二つの道筋
本章の中国語原文
帛書の校訂本文 · 本注で採用した読み
至虚极也,守情表也,万物旁作,吾以观其复也。天物云云,各复归于其根。归根曰静,静,是谓复命,复命,常也,知常,明也;不知常,妄,妄作,凶。知常容,容乃公,公乃王,王乃天,天乃道,道乃久,沕身不殆。
底本と句読点について
著者の『道德经注·君子不器』で採用した帛書の校訂本文に基づきます。甲本・乙本を参照し、校訂や補字を加えたもので、どちらか一方を一字ずつ写した翻刻ではありません。章番号は通行本に、句読点は本注に従います。閲覧言語を切り替えても、経文の中国語表記は変わりません。
一 見えたか、見えなかったか
道を歩いていた二人が、同じ一枚の葉が落ちるのを見る。
一人目に見えたのは——
葉っぱが一枚、地面に落ちた。
二人目に見えたのは——
この葉は、根に帰った。どの葉も、最後には根に帰る。命あるものにはみな根があり、最後にはみなその根に帰っていく。それは一瞬ごとに起きていることだ。
この二人が、このあとどう歩いていくかは、まるで違ってくる。
一人目は、そのまま自分の道を歩きつづける。目に入ったのは、「葉っぱが一枚」だけである。
二人目は——いまの一瞬、構造にかかわるひとつの事実を見た。見てしまったあとは、何をするにも、何を言うにも、何を考えるにも、そのことがどこかで響いてくる。
老子の第十六章が語っているのは、この二種類の人の違いである——
この構造上の事実が見える人と、見えない人。
二つの道筋は、ここで分かれる。
しかも老子は、はっきりと告げる——
一方の道筋の行きつく先は、凶である。
もう一方の道筋の行きつく先は、身を沕(ひそ)めて殆うからずである。
老子が判断をはっきり口にしている章は、この書のなかでも数えるほどしかない。これはそのひとつである。
だが、この二つの道筋を読みとくには、まず修行の出発点から読みはじめなければならない。
二 守るのは「静」ではなく「情」
第十六章の第一句。
「虚を至(いた)すこと極まるなり、情表を守るなり。」
この一句が、章全体の修行の出発点である。そしてこの章でいちばん大きな字の違いも、ここにある。
帛書は「情表を守る」と書く。
通行本は「静を守ること篤し」と書く。
「情を守る」か、「静を守る」か——一字の違いで、修行の向きがまるで変わってしまう。
通行本の「静を守る」で読めば——修行する者が、自分をひとつの静かな状態のなかへ収めていくことになる。修行は自分に向かう。
帛書の「情を守る」で読めば——
ところが、この「情」という字が、いまの読者にはどうにも引っかかる。
いま「情を守る」と読めば、誰でもすぐ「感情を大事にする」「情に厚くある」と受けとるだろう——それでは、まるで意味が通らない。老子が、感情を守れなどと言うはずがない。
この一句を読みとくには、まず「情」の字のほんとうの意味を立てなおさなければならない。
三 「情」は感情ではない
「情」を見たとたん、いまの「感情」だけで読んではならない。古い漢語では、実情や、物事のもともとのあり方を指すこともある。『論語』の「如し其の情を得ば、則ち哀矜して喜ぶこと勿れ」は、事情を知ったときの態度を問う。『易伝』が「情」と「偽」を並べることも、真実という側から入る手がかりになる。
ただし、これで古代の「情」に感情の意味がなかったと証明できるわけではない。郭店の竹簡にある用法が見つかることと、その用法がそこで生まれたことも別である。文章が成立した時期、写された時期、意味が変わった時期を、一本の線にはできない。
ここでは「守情」を、物事のありのままから目をそらさないこととして読む。友人が疲れたと言う。すぐ「考えすぎだよ」で片づけず、何があったのかを聞いてみる。自分の感情を守るのではなく、目の前の現実を手持ちの説明で覆わないのである。
これに「表」の字が加わる。
表=外に現れているところ、はっきり見えている位置、目に見える外側。
情表を守る=事物の真実が、外に現れているところであなたに見せている、その一面を守ること。
