Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 世界サッカーシリーズ — 第17篇、全22篇

ベルリン

書き上げられた結末と、その通りに演じることを拒んだ男

(切り口:2006年ドイツワールドカップ)

Han Qin (秦汉) · 2026年

一 書き上げられた結末

2006年のワールドカップには、本来なら書き上げられた結末があったはずだった。

その年、ジダンは34歳、この大会が終われば引退すると、すでに公言していた。8年前、1998年には、パリで2得点のヘディングを決め、フランスに初のワールドカップをもたらしている。8年後、代表引退の際どいところから呼び戻された彼は、大会前はさほど期待されていなかったフランス代表を率い、一戦一戦勝ち上がっていく。スペインを下し、ブラジルを下し、ポルトガルを下し、ついにベルリンでの決勝までたどり着いた。天才の最後の大会が、優勝という結末で締めくくられ、そのまま伝説の中へ退いていく――この物語はあまりに完璧で、完璧すぎるがゆえに、試合が終わってすらいないうちから、その結末はすでに書き上げられ、あとは彼がピッチに立ってそれを現実に換えるのを待つばかりというところまで、用意されてしまっていた。

語りというものは、いつも事実より先回りしたがる。大事件がまだ起きてもいないうちに、それについての物語は、たいてい一足先に書き上げられてしまっている。ジダンにとってのその大会も、ほとんど最初から、あらかじめ用意された型の中に嵌め込まれていた。老いた英雄が帰還し、有終の美を飾り、自らのキャリアに完璧な句点を打つという型である。誰もが、その句点が打たれる瞬間を待っていた。

この先回りは、誰か一人の気まぐれではなく、語りという営みそのものに生まれつき備わった性分である。物語というものは、頭と尾があり、美しい形にまとまってこそ、人を最も安心させる。そして、老いた英雄が帰還し、キャリアの終わりにもう一度勝利をつかみ、功成り名を遂げて人々の記憶の中へ退いていくというのは、あらゆる形の中でも、とりわけ好まれる型である。あまりにも出来すぎていて、人々はほとんど待ちきれないとばかりに、まだプレーされてもいない結末を、この出来合いの型にあらかじめ流し込もうとした。かくしてジダンにとってのその大会全体は、ほぼこの型に覆われたまま進んでいった。観客席で見られていたもの、解説席で語られていたもの、新聞に書かれていたものは、彼がその試合で実際にどうプレーしたかというより、むしろ彼を見つめながら、あらかじめ用意されたその句点を、一画一画、自らの手で描き出すのを待つことだったと言ったほうがいい。台本はすでに書き終えられ、あとは主役が最後の一歩を踏み出すのを待つばかりだった。

しかし事実は、よりによって、書き上げられた台本どおりには演じてくれなかった。

2006年7月9日、ベルリンのオリンピアシュタディオン、決勝、イタリア対フランス。7分、ジダンがPKを蹴る。ボールはクロスバーの下端に当たって跳ね、ゴールに吸い込まれた。極限まで浮かせたパネンカ、軽やかで、傲慢な、あの格の選手でなければ決勝の舞台であえて仕掛けようとは思わない冗談だった。19分、マテラッツィがピルロのコーナーキックに頭で合わせ、同点に追いつく。それから90分間、両者は最後まで決着をつけられず、1対1のまま延長戦にもつれ込んだ。延長戦では、ジダンのヘディングシュートを、ブッフォンが渾身のセーブでクロスバーの上へかき出している。あの一瞬は、ほとんどあの完璧な結末への、最後のひと押しだった。

そして、110分。

ボールから離れた場所で、ジダンは不意に振り向き、頭を激しくマテラッツィの胸に打ちつけた。マテラッツィは倒れた。主審が歩み寄り、レッドカードを提示した。ジダンはそのまま退場となり、うつむいたまま優勝杯のそばを通り過ぎ、選手通路へと歩き去り、姿を消した。それが彼の現役生活最後の試合であり、最後の場面でもあった。試合終了時もなお1対1のままで、PK戦にもつれ込み、イタリアが5対3で制した。フランス側で唯一失敗したのはトレゼゲで、彼のPKもまた、クロスバーに当たっている。グロッソが最後の一本を決め、イタリアが優勝杯を掲げた。

