人が餓死しているとも書いた。ベンガルの政府調査委員会は、大カルカッタでは一人も飢餓で死んでいないのに、農村では数百万人が飢えに苦しんでいると、自ら書いた。もっと早く配給していれば、価格上昇が州全体を襲うのを防げたとも書いた。中国の最高指導部は、末端で何が起きているかを、自分たちで会議の場で語った。幹部が、生産隊から何を持ち去っていたかも語った。
三つの場所すべてで、見ていた人がいた。三つの場所すべてで、書き残した人がいた。三つの場所すべてで、機械は回り続けた。
回り続けた、とはどういう意味か。はっきりさせておきたい。誰も何もしなかった、という意味ではない。アイルランドでは公共事業を行い、のちには炊き出し所も設けた。ベンガルでは、最後には配給を実施した。中国では、最後には在庫を戻した。何かは、ずっと行われていた。回り続けた、とは、別のことを指す。そうした対策を進めるあいだも、食糧はいつもどおり取り立て、輸出はいつもどおり行い、優先順位はいつもどおりつけた。その三つこそ、人々を外に締め出していた三つだった。多くのことをしながら、いま人を締め出している、その動きだけは、止めなかったのである。
人を、勘定に入れることも、外すこともできる単位として扱う。外したあとも、いつもどおり食糧を取り立て、輸出し、優先順位に従って供給する。このことは、直接、言葉にしなければならない。和らげる言葉を挟む必要はない。どの論争の決着を待つ必要もない。
そして、それらの論争には、なお決着がつかない。ここで代わりにつけることもしない。これまでの節で並べた見解の違いは、今日まで、一組も解消していない。裁定せずに、上の言葉と並べておくことは、名指す力を弱めることではない。むしろ逆だ。どちらかの学派が勝って初めて成り立つ判断は、それだけでは立てない判断である。名指しが確かなものであるためには、双方とも否定しない層に、土台を置かなければならない。
枠組みに戻って、最後にもう一つある。
三つの飢饉で、人を排除した技術的な形は、まるで違った。一つは市場の購買力により、一つは政治上の優先順位により、一つは法定の身分と、行政が定める食糧の順序によった。一つは自由貿易を掲げる帝国のなかで、一つは植民地の戦時経済のなかで、一つは計画経済のなかで起きた。
それでも、結果は、まったく同じだった。
排除は、ある一つの制度だけが抱える欠陥ではない。人を、清算できる単位にするという行為そのものに、伴って生じる。物差しを立てれば、そこには必ず、ゼロの目盛りができる。そして、そのゼロの場所に立っているのは、生きた人間である。
物差しを作ることに反対したいのではない。ここまでの十五篇で、何度も述べた。物差しは、多くのことを成し遂げてきた。その成果は、ほかの方法では代えられない。言いたいのは、一点だけだ。物差しを作った者には、ゼロの場所を、ずっと見続ける義務がある。その場所は、自分では声を上げないからだ。帳簿には空白として現れる。そして空白は、帳簿のなかで、最も目を引かないものだ。ほかの篇では、余項は、少なくとも跡を残していた。清算できない古い勘定。暗がりにある物差し。差し出せない証拠。ここでは、跡さえ残さない。残るのは、空白である。
九つ目の方法は、九つのなかで、最も手間がかからない。前の八つは、手を動かさなければならなかった。緩める。名前を変える。問わずにおく。換算する。境界を狭める。軌道を与える。証拠を求める。分類し直す。九つ目は、何もしなくてよい。名簿を作るとき、その人を入れなければ、そのあとのすべては、ひとりでに起こる。
帳尻を合わせるいちばん速い方法は、すべての項目を正しく計算することではない。どの項目を数えるか、先に決めることである。
どの帳簿にも、これは当てはまる。救済の帳簿には、とりわけ当てはまる。救済の勘定は、その一度きりであり、数か月のうちに決めなければならない。ゆっくり補う時間はない。一度、形が決まれば、その形のまま実行されていく。そして、実行の結果は、元には戻せない。
アイルランドの救済名簿には、四分の一エーカーの土地を持つ者は入れない。ベンガルの優先名簿には、農村の雇われ労働者が載っていない。中国の食糧配給表では、農村が受け取るのは、供出後に残った分だけである。三冊の名簿は、作り方がまるで違う。それでも、三冊とも、その外には、人が立っている。
名簿の外にいる人も、載っていないからといって、食べなくてよくなるわけではない。ただ、名簿の外で死んだのである。
そして、飢饉が過ぎ去るたびに、名簿は作り直され、いくつかの欄が加わる。加えたあとは、名簿がいっそう整う。届く範囲は広がり、統計は細かくなる。
それでも、名簿の外には、人が立っている。
勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。
中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English