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Non Dubito

行為について · 補論

判断する力は、どこにあるか

九篇を終えてから、アリストテレス、カント、ウィリアムズとフランクファート、コースガード、ストア派、王陽明、『論語』、ケア倫理、ハーシュマンと話す。一致と別れは三線へ戻る。判断は規則や代理人でなく、決断の前の本人にある。

Han Qin ·

九篇を書き終えてから

この篇を書いたのは、九つの本論を書き終えてからだった。対話は、自分が何を対象にしているかを据えた後でなければ始められない。自分の語っていることが分かって初めて、他者との違いも分かる。本論では外の理論家を一人も名指さず、伝統との対話はここまで残しておいた。この篇で新しい説を立てたり、読者に新しい要求をしたり、九篇の一文を直したりはしない。諸家は対話の相手であって、前提ではない。このシリーズが誰かを訂正したとも、誰かがこのシリーズを予告していたとも書かない。

この思考の仕組みが問うのは、決断を前に立つ一人が、この事柄で何をしているのかということだ。自分も他者も目的であるという前提を持ち、一人称の側から問う。ある出来事を行為として数える条件、習慣のでき方、感情の生じ方を問うのではない。それらの問いには別の根拠があり、否定も代答もしない。また、理由を書き込むと反対側から行動が出てくるような決定手続でもない。題名には九篇を貫く問いを採った。判断する力はどこにあるのか。規則にも、代わりに判定する人にもなく、本人にある、というのが答えだ。その判断は問われ、誤り、後から振り返られうる。以下の対話も、ほぼ毎回この問いへ戻ってくる。

四つの歩みと、三つの線

一つの対話を四つの歩みで進める。まず、照合できる共通の問いを探す。次に、同じことを語っているかを確かめる。似た二語が別々のものを指す場合が多いからだ。それから、どこまで同意するかを述べる。最後に、相手側からの最も強い異論と、このシリーズの応答を書く。異論の多くはこちらで再構成することになる。まだ存在しなかった理論へ、諸家が語ったわけではない。だからこそ相手の強みに届くよう努めたい。「それは私の対象外だ」までで止まるなら、示したのは分業であって反駁への回答ではない。誤引用や誤帰属の多い文も使わない。この四歩を踏むのは、アリストテレス、カント、ウィリアムズとフランクファート、コースガード、ストア派、王陽明、『論語』、ケア倫理、ハーシュマンとの九つの対話だ。分析的行為論については、境界の確認までにとどめる。

並べてみると、違いはばらばらではなく三つの線へ繰り返し集まる。第一は、尺度を誰が持つか。多くの伝統では、今回の行為の正しさや、与えすぎかどうかを測る尺度を相手側が持つか、他者にも同様に通用するものとする。賢慮の人、訓練者、立法者、被ケア者の応答がその例だ。こちらは、受け取る意思、適合、時機を相手側に残す。しっくりする感覚も手がかりにしかせず、他人を判定するのに用いない。第二は、自分のものかをいつ判定するか。同一化、全心、反省的承認、良知など、現在に判定を置く説がある。こちらは当座分からないことを本当に分からないまま認め、後の振り返りへ委ねる。振り返りも誤り、過去の事実は変えない。第三は、進まなかった線と、できなかった一回をどう数えるか。別の義務に制限されればその義務を退場させる、非理想の原則で許可する、後の発言に残留の正当性を預けるという仕方がある。こちらでは進まぬ線も消えず、内心の反対は実際の参加を洗い落とさず、不能だった一度も結果を消さない。この三線は本篇の整理で、どれか一派の分類ではない。

アリストテレス――判断は個別のところにある

これは伝統との最も早く、最も確かな出会いだ。『ニコマコス倫理学』でアリストテレスは、中庸からどこまで外れれば非難すべきかは、言葉では容易に区切れないと言う。「この種のことは個別の場合に属し、その判断は知覚による。」第一篇も、規則に判断を代わらせられないと言った。両者は難しさを規則の数でなく、個別の場合に置いている。他にも接点はある。「することが我々次第であるところでは、しないことも我々次第である」は、しないことも一つの行為だという見方と響く。嵐の中で荷を海へ捨てる行為を、彼はむしろ意志的だとする。その時、するかしないかは行為者にあるからだ。これは進まなかった線も消えないことと照らせる。適切な時に、適切な事柄について、適切な人へ、適切な方法でという中庸の記述も、第六篇の時機、相手、方法と一つずつ照応する。