合わせるとこうなる——
虚を至すこと極まる——自分を極みまで虚しくして、前もっての思いこみを持ちこまない。
情表を守る——真実が外に現れて見せている、その一面を守る。
この二つはひと組である——自分を極みまで虚しくして、はじめて事物のありのままの姿が見えてくる。
これは、外に向かって観る修行である。
「静を守る」ことも、心を落ち着けて外を見る助けにはなる。通行本をすべて内向きの隠遁として読む必要はない。それでも「守情表」は、物事が姿を現すところへ、私の目をより直接に向ける。決まった説明をいったん置き、どう起こるかを見る。
この読み方をとる理由はそこにある。二つの版に二人の老子を閉じこめたいのではない。静かになることは終点ではない。そのあとで、人や世界が前より見えるようになっただろうか。
四 万物がそれぞれ根に帰るのを観る
自分を極みまで虚しくし、真実を守る——そうすると、何が見えてくるのか。
次の一句。
「万物旁(あまね)く作(おこ)り、吾以て其の復るを観るなり。」
万物が、あなたのまわりで、それぞれに動いている。あなたは、それらが「復る」のを観る。
復るとは何か。帰ることである。
何が帰るのか。
「天物云云(うんうん)として、各々其の根に復帰す。」
天下の万物はさまざまに入りみだれている。そのひとつひとつが、自分の根へ帰っていく。
これが、この章の核心となる観察である。
どの木も、種から芽を出し、枝葉を茂らせ、最後には葉を落として根に帰る。
どの人も、赤ん坊から大人になり、一生のあいだにさまざまな巡りあわせを経て、最後にはひとつの位置に帰る。
どの人間関係も、始まり、深まり、薄れていき、最後にはひとつの状態に帰る。
どの製品も、設計され、発売され、改良をかさね、やがて販売終了になる。最後には、やはり帰るところがある。
どの会社も、創業し、拡大し、衰えて、最後には土に帰る。
万物は各々其の根に復帰す——これは悲観ではない。観察された構造である。
具体的なものはどれも、この道すじのとおりに動いている——生まれ、経めぐり、根に帰る。
このことは、一瞬ごとに起きている。
ただ、たいていの人は、いま伸びていく部分をつかまえるのに忙しくて、帰っていく道すじの全体が見えていない。
老子は、あなたにこう告げる——
虚を至すこと極まり、情表を守る——自分を極みまで虚しくして思いこみを持ちこまず、真実を守って、事物が外に現れたところで見えるようにする——
そうすれば、このことが見えてくる。
具体的なものがひとつひとつ、自分の動きの連なりのなかで根に帰っていくのが見える。
どの構も、最後には、それがやって来た位置へ帰っていくのが見える。
五 「常」は常識ではない
老子は続けて、古文の漸層の書き方——一歩ずつを、それぞれ独立させて立てていく書き方——で進める。
根に帰るを静と曰う——自分の根に帰ること、それを「静」という。
この「静」は、「物音を立てずに静かにしている」ことではない。本来の位置に帰った、その状態のことである。ものは根に帰れば、本来の位置に帰り、もう外の力にあちこち押しまわされない。
静——一字だけを取りだして、独立させている。
是を復命と謂う——この静が、復命である。
復命=本来の動きの向きを取りもどすこと。ものは根に帰れば、自分本来の向きに帰る。
復命——これも取りだして、独立させている。
常なり——この復命が、常である。
この「常」の字は、いまの読者にはたいへん誤解されやすい。
「常」と見れば、読者はすぐに常識、平常、日常、常道といった言葉を思いうかべる。
だが老子の「常」は、そのどれでもない。
老子の「常」は——絶えず動きつづけている構造そのものである。
万物がそれぞれ根に帰り、根に帰れば静であり、静はすなわち復命である——このことそのものが、恒常なのだ。今日はこうで明日はああ、というのではない。一瞬一瞬が、いつもこうなのである。どのものも、この構造のとおりに動いている。
この構造が、常である。
第一章の「恒の道」の「恒」と、同じひとつのことだ——
