Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 世界サッカーシリーズ — 第20篇、全22篇

モスクワ

機械には何が起きたかが見える。だが、あの接触をどう裁くかは決められない

(切り口:2018年ロシアワールドカップ)

Han Qin (秦汉) · 2026年
この篇の目次

一 真実を映す機械

2018年のロシア・ワールドカップに、新顔がやってきた。ビデオ・アシスタント・レフェリー、VARである。

そこに託されたのは、サッカーの世界が百年にわたって争い続け、なお果たせずにいた夢だった。これで論争を終わらせる。かつては誤審が一つ起きるたび、双方が言い分を譲らず、どちらも相手を納得させられず、さんざん言い争った末にうやむやになることが多かった。だが今は機械がある。たった今起きたプレーを一コマずつ再生し、いったい何が起きたのかを誰の目にも明らかにしてくれる。みんなが見たのなら、もう何を争う必要があるのか。これは構が夢にまで見たものだった。真実を動かしようのない形で確定し、論争に決着をつけ、二度と蒸し返させない装置である。

この機械が登場するまで、サッカーの歴史はほとんど論争の歴史だった。1966年のウェンブリーで、ゴールラインを越えたかどうかが見えなかったボール。1986年、マラドーナの「神の手」。2010年、明らかにラインを越えていたのに認められなかったランパードのシュート。どれも後になって繰り返し映像が流され、繰り返し議論された。それでも相手を心から納得させることはできなかった。そのころは、何が起きたのかという点でさえ、人によって見えているものが違ったからだ。入ったと言い張る人もいれば、入っていないと誓う人もいる。同じ一瞬が、見る人の目の中で別々の姿をとっていた。VARがまず終わらせようとしたのは、この食い違いだ。スローモーションと複数のカメラであの一瞬を鮮明に示し、誰もが同じものを見るようにする。

その導入は、所定の手順を踏んで行われた。国際サッカー評議会(IFAB)は2018年3月の年次総会で、同評議会の説明によれば2年間に及んだ試験運用を経て、このシステムを正式に承認した。ロシア大会は承認後初めての男子ワールドカップであり、初めてVARを使った男子ワールドカップでもある。介入の対象は、試合結果を左右する四つの場面に厳しく限られていた。得点を認めるか、PKを与えるか、一発退場のレッドカードを出すか、処分する選手を取り違えていないか。この四つ以外には手を出さない。

この四つが選ばれたのには理由がある。得点、PK、レッドカード、処分対象の取り違えは、試合の結果を変えやすく、同時に人々の怒りを最も買いやすい急所だった。オフサイドの誤審で土壇場の決勝ゴールが取り消される。与えるべきでないPKで一つのチームが大会を去る。歴史に残る恨みのいくつが、この数か所に結びついてきただろう。VARは最も致命的な急所に力を集中させた。一度判断を誤れば何年も罵られる、まさにその場所を守ろうとしたのである。この設計には野心がにじむ。論争がいつもここで噴き出すのなら、ここに機械を据えて、その場で息の根を止めればいい。だが予想していなかったことがある。その急所の中にこそ、どうしても息の根を止められないものが潜んでいた。

グループステージが終わると、国際サッカー連盟(FIFA)は審判に関する報告を公表した。並んだ数字は見事だった。グループステージ全体でチェックは335件、正式なレビューは17件。そのうち14件で判定が変更され、3件は元の判定が維持された。試合結果を左右する判定の正確率は、このシステムがなければ95%だったところ、導入によって99.3%に上がったという。ただし、これはグループステージ時点の報告であって、大会終了後の総決算ではない。その留保をつけても、方向ははっきりしている。導入によって判定は正確になった。今大会で早くも象徴的な場面となったのが、2018年6月16日、フランスがオーストラリアに2対1で勝った試合だった。クーニャ主審はVARに確認したうえでフランスにPKを与え、グリーズマンが決めた。ワールドカップ史上初めて、VARを通じて与えられたPKである。

この数字は確かに見事で、しかも本当だ。だが大切なのは、そこで測られている「正確さ」がどの層のものなのかを見極めることだ。訂正された判定の大半は、オフサイドだったか、得点の前に手でボールに触れていなかったかといった、目に見える出来事にかかわっている。線があり、ボールがあり、人がいる。誰が前で誰が後ろかは、照合すれば明らかになる。この層の正確さを、VARは確かに大きく高めた。だがグループステージの立派な成績表だけでは、もっと厄介な問いには答えられない。判定するものが位置ではなく意図になったら。ラインを越えたかではなく、反則に当たるかになったら。このシステムはなお役に立つのか。その問いの答えが全員の目の前に突きつけられるのは、決勝を待ってからだった。

