大知が読む『荘子』 · 第五十九篇
日々変わりながら、どう自分であり続けるか―冉相氏の環
変わらない項目の一覧だけが、連続した自分を証明するのでしょうか。環の内側の空から、明日が入れる余地を考えます。
何年も会わなかった友人に「変わったね」と言われます。うれしそうな言葉にも、責める言葉にもなります。前はそんな言い方をしなかった、そんな生活を好まなかった、そのことをそこまで重く見なかった、と。聞く側は急いで、どこがまだ変わっていないかを説明したくなります。自分であり続けたと証明するには、まず未変更の項目を一覧で出さなければならないようです。「則陽」の冉相氏についての短い一節は、その習慣をそっと動かします。
冉相氏は環の中の空を得て、ものの成るに従い、ものとともに終わりも始まりもなく、兆しも定まった時もない。日ごとにものと変わる者こそ、変わらぬ一なる者である。そこから離れたことがあろうか。
万物とともに変わる人が、どうして変わらない人でもあるのでしょう。ここでは片方だけを選べません。「変わらない」にだけつかまれば、自分を石のように立たせがちです。「日ごとにものと変わる」だけなら、どこへ押し流されても道理に通じていると思いやすい。この言葉がおもしろいのは、二つを別居させなかったからです。
環の中は、中央の玉座ではありません
「環中」はすでに「斉物論」に現れ、「道の枢」「尽きることなく応じる」と結びついています。枢は戸の軸を、環中は輪の内側の空いたところを思わせます。郭象は冉相氏の一節で「空に居てものに従い、ものがおのずから成る」と述べます。この像が役立つのは、応じるための動ける場所を残すからであって、誰かに永遠に正しい中心の座を授けるからではありません。戸の軸を借りて、一方向に固定されないことを考えられます。ただし、精密な戸の機械図として読む必要はありません。軸がどう回るか、少しずれるとどう引っかかるか、両側へ開かなければならないか。その工学的な説明まで、この一句は与えていません。
まして「中心」から、誰よりも高い観察者を想像しなくてもよいのです。毎回、双方に問題があると宣言しながら、自分は選択を引き受けない人。それも別の固定した立ち位置かもしれず、片側に立つよりよく応じられるとは限りません。空けておくことは、いつまでも判断を持たないことではありません。判断が来ても、目の前の変化が入れる余地があり、そのたびに古い判断の城を先に守らなくてもよいことです。
変わらないものを、どう読むか
「日ごとにものと変わる者こそ、変わらぬ者である」から、なじみのある考えを展開できます。変化に応じ続ける力そのものが、一つの連続性をなすという考えです。ただし、それはこの随筆が借りて広げる読みで、唯一の訳義ではありません。郭象は、毎日ものとともに変わるため常に我がなく、常に我がないため常に変わらない、と説明します。成玄英は、動きながら常に静かである方向で語ります。現代心理学的な意味で、いつも安定している適応力を論じているのではありません。
続く「闔嘗舍之」にも異なる読みがあります。郭象の注には、どうして試しに自らのすることを捨ててみないのか、という説明があり、成玄英の疏は、変化から離れたことがあろうか、と読みます。数文字の中にも道が分かれており、一つだけを誰もが従うべき理解にするのは適切でありません。それでもどちらも、あの「変わっていない一覧」を自明ではなくします。生を連続して送ることを、同じ反応を保存することだけで証明しなくてもよい。若いころはすぐ反論すべきだと思い、のちにまず聞き取ることを覚える。何でも一人で背負うのが責任だと思っていた人が、分担や助けを求めるようになる。行動が変わったからこそ、その背後で大切にしていたものが、よりよく守られる場合もあります。
変えないことも、止まることとは限りません
逆にも注意したいところです。十年間、見方を変えなかったからといって、十年間考えなかったとは限りません。何度も確かめ、なお弱い人を辱めてはいけない、約束を簡単に捨ててはいけないと考える人の持続は、とても生き生きしていることがあります。変化の多さも、成熟を自動的には意味しません。新しい事実を見た場合もあれば、気に入られたい相手が入れ替わっただけの場合もあります。回数だけで理由がなければ、成長なのか漂流なのかはわかりません。
ですから「長く考えを変えていない」を新しい恥にする必要も、開かれている証拠に定期的に立場を替える必要もありません。大切なのは、本当に重要な新しい事情が現れたら、それを見る気があるか。元の見方を保つなら、理由を説明できるか、かもしれません。ある見方になお理由がある場合も、人がそれに触れるのを禁じている場合も、外からは同じ不変に見えます。違いは実際の対話と行動で少しずつ見なければならず、自分は柔軟だという一言では決まりません。
成るに従うことは、他者の終着点を決めることではありません