あらかじめ書き上げられていたその完璧な結末は、ゴールまであと数歩というところで、それを書いた当人自身の手によって、粉々に打ち砕かれた。

二 110分

まず、あのレッドカードそのものについて、はっきりさせておこう。

ピッチ上で一人の選手が別の選手に暴力を振るえばレッドカードで退場になる、これは疑いようもなくはっきりしている。ジダンのあのヘディング――その動作はそこに歴然としてあり、数億の人々がはっきりと目にした。それは暴力行為であり、規則に照らせばレッドカード以外にありえない。構はここで、目に見えるその行為をきれいさっぱりと閉じてみせた。

だがすぐそのあとに、はっきりしない問いが一つ浮かび上がってくる。主審は、いったいどうやってそれを知ったのか。

あのヘディングは、ボールから離れた場所で起きており、主審のエリソンドには、その瞬間、見えていなかった可能性が高い。中継映像はその場面を何度も繰り返し流し、そのため多くの視聴者、多くの解説者、さらにはフランス代表監督のドメネクまでもが、審判団がまずピッチサイドのテレビリプレイを見てから、あとを追うようにこのレッドカードを出したのではないかと疑いを持った。リッピも試合後、フランス側がここに映像の介入があったのではないかと疑義を呈したことに言及している。この疑問は重要だった。というのも、それは当時の一線に触れるものだったからである。あの大会では、映像はあくまで試合後の懲罰処理にのみ使用が許され、試合中に審判のその場の判断へ介入することは、断じて許されていなかった。もしあのレッドカードがリプレイを見たあとに追加されたものだったなら、それは一線を越えたことになる。

試合後にFIFAが出した公式見解は、これとは別のバージョンだった。FIFAは7月13日、懲罰手続きに関する声明の中で、110分のジダンの暴力行為は、ピッチサイドに位置していた第四審判によって直接目撃されたものだと述べ、声明はさらに、モニターは使用していないと特記したうえで、第四審判がその後、通信システムを通じて主審に伝えたとした。FIFAはまた、試合中に映像リプレイが判定の補助に用いられたとする説をいち早く否定し、ピッチサイドでテレビモニターを担っていた係員は画面を見ることはできても介入する権限はなく、第四審判にもリプレイへのアクセス権限はないと説明した。当時の規則条文では、第四審判にはもともと、主審や副審の視野の外で起きた暴力行為を主審に指摘するという職務があり、最終的な決定権は、あくまで主審の手にあるとされていた。したがって、その暴力行為が本当に第四審判の肉眼による目撃であり、それがヘッドセットを通じて主審に伝えられたものである限り、このレッドカードは、規則の枠組みの中では根拠のあるものだった。

そしてここに、あの見慣れた裂け目が、再び現れる。レッドカードの判定そのものが正しかったことに争いはない。ジダンが実際に暴力を振るったことも確かである。だが、このレッドカードがどのようにして出されたのか――第四審判の肉眼による直接の目撃なのか、それとも誰かがリプレイを見た結果なのか、その間には、部外者がどうやっても入り込めない一枚のヘッドセット通信の層が横たわっている。FIFAの記録は直接目撃だと述べているが、決勝の現場であのヘッドセットの中で実際に何が伝えられていたのか、外部が独立して再生し直す手立てはない。公式な規則解釈としては、FIFAは映像の不正使用があったとは認定せず、案件はそこで一区切りとなった。しかし公衆の胸に残ったその疑念は、誰にも消せないまま、ずっと宙に浮いたままである。あのヘディングは目に見える。しかし、そのレッドカードの背後で実際に何が起きていたのかは、確定しようがない。

この届かなさは、これまでのものたちとは、少し勝手が違う。1966年のウェンブリーのあのゴールがはっきりしなかったのは、ボールが速すぎて人間の目が追いつかず、見えなかったからである。しかし今回は、映像は隅々まで鮮明である。ヘディングは撮られていた。レッドカードも撮られていた。第四審判がピッチサイドのどこに立っていたかさえ、撮られていた。ただ一つ、そのヘッドセットの中で、あの数秒間に実際にどんな言葉が伝えられたのかだけは、どのカメラにも撮ることができなかった。それは暗闇の中に隠れているわけでも、速すぎて見えないわけでもなく、その場に居合わせたごく少数の人間にしか聞こえず、事後に誰も再生ボタンをもう一度押すことのできない回線の上で起きたことだった。映像はますます積み重なっていくのに、その積み上がった映像のちょうど真ん中に、どれだけ拡大しても、どれだけスロー再生しても埋めることのできない、小さな空白がぽつりと残されている。技術は、目に見えるものをどんどん多く写し取れるようになっていく。だが、ヘッドセットの中で一度だけ響いた一言までは、写し取れない。

