第十三篇 共有地と囲い込み:名のないものは、柵の外に残された
村の記憶と慣習に支えられた共同利用権が、測量図、証書、排他的所有へ翻訳された。囲い込みの効率と、証明責任が生んだ喪失を読み分ける。
この篇の目次
一 自分の家で、起き伏しする
イングランドの荘園裁判所には、ある共有地へ放せる家畜の数を制限するために、二つの方法があった。
一つ目は、頭数を割り当てること。一戸につき何頭までと定める。あるいは、保有する持ち分に応じて、土地一口につき牛何頭、小屋一軒につき羊何頭と決める。こちらは、一つの数である。書き留めておけば、あとはその数どおりに数えればよい。
二つ目は、自分の家で起き伏しする、という決まりだった。共有地へ放せるのは、その家が冬のあいだも養い、自分の庭で起き伏しさせられる家畜に限る、という意味である。
こちらは、一つの数ではない。上限を何頭と定めず、それぞれの家が養える力に結びつける。飼い葉をたくさん蓄え、冬を越させられる家なら、多く放せる。蓄えが少なければ、少なくなる。実りのよい年には、村全体の上限も、おのずと上がる。悪い年には、おのずと縮む。毎年集まって、新しい数字を決め直す必要はない。この決まりが、自分で計算してくれるからだ。
どうやって守らせるのか。隣人たちの目に、すべてが見えている。どの家の庭に、どれだけの草が積んであるか。冬の小屋で、何頭の家畜が横たわっているか。一つの村では、隠しようがない。この決まりに帳簿はいらない。必要なのは、互いをよく知る人々が、同じ土地に長く暮らしていることである。
どちらにも、代償はある。頭数の割り当ては明快で、ほかの場所へ持っていける。別の村でも使え、一度もそこへ来たことのない人でも、帳面を手に確かめられる。自分の家で起き伏しするという決まりは、持ち運べない。皆が互いを知る場所でしか成り立たず、よそへ移せば、ただの空文になる。前者は帳簿に収まる。後者は、収まらない。
この二つの違いを、まず覚えておきたい。その後の三百年に起きたことは、一方の方法が、もう一方を少しずつ押しのけていく過程として見ることができる。
そのためにも、初めにはっきりさせておくことがある。共有地は、誰も管理しない土地ではなかった。
イングランドの法律と慣習のなかで、共有地とは、単一の物ではなく、いくつもの権利が組み合わさった仕組みだった。よく見られるものは六つある。共同の草地で牛や羊を飼う、放牧の権利。秋に豚を森へ入れ、ドングリやブナの実を食べさせる権利。小枝、ワラビ、ハリエニシダを、燃料や屋根葺きの材料に取る権利。芝土や泥炭を切り出して、燃料にする権利。共同の水域で魚を捕る権利。そして、砂、石、粘土、鉱物を採る権利である。
この六つの権利を、村人が皆、持っていたわけではない。そうした例は、むしろ少なかった。権利はふつう、特定の保有地、特定の小屋、特定の地所に付随していた。行使できたのは、自由保有者や謄本保有者など、名の定まった幾戸かの家である。通りがかった誰もが使える、というものではなかった。
ここは強く言っておく必要がある。後の二百年に生じた、いちばん大きな誤解がここにあるからだ。共有地という言葉は、誰でも使える土地と受け取られやすい。実際には、誰が、何を、いつ、どれだけ使えるか、ほとんど一つひとつに決まりがあった。ただ、その決まりは紙の上ではなく、一つの村の記憶に書かれていた。
権利を管理したのは、地方の裁判所や集会だった。荘園裁判所、領地の裁判所、森林地域の会議が、幾重にもあった。村の規約を定め、いつから放牧してよいか、一度に何頭までかを決める。病気の家畜は入れてはならない。違反すれば、いくらの罰金を科す。この歴史を研究する人々は、繰り返し念を押している。誰もが押しかけて、好き勝手に奪い合う場とは、およそ違っていたのだ。
共有地がどれほどの面積を占めたかについては、歴史家のあいだでも大きな隔たりがある。一五〇〇年前後のイングランドとウェールズでは、土地の半分ほどだったかもしれない、とする研究者がいる。ただし、村の誰もがそこへ入れたという意味ではない、とすぐに付け加える。別の研究は、慈善団体が保有する地所の標本から推計し、一六〇〇年のイングランドでは二十六から二十七パーセントほどにすぎず、実際に自由な立ち入りができた部分は、四パーセント程度だったとする。
二つの数字には、大きな開きがある。だが、両者が認めることも一つある。イングランドの歴史に現れる共有地は、際限なく資源の広がる荒野ではなかった。権利、地役の関係、荘園裁判所、土地の慣習によって、幾重にも範囲を定められた、利用の仕組みだったのである。
その後の三百年に起きたことは、一つの翻訳と呼べる。記憶や習慣、隣人との関係に根を張った利用の仕組みを、別の言語へ移す。分割でき、値をつけられ、売買できる。地図に描け、権利証書に書け、法廷で証明できる。その言語へ訳せた部分は、新しい帳簿に入った。訳せなかった部分が、ここからたどっていく余項である。
二 一頭の牛
のちに何が失われたのかを知るには、まず、一頭の牛にどれほどの値打ちがあったかを見なければならない。
