Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 経済
第14篇・全23篇

第十四篇 金本位制:小数点以下まで精密なのに、肝心なところが見えない

黄金の重量に通貨を結ぶ制度は、為替の安定と信用を生んだ。しかし同じ規則は中核と周辺で違って働き、調整費用を失業と賃下げへ落とした。

Han Qin (秦汉)
この篇の目次

一 小数点以下、七桁

かつて、ポンドとドルのあいだには、こんな換算率があった。一ポンドにつき、四・八六六五六三五ドル。

小数点のあとに、七桁が並んでいる。

この数字は、推計されたのではない。定義されたのである。イギリスは一ポンドを、一定の重さと品位を持つ金と定め、アメリカも一ドルを、一定の重さと品位を持つ金と定めた。その二つの定義を割れば、この数字になる。裏づけとなる取引は、一度も必要ない。どの日の相場によっても変わらない。二つの法律を掛け合わせた結果なのだ。

二つの法律を掛け合わせる。この言い方の重みを、少し確かめておきたい。市場に聞く必要がなく、商人の誰に聞く必要もなく、一件の取引が成立するのを待つ必要もない、ということである。書き記された瞬間に、その換算率は成立している。その後も毎日、成立し続ける。その日に本当にポンドをドルへ換えた人がいるかどうかには、かかわらない。構が求めてきたのは、つねに、こういうものだった。個別の出来事に頼らず、それだけで立っていられる数字である。

一つの換算率が、ここまでできるようになった。人類の帳簿の歴史で、初めてのことだった。これまでの十三篇に現れた物差しは、どれも、まだ具体的なものを相手にしていた。粘土板の上の大麦。町のなかでは通用し、町の外では砕かれる銀貨。役所が支払いを認めてくれなければならない一枚の紙。隣人の目が届いてこそ管理できる共有地。ここへ来て初めて、物差しは、誰か特定の人に認めてもらう必要がなくなる。必要なのは、二つの法律と、一種類の金属だけである。

ただし、固定為替相場は一本の線ではない。幅のある帯だ。

金をロンドンからニューヨークへ運ぶには、費用がかかる。運賃、保険料、梱包と荷役の費用。航海のあいだ資金が拘束される分の利息。リスクに見合う上乗せ。そして、この商売をする人が受け取るべき利益。これらの費用を合わせた額が、平価の上と下に、それぞれ一つの境目を作る。相場が上側の点を越えれば、民間の商人にもうける余地が生まれる。金を買い、船に積み、向こうへ運び、相手の通貨に換えて、差額を手にする。下側の点を割れば、逆向きに同じことをすればよい。

この帯の幅を何が決めるか、よく見ておきたい。二国の国力でも、どちらの信用が高いかでもない。船賃と保険料と、運ぶ日数分の利息である。つまり、この制度で最も柔軟に動く部分は、運送業の原価表から目盛りを取っている。世界で最も抽象的な物差しの許容幅を、貨物船と保険証券が決めているのだ。

こうして、誰かが命じなくても、相場はひとりでに帯のなかへ戻ってくる。ほとんど完璧に見える仕組みである。とりわけ見事なのは、引き戻す役を担うのが役人ではなく、ただもうけたいだけの商人たちだという点にある。

ただ、ここで一つ、はっきりさせておかなければならないことがある。この先の話を支える、最初の留め釘になる。

商人がこの裁定取引に乗り出すのは、金属がそこにあるからだけではない。信じているからだ。こちらの当局は、法定価格で本当に金を売ってくれる。向こうの当局も、法定価格で本当に買い取ってくれる。そして自分の船が港に着くまで、どちらの国も突然、外国為替を規制すると言い出さない。

その信念がなければ、金現送点は、帳簿の上の二つの数字にすぎない。

もう一歩、先へ進められる。自動的な仕組みの連鎖は、金属から始まるのではない。予想から始まる。約束された値で引き渡されると人が信じてこそ、金属は働く。信じなくなった瞬間、金属は元の場所にあっても、仕組みはもう止まっている。第六篇で紹介した宋の人の言葉が、場面を変えて、また現れる。官に元手がないなら、民は何を頼りに信じればよいのか。金本位制の答えは、十分な元手を用意することだった。しかし一九三一年の出来事が示したのは、元手を十分にそろえても、信頼は足りないことがある、ということだった。

貨幣を金属の上に据えれば、もう誰かが約束を守ることに頼らずに済む。そううたう制度の、最も精密な部分を支えているのは、やはり一つの信念なのである。このことは、この先の危機のたびに確かめ直される。そして、確かめるたびに、高い代価が払われる。

思想の前史は、さらにさかのぼる。一七五二年、ヒュームは貿易差額を論じる短い文章で、貨幣と、商品、労働、産業のあいだには比例関係があり、余分な金銀が一か所にいつまでも積み上がることはない、と説いた。そこで記した一文は、その後、二百年以上にわたって引用される。貨幣は、百もの水路を伝って、ひとりでに戻ってくる、と。

