Han Qin · 紅楼夢・新たな三十回
第八十一回情深き公子、情けを請うて古参の侍女を送り花襲人、涙を含んで花の仲間に別れを告げる
さて、迎春が孫家へ帰ってからというもの、紫菱洲の窓は毎日閉じたままで、夜番の老女中が二、三人いるばかりだった。年が改まっても、まだ寒い。藕香榭へと続く水辺には、枯れた蓮の茎が氷に閉ざされ、抜きに来る者もいなかった。
この日、宝玉が王夫人のところへご機嫌伺いに行くと、ちょうど孫家から使いの女中が来ていた。四十あまりの女で、着古した濃藍の木綿の上着に、銅のかんざしを一本挿していた。額をつけて礼をし、宝玉にも挨拶すると、そのまま下手に立って、持っていた小さな包みを急いで両手に捧げ、笑顔で言った。「奥さまから、こちらの奥さまへお届けするようにと。ご自分で縫われた靴下が二足ございます」
王夫人は受け取らせ、「お宅の奥さまはお変わりないかえ」と尋ねた。
女はうつむき、目をこすりながら、「まあ、お変わりなく」と答えた。
王夫人は茶碗を取り上げ、また置いて、「おからだのほうもお変わりないかえ」と尋ねた。
「お変わりございません」。しばらくして、女はまた言った。「それから、園の紫菱洲にあったあの碁石は、今ももとの場所にあるかどうか、お尋ねするようにと申されまして」
王夫人は古い硨磲と珊瑚の数珠を繰っていたが、それを聞くと、その手が止まった。しばらくして言った。「帰ったら、奥さまにそうお言い。碁石は大切にしまってあります、一つもなくなってはいませんよ、と」。そして針糸や茶や菓子を持って来させ、ただ奥さまからのお下がりだと言って、女に持たせた。女は何度も礼を述べ、周瑞の女房に連れられて出ていった。
王夫人は座ったまま動かず、数珠ばかりを繰っていた。やがて小さな包みを解いて二足の靴下を取り出し、窓辺で縫い目をよく見た。一足は目が細かく、もう一足は粗い。粗いほうは底の糸が途中で切れ、つなぎ目もぞんざいだった。王夫人はそのつなぎ目を指先で撚り、しばらく眺めてから、もとのように包んでしまわせた。
宝玉はそばに立ち、包みが奥へ運ばれてゆくのを見ていた。
王夫人は宝玉の顔色が悪く、このあいだよりまた痩せたのを見て、ため息をついた。「大奥さまもここ数日、おからだの具合がよくないのですよ。おまえも、もう大きいのだから、園で遊んでばかりいないで、少しは本をお読み。このところ、どこも人の出入りがあるでしょう。おまえの部屋も同じですよ」。宝玉はうつむいて、「はい」と答えた。
そこへ幼い侍女が簾をまくって駆け込んできた。「奥さま、大奥さまのお使いで鸚鵡姉さんがいらしてます。すぐにお越しいただきたいそうで」。息を切らせてそう言うのを聞くと、王夫人は急いで立って着替え、玉釧児に留守を命じた。出がけに宝玉をひと目振り返り、人を連れて賈母の住まいへまっすぐ向かった。宝玉は、卓上の汝窯の美人觚に花の一本も挿してないのを見ると、自分も退出した。
賈母が病に伏して以来、屋敷のどこも入り用を切り詰めるようになった。ある日、宝玉が台所のそばを通ると、中で女中が二人、話し合っていた。「また炭が来ないよ。このあいだは三日だと言ってたのに、今日はもう八日じゃないか」「炭はまだしも、お手当だって出やしない。若奥さまはご病気だし、帳場のあの人は逃げるのがうまいからね。奥さまのお言葉を待っております、とばかりさ」。初めの女が言った。「何のお言葉を待つものか。去年、賭博の取締りをしたときだって、年のいった娘は何かしら落ち度を見つけて追い出して、嫁にやればいいって、そういう話があったじゃないか。面倒が減るし、出費も減る。そのあと奥さまが、大奥さまがお許しになるまいっておっしゃって、沙汰やみになったけど」。もう一人が笑った。「その大奥さまが今はご病気だからね」「そういうことさ。去年の芳官たちだって、それぞれの養い親が引き取っていったじゃないか。外で好きな婿を見つけていいって、奥さまのお許しまで出て。あの養い親たちの迎えに来たときの喜びようといったら、実の娘でもああはいかないよ」。相手はぺっと唾を吐いた。「もうろくしたね。何が実の娘だい。売り飛ばして銀を何両か手に入れる算段に決まってるじゃないか」