乳の値段だけを問うなら、牛の価値は調べられる。一年にどれだけ乳を出すか。乳一斗はいくらで売れるか。掛け合わせればよい。だが、共有地のほとりに暮らす家にとって、その牛の勘定は、そういうつけ方ではなかった。
牛が乳を出す。脂肪をすくい取ったあとの乳は、豚に与える。育った豚は、冬に屠ることも、売ることもできる。牛が糞をする。その糞を、家の脇の菜園へ入れる。菜園に野菜が育ち、野菜は鍋に入る。牛の番をするのは、その家の子どもだ。ひと夏、丘の斜面に立つ。賃金はなく、仕事にも数えられない。バターやチーズを作るのは家の女であり、食事を作るのも、彼女だった。
こうして見ると、あの牛は、一件の資産ではない。一つの仕組みの中心にいる。そこを抜けば、ほかも一緒に崩れてしまう。豚には餌がなくなり、菜園には肥やしがなくなる。子どもの時間は空くが、何かほかのものと引き換えられるわけではない。女が日々していた、いくつもの仕事は、手をかける相手を失う。
大切なのは、この仕組みのどの部分も、単独では金にならないことだ。乳だけを売っても、大した額にはならない。糞は商品ではない。子どもが牛を見て過ごす夏は、どの賃金表でもゼロである。女が乳製品を作る腕には、雇い主がいない。互いにつながって初めて、重みが生まれる。そして、つないでいるのは所有権ではない。一つの家が、毎日の暮らしをどう営むかという、その取り合わせである。
共有地の値打ちも同じだ。一エーカーから、いくらの地代が取れるかでは尽くせない。冬の燃料を与え、不作の年には、足りない分を埋める。一家が住まいの脇に組み立てた、小さな仕組みに、余地を与えるのである。
落穂拾いが、最もよくそれを示している。収穫が終わると、貧しい家の女や子どもが荷車のあとを歩き、畑に残った麦の穂を拾う。この営みを研究した歴史家の推計では、一定の賃金で暮らす家のなかには、一年の拾い穂が三十三シリングに達し、年収の十・四パーセントに相当するところもあった。男のいない、女が世帯主を務める家や、不作の年には、その割合はさらに高くなる。
十・四パーセントという割合は、重く受け止めるべきだ。小遣いでも、補助的な収入でもない。一家のひと月分を少し超える収入であり、しかも、端境期を迎える直前に手に入る。一年のなかで最も大切なその一口は、どの帳簿にも名のない営みから来ていた。
落穂拾いは、ほとんど女たちだけの領分だった。
第十二篇では、あの帳簿の底に空いたままの欄について述べた。ここでは、その欄に、具体的な畑がある。収穫のあとに落ちた麦の穂は、一括して売れる地所の一部でもなく、ひとりでに誰かの賃金になるものでもない。まず、金をもらわない人々が、一穂ずつ拾って帰る。同じ人々が、粉にひき、煮て、豚に与え、蓄える。そうして初めて、食べられ、燃やせ、冬を越す助けになる。そのあいだの長い労働は、どの一段階も、帳簿に入ったことがない。
一つ、気を留めておきたい。この時代を調べる研究者が、共有地の権利にどれだけの値打ちがあったかを示すには、市場にある、よく似た品物の値段へ換算するしかない。牛乳は牛乳の値段、薪は薪の値段、拾った穀物は穀物の値段で計る。その計算をした研究者自身も、場所によっては売買そのものがなく、似た価格を無理に当てはめるほかなかった、と述べている。
換算しなければならないという、そのこと自体が、問題を語っている。初めから市場の帳簿にきちんと記されていたものなら、誰かがあとで、わざわざ換算する必要はない。
こうした価値は、存在しなかったのでも、誰も知らなかったのでもない。ただ、登記できる一人の保有者を持っていなかった。
これが、この歴史における余項の姿である。測られなかったのではない。測ることはでき、後の歴史家が、一つひとつ測ってもいる。正確に測っても、誰にも見てもらえなかったのでもない。見る人は、ずっと大勢いた。難しさは別のところにあった。一人の名義へ帰属させられないのである。そして、新しい言語が認めるのは、名義のあるものだけだった。
名義。この二文字が、新しい言語の要である。古い言語では、一つのものが、同時に何人とも関わりを持てた。牛はこの家のもの、草は共同のもの、番をするのは子ども、恩恵を受けるのは家族全員だ。新しい言語では、一つのものは、同じ時点には、一つの名だけに属さなければならない。一つの名の下へ書けるものなら、構はそのまま受け入れる。書けないものについては、存在を否定するわけではない。ただ、置く場所がないのである。
乳は牛のもので、牛はこの家のものだ。では、あの鍋は、子どものあの夏は、女の手にあった仕事は、不作の年に命をつないだ、あのわずかな余地は、誰の名義で登記するのか。
三 今後、何人も囲い込んではならない
囲い込みは、ある時期に突然起きた出来事ではない。速くなったり、遅くなったりしながら、長く延びていく一本の線である。しかも、線の初めの部分は、後とは逆の方向へ向かっていた。
