この版について
この版について:中国語原作をもとに、日本語の読者に向けて書き直した。原文では、同じページで簡体字と繁体字を切り替えられる。
二人の女子中学生の前に、白い小動物が現れる。猫にも、ウサギにも見える。かわいさがちょうどよくなるよう設計された何か、と言ったほうが近いかもしれない。口を動かさず、声を直接、頭の中に届けてくる。
持ちかけてくるのは、こういう話だ。自分と契約して、魔法少女になってほしい。そうすれば願いを一つかなえられる。どんな願いでもいい。
その契約
まずは条件を並べておこう。この一篇で考えることは、すべてここにある。
願う側は、一人の少女。得られるものは、一つの願いの実現。内容にも大きさにも制限はない。その対価として魔法少女になり、魔女と戦う。
文面だけを見るかぎり、この契約には何も問題がない。提供するものは本物だ。願いは本当にかなうし、少しも値切られない。要求することも明示されている。戦いに行くこと。危険があること。死ぬかもしれないこと。
公平で、わかりやすく、双方が何と何を交換するのか承知している取引だ。少なくとも、そう見える。
嘘だけが問題なのではない
ここからが本題になる。キュゥべえについてよく言われることとは、少し違う話だ。あれは少女たちを誘導するのに、面と向かって嘘をつく必要がほとんどない。一つずつ確かめていけばわかる。作品を通して、肝心な発言は字義どおりには真実であることが多い。決定的な事実だけが、誰かがそれを質問すべきだと気づくまで出てこない。
魔法少女は何をするのかと聞けば、魔女と戦うのだと答える。本当だ。死ぬこともあるのかと聞けば、あると答える。それも本当だ。
ソウルジェムとは何かと聞けば、こと細かに説明する。体から抜き取り、石に封じた魂であって、肉体はただの殻なのだと。飾りも逃げ道もない、明快な説明だ。魔女がどこから来るのかも、聞かれれば答える。
お前は何者なのかと聞いても、答えは返ってくる。自分たちの種族には感情がないこと。エネルギーを回収していること。人類の文明そのものが、自分たちの技術の上に成り立っていること。
聞かれたことに答えれば、説明は十分だと考えている。何を聞くべきかという質問の一覧は、ずっと自分だけが持ったままで。 これは、嘘よりずっと厄介だ。
何をしているのか
キュゥべえのやり方を一言で言うなら、こうなる。何を聞けばよいかもわからないうちに、相手に署名させる。 これがこの一篇の判断だ。少し分けて考える必要がある。
契約で最も大切な情報が、条項に書かれているとはかぎらない。質問しなければ出てこない情報もある。だが質問するためには、まず、そういう事柄が存在すると知っていなくてはならない。
十四歳の中学生が座っている。目の前には言葉を話す小動物がいて、どんな願いでもかなえられると言う。彼女は何を聞けばいいのだろう。「私の魂を抜き取るんですか」と聞くべきなのか。そんなことが可能だとすら知らない。「魔法少女は最後には何になるんですか」と聞くべきなのか。そもそも「最後」を確かめる必要があるとは知らない。
偽りを信じ込まされたのではない。何を尋ねるべきかわからないのだ。 キュゥべえは、その彼女が署名するのを待っている。
言葉の上だけの区別ではない
それも結局、だますということではないか。そう言いたくなるだろう。だが、同じではない。この作品では、その違いがとても重要になる。
直接嘘をつく者は、少なくとも、相手が全貌を知れば決心を変えるかもしれないとわかっている。キュゥべえは別のやり方を取る。事実を知った少女たちが崩れることを知っていながら、聞かれなかったのだから自分に責任はない、とするのだ。これはキュゥべえの弁護ではない。何をしているのかを、正確に捉えるための区別だ。
あれは本気で、その情報を重要だと思っていない。本気で、双方にとってよい契約だと思っている。知った少女たちがなぜ崩れてしまうのか、本当に理解できない。
杏子が詰め寄る場面
それが最もよく見える場面がある。ソウルジェムの真相を知った佐倉杏子が、怒りを爆発させ、キュゥべえに詰め寄る。返ってくるのは、困惑した顔だ。何も問題はないのに、どうして君たちは理解しないのか。要するに、そう言っている。
わからないふりをしているのではない。 ここは立ち止まっておきたい。この一点が、シリーズ全体の調子を決めるからだ。
もし演技なら、これは欺きの物語になる。正体を暴けば解決する。だが、演技ではない。あの種族に感情がないのは言い逃れではなく、そういうつくりなのだ。キュゥべえの世界では、人の魂を石に閉じ込めることと、部品を別の場所に移すことが、同じ種類の出来事になる。
だから、暴いても仕方がない。目の前でその行為を言葉にしてみせたところで、うなずいて認め、そのまま問い返してくるだろう。それで?
キュゥべえの言い分
しかも、あれにはあれの理屈があり、これがなかなか反駁しにくい。人間だって家畜を利用しているではないか。殺し、食べ、皮を使いながら、同意を求めたことなどないではないか、という理屈だ。
人間の文明そのものが、自分たちの技術に支えられているとも言う。感情をそれほど重く見る種族は、宇宙全体ではごく少数だとも。人間のように感情に左右される状態は、自分からすればむしろ病気に近い、という話さえ出てくる。
この言い分には、こちらも思い当たる事実が含まれている。だからといって、その結論まで正当になるわけではない。 そして作品は、これを論破する役を誰にも与えない。キュゥべえを黙らせるような理屈を、誰も言えない。あれはずっとそこにいる。何を聞かれても答え、それでもずっと、わからないままでいる。
契約の向こう側にいる少女たち
その相手をしているのは、十四、五歳の少女たちだ。弁護士はいない。調べられる前例もない。契約の果てについて、信頼して聞ける話も手元にない。その果てに達した先輩たちは、死んでいるか、彼女たちがいま戦っているものに変わっている。まだ生きている少女たちも代償の全体を知らず、ほむらの警告は信じてもらえない。
情報を得られる相手は、向かいに座ったあの一匹だけ。そしてあの一匹は、聞けば何でも答えてくれる。
この配置には、はっきりした性質がある。「相手が嘘をついたかどうか」は、もはや核心ではない。何を聞くべきかを、誰が知っているかが核心なのだ。その質問の一覧を持っているのはキュゥべえである。出し惜しみしているからではない。どんな問いが存在するかを知っているのが、あれだけなのだ。
この少女たちの中に、一度きりの機会を、別の誰かのために使った子がいる。次の一篇は、その子の話になる。