第十五篇 大恐慌とケインズ:需給は、ひとりでには釣り合わない
産出と物価が崩れても大量失業が消えなかった1930年代。ケインズは個々の合理性が全体の停滞を作る仕組みを、有効需要から組み直した。
一 十五か月
一九三〇年の秋、アメリカ経済は、ようやく持ち直そうとしているように見えた。
後世の人が楽観的に振り返って、そう見たのではない。当時の数字で裏づけられる見通しだった。それまでの何度かの景気収縮は、平均すると十五か月続いていた。一九二九年八月の頂点から数えれば、今回も、その秋でちょうど十五か月になる。曲線は、そろそろ上を向くはずだった。
この細部は、覚えておきたい。その後に起こるすべての論争の形を、これが決めたからだ。もし一九三〇年の秋、本当にあの線が上を向いていたなら、いまの経済学の教科書は、まったく違う姿になっていただろう。ケインズも、気の利いた小冊子を何冊か書いたイギリスの官僚として、記憶されるだけだったかもしれない。当時の人の記憶では、十五か月も続く収縮は、すでに長い部類に入った。しかも、目の前で起きていることが、それまでの何度かと同じ種類のものなのかどうかを判断する道具は、誰の手にもなかった。
十一月、銀行恐慌が始まる。
まず、ナッシュヴィルのある金融グループと、その傘下の機関が、相次いで倒れた。十二月十一日には、ニューヨークで四番目に大きな銀行が閉まる。取り付けは、一つの町から次の町へ広がった。数週間のうちに、数百の銀行が営業を止めた。
この数行は、あっという間に読める。だが、現場で銀行が一つ閉まるとは、その町じゅうの預金通帳が、同じ日に紙くずになるということだった。すでに話のついた融資が、実行されなくなる。来月払うはずの賃金が、払えなくなる。銀行は、金をしまっておくための施設ではない。その土地のあらゆる支払いの関係がつながる、接ぎ目である。接ぎ目が壊れたとき、壊れるのは貯蓄ではない。その土地で、人々が互いに物事を成し遂げられなくなるのである。
上を向くはずだった線は、三年半にわたって下がり続けた。
後に整理された景気循環の年表では、この収縮の底は、一九三三年三月に当たる。一九二九年から一九三三年までに、アメリカの実質産出量はおよそ二十九パーセント減り、消費者物価はおよそ四分の一下がった。一九三三年の失業率も、およそ四分の一に達した。
この三つの数字は、一緒に見なければならない。産出量が三割近く落ち、物価も四分の一近く下がり、失業率が四分の一になる。古典派の説明に従えば、値が下がれば、物は再び買えるようになるはずだ。商売も再び成り立ち、人々も再び雇い戻されるはずだった。値は確かに下がった。しかも、徹底して下がった。人は、戻らなかった。
そして、回復と呼ばれるものは、人をもう一度受け入れることと、同じではない。
この一文が、この先のすべてを読む鍵になる。曲線は、元の高さへ戻れる。だが、その下に立っている人々は、それに合わせて、ひとりでに戻ってくるわけではない。生産量は、元に戻せる量である。一人の人が失った八年間は、そうではない。
一九三三年の失業率は、およそ二十四・九パーセント。失業者数は、およそ千二百八十三万人だった。一九三五年になっても、労働力の約五分の一には仕事がなかった。一九三七年には、工業生産はすでに一九二九年の水準を超えていた。それでも、七百七十万人が失業していた。同じ年、政策は引き締めへ転じる。一九三七年から一九三八年にかけて、再び景気後退が起こり、失業率は二割近くまで押し戻された。
これらの数字のうち、生産量も、物価も、貨幣量も、元に戻せる。人は、戻せない。
感慨を述べているのではない。会計の技術に即した、明確な意味がある。生産量が落ちて、また上がる。帳簿の上では、一度出て、一度入る。差し引きはゼロになる。だが、四十歳の機械工が、四年間の失業を経て工場へ戻ったらどうか。失った技能、途切れた勤続年数、使い果たした蓄え、その四年間に家で起きたこと。そのどれも、生産量が元の位置へ戻ったからといって、どこかの欄で帳消しにはならない。総量が元に戻ることと、一人の人が元に戻ることは、帳簿の上では同じ出来事でも、世界のなかでは違うのである。
ここまでの十四篇で、構は、どうしても中へ収まらないものに、何度も出会ってきた。その対処法は、七つあった。もっと大きな構に、外から緩めてもらう。名前を変えて続ける。正確に測りながら、問わずにおく。費用に織り込める金額へ書き換える。学問の境界を一つ内側へ引く。帳簿の周りを回る軌道を与える。そして、証拠の提示を求める。
今回は、違う。
収まりきらないのは、人である。しかも、数百万人もいる。街に立ち、救済所の前に並び、町はずれの掘っ立て小屋の集落で暮らしている。誰の目にも見えた。構には、もう彼らを移しておく場所がなかった。
二 あなたが、自分で選んだ
ケインズが何を打ち崩したのかを知るには、まず、打ち崩された側が、自分をどう説明していたのかを見なければならない。