一四八九年以降、王権と議会は、囲い込みを抑える法律を何度も設けた。理由は経済学上のものではなく、政治上のものだった。囲い込みは、村から人口を流出させ、社会に不安を生み、秩序を揺るがすと考えられたのである。十六世紀前半の初期の囲い込みは、多くの場合、領主が直営地や、保有期間の定まらない借地人を支配していることを利用して進められた。
この時期は、よく見ておく必要がある。おなじみの並べ方が、ここでは逆になるからだ。後世、この歴史を語るときには、囲い込みを進歩の側に置き、反対する人々を守旧の側に置きがちである。だが、初めの百年、反対の側にいたのは王権と議会だった。人を村から追い出せば、そのあとに騒ぎが起きる。それが理由だった。ある研究者が一つの郡を調べたところ、一四八五年から一五五〇年までに記録された囲い込みのうち、およそ七十パーセントは、貴族やジェントリが単独で進めていた。それができたのは、その土地の借地人が、安定した土地保有の権原を持っていなかったからである。
一五四九年、ノーフォークで反乱が起きた。率いたのは、ケットという男だった。人々は荒野の一角に陣を置き、二十九か条の請願をまとめた。
第一条には、今後、何人もこれ以上囲い込んではならない、とある。第十一条は、あらゆる共有地の収益を、自由保有者と謄本保有者に得させよ、と求めた。第十四条は、謄本保有地の地代を、ヘンリー七世治世の初めの水準へ戻せ、と求めている。
現代の意味で、平等を掲げた綱領ではなかった。求めることは、きわめて具体的だ。経済を組み替える速度を抑え、借地人への圧迫を軽くし、共有地から得ていたものを取り戻す。さらに、地方を治める権限の一部を、領主の手から移すことだった。
その請願とともに、一つの訴えも伝わっている。飾り気がなく、曖昧さのない言葉である。われわれの先人が、われわれとわれわれの子どもの暮らしを助けるために残した共同の牧草地が、奪われた。
この言葉は一字も効率を論じていない。語っているのは、先人が残したもの、子どもへの責任、そして扉の外へ閉め出された、あの感じである。
三つとも、単位を持たない。先人が残したものはいくらか。子どもへの責任はいくらか。閉め出された感じには、いくらの値がつくか。どれも数字では答えられない。こうした請願を新しい言語で聞き入れてもらうには、別の言い方へ換えなければならない。年にいくら収入が減るのか。一戸あたり何頭の家畜を失うのか。シリングにすれば、何シリングか。ケットたちは、そうは書かなかった。先人と、子どもたちのことを書いた。
一六〇七年には、中部の諸郡で、再び人々が立ち上がった。歴史学では通常、イングランドで農民が連携して起こした、最後の行動とされる。矛先は、いっそう明確に囲い込みへ向いていた。当時の王室布告を調べた研究者は、見落とされがちなことを指摘している。囲い込みをめぐる争いは、無知な群衆が近代化に逆らった、というほど単純ではない。王権そのものさえ、一部の囲い込みを、富める者が王の法と社会への義務を軽んじる行為と見なしえたのである。
つまり、その時代には、誰が法を破り、誰が秩序を壊しているのかこそが、争われていた。後から簡単に、どちらがどちらと振り分けられる事柄ではなかった。
トムスンは、十八世紀イングランドの群衆を研究するなかで、貧民のモラル・エコノミーという考えを示した。多くの騒動は、飢えに対する本能的な反応だけでは説明できない。その背後には、共有された判断がある。市場で、製粉所で、パン屋で、穀物を分配するときに、何をしてよく、何をしてはいけないか、という判断だ。暴動という言葉では小さすぎて、これらの行動を支える規範についての判断まで収めきれない、とも注意を促している。
この考えを囲い込みへ戻してみると、軽く見られがちなことがわかる。共有地の権利は、経済的な足しであると同時に、人々が正当だと考える秩序でもあった。反対したのは、数シリングを失うからだけではない。囲い込みは、何が誰か一人の持ち物として当然視され、何が隣人たちの世界から正当に求められる取り分ではなくなるかを、新たに宣言したのである。
三百年のあいだに、同じ議会が、初めには囲い込みを禁じる法律を作り、後には推し進める法律を作った。その間には、多くのことがあった。それでも、一つは確かである。囲い込みは、最初から進歩とされていたのではない。
四 夏の、三度の日曜日
十八世紀半ばを過ぎると、議会立法による囲い込みが主流になった。一六〇四年から一九一四年までに成立した囲い込み法は、五千二百件を超える。対象は、イングランドの面積の五分の一をやや上回る、約六百八十万エーカーだった。歴代の法律と裁定を集めた別のデータベースでは、五千三百八十三件と数えている。数字は少し違うが、違うのは集計の範囲であり、出来事の規模ではない。
五分の一という割合を、少し重く受け止めてみたい。一つの国の五分の一が、三百年のあいだに、一件ずつの法律によって、ある権利の状態から別の状態へ書き換えられた。どの一件にも、起草する人がいて、会議、掲示、聴聞、裁定、記録の束がある。混乱が起きたのではない。一つの事業が進められたのである。