VARより前にも、サッカーのピッチには小さな機械が一つ入っていた。ゴールライン・テクノロジーである。だがそれが答えるのは、きれいに二分できる問いだった。ボール全体がゴールラインを越えたか、越えていないか。これは物理的な事実であり、答えは二つに一つだ。機械なら1秒で読み取れる。VARの野心ははるかに大きかった。手を伸ばそうとしたのは、ボールの位置だけではない。PKを与えるべきか、レッドカードを出すべきかという領域である。二つに一つの答えが出る問いから、それほど白黒のはっきりしない場所へ、機械の手を差し入れた。その一歩が、やがて誰も予想しなかった厄介事を呼び込むことになる。

二 決勝で手に当たったあの一球

2018年7月15日。決勝、モスクワのルジニキ・スタジアム。フランス4対2クロアチア。

この決勝は、一度にいくつもの新しい記録を書き加えた。前半、クロアチアのマンジュキッチがヘディングでオウンゴールを記録した。ワールドカップ決勝史上初のオウンゴールだった。そして、その後も長く記憶に残った場面は38分に訪れる。ピタナ主審がハンドの可能性をピッチ脇のモニターで確認し、フランスにPKを与えた。グリーズマンがそれを決めた。ワールドカップの決勝でVARが使われたのは、これが初めてだった。ボールが手に当たったのはクロアチアのペリシッチである。若いエムバペも、のちにこの試合でゴールを決めた。この大会を通じて新たなスターが生まれ、最後にはフランスがワールドカップのトロフィーを掲げた。

決勝にたどり着いた二つのチームは、ずいぶん違う道を歩いてきた。フランスは目を見張るほど若かった。20代前半の才能がそろい、身体も技も最もよく働く年齢にあった。一方のクロアチアは、平均年齢がはるかに高いチームだった。人口わずか数百万人の小国が、決勝トーナメントで3試合続けて延長を戦い、最後の最後まで、ときにはPK戦にまでもつれる勝負を一つずつしのいで、ようやく決勝に滑り込んだ。決勝の芝を踏んだとき、脚にはもうほとんど力が残っていなかった。片や力を蓄えた若さ、片や燃料を使い切っても折れない粘り強さ。本来なら一編の叙事詩になってよい対決だった。その流れが38分、誰も予想しなかったハンドの判定によって曲げられた。

本来、この決勝にはいくらでも語ることがあった。決勝で初めてのオウンゴール。最大の舞台で得点した10代の選手。互いに攻めに出た、4対2の打ち合い。どれか一つを取り出しても、ファンは何年も味わい直せたはずだ。だが後には、ほとんどすべてがあのPKの陰に隠れた。2018年の決勝に話が及ぶと、真っ先に浮かぶのはオウンゴールでも新星でもなく、ペリシッチのあの手と、いまだに決着しない論争であることが多い。決勝の喜びも悲しみも、90分間の走りも競り合いも、涙も叫びも、最後にはほとんど一つの問いに押し込められてしまった。あれは、反則だったのか。

PKが与えられるまでの経緯は、はっきりしている。ペナルティーエリアの中で、ボールがペリシッチの腕に当たった。リプレーには鮮明に映っていて、誰もそれを否定しない。ボールが手に触れた。これは事実であり、あの機械が最高の鮮明さで世界中に示した事実だった。ピタナはピッチ脇まで行き、自分でもう一度映像を見た。そしてペナルティーマークを指さした。

ピッチ脇まで歩いてモニターを見る。その動きは、機械がサッカーに持ち込んだ新しい芝居だった。以前の主審には、判定を見直すためにピッチ脇で確認できるリプレー映像がなかった。今は主審が突然足を止め、片手をイヤホンに当ててピッチの外からの知らせを聞き、モニターまで小走りに向かう。身をかがめ、数秒のリプレーをじっと見つめ、何度も確かめる。スタジアムの数万人も、テレビの前の数億人も、息を詰めて主審とともにその小さな画面を見る。その瞬間には、ついに疑いようのない真実が宣告されるかのように思える。ピタナは見終えると身を起こし、ペナルティーマークを指した。機械は裁定を下した。そこにはハンドがあった。