古典派の伝統も、一枚岩ではない。それでも、核となる一つの信念は、おおむね共有されていた。全般的な需要不足は、理論の上では、根本的な問題にならない。生産の過程そのものが、生産物を買い取るのに足る所得を生み出すからだ。価格が調整され、賃金が調整され、利子率が調整される。そうすれば資源は、物を売ることができ、人を雇うこともできる場所へ、やがて配分し直される。この考え方には、繰り返し引用された標語がある。供給は、需要を生み出す。
ミルは、もっと強く言い切った一文も残している。のちにケインズが、批判の的にした言葉だ。商品に対する需要は、労働に対する需要ではない。
もとの文脈で読めば、荒唐無稽な言葉ではない。ミルが言いたかったのは、こういうことだ。仕立て上がった服を一着買う。その代金は、すでにある服の在庫に対して払われる。実際に人を雇って働かせるのは、生産の過程へ投じられた資本のほうである。この区別には道理があり、ある種の問題を考える際には、いまでも役に立つ。困るのは、それをどこまでも広げるときだ。物を買っても仕事は生まれない、という意味で読んでしまうと、需要と雇用がどう関わるのかを問う道は、入口から閉ざされる。
この枠組みでは、大規模な失業が長く続くことは、理論上、ありえない。
では、一九三二年に街に立っていた、あの一千万人を超す人々は何なのか。
修辞のための問いではない。分類の問題である。分類の問題には、すでに何度も出会っている。第八篇で述べたように、分類は推論に先立つ。何をどの欄へ入れるかが、その後の推論をすべて決める。街にいる人々をどの欄へ入れるかによって、政府が何をすべきかが決まる。学界が何を研究すべきかも決まる。そして、彼ら自身が、自分をどう見るべきかまで決まってしまう。
古典派の側には、すでに答えがあった。しかも、筋はきちんと通っていた。摩擦的な、一時の行き違いを除く。労働組合による制限も除く。そのうえで一人の人に仕事がないのは、結局、自分の限界生産性に見合う報酬を受け入れようとしないからだ。つまり、要求する値が高すぎるのである。
ここで現れるのは、構が余項を扱う、八つ目の方法だ。しかも、いちばん手間がかからない。
その人々の存在を、否定はしない。測れていないと言うのでも、門の外へ追いやるのでもない。するのは、分類のし直しだ。余項を、余項自身が選んだことの欄へ入れる。あなたに仕事がないのは、帳尻が合わないからではない。あなた自身が、働かないことを選んだからである。
この一手は、それまでの七つより、さらに厄介だ。理由は二つある。第一に、論理の上では完結していて、内側から崩すことができない。賃金をもう少し下げる可能性は、いつでも残る。その可能性があるかぎり、まだ取引が成立しない理由に、いつでも使える。第二に、証明の負担を、すべて余項自身へ移してしまう。自分の意志で失業しているのではないと証明するのは、仕事のない本人の役目になる。ところが、その本人の手には、道具が何一つない。
ケインズの反撃は、激しかった。しかも、方法そのものへ向けられていた。
まず、公正なことを一つ言った。古典派の理論は、自分の前提のなかでは、論理的に首尾一貫している。古典派は、愚かではない。問題は、その理論が、ある特殊な場合にしか当てはまらないことだ。それを大規模な失業の時代へ、そのまま持ち込む。そこに、方法の取り違えがある。
そして、幾何学の比喩を使った。非ユークリッド空間でユークリッド幾何学が通用しなくなったとき、直線のほうを、十分にまっすぐでないと責めてはならない。
覚えておきたい比喩である。構がいつもする動きを、言い当てているからだ。モデルと対象が合わないとき、モデルを直してもよい。対象のほうを、不適格だと宣言してもよい。モデルを直すなら、推論の全体を組み直さなければならない。対象を不適格とするなら、形容詞を一つ足せば済む。
しかも、その形容詞は、体裁がよい。「自発的」と言えば、人の選択を尊重しているように聞こえる。自由の香りさえ、少しする。第十三篇で見た「証拠を示してください」も、同じだった。手続きに厳密なだけのように聞こえる。この位置で、構は、きつい言葉を使う必要がない。もっともらしく聞こえる言葉を一つ使い、解決すべきことを、解決済みへと書き換えればよい。
そう書き換えられた人は、奇妙な場所に置かれる。毎日、仕事を探しに出る。何も得られず、帰ってくる。本人にとっては、疑いようのない、一度の失敗である。だが、あの帳簿には、本人が一つの選択をした、と記される。二つの記し方のあいだに、異議を申し立てる通路はない。帳簿は、当事者の陳述を受け付けない。モデルへ入る変数だけを、受け付けるからだ。
三 もし、人々がただ……
ケインズは、あの人々に働く意志があるのかないのかを、古典派と争わなかった。
別のことをした。新しい定義を作ったのである。古典派のモデルには、収まらない定義だった。
このやり方自体にも、目を留めておきたい。理論を反駁するなら、ふつうは、推論のどこで間違えたかを探す。ケインズが選んだ場所は、そこではない。その理論の分類表に、まだない欄を探したのだ。