議会による囲い込みというと、一枚の法律が出るなり、地主が土地を囲って持ち去った、と想像しやすい。実際の手続きは、はるかに煩雑だった。そして、煩雑だからこそ、それまで曖昧だった事柄を、文書に記せ、測定でき、争うこともできる対象へ変えるのに、ひどく長けていた。
まず、地元で話し合う。弁護士に法案の起草を頼む。公開の集会を開く。夏の日曜日、三週続けて、教会の扉に法案を掲示する。同時に、同意の状況を示す書面を提出する。教区内の土地所有者をすべて列挙し、それぞれが持つ土地の価値と、囲い込みへの態度を書く。賛成か、反対か、中立か。
十八世紀には、どれだけの同意があればよいか、統一された法定の線はなかった。一般には、土地の価値で数えて、四分の三、あるいは五分の四が必要とされる。一八三六年以後、ようやく三分の二と明記された。
土地の価値で数える。この言葉で、足を止めておきたい。
同意は、人数ではなく、土地の価値によって数えられた。千エーカーを持つ人と、小屋一軒しか持たない人は、あの表の上で、一票と一票として向き合うわけではない。まして、土地は何も持たず、代々、共有地で牛を飼い、ワラビを刈ってきた人は、分母にさえ入っていない。
構が帳簿をつけるうえで、とりわけ手間のかからない仕立てが、ここにある。誰かを論破する必要も、誰の意見は数えない、と宣言する必要もない。一つの計量単位を選ぶだけでよい。しかも、その単位は、いま組み替えようとしている物そのものである。それを自分の名義で多く持つ人ほど、組み替えるかどうかを決める場で、声が大きくなる。
法案が議会を通ったあと、ようやく本当の翻訳作業が始まる。
法律によって、通常は三人の委員と、一人の測量士が指定される。測量士が先に土地を測り、図を描く。続いて委員たちが会議を重ね、それぞれの主張を聞く。彼らが求めるのは、一言だった。あなたがどんな権利を持つのか、証明してください。
この一言が、組み替えの全体を支える要である。
うちは、昔からこの土地でワラビを刈ってきた。この斜面で泥炭を採ってきた。秋には、あの森へ豚を入れてきた。そう言うことはできる。どれも本当であり、村の誰も異を唱えない。だが、昔からそうしてきた、という事実を、法的に通用する権原へ訳せるかどうかは、別の条件で決まる。文書があるか。隣人に証言を頼めるか。権利が、開放耕地の保有区画に結びついているか、それとも小屋一軒だけに結びついているか。自分は、自由保有者か、謄本保有者か、ただ使い慣れているだけの人なのか。
皆が知っている、ということでは決まらない。
ここで構が使う方法は、これまでの十二篇には、まだ出ていない。あなたに権利はない、と言うのではない。否認もせず、名を変えもせず、価値を低く見積もりもせず、境界を内側へ引くこともしない。ただ一言、証拠を示してください、と言う。
ところが、この種の権利は、証拠を要しないことによって存在していた。記憶、隣人、毎年繰り返す行いに支えられていた。誰もが目にしているからこそ、書き残そうと考えた人がいなかったのである。証拠を示してくださいと求めること自体が、すでに、その権利を退けることになっていた。
これまでの十二篇には、構と余項をめぐる六つの扱い方が現れた。より大きな構によって、外側からほどかれる。名を変え、そのまま続ける。正確に測りながら、問わない。費用へ織り込める金額に書き直す。学問の境界を、一段内側へ引く。そして、帳簿の周りを回る軌道を与える。ここに七つ目がある。しかも、いちばん、手を下したように見えない方法だ。何もせず、自分で出てきて、証明するよう求めるだけなのである。
委員たちは最後に裁定を下す。新しく割り当てる土地、道路、排水、囲い、交換した区画、十分の一税の換算、教会の土地を、一つの法的文書へまとめる。その裁定も、教会の扉に掲示し、人々の前で読み上げる。
手続きの上では、初めから終わりまで、すべてが公開されていた。
五 バートン
一つの教区を具体的に見れば、何が起きたかは、もっとはっきりする。
ハンバー川の南岸に、バートンという土地がある。囲い込みの前には、まだ、かなり典型的な姿を残していた。開放耕地、草地、湿地。「牛と馬の牧草地」と呼ばれる共同の放牧地があり、共同で使う高地もあった。住民が持つ共有地の権利には、収穫後の大きな耕地での放牧、草地と森林の利用、燃料用のワラビやハリエニシダの刈り取り、粘土、石、砂の採取、そして、燃料にする芝土の切り出しが含まれていた。
バートンの囲い込みは、一七九七年に始まった。
ここでは、十分の一税も同時に処理された。この仕組みでは、もともと農業生産のおよそ十パーセントを徴収していた。取り立てる権利を持つ人は、通常、今後の徴収を放棄する代わりに、より大きな地所を割り当てられた。毎年、一定の取り分を受け取る権利が、一度きりの土地の引き渡しに換算されたのである。
見事な換算であり、双方にとっても筋は通っている。取り分なら、毎年集めなければならない。量はその年の実りによって増減し、見に行く人も要り、争いにもなる。土地に換えてしまえば、すべてが確定する。もう取り立てず、もう争わず、地図に書き入れれば済む。構が最も好むのは、こういう取引だ。絶えず保ち続けなければならない関係を、一度で清算できる資産の持ち高へ換えるのである。