ひとりでに。この言葉に、この制度の魅力はすべて宿っている。

二 かみ合わなかった決定

後世の人は、金本位制への道のりを、必然的な上昇の線として語りがちだ。世界が発展し、取引が複雑になるにつれ、人々は理性的な判断によって、最適な物差しを選んだのだ、と。

史料は、この語り方を支持しない。

国際的な転換が実際に起きたのは、一八七一年から一八七三年にかけてだった。統一されたドイツ帝国は、それまで各邦で採用していた銀本位制から、金本位制へ移った。ある研究者の整理によれば、この改革が他国の一連の動きを引き起こし、ついには世界規模で複本位制を終わらせた。続いてフランスが、一八七三年九月、銀貨の自由鋳造を停止する。ラテン通貨同盟の他の国々も次々に続き、複本位制は、最後の安定装置を失った。

しかし、その研究者は、すぐに付け加えている。ドイツは、どうしてもこの道を選ばなければならなかったわけではない、と。

一八六〇年代のドイツでは、フランス主導の複本位体制へ加わる案が、真剣に論じられていた。後に生じた結果は、むしろ、一八七〇年代初めに独仏両国がそれぞれ下した、調整のつかない決定が重なった産物に近い。この時代を研究する人のなかには、端的に、歴史上の偶発的な事故と呼ぶ人もいる。

偶発的な事故。経済史において、この言葉は重い。何も起こらないまま済む可能性があった、という意味ではない。違う形で起こりえた、という意味である。ところが、その後のすべての推論は、すでにこの形になったことを土台にしている。世界の何か国が金を使うかは、何らかの経済法則から導かれた答えではない。一八七一年以降の数年間に、いくつかの国が順に下した、いくつかの決定から育ったものだった。

その後の広がりは、年表にできる。ドイツは一八七一年、デンマークは一八七二年、スウェーデンは一八七三年、オランダは一八七五年、フランスは一八七八年。アメリカは、法的には一八七三年から一八七四年にかけて移行を終えたが、実効的な復帰は一八七九年を待つ。日本は一八九七年。インドは一八九八年、ポンドに連動する金為替本位制へ向かった。

この年表には、もう一つの読み方がある。一つ一つの年の背後には、国内の政治過程がある。議会での論戦。銀鉱山の所有者たちの反対。債権者と債務者、それぞれの算盤。そして、ロンドンから信頼できる借り手として認めてもらいたいかどうか。日付は技術上の事項に見えるが、そこへ至る過程は、一度もそうではなかった。アメリカでは、法的な完了から実効的な復帰まで、およそ六年の隔たりがある。そのあいだに起きたことだけで、もう一冊、本が書ける。

一八七九年には、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの四つの中核国が、そろって金本位制のなかに入った。のちに国際金本位制と呼ばれる時代は、この年から一九一四年まで、三十六年間である。

三十六年は、一人の生涯としては短くない。制度の歴史としては、長くもない。だが、その後の二世代が金本位制について抱いたイメージは、ほぼすべて、この三十六年を土台にしている。安定していたと言うとき、指しているのは、この三十六年だ。自動的だったと言うときも、この三十六年だ。自然な秩序だったと言うときも、やはり、この三十六年なのである。四十年にも満たない経験が、あるものの本性として受け取られた。

なぜ、これほど広がったのか。歴史研究には、二つの説明がある。どちらも、弱い説明ではない。

一方は、ネットワーク効果を重く見る。金本位国との貿易が多い国ほど、加わる動機は強くなる。金融制度がどれほど成熟しているかも、参加の時期を左右する。この見方に立てば、広がりは、筋の通った適応の過程である。

もう一方は、偶然を重く見る。独仏両国は、別の選択もできた。複本位制は、計算を積み上げた果てに崩れたのではなく、政策どうしの衝突によって崩れた。この見方に立てば、広がりは、どれも別の方向へ進みえた政策上の動きが、次々に重なった結果である。

ここで決着をつけるつもりはない。ただ、二つの説明を並べると、はっきり見えることが一つある。

後に数えきれないほどの人が、自然で、客観的で、人の意思には左右されないと考えた物差し。その誕生は、ある国の、ある年の、一つの立法にまで特定できる。しかも、その法律は、当時、別の形でも作れたのだ。構が最もうまく働くとき、人は、それが作られたものであることを忘れる。三十六年は長くない。それでも、一つの世代に、昔からずっとあったのだと思わせるには十分だった。

これは構のいつもの動きであり、すでに見てきたものでもある。第十篇では、前後二十年にわたる、互いに連絡のない過程が、一つの年と三つの名前へ押し縮められた。ここでは、いくつもの国が順に選んだ政策が、金本位制という名の自然な状態へ押し縮められる。構は、外にあるものを自分の物差しへ押しつけるだけではない。自分の来歴まで平らにし、始まりのない背景へと変えてしまう。