『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、非自発的失業を、次のように定めている。いまの貨幣賃金の水準を考える。賃金で買う生活物資の価格が少し上がる、つまり実質賃金が少し下がるとする。そのとき、働こうとする人の数も、企業が雇おうとする人数も、いまより多くなるなら、現在仕事のない人々は、非自発的に失業している。
回りくどい定義で、一度読んだだけでは、その重みが見えにくい。要になるのは、両方が増える、というところだ。
古典派の説明どおり、本当に労働者の要求する値が高すぎるために行き詰まっているのなら、実質賃金が少し下がれば、働こうとする人は減るはずである。企業が雇おうとする人数は、増えるはずだ。両側が反対の方向へ動き、最後に出会う。そこで需給が一致し、市場は清算される。
ケインズが取り出そうとしたのは、両側が、同時に上へ動く場合だった。
働こうとする人が増える。企業が雇おうとする人数も増える。それなのに、その人々には、いま仕事がない。行き詰まりのある場所は、そもそも両者のあいだではない、ということだ。値段の話が折り合わないのではない。値段を話し合うところまで、たどり着いていないのである。
もっと身近な言い方もできる。ある町で工場が閉まり、千人が仕事を探しに出た。そこへ新しい経営者が来て、賃金を二割低くできるなら、と言う。古典派の図なら、一部の人は安すぎると断り、残りの人は受け入れ、工場は再び動き出すはずだ。実際には、しばしば別のことが起こる。千人全員に、働く意志がある。だが、その経営者には、工場を開くつもりがない。作った物を誰に売るのか、わからないからだ。働きたい人の列は、通りの端まで続いている。雇いたい人は、一人もその場にいない。このとき、さらに賃金を押し下げれば、押されるのは、列に並んだ千人のほうである。いない一人が、それで姿を現すわけではない。
これは、確かめられる条件であって、不満の言葉ではない。観察できる出来事を、定義の形へ書き込んだものだ。その条件が成り立ったら、古典派の説明は、もう使えなくなる。
この一歩は、別に一筆、書き留めておく価値がある。
これまでの篇に現れた余項は、指し示され、描き出され、歴史家によって一件ずつ換算されてきた。確かに存在したが、その確かさは、語ることによって支えなければならなかった。ここで初めて、余項が、判定の基準として書かれる。この条件を満たせば、ある。満たさなければ、ない。余項は初めて、自分自身を検証するための条件を持った。
余項に判定基準を与えることと、余項のために声を上げることは、同じではない。声を上げるだけなら、同情する相手を間違えている、と言い返せる。基準が示されたあとは、反対する側は、その条件が経験の上では成り立たないと示さなければならない。そのためには、データが要る。ケインズは、人の心をめぐる争いを、検証のできる一つの机へ移した。心が優しかったからではない。どの机で話せば、言葉が効力を持つのかを、知っていたのである。
続いて、因果の向きが反転する。
古典派の順序は、実質賃金が雇用量を決める、というものだ。賃金をどこに定めるかで、どこまで雇うかが決まる。
ケインズの順序は、逆になる。消費性向と投資誘因が与えられているとき、雇用量を決めるのは有効需要である。実質賃金は、その雇用量に対応して現れる結果にすぎない。
日常の言葉に移せば、労働市場の需給を一致させる賃金が先にあって、そのあとで雇用が生まれるのではない。企業が、どれだけ売れるかを予想するのが先だ。そのあとで、何人なら雇うつもりがあるかを決める。
入口は、賃金ではない。売れるという見込みである。一人の人が、どれほど自分の値を下げても、ほかの人に、商品への需要を代わりに生み出してやることはできない。
逆から見れば、この言葉には、もう一つの層がある。企業の販売見通しは、ほかの人が金を使うかどうかの判断だ。そして、ほかの人が金を使うかどうかは、その人に仕事があるかどうかにかかっている。こうして、どの企業も、ほかの企業が先に動くのを待つ。誰も間違ったことをしていない。それぞれ、自分の置かれた状況で、最も合理的に判断している。その合理的な判断をすべて足すと、誰も望んでいない結果になる。第十三篇で述べた、筋の通った処理をすべて合わせると、その居場所がなくなっている、ということが、別の場面で再び起こっている。
四 特殊な場合
『一般理論』は、政府にもっと金を使えと呼びかける、標語の本ではない。むしろ、因果の順序を組み替えた機械に近い。その機械のいちばん大切な部品は、第三章にある。
ケインズはまず、二つのものを分ける。総供給価格と、総需要価格である。前者は、ある雇用量を実現するために、企業が回収しなければならない金額だ。後者は、その雇用量のもとで、受け取れると企業が予想する金額である。企業の決定は、この二つの数字を比べることにある。人をもう一群雇ったあと、見込まれる収入が、回収すべき額を上回るなら、拡大する。逆なら、縮小する。
