Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
← 『薬屋のひとりごと』を読む
4 / 5

彼には何でもある 外だけがない

Han Qin (秦汉) · 日本語版 · 2026-10-09

この版について

この日本語版について: 中国語原作の論旨をもとに、日本語の読者に向けて独立した文章として書き直した。 中国語原作は、同じページで簡体字と繁体字を切り替えて読める。

この連作では、ここまで三段階に分けて考えてきた。自分のものを守れるかどうかは、この仕組みから与えられたのではない行き先を持っているかどうかにかかっている。その行き先は、何かを与えてくれる場所でもある。そして、後宮の大多数の人々には、それがない。

今回は、この主張を、およそ「弱者」には見えない人物に当ててみる。

壬氏には何でもある。外だけがない。この連作では、それこそが彼の本当の境遇だと考える。

彼が持っているもの

まず、手にしているものを数えよう。

後宮の管理者であり、実権を握っている。人を動かせる。調べさせることも、誰かを守ることも、処分することもできる。

そして、あの顔がある。作品はその容貌を、一種の物理現象のように映す。微笑むと、侍女は足もとがふらつき、赤くなり、言葉を失う。そのまま気を失う者さえいる。比喩ではない。この作品の設定のひとつだ。

壬氏も、それを使っている。作品には、彼が顔を「切り替える」ところが何度も出てくる。仕事を通す必要があると、あの笑みを浮かべて相手に向ける。すると、話はすんなり運ぶ。用が済めば笑みを引っ込め、少しくたびれた普通の顔に戻る。

本人は、それを仕事と呼んでいる。

誰からも道具のように扱われる人が、自分でもその道具を使っている。

効き目は理不尽なほど強い。本来なら手続きを踏み、根回しをし、何日もかかることが、微笑むだけで済んでしまう。作法と序列がものをいう場所で、それは近道になる。

よく効く道具の代償

だが、この道具には代償がある。作品はそれを、本人の口から語らせたことがない。

誰かが自分に示す反応のうち、どれだけが自分という人間に向けられたものなのか、壬氏には知るすべがない。

優しくしてくれる人は、自分を好きなのか、それとも顔に動かされているのか。働いてくれる人は、自分を信じているのか、それとも顔に動かされているのか。忠実な人が忠実なのは、自分に対してか、それともその地位に対してか。

彼には、これを確かめる方法がない。確かめられないということは、受け取った反応のどれも、自分を知る手掛かりにできないということだ。

人が自分はどんな人間かを知るには、他人の反応を参照する必要がある。ところが壬氏の参照先には、すべて同じ変数が混入している。

自分で決めたものが何もない

ここで、この篇のいちばん重いところへ進もう。

最初の四十八話には、一つの疑いが残されている。壬氏は阿多妃の子で、生まれて間もなく、当時の皇后の子と取り替えられたのではないか。猫猫もその可能性を考える。だが、それはまだ、確定した家族史として語られてはいない。

誰が交換を決め、二人の女性がそれぞれ何を知っていたのか。そこまでを、二人で申し合わせた事実として断言することはできない。ここからは、アニメが残した手がかりをそう読んだ場合の話である。

出産のとき、どちらの子が先に医官の手当てを受けるかを、すでに身分が決めていた。そのなかで大人たちが助かる道を探すとき、まだ言葉も持たない子の人生まで決まってしまうことがある。

もし疑われている交換が行われたのなら、その結果を背負うのは二人の赤子だった。出自も身分も自分で選んだものではない。その疑いは、壬氏がすでに生きている不自由を、いっそうはっきりさせる。