三 ゲームのルール

教科書にある金本位制の動きは、たいへんすっきりと説明できる。

一国の中央銀行が発行する銀行券と、その預金債務には、一定割合の金準備による裏づけが必要になる。国際収支が赤字になれば、金を国外へ流出させて決済する。黒字になれば、金が流入して決済される。通貨当局が、その金の流れの影響を意図的に打ち消さなければ、流出した国では貨幣と信用が縮小し、物価が下がる。輸出品が安くなるので、赤字は自動的に縮む。流入した国では、逆のことが起きる。のちに、価格・正貨流出入メカニズムと呼ばれる仕組みである。

古典派の経済学者がこれを高く評価した理由を、ある研究者は、きわめて簡明にまとめている。世界規模で長期の物価安定が得られ、国ごとの物価水準も、おおよそそろうはずだと、彼らは信じていたのである。

この構想には、確かな魅力がある。軽く扱ってはならない。約束していたのは、帳簿の歴史に一度もなかったことだ。どこかの君主の自制にも、どこかの議会の節度にも頼らず、一国が発行できる貨幣の量に、ひとりでに上限ができる。その上限を決めるのは、地中から掘り出されるものである。第二篇で見た、増殖し続ける負債。第六篇で見た、刷るほどに増える紙。この構想のなかでは、その道が原理の段階で塞がれていた。

問題は、実際に動かすところで生じる。

古典的金本位制を振り返ったある研究者は、学術会議の導入文で、率直に記している。固定相場のもとで国際的な調整を実際に主導したのが、正貨の流れと購買力平価、金利平価だったのか、それとも短期資本の移動だったのか。この問いに、会議は答えを出せなかった、と。彼女はまた、十九世紀後半以降の研究者が、調整における短期資本移動の役割は、金属そのものに劣らず大きいと、次第に認めるようになったことも指摘している。

続いて彼女は、イングランド銀行が実際に行っていたことを列挙する。その一覧は、自動機械の働きには、まるで見えない。

イングランド銀行は、金の流れに合わせて機械的に公定歩合を上げ下げするだけではなかった。金地金や外国金貨の売買価格を調節し、のちに金操作と呼ばれる一連の手法を使っていた。貸出の種類によって異なる金利を取り、国際的な短期貸出の持ち高を増減させ、公開市場操作によって、対外的な防衛の影響を、できるだけ国内経済へ及ぼさないようにもしていた。

一覧のなかに、自動的なものは一つもない。どれも判断が要る。いつ動かすか、どれだけ動かすか、何から手をつけるか、市場に気づかせるかどうか。しかも、その狙いは、多くの場合、仕組みを動かすことではなく、仕組みが動くことで国内に生じる衝撃を和らげることにあった。自動だという機械の傍らには、ずっと人がいて、機械が自分の足元の地面まで踏み砕かないよう、受け止めていたのである。

いわゆるゲームのルールは、人が見ていなくてもよい機械だったためしがない。

この点は、構の性質をよく示している。自動的だとうたう制度ほど、舞台裏で多くの手を必要とする。そして、その手は、なるべく音を立ててはならない。誰かがレバーを動かしていると見えてしまえば、自動という説明が成り立たなくなるからだ。自動であることこそ、説得力のすべてなのに。

この節で、余項は初めて顔を出す。しかも、不思議な場所から出てくる。押し縮められる側ではなく、押し縮める側にいるのである。機械を自動的に見せるには、誰かが絶えず、自動的ではない判断を下さなければならない。ところが、その判断自体を書き込む欄はない。ゲームのルールという名前のうち、書き記されるのはルールの部分であり、書かれないのはゲームの部分なのだ。

さらに、もっと動かしがたい事情もある。レバーを動かせる人と、動かせない人は、同じ場所に立っていない。

アイケングリーンは後年、この歴史を振り返り、体制を支えた協力は、主としてヨーロッパのいくつかの中核国と、時折そこへ加わるアメリカに限られていたと指摘した。周辺の小国には、同じ支えがなかった。そのため、圧力がかかったときには、より崩れやすかったのである。

物差しは同じでも、耐えられる力は違う。構の普遍性は、つねに階層を伴っている。全員に同じ基準を当てる。だが、その基準のもとで、誰もが生き延びられるわけではない。

このことには、これまでの篇でも、いくつかの形で出会っている。第七篇では、同じ尺度へ通約する仕組みが責任を薄め、誰も責任を負わなくなった。第十二篇では、同じ賃金の物差しが、より多く働く側に、より低い値をつけた。ここにあるのは、第三の形である。同じ規律を守るにも、中核国には支える手があり、周辺国にはない。ルールは一字一句、同じように書ける。しかし、ルールの外を取り巻く支援の仕組みは、ルールのなかには書かれない。

四 目に見えない項目

金本位制を維持するなら、少なくとも、自国の対外的な勘定が、おおよそどんな状態にあるかは知っていなければならない。当時、それができなかった。

戦前のイギリスに、それ以上の統計があまり必要ないように見えたのは、勘定にずっと余裕があったからだ。目に見える商品の貿易赤字は、目に見えない項目の黒字によって長年埋め合わされ、それでも、海外へ多額の投資を行う余力が残っていた。戦前のイギリスの対外投資は、毎年、国民所得のおよそ四パーセント、一年間の貯蓄のおよそ三十パーセントに相当した。