窓の外で聞いていた宝玉は、しばらく足を止めた。去年、晴雯たちは、こうして出されていったのか。そう思うと、園へも戻らず、向きを変えて王夫人の部屋へ行った。
王夫人は顔を見ると尋ねた。「今ごろ園にもいないで、何の用です」
一度尋ねられても答えず、もう一度聞かれて、宝玉はようやく口を開いた。「母上、ぼくのところにいる者たちは、決してよその人に引き取らせないでください」
王夫人は思わずきょとんとして、宝玉の頭から足まで眺めた。「誰が何と言うのを聞いたのです」
宝玉はせきこんだ。「実の親に迎えに来させてください」
「親に引き取らせるのは、いつものことですよ。誰が引き取らせないと言いました」
そう言われると、宝玉は何を続ければよいのか分からなくなった。少し考えてから、「着るものや銀も、どうか余計に持たせてやってください」と言った。
王夫人は宝玉を見て、ため息をついた。「それも、いつもそうしているではありませんか。何事もないのに、なぜそんな心配をするのです」
宝玉は答えられずにいたが、しばらくして、ふいに言った。「これからは落ち着いて勉強します」
このひと言を聞くと、王夫人は嬉しくなり、うなずいて笑った。「その気になってくれたのは何よりです。おまえの部屋の者には、自分で話しておやり。銀も、いくらか余分に持たせなさい。私の取り分から出しましょう。事情を知らない外の人に、うちは使用人をいたわらないなどと言われても困りますからね」。宝玉はいちいち承知し、帰ろうとした。
王夫人は呼び止めた。「まだ一つあります。このあいだ襲人の兄の花自芳が来てね。母親の喪も明けて、家には自分一人になったから、襲人を引き取りたいと言うのですよ。私も考えていたところで、お父さまとお付き合いのある方がいらしてね。お年は少し上だけれど、暮らし向きもよくて、襲人を側室に取り立ててもよいとおっしゃる。そんなお宅なら、外へ出して、どことも知れない家に嫁がせるよりいいでしょう。襲人のことは私に考えがあります。おまえはかまわなくていい」。宝玉は立ったまま、はいとも、いやとも言えず、やむなく小声で返事をして、退いた。
さて、宝玉が怡紅院へ戻ると、侍女たちはもう噂を聞いていた。廊下では春燕と幼い侍女が言い合っている。「あたしは秋紋姉さんが出ていくと思うわ」と小さいほうが言うと、春燕は笑った。「何も知らないくせに。出すなら小さい子からよ。この院でいちばん小さいのは誰か、数えてごらん」。小さいほうは納得せず、ぺっとやった。「あたしが小さいですって。あたしが来た年、あんたはまだかまどで火を焚いてたじゃないの」「火を焚いていたらどうなのよ。その火焚きが今はお部屋づとめで、お部屋づとめのほうが外へ出されるんだから。若さまがおっしゃってたわ。嫁にいけば死んだ真珠、もっと年を取れば、ただの魚の目玉だって」。二人は自分たちで言って自分たちで笑い転げ、しゃがんだまま立ち上がれなくなり、しまいには一つになって転がり、取っ組み合った。そこへ春燕の母親の何婆が来て叱った。「この小娘ども、ただでは済まないよ。中では大事な話をしているのに、こんなところで馬鹿騒ぎして」。二人はやっとやめたが、なおも互いの腕をつねっていた。宝玉の姿を見ると、そろって廊下の柱の陰へ逃げていった。
宝玉は部屋の者を一か所に集めた。自分は立って、まるで何か悪いことでもしたような様子で言った。「奥さまからお話があった。家から迎えが来た人は、家へ帰ることになったんだ。佳蕙はおばあさんの家からもう迎えが来ているし、秋紋の家も二度、聞きに来たそうだ」。そこまで言って、もう目の縁が赤くなった。「ぼくから銀をあげる。ぼくが追い出すんじゃないんだ」
部屋じゅうが、しんと静まり返った。
最初に口を開いた秋紋は、「銀とおっしゃるのは、おいくらです」と尋ねた。
宝玉は答えた。「いくら要るの」
秋紋はそれ以上聞かず、冷ややかに笑った。「どうして、あたしからなんでしょうね。綺霰はなぜ出ていかないの。ここへ来たのは、あたしより後なのに」。麝月がそっと、「秋紋姉さん」と呼んだ。秋紋は聞かず、花のあいだに百の蝶を織り出した、淡い藤色の舶来繻子の上着を、広げては畳み、畳んでは広げた。「あの年、奥さまに頂いた着物も、まだこうしてしまってありますよ」。そう言うところへ、小紅が、くすんだ黄緑色の毛交織の小さな包みを捧げて入ってきた。璉の若奥さまから若さまへお届けするように言いつかった、と言って、置くとすぐに出ていった。