そしてさらに重要なのは、このレッドカードが、どのようにして出されたものであれ、すでに手遅れだったということである。それは暴力を振るった者をピッチから追い出すことはできても、打ち砕かれた結末を、もう一度組み直すことはできない。構は一つの行為に裁定を下すことはできても、その行為をなかったことにはできない。幕引きはすでに壊れてしまっていて、レッドカードはそれを取り戻せない。

ここにはまた、残酷と呼ぶべきか、それとも別の何かと呼ぶべきか、判じがたい一つの巡り合わせが潜んでいる。8年前のパリで、ジダンはまさにその頭で2得点のヘディングを決め、フランスに初のワールドカップをもたらした。その頭こそ、あの夜のフランス全体の英雄だった。8年後のベルリンで、同じその頭が、相手の胸に一撃をお見舞いし、彼自身をピッチの外へ追い出し、本来なら完璧であったはずの結末に、誰も予期しなかった亀裂を打ち込んだ。同じ一つの頭が、一度は彼を偉業に導き、一度は彼を破滅させた。まず彼を最も輝かしい物語の中に書き記し、次に、別の物語の最終ページで、その輝きを自らの手で切り裂いてみせたのである。構は、この頭がしてきたことの一つひとつを記録することはできる――あの2つのヘディングも、あのヘディング一発も、すべてはっきりとした映像として残っている。だが、同じ一つの頭が、なぜ二つの最大の舞台で、正反対の結末へと向かったのかは、教えてはくれない。

三 聞き取れなかったあの一言

なぜジダンは相手に頭突きをしたのか。この問いは、この大会において最も慎重に層を分けて扱う必要のある一本の線を引き出してくる。

まず確認できる事実として、ジダン自身の説明がある。彼は試合後、フランスのテレビで初めてまとまった形でのインタビューに応じた際、自分にあの反応を起こさせたのは、相手が自分の母と姉を繰り返し侮辱したことだったと語った。ただし、その場では原文の言葉を復唱してはいない。数か月後、2006年9月のインタビューで、マテラッツィは経緯を認めた。まず自分がジダンのユニフォームを引っ張った。ジダンは、そのユニフォームが欲しいなら試合後にやると言った。それに対して自分は、ジダンの姉のほうがもっと欲しいと言い返した、というのである。マテラッツィはその際、人の姉を引き合いに出したのは良くないことだったとも認めている。2007年8月になると、彼はあるイタリアのテレビ誌のインタビューの中で、初めて公に、自分が言ったとする正確な言葉を明かした。その内容は、ジダンの姉に関するものだった。さらに数年後の2016年、彼は改めて、自分はあのとき相手の姉について口にしたが、母については触れていないと要約している。

これらを重ね合わせたとき、最も手堅い書き方はこうならざるをえない。マテラッツィ本人は最終的に、自分の言葉がジダンの姉に関わるものだったことを認めた。一方でジダン本人は、相手が母と姉を繰り返し侮辱したと語った。母が関わっていたかどうかという点では、両者の説明は一致していない。公開されている資料の中に、すべてを圧倒するだけの同時録音が公表された例は、一つもない。

さらに細部に踏み込むと、その場で実際に発せられた言葉が正確にはどれだったのかということ自体が、争いの的になる。2006年7月、複数の新聞社が、映像に向かって唇の動きを読み解かせ、マテラッツィが実際に何と言ったのかを復元させるという、一種の読唇競争を巻き起こした。しかしこれらの復元結果は互いに食い違っており、しかもその大半は、公開の場で検証しうる完全な映像・音声トラックに基づくものではなかった。ずっと後になっても、当事者自身の説明で裏づけられるのは、姉に関するあの一つの侮辱だけであり、あの日発せられたすべての言葉を、争いの余地のない史実にまで押し上げることはできない。

ここには、避けて通れない結び目が一つある。あの言葉を復元するには、道は結局のところ二つしかない。一つは当事者自身の話を聞くこと、もう一つは、口の動きと音声とを照合できる完全な記録を見つけ出すことである。しかし当事者は、この一件の当事者であるがゆえに、彼が語るのは常に、彼が語りたいと思うバージョンでしかなく、他人がそれを動かぬ証拠として扱うことはできない。そして、完全な映像・音声トラックのほうは、最初から最後まで公開されたことがない。二つの道はどちらも行き着く先がなく、あの一言は、こうして永遠に、ある居心地の悪い場所に嵌まり込んだままになっている。それが確かに口にされたことだけは間違いない。数億の人間が、あの二枚の唇が動くのを、この目で見ているのだから。しかし、具体的にどの言葉だったのかは、誰にも史実として釘づけにすることができない。二枚の唇が動くのが見えることと、それが実際に何を発したのかがはっきり聞き取れることの間には、もともと越えられない一線が横たわっていたのである。