目に見えない項目とは、海運、金融サービス、利子収入、手数料、海外投資の収益である。どれも決済はできる。しかし、綿花を積んだ一隻の船や、ひと荷の鉄道レールのように、埠頭で数え上げられるものではない。

目に見えない、という言葉は的確だ。しかも、当時の人自身が使っていた言葉である。存在しないという意味でも、重要でないという意味でもない。むしろ逆で、当時のイギリスが最も稼いでいた、大きな商売のかたまりを指していた。一国の最も強い部分が、同時に、最も数えにくい部分でもある。それだけで、帳簿にすべてが載っていると思うことには、慎重になるべきだった。だが、勘定にずっと余裕のあった時代には、数え切ろうとする動機がなかった。数えなくても、やっていけたからである。

イングランド銀行自身が後にまとめた回顧は、共通の尺度という神話に、皮肉な注釈を添えたかのような文章である。

そこには、一九二五年にイギリスが金本位制へ復帰する前、入手できた国際収支統計は、政策決定の議論にほとんど取り入れられなかった、とある。当時の人々がイギリスの対外状況を語る言葉は、曖昧なものばかりだった。一九二六年には、統計委員会が国際収支の記帳原則を理解していても、実際に使えるデータは、なお、ごく限られていた。一九二七年、ケインズはこぼしている。あの目に見えない項目は、文字どおり、いまだに目に見えないのだ、と。

一九二七年という時点を、覚えておきたい。イギリスはすでに金本位制へ戻って二年、その決定の代価を払い始めてからも二年が過ぎていた。それなのに、決定を支えるはずの対外勘定は、統計の上では、なお霧のなかにあった。決定は、精密な数字に従って下された。その数字が測ろうとしている現実は、誰にも、はっきりと測れていなかったのである。

さらに時が進むと、事態は悪くなる。一九三〇年から一九三一年にかけて、マクミラン委員会は、イギリスの短期対外純債務を推計した。その推計は、後に、明らかな過小評価だったと判明する。

そして一九三一年九月、イングランド銀行の内部覚書は、資本移動があまりに巨大なため、数字でごく大まかな見当を示すことさえできない、と認めた。

この一文を、第一節の、小数点以下七桁と並べてみる。

平価は小数点以下七桁まで計算できる。それなのに、自国の短期対外債務がいくらあるのか、明日さらにいくら逃げていくのかは、ごく大まかな見当さえ示せない。

この歴史において、余項は、こういう形を取った。これまでの篇にあったものとは、また違う。

これまでの余項には、測られなかったものがあった。正確に測られながら、見てもらえなかったものがあった。学問の門の外へ追いやられたもの、証拠を出せなかったものもあった。ここでは、もう一つの形が現れる。物差しはきわめて精密なのに、測る対象のことがわからないのである。

この二つは、しばしば一緒にされる。しかし、まったく違う。精密さは、物差しの側の話だ。目盛りがどれほど細かいか、何桁まで読み取れるか。知りうるかどうかは、対象の側の話である。いま、どれほどの大きさなのか。明日、どれほどになるのか。髪の毛ほどに細かい物差しを作っても、測るもののほうは、少しもじっとしていてくれないかもしれない。構が最も犯しやすい誤りは、ここにある。自分の側が精密であることを、向こう側までよく見えていることと、取り違えてしまうのだ。

一九三一年の危機で問題になったのは、金が定義されていないことではなかった。金の定義は、申し分なく明確だった。厄介だったのは、実際の持ち高がいくらあるか、そして、ほかの人々が明日もなお逃げ続けるかどうかである。この二つには、小数点以下の桁も、単位もなかった。

金本位制は、世界を測定可能にしたわけではない。行ったのは、別の仕事だった。本来、同じ次元へ収めにくいものを、統計へ、貸借対照表へ、為替相場へと置き換えるよう、次々と各国に迫ったのである。その工事は進み続けた。それでも、いちばん肝心な瞬間に、数字は出せなかった。

ただし、工事そのものは役に立った。この点まで裏返してはならない。国際収支の記帳原則、統計委員会、そして後の対外勘定の体系は、この制度に迫られて生まれ、今日まで使われている。構が生み出させたものは、しばしば、構そのものより長く生きる。ただ、あのときの切迫した事態には間に合わなかった。計算できるようになったころには、計算したかった出来事は、すでに終わっていたのである。

五 四百トロイオンス

一九二五年四月二十八日、チャーチルは予算演説で、イギリスの金本位制復帰を宣言した。

ただし、すぐに条件を添えた。金貨の発行を再開するという意味ではない。そんなことはまったく必要なく、当時の財政事情では、許しがたい贅沢になる、と。国民には、これまでどおり紙幣を使い、過去十年間に身につけた習慣を変えないよう求めた。