決勝でのPKは、普段の何倍もの重さを持つ。相手の守備を苦労して崩す必要もなく、ただ一蹴りでスコアを変えられる。ほとんど何もないところから一つの得点が生まれるようなものだ。力を使い果たしたチームにとって、その一球はしばしば最後のとどめになる。だからあの判定は、ハンド一つを裁いただけではない。ある意味で決勝全体の行方を動かした。そしてそれを動かしたのは、目の覚めるようなロングシュートでも、息をのむ見事な連係でもなかった。故意だったのかどうか、世界中がいまだに結論を出せずにいるハンドである。ワールドカップの最後に誰が栄冠を手にするかが、そんな割り切れない判断に結びついてしまった。

筋からいえば、ここで話は終わるはずだった。リプレーは求められた役割を果たした。あの瞬間を、そのまま全員に見せてくれた。みんなが見た。ボールは確かに手に当たっていた。真実がこれほど明瞭に示されたのなら、いったい何を争う余地があるのか。ところが、本当の厄介事はまさにここから始まった。

三 はっきり見えても、答えは決まらない

ボールが手に当たったことは、誰も争っていない。だが決勝が終わると論争は一気に噴き出した。そして争われたのは、誰も争っていないその事実ではなかった。

手に当たったことが、反則に当たるのか。それが争点だった。

2019年の改正前のルールでは、ハンドを反則とするかどうかの重要な基準の一つは、意図的に手でボールに触れたかどうかだった。ペリシッチの腕は、ブロックしようとした動きの中でたまたまボールに当たったのか。それとも意識して手で止めたのか。これはリプレーを見ればわかることではない。映像はボールが手に触れたことを教えてくれるが、その接触が故意だったかまでは教えてくれない。さらに厄介なのは、このシステムが自ら定めた介入の条件が「はっきりとした、明白な間違い」だったことだ。元の判定が明らかに誤っているときにしか、介入してはならない。ところがペリシッチのプレーは、まさにどちらにも取れる境界上の事例だった。ロイターの試合後の分析も、これは明白な誤りを正すための介入には見えなかったとはっきり述べている。ある解説者も、結局は判断の問題であることはわかるが、あのプレーはどう見ても明白な誤りとは思えないと語った。もちろん逆の意見もあった。ペリシッチの腕の動きと、それがボールを遮ったことは、PKを与えるだけの理由になるという見方だ。専門家たちは試合直後から二つに割れた。

両陣営は、何が見えたかを争っているのではない。見たものは同じだ。ボールがペリシッチの腕に当たった。争っているのは、その同じ出来事をどう位置づけるかである。一方は言う。腕が開いてボールの軌道を遮ったのだから、反則にすべきだ。もう一方は言う。ブロックの際に止めきれなかった自然な動きであり、故意ではないから反則ではない。リプレーをあと100回流しても、答えは出てこない。そもそも答えは画面の中にないからだ。そこにあるのは片方の手と一つのボールだけである。その手の動きが意図的だったのか、そうでなかったのか。この止め方を罰すべきなのか。それは人が判断し、意味を定めることであって、判断や意味づけはどんなカメラにも映らない。

さらに深い不条理は、この機械が自分で定めた規則を、ほかならぬ決勝で自ら破ったことにある。元の判定に「はっきりとした、明白な間違い」があるときだけ介入する。そう言っていた。だがペリシッチのプレーは、断じてそんな明白な誤りではなかった。正反対の見方が成り立ち、どう受け取るかによって結論が変わる境界上のプレーだった。つまり、一目で正誤がわかることだけを扱うはずの機械が、最大の舞台で、自らの基準にさえ届かない曖昧な領域に飛び込んだのである。それは越権だった。誰かが職務を怠ったから越権したのではない。扱おうとした事柄に、そもそも「はっきりとした、明白な」答えなどなかったからだ。曖昧さを消すために生まれた規則が、最後には曖昧さそのものに王手をかけられた。

つまるところ、見ることと判断することは違う。見るのは目の仕事だ。そこにものがあり、十分に明るければ、誰の目にも同じものが映るはずである。判断するのは心の仕事だ。見えたものの上に、正しいか間違っているか、すべきかすべきでないかを置く。前者なら機械が人の代わりにできる。人より安定していて、気を取られることもなく、どちらかのチームへの肩入れで目を曇らせることもない。だが後者の代わりは務まらない。判断には人間のさじ加減や取捨選択が入り込み、何を公正とし、何を故意とするかという考え方の体系が丸ごと含まれているからだ。そのどれ一つとして、レンズには収まらない。真実を映す機械は、見るという仕事を極限まで仕上げた。そしてまさにそのために、判断するという仕事を、いっそう徹底して人間に返したのである。