そしてこの線の一番外側には、最も広く流布した伝説が漂っている。マテラッツィがその場で口にしたのは、人種差別あるいはテロリズムがらみの侮辱だったという説である。2006年以降、一部のイギリスの大衆紙は、「テロリストの息子」といったバージョンを、読唇の結論であるかのように広めた。マテラッツィはこれを否定している。2008年になると、ロイター通信の報道によれば、『ザ・サン』はすでに、その人種差別的な暴言だとする説について、マテラッツィに謝罪していた。今日確認しうる史実に照らす限り、このようなテロリズムや人種差別を断定する言い回しは、すでに裏づけられた事実として書かれるべきものではない。

これもまた、あの物語の機械が、最も得意とすることをやっているにすぎない。一人の天才が、キャリア最後の試合で、世界を驚かせる常軌を逸した行動に出た。人々は、いったいどんな言葉が、これほどの人物をあそこまで追い詰めることができたのか、いち早く知りたがった。なぜなら、その言葉こそが、この出来事をどう性格づけるかを決めるからである。もしそれが聞くに堪えない侮辱だったなら、ジダンの激昂にはいくらか理解できる余地が生まれる。もしその言葉がそれほど重いものでなかったなら、あの頭突きは、弁解のしようのない衝動にいっそう近づいてしまう。人々は、この常軌を逸した行動に、それに見合うだけの重みのある理由をどうしても付け加えたかった。そのため、映像が答えを出せずにいると、読唇の競争が舞台に上がり、伝わるたびにどんどん具体的になっていくバージョンが次々と作り出され、ついには誰かがそれについて謝罪せざるをえなくなった。あの頭突きそのものは、数億の人間がはっきりと目にした。しかし、それを引き起こしたあの一言は、最後まで、誰も本当の意味で聞き取ることができなかった。見えることは、依然として、聞き取れることと同じではないのである。

四 「後悔」とは言わなかった

自らの完璧な結末を打ち砕いた男が、試合後に語った言葉は、あの頭突き以上に、どんな型にもはめ込みがたいものだった。

ジダンは決勝から3日後、公の場でインタビューに応じ、最も重要で、かつ最も正確に遡ることのできる二つの言葉を口にした。一つ目は、子どもたちへの謝罪である。彼は、この試合を見たすべての子どもたちに許しを請いたいと語った。二つ目は、「後悔」という言葉の拒絶である。彼は、もし自分が後悔しているとすれば、それは相手の言ったことが正しかったと認めることになると語った。同時に彼は、自分にはいかなる言い訳もないとしながらも、相手の母と姉に関するあの言葉は、何度も繰り返されたのだと述べた。彼はそのインタビューの中で原文の言葉を復唱することはせず、マテラッツィ本人に謝罪することもなかった。

この二つの言葉は、一人の生身の人間が、自分のために書かれた台本に向かって返した答えである。その台本が求めていたのは、有終の美を飾る英雄であり、頭上高く掲げられる優勝杯であり、誰もが満ち足りた気持ちで本を閉じられる、完璧な句点だった。ところが彼は、よりによってそれを与えることを拒んだ。子どもたちに謝罪したのは、自分がピッチの上で悪い手本を示してしまったと知っていたからである。しかし、あの頭突き自体を後悔することは拒んだ。なぜなら彼の中では、後悔するということは、母と姉を侮辱したあの言葉が正しかったと認めることを意味し、それだけは、どうあっても認めるわけにはいかなかったからである。彼はむしろ、あの完璧な句点を壊すことを選んでも、これだけは守り抜こうとした。台本は彼に、物語を円満な結末へと運ぶ一つの道具となることを求めていた。だが彼はあくまで一人の人間であろうとした――母がいて、姉がいて、いざとなれば盤ごとひっくり返すことも辞さない、一人の人間として。