このくだりには、あまり目を留められない細部がある。チャーチルは、技術的な仕組みを説明していたのではない。人々を安心させようとしていたのだ。金本位制が戻ったと聞いても、銀行へ金を求めに走らず、安心して紙を使い続けてほしい。つまり、この制度は、発表したその日から、あることを暗黙の前提にしていた。人々が本当に全員、兌換に来たら、この仕組みは持ちこたえられない、ということだ。

では、何が復活したのか。

実際の兌換は、次の形を取った。イングランド銀行が本店で、固定価格によって金塊を売る。ただし、一回に売る量は、四百トロイオンスを下回ってはならない。

数日後、一九二五年金本位法が、この仕組みを法律へ書き込んだ。条文の意味は明快だった。イングランド銀行には、もはや紙幣を法定金貨へ換える義務はない。その代わり、要求し、法定通貨で代金を払う人に対して、純金量でおよそ四百トロイオンスの金塊を売らなければならない。

四百トロイオンス。十二キログラムを、少し超える。

この重さは、適当に決められたのではない。紙幣を持つ人の圧倒的多数を、兌換から締め出すには十分に大きい。同時に、銀行どうしの大口決済を妨げない程度には小さい。敷居をここへ置くと、誰にでも使えるはずの兌換の権利が、機関だけに使い道のある権利へ変わる。

普通の人が五ポンド紙幣を一枚持ってイングランド銀行へ入っても、何も換えてもらえない。法律上、兌換性には何の欠けもない。現実には、ごくわずかな人にしか開かれていない。

ここでは、二つのことが、きれいに切り離されている。法律の条文では、ポンドはいまも金へ換えられる。これは、まったく正しい。その言葉が、制度全体の信用を支えている。しかし、現実に権利を行使できるのは、銀行、大商社、他国の中央銀行だけだ。信用は一つの権利の上に築かれているが、その貨幣を持つ大多数の人には、その権利が実質的に成り立たない。欺瞞ではない。条文は明記され、敷居の高さも公表されている。同じルールでも、立っている場所が違えば別のものになる。そのことを、もう一度示しているのである。

チャーチルは同時に、イギリスにはすでに一億五千三百万ポンドの金準備があることも明らかにした。必要ならためらわずに使い、公定歩合と組み合わせて、復活したばかりの制度を守る、と宣言した。

この節で大切なのは、チャーチルの言葉そのものではなく、この仕組みが、どちらへ進んでいたかである。

第三篇で、リュディア人の仕事を見た。彼らは物差しに、持ち歩ける身体を与えた。それが硬貨だった。それから二千年以上、物差しと、それを使う人とのあいだには、手で確かめられるつながりが残っていた。貨幣は触れられる。重さは手に載せて確かめられる。品位には、疑いを差し挟める。

一九二五年の一歩は、逆向きだった。

金は日々の流通から、さらに引き抜かれ、大口決済のときにしか姿を見せない、制度の後ろ盾になった。金本位制を復活させる行為が、まさに、金を人の手から取り去る行為だったのである。制度は、それによって具体的になったわけではない。いっそう抽象的になり、集中し、機関に依存するようになった。

匿名性は、極限へ押し進められた。その結果、普通の人から、さらに遠ざかった。

この線をたどりながら、来た道を振り返ってみる。最初の帳簿を最後に支えたのは、神殿の序列だった。その後の貨幣を支えたのは、表面に打たれた検印だった。さらに交子は、役所が認めるかどうかに支えられた。一歩進むたびに、人格から離れていく。同時に、最後に引き受ける場所は、一段ずつ上へ移されていく。金本位制では、それが一種類の金属と、いくつかの中央銀行へ移った。普通の人は、触れることすらできない。先へ進むほど、確かめられる人は少なくなる。

これも、余項の行き先の一つである。消されたのではない。見える人が、より少ない場所へ移された。誰かが確かめられるうちは、まだ争いの対象にできる。しかし、確かめるための入場券が四百トロイオンスになれば、大多数の人の視野から消えていく。視野から消えたことと、存在しないこと。その二つは、日々の暮らしのなかでは、ひどく見分けにくい。

六 基本的な調整

ケインズは、すぐに異を唱えた。一九二五年七月二十二日から二十四日まで、ある夕刊紙に三本の論説を連載し、後に加筆して、『チャーチル氏の経済的帰結』という小冊子にまとめた。

彼の計算は、きわめて簡単だった。

戦後のポンドの対外価値は、戦前の金平価を、およそ十パーセント下回っていた。それを戦前の平価へ引き上げるなら、今後イギリスが外国へ何を売るにも、外国の買い手が十パーセント余計に払うか、イギリス側が十パーセント少なく受け取るか、そのどちらかになる。競争力を失わずに済ませる道は、一つしかない。石炭、鉄鋼、海運といった、ポンドで値がつくものの価格を、およそ十パーセント引き下げることである。

この十パーセントは、推計値ではない。二つの平価の差から計算したもので、第一節の小数点以下七桁と、同じ計算法から出ている。ここでの構の仕事は、たいへんすっきりしている。一国の対外取引をすべて一つの比率へ換算し、その比率を下へ配っていく。それぞれの業種、それぞれの企業、それぞれの人へ配られたとき、何になるのか。その問いは、この式の担当ではない。