はっきり見えた。それでも答えは決まらない。これが真実を映す機械の突き当たった壁だ。何が起きたかという層なら、完全に決着させられる。ボールは手に当たった。その一点は一挙に確定し、もう誰も争えなくなった。だが論争は消えなかった。ただ引っ越したのである。「何が起きたか」から、「それは反則に当たるのか」へ。何に当たるかは、見ればわかる事実ではない。人の心に引かれた線であり、故意と偶然を、罰すべきものと罰すべきでないものを隔てる線だ。カメラは手の細部までくっきり映せるが、その線は映せない。線はそもそもピッチ上にはなく、ルールの中、判断の中にあるからだ。事実を鮮やかに照らせば照らすほど、光の届かない判断だけがぽつんと浮かび上がる。余項は機械によって消されたのではない。機械の届かない場所へ追いやられ、そこでなお争い続けている。

四 線を明確にしても、論争はその外に生まれる

このことを何よりもはっきり示す出来事がある。決勝の翌年、IFABはハンドのルールを書き直した。

IFAB自身が挙げた理由は、もっと明確にする必要があるというものだった。新しいルールには、それまでなかった表現が加わった。腕の位置によって体を不自然に大きくしているか。手や腕が肩の高さを超えて上がっているか。これは、2018年の決勝を律したハンドの規定が不明確だと考えられていたことの、文字になった証拠である。書き直しが対処しようとしたのも、ロシア大会で露わになった、まさにあの種の論争だった。

ここから、ゴールライン・テクノロジーとVARの境目がくっきり見えてくる。ゴールライン・テクノロジーが一度で決着をつけられるのは、扱う問いに初めから動かしようのない答えがあるからだ。ボールがラインを越えたかは物理的な事実であり、別の読み方はない。だがハンドを反則とすべきかどうかには、もともとそんな確定した答えがない。半分は事実、半分は解釈だからである。VARがそこに手を出すのは、長さを測る定規で美しさを測ろうとするようなものだ。どれほど正確な定規でも、答えは出せない。そもそも問われているのは長さではないからだ。決勝でVARが困り果てたのは、精度が足りなかったからではない。精度というものがまるで役に立たない問いに、正面からぶつかったからだ。

では、線をもっとはっきり引けば、本当に論争は終わるのか。終わらない。境界が別の場所へ移るだけだ。以前は、あの接触が故意だったかを争っていた。今度は、体を不自然に大きくしたことになるのか、本当に肩より上だったのかを争う。体の脇で自然に揺れる腕と、不自然に張り出した腕の境はどこにあるのか。ちょうど肩のあたりまで上がった手は、肩より上にあると言えるのか。新しいルールは、前より精密に見える新しい線を引いた。だがそのすぐ外側には、たちまち答えの出しにくい新しい境界事例がぐるりと生まれた。どれほど細い線を引こうと、狙ったようにその線の上に落ちてくるボールは必ずある。

これはルールの書き方が悪いとか、もっと賢い人に書かせれば解決するとかいう話ではない。線を引くという行為そのものが逃れられない宿命だ。どんなルールも、切れ目なく連続し、もともと継ぎ目のない現実の上に、こちらかあちらかという境を無理に引こうとする。だが現実は二つに一つではない。腕の開く角度は無数にあり、故意と偶然の間には数え切れない中間の状態がある。ボールが手に当たる位置、強さ、タイミングの組み合わせも尽きることがない。そこに線を引き、罰すべきものと罰すべきでないものに二分すると、線のすぐ両側にある事例がいつも最も見分けにくくなる。どこに線を引いても、最も激しい言い争いはそこについてくる。

あの機械も、その背後にあるルールの体系全体も、これを何度となく繰り返している。人々はそのつど規則をもっと厳密に定め、判断の余地を押しつぶし、論争の居場所をなくそうとする。だが鋭く研がれた規則そのものが、そのつど新たに解釈され、争われ、こじ開けられる対象になる。もっと明確な線で論争を封じようとすれば、その線自体が、たちまち次の論争の戦場になる。規則はますます細かくなるが、割り切れない余項がその中に封じ込められたことは一度もない。新しく引かれた線の外から、そのたびにまた顔を出すのである。

2019年に新しく引かれた線も、別の運命をたどるわけではない。その後も大きな大会のたびに、新たなハンドの場面が、狙いすましたようにその線のきわに現れる。あの腕は不自然に張り出していたことになるのか。あの位置は肩の高さに達していたと言えるのか。またも顔を真っ赤にして争う題目になる。そのころには、きっと誰かが言い出すだろう。この条文はまだ不明確だ、もう一度直さなければ、と。こうしてルールは次々と改訂され、前より細かく、前より長くなっていく。だがどの版も、論争を本当に封じ込めたことはない。永遠に埋まらない穴のようなものだ。細かな規定をどれだけ投げ込んでも、すぐ脇がまた崩れて、新しい縁ができる。