秋紋は小紅が院の門を出ていくのを見て、笑った。「あのときは、若さまにお茶を一杯出しただけなのに、あたしはあの子を叱って、鏡で自分の顔を見てごらんって言ったものよ。それが今では、あの子のほうが向こうで無事にやっている」。それから麝月に言った。「あんたは残れるんだから、いいわよね」。麝月は何も言わなかった。秋紋は言いすぎたと思った。「あんたを恨んでるんじゃないのよ」。上着を畳んではまた広げ、どうしてもきれいに畳めない。ふいにまた言った。「あたしが出ていったら、誰が朝早く若さまの髪をといてさしあげるの。誰がお薬の時刻を覚えているの」。麝月はすぐに、「あたしがいるわ」と言った。秋紋は後ろを向き、棚の本を整えようとしたが、手は動かなかった。
綺霰は戸口にもたれて立っていた。「あたしはもともと、大奥さまからこちらへ回されたんだから、ここにいるだけよ」。そう言うと、自分で舶来の柔らかな更紗を一枚取り、机の上の筆立てや硯を一つずつ拭き、もう何も言わなかった。
佳蕙だけは泣きも騒ぎもせず、黙って自分のものを片づけていた。古い着物が二枚、小さな鏡が一つ、針仕事の袋が一つ。それを藍染めの地織りの木綿で四角く包むと、片手でも持てる小さな荷物になった。祖母の家の者がすでに外で待っており、出入りの割符の帳面からも名が消されていた。支度を終え、包みを提げて院の門まで来ると、佳蕙はふと立ち止まった。振り返って、かつて小紅のいた西の脇屋にひと目をやった。戸は閉じ、窓の紙が一か所破れていた。それだけ見ると、向き直って出ていった。
脇門では、門番の女中が錠を開けているところだった。そこへ一族の塾のほうから、小さな若さまが歩いてきた。着古した青い木綿の長衣に、肘には継ぎが当たっている。賈菌だった。佳蕙を見ると足を止めて聞いた。「宝おじさんのところにいる人だろう。どこへ行くの」
「おばあさんの家へ帰るのです」と佳蕙は答えた。
門番はまだ鍵を手にしたまま、賈菌をせき立てた。「若さま、早くお通りなさいませ。ここは立っているところではございませんよ」
賈菌はかまわず、また佳蕙に尋ねた。「迎えは来てるの」
「来ています」
賈菌は笑った。「来ていてもいいや。少し送っていく」。そう言うと手を伸ばし、佳蕙の包みを取り上げた。佳蕙が慌てて取り返そうとしても、返そうとしない。後ろで女中が呼んだ。「菌さま、菌さま。お母さまに知れたら、どうなさいますよ」。それでも振り向かなかった。二人は前後して脇門を出た。街角まで行くと、果たして迎えの者がいたので、賈菌はそこで包みを返した。佳蕙は膝を折って礼をした。「じゃあ、道中気をつけてね」と賈菌は言った。佳蕙はそのまま行き、一度も振り返らなかった。賈菌はその姿を見送ってから、ようやく塾へ引き返した。
碧痕は実の親が迎えに来た。引き取られるとすぐに縁談が決まった。今度は屋敷じゅうで使用人を減らしたので、ほかからも何人か出された。探春の部屋の蝉児もその一人だったが、それはさておく。
部屋へ戻った宝玉は、もう一度秋紋をそばへ呼び、抽斗から銀の包みを取り出して押しつけた。「ねえ姉さん、これを取っておいて」。秋紋が断ろうとすると、いよいよせきこんだ。「姉さん、お願いだから、受け取っておくれ」。それから声を落として言った。「この先、暮らしがうまくいかなかったら、いつでもぼくを訪ねてくるんだよ」。秋紋はそこでようやく銀を受け取ると、ひざまずいて額をつけた。立ち上がったとき、顔に涙はなかった。ただ、「これから若さまの着物を畳む者がいなくなりますね。麝月に、気をつけて畳むようにおっしゃってください」と言い、身を返して出ていった。
それから二日たった。宝玉は、王夫人の「私に考えがあります」というひと言を思い返し、長持の前にしばらく座っていたが、どうにも手立てが見つからなかった。
