この版について
中国語原作をもとに、日本語の読者に向けて書き下ろした独立版。原文は簡体字・繁体字を同じページで切り替えて読める。
サイド7。あるコロニー。
そこに、十五歳の少年が暮らしている。機械いじりが好きで、気難しく、父親との仲もあまりよくない。父親は地球連邦軍の技師で、この地で進む計画に参加している。
ある日、ジオンのモビルスーツが攻め込んできた。
周囲の大人たちは、死ぬか、逃げるかしていなくなった。混乱のなかで少年は操作マニュアルを拾い、まだ引き渡されていない機械に乗り込んだ。
そして、動かした。
アムロ・レイである。
なぜ乗ったのか
理由は正確に捉えておきたい。この連作の第三篇は、すべてそこから始まる。
愛国心から乗ったのではない。連邦に特別な思い入れはない。
憎しみのためでもない。その時点では、まだ誰か特定の人を失ったわけではなかった。
責任を感じたからでもない。誰からもそんな責任を与えられておらず、そもそも軍の名簿に載っていない。
勇敢だったからでもない。このあとの展開では、何度もそうではない彼が描かれる。逃げたことも、泣いたことも、身を隠したこともある。
周りにほかに乗れる人がいなかったから、彼は乗った。
機械はそこにある。操縦できる人は死んだか、その場にいない。外には敵がいる。そして彼は、たまたま、そのマニュアルを読んで理解できた。
それだけだった。
あの船の人々
しかも、同じことは彼一人にだけ起きたのではない。
ホワイトベースは軍艦だ。あの襲撃で、正規の士官のほとんどが命を落とした。
結果、艦に残ったのは、サイド7から避難してきた民間人たちだった。コロニーを逃げ出したばかりで、軍艦の仕事など何も知らない人々である。
指揮を執るのはブライト・ノア。十九歳の少尉で、もとは士官候補生だった。上にいた人々がいなくなったため、艦長の席へ押し上げられた。
船を操縦する人、火器を管制する人、通信を担当する人、モビルスーツに乗る人。それを担うのは、みなこの人々だ。
子どももいる。十歳前後の子が何人か、軍艦のなかを走り回っている。大人に追い払われても、また戻ってくる。
作品は、この子どもたちを描くためにかなりの時間を割く。艦内で食事をし、喧嘩をし、遊び、怖がる。その船は、数話おきに戦闘をする。
見続けていると、気づくことがある。船で営まれる日常と、船が使われる目的とは、まるで関係のない二つのものなのだ。それが同じ空間で起きている。
ここにいるのは軍隊ではない。軍艦に詰め込まれた民間人たちだ。
その船が囮になる
ここからが、この一篇で最も重要なところだ。
戦争の全体におけるホワイトベースの位置は、「勇敢な戦艦」というものではなかった。
連邦軍は、この艦を何度も囮に使う。
危険な場所へ送り込み、能力を超える任務を要求し、敵の注意を引きつけて他部隊の時間を稼がせる。補給はしばしば追いつかず、要請にも返事がないことが多い。死傷者が出ても、引き受けに来てもらえないことがたびたびある。
連邦上層部は、その艦にどんな人が乗っているかを知りながら、こうした配置を決めている。
作品には、上層部の会議が何度か映る。そこでのホワイトベースは記号であり、位置であり、動かせる資源だ。「民間人が乗り合わせた一隻の船」として扱われることはない。
将校たちが特別に冷酷だから、という話ではない。指揮系統がその規模で物事を扱えば、必然的にこうなる。扱う単位は艦、部隊、方面であって、人ではない。
戦う側の内部には、自分たちの作戦を成り立たせる条件として使われている人々がいる。
ここでそれに当たるのは、ホワイトベースに乗った民間人だ。そして、さらに上から連邦が何を使ってこの戦争に勝ったかを見れば、同じ形が現れる。
あの球体
連邦が最後に戦争を制したのは、量産の力による。
国力と工業力では、もともとジオンを上回っていた。戦争の後半、その力でモビルスーツを量産し、数で押し切った。
そのなかに、一つ取り上げておきたいものがある。もともと宇宙で作業をするために使われていた、球形の機械だ。それに砲を一門載せ、人を乗せて、戦場へ送り出す。ボールである。
装甲はほとんどない。機動性も防御力も、本来のモビルスーツには遠く及ばない。画面では、しばしば一群まとめて撃破される。
連邦はこれを大量に造り、大勢の人を乗せた。
作業用の機械に砲を付け、人を乗せる。生産計画には、その一文を書けば済む。
だが、裏側から見れば、そこに乗る人々が、一つの数量として数えられたということだ。
作品は、ボールが戦場で次々にまとめて破壊される様子を映す。どの機体にも特別なクローズアップはなく、なかにいる人にも名前は与えられない。
その描き方自体が、そこで起きていることの形をしている。
アムロはどう変わったか
アムロに戻ろう。
この数か月のうちに、彼は変わった。
恐ろしく戦えるようになった。反応速度も判断も、機体を操る技量も、ますますよくなる。終盤には、この戦争で最も強いパイロットの一人になっている。
ところが、この変化の描き方は、成長物語とは少しも似ていない。
一度は耐えきれず、機体ごと部隊を抜け出し、のちに戻ってくる。それ以前には、出撃を迫るブライトに殴られたこともあった。軍紀と衝突は積み重なっていくが、「殴られて成長した」と整然とまとめられる一件ではない。
船の人々とも、うまくいかない。カイと言い争い、ブライトと言い争い、誰とでも言い争う。
大勢を殺す。そして作品は、その事実を彼に自覚させる。
たった一度の誓いで、彼の戦いを「何かを守るため」ときれいに説明してしまうことはない。
かといって、後悔のあまり戦えなくさせるわけでもない。この人は一日一日、戦い続ける。戦うほど上手くなり、同時に、船に乗ったときの自分とはかけ離れていく。
ミハル
登場する話数は多くないが、この一篇の行き着くところになる人物がいる。
ミハル・ラトキエ。
両親を亡くし、幼い弟と妹を抱えた少女だ。金も仕事もなく、頼れるものは何もない。
ジオンに情報を売り、その金で弟妹を養っている。
やがて、戦闘のなかで死ぬ。
起きたことはこういうものだ。十代の少女が、二人の子に食べさせるため、二つの国の戦争のなかで、誰の記憶にも残らない仕事をした。そして、いなくなった。
どちらの側に属する人でもない。政治的な立場もない。彼女のしていることは、この戦争のどんな目標とも関係がない。
この戦争で死んだ数十億人の大半は、どちらの陣営の大きな大義にも含まれていなかった。
作品は全四十三話のなかで、その数十億分の一を映した。名前を与え、いくつかの場面を与え、彼女の死後も生き続ける弟と妹を与えた。
その死はカイを変えた。だが、それによってどちらかの国の方針が変わるわけではなく、この戦争が正しかったという意味が与えられるわけでもない。
ただ、その出来事を、一度だけ見えるものにした。
ミハルは、戦争の進む方向を象徴する存在にはならなかった。彼女の死で国の方針が変わったわけでもない。何人かの具体的な人が、たった一人の具体的な人を失った。作品が名前と家族を与えたのは、「数十億」という言葉を、その人についての最後の記述にしないためだった。
戦争が終わりに近づくと、双方の具体的な人物が担う和平交渉の機会が、ようやく現れる。次の一撃は、巨大な軍事的戦果を上げると同時に、その出口を、口を開こうとした人々もろとも消し去る。