五 もう一つの機械、もう一つの判断

ピッチの外にも、2018年のワールドカップには「どう判断するか」という問いが重くのしかかっていた。ハンドよりはるかに大きな問いだ。ロシアのこの大会は、金で買ったものだったのか。

話を初めからたどろう。2010年12月2日、FIFAは2018年大会の開催権をロシアに与えた。同じ日に、2022年大会の開催権をカタールに与えた。この二つの投票は、その後長い追及を呼ぶことになる。招致の過程をめぐってFIFA内部で倫理調査が始まり、その調査を率いたのがガルシアだった。

二つの投票は、当時からどこか不自然だった。2018年大会では、ロシアが2回目の投票で圧倒的な票を得て勝った。一方、有力視され、準備も最も行き届いていたイングランドは、最初の投票でわずか2票しか取れず、屈辱に近い早期敗退を喫した。2022年大会では、夏の暑さでほとんどサッカーができないカタールが、なんとアメリカを破って開催権を手にした。真夏に酷暑となる国がワールドカップを開き、最もしっかり準備した招致国が2票しか得られない。結果だけでも、世界中の人が首をかしげるには十分だった。この裏に何か汚いものがあるのではないか。だが、その疑問には憶測だけでは答えられない。そこで、後の調査が行われることになった。

ただし倫理調査には、できることとできないことの境がある。法廷ではない。証人を召喚する権限も、反対尋問もなく、有罪を認定して刑を科す権能はなおさらない。できるのは、調べられる資料を調べ、不審に見える点を書き留め、説明といくつかの勧告を示すことだ。裁判というより、組織内部の健康診断に近い。たとえ全身に異常が見つかっても、それが判決文になるわけではない。問題を照らし出しはするが、この開催権は潔白なのか、そうでないのかという最終的な判を押すことはしていないし、その権限もない。疑問点を一つずつ並べることはできても、肝心の疑問に決着をつけることはできないのである。

この調査の結論が全文公開されたのは、ようやく2017年になってからだった。そこに現れたのは、すっきりした一つの判決ではなく、証拠の濃淡が入り交じった起伏のある地形だった。ロシアは、招致チームが借りて使ったコンピューターが使用後に廃棄され、提出できる文書がきわめて少なかったとして批判された。そのコンピューターに何が保存されていたのかは、もはや永遠に確かめようがない。まさにリプレーの機械の正反対だ。ここでは、見返すことのできる映像そのものが消されていた。オランダとベルギーは、十分で有益な協力を行い、問題は見つからなかったとされた。カタールについては、十分な協力があったとしながらも、調査側が関連ありと考え、場合によっては問題視した会合や手配、資金のやり取りが記録されていた。これは、誰が開催権を買ったかを認定する判決ではない。いくつかの問題と証拠の空白を見いだし、改革の勧告も示した倫理調査だった。

ここで、コンピューターが廃棄されていたという細部は、強烈に目を引く。ピッチ上で真実を映す機械は、すべてを録画して保存し、一コマずつ見返せるようにすることで働く。ところが招致をめぐるこの疑惑では、正反対のことが起きた。答えを蓄えていたはずのコンピューターが、使い終わると廃棄され、中に何があったのか、二度と誰も見られなくなった。一方では映像を極限まで確実に残し、他方では映像を根こそぎ消す。なのに両極端がたどり着く結末は同じだった。金で買ったのかという最も大切な問いには、依然として答えがない。これは多くを物語る。真実を確定できないのは、ときとして見え方が不十分だからではなく、裁こうとしている事柄が、そもそも見るだけでは決められないものだからだ。どれほど多くが見えても、見るものが何もなくても、最後には同じ壁に突き当たる。

そして調査そのものも、論争を鎮められなかった。全文が公表される前、エッカートは42ページの要約を発表し、招致手続きを最初からやり直す理由はないとした。ガルシアは、その要約には誤った記述があると公に述べて異議を申し立てた。申し立ては手続き上の理由で退けられ、その後、抗議としてFIFA倫理委員会の職を辞した。論争に終止符を打つはずの調査が、最後には調査を率いた本人さえ、結果の示され方を認めず席を立つ事態になったのである。

論争を収めるための調査が、ついには論争の一部になる。ほとんど宿命のような循環だ。人々が調査を始めたのは、説明が欲しかったからであり、誰もが口を閉じるだけの結論を求めたからだった。だが出てきたのは、内輪でも激しく揉める結果だった。一方は問題なしと言い、他方は記述が誤っていると言い、ついには席を蹴って去る者が出る。調査で論争を封じようとしたら、その調査自体が割れて、新たな論争になった。ピッチのシステムに起きたことと驚くほど似ている。装置を組み上げ、今度こそ争いを終わらせようとする。だが争いは終わらず、場所を変え、その装置自体の隙間に潜り込んで、なお騒ぎ続けるのである。