思いふさいでいるところへ、ちょうど茗煙がそっと入ってきた。「錦香院の雲さんからお使いが来ました。大事なお話があるので、ぜひ若さまにじかに申し上げたいそうです」。そこで宝玉は、城外の寺へ願ほどきに行くと言って、茗煙だけを連れて出かけた。そこは小さな寺で、参詣の人影もまばらだった。風が通ると、堂の軒隅の鉄の風鈴が、ちりん、ちりんとしばらく鳴った。雲児はもう寺の前で待っていた。挨拶を交わし、二人は廊下に並んで座った。
雲児が言った。「うちの女将さんが年を取って、田舎に帰ることになりまして、この店を人に譲るんです。あたしが引き継ぎたいと思うのですけれど、銀がだいぶ足りなくて。考えても考えても、頼める人がいないものですから」。言ううちに自分で顔を赤くし、付け加えた。「若さまにご無理でしたら、今のことは聞かなかったことになさって」
宝玉は聞きながら、何も言わなかった。その様子を見て、雲児は尋ねた。「何かお悩みでもおありですか」。宝玉は言った。「ぼくのところの襲人を、母上が外へ嫁にやると言うんだ。誰のところへかは、ぼくにも分からない」
雲児は笑った。「奥さまが、あの人に悪いようになさるはずはありませんわ。でも、よいお相手といえば、一人思い当たります。琪官はこの数年で城東に田畑も家も持って、一人で暮らしていますけど、まだお嫁さんをもらっていません。あの年、馮さまのお宅で、『花の香、人を襲う』という句を口にしたでしょう。襲人さんのお名前だと言って聞かせたのは、あたしでしたわ」
宝玉はぱっと顔を上げ、手を打った。「そうだった。どうして、それまで忘れていたんだろう。紫檀堡の家のことだって、あのときぼくが話したんだった」。そして言った。「ただ一つ気になるんだ。あちらのお屋敷では、今でも彼を捜しているのかい」
雲児は笑った。「もうとっくに、捜しもしませんよ。今は自分の家も田畑もあって、戸籍も別に立てたんですもの。役者一人のことを、いつまでもかまってはいませんわ」
宝玉も笑った。「君のほうは引き受けた。ぼくのところに金の西洋からくり船が一つと、金の麒麟が一つあるから、まずそれを持っていって使っておくれ。琪官への証しになるものも一つある。それも一緒に、茗煙に届けさせよう」
雲児は立ち上がり、笑って言った。「そこまでしていただいて、何とお礼を申したらいいか。このお金のことは忘れません。いつか都合がついたら、きっとお返しします」。宝玉は笑った。「返すなんて。襲人のことをうまくまとめてくれれば、それが何よりだよ」
帰ると宝玉は長持を開け、真紅の汗取り帯を一筋探し出して、しばらく眺めた。それから飾り棚にある金の西洋からくり船を下ろし、古い巾着に入れていた金の麒麟とともに古絹に包んだ。それらをみな茗煙に渡し、耳もとで二言三言言いつけると、茗煙は心得て、ひそかに出ていった。
七、八日たって、茗煙が報告に戻った。「蒋さまは二つ返事で、何世も前から積んできた功徳のおかげだ、とおっしゃいました。日取りも決まりました。二月十二日、花朝の日でございます」。宝玉は聞くと一瞬ぼんやりし、ただ「分かった」と言った。雲児からも茗煙に伝言があった。あの船は自分の一存で扱うのははばかられるので、蒋玉菡に頼んで買い手を探してもらっているという。
知らせを受けた花自芳が、王夫人に申し上げに来た。王夫人は蒋家の田畑と家について二、三尋ね、次いで、誰が仲を取り持ったのかと聞いた。花自芳が、外で付き合いのある者です、と答えると、王夫人は数珠を二粒繰り、それ以上は尋ねず、「そういうことなら、それでよいでしょう」と言った。
花自芳が帰ったあと、周瑞の女房が用事を申し上げに来て、ついでに尋ねた。「襲人の銀二両と銭一貫のお手当は、今月から止めますか」。王夫人は何気なく、「止めておおき」と言って、茶を手にした。周瑞の女房が承知して帰ろうとすると、王夫人は急いで茶碗を置き、呼び止めた。「いや、お待ち。もともと私の取り分から分けているのですもの、屋敷の勘定に響くわけでもなし。二月の分まで渡して、一緒に持たせておやり」。さらに言った。「それから、あの子の終身奉公の売買証文も探しておいて、出ていくときに兄にお渡し。身請けの金は言い出さなくていい」
そうしてまた何日かが過ぎ、正月も終わりかけた。園には一度雪が降り、石畳の道がどこもうっすら白くなった。掃く者もなく、そのまま解けるに任せてあった。