ここで改めて、壬氏の持ち物を点検してみよう。

顔は、生まれつきのもの。

身分は、出自と、ひょっとすると赤子の交換によって決められたもの。

地位は、与えられたもの。

もっとも使い勝手のいい道具も、本人の知らないうちに、ほかの人々から手渡されたものだ。

彼には、自分の荷物と呼べるものがひとつもない。

猫猫に何を求めているのか

ここまで来ると、壬氏が猫猫につきまとうことを、恋愛の言葉で飾って説明する必要はない。

猫猫は、あの顔が効かない唯一の相手だ。微笑みかければ一歩下がり、別のことを考え始める。彼女が見ているのは、雇い主であり、面倒の種であり、ときには面白い事件を持ち込んでくるかもしれない相手である。

作品は何度も、ここで笑わせる。壬氏が全力を尽くしても、猫猫は動じない。腹を立てるのは壬氏のほうだ。

その繰り返される笑いの下に、この篇の判断がある。

彼が欲しいのは、与えられた条件の組み合わせからは生まれない反応なのだ。

この宮中で誰もが示す反応は、「壬氏」というひと揃いの条件に向けられている。あの顔、あの地位、あの身分。どれも、自分で手に入れたものではない。

猫猫の反応は、そのどれにも向いていない。態度を言葉にするなら、こうだ。あんたは雇い主だ。頼まれた仕事はする。だから、邪魔をしないでくれ。

彼に手の届く反応で、このひと揃いの条件に向けられていないのは、それだけである。そして、その反応が成り立つのは、猫猫には外があるからだ。

猫猫は彼から何かをもらう必要がない。だから、「この人から何を得られるか」という勘定が、彼に対する反応へ入り込まない。

つまり、壬氏は猫猫から、外を借りようとしている。

阿多妃は出たが壬氏は出られない

第二篇では、四人の上級妃のうち、外へ出たのは阿多妃だけだと述べた。出られたのは、受け入れてくれる場所があったからだ。

けれど、壬氏には同じような出口が見つからない。

地位は母よりはるかに高く、権力もはるかに大きい。人を守り、事件を調べ、宮中ではほとんど思うままに振る舞える。

それでも、出ていけない。

彼のいる場所は、職務ではなく、身分だからだ。「後宮で働く人」なのではない。「そういう人間として定められた人」なのである。仕事を辞めることはできる。自分が誰であるかを辞めることはできない。

この仕組みのなかで権力を持つほど、壬氏は外から遠ざかる。権力と、抜け出せなさは、同じものから与えられているからだ。

これが、この篇での主張である。反論はありうる。その後の彼は外へ向かったではないか。身分を明かし、別のことをしようとしたではないか、と。第五篇より先へ続く物語では、その問題を扱うことになる。だが、この四十八話のなかで、彼は一度も出ていくことに成功していない。

そばかすと笑顔

最後に、対をなす二つの姿を置こう。

猫猫がこの場所でまずしたのは、顔にそばかすを描き、人の目から隠れることだった。

壬氏がこの場所で日々しているのは、あの笑顔を浮かべ、自分へいっそう目を向けさせることだ。

向きはちょうど反対なのに、二人が相手にしている問題は同じである。ここでは、他人からどう見られるかで、自分の境遇が決まる。

一人は押し下げ、もう一人は押し上げる。

猫猫がそうするとき、頭のなかには日付がある。壬氏がそうするとき、日付はない。


では、猫猫が帰ろうとしている場所は、いったいどんなところなのか。

ここまで、この連作での「外」は、ずっと肯定的な言葉だった。

次篇では、その中身を開いて見る。開いてみれば、少しも美しくない。

そして、この連作の主張は、まさにそこにかかっている。


本稿の対象は、テレビアニメ第1期・第2期、全四十八話(2023〜2025年)である。日向夏の小説を原作とし、キャラクター原案はしのとうこ、アニメーション制作はOLM/TOHO animation STUDIO。第3期は2026年10月2日放送開始、原作者の日向夏がストーリー原案を担当するオリジナル劇場版は2026年12月11日公開であり、いずれも本稿の論拠には含めない。原作小説は連載が続いている。

原典:中国語原作・英語版