恒とは、「永遠に変わらない」(何か静止したものがずっと変わらずにある)ことではない。
恒とは、けっして尽きることなく、一瞬ごとに新たに湧き出てくることである(この動きの構造が、一瞬一瞬に起きている)。
常=この動く構造が、絶えず動きつづけていることそのもの。
「常を知るは、明なり。」
この絶えず動きつづける構造が見えること、それが明である。
老子のいう明は、「頭がいい」ことではない——見えることである。
常を知る=常が見える=万物がそれぞれ根に帰るという、そのことそのものが見える。
ここで、読み方をひとつはっきりさせておきたい——
常を知るとは、「常という名の法則を知って、それを暗記する」ことではない。
常を知るとは——いま、この動く構造が具体的に現れているのを見ることである。
いま、一本の木から葉が落ちるのを見る——この一枚が根に帰るのが見え、どの葉も根に帰るのが見える。これが、常を知るひとつの具体的な瞬間である。
いま、ある友人との関係が少しずつ薄れていくのを見る——この関係が根に帰るのが見え、どの関係もひとつの位置に帰るのが見える。これもまた、常を知るひとつの具体的な瞬間である。
いま、自分のプロジェクトがひとつ、そのライフサイクルを終えるのを見る——このプロジェクトが根に帰るのが見え、どのプロジェクトも最後には根に帰るのが見える。これもまた、常を知るひとつの具体的な瞬間である。
常を知るとは、抽象的な法則を知識として身につけることではない。いま起きていることが見える、ということである。
どの瞬間の、どの出来事も、常を知るきっかけになりうる——いま目の前のことが、万物がその根に帰る構造とつながっていると見えさえすれば、それでいい。
六 二つの道筋
ここまで地ならしをしたうえで、老子は章のいちばん肝心な二つの道筋を並べてみせる——
常を知らない道筋——
「常を知らざれば、妄。妄作すれば、凶。」
四つの段階である。
常を知らず——絶えず動きつづける構造が見えない。
妄——そのまま動きだせば、動きは妄になる。妄=実情にもとづかず、構造にも従わない、でたらめ。
妄作——妄が具体的な行いに落ちると、妄作になる。でたらめに動き、でたらめに手を出し、でたらめに植民化する。
凶——結果は凶。
老子は、この道筋を四つの語で描きだす——見えていないところから出発して、四つの段階でまっすぐ凶に至る。
気をつけてほしい。凶は道徳上の罰ではない。構造から出てくる帰結である。
構造に従わずに動けば、遅かれ早かれ構造とぶつかる。ぶつかり方がある程度を越えれば、それが凶である。
常を知る道筋——
「常を知れば容る。容るれば乃ち公なり、公なれば乃ち王たり、王なれば乃ち天なり、天なれば乃ち道なり、道なれば乃ち久し。身を沕めて殆うからず。」
七つの段階である。
常を知れば容る——常を知る人は、おのずと受けいれることができる。どのものにもそれぞれの根があり、それぞれの動きの向きがあるのが見えているから、自分の構を他人に押しつけない。
容るれば乃ち公なり——受けいれる人は、おのずと公平である。万物を分けへだてなく見て、どちらか一方に肩入れしない。
公なれば乃ち王たり——公平な人は、おのずと王たりうる。ここの王は支配者のことではない——人々をまとめる位置、要(かなめ)の位置である。ほんとうに公平な人は、おのずと要の位置に立つことになる。誰もがその人を信頼するからだ。
王なれば乃ち天なり——王たる人は、おのずと天にかなう。天=天地がおのずと動いていく、そのありかた。ほんとうの要の位置の働き方は、天地の働き方と一致している。
天なれば乃ち道なり——天の働き方は、おのずと道にかなう。
道なれば乃ち久し——道にかなう働きは、おのずと久しく続く。
身を沕めて殆うからず——最後に、身は深く潜む位置に入り、危うくない。(「沕」は深く潜むこと。)
七つの段階を合わせても、道徳規範を積みかさねたものにはならない——同じひとつの気づきが、位置ごとにおのずと広がっていったものである。
二つの道筋を並べてみよう——