襲人はこの話を知ってから、泣きも笑いもせず、真紅の婚礼衣装を出してひととおり見ると、また畳んでしまった。長持の底には、桃色の綴織に百人の子どもの模様を織り出した、白貂裏の胴着が一枚、青繻子に灰色の栗鼠の毛皮をつけた上着が一枚、金糸を這わせて色糸で刺繍した、葱の葉色の綿入りの裳が一枚。これらは王夫人に頂いたものだった。濃藍の綴織に丸紋を八つ配した、沙狐の腹毛皮裏の上着が一枚、猩々緋の羅紗で仕立てた雪よけの外套が一枚、真紅の舶来縮緬に白貂の毛皮を合わせた裳が一枚。こちらは璉の若奥さまに頂いたものだった。一枚ずつ広げて眺め、また一枚ずつ畳んで、平らに押さえた。それからは宝玉が部屋にいると、襲人はたいてい外で荷物を片づけ、宝玉が出かけて初めて部屋へ入った。ある日、廊下で二人が行き合った。宝玉が口を開いて何か言おうとすると、襲人が先に急いで言った。「若さまのお薬を、まだ煎じておりませんでした」。そう言って、台所へ行ってしまった。宝玉はしばらく立っていたが、自分も奥へ入った。襲人が台所へ着くと、かまどには湯もかかっていなかった。ただ立ったまま火を見ていた。長いあいだ見てから、ようやく袖で顔をひと拭いした。この何日かで襲人は、怡紅院の内外の用事を一つ残らず整理した。割符や鍵、それぞれに申し送る事柄は、人に頼んで書き出してもらい、麝月に渡して預けた。
麝月はその書付を受け取ると、目の縁を赤くしたが、どうにかこらえた。「姉さんも、今度出ていったら、もう外の人なのね」
襲人は口を開こうとして、言葉より先に涙が落ちた。慌てて手の甲で拭いてから言った。「外だの内だの、何を言うのよ。今日は隠さないで話すけどね。初めに、ああいう人だと聞かされたときは、あたしも何日か、気が落ち着かなかったの」
麝月は顔を上げ、そっと問い返した。「それじゃ、今は」
襲人はその問いには答えず、ただ言った。「あたしたちは小さいときから一緒にいて、この何年か、いなくなった人もずいぶんいるわね。媚人姉さんも、この時分にお嫁にいったわ。外のごく普通の家だったけど、それきり便りもない。茜雪は、出ていってもう何年になるかしら。どこにいるのかも分からない。小紅は璉の若奥さまについていって、今もあちらにいるけれど」。さらに声を落とした。「可人はね。前に、若さまのお部屋で物がなくなったことがあって、その晩はあの子が番だったの。二度問いただされて、翌日にはもういなくなっていたの。そのあと良児の一件が明るみに出ても、誰があの子のために、ひと言でも言ってくれたかしら。今は、金釧児と同じところにいるのよ」
麝月は聞いて、ひと言も言わなかった。
襲人は続けた。「そう考えると、あたしは運がよかったのね。田畑も財産もある人に、きちんと仲人を立てた本妻として迎えられて、若さまにもこれだけ面目を立てていただくんだもの」
麝月はうつむいて、書付を二度折り畳んだ。「姉さんの言うとおりだわ」
襲人は麝月の顔をちらりと見て、それからまた言った。「これから若さまのおそばでは、あんたたちが大目に見てさしあげてね。気が短い方だから、あんたが間に入って、うまく取りなしてあげればいいの。夜、おやすみになったら、首の玉を外して、手巾に包んで敷布団の下へ入れておいて。そうすれば、翌朝つけるとき冷たくないから。それだけは、書付に書いてなかったわ」。麝月は書付をしまい、抽斗に入れると、窓を閉めに行った。
この日の灯をともすころ、紫綃が着物をしまう手伝いに来た。灯芯の先が花のように焦げていた。長持は半分開いて、畳んだ着物が片側にきちんと積まれ、残りの何枚かは炕の縁に掛かっていた。一人が渡し、一人が収めて、やがて片づけ終わると、襲人は灯の下に座った。手には黄花梨の古い小箱を持っていた。手のひらほどの大きさで、蓋には梅の枝が一本、細かく彫られている。彫り跡はごく浅く、ほとんどすり減っていた。襲人は箱を紫綃のほうへ押して言った。「これはあんたのよ。開けてごらん」
紫綃が開けると、銀の腕輪が一対入っていた。その下には銀の小片も何両か、柔らかな古絹に包んで収めてあった。紫綃はすぐ箱を押し返し、顔を上げた。「姉さん、こんなことをしていただいては」