雇用は、もはや労働市場だけで決まらない。売れ行きの見通しを前にして、企業が人を雇うだけの値打ちがあると考えるかどうかに、かかっている。この場所の鍵となる言葉が、有効需要だ。
「有効」は、飾りではない。ここでは、特定の働きをする言葉である。欲しくても金を出せない必要ではなく、本当に注文になる需要を指している。第五篇に、これに関わる一文があった。購買力のない必要があっても、帳尻は狂わない。あのときは、帳簿をつける側の自己弁護だった。ここでは、同じことが、機械全体の中心部品になる。一群の人々が飢えていても、帳尻は合ってしまう。その理由は、ここにある。
次は、消費の性質である。
ケインズは、消費が重要でないと言っているのではない。消費には、一貫して見られる特徴がある、と言っている。所得が増えれば、消費も増える。ただし、ふつう、所得が増えた分ほどは増えない。だから雇用が拡大すると、総産出量と消費支出のあいだに、隙間が開く。その隙間は、投資で埋めなければならない。投資が足りなければ、企業は、いっそう高い雇用水準を提供し続けようとはしない。
ここまで推論を進めると、いちばん大切な一文が出てくる。
消費性向が一定なら、均衡時の雇用水準は、現在の投資量によって決まる。そして、完全雇用に対応する有効需要は、特殊な場合にすぎない。
この一文は、ゆっくり読みたい。
完全雇用は、市場経済にとって自然な、ふだんの状態ではない。ある組み合わせのパラメータが、たまたまそろったときに現れる結果である。
ここで初めて、構の内側から、構自身の言葉を使って、閉じきらないことが、ふだんの状態として書き込まれた。ここまでの十四篇で、構は、中へ収まらないものを、つねに例外として扱ってきた。誤差であり、まだ処理しきれていない部分だった。ここでは、その関係が丸ごと逆になる。収まるほうこそ、例外なのだ。
この反転が、どこで起きたかに注意したい。外からの批判者が成し遂げたのではない。被害を受けた者でも、革命でもない。ケンブリッジで教え、財務省の顧問を務め、イングランド銀行を擁護したことも、反対したこともある人物が、この学問自身の推論の仕方を使って成し遂げた。構が最も対処に苦しむ挑戦は、それを最もよく知る者たちの、一人から来ることが多い。第九篇のスミスは、構の内側にいた。第十一篇のマルクスは、外側にいた。ケインズは内側にいて、最後まで、内側にいた。
同時に、一つはっきりさせなければならない。そうしなければ、この節は、一つの判決として読まれてしまう。
この結論は、哲学の命題ではない。消費性向と投資誘因に関する一組の仮定から導かれた、技術的な結論である。その仮定には、書き記されたその日から今日まで、異論があり続けた。ケインズ自身も、市場の需給は永遠に一致しないとは言っていない。自動的に一致するわけではなく、そうなると初めから決めてかかってはならない、と言ったのである。
平たく言えば、彼が切り開いたことは、一文にできる。働く意志のある人が、誰でも値を下げれば自分を売れるわけではない。
労働力は、ジャガイモではないからだ。賃金も、商品に貼られた、孤立した値札ではない。賃金を下げれば、物価が変わる。債務の実質的な負担が変わる。予想が変わり、消費が変わり、企業の資金繰りが変わり、銀行の貸借対照表が変わる。そして最後には、一回りして戻ってくる。この人を雇って作った物は、本当に売れるのか。その企業の判断を、変えてしまう。
だから、労働市場だけを取り出して、勘定することはできない。貨幣経済の全体へ戻して、見なければならない。
構にとって、これは重い一撃だった。構が最もよく使う手つきは、まさに切り分けることだからだ。複雑なものを一片ずつに分ける。それぞれに値があり、それぞれを清算できる。足し合わせれば、総勘定になる。切り分けることは、異なるものを共通の尺度へ載せる通約の前提である。ケインズが言ったのは、この問題では、切り出した一片だけで出した答えと、その一片が全体のなかで実際に示す振る舞いは、同じではない、ということだった。ときには、向きさえ逆になる。
五 銀行とともに消えたもの
一九三〇年十一月に始まった銀行恐慌は、その仕組みを、よく見ておく必要がある。悪い銀行が淘汰されただけの出来事では、なかったからだ。
当時のアメリカには、連邦準備制度の加盟銀行が八千行余りあった。ほかに、非加盟銀行が一万六千行近くあった。この多数の非加盟銀行は、準備金を保有するにあたり、代理銀行のネットワークに強く依存していた。
小切手が決済される途中の金は、二つの銀行の帳簿へ、同時に記される。どちらの側でも、準備金に数えられる。いわゆる架空準備である。ふだんは、それで回る。全員が同時に現金を求めに来ることはないからだ。取り付けになれば、足りなくなる。
そこで農村の銀行が、代理銀行へ現金を求める。ところが、その代理銀行も、取り付けに遭っている。つながった鎖の全体で、現金、手形、預金のあいだの変換が、一斉に痙攣を起こす。