六 起訴は結論ではない

倫理調査より先まで踏み込むのが、法である。

より広い範囲に及んだFIFA汚職事件では、アメリカ司法省が2015年5月に最初の起訴に踏み切り、FIFA関係者9人と企業幹部5人を一度に起訴した。同時に、複数の個人や企業が罪を認めていたことも公表した。この大事件は、2018年と2022年のワールドカップ開催地を決めた投票だけを扱ったものではない。放映権や地域予選、そのほか数多くの贈賄の仕組みが絡んでいた。

2020年4月には、アメリカのニューヨーク東部地区連邦検察が、従来の起訴状を差し替える第3次の修正起訴状に、FIFAの開催地選定をめぐる計画が盛り込まれたと発表した。そこには2018年にロシアが開催したワールドカップと、2022年にカタールで開催予定だったワールドカップも含まれていた。だが同じ声明の中で司法省は、これらはあくまで起訴された内容であり、有罪が立証されるまでは被告人は無罪と推定される、とも強調していた。

罪を問うことと、結論が出ることは違う。その間の距離を、人はよく一足飛びに飛び越えてしまう。起訴状に、ある事柄には贈賄の疑いがあると書かれていたとしても、それは検察側の主張であり、これから法廷で立証しようとする内容だ。すでに証明された事実ではない。法廷が最終的に認定するまでは、あくまで主張であり続ける。この慎重さは、誰かをかばうためのものではない。むしろ、無実の人を罪に落とさないためにある。訴えられたというだけで、人を有罪にしてはならない。そして、この原則をこのワールドカップにも正直に当てはめれば、こうなる。開催権をめぐって嫌疑がかけられ、調査が行われ、数々の疑問が残された。だが今日まで、この開催権は金で買われたものだったと最終的に認定した法廷はない。

はっきりさせておきたい。結論を急がないことは、誰かにお墨付きを与えることではない。この開催権が金で買われたとはまだ立証されていない、と言うことと、絶対に潔白だと言うことは、まるで違う。前者は、わかったのはここまでだと正直に認め、残った空白をすっきりした判決で埋めない態度である。後者こそ、かばい立てだ。本当に誠実な立ち位置は、その二つの間にある。疑問が存在しないふりもせず、その疑問がすでに動かぬ証拠になったふりもしない。何が正しく何が間違っているか、一目でわかることもある。そういうことは、言うべきように言えばよい。だがこの件は違う。まだ晴れていない霧なのだ。その霧を無理に指さして、あれは間違いなく山だ、あるいは何もない空間だと言い張ることほど、してはならないことはない。

この見極めはきわめて重要だ。一連の事件で、多くの有罪判決と罪を認める答弁があったのは確かであり、腐敗の生態系は現実に存在した。だがそれと、ロシアやカタールの開催権そのものが贈賄で得られたと司法が認定し、そのために法に基づいて開催権が取り消されることとは別である。実際、どちらの開催権も取り消されなかった。ロシアは2018年大会を開き、カタールは2022年大会を開いた。罪を問われたことも、罪を認めた者がいたことも事実だ。だが最大の問い、つまり開催権が本当に潔白だったかについて、決定的な答えが出たと言うなら言い過ぎになる。決勝のハンドと同じだ。細部の事実は確定できることがあっても、最も大きな判断は宙に浮いたまま、決着しない。嫌疑はまだ結論ではなく、最大の問いには今のところ答えがない。それを正直に認めるのは、まだ究明されていない事柄を、気持ちのよい結論で無理やり覆い隠すことを拒む態度なのである。

こうしてこのワールドカップは、疑問符を抱えたまま最後まで開かれ、その疑問符とともに歴史に残ることになった。試合のように終了の笛が鳴ればスコアが確定するわけではない。潔白だったのかという問いには、終了の笛もスコアボードもない。大会を愛する人は、ピッチ上のすばらしさだけを覚えていてもよい。疑う人は、解明されていない疑問点をずっと見つめていてもよい。最も誠実な言い方は、二つがずっと併存してきたと認めることかもしれない。なかなか見応えのあるワールドカップと、晴れもせず、かといって実証もされなかった疑惑の雲。一方が他方を呑み込むことはできなかった。この勘定も、あのハンドと同じく、帳尻が合わないままである。