この一点こそが、まさに、あらゆることを物語に仕立てあげようとするあの機械にとって、どうにもならない場所である。それは結末をあらかじめ書いておくこともできるし、投票を前もって取りまとめることもできるし、一人の人間を、必要などんな形にでも捏ね上げることができる。英雄であろうと、向こう見ずな乱暴者であろうと構わない。しかしそれが見落としていたことが一つある。物語の中に書き込まれるその人間は、思うがままに動かせる記号ではなく、血肉を備え、自分だけの痛みを持ち、自分では飲み込めない一つの意地を持った、一人の人間なのだということである。台本が微笑みながらの幕引きを求めたとき、彼はよりによって母と姉のことを思い出した。誰もがあの円満な句点の落ちる瞬間を今か今かと待ち望んでいたとき、彼の中にあるもっと大事な何かが、頭上に手を伸ばせば届くはずだったその優勝杯を、上回ってしまったのである。物語はあらかじめ書いておくことができる。だが、物語を書く者たちは、結局のところ同じ一点を見落としていた。物語の中のその人間は、生きていて、自分自身で動くことができ、いつなんどき、最終ページで、誰も彼のために書き込んでいなかった何かをしでかすかもしれないということを。

そしてピッチの外にも、あの書き上げられた結末の滑稽さを、いっそうくっきりと際立たせる出来事が、もう一つあった。

あの大会のゴールデンボール賞は、その大会全体の最優秀選手を選ぶもので、大会を取材した記者たちの投票によって決まる。結果は、ジダンが2012点、カンナバーロが1977点、ピルロが715点だった。ジダン――たったいま決勝で暴力行為によりレッドカードを受けて退場させられたばかりのその人物が、わずか35点差という僅差で、最終的に優勝を果たしたイタリア代表主将を上回り、この大会の最優秀選手に選ばれたのである。

ここで一つ、証拠の面できちんと申し添えておくべきことがある。この賞の投票時期については、資料が完全には揃っていない。ロイター通信が配信した試合後の報道の一つには、この賞はメディアの投票で決まるものであり、それらの票はジダンにレッドカードが出される前にすでに投じられていた、とはっきり書かれている。一方、同時期の別の報道は、正式な締め切りは決勝の後だったが、多くの記者が試合観戦と試合後の原稿執筆に専念できるよう、前もって票を提出していたとしている。この二つは互いに矛盾するものではなく、両者を合わせて支持しうる最も手堅い結論は、かなりの数の票が、決勝終了前に、少なくともあのレッドカードの意味が人々の中で完全に消化される前に、すでに提出されていたというものである。票の大多数が試合終了のホイッスル前に投じられていたかどうかについては、公開資料の中に一票ごとのタイムスタンプはなく、この、より強い主張のほうは、証拠が完全には揃っていない。したがって言えるのは、「大多数はすでに投じられていた」というのは、当時メディアで広く報じられた一つの解釈であって、一票ずつ監査できる手続き上の事実ではない、ということだけである。

しかし、たとえこの程度までしか裏づけられないとしても、その光景はすでに十分に刺々しいものである。ジダンを最優秀選手に選んだ根拠は、彼の大会全体を通じての活躍であり、記者たちが最後の試合が終わる前にすでに書き上げ、提出していた判断だった。そして110分のあの一撃が実際に起きたとき、それらの票はすでに提出済みで、もう取り戻すことはできなかった。こうしてあのゴールデンボールは、あらかじめ書かれていた結論の化石となった。事実がそれを追い越す前に、すでに固まってしまっていた判決である。語りは事実に先んじて、最優秀選手というその句点を先に打ち落としてしまい、そのあとに事実が真正面からぶつかってきた。だが、その句点は、もう消すことができなかった。

そして、その票を投じたのは、まさに物語を語っていた当の本人たちだった。このゴールデンボールは、選手たちが投票したものでも、監督たちが投票したものでもなく、この大会を取材していた記者たち――大会を通してずっと、老英雄の完璧な幕引きのために文章を敷き詰めてきた者たちの投票によるものだった。彼らの手にしたペンは、一方で帰還と有終の美についての原稿を書きながら、もう一方で投票用紙の最優秀選手の欄に、先回りして彼の名前を書き込んでいた。そして110分になり、そのペンの下の主人公は、全世界が見ている前で、自分自身についての原稿を破り捨ててしまった。しかし票はすでに提出済みで、インクはとうに乾いていた。かくして、物語を書いていた者たちは、正式な投票という形をもって、自分たちの筆による結末に、一つの公印を押してしまっていたのである。そして主人公が全世界の前で原稿を破り捨てたときには、その公印はすでに固く押されたあとで、もう剥がすことはできなかった。