襲人は急いで箱を手で押さえ、笑った。「いいから、取っておおき。あんたの分は、ずっと前から取っておいたの。檀雲の分も、まだここにあるわ。出ていくとき、持っていかなかったから」。それから言い添えた。「心配しなくていいのよ。若さまはあんたを追い出したりなさらないし、家から迎えに来たら、無理に引き止めたりもなさらない。いつか親のところへ帰ったら、人にだまされないようにね。ここにいるなら、麝月姉さんの言うことをお聞き。お嫁にいくときも、よくよく人に調べてもらうのよ」
紫綃は聞いて、そっと尋ねた。「檀雲姉さんは、出ていってから、何か便りがありましたか」。襲人は答えず、ただ手を伸ばして静かに蓋を閉め、それから手を引いた。答えがないので、紫綃もそれ以上は聞けなかった。箱を抱えて立ち上がり、小さな声で言った。「姉さんがお嫁にいく日は、きっと朝早く起きて、お見送りするわ」。襲人はうなずいた。
たちまち花朝節の前日になった。鳳姐は二日ほど前に話を聞いていた。病中とはいえ、まだ元気はあり、すぐ平児に長持を開けさせ、一品ずつ数えていった。嫁入り道具は二荷で、どちらも箱詰めだった。一荷は絹の反物やかんざし、腕輪などの装身具、四季の衣服、夜具や敷布団。もう一荷は日用品に、何両かの銀の小片、木綿二反、針糸の包み一つを添えたものだった。
平児は針糸のところまで数えると、持って入って言った。「奥さま、針糸は少なすぎませんか」
鳳姐は炕に横になったまま答えた。「それでいいよ。別に指ぬき一そろいと、鋏を一本お入れ。所帯を持って暮らしていくには、針仕事の道具は惜しめないからね」。ひとつ咳をして、また言った。「あの螺鈿の小さな鏡箱も入れておやり。お嫁にいくのは暮らしていくためで、見栄を張りにいくんじゃない。でも、こういう一つ一つのほうが、箱の底に入れる銀より大事なんだよ。先様が見るのはそこさ。箱を幾つ担いでいったかじゃない」
平児はまた尋ねた。「あの一対の銀の洗面器も、入れましょうか」。鳳姐は笑った。「お入れ。木綿でよくくるんでね。道で揺すられて傷んだら、冗談では済まないよ」。「重いものはみな下に、軽いものは上にしてございます。二荷の重さも同じにしました」と平児が言うと、鳳姐は言った。「向こうの中庭は狭いそうだね。担ぎ込んでも身動きできないだろうから、小僧たちには裏から回るように言っておおき」。平児は承知した。
平児はさらに言った。「奥さま、あちらは家を直したばかりですから、道具が揃っていないかもしれません。安い焼き物の甕を二つと、お椀とお箸を何組か足したらと思うのですが。値の張るものではありませんし、入ったその日から要るものでしょう。知らないところへ着いた初めの晩に、お湯一杯にも困ったら、途方に暮れてしまいますもの」。鳳姐は平児をひと目見て、笑った。「おまえは、あの子自身よりよく気が回るね」。平児はうつむいて黙っていた。鳳姐が言った。「足しておやり。おまえに任せるよ」
平児は、今度は輿のことを尋ねた。鳳姐は言った。「外の輿屋で、新しい小さな輿を別に一挺借りておいで。垂れ幕は古すぎも新しすぎもしない青絹で、屋根は赤いのを」。「奥さま、おめでたいことですから、垂れ幕も赤になさいませんか」と平児が言うと、鳳姐は手を振った。「うちの侍女が出ていくんだよ。こちらでは娘を嫁に出すのとは違う。屋根が赤ければ、十分さ」。そして言った。「襲人はわきまえのある子だ。見栄の張り合いをするような子じゃない。張ったところで誰に見せるんだい。面目が立てば、それでいいのさ。花のように飾り立てて、町の人に見せて回るわけでもあるまいし」。その一方で人手も割り振った。あの女中二人を輿の供に、小僧四人を箱の担ぎ手にと決め、足に巻く布や手拭いまで、一つ残らず言いつけた。
いよいよ当日になった。朝早く、雨がぱらぱらと落ちたが、ほどなくやんだ。襲人は誰よりも早く起き、顔を洗い髪を整えると、真紅の舶来繻子に金銀の糸で花と百の蝶を刺繍した、鳳凰の尾のような裳に着替え、頭には「喜」の字を織り出した真紅の綴織のかぶり布を掛けた。宝玉は、束ねた髪に、宝石をはめ込み金をあしらった碧玉の冠を載せ、眉のすぐ上には金糸を這わせた色刺繍の額帯を締めていた。身には月白の倭繻子に双喜の字を地模様に織り出した長衣をまとい、濃藍の繻子に刈り毛で卍つなぎを表した厚底の靴を履いて、階段下の廊柱のそばに立っていた。