価格を十パーセント下げる。紙の上では、きれいな一文である。

現実に実行する方法は、一つしかなかった。これらの産業で費用の大部分を占めるのは、賃金である。価格を押し下げるとは、賃金を押し下げることだ。そして賃金は、一人一人に受け入れてもらわなければならない。

計算式から給与明細までには、長い道のりがある。取締役会が開かれ、職長が伝え、契約が結び直される。ストライキが起こり、職場へ戻り、またストライキになる。この道中にあるものは、一つとして、あの式には現れない。それでも、式の答えを現実にするには、この道を最後まで通らなければならない。構は結果を計算できても、そこへ至る過程は計算できない。人が日々を生きるのは、その過程のなかである。

ケインズは、最も痛烈な一文を書いた。これは、失業を意図的に深刻にする政策である、と。

彼は、遠回しには言わなかった。賃金を無理に引き下げるために、そうしているのだ。誰が代価を払うのかも、名指しした。炭鉱労働者は、経済という巨大な車輪に轢かれる人々である。財務省とイングランド銀行は、相場を四・四〇ドルから四・八六ドルへ戻すために、基本的な調整を行った。炭鉱労働者は、その調整が人間に及ぶときの姿だった。

人間に及ぶときの姿。この短い一句に、注は要らない。比喩ではなく、政策がどう実行されるかを、正確に述べている。調整には、ほかに降りかかる場所がない。具体的な、ある人々の上に降りかかるしかない。誰の上に降りかかるかは、その人々のいる産業と、彼らの交渉力によって決まる。

ここで余項は、具体的な顔を持つ。しかも、それを指さしたのは、当時の人自身である。ケインズは、炭鉱労働者が不当な扱いを受けた、と言ったのではない。彼らこそが、あの調整そのものだ、と言った。計算式では百分率として存在するものが、現実には人として存在している。この二つの存在の仕方のあいだに、換算表はない。

数十年後、イングランド銀行自身が書いた回顧は、同じことを、冷静な公文書の言葉へ置き換えている。しかし、避けてはいない。

回顧によれば、一九二五年の復帰前、政策決定者は国際収支統計を、ほとんど真剣に検討していなかった。当時の大多数の人にとって、一九一三年の対ドル平価へ戻らない選択は、ほぼ受け入れがたかった。それによってポンドが割高になるなら、古典的な処方箋を使えばよい。国内には強制的なデフレを、国外にはインフレを起こし、価格と費用が再び釣り合うよう、押しそろえるのである。

だが、その時点ですでに、イギリスの失業率は高かった。本当に賃金を引き下げようとしても、政府は、それ以上のデフレを引き受けたくなかった。一九二六年のゼネストが示したとおり、名目賃金を下げるのも、きわめて難しい。その結果、一九二五年から一九三一年まで、対外均衡の維持は、終わりのない問題になった。資本流出を防ぐため、イギリスは長期にわたり、アメリカより高い金利を保たざるをえなかった。

代価には、統計がある。

金本位制へ復帰していた六年間、イギリスの保険対象労働者の失業率は、平均十二・九パーセント。一度も八・五パーセントを下回らなかった。一九三一年の最初の九か月には、平均二十一パーセントに達した。

四百トロイオンスと、二十一パーセント。

二つの数字は、同じ制度から出ている。法律へ書き込まれたのは、前者だけだった。後者は、その法律が動くときに伴って生じる量である。毎年公表され、誰にも見える。それでも、それを基準にする条文は、一つもない。

イングランド銀行が法定価格で金塊を渡し続けるかぎり、職を失った人々は、デフレと高い実質金利の下に置かれ続けた。

七 九十三億と二十一億

金本位制と大恐慌の関係について、最も影響力のある説明は、アイケングリーンの『黄金の足かせ』と、彼が別の研究者と共同で書いた一連の論文から生まれた。

説明の核心は、金本位制が経済政策を根本から制約し、不安定な環境を作り出すうえで、大きな役割を果たしたという点にある。彼らはさらに、もっと扱いにくい概念を提示した。金本位制のメンタリティーである。それは制度であるだけでなく、政治的エリートと中央銀行家が共有する判断の基準でもあった。金を守ることは、信用を守ること。兌換をやめることは、約束を破ることだったのである。

この概念は、本稿の枠組みにとって大切だ。これまでの十三篇で、構は外に向かって働いていた。ものを押し縮め、名前を変え、問いを立てず、境界を狭め、軌道を与え、証拠を求めた。ここで初めて、構は、それを実行する人の頭のなかへ住み込む。制度そのものには、実は逃げ道があった。人が、その逃げ道を使おうとしなかったのである。

これは、構の最も強固な存在の仕方である。ルールなら、書き換えられる。停止もできる。投票で覆すこともできる。だが、判断の基準は、誰かに実行してもらう必要がない。すでに決定を下す人の心にあり、自分が責任を果たしているかどうかを測る拠り所になっている。そこまで来れば、誰かが誰かを強いる必要はない。ルールを守る人が、自分で逃げ道を溶接して塞いでしまう。

