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Non Dubito

大知が読む『荘子』 · 第五十篇

絵を見る前に、評価が来ました――「真の画家」

くつろぐ姿は、よい絵をもう示したこととは違います。「田子方」の余白を、採用のこつや私生活を監視する口実にせず読んでみます。

Han Qin ·

絵はまだ現れないのに、評価はもう来ます。宋の元君が絵を描かせようとすると、画家たちが集まります。命を待って立ち、筆を潤し墨を調える。人数は多く、半分は外にいます。後からもう一人来ました。ゆっくりして、急ぎ足で前へ出ようとしません。揖を受けてもそこに立ったままでおらず、滞在先へ戻ります。元君が見にやると、衣を解き、体を広げて座り、肌をさらしています。元君は「よし、これこそ真の画家だ」と言います。物語はそこで終わります。一枚も絵を広げず、複数の作品を掛けて比べさせてもくれません。

部屋に満ちる、準備の動作

「田子方」は短く書きます。

宋の元君が絵を描かせようとすると、画家たちが皆集まり、揖を受けて立ち、筆を潤し墨を調えた。外にいる者も半数いた。

「史」はここでは画家です。「揖を受ける」には、命を受けて揖をするという旧注もあります。君主が全員に礼をしただけと見る必要はありません。筆を潤し墨を調えるのも、実際の準備です。この点は残さねばなりません。後の人が真の画家と呼ばれたから、先の人の準備は全部君主への演技だったと宣言できません。緊張する人も、真剣に墨を調える人も、当時の手順に沿って待つ人もいたかもしれません。短い記述は、それぞれの心を語ってはいないのです。

それでも、画家が自分を見せねばならなくなりやすい場にいるのは確かです。指示を受け、見られ、多くの同業者の中で準備ができたように見せる。描く前から、よい画家らしく見えるのは誰かという比較が始まるかもしれません。私たちにもなじんだ準備期間です。会議前に報告を見栄えよくし、仕事の始めから手を休めていないと証明する方法を考えます。筆も墨も本物ですが、注意は描く物から、持つ姿を見る人へ移っていくかもしれません。

もう一人は、その列にとどまりません

後から来た画家が一人いた。ゆったりとして急ぎ足にならず、揖を受けても立っておらず、そのまま宿所へ行った。

少し後に来て、ゆったりと急がず、揖の後は宿へ戻ります。「急がない」は違いを描きますが、すべての場の礼節は無意味だと宣言したり、故意の遅刻へ達人の通行証を出したりする必要はありません。面接でどう特別に見せるかの実演ではありません。なぜ後から来たかも、わからないのです。

続いて最も記憶に残りやすい姿があります。衣を解き、足を広げて座り、裸でいる。旧注は「般礴」を箕踞してゆったり座ると解し、「臝」は裸を言います。上着だけ脱いであぐらをかいたという一つの確定した姿へ縮めるのは適切ではありません。くつろぎは捉えても、細部を全部決めた写真を古文の代わりに撮らなくてよいのです。郭象は内に満ちる人は精神がゆったりし、心が定まると言います。内面が満ち、外を飾るのに忙しくない状態を、この話が確かにほめているとわかります。君主が見た目で人を判断するのを皮肉るだけの話ではありません。

ただし、ある状態をほめることと、すでによい絵を示したことは別です。その距離は、ここに残しておきたいと思います。

本当に演技ではなかったのでしょうか

その姿は、画家たちが待つ場ではなく宿所にあります。権力者の視線へあまり向けられていない自由さと読むには理由があります。でも原文は、ほかに誰もいなかったと保証してもいませんし、見に来ると本人が知っていたかや、もう仕事を始めていたかも語りません。内面の独白が省かれるからといって、演じる意識は一切なかったという証明を補うことはできません。

一人なら本物、人前なら偽物と自動的には決まりません。身につけた礼儀も誠実でありえますし、人に話す計画も真剣でありえます。考えを口にして初めて、成り立たない箇所に気づくこともあります。進捗の説明が仲間に引き継ぎの時期を知らせることもあります。問いたいのは観客の有無より、誰のため、なぜその動作が働くかです。仕事を進め協力を助けるか、それとも没頭している印象だけをますます保つか。両方は混じり、閉じた戸一枚ではいつも分かれません。

だから「演じていない」をもう一度演じなくてもよいのです。寡黙で、服に構わず、離れて座るから、真剣に準備する人より本物とは限りません。

評価は届き、作品はまだありません

元君の「真の画家だ」は、語りの中で重みがあります。最後の人を大勢から見分け、場面の構成もその称賛に読者を誘いやすくできています。でも現代の選抜の信頼できる検査ではありません。元君が以前一度も彼の絵を見なかったとも言わず、今回完成した作品の質も報告しません。この場面では完成品を見せて判断を検査していない、とまでしか言えません。わざと君主の誤判を見せる意図だったとも、この二点だけで君主は絶対に見誤らないとも、さらに断言できません。