一つのゴールデンボール、一枚のレッドカード、同じ一つの試合、同じ一人の人間。構が最もしたがっているのは、一人の人間に、すっきりとした一つの性格づけを与えることである。英雄か、それとも向こう見ずな乱暴者か、どちらか一方を選ばせようとする。しかしジダンは、よりによってその両方だった。彼はその大会で公認された最優秀選手であると同時に、決勝で暴力を振るって退場させられた人物でもある。この二つは、どちらも相手を覆い隠すことができず、どちらも相手を消し去ることができない。彼を一枚の顔に釘づけようとしても、釘づけにはできないのである。フランス国内の世論と国際世論でさえ、当時、一致した見解を出すことができなかった。国際的には、ヘディングによる暴力行為への批判が広く見られた。しかしフランス本国では、感情は必ずしもそれに従わなかった。シラク大統領はパリでジダンを迎え、支持を表明し、『レキップ』紙の読者投票では、61パーセントの人が、この一件はジダンの名声を損なわないと考えていた。同じ一つの行為が、国境の両側で、まったく異なる二つの裁断を受けたのである。一人の人間が、結局のところ何として記憶されるべきなのか――この一点さえも、閉じることができない。

五 泥の中に咲いた優勝

フランス人が自らの手で取り逃がしたその優勝杯は、イタリアの手に渡った。そしてイタリアがそれを掲げたとき、国内はまさに「電話ゲート」と呼ばれる嵐の渦中にあった。

2006年5月、ワールドカップ開幕の少し前、イタリアサッカー界の一連の盗聴内容が暴露され、その矛先はクラブ上層部とリーグの審判割り当てシステムとの関係に、真っ直ぐ向けられた。この嵐が巻き起こると、代表監督のリッピまでもが巻き込まれ、『ガーディアン』は5月下旬の時点ですでに、リッピの監督としての地位がこの醜聞のせいで疑問視されつつあると書いている。イタリアは、まさにこうした暗雲を頭上に抱えたまま、ワールドカップへと臨んだのだった。

そして優勝したあとも、暗雲は晴れなかった。7月14日、決勝からまだ一週間も経たないうちに、イタリアのスポーツ法廷が一審の判断を下す。ユヴェントスは2部リーグへの降格が決まり、さらに直近2シーズンのリーグ優勝を剥奪された。フィオレンティーナとラツィオも、この一審で揃って降格の判断を受けた。ミランは降格こそ免れたものの、勝ち点を剥奪され、さらに欧州カップ戦の面でも処分を受けている。数日後、イタリアサッカー連盟の責任者グイド・ロッシは公の場で、ワールドカップで優勝したからこそ、むしろ国内サッカー界は清算すべきものを徹底して清算する必要があるのであって、優勝したからといって帳消しにしてよい道理はない、と表明した。

すると、あまりにも誘惑的な物語が、またしても訪れる。泥の中から花を咲かせた優勝チームが、祖国のサッカー界が最も汚れていた瞬間に、ワールドカップの栄光をもって、一つの贖いを成し遂げたのだ、という物語である。しかしこの物語は、事実の境界線の内側にまで縮めなければならない。踏みとどまるべきなのは、次の二つの文である。電話ゲートは事実であり、優勝もまた事実である。だが、この二つは一つに練り合わせることができない。あの審判が処理したのは、クラブであり、クラブの役員であり、リーグの審判割り当てをめぐる裏の手筋であって、イタリア代表がワールドカップで戦ったどの試合でもない。代表チームの優勝と、電話ゲートの裁定は、ほぼ同時期に起きた出来事であり、代表チームの顔ぶれの中に、その渦中にあったクラブ出身の選手が数多く含まれていたのも事実である。この二つを並べて見ることはできる。しかしそれによって自動的に、このワールドカップ優勝そのものが司法上の汚点を帯びている、という結論を書いてよいわけではない。醜聞に根拠があることと、その優勝がこの事件によって汚されたということは、別の話である。後者は、いかなる一片の裁定によっても、裏づけられたことはない。