最も重要な分岐は第一の線にある。徳は我々に相対的な中庸にあり、「理性によって、すなわち賢慮の人が定めるであろうように定められる」とされる。善い人は各々の事柄の「規準であり尺度」だ。賢慮の人の判断が他者にも通用するという、その物差しをこちらは受け取らない。「我々に相対的」な量を誰が決めるかも見たい。彼の例では、ミロンには少なく初心者には多すぎる食事を、訓練者が各人に合わせる。量を決めるのは与える側だ。第六篇では、意思、適合、時機は受け取る相手側にある。そこでの「過ぎる」は、量が多いのでなく相手の部分へ入り込むことだ。だから「過ぎたるは及ばざるがごとし」は中庸の別名ではない。空白を残すのは、適量を与えることでなく、相手が行う分を残すことである。

習慣と出発点にも違いがある。アリストテレスは、立法者が習慣によって市民を善くすると言う。第四篇は、習慣がしないことの代価を変え、法を保ちもすり替えもするとだけ述べる。最後の一歩を誰が完了するかが違う。また彼の考慮には肯定された目的があり、あらゆる追求は究極には幸福を向く。こちらの二つの否定は、先に肯定目標を要さない。補修でなく、出発点の違いだ。最も強い異論(再構成):賢慮の人という外の尺度がなければ、自分の法を気まぐれから分けられないではないか。気まぐれは随時取り消せるが、前提に立つ人は人を目的とする層を取り消せない。今回何をするかは問われ、誤りうる。訂正は事実の照合、他者の問い、事後の振り返りから来て、代理の判定者から来ない。代価も率直に認める。判断に代わり、無謬まで保証する手続はない。

カント――同じ系譜から、六つの分岐

SAEはカントの系譜から出ており、この対話が最も長くなる。接点は幾つもある。判断力は教えられない。『純粋理性批判』は、事例を規則の下へ入れる仕方を普遍的に指示するには別の規則が必要で、それにも判断力が要り、無限に続くと言う。判断力は「教えられず、ただ練習される」ものであり、正しく規則を使う能力は「生徒自身に属していなければならない」。「べき」は命令の文型だ。『基礎づけ』は神聖な意志に「べき」の席がないとし、第一篇の根拠となる。啓蒙は否定的だ。啓蒙を本当に構成する「もっぱら否定的なもの」や、『啓蒙とは何か』の、代わりに悟性を持つ本、良心となる聖職者、食事を判断する医師は、二、三篇と響く。他者の完成についても、私に「本人にしかできないこと」をさせるのは矛盾だという理由と、第六篇の、本人の法が引き受けたものは本人に属するという理由はほぼ同型だ。最後の一歩は本人だけが歩む。

六つの点で別れる。根拠。カントの自律は普遍立法の形式を持つ。自分の法は本人だけを律し、共に人を目的とする二人も別の判断ができる。文型。条件つきの「せずにはいられない」は仮言命法でない。条件は欲しい目的でなく、立場、目前の事実、今回の判断だ。すでに立つ立場の内でしか成り立たないので定言命法でもない。取り除くのは命令形で、人間の有限性ではないから、神聖意志の必然でもない。判断の規則。実践領域の「範型」も、普遍化による格率の検査もこちらは与えない。進まぬ線。カントの広い義務は互いを制限し、制限された側は今回退場するが、こちらでは消えない。第三線の差だ。他者の完成。同じ理由から、カントは他者の完成を促すことは私の義務ではないと結ぶ。一方第六篇は、取り消せない方向であり必ず空白を伴うと書く。べきと能力。「べきはできるを含む」はカントの原文ではない。絞首台の例で、人は「すべきと意識するがゆえに」できると判断すると述べる。こちらはそこから能力を導かず、真にできないことを認める。ただ彼の例も拒否の可能性を認めさせるのであって、死ねとは言わない。この点は第七篇と合う。