囲い込みが終わると、共有地はなくなった。散らばっていた細長い耕地は、まとまりのある大きな保有地へ引き直され、新たな道路網も同時に整えられた。
新しい地図で、ひときわ目立つのは集中だった。有力な三つの権利主体が、合わせて教区全体の六十三パーセントを支配した。
その一方、共有地についての権利の申し立てのうち、十二から十五パーセントが、委員によって退けられた。ハリエニシダを刈る権利や芝土を切り出す権利は、そこで消えることが多く、通常、補償もなかった。
退けられたことと、補償がなかったことは、分けて見なければならない。退けるとは、その権利は法的に成立していない、と委員が判断することだ。補償がないとは、成立していない以上、買い取るべきものもない、ということである。二つが合わさると、こうなる。囲い込みのあと、それまでの行いは、もうできなくなる。だが、法的文書の上では、何一つ奪われていない。
この教区を、古い言語から新しい言語へ訳すために、手続きや作業の費用だけで、およそ一万三千ポンドがかかった。
翻訳はただではない、と、この額は教えている。測量にも、製図にも、弁護士にも金がかかる。委員の報酬が要り、会議、掲示、読み上げ、境界石の設置、道路づくり、排水路を掘ること、すべてに金が要る。一つの教区を新しい形へ変える費用は、誰かが先に立て替えなければならないほど大きい。そして、その額を出せる人は、ふつう、この組み替えで最も多くのものを受け取る人でもあった。
一つの村だけで囲い込みを食い止めるのが難しかった理由も、ここにある。止めようとすれば、弁護士を雇い、証人を探し、ロンドンまで出向くために、金を出さなければならない。それこそが、共有地に最も頼って生きる人々に、最も欠けているものだった。構がある土地へ入るとき、運んでくるのは新しい規則だけではない。どれだけ払えるかによって並べた、順番の表も一緒に来る。
ほかの土地でも、事情は同じだった。ランカシャーのある教区では、二つの荘園領主家の所有権の主張が認められた一方、より広い住民層が持つ利用の権利は、はるかに危うかった。八百エーカー近い土地のうち、ほぼ六百エーカーが、この二家へ渡った。
共有地の利用者を研究するある歴史家は、このことを鋭く言い表している。囲い込みのなかで比較的安全だったのは、狭い意味での法的権利だけであり、住民であることや慣習によって享受してきた権利は、ずっと脆かった。
一九一一年、各地で起きた結果を、厳しい一文にまとめた人がいる。こうして貧しい人々は、何の補償も受けずに、燃料を得る手段を失った。
ここは明確にしておく必要がある。こうした結果は、露骨な腐敗がなければ生じない、というものではない。手続きは公開され、法律上は慎重に進められながら、配分だけは、極端に釣り合わない。そういう過程は、十分にありうる。近年の研究者は、これを一文に縮めた。囲い込みは、まったく合法でありながら、なお不公平でありうる。
この趣旨が現れるのは、これで三度目になる。第八篇で、人を丸ごと価格の平面へ押し込んだ仕組みは、法律の形式を、初めから終わりまで損なわなかった。第十一篇では、労働者は賃金を全額受け取る。契約は破られず、法にも反せず、紙の上の勘定は合っていた。ここで三度目だ。今度は、それを引用できる判断として、書き記した人がいる。
合法であることと、公平であることが、正式に切り離された。分けてみると、一つのことがよく見える。手続きが整えば整うほど、誰に証明の責任が課されるかが、いっそう強く結果を左右する。だが、立証責任を誰に置くかは、手続きをめぐる議論のなかに、そもそも入っていない。それは、手続きの前提なのである。
六 財産とは、排他的に享受することである
一七八八年、落穂拾いをめぐる訴訟が、コモン・ローの裁判所に持ち込まれた。のちに、大落穂拾い裁判と呼ばれることになる事件だった。
ラフバラ卿は判決文で、落穂拾いの権利と称されるものは、財産の本性と相いれない、と書いた。財産とは、排他的に享受することだからである。同じ箇所で、その土地を耕しているのは農業者一人であり、落穂を拾う者には、共同の労働も共通の利益も、主張の根拠として存在しない、とも述べている。
この判決の重みは、結論ではなく、そこで行われた操作にある。
それまで、落穂拾いは何に支えられていたのか。慣習、施しの伝統、地元の黙認、誰もが暗黙に受け入れていた、道徳上の期待である。畑に残された、その取り分を、誰も正式に与えてはいない。正式に取り上げた者もいない。そのまま毎年、人々が拾って帰っていた。
あるものが、こうして何年も存在できるのは、誰のものかと問う人がいないからだ。問えば答えが要る。答えが出れば、誰かがそれを執行しなければならない。それ以前には、問わないことで、皆がどうにか暮らせていた。第五篇でも、勘定が閉じることと、問わないことの関係を述べた。あのときは、帳簿をつける側が、自分で問わなかった。今回は、問うよう裁判所に求めた者がいた。そして、求められた以上、裁判所は答えを出さなければならない。