この二つの事実を分けたまま並べておくのは、なかなかつらいことである。人の心は、生まれつき、それらを一つに合わせたがるものだからだ。上向きに合わせれば、こうなる――濡れ衣を着せられ、辱めを受けたチームが、祖国サッカー界の最も暗い瞬間に、優勝という形で自らの潔白を証明した、泥の中から一輪の花を咲かせたのだ、という版であり、これは血を沸き立たせる。下向きに合わせれば、こうなる――頭のてっぺんから足の先まで腐りきったサッカーが、ワールドカップまでも不正に勝ち取ったのだ、という版であり、これは義憤に駆られる。どちらの版も痛快で、一気に最後まで語りきれる。ただし、どちらも正直ではない。正直な語り方は、むしろ最も痛快さに欠けるものになる。盗聴は事実である。降格処分も事実である。あの優勝杯も事実である。しかし、クラブのその帳尻を、そのままベルリンでプレーした代表チームの11人の試合の上に付け替えるには、途中に、誰にも埋められなかった証拠のつながりが、一つ欠けている。醜聞に根拠があるというのは一つの文であり、優勝が汚されたというのは、また別の一つの文である。前者をそのまま後者の証明とみなすのも、また一つの、手っ取り早い結合にすぎない。

イタリアが勝ち上がっていく道のりにも、目に刺さるような判定がなかったわけではない。ベスト16のオーストラリア戦、53分にマテラッツィが先に退場となった。そしてアディショナルタイムの最後の瞬間、グロッソがペナルティエリア内で相手のルーカス・ニールと接触したあとに倒れ、担当していたスペイン人主審はイタリアにPKを与え、トッティがこれを決めて、イタリアは1対0で辛くも切り抜けた。このPKは、当時イギリスのメディアによって、物議を醸す判定として書かれており、2006年10月には、ブラッターまでもが、このPKをめぐる論争について遺憾の意を表明したことがある。これもまた、判定そのものは見えているのに、その背後にどれだけ誤審の要素があり、どれだけ別の何かの要素があるのかは、はっきりしないという一例である。それは何らかの定論に達するほどのものではないが、同じように、消し去ることもできない。

年末になると、イタリア代表主将のカンナバーロが、その年のバロンドールを獲得した。これは1年間を通じたヨーロッパの最優秀選手を選ぶ賞であり、ワールドカップでのジダンのあのゴールデンボールとはまったく別のものである。またブッフォンは、この大会の最優秀ゴールキーパー賞を受けた。栄誉は一つ、また一つと、この優勝チームの上に降り注いでいった。そして、最後まで晴れきることのなかったあの暗雲もまた、同じように、これらの栄誉の上に垂れ込めたまま、誰にも、それらを完全に洗い清めることはできなかった。

六 ある夏のおとぎ話

カメラをピッチから外へ移せば、その年のドイツには、もう一つの物語があった。開催国自身についての物語である。

まずはその夏そのものを見てみよう。クリンスマン率いるドイツ代表は、3位という成績を収めた。開催国は合計14得点を挙げ、この大会で最も多くゴールを決めたチームとなった。しかし、成績以上に記憶されているのは、その夏のドイツ社会全体の雰囲気である。FIFAものちにこの大会を振り返った際、ドイツ代表の戦いぶりと開催国の社会的な熱気とが合わさって初めて、なぜドイツ2006があれほど長く記憶に残ることになったのかが説明できる、と強調している。

そもそもそのドイツ代表は、優勝候補の一角に数えられてすらいなかった。クリンスマンが指揮を執った当時、ドイツサッカーは全体として先行きを危ぶまれる低迷期にあり、彼は一群の若手を起用し、人々の記憶にあった、あの杓子定規なドイツ代表とは比べものにならないほど、伸びやかなサッカーを展開させた。大会前はさほど期待されていなかった開催国が、大会最多得点を叩き出し、ベスト4まで勝ち上がっていった――それだけでも、自国のスタジアムを沸かせるのに十分だった。チームの予想外の躍進と、スタンドの我を忘れた解放感は、互いに互いを煽り立てていた。プレーが上向くほどに街頭の人波は熱を帯び、山野を埋め尽くすほどの赤旗の群れが、今度は逆にスタジアム内の歓声をいっそう押し上げた。あの夏がおとぎ話として記憶されることになったのは、一本のドキュメンタリー映画がそれに名前を与えたからというだけではなく、それが起きていたまさにそのとき、数百万もの人々が、本当に自分の全存在を注ぎ込んでいたからにほかならない。

「夏のおとぎ話」というこの呼び名は、同名のドキュメンタリー映画と分かちがたく結びついている。ドイツサッカー連盟がのちに公式に発表した文章は、2006年のワールドカップを、直接「あの夏のおとぎ話」と呼び、ゼンケ・ヴォルトマン監督による同名の映画にも明確に言及している。つまり、「夏のおとぎ話」という呼び方は、何年も後になって歴史家が貼り付けたレッテルなどではなく、2006年直後から、映画と公式の語りとが一体となって、間もなく定着させた公共の呼称だったのである。この夏は、それが終わったばかりのときから、すでにおとぎ話として語られ始めていた。