最も強い異論(再構成):条件つきの必須では道徳を仮言化し、前提に立たない者へは何も語れない。共通層の前件は欲求でなく承認であり、立ちながら取り消すことはできない、と応じる。前提に立つ人だけに語るのは定義した範囲で、譲歩ではない。普遍命令を発しないが、その別の根拠を否定もしない。前提外の人や手段化する働きにどう向き合うかは第七篇、そうした権力を制度でどう制約するかは政府論の問いである。

せずにはいられないことと、自分のものになる時

この言葉から、まず二人を思い出すだろう。バーナード・ウィリアムズの実践的必然は、「私はせねばならない」「私にはできない」が外の命令でなく自らに由来する。ハリー・フランクファートの意志的必然では、何を気にかけるかが決断よりも意志に近く、通常は現在の随意的統制下にない。必然を行為者自身に置く点で三者は近い。ウィリアムズは「自分の過去の行為に対してしか抱けない」行為者の後悔も論じる。無過失で子を轢いた運転手の感覚は、いかなる傍観者とも異なる。この例は、振り返りが過去を変えず、一度担えなくても結果を消さないという第三、四篇を照らす。

ただし同じものではない。両者の必然は内容を限定しない。ウィリアムズは倫理に固有でないと述べ、フランクファートも全心の関心が甚だしい悪へ向きうると認める。こちらの必須は、自分も他者も目的という立場に限り成り立つ。また感じる必須が植民化に由来することも認める。「できない」の意味も違う。両者の行為者の無能力に対し、共通層の取消不能は、その立場に立ちながら取り消す二文が一人の中で両立しないことだ。立場を離れることはできる。悪人にも必須はあるのに範囲限定はごまかしでは、という異論には、現象を否定せず誰に成り立つかを定めていると答える。ルターの「ここに私は立つ、ほかにできない」は事後の印本に現れ、当時の記録にはないので、本人の原話としては使わない。

クリスティーン・コースガードは規範性を反省の構造へ置く。問いは「行為のまさにその時に立ち上がる」。衝動から一歩退き、目に入れ、理由かどうかを自分で認める。心へ入るだけで自分の法にはならないという第三篇と出会う。最も大きな差は、第二線の時間だ。彼女では自分のものかは慎慮する現在に承認されるが、こちらでは当座答えられず後に振り返ることが多い。外の基準を自分のものとする人の反省も、それを承認しうる。深い植民化とは、現在の反省の中で「これは私のもの」と言うことでもある。悪の前で無力だという批判に対し、彼女は二層理論で、対悪に際して「この理想を離れうる」とし下位原則を置く。第七篇はそれを置かず、状況が変えるのは方法で「人は目的」の版ではないとする。第三線での分岐だ。

できることとできないこと――ストア派と王陽明

線は明らかでもそれに沿って動けなかった第四篇は、二つの伝統を呼び起こす。エピクテトス『提要』は「あるものは我々次第であり、あるものはそうでない」と始まる。ゲッリウスが伝える話は特に近い。突然の恐ろしい出来事では賢者の心も一時動揺し、縮み、顔色も変わるが、同意は与えない。身体、感情、能力を事実と理由へ入れても自分の法を代わって定めさせず、疲れを不本意、恐れを否認としない第四篇と、反応と承認を分ける点で出会う。

違いは接点より大きい。彼では我々次第なのは判断と意志で、体、財産、評判は反対側にある。第四篇は身体も感情も習慣もためらいも行為へ入れ、発熱で行けなくても法は残ると事実どおりに記す。他者の扱いも平らにはできない。『提要』は外のものへ「私には関わりがない」といつも言えるよう備えさせる。第六篇は本当に人を目的とした時、本人の法が育つかを無関係とはできないとする。文面は逆だ。ただストア派は冷淡ではなく、彫像のように無感動でなく関係を守れとも言う。その善悪の勘定で、他者の禍福は自分の善悪ではないということだ。また「扉は開いている」は文脈上、生命を去る話である。第七篇の退出は、危険を引き受ける別のことだ。死による証明でも、死による退出でもない。

