この版について
中国語原作をもとに、日本語の読者に向けて書き下ろした独立版。原文は簡体字・繁体字を同じページで切り替えて読める。
宇宙世紀0079年12月30日。
戦争が始まって、まもなく一年になる。双方の消耗は甚大だった。
ジオン公国の公王デギン・ソド・ザビと、地球連邦軍のレビル将軍が、和平交渉を進めていた。
二人とも、その方向にいた。
そこへ向けて、ギレン・ザビが一撃を放った。
ソーラ・レイ
その兵器をソーラ・レイという。コロニーを丸ごと一基、巨大なレーザー砲に改造したものだ。
撃った結果、何が起きたか。
デギン・ソド・ザビが死んだ。ジオン公国の国家元首であり、ギレンの父だった。
レビル将軍が死んだ。連邦軍の総司令官であり、その和平交渉の、もう一方の当事者だった。
地球連邦軍は、艦隊の三分の一を失った。
この一撃が消したもの
まず、軍事的な効果から見よう。連邦艦隊の三分の一を撃破した。きわめて有効な攻撃であり、戦果だけでいえば、この戦争で最も見事な一撃だった。
そのうえで、ほかのことを見る。
戦争があるところまで進むと、終わる可能性が生まれる。その可能性は、たいてい交渉という形を取る。双方のある立場にいる人物が席に着き、条件や停戦、その後のことを話し合う。
この一撃が撃ち抜いたのは、まさにそれだった。
戦争のなかの一つ一つの行動は、終結へ向かうか、その逆へ向かうかのどちらかである。この一撃が消したのは、終わること、そのものだった。
これは道徳上の裁定ではない。方向について述べている。あの和平交渉は、その時点でこの戦争に残されていた唯一の出口だった。その出口を、この一撃は塞いだ。
撃ったあとも、戦争は続けなければならない。それ以降に死んだすべての人は、出口が塞がれたあとに死んだことになる。
その人数は、数えることができる。12月30日から終戦までのあいだには、ア・バオア・クー攻防戦が、まるごと一戦残っている。
大成功を収めた攻撃と、終結を先送りした攻撃は、同じ攻撃でありうる。
父がそこにいると知っていた
ここからが、この一撃で最も呑み込みにくいところだ。
ギレンは、父がそこにいると知っていた。
誤射ではない。情報の間違いでも、「そんなはずでは」という事態でもない。その方向に誰がいるかを知ったうえで、撃った。
この行為が持つ意味は、連邦側よりも、彼自身の側にとってはるかに大きい。
一国の元首が、その国の総帥によって、許容できる損失に算入された。
国の頂点にいる人間がそう扱われるのなら、それより下のどんな立場にいる人の境遇も、はっきりしている。
第二篇で述べた区別がある。敵を欺くことと、味方に隠すことは違う。この一撃は後者を極限にまで押し進めた。知らされなかったのは一般の兵士ではない。国家元首本人だった。
自分たちの陣営で、そこまで知らされずにいる人がいる。それは、この組織のどんな地位にも、全体像を知る権利がないということだ。
ただ一人、決定する者を除いて。
そして、「全体像を知るのは一人だけ」という状態は、「その一人の判断を問いただせる」ことと両立しない。決定を問いただすには、まず、それがどう決められたかを知らなければならない。
したがって、この一撃は軍事行動だけではなかった。組織の内部構造を、公然と実演してもいた。ただ、その場で見て取れた者は、ごくわずかだったが。
そのあとに起きたこと
一撃の結果を、作品は残りの数話で描き切る。
キシリア・ザビが事実を知る。父殺しを理由に、ギレンを射殺する。
そのあと、シャアがキシリアを殺す。
戦争の最後の数日、一つの国家の最高層が、互いを撃ち殺していく。
報いを受けた結末のようにも見える。だが、そこにある構造は、報いという言葉よりも具体的だ。
問いを許さない組織には、内部の食い違いを処理する方法が一つしか残らない。
決定を会議の席で問うことも、記録に残すことも、責任を追及することもできない。ならば、同意できない者に残される手段は、その人物を直接取り除くことだけになる。
第二篇で抗命を罰された将校と、この一篇のいくつもの銃声は、同じ構造の両端にある。前者は、まだ動いているときの形。後者は、張りつめたものが切れたときの形だ。
シャアは何を求めたのか
この一篇の最後に、シャア・アズナブルを見ておこう。
本名はキャスバル・レム・ダイクン。ジオン・ズム・ダイクンの息子である。
父の死後、ザビ家が国家を握った。彼は名を変え、ジオン軍に入り込み、一段ずつ上へ登っていった。
求めていたのは、ザビ家の人間を一人ずつ死なせることだった。
それが、この戦争を通じた彼の動機である。そのために何年も費やし、大勢を殺した。自分の側の人間も含まれる。
ガルマ・ザビの死は、彼が自分で仕組んだ。自分を信じる友人を、死ぬほかない状況へ送り込み、通信越しにいくつかの言葉を告げた。
最後には、キシリアを撃ち殺した。
その理由は、いつのものか
ここで、この動機を連作全体の枠組みのなかに置いてみる。
過去に受けた傷は、いま手を下す理由にはならない。
傷が実在しなかったという意味ではない。シャアの父は確かに死んだ。ザビ家は確かに、彼から国も名前も奪った。その一家を憎む理由は十分にある。
それでも、「傷つけられた」と「だから、いま手を下してよい」のあいだには距離がある。前者は過去についての事実だ。後者には、現在についての理由が必要になる。いま何かが壊されつつあり、手を下さなければ守れない、という理由だ。
シャアの手にあるのは前者だった。後者はない。
彼は戦争の全期間を、すでに起き終わったことの処理に費やした。
この言い方に評価は含めていない。時間の関係を並べただけだ。彼が処理しようとしている出来事は過去にある。そのための行動は、すべて現在にある。そして、その行動の結果は、ほかの人々に降りかかる。
作品は、彼を成功させてもいない。ザビ家の権力を担った世代はほぼ死に絶えるが、赤ん坊のミネバは生き残る。父は戻らない。国も以前の姿には戻らない。宇宙に暮らす人々の境遇も、少しも変わらない。
支払われた代償は、作品のなかで数えられる。ガルマと、その一連の出来事で死んだ全員。ジオン軍で過ごした歳月に遂行した、すべての任務。そして、彼自身。終戦のとき、この人に残ったのは、役目を終えた名前と、果たし終えた復讐だった。
作品の描き方は抑制されている。誰かに説教をさせることも、本人に悔い改めさせることもない。終盤には、ア・バオア・クーの通路でのアムロとの戦いも、キシリアを撃つ場面もある。だが、決闘も復讐も、それだけでその後に生きるための仕事を彼に与えはしない。
その戦いが終わっても、彼は勝ったわけでも、負けたわけでもない。もう、することがなくなっただけだ。
戦争の終わりに、ザビ家の権力を握った世代はほぼ一掃される。しかし、赤ん坊のミネバは残る。制度も血筋も記憶も、名簿のようにきれいに消してゼロにはできない。シャアの復讐は、父も、かつての国も、取り戻さなかった。
テレビ版は、ここで戦争を止める。シャアのための総括は用意されない。連邦の勝利によって死者全員の勘定を済ませることもない。最後に言葉を発するのはアムロであり、彼が語るのは、自分にはまだ帰る場所があるということだけだ。