七 機械の手が届かないところ

2018年大会には、どんな機械にも、どんな調査にも、そもそも管轄できない問題があった。

その年の3月、イギリスのソールズベリーで毒物襲撃事件が起きた。これを受けてイギリス政府は、ロシアで開かれるワールドカップに閣僚も王室の構成員も派遣しないと発表した。アイスランドも続いて、首脳級の出席を見送ると発表した。ただし、これは外交上のボイコットだったことを明確にしておく必要がある。政府高官や王室が出席しないのであって、スポーツとしての大会をボイコットしたのではない。イングランド代表は予定どおり出場し、サッカーは行われ、大会は開かれた。機械なら、ボールがゴールラインを越えたかどうかは判定できる。だが、他国の領土で毒物を使ったと疑われている国が、平然と世界を迎えて祭典を開いてよいのかは判定できない。何が起きたかをはっきり見れば答えが出る問いではないのだ。

外交上のボイコットと競技への参加は、並んで走りながら交わらない二本の線だった。一方には、政府高官や王室の欠席という姿勢の表明がある。他方では、代表チームがいつもどおり出発し、いつもどおり試合をし、ファンがいつもどおりロシアのスタジアムに押し寄せる。どちらの線も、もう一方を実際に止めることはできなかった。意思表示は意思表示として、ワールドカップは予定どおり開かれる。ここには機械も調査も手を出せない問いがある。ある国が、他国の土地で毒物を使ったと疑われながら、両腕を広げて世界中の客を迎える。これをどう受け止めればよいのか。事実を問う問題ではない。見返すリプレーも、調べれば答えが出るデータもない。全員の前に置かれているのに、誰も模範解答を出せない問いなのである。

そしてその問いの底には、実在する何人かの人間がいる。ソールズベリーの毒物襲撃で傷つけられたのは、抽象的な国家ではない。名前があり、血の通った人たちだ。毒を受けて倒れ、異国の病院で命をつなごうと闘った。ワールドカップの照明が華やかになるほど、スタジアムの歓声が大きくなるほど、かつて千里も離れた病床に横たわっていた人たちは、かえって音も気配もない存在に見えてしまう。スコアを数える機械は、彼らをその数に入れない。視聴率の報告書にも、彼らのための欄はない。だが、この冷たい帳簿に記載されない人たちこそ、あらゆる喧騒の背後で最も消してはならない存在なのだ。祭典は予定どおり開かれる。けれどサッカーがどれほど面白くても、彼らの受けた苦しみがわずかでも軽くなるわけではない。

開催国には、ドーピングの影もつきまとっていた。ロシアは、マクラーレン調査がより広い範囲で明らかにしたドーピング・スキャンダルの影を背負って、自国のピッチに立ったのである。サッカーについては、FIFAは2018年5月、開催国の代表者を今大会のドーピング検査の手続きに関与させないと述べた。その後FIFAは、マクラーレン調査に関連する資料を追って調べた結果、出場を認めたロシア代表チームについて、アンチ・ドーピング規則に違反したと認定するだけの十分な証拠は見つからなかったと説明した。これもまた、割り切れない判断である。証拠が足りないから出場を認める。だが「証拠不十分」の一言で、影まで消えるわけではない。薬物を使用したのかという問いも、あのハンドは故意だったのか、あのワールドカップは金で買ったものだったのかという問いも、機械一台が万人に代わって最終決定を下せるものではない。

これらの問いを並べてみると、共通点が見えてくる。最後まで追っているのは、何かが起きたかどうかではなく、その出来事をどう位置づけ、人々をどう扱うべきかということだ。毒物襲撃で傷ついたのは、生きた人間である。禁止薬物の疑惑で宙に浮いているのは、一つのチームの潔白だ。そしてその上には、もっと大きな問いがある。そうしたことをしたと疑われている国を世界の前に立たせ、開催国として客を迎える主人役を任せてよいのか。どれも機械一台や一組のデータで、きれいさっぱり片づけられる問いではない。量ろうとしているのは事実の重さではなく、人間の重みだからだ。そして人間の重みは、どんな機械の秤にも量れない。

だからこのワールドカップには、ピッチの内にも外にも、至るところに境界の標が立っていた。片側にあるのは機械が見通し、数えられる事実。反対側にあるのは、手の届かない判断や是非である。ボールが手に当たったかは、機械が決められる。その接触が故意に当たるかは、機械には決められない。ロシア代表から禁止薬物が検出されたかは、手続きが答えを出す。疑惑の影が晴れたかは、手続きでは決まらない。どの役員がどの罪を認めたかは、法廷が確定する。開催権が結局どこまで潔白だったのかは、法廷では決まらない。どの場所でも機械は半分を鮮やかに決着させ、もう半分が手の届かない外側に残るのを、ただ見ているしかなかった。