中国語の読者には、王陽明の知行合一も思い浮かぶだろう。両者は先に知り後で行えるという順序を拒む。真に知るまで待てば「ついに終身行わず、また終身知らない」となる。外の定理が判断を代わることも認めず、「自らの良知が自らの規準」と言う。だが核心では逆だ。王陽明は知って行わない事実を認めながら、知とは呼ばない。「私欲に隔てられ、知行の本体ではない……知って行わないのは、ただ未だ知らないのである。」未実行を未知へ改名し、私欲に帰し、本体回復を薬とする。第四篇は決めたができなかった隙間を真に残す。法はなおあり、恐れは否認でも私欲の別名でもない。決めてもまだ動かないためらいもある。修養の処方箋を出さず、当座不明なものを振り返りへ渡す。

範囲も明記したい。知行合一を王自身が「病に対する薬」と呼び、当時の知行を二つに分け終生行わない学風を対象とした。彼が防ぐのは分離による一生の不実行、第四篇が防ぐのは人の実際の制約をその法への判決に書き換えることだ。『伝習録』として引用されがちな「一念の動く所が知であり行でもある」は同書にはなく、この篇では使わない。

涵育――『論語』とケア倫理

著者は『論語』解釈で礼を仁の行為論と読み、SAEもカントも目的と法則には強いが、身体、時間、他者の前での実際の展開には弱いと自己診断した。第四篇と第六篇が向かうのはこの空所だ。ただし礼の一体系は補わず、展開を記述して定型手続を命じない。礼の正当性は礼の外にある、という一文を守る。礼を行う判断主体を要する点で、「人にして仁ならずんば礼を如何」と「仁を為すは己に由る、人に由らんや」は響き合う。後者は、第二篇の「他者の分は、本人だけが自分で立てる」という話とも響き合う。ただ「天下に道あれば見れ、なければ隠る」は出処の話で、国の状態によって配分される。制度内に残り、他者の植民化へ貸さずに済む力を貸さない第七篇の隠れとは違う。

「過ぎたるは及ばざるがごとし」は、子貢が子張と子夏を比べた問いへ孔子が一方は過ぎ一方は不足と答え、教師が判定する場面だ。第六篇が借りるのは助け手自身の今回の行為に対してで、相手の分への侵入が過剰、与えるという自分の判断を保ちながら与えないのが不足だ。何でも適度に、ではない。子路と冉有へ同じ問いに逆の答えをし、退きがちな者を進め、勇みがちな者を退ける章は相手を照らす。「憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず」、一隅から三隅を返さなければ繰り返さない章は、時機と相手自身の分を照らす。ただし繰り返さないには、第六篇の残る半分を添える。今回涵育しなくても失守ではないが、拒否、修正、退出、転向の道を閉じない境界は消せない。三つとも借用で、孔子の原意が涵育と植民化だったとは主張しない。

ケア倫理との対話は、一つの約束の履行でもある。価値論の対話篇は、七篇に判断力が一度も現れずまだ同じ地で語れないとして行為論へ送り、前置篇はここを唯一の未履行先と記した。両者とも個別判断を規則へ代行させず、善意の贈与が支配に変わることを知る。ウマ・ナラヤンは植民事業が「被植民者のため、その福祉を高めるため」と見なされたこと、ケアの語が権力と支配を覆い正当化する場合を指摘し、争われる語を誰が定義するのか問う。時機、相手、方法の誤りで涵育が植民化へ変わる第六篇と直接照応する。ケア倫理自身の自己批判であって、こちらが代わりに指摘した欠陥ではない。

最も消してはいけない違いは、完了と空白の逆向きだ。ネル・ノディングズは、成立条件へ被ケア者の応答を入れる。「被ケア者の肯定的応答がなければ、一つの出会いや関係をケアとは呼べない。」乳児の笑顔ほど単純でもよい。第六篇は感謝、服従、加入で精算せず、成ったかは相手自身の法に属する。父権的なものも悪いケアとして内に置くのに対し、こちらでは相手の分へ入った瞬間に植民化になる。非植民化は一つの良質さでなく涵育の境界だ。「依存は穏やかな植民化」は判断が与え手に従属することを指す。エヴァ・キテイが正義論の中心に置く、生涯に不可避な依存とケアを、この体系は植民化とは呼ばない。