この仕組みのところで、少し立ち止まりたい。架空準備は、誰かが不正をしたという話ではない。決済には時間がかかる。その自然な帰結である。金がまだ途中にあるかぎり、どちらの端にもない。ところが記帳のうえでは、どちらかの端になければならない。制度が選んだ方法は、両側で数えることだった。ふだんなら、効率がよい。取り付けになれば、穴が開く。毎日、帳簿を閉じられるように、構は、小さな重複を認めた。その小さな重複が、実在してくれなければいちばん困る日に、空だったとわかる。
ここまでなら、損失はまだ測れる。何行が営業を止めたか。貨幣ストックがどれほど減ったか。預金がいくら失われたか。
本当に測りにくいのは、別のものだった。
銀行の破綻が消すのは、帳簿の数字だけではない。その土地に蓄えられた、信用についての知識が、ひとまとまり消えてしまう。この町のどの商店なら信用できるか。どの農家なら、今年は返せるか。どの倉荷証券なら、担保に取れるか。表向きは羽振りがよくても、実は新たに借りて古い借金を返しているのは、どこか。こうした判断は、どんな価格表にも書かれていない。人と人とが長年つきあうなかで積み上げた、関係のなかに蓄えられている。その関係を担っていたのが、あの銀行だった。
銀行が閉まれば、この知識も、一緒になくなる。
後に、ある研究者が、このことを、もっと技術的な言葉へ書き直した。銀行の破綻は、信用を配分する過程全体の効率を下げる。信用の費用を高め、信用を得られる範囲を狭める。そのため、総需要をさらに傷つける、というのである。
これも、余項の一つの姿だ。それまでの篇にあったものとは、また違う。
この知識は、初めから、どの貸借対照表にも載っていなかった。だから消えても、どの表にも現れない。貨幣量がどれだけ減ったかなら、月ごとに統計を取れる。だが、ある町が突然、誰に金を貸してよいかわからなくなったという出来事には、使える単位がない。帳簿には、一つの数字として現れる。現実には、通りじゅうの人が、互いに声をかけることさえ恐れる姿になって現れる。
もう一歩、先へ進められる。あの知識が表にないのは、記そうとした人がいなかったからではない。記せないからだ。誰なら信用できるかは、枠に書き込める一つの属性ではない。何年にもわたり、小さな出来事が幾つも積み重なってできた判断である。しかも、絶えず変わる。書き記すには、まず、点数をつけられる幾つかの指標へ変えなければならない。指標へ変えたとたん、もとにあったものとは、別のものになってしまう。
第十四篇の結論は、制度が非人格的なものの上に築かれるほど、いっそう信頼に頼るようになる、というものだった。ここにあるのは、同じことの、もう半分である。その信頼は、ただの態度ではない。同時に、具体的な知識の束でもある。具体的な人間の身に根を張っていて、物理的に壊すこともできる。
一九三三年三月十二日、ローズヴェルトは、ラジオで全国の人々に、銀行の貸借対照表を説明した。
銀行は、皆の金を金庫にしまっているのではない、と彼は言った。債券、商業手形、抵当貸付へ投じている。恐慌が来れば、資産が健全な銀行であっても、それらを一晩で現金にはできない。本来の価値をはるかに下回る、恐慌時の値で投げ売りするのでなければ、不可能なのだ。
そして、長く記憶に残る二つのことを言った。一つは、再開した銀行にお金を置くほうが、マットレスの下へ押し込むより安全だ、ということ。もう一つは、貨幣よりも、黄金よりも大切なのは、国民の信頼だ、ということだった。
三月九日、緊急銀行法に署名がなされた。三月十三日から、まず連邦準備銀行のある都市で、健全な銀行を再開させる。その後、ほかの都市や町へ、順に広げていった。
三月末までに、国民は、三月八日以前の四週間で引き出していた現金の、およそ三分の二を、再び預け入れた。
一国の元首が、ラジオで国民に、銀行の資産が何でできているかを説明する。そして、金を戻してほしいと頼む。それが、驚いたことに、効いたのである。
六 二十・六七が、三十五になる
アメリカは長く、金の法定価格を、一オンスにつき二十・六七ドルに保っていた。
一九三三年四月五日、一つの大統領令が、民間で金貨、金地金、金証券をため込むことを禁じた。個人にも組織にも、それらを差し出すよう求めた。
一九三四年、金の価格は、一オンスにつき三十五ドルへ改められた。これにより、ドルの金含有量は、それまでのおよそ五十九パーセントへ引き下げられた。
五十九パーセントは、計算から出る。金一オンスは、もともと二十・六七ドルだった。それが三十五ドルになる。同じ一ドルで交換できる金は、四割余り減ったのである。
順序を並べれば、それでよい。まず、古い価格で、民間の手にあった金を集める。そのあと、価格を変える。
ここでは、評価を加えない。言っておくべきことは、一つだけだ。この一連の行為は、法律上、完全に成立していた。大統領令には権限の裏づけがあり、買い上げには補償があり、価格の変更には法律があった。第十三篇のあの言葉を、そのまま持ってこられる。これで四度目になる。過程のすべてが完全に合法であっても、結果は、ひどく非対称な移転になりうる。