判決がしたのは、あの余項を、排他的な財産の内側へ、改めて組み入れることだった。貧しい者は生きるべきでない、と言ったのではない。この土地に生えたものと同じく、収穫のあとに残るものも、同じ一人のものだ、と言ったのである。
排他性が、財産の前提となる。あるものが財産になるには、まず、一人が独占して享受できなければならない。ほかの人が手を触れれば、それは侵害になる。
共有地の権利は、それとは逆の性質を持っていた。同じ土地、同じ季節に、一人は牛を放し、一人はワラビを刈る。一人は豚を森へ入れ、一人は溝のそばで土を採る。それぞれが必要なものを取り、誰もほかの人の邪魔をしない。この共存は、財産の一形態ではない。あの判決に従えば、財産の反対物なのである。
ここで、鮮やかな置き換えが起きる。もとの問いは、この土地で収穫後に残ったものを、誰が持っていくべきか、だった。答えは、複雑な慣習の組み合わせである。持ち主が売れるものを取り、貧しい人々が落ちたものを拾う。取る時期には先後があり、立場によって関わりの近さにも違いがある。新しい問いは、この土地は誰の財産か、である。答えは、人の名一つしかない。前の答えを保つには、一つの村全体の記憶が要った。後の答えなら、一枚の紙に書けば足りる。
結果は、抽象的なものではなかった。コベットは、自分が嫌う、穀物の単作ばかりの土地を馬で通り、率直な言葉を残している。生け垣も、溝も、共有地もない。哀れな働き手には、薪が一本もなく、豚一頭、牛一頭に草を食べさせる場所もない。
同じことは、数字からも見える。ある研究者は、ノーサンプトンシャーで、囲い込み後に小規模な土地所有者の数が二十一パーセント減ったことを明らかにした。近年、全国のデータを使った研究でも、議会による囲い込みに、小屋保有者の割合の有意な低下が伴っていたことが示されている。
失われたのは、いくつかの恩恵ではない。一つの暮らしの足場が、丸ごと消えたのである。小さな自分の土地、自給の営み、家での副業、外へ出てする日雇いの仕事。そのあいだにあった足場だ。そこにいれば、牛一頭、鶏数羽、菜園、冬の薪、農繁期に稼ぐわずかな賃金を持てる。どれか一つだけでは、生きていけない。合わせれば、生きられた。
この足場は、それだけでは不十分なものを、いくつもつなぎ合わせてできている。一つひとつを取り出せば、生きるには足りない。構が最も扱いにくいのは、まさにこういうものだ。主となる項目も、一つにまとめる名目もない。ばらばらにすれば、どれも取るに足らないほど小さく、合わせれば、一人の暮らしのすべてになる。囲い込みは、この足場を狙って壊しにいったわけではない。それを組み立てていた部品を、一つずつ、ほかの人へ割り当てていっただけだった。
余項がこうして消されることは、めったに見抜かれない。あの暮らし方に反対した人がいたわけではない。今後、このような家があってはならない、と記した法令もない。構がしたのは、部品を外すことだ。一つひとつの部品を処理するときには、どれも理屈が通っている。この斜面には持ち主がいる。この森にも持ち主がいる。収穫後の畑にも、持ち主がいる。筋の通った処理をすべて足し合わせると、あの足場がなくなっていた。
足場がなくなったあと、その人の手元に、差し出せるものは、ただ一つしか残らなかった。
第十一篇で述べたことの前提が、ここで作られたのである。
七 三パーセント
改良を評価する側の言い分は、そのまま示さなければならない。おざなりに済ませてはならない。
イギリス議会自身による歴史の概説は、いまも、十八世紀後半以降、囲い込みが農業の生産性を大きく高めたことには、ほぼ疑いがないと記している。一九八六年には、一七九五年から一八〇一年までの穀物の単位面積当たりの収量と総生産量を使い、開放耕地と囲い込み地を体系的に比較した研究が出た。問いは明確だった。囲い込みは足かせだったのか、それとも生産性の向上だったのか。一八〇八年にはすでに、アーサー・ヤングは、囲い込みについて全国を見渡した報告のなかで、農業者は囲われた土地を耕すほうが高い利益を得る、このことに疑いはない、と断言していた。
最近の実証研究では、一万五千の教区のデータから、議会による囲い込みが、確かに単位面積当たりの収量の高さと結びついていたと推計されている。具体的な数字で言えば、一八三〇年には、囲い込みを経た教区の収量は、単位面積当たりで、およそ三パーセント高かった。
三パーセント。
この数字は、ここに置いておく。論評は加えない。
何を測った数字なのかについてだけ、一言添える。三パーセントは、単位面積当たりの収量の差である。総生産量の差でも、国民所得の差でもなく、まして、どこか一軒の家の暮らしの差ではない。精密に立てられた一つの問いへ、精密に答える、精密な数字なのだ。その問いが、当時、人々の争っていた問いなのかどうかは、別の話である。
通説を見直す側の議論も、弱くはない。しかも、いくつもの道筋がある。