常を知らず → 妄 → 妄作 → 凶(四段階)
常を知る → 容 → 公 → 王 → 天 → 道 → 久 → 身を沕めて殆うからず(七段階)
老子は二つの道筋をどちらも並べてみせる。左右対称に、はっきりと、じかに——
・どちらの道筋も、常を知るか知らないかから始まる
・それた道筋は短く、まっすぐ凶に至る
・よい道筋は長く、一段ずつ広がって殆うからずに至る
・行きつく先の対比はあざやかである——凶と、身を沕めて殆うからず
二〇二六年に置いて読んでみよう——
私たちは毎日、この二つの道筋のあいだを行ったり来たりしている。
ある会議で、相手の意見を聞いてはいたが耳に入っておらず、自分の思いこみのままに言い返した——
その瞬間、あなたは妄の位置にいた(相手が動いている構造が見えず、自分の構のままに口を動かした)。
ある決断で、手を止めて、「このことは最後にどんな根に帰っていくのか」が見えた——
その瞬間、あなたは常を知る位置にいた。
ある人間関係で、いちばんよい状態のまま止めておこうとしがみついた——
その瞬間、あなたは常を知らなかった(関係もまた根に帰ることを知らなかった)。
ある人間関係で、それがもう根にたどり着いたのが見えた——
その瞬間、あなたは常を知っていた。その関係がおのずと変わっていくのを、受けいれることができた。
この章があなたに渡す道具は、じつに具体的である——
あなたはいま、どちらの道筋にいるか。
「あなたは善人か」と問うているのではない——そう読めば、またしても道徳の判断として読むことになる。
問うているのは、いま、この事について、この事が、万物がその根に帰る構造とつながっているのが見えるかどうか、である。
見えない——それなら、次に打つ手は妄作になる見こみが大きい。
見えた——それなら、次に打つ手はおのずと容であり、公であり、殆うからずの方向へ向かう。
どの事についても、一度ずつ問うことができる。
問うたびに、それがひとつの自己点検になる。
七 はっきり言う、だが強いない
この章で、老子は自分の判断をはっきり口にしている——
一方の道筋は凶。
もう一方の道筋は殆うからず。
中立のふりはしていない——「どちらの道でもいいよ、好きなほうを選んで」という構えはとらない。
だが老子は、強いてもいない——
「よい道筋を歩かなければならない」とは言わない。
「道をそれたらおしまいだ、一生取りかえしがつかない」とは言わない。
「私の言うとおりにしなければならない」とは言わない。
ただ、二つの道筋を並べてみせる——くっきりと、飾らずに。
わかる読者は、自分がいまどちらの道筋にいるかに気づき、次の一歩をどう踏みだすかを自分で決める。
わからない読者には、ありふれた勧善懲悪の説教に見えるだけだろう。
老子は、すべての読者にわからせる義務を負っていない——言うべきことははっきり言った。あとは読者自身のことである。
これは、ここまでの章とひと筋につながっている——
第十章の六つの問い「能く……んか」——志を立てた者への、問いかける教え。
第十二章の「是を以て聖人の治むるや、腹の為にして目の為にせず」——治める者への、じかの助言。
第十三章の「吾に大患有る所以の者は、吾に身有るが為なり」——老子が自分を手本にしてみせる。
第十六章——はっきり見えた二つの道筋を、そのまま読者の前に並べる。
老子は一度も、やさしく「自分で選んでね、どっちでもいいから」とは言わない——どの章でも、自分に見えたものをはっきり口にする。
だが老子は、一度も強いない——言い終えたら、どうするかは読者が自分で決める。
これが、涵育する教師の一貫した姿勢である——
ほんとうのことを言う。操りはしない。
読者を、あくまで主体のままにしておく。
章を読み終えたら、冒頭の、葉を見ていた二人に戻ろう——
老子は二人目を指さして言う。「ほら、この人に見えているものは違う」。
だが老子は、一人目に二人目になれと迫りはしない。
ただこう言うだけである。ほら、この二人は、ここから先の道筋が違う。
あとは、読者自身のことである。