第十四篇で、構が最もうまく働くとき、人は、それが作られたものであることを忘れる、と述べた。ここでは、その裏側が現れる。しかも、きわめて鮮やかに。
自然であり、客観的であり、政治を超えていると見なされた物差しが、一枚の命令で書き換えられた。書き換えたのは、同じ国の、同じ政権の、同じ人々だった。それ以前の六十年間、この物差しの権威のすべては、誰も勝手には変えられない、という一点の上に成り立っていたのである。
もう一度、置き直しておきたい。この節の重みは、すべてここから来る。金本位制が人を納得させたのは、より便利だからでも、より正確だからでもない。誰かが決めたものではない、ということによってだった。これは、金の重さである。金は地面の下にあり、どの政府の言うことも聞かない。だからこそ、お金を借りる人は、将来返すものも同じものだと信じられた。大洋を隔てた二つの商店も、一枚の紙で取引を結べた。その信用のすべては、人の手では変えられない、という一点に賭けられていた。
物差しは書き換えられる。一度それをやってしまえば、取り消すことは、もうできない。それ以後、共通の尺度について何を言うにも、新たな問いに向き合わなければならなくなる。この物差しは、誰が決めたのか。その人は、いつ変えるのか。
問いは、そこで止まらない。これからの篇で扱うものは、どれも同じ問いを追っている。戦後、組み直された国際的な取り決めも、数十年後、それが一言で解除されたことも、そもそも公式の物差しを一切認めない試みも、そうである。構は、物差しを作れる。その物差しは、もう通用しないと宣言することもできる。後者を一度見てしまえば、前者には、その後ずっと尾がついて回る。
ついでに、金がその後どこへ行ったかも述べておこう。消えたのではない。別の位置へ退いた。各国中央銀行の金庫へ。民間の手元で、価値を保つための品へ。危機のときの避難先へ。もはや、あの物差しではない。測られるものの一つになったのである。他のものを測っていたものが、他のものによって測られる側へ回る。この転換には、すでに何度か出会っている。そのたびに、論破されたのではなかった。脇を通り抜けられたのだ。
金から離れた効果については、経験的な証拠はかなり一致している。それでも、解釈の違いは残っている。
一致しているのは、金本位制から早く離れた国ほど、ふつうは回復も早かった、という点だ。イギリスは一九三一年九月に金兌換を停止したあと、ポンドが下がり、金融政策に動かせる余地ができた。後の多くの国際比較研究も、金からの離脱は、インフレ予想を高め、実質金利を下げ、回復を促しうることを示した。
違いがあるのは、何が効いたのか、という点だ。金から離れたこと自体なのか。それに続く貨幣供給の拡大、輸出の改善、実質賃金の変化、政策への予想の転換なのか。これらの仕組みのあいだで、学界の見解は一つになっていない。
ただし、この節を単純な教訓にしてしまわないために、一つはっきりさせたい。金本位制から離れることが役に立ったのは、金そのものが悪かったからではない。あの数年間、平価を守るための代価が、すべて国内の雇用へかかっていたからである。平価を手放すことは、その代価の一部を、失業者の身から移すことに等しかった。物差しが間違っていたのではない。動くことも許されず、ずっとその下に立たされる人がいる。それが、間違っていた。
七 何が、底を深くしたのか
大恐慌は、なぜこれほど深く、これほど長く続いたのか。議論は、いまも一つの流れになっていない。一つの答えを示すより、これらの議論を並べるほうが、はるかに役に立つ。
大きな筋の一つは、貨幣の側にある。中心となる命題は明快だ。一九二九年から一九三三年までの収縮が、あれほど大きくなったのは、何よりも、貨幣ストックが三分の一を超えて減ったためである。多数の商業銀行が営業を止め、貨幣乗数が崩れた。それなのに連邦準備制度は、最後の貸し手としての役割を果たさなかった。この説明で、とりわけ重要な政策上の誤りとされるのは、一九三一年にイギリスが金から離れたあと、アメリカが十月、金準備を守るために公定歩合を引き上げたことだ。対外的には金を守り、国内では貨幣と信用をさらに縮めた。
この筋の内側にも、疑問はある。貨幣による説明には、長く欠けたところがあった、と指摘する研究者がいる。貨幣の収縮は、どんな仕組みで実体経済へ打撃を与えるのか。初めの数十年間、その説明は十分でなかった。一九三〇年代初め、名目金利が一貫して大きく上がっていたわけではないからだ。金利が高いから不況になった、だけでは足りない。後に補われたのは、デフレ予想という鎖だった。貨幣の収縮が、デフレ予想を生む。デフレ予想が、実質金利を上げる。実質金利が、支出と雇用を押し下げる。