あの夏の最も目立つ社会的光景の一つは、大規模な国旗の掲揚と、街頭での集団観戦だった。『ガーディアン』は2006年6月下旬の時点ですでに、ドイツ全土で黒・赤・金の三色が爆発的に可視化される現象が起きていると書いている。車の上にも、バルコニーにも、庭にも、いたるところに国旗があった。ドイツの歴史文献アーカイブに収められた当時の新聞記事は、この現象を「心からの愛国心」をめぐる議論として語っており、これを、戦後ドイツが長らく国旗や民族的象徴に対して抱いてきたあの慎重さが、ついに緩んだのだと理解する向きもあった。ロイター系のある研究機関による、イギリスのメディアがドイツ2006をどう見ていたかについての調査も、あの大会がイギリスのメディアにおけるドイツのイメージを著しく改善させたと指摘しており、その重要な理由の一つとして、ドイツ人がより心地よく、より自然な形の愛国心を示したことを挙げている。

これらはすべて、実際に存在した出来事であり、当時の記録が数多く残っている。数百万人が本当に街頭へ繰り出し、本当にバルコニーを国旗で埋め尽くした。あのくつろいだ、心の底からの喜びと、自国の土地で大会を開催する誇りは、紛れもなく本物だった。歴史的な経緯ゆえに、民族的な象徴に対してとりわけ慎重だった一つの国が、あの夏、めったにない形で、一度だけ肩の力を抜いたのである。あの解放感、あの喜びは、その後に起きたいかなる出来事によっても、一筆で消し去られるべきものではない。おとぎ話のこの側面は、本物である。

七 時効の上で止まった帳尻

だが、おとぎ話の底には、ついに清算されないままの帳尻が一つ、重くのしかかっている。

この夏の物語は、その後、2015年以降のある調査によって、繰り返し揺さぶられ続けることになる。この帳尻を追うには、まずこの大会の出発点――どの国に開催権が転がり込むかを決めたあの招致投票にまで、遡らなければならない。2000年7月、ドイツは12対11という最終得票で南アフリカを破り、2006年ワールドカップの開催権を手にした。その決め手となった一票は、オセアニア代表のチャールズ・デンプシーが投じた棄権票だった。当時複数のメディアの記録が示すところによれば、もしデンプシーがオセアニアサッカー連盟のもともとの方針どおりに南アフリカへ票を投じていれば、結果は12対12となり、当時FIFA会長だったブラッターが、自らの持つ決定票を用いて南アフリカを支持するだろうというのが、外部の大方の見方だった。デンプシーはのちに、自分は当時、耐えがたい圧力にさらされていたと語り、さらに、買収の働きかけを受けたことがあったとも述べている。

このワールドカップ全体の帰属は、もともと、たった一票の棄権の上に懸かっていたのである。もしあの一票が、オセアニアの本来の意向どおりに南アフリカへ投じられていたなら、歴史はおそらく、まったく違う姿をしていただろう。のちにおとぎ話として語られることになるこの大会は、その出発点からしてすでに、割り切れない不透明な緊張の上に立っていた。耐えがたい圧力にさらされていた一人の人間が、最後の土壇場で、手を引っ込めたのである。この出発点における疑問と、何年も後に浮上したあの670万ユーロをめぐる疑問は、同じ一本の線の上で、前後に隔たって結ばれた二つの結び目である。一つは、あの一票がなぜそのように投じられたのかという結び目、もう一つは、あのお金がなぜそのように動いたのかという結び目であり、この二つの結び目は、今日に至るまで、誰にも本当の意味で解きほぐされてはいない。

2015年になると、『シュピーゲル』が核心的な告発を投げかけた。ドイツ2006の招致委員会には、かつて約670万ユーロの資金操作があり、その出所はアディダスの元幹部による一件の貸付だとされ、2000年のあの理事会投票を勝ち取るための工作に関わっていた疑いがある、というのである。ロイター通信は当時、並び立つ二つの事実を記録している。一つは、ドイツサッカー連盟が裏金の存在を強く否定し、票を買ったことも否定したこと。もう一つは、そのドイツサッカー連盟の会長がのちに、その670万ユーロが2005年になぜFIFAへ送金されたのか、自分では完全には説明できないと認めたことである。「そんなものはない」という言葉と、「うまく説明できない」という言葉が、並んでそこに立っている。