この版について
この日本語版について: 中国語原作の論旨をもとに、日本語の読者に向けて独立した文章として書き直した。 中国語原作は、同じページで簡体字と繁体字を切り替えて読める。
ここまでの二篇では、この仕組みのなかで自分のものを守れるかどうかは、そこから与えられたのではない行き先を持っているかどうかにかかっている、と論じてきた。
ただ、「行き先」という言葉は、まだ漠然としている。住所のようでも、代替案のようでもある。いよいよ立ちゆかなくなったとき、帰れる場所のことに聞こえる。
この篇で言いたいのは、それが逃げ道以上のものだということだ。彼女がこの仕組みの価値尺度にすべて置き換えられずに済むのは、そこから持ち込んだものがあるからだ。
腕に残る傷
猫猫の両腕は、傷痕だらけだ。
自分でつけた傷だ。自分の体で毒を試している。
ふだんの猫猫は、表情に乏しく、口数も少ない。目上には礼を尽くすが、へつらわない。宮中の争いには興味がなく、後宮中の噂になる壬氏の美貌にも反応しない。感情の波は、ごく小さい。
ところが、見たことのない毒や、まだ試していない薬に出会うと、まるで別人になる。目を輝かせ、身を乗り出し、質問が止まらなくなる。なんとか少し手に入れて、試そうとする。
作品はこの変化を笑いにしている。全編でもっともよく使われる笑いどころのひとつだ。
同時に、そこだけが猫猫の無防備になる場所でもある。第一篇で見たように、彼女は後宮へ入ると、まず人の目に留まらないようにした。だが、この反応が出ると、偽装は全部剝がれる。顔が変わり、声が変わり、体ごと近づいてしまう。周囲の誰にも見えてしまう。
自分でも止められない。
後宮の帳簿では赤字になる
ここで、この行為の収支を計算してみたい。この一段が、今回の鍵になる。
自分で毒を試すことは、猫猫に何をもたらすのか。
出世はできない。後宮で地位に換えられる技芸ではないからだ。薬の知識が役に立っているのは確かだが、猫猫を取り立てさせたのは個々の事件の解決であって、腕の傷ではない。
命を守れるわけでもない。むしろ逆だ。毒を試してひどいことになり、中毒を起こし、倒れたこともある。
金にはならない。誰かを喜ばせることもない。この件では養父からも叱られている。
この仕組みの帳簿につけるなら、その価値はマイナスだ。
それでも、猫猫は何年も続けてきた。
ひとつの見分け方
ここで、かなり具体的な判定基準が立てられる。
ある仕組みのなかで、その人自身のものがどれだけ残っているかを知りたければ、その人のすることに、その仕組みの役に立たないものがあるかを見ればいい。
することのすべてが地位や資源や評価に換算されるなら、その人と仕組みの間には、隙間がない。その人は何をしても、その仕組みを積み上げることになる。
ひとつでも換算できないものがあれば、それこそが隙間そのものだ。
猫猫の腕の傷は、まさにそれである。
ひとりで生まれたものではない
ここから、この篇でもう一歩進めたい。連作の前半と後半は、この一歩でつながる。
その「役に立たない営み」を、猫猫が自分だけで生み出したわけではない。
教えてくれた人がいる。
羅門
羅門。宦官で、もとは医官だった。今は花街で小さな薬屋を営んでいる。猫猫を育て、薬の見分け方、調合、診察を教えた。ものごとをどう考えるかも教えた。
その人の膝には、重い刑が加えられている。
罰だった。宮中で働いていたころにある事件が起こり、その処罰が彼に下った。膝の骨をえぐり取られたのだ。
それからは、支えなしには歩けない。歩みは遅く、遠くへも行けない。作品には、羅門が何かにつかまり、足を引きずって歩く姿が映る。ことさらに寄ることも、音楽を添えることもなく、ごく普通に映される。
それでも、彼はやめなかった。
医者を続けた。花街の人を診て、妓女を治療し、貧しい人も診る。代金はわずかだったり、受け取らなかったりする。弟子にも教える。
奪われたのは歩く力であり、手はまだ残っていた。
励ましの標語ではない。ごく具体的な区別である。一度の処罰は、人のある機能を奪えても、その人のすべてまでは奪えない。初めからすべてを奪うための処罰でないかぎりは。
外は何かを与えてくれる場所でもある
羅門と猫猫を並べると、この篇の主張はひとつにつながる。
猫猫のなかにある、この仕組みの役に立たないもの。それを与えたのは羅門だった。
人のなかにある「この仕組みには換算できないもの」は、たいてい、無からひとりで生み出されたものではない。別の場所から持ち込まれたものだ。そして、その場所には人がいる。
これは大事な点だ。「外」という言葉が、地図の上の位置ではなく、手触りのあるものになるからである。
猫猫の外は、ただ「花街」という地名ではない。教えてくれた人がいる。身につけた技術がある。自分なりの考え方がある。戻ってくるのを待つ居場所がある。
しかも、それらは中へ持ち込める。猫猫の体が後宮にあっても、身についたものは彼女とともにある。
後宮の支配が彼女に対しては限られるのは、そのためだ。意志が強いからではない。入ってくるとき、手ぶらではなかったからだ。
裏返せば
この一文を裏返したところに、この篇のもっとも冷たいところがある。
外を持たない後宮の女たちは、強さが足りないのではない。手ぶらで入ってきたのだ。
幼いうちに宮中へ送られた少女は、何を持ち込めるだろう。幼いころから屋敷の奥で育ち、決まりどおりに躾けられてきた名家の娘には、この仕組みが換算できないものが、何かあるだろうか。
彼女たちと猫猫を分けるのは、意志ではない。持ってきた荷物だ。
そのことで、彼女たちを責めることは誰にもできない。何かを持ち込めるかどうかは、入ってくる前に、誰かが何かを渡してくれたかどうかで決まるのだから。
花街という場所
最後に、ひとつだけ先に述べておきたい。次篇のその先で、必要になることだ。
作品は、花街を温かい場所として描いてはいない。
そこは女を売る場所だ。緑青館の妓女たちは、売られてきて、買い取られ、格によって値をつけられる人々である。人気を集める三人の妓女、白鈴、女華、梅梅は、猫猫が幼いころから知る人たちだ。彼女には優しい。だが、その境遇ははっきりしている。老いたらどうなるか。病めばどうなるか。身請けされなければどうなるか。作品は、そのすべてを映している。
羅門はそこに薬屋を開いた。猫猫はそこで育った。
彼女にものを与えてくれた場所は、それ自体、人を売る場所だった。
今は、この一文をここに置いておく。第五篇で戻ってくる。
一方、この仕組みの中心には、一人の男が立っている。
権力も地位もある。誰にでも効く顔もある。
けれど、彼には外がない。
次は、その人の話だ。
本稿の対象は、テレビアニメ第1期・第2期、全四十八話(2023〜2025年)である。日向夏の小説を原作とし、キャラクター原案はしのとうこ、アニメーション制作はOLM/TOHO animation STUDIO。第3期は2026年10月2日放送開始、原作者の日向夏がストーリー原案を担当するオリジナル劇場版は2026年12月11日公開であり、いずれも本稿の論拠には含めない。原作小説は連載が続いている。
原典:中国語原作・英語版