もう一つの大きな筋は、支出の崩落を重く見る。恐慌の始まりを、主に貨幣の引き締めへ帰するのは難しい、と主張する研究者がいる。株価暴落のあと、ニューヨークの連邦準備銀行は、一時、大量の国債を買い入れた。一九二九年末から一九三〇年初めにかけて、名目金利も実質金利も、明らかに下がっていた。本当の問題は、株価暴落と、その後も続く激しい価格変動が、将来の所得について巨大な不確実性を生んだことだという。まず、耐久消費財への支出が崩れた。この説明でも、貨幣の要因が重要なことは、もちろん変わらない。ただし、最初に突き落とした一撃ではなく、その後、事態をさらに深くした増幅器に近い。
第三の筋は、金本位制である。第十四篇ですでにたどった。大恐慌を、戦間期の国際通貨制度のなかへ戻して考える見方だ。収縮はアメリカとフランスから始まり、為替相場を守る約束、金の移動、各国中央銀行の金を守る義務を通じて、世界へ広がった。ただし、この立場の内側にも、意見の違いがある。
第四の筋が注目するのは、信用仲介である。貨幣の崩壊の重要さを否定するわけではない。銀行の破綻には、もう一つの作用がある、と強調する。信用配分の効率を壊してしまう作用だ。この部分は、貨幣量の変化だけでは捉えきれない。
銀行はなぜ倒れたのか、という、もっと狭い問いでさえ、結論は一方に決まっていない。一方の研究は、多くの破綻が、根拠のない恐慌よりも、経営の基礎条件の悪化や債務超過を反映していた、と強調する。別の研究は、元のデータを整理し直したうえで、流動性危機も債務超過も、どちらも実際の原因だったとする。初めの何度かの恐慌では、代理銀行の網と取り付けの伝染が、きわめて明瞭に働いていた。恐慌が深まり、資産価格がさらに悪化してから、債務超過が、次第に主要な脅威になった。つまり、恐慌か基礎条件か、どちらか一方なのではない。時期によって、地域によって、機関によって、絡み合いながら作用していたのである。
賃金についても、同じだ。昔ながらの教科書は、賃金が下がらなかったために労働市場の需給が一致しなかった、という形で大恐慌を語りがちだった。後の実証研究は、その話を複雑にした。国をまたいで見れば、物価に対する名目賃金の調整は、確かにかなり遅かった。実質賃金は上がり、それが産出量を押し下げたのも確かである。ところが、戦間期イギリスについての新たな推計は、賃下げは当時、珍しくなかったと示している。一九三一年の一年だけで、三百万人を超す労働者が、賃金を切り下げられていた。
だから本当の争点は、賃金を下げられるのかどうかではない。賃金、物価、予想、債務、需要が連動することで、経済の全体として、失業を自動的に吸収できるのかどうかだ。
大恐慌が経験によって出した答えは、自動的には、できなかった、というものだった。
どの説明にも、それぞれの証拠がある。ここでは、裁定しない。ただ、並べておくと、一つの共通点が見える。争っているのは、どの鎖がいちばん太いかである。どの鎖にも、あの人々を、もう一度帳簿のなかへ収めることはできない。
勝者を一つ決めるより、この点のほうが大切だ。いつの日か、貨幣の鎖が最も太かったと証明されたとしよう。そのとき行うべきなのは、金融政策である。金本位制の鎖が最も太かったと証明されたなら、手をつけるべきなのは、為替制度だ。だが、どの鎖が最も太いとわかっても、当時の一つの事実は変わらない。十年ものあいだ、多くの人に働く意志があったのに、居場所がなかった。恐慌を説明する仕組みは、どれも、なぜ彼らが外にいるのかを説明している。一つとして、彼らを中へ戻してはいない。
もう一つ、書き込まなければならないことがある。宿命論に対する、最も強い反証の一つだからだ。
この同じ危機のなかで、アトランタの連邦準備銀行は、加盟銀行に対する割引を比較的積極的に行った。加盟銀行が非加盟銀行を支えることも、奨励した。一方、セントルイスの連邦準備銀行は、自分の責務をもっと狭く捉え、非加盟銀行を支援するための再割引を拒んだ。
その後の結果には、はっきりと差がついた。前者の管轄地域では、収縮が緩み、回復が始まった。後者では、数百行が破綻し、貸出が縮み、失業が増えた。
同じ国。同じ制度。同じ年。二つの意思決定の仕方が、二つの結果を生んだ。大きな歴史の必然ではない。同じルールのもとで、判断が違ったために生まれた分かれ道だった。
八 値のつかない側に立つ人々
一九三二年の夏、第一次世界大戦の退役軍人たちが、ワシントンへ向かい始めた。
彼らは、一種の報奨金証書を持っていた。現金にできるのは、一九四五年になってからだった。だが、もう十三年も待てないほど、貧しくなっていた。
六月一日、およそ千五百人が首都に着いた。その後、次々に到着し、総数は一万人から二万人になった。町の端に掘っ立て小屋の集落を作って住み、議会と大統領からの答えを待った。
七月二十八日、政府は軍と警察を動かし、彼らを排除した。催涙ガス、銃剣、たいまつが使われた。機関銃を装備した戦車が五両、街に現れた。一人の退役軍人が、警察の発砲で命を落とした。
ここには、市場の需給が一致する、美しい図などない。あるのは、値のつかない一群の人間を、国家が物理的に取り除いたということだけだ。