自在な人でも今回の仕事はうまくできないかもしれず、窮屈そうな人でも適切な条件ならよい物を作れるかもしれません。本当に任せるなら、作品、経験、対話、課題に関係する試作のほうが、姿勢の模倣より役立ちます。採用の合言葉へ改造せず読めます。画家を見分けるときに使う外の目印は、絵を描くこと自体ではないと気づかせます。具体的な人をどう公平に知るかは、なお学び続けねばなりません。

準備にも、見てもらう必要があります

文章を書くとしましょう。机を片づけ、資料を読み、構成を立て、協働する人へ提出日を伝えます。本当の準備でありえます。でも進捗を更新し続け、作業中の姿を見せる画面を丹念に選ぶばかりで、一番書きにくい部分には触れていないと気づきます。連絡がすべて余計なのではありません。仕事が存在すると証明する動作が、仕事の起こる場所を奪ったのです。少しの間、実況しなくてよい時間を残してみてもよいでしょう。まずその段落を下手に書き、どこが悪いかを見る。まだ見せられないからと、無用ではありません。

ただ協働中、突然音信を絶ち、進捗を誰にもわからなくするのを超然とは呼べません。必要な説明をし、次に話す時期を約束するほうが、静かな時間の確かな枠になります。誰にも知られなくてもするだろうか、は自問に役立っても、仕事の真偽を決める唯一の基準ではありません。知られるための仕事もあります。安全の注意、引き継ぎ記録、公の説明などは、人が知らなければ終わりません。外へ向くから低く見てはいけないのです。

減らしたいのは、もう誰も助けないのに、証明だけを求め続ける部分です。

見る側にも、することがあります

物語の元君は、人を見にやります。今日そこから、私的な状態をのぞくほど本当の人がわかると学ぶ必要はありません。観察されない場所が他人にあるのは、埋めねばならない管理者の認識の欠落ではありません。真心を見分けるための隠れた監視は、自然に働くのに最適だとされた空間を、どこにも隠れられない試験室へ戻してしまいます。

よりよい問いはこうかもしれません。与えた作業条件は、異なる準備を許すか。目につく動作ばかりに報い、本当に成果を助ける工夫を見落としていないか。自己説明のうまさを、仕事ができる唯一の証拠にしていないか。余地を与えても成果の検査を免除する必要はありません。目標を約束し、必要な情報を交換し、適した時点で進捗を見ながら、一分ごとに熱心な作業の肖像を並べるよう求めずにいられます。

静かな人に作品を示す機会が要るとともに、表現の巧みな人もそれだけで疑われなくてよい。基準を仕事へ近づけられます。逆向きの外観の好みに取り替えなくてもよいのです。

絵は、掛けられませんでした

誠実さを読んだとき、大声で泣くのは偽の証拠でなく、静けさも真の証明でないと語りました。画家の話と照らせますが、筆や墨を準備する全員を無理に泣く人と同一視し、服を脱ぐ人を真の悲しみと自動的に同一視することはできません。作品の前で止まり、完成品ではまだ説明し尽くされない姿を残します。味わいある余白です。ただ、別の物語が続けて作品を描いたら、必ず思考の余地を全部壊すとも限りません。余白は、よい物語すべてを測る唯一の方法ではありません。

ここでは後から来た人とともに、評価を待つ列を一時離れたいと思います。違う自分を発見させるためではなく、作業しているように見えるかという問いが少し退いたとき、何がなお待つかを見るためです。書かずにいた一段かもしれず、白い紙かもしれません。評価は少し遅れてもよい。先に、絵が現れる場所を作りましょう。

原文と出典

この日本語版は、Non Dubitoの中国語散文の全文を底本に、日本語の読者へ向けて独立に書き直しています。『荘子』全体の翻訳ではなく、古文の引用もここでは内容を日本語で述べ直したものです。もとの中国語ページには古文を残してあります。既存の英語版も独立に執筆され、簡体字・繁体字の中国語版には全文があります。現代の出来事とのたとえや、そこからさらに考えを進めた部分は、この随筆の著者の読みであり、古典に別の事実が書かれているという意味ではありません。

原文と読み方について

原文と読み方:「田子方」。

中国語ページには古文の引用が残っています。既存の英語の語りは、この版のために独立に書かれたものです。この日本語版では引用の内容を日本語で述べ直しています。現代とのたとえや、そこから先の考察は著者による読みであり、原典に別の出来事が記されているという意味ではありません。

参照した注釈:『荘子集釈』「田子方」。