平児が人をよこし、輿がもう二の門の外で待っていると知らせた。襲人は、家族に欠けた者のない福のそろった老女中二人に支えられ、怡紅院の円い門を出た。まず賈母と王夫人のところへ行き、額をつけて別れの礼をした。王夫人は別に着物を二枚与え、ただ、「向こうへ行ったら、しっかり暮らすのですよ」と言った。花自芳も輿についていこうと、二の門の外で待っていた。宝玉も麝月たちとあとから二の門の内側に来た。鳳姐も幼い侍女の肩を借りてやってきて、脇に立った。襲人は振り返り、老女中の手を押しのけると、宝玉の前へ進んだ。青石の敷石の上にきちんとひざまずき、三度、音のするほど額をつけた。宝玉が慌てて助け起こそうとすると、襲人はもう自分で立ち上がっていた。顔を布で覆ったまま、じっと立っていた。
しばらくして、ようやく声を震わせた。「若さま」。宝玉も喉が詰まり、うつむいて言った。「お言い」。けれど、襲人は何も言わなかった。またしばらく立ってから、ふと言った。「あのとき、あたしが身請けして家へ帰ると言ったら、若さまはいつまでもお泣きになりましたね」。宝玉は口を開きかけたが、とうとう言葉は出なかった。そばの老女中が襲人をせき立てた。「さあ、お嬢さん、時刻に遅れますよ」
襲人は小さな輿のほうへ向かった。輿の入口に片足を掛けたところで、ふと動きを止めた。振り向かず、ただ涙に声を詰まらせて言った。「若さま、どうか麝月だけは置いてやってください」
宝玉はただ、深くうなずいた。数歩離れて立っていた鳳姐にも、その言葉ははっきり聞こえた。そこで麝月をひと目見ると、振り返って女中たちに大声で命じた。「時刻だよ。輿を出しておくれ」
襲人は輿に乗った。短い爆竹が一連鳴らされただけで、鳴り物はなかった。四人の担ぎ手が小さな輿を持ち上げ、脇門を出た。門の外では見物の女中が何人かひとかたまりになり、噂話をしていた。「宝玉さまのお部屋の襲人さんだよ」と一人が言うと、別の一人が笑った。「嫁入り先は役者だってね」。初めの女が、しっとたしなめた。その脇では、ひたすら箱を数えている者がいた。「二荷だね」。「二荷なら、悪くはないよ」と別の者が言うと、初めの女は笑った。「分かっちゃいないね。中身を見なくちゃ。この荷には、螺鈿の鏡箱が入ってるんだよ。あたしゃこの目で見たんだから」。相手が笑った。「でたらめお言いでないよ。あんたがいつ、若奥さまのお部屋に入ったっていうのさ」。初めの女は顔を赤くした。「部屋に入らなくたって、目の前を箱が通れば、見ちゃいけないのかい」。みなが笑った。その中の一人が、ふん、と鼻を鳴らした。「こんなものが何さ。西の側奥さまのところのほうが、このごろはよほど賑やかだよ。しょっちゅう人が出入りして、何をしてるのやら」。隣の女が慌てて袖を引いた。そこへ周瑞の女房が中から出てきたので、みな散ってしまった。輿の後ろからは、小僧が二人で一箱ずつ担いで、箱荷がそれなりにきちんと続いていた。
鳳姐は二の門の内側でしばらく立っていたが、向き直って部屋へ帰った。あとから入った平児は、鳳姐が片手で卓の縁につかまっているのを見て、慌てて尋ねた。「奥さま、どうなさいました」。鳳姐は手を振り、しばらく息をついて、「何でもないよ」と言った。そして、「箱の勘定を合わせておいで。あの子のものを、一つも欠かさないようにね」と言うと、奥へ入っていった。平児もそれ以上は尋ねられなかった。
さて、襲人の小さな輿は、まず花自芳の家へ担ぎ込まれた。蒋家の婚礼の輿は、早くから門の外で待っていた。そちらへ乗り換えると、今度は道じゅう笛や太鼓を鳴らしながら、城の東二十里にある紫檀堡へ向かった。この日は蒋家も賑やかだった。修繕したばかりの瓦葺きの家が数間あり、中庭には色布の天幕が張られ、門には祝いの赤紙が貼ってある。壁際には、使い残した新しい煉瓦が半山、古いむしろをかぶせて積んであった。祝いに来た客の多くは芝居仲間の古い知人と、近所の数軒の人たちだった。馮紫英は朝のうちから普段着でやってきて、中庭で楽師や料理番たちと冗談を言い合い、誰に会っても笑顔で、偉ぶることもなかった。茗煙は内へ外へと走り回り、酒の手配をしたり、輿の担ぎ手の世話をしたりしていたが、二杯ほど飲まされて顔を真っ赤にし、みなに笑われた。日が西へ傾くまで忙しかった。帰りがけに馮紫英は蒋玉菡の手を取り、笑って言った。「しっかり暮らせよ」。それから馬に乗って帰っていった。婚礼の宴のあれこれは、ここでは述べない。