いくつかの点は、正確に言わなければならない。彼らは暴徒ではなかった。この国が、少し前に戦場へ送り、そして連れ戻した人々である。新しい何かを求めたのではない。政府がすでに書いた借用証の、支払いを求めていた。誰かを攻撃したのでもない。小屋を建て、そこに住み、答えを待っていた。その答えが催涙ガスだったとき、示されたのは、治安の問題ではない。一群の人が、市場にも予算にも居場所を見つけられないなら、まだ第三の場所がある。そこへ置くのに、帳簿は一切要らない。そのことが、示されたのである。
同じころ、もっと散り散りに、人々が移動し、転落してもいた。多くの人が、仕事を求めてカリフォルニアへ向かった。着いてみると、仕事は広告にあったよりはるかに少なく、賃金も住環境も、はるかに悪かった。そこに広がる大企業の農場は、思い描いていた小農の世界とは、まったく違っていた。
労働力が、低い値の場所から高い値の場所へ移る。そんな抽象的な動きだけで、人は救われない。入り込む先は、しばしば、同じように労働力の余った別の市場である。しかも、出発したときより弱い交渉力で、そこへ入っていく。
あの二十五パーセントという数字自体にも、境界がある。後にこの数字を説明した機関は、ことさらに注意を促している。本当はフルタイムで働きたいのに、パートタイムでしか働けない人は含まれない。技能を生かせない仕事へ移ることを強いられた人も、含まれない。もと機械工だった人が、夜の門番になれば、統計上は、仕事があることになる。
その二つの位置のあいだには、十数年かけて身につけた技能がある。工場の現場でしか使いようのない、ひとそろいの判断力がある。そして、自分はどんな仕事をする人間なのか、という本人の認識がある。こうした違いは、失業率という指標には、少しも写らない。その指標が尋ねるのは、あるかないかであって、何であるかではないからだ。第十二篇では、構が測るのは、つねに物事そのものではなく、物事が組織される仕方だと述べた。ここでは、さらに一段、単純になる。測るのは、仕事が一つあるかどうかであって、その仕事が一人の人を、どこに置いているかではない。
つまり、最も中心にある指標でさえ、その外側を数えられていない余項がぐるりと取り巻いている。
進まなかった道も、書き留めなければならない。一九三二年の春から夏にかけて行われた、およそ十億ドルの公開市場での買い入れは、一時、銀行破綻の波を止めた。だが、ほどなく終わってしまった。同じ年の一月、議会は、銀行と鉄道へ緊急融資を行う会社を設立した。ところが、そこから借りることには、汚名が伴った。借り手の名簿が公開されるからだ。借りたという事実だけで、市場は弱さのしるしと受け取る。そこで多くの銀行は、借りないほうを選んだ。イギリスは一九三一年に金から離れたが、アメリカは一九三三年まで引き延ばした。そして一九三七年、失業を吸収し尽くすには、まだほど遠い時点で、政策は再び引き締めへ転じた。あの再度の景気後退が、それに続いた。
後のマクロ経済管理へ至る道は、一直線ではなかった。一度で勝ち取ったものでもない。ためらい、保守的な方向への揺り戻し、制度の分裂、政治的な対立。その何度もの繰り返しのなかから、押し出されてきた。
押し出された理由は、理論が全員を説得したことではない。市場で値のつかない側に、すでにあまりにも多くの人が立っていたことだった。
この言葉には、居心地の悪い意味がある。それでも、言っておかなければならない。この考え方が採用されたのは、正しかったからではない。正しいことが、十分に大勢の人に当てはまったからだ。別の分かれ道を考えてみよう。あの銀行恐慌が起きず、収縮が十五か月目で止まっていたなら、同じ推論が同じ本に書かれていても、おそらく読む人は多くなかった。構が書き換えられるのは、たいてい、誰かが論破したからではない。外へこぼしたものが多すぎて、もう例外として扱えなくなったからである。
古典派の帳簿の計算法は、実のところ、素朴だ。どんなものにも値がある。値さえ合えば、買われる。売れないのは、求める値が高すぎるからだ。ジャガイモなら、この計算法は成り立つ。
人に当てはめると成り立たないのは、どこまで値を下げても、売れないことがあるからだ。しかも、値を下げるという行為そのものが、買う気のある相手から、いっそう買う力を奪ってしまう。
一九三二年の夏、ワシントンの町はずれで、掘っ立て小屋に住んでいた人々は、一人ひとり、どんな値でも、自分を売るつもりがあった。帳簿に居場所がなかったのは、求める値が高すぎたからではない。
突き詰めれば、ケインズがしたことは、一つだけだった。もとは「自発的」と記されていた一欄を、「未決」へ書き換えたのである。
書き換えたあと、帳簿の見栄えは悪くなった。そして、本当のことに近づいた。
勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。
中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English