国をまたいで比較したいくつかの事実が、この説明を、確かなものにしている。

第一に、戦間期の金本位制は、きわめて短命だった。古典期には、四つの中核国がそろって参加する状態が、三十六年続いた。二つの大戦のあいだには、同じ状態は、四年から六年しか続かなかった。

第二に、制度の技術的な余裕は、戦前より小さかった。二人の研究者は、驚くべき数字を示している。一九二九年、四十一か国が保有する金準備は、合計九十三億七千八百万ドルあった。ところが、そのうち本当に余剰で、一時的な国際的不均衡への対応に使える部分は、二十一億七千八百万ドルしかなかった。残りの大半は、法定の準備率によって、貸借対照表の上に縛りつけられていた。

九十三億のうち、動かせるのは二十一億だけ。

この点は、一度、切り離して考えてみる価値がある。準備の役目は、本来、困ったときに取り出して使うことだ。しかし、この制度は、ずっとそこに置くよう求める。置かれている姿を、全員が見られるようにするためである。準備金の役割は、使われることから、見られることへ変わった。本当に使いたくなった日、動かせるのは、いちばん小さな部分だった。

これも、先に見た流れと重ねられる。構は、裏づけがあると信じてもらうため、その裏づけを人前に置かなければならない。ところが、人前に置いたものを動かせば、裏づけが足りないと認めることになる。こうして、準備が信用そのものと見なされるほど、準備は使えなくなる。最後には、使わないことが、そのものの使い道になってしまう。

第三に、金本位制は、引き締めを国境の外へ伝える。アメリカの連邦準備制度は、一九二八年から一九二九年にかけて、株式投機を抑えるために信用を引き締めた。国際金本位制があるため、他国の中央銀行も、後を追って金利を上げざるをえなかった。引き締め的な金融政策は、多くの経済を景気後退へ押し込んだ。一九三〇年代初めの世界的なデフレを、ある研究者は、国際金本位制を通じて伝わった貨幣収縮だった、と一文で言い表している。

第四に、早く離れた国ほど、早く立ち直る傾向があった。金本位制へ一度も復帰せず、為替相場を変動させたスペインは、ヨーロッパの大半の国が経験した、物価と生産の下落を免れた。一九三一年、イギリスとともに金本位制から離れたスカンディナヴィア諸国は、中に残ったヨーロッパ諸国より、明らかに速く回復した。二十四か国の標本では、一九三二年から一九三五年までの工業生産の伸び率は、金本位制の外にいた国のほうが、残った国より平均でおよそ七パーセントポイント高かった。イングランド銀行自身の歴史記事も、イギリスで本格的な回復が現れたのは、一九三二年初めになってからだと認めている。その前提にあったのは、一九三一年の後半に金本位制を停止し、ようやく利下げとポンドの切下げが可能になったことだった。

第五に、金を吸い込み、外へ出さない国が二つあった。ある研究者は、フランスを金のブラックホールと呼んでいる。世界の金準備に占めるフランスの比率は、一九二七年の七パーセントから、一九三二年には二十七パーセントへ上がった。しかも、増えた金の大半は、準備率を引き上げることで、動かせない状態に置かれた。その研究者の反実仮想の試算によれば、一九二九年から一九三三年まで、金準備と物価の歴史的な関係が従来どおり働いていれば、世界の物価は、壊滅的に下がる代わりに、わずかに上がるはずだった。彼はさらに、一九二九年に米仏両国が過剰に保有していた金は、世界の金の総量の六パーセントに相当し、一九三〇年から一九三二年には、十二パーセントに達したと推計した。一九三二年には、フランス一国だけで、世界の金の総量の十三パーセントを、実効的な流通から引き抜いたのに等しかった。

イギリスは、そのあいだで両側から挟まれた。一方には、割高なポンドがあった。もう一方には、フランスが準備をポンドやドルではなく、金で持つようになった圧力があった。一九三一年七月から九月にかけて、イギリス当局は、およそ二億ポンドに相当する金と外国からの信用を、ポンドを支えるために動員した。それでも流出は止まらず、九月に兌換停止へ追い込まれる。ポンドはその後、十月には三・八九ドル、十二月には三・三七ドルへ下落した。

八 堅実な家計運営のお墨付き

もう一方の説明も、十分な厚みを持たせて、そのまま並べなければならない。そうしなければ、ここまでの七節は、ただの判決文になってしまう。

ある研究の流れは、古典的金本位制を、堅実な家計運営のお墨付きと呼ぶ。論拠は、こうである。一八七〇年から一九一四年までのあいだ、周辺国が金本位制へ参加するのは、ロンドン市場への合図になった。財政が健全であり、約束を守る意思があると伝えるのである。そのため、資金を借りやすくなり、借りる費用も下がった。数量的な研究は、その利益を計算している。一九一四年以前、金本位制を守ることで、一国の借入金利のスプレッドは、およそ四十から六十ベーシスポイント縮まったという。