八 結び

ここまでの糸を束ねよう。

2018年のロシア・ワールドカップは、真実を映す機械を迎え入れた。論争を封じるために構が行ってきた試みの中で、これまでで最も大胆なものだった。ボールがラインを越えたかという小さな問いに答えるだけでは、もう満足しない。最も争いになりやすい判定をすべて、リプレーによって一挙に事実へと釘づけにしようとした。

そして半分は確かに成功した。何が起きたかという層は、見事に決着させた。ボールが手に当たったかどうかはリプレーではっきりわかり、その点ではもう誰も争えない。だが論争を本当に終わらせることはできなかったし、できるはずもなかった。論争はもともと、何が起きたかという層だけにあるわけではないからだ。その層を閉じても論争は消えず、ただ引っ越す。どう判断するかという層へ移るのだ。あの接触は故意に当たるのか。あのPKは誤審に当たるのか。あの開催権は潔白と言えるのか。あのチームは潔白と言えるのか。それは目に見える事実ではなく、ルールの中、人の心の中に引かれた線である。カメラは手を映せても、その線を映せない。調査報告は会合を列挙できても、判決までは示せない。

ここに、真実を映す機械の最も深い逆説がある。強力になればなるほど、自分の境界をいっそう明瞭に示してしまう。すべてを見通せる機械は、見えるものを残らず見通したがゆえに、見えないもの、そもそも見ることでは解決できないものを、痛いほど際立つ形で残してしまう。事実という半分が照らされると、判断というもう半分は、それまでのどんなときよりも暗く見える。以前は事実と判断が混ざり合い、どちらがどちらかわからない曖昧な勘定だった。今は事実に属する半分がきれいに切り出され、判断に属するもう半分だけがぽつんと残って、もう隠れ場所がない。そこで人々はようやく気づく。ずっと自分たちを困らせていたのは、見えなかったことではなかった。はっきり見えても答えを出せない、まさにその部分だったのだ。

こうして同じことが繰り返される。一つの層を閉じるたび、閉じ込められない余項はもう一つ外へ移る。ルールの線を細くすれば、論争は新しい線の外に生まれる。調査で一つの疑問を覆おうとすれば、その調査自体がまた新たな疑問を呼ぶ。余項は一度も消えていない。そのつど機械の届かない別の場所に移り、そこに居続けるだけだ。真実を映す機械は強力になるほど、かえって自分の境界を明確に描き出す。事実は照らせる。判断の中には光を差し込めない。

この法則は、ピッチの上だけで成り立つわけではない。ある種の論争を二度と蒸し返されない形で終わらせるために、機械を、法典を、手続きをつくろうとするところでは、同じ光景が繰り返される。機械も法典も、最も表面にあり、最も数値にしやすい層なら決着させられる。だがきれいに決着させるほど、本当の難しさを、自分の扱えない場所へ押し出してしまう。与えられるのは事実であって、是非ではない。事実と是非の間には、人が渡らなければならず、機械には渡れない溝がいつもある。ロシア大会の機械は、その古い溝を最新かつ最も鮮明な光で、もう一度照らし出したにすぎない。人々は改めて知ることになった。何もかもはっきり見えていても、それでも正しいとも間違っているとも言い切れないものがある。

そして、こうした光の届かない場所に立っているのは人間だ。3試合続けて延長を戦い、人口数百万人の小国の意地をすべて足元に託して、力を使い果たすまで勝ち進み、立っていてもふらつくほどになったクロアチア代表である。今大会の最優秀選手に選ばれたモドリッチである。誰が最優秀かということも、唯一の答えはなく、人々がそれぞれの目で見て、価値を量り、判断するしかない。そしてピッチの外で、現実に傷つけられた人たちである。祭典が予定どおり開かれたからといって、その身に起きたことが帳消しにはならない。これらはどれも、あの機械に読み取れる事実ではない。機械はボールが手に当たったかを読み、誰がオフサイドの線のどちら側に立っているかを読み、スコアボードの数字が一つずつ変わるのを読む。だが、その人たちが背負う、本当に大切で、いつまでもデータに換算できない重みは読めない。最後の瞬間まで戦い抜くチームの意地。毒を受けた人の病床での闘い。PKを取られた選手があの夜、言葉にできず呑み込んだ無念。それこそが、真実を映す機械にも永遠に照らせない場所なのである。循環は止まっていない。今も回り続けている。