「環中を得て成るに従う」について、旧注が「ものがおのずから成る」と言うのは、注目したい点です。成るのは自分の計画だけでなく、出来事や他者自身にも向かう先があります。教師が初めは完全な授業案を準備していても、生徒のつまずきが予定した難所ではないとわかり、立ち止まって例を変える。教え方を変えることは、教える方向を失うことではありません。生徒が本当に学べるかをなお大切にしているからこそ、原稿を最後まで読み上げるだけでは済まないのかもしれません。
しかし教師が「あなたの成長は私が最もよく知っている」と言って、生徒の問いや選択をなくすなら、別のことです。育つのを助けることは、その姿のすべてを定める権限を持つことではありません。「成るに従う」に意味が残るなら、自分の目に映る完成だけにしてはいけないはずです。普段の関係も同じです。気にかけるには、近づく必要も、少し離れる必要もあります。昔の親しみ方がもう合わないからといって、昔のすべてが間違いではありません。今日変える必要があるからといって、誰かが大切にする価値を失ったわけでもない。難しいのは今回何が要るかを見極めることで、いつも優しい、いつも揺るがない、いつも手放すという姿を先に選ぶことではありません。
変えたあとにも、説明に戻ってくる
「日ごとにものと変わる」を、約束を破った責任を免れるために使うこともできません。昨日引き受けたことを今日突然やめれば、影響を受ける人には理由を問う根拠があります。理解を変えることと、黙って他者へ負担を投げることは、同じ動作ではありません。話し直す必要のある約束は確かにあります。新しい事情を伝え、相手に生じた困難を認め、引き継ぎや埋め合わせを相談できます。前後が違うと思われるのが怖くて、合わなくなったことを無理に続ける必要はありません。「変わる権利」を守るために、他者の損失まで見なくてよいわけでもありません。
このとき連続性は、やり方が同じままであることではなく、変えたあとも目の前の人に責任を持とうとすることにあるのかもしれません。「昔の自分のままだ」と繰り返すより具体的です。あなたの自己説明を先に信じなくても、相手には、残ったことをあなたがどう扱うのか確かめる権利があります。
短句の先にも、文章はあります
今回読む冒頭は短いものですが、原書はそこで止まっていません。天を師とすること、世とともに行くことが続き、成湯や師傅、名法などにも及びます。中には読み解きにくい句もあります。まったく説明せず、短い数句だけを残した文章ではありません。冒頭の簡潔さを好んでも、その後をないものとして削ることはできず、ましてその好みから、歴史上の著者が誰かを決めることはできません。
同様に、胡蝶の夢や「吾は我を喪う」はここに響きを添えられますが、同じ経験の実録ではありません。胡蝶の夢は、人が実際に別のものになったことを証明していませんし、子綦の「今」と「昔」も、一日の正確な時間割を示していません。いくつかの文章で互いを照らすために、違いをならす必要はありません。文学の通じ合いは、同じ型ではないところにある場合もあります。一方は夢から覚めることから、一方は人の様子の変化から始まり、ここでは変わることと変わらないことが同じ一句に並んでいます。
明日も入ってこられるように
友人にもう一度「変わったね」と言われても、急いで弁解しなくてよいかもしれません。どこがそう見えたか尋ね、自分で引き受けたい変化と、忙しさの中で知らずに起きた変化を考えられます。保ちたいところも、学び直したいところも、まだ説明できないところもある。まず目の前に出してみてよいのです。整った人物像をそろえるために、未来のすべての決定を過去に署名させる必要はありません。環の空は、他者の占領を待つ空き地ではありません。明日のために自分が残す余地でもあります。新しい人や事情や理由が来たとき、入って少し座れる余地です。
そのときは、変わってもよく、理由があれば変わらなくてもよい。大切なのは、その応答をなお自分が真剣に行っていて、昨日の再生ボタンを押しているだけではないことです。
原文と出典
この日本語版は、Non Dubitoの中国語散文の全文を底本に、日本語の読者へ向けて独立に書き直しています。『荘子』全体の翻訳ではなく、古文の引用もここでは内容を日本語で述べ直したものです。もとの中国語ページには古文を残してあります。既存の英語版も独立に執筆され、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。現代の出来事とのたとえや、そこからさらに考えを進めた部分は、この随筆の著者の読みであり、古典に別の事実が書かれているという意味ではありません。
原文と読み方について
原文と読み方:「則陽」中国語原文 ↗
中国語ページには古文の引用が残っています。既存の英語の語りは、この版のために独立に書かれたものです。この日本語版では引用の内容を日本語で述べ直しています。現代とのたとえや、そこから先の考察は著者による読みであり、原典に別の出来事が記されているという意味ではありません。
参照した注釈:『荘子集釈・則陽』中国語 ↗
環中・胡蝶の夢・「吾は我を喪う」の関連箇所:「斉物論」中国語原文 ↗