最も強い異論(再構成):相手の応答で検証しなければ涵育は独白となり、空白も無責任になる。応答は材料であって精算ではない。三条件は相手側から示され、助け手は見なければならず、代答はできない。見誤れば判断の誤りで、直せる。空白は少なくすることではなく、自分が与えると判じながら与えないのも失敗だ。別れるのは相手を見るか否かでなく、見たものを判断に使うか、関係完了の認定に使うかである。価値論からの約束はここで果たした。

混じる現実――ハーシュマンと、一つの境界

アルバート・ハーシュマンは企業、組織、国家の衰退時に成員がどう反応するかを問い、退出と発言を区別する。発言とは不快な状況を逃れるのでなく変えようとするあらゆる努力で、忠誠は一般に退出を止め発言を活性化する。第七篇の妥協、隠れ、退出、保護、抵抗も、不賛成の人が去るか残るか、残って何をするかを問う。公務員がチーム員としての行動を求められ「最も強い武器を事前に明け渡す」という説明は、数年提出するうち人を順位で見るようになる妥協と響く。

分岐もある。衰退から出て組織の正常回復を問うのに対し、第七篇の手段化は業績上昇とも共存し、守るのは組織の存続でなく人だ。隠れはどの欄にも入らない。残るので退出ではなく、組織変更で定義しないので発言でもない。後の研究の「無視」は受動的な悪化放置だが、隠れは職務を保ちつつ植民化への力だけ貸さない方向を持つ。妥協も忠誠ではない。長い残留に社会的有用性があるのは決定時に気骨、すなわち発言へ転じる限りという説明では、正当性が後の発言にかかる。第七篇では、内心の反対が実際の参加を洗い落とすことはない。同じように、後の発言が、それ以前の参加をさかのぼって正当化することもない。第三線の違いである。

分析的行為論とは境界を確認するまでだ。フランクファートは行為とただ身に生じた出来事の差を問い、デイヴィドソンは理由による説明を通常の因果説明とする。第一篇が否定するのは理由から行為を演算することで、理由の因果作用ではない。理由が原因かの論争はどちらも受け入れうる。実際に接するのは、多くの理由のうち何が、行為の拠り所となる一つにするかである。このシリーズは本人の線引きとだけ述べ、さらに下へ進まなかった。余項と記し、回答済みにはしない。

判断する力は、どこにあるか

本篇自身の約束も整理する。先行篇からの参照は前置篇で公開照合し、残るケア倫理の一件をここで履行した。どれだけ果たしたかは、双方を読む人が確かめる。先へ送る三件もある。必須の資格と普遍性の関係は第二批判へ、他者の個別行為を判じ同意を求める資格は第三批判へ。承認を守る制度、権力への問い、形式的退出を破滅的代価で実際には閉じる問題は政府論へ送る。宛先が明確でも、履行済みとは限らない。

四文にまとめられる。人が決める時にするのは否定だ。しないこととせずにはいられないこと、進まなかった線もそのために消えはしない。必須は条件つきで「べき」とせず、共通層は前提に立ちながら消せず、具体層は本人が判じ、問われ誤りうる。内には反植民化を続け、外には涵育を目指し、その方向には必ず空白がある。混合現実で状況が変えるのはできる方法であって、人は目的ということではない。

九対話のほぼすべてで、判断力の場所を問うた。規則にも、賢慮の人や訓練者にも、助け手の関係完了評価にも、一度の現在の反省で済む承認にもない。決断を前にした本人にあって、問われ、誤り、後に振り返られうる。諸家は対話者で前提ではない。範囲外の問いは各自の根拠を持ち、代答も否定もしない。あの報告書を作る人は毎回自分で判断する。書いたのは何をしているかであって、代わりの判決ではない。

原論文と読む範囲

公刊された中国語の読者向け散文を底本に、日本語で独立して書き直した。学術論文を短く要約した訳ではない。第一〜六篇の報告書をめぐる物語は架空の例であり、第七〜九篇の史例はいずれも2000年以前の個々の出来事を扱う。人物全体を認定しない。対話篇の異論は対話のために組み立てたもので、歴史上の人物の発言を捏造しない。各篇の原論文が詳しい論証へ通じる。逆境の専論には、それ自体の限定と史料への入口を付した。

原論文 ↗