ある研究の流れは、開放耕地を細長く分け、東にも西にも区画を持つやり方を、愚か、あるいは遅れていると、簡単に決めつけるべきではないと、長く主張してきた。それは保険なのだ。土壌も、斜面の向きも、排水条件も違う場所へ、耕地を分散させる。こちらに雹が降っても、あちらは残る。この見方では、農民は、賢く立ち回ろうとしないのではなく、用心深かったのである。後の研究には、この具体的な仕組みを全面的には認めないものもある。それでも、開放耕地が長く続いたことは、危険に対処することと深く関わっていた、と認めている。
別の流れは、さらに先へ進み、もっと冷ややかに述べる。共同耕地が長く残ったのは、人々が非合理だったからではない。一七五〇年より前には、囲い込みは一般に、引き合わなかったからだ。のちに語られた莫大な利益の大半は、十八世紀の農業改良家たちの想像だった、というのである。
改良の物語そのものを、評価し直す研究もある。開放耕地制度のもとにいた小規模な自営農民が、すでに、生産性の伸びのかなりの部分を担っていた。十八世紀の囲い込みと大農場が、産業革命期の農業成長へ寄与した部分は、比較的小さい。それは主に地主を富ませ、消費者、労働者、農民には恩恵をもたらさなかった。そう主張する。この研究を評した人は、長く定説とされてきた信念に挑んでいるのだ、と率直に述べている。この見方に立てば、囲い込みは、もはや生産性革命の主な駆動力ではない。むしろ、所得の再分配を速める装置に見えてくる。
第三の側には、社会史と労働史がある。関心は、単位面積当たりの収量ではない。共有地の権利が一家の経済のどこに位置し、誰が何を失い、そのあと何によって生きたか、である。ここで特に気をつけたいのは、生産性が上がったと認める研究者も、囲い込み以前には農業労働者が共有地で牛を飼い、燃料を採れたことを認めている、という点だ。利益が生じたと認めても、誰も奪われていない、という結論には自動的につながらない。
最近のその研究は、両面を一つの結果に収めている。単位面積当たりの収量は上がり、土地保有の不平等も広がった。大地主は、それまで進路を阻んでいた人々の抵抗を押し切ることができ、貧しい人々は、効率の改善による恩恵を十分には受けられなかった。
論争は終わっていない。古い論争が、以前より数量化しやすい形に移されたのである。
構がここでした二つ目の仕事は、最初の仕事よりも見えにくい。まず、土地、権利、慣習を、分割でき、値をつけられる財産権へ訳した。二百年後には、その翻訳をめぐる論争まで、単位面積当たりの収量の百分率と、不平等の係数へ訳したのである。
本当の意見の違いには、少なくとも三つの層がある。第一に、囲い込み以前の開放耕地と共有地は、どれほど非効率だったのか。第二に、利益が確かにあったとして、その規模は、従来の農業革命の物語を支えられるほど大きかったのか。第三に、利益があったとして、誰がそれを受け取り、誰が代償を負担したのか。
初めの二層は、同じ表の上で争える。共通の単位があるからだ。第三の層には、それがない。
そのため、学問の上で最も速く進んできたのは、いつも、初めの二層だった。
研究者に偏りがあるからではない。第三の層で答えるべきなのは、誰が受け取り、誰が負担したかである。それに答えるには、まったく違う二種類のものを、一緒に比べられる物差しが要る。一方には、単位面積当たりの収量、地代の価値、年ごとに比較できる生産量がある。他方には、一家が冬に燃やす薪を持てるか、一人の女が収穫のあとにも麦の穂を拾えるか、ということがある。前者には単位がある。後者にはない。単位のないものは、同じ表に入らない。同じ表に入らなければ、議論をしても決着がつかず、いつまでも、その縁にとどまるほかない。構は土地を一冊の帳簿にしただけではなかった。のちには、その帳簿をめぐる議論まで、もう一冊の帳簿にした。そして、どちらの帳簿にも、余項を記す欄はない。
八 ひと目でわかる、一枚の計算書
一九六八年、ハーディンは、ある科学雑誌に短い論文を寄せ、一つの思考実験に、自分の言いたいことをまとめた。
誰もが入れる牧草地を考えてみよう。合理的な牧畜者が、自分の群れに牛をもう一頭増やす。その利益は、ほぼすべて自分に帰する。おおよそ、プラス一だ。だが、過剰な放牧による損害は皆で負担するため、自分の負担は、ごく小さい。だから、一人ひとりにとって、もう一頭増やすほうが得になる。増やし続けた末に、牧草地は荒廃する。彼の結論は、共有地における自由は、すべての人を破滅へ導く、というものだった。
この論証の強さは、きわめて明快なところにある。個人が得る利益と、共同で負う損失を、同じ枠のなかへ入れる。ほとんど、ひと目でわかる一枚の計算書である。
ただし、そこで想定されている牧草地は、誰にでも開かれている。境界も、他人を排除する権利もない。地元の規則も、長く続く共同体による制裁もない。荘園裁判所はなく、利用者自身が規則を作る資格もない。
オストロムと、その研究の流れをくむ人々は、繰り返し、そこには取り違えがあると指摘した。コモンプール資源の大半は、財産権の範囲が定まらず、誰でも自由に利用できる資源とは違うのである。