夜になり、客が帰ると、部屋には二人だけになった。卓の隅には、新しく加えられた粗い磁器のお椀と箸が何組か置かれ、包みの赤紙もまだ全部は取ってなかった。銀の洗面器は、木綿にくるまれたまま壁に立て掛けてある。窓には新しい紙が張られていて、灯の透けるところには、まだ糊の筋が何本か見えた。蒋玉菡は懐からあるものを取り出し、灯の下に広げた。真紅の汗取り帯だった。笑って言った。「若さまは、これを使って仲を取り持ってくださったんだ。もとはぼくのものでね。あの年、馮さまのお宅で、自分が締めていたのを若さまにさしあげたんだよ。何年も巡り巡って、また戻ってくるとは思わなかった」
襲人はその帯を見て、手に取って裏返し、眺めた。何年もたったのに、まだかすかな香りが残っていた。また置いて見ていると、蒋玉菡の腰から、帯がひと端のぞいているのに気づいた。松花緑の帯で、洗いざらされて、ごく淡い色になっていた。襲人はそれを指して聞いた。「その帯は、どこで手に入れたの」。蒋玉菡が言った。「これもあの日、若さまが解いてくださったものだよ。それから何年も、こうして締めているんだ」
襲人は黙った。手を伸ばして帯に触れ、「それ、もとはあたしのものよ」と言った。
蒋玉菡は驚いて、顔を上げた。襲人は言った。「あのとき若さまが持っていって、人にあげてしまったので、返してくださいと申し上げたの。代わりを一本やるとおっしゃって、とうとう頂けなかったわ」
蒋玉菡は腰の帯も解き、真紅の帯と並べて灯の下へ置いた。赤と緑が一本ずつ。襲人はしばらく眺め、ふと笑い声を漏らした。「それなら、先に夫婦になったのは、この二本の帯のほうね。あたしたちは後からついてきたのだわ」。蒋玉菡も笑った。「うまいことを言うね」。二本を一緒に小さな箱へしまい、鍵を掛けた。
さて、一方の栄国府。その日の夕暮れ、怡紅院ではまだ灯をともしていなかった。庭の海棠は、相変わらず半分枯れたままだった。麝月は外の間の腰掛けに座り、窓から残るわずかな明かりを頼りに、一本の針に糸を通そうとしていた。何度やっても針穴に合わない。膝には月白の綾織りの靴下が片方、広げてあった。宝玉のために新しく縫い始めたもので、かかとをまだ半分しか刺していない。宝玉は奥の間に座り、灯もつけず、卓上の幾つかの品を見ていた。櫛が一本、顔の産毛を抜く絹糸が一組、縁に細い飾りをつけた布張りの小籠が一つ。どれも使い古したものだった。宝玉はその古い櫛を取り上げ、手に握ると、ふと顔を上げて呼んだ。「麝月」
麝月は急いで外の間から入ってきた。「若さま、何でございましょう」
「灯をつけておくれ」と宝玉は言った。麝月は灯をつけに行った。
宝玉は空になった戸棚を見て、口から出るままに歌った。
灯の下 袖を縫う手が 忘れられない
まだ聞きたいよ 枕もと 早く髪をときましょと急かす声
笑ってお行き 振り向かないで そう言いながら
泣いて泣いて やまないのは ぼくばかり
どうかふたりで いたわり合って 白髪になるまで
わけもないぼくの憂いは 忘れておくれ
ああ 着物はこの身に 櫛はこの手に
姉さんと呼びかけて ふっと口をつぐむ
歌い終わると、「ぼくも、何を言ってるんだか分からない」とつぶやき、座ったまま動かなかった。灯のそばに立っていた麝月は、「姉さん」のひと言で手の針が止まった。それからそっと卓へ置き、ふいにぷっと笑い出した。「そんなことしか思いつかないのね、この大猿さん」。宝玉もこらえきれずに笑い、顔を上げて鏡の中の麝月をひと目見ると、「ぼくが大猿なら、そのそばにいるのは小猿じゃないか」と言った。
二人が笑っているところへ、幼い侍女が一人、駆け込んできた。「若さま、奥さまからのお言伝です。旦那さまが、若さまはこのごろ何の本を読んでいるのかとお尋ねになったので、明日、申し上げに来るようにとのことです」。宝玉はそれを聞くと、手の櫛を投げ出し、その場で呆然となった。
宝玉は明日、何と答えるのだろうか。それは次の回でお話ししよう。