この流れは、さらに細かな説明も示している。離脱条項を備えたルール、という考え方だ。古典的金本位制は、融通の利かない決まりではなかった。平時には兌換を守り、戦争や大きな危機があれば停止してもよい。ただし市場は、その国が事態の収まったあと、元の平価へ戻ると予想する。この説明に立てば、古典的金本位制は人間性を欠いた制度ではない。裁量を、より信頼できる枠組みのなかへ収めた制度なのである。

この立場も、たいていは戦間期の失敗を否定しない。ただし、力点は別のところに置く。失敗したのは、大戦後に再建された金為替本位制であって、古典的金本位制そのものではない。後には、さらに明瞭に擁護する人も現れた。多くの災厄は、中央銀行が金本位制のルールを破ったためであり、制度の発想自体を責めるべきではない、と。

両側とも、証拠を示せる。ここでは判定しない。その理由は、明らかにしておく必要がある。

三つの立場は、同じものを見ていない。一方が主に問うのは、古典期に、なぜ相対的な安定を保てたかである。もう一方が主に問うのは、戦間期に、なぜ景気後退を大恐慌へ拡大してしまったかである。さらに別の人々は、代価を知りながら各国が最後まで守ろうとしたのはなぜか、また、なぜ一部の国は先に離れたのかを問う。三つの問いには、それぞれの時期、それぞれの国、それぞれの証拠がある。金本位制は結局よかったのか、悪かったのか。その一言へ練り合わせても、答えは出ない。違いを磨り減らして、平らにするだけである。

ついでに、方法についても一つ記しておきたい。議論に決着がつくには、皆が同じ命題を争っていることが前提になる。経済史で長く決着しない論争には、証拠が足りないからではなく、同じ題名のもとで、実は違う問いに答えているものが多い。題名が同じであることは、それだけで、争っていることも同じだという思い違いを招きやすい。

ただ、ある研究は問いをもう一歩、政治の側へ進めた。その結論はゆっくり読む価値がある。

二十四か国のパネルデータでは、一人当たり所得が高く、債権国としての立場が強く、ハイパーインフレを経験した国ほど、金本位制に長くとどまりやすかった。反対に、民主制、失業、銀行危機は、その存続を短くした。

日常の言葉へ移せば、こうなる。一国が金本位制にどれだけ長くとどまれるかを決めるのは、金をどれだけ持つかだけではない。人々に苦痛を、どれだけ長く負わせ続けられるかでもある。そして、どれだけ長く負わせ続けられるかは、それを受ける人々に、押し返す手段があるかどうかによって決まる。

最後に、まだ述べていないことが一つ残る。この仕組み全体の、最も深い皮肉である。

金を節約するために、戦間期に再建されたのは、いっそう純粋な金の体制ではなく、いっそう抽象的な金為替本位制だった。多くの国は、戦後、金貨の流通をやめ、金地金本位制へ移った。さらに多くの国は、金へ換えられる外国為替を、そのまま準備に使うようになった。その外国為替は、実際には、主としてポンドとドルだった。ヨーロッパの中央銀行が保有する外貨準備は、戦前の十年間には、おおむね二億五千万ドルから四億ドルのあいだで推移していた。それが一九二四年末には、すでに八億四千四百万ドルとなり、一九二八年末には、二十五億一千三百万ドルへ達した。戦間期の四つの中核国のうち、金貨本位制を残していたのは、アメリカだけだった。イギリスとフランスは金地金本位制であり、他の国の大半は、金為替本位制だった。

つまり、金を土台にするという世界は、実際には、ほかの誰かが金への兌換を約束した紙の上へ、ますます深く腰を下ろしていたのである。

第六篇で、交子を見た。貨幣から金属を剥がせば、重みはすべて、人格の上にかかる。金本位制がしようとしたのは、その逆だった。人格から金属へ、重みを移し戻そうとした。だが、最後にできたのは、新たな信頼の層だった。それまでの信頼よりも遠く、集中し、確かめられる人の少ない層である。信頼から完全に自由になろうとした果てに、信頼は、いっそう見えない場所へ移された。

国家の信用、市場での評判、中央銀行どうしの協力、そして社会の服従に頼る糸は、一度も取り除かれていない。一八七〇年代の制度転換。一九一四年の戦争財政。一九二五年の割高な平価への復帰。一九三一年の資本逃避。一九三三年前後の世界的な銀行恐慌。本当の負荷がかかるたびに、その糸は、もう一度照らし出された。

初めの二つの数字へ戻ろう。

小数点以下七桁と、ごく大まかな見当さえ示せないという一文。同じ制度から出てきた二つのあいだには、十年もたっていない。

実は、矛盾していない。物差しは、きわめて精密に作れる。正確に測れるものなら、すべて測り終えたのだと人に思わせるほどに。それでも、その物差しが測っているのは、つねに、自分に測れるものだけである。測れないものは、そのまま動き続ける。そして、いちばん肝心なときに、いちばん激しく動く。

勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。

中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English