イングランドの史料を、もう一度並べれば明らかだ。利用者の範囲があり、資源の範囲がある。監視があり、罰金があり、季節ごとの決まりがあり、頭数の割り当てもある。
そして、自分の家で起き伏しする、という決まりもあった。
あの決まりは、ハーディンの牧草地には、一度も現れない。牛を増やすのを抑える規則ではない。共有地で使える量を、それぞれの家が自分で養える力へ結び戻す規則である。しかも、互いの暮らしが皆に見えることに支えられている。ハーディンの計算書には、牛の頭数しかない。隣人の目を書き込む欄は、一つもない。
構の性質は、ここにはっきり現れる。誰もがひと目で読める計算書にするには、欄を少なくし、整然と並べ、どの欄にも数字を入れられるようにしなければならない。ところが、現実の共有地を何百年も支えてきたものは、そのどの欄にも入らない。こうして、いちばん明快な計算書が描くのは、しばしば、存在しない場所になる。
それでも、計算書は役に立つ。正確だからではない。明快だからである。構の本当の強さは、しばしばここにある。口で簡単に言い直せるほど単純なモデルは、正確でもうまく説明できない記述より、はるか遠くまで伝わり、物事を決めるときにも使われやすい。
オストロムも、共有地は生まれながらによいものだ、と言いたかったわけではない。成功をもたらす一つの固定した規則を探すのはやめ、長く続いた制度に共通する、設計の原則をまとめることへ向かった、と述べている。利用者と資源の範囲を明確にする。利用と資源の供給を担う規則を、地域の条件に合わせる。影響を受ける人が、規則を変えることに参加できる。利用者が自ら監視する。制裁は軽いものから、段階的に重くする。安く利用できる紛争解決の方法を備える。地域が規則を作る権限を、政府が最低限は認める。そして、いくつもの層が入れ子になって、管理を担うことである。
彼女は、実験室で得られた結果も述べている。これは、別に目を留める価値がある。基準となる条件のもとでは、被験者による共同資源の使いすぎは、非協力ゲームの理論が予測するよりも、さらにひどかった。ところが、顔を合わせて話すことを認めると、共同の利益は、明らかに増えたのである。
顔を合わせて話す、というのは、変数の名前ではない。人が顔を持つ相手として触れ合う、そのこと自体である。実験室では測れるが、一九六八年の、あの計算書には入れない。あの計算書には、牛しかいないからだ。
その後、この論争は、もう一度、分け直された。ハーディンが本当に思い描いていたのは、歴史上の共有地よりも、誰もが自由に入れる状態に近かったのだ、とする研究者がいる。逆に、オストロムの反論を、一つの特殊な場合として理解すべきだ、と批判する研究者もいる。小規模で、地域に根ざし、外からの衝撃が少ない共有地については、彼女の事例が示す証拠は強い。だが、巨大で、規模の異なる層にまたがり、変化が速く、国家や国際的な圧力を強く受ける資源の仕組みでは、ハーディンが述べたような難局は、消えていないというのである。
双方は、同じことを語っていない。だから、ここでは裁定しない。
ただ、一つは明確にしておかなければならない。そうしなければ、ここまでの七節が、すべて違った意味に読まれてしまう。共有地は楽園ではなかった。うまく管理されていたことは多いが、その管理は、しばしば、外から来る者を締め出すことを条件にしていた。権利は、誰にとっても等しいわけではない。自由保有者、謄本保有者、小屋保有者、ただ慣習的に使ってきた人のあいだには、大きな隔たりがあった。共有地を田園詩に仕立てることと、整備を待つ荒野として描くことは、同じ怠慢である。
三百年を本当に貫いていることは、一文に尽きる。組み替えが始まると、より法的に形を整えた権利が、互いを知る関係に、より多く頼っていた権利を打ち負かす。そして、敗れた側が、この三百年の余項だった。
囲い込みが終わると、教区の帳簿は、ひどく明快になる。どの土地にも、面積、境界、持ち主、評価額がある。道路の経路が定まり、排水設備にも帰属先があり、十分の一税は土地に換わっている。一度もそこへ来たことのない人でも、地図を開けば、三十分で、この土地のすべてがわかる。
地図にないのは、こうしたことである。どの家の家畜が、冬にはどこで起き伏ししていたか。どの家の子どもが、夏にはどの斜面で家畜を見ていたか。収穫のあと、誰が荷車について歩いたか。そして、いつの年から、そうしてきたのか。
それらは、成立しないと判定されたのではない。証拠を出すよう求められたのだ。だが、もともと証拠を要しないからこそ、存在してきたのである。
帳簿が最もきれいになるのは、すべてを数え入れたときではない。数え入れられないものを、かつて存在したと誰も証明できないものへ変えたときだ。それでも、そうしたことは、実際に行われていた。多くの人が、今も覚えている。ただ、覚えていることは、証拠にはならない。
勘定はいまだ合わず、記帳はいまも続いている。
中国語原文の論証と史料を基に、日本語読者のために構成と文章を新たに組み直した独立編集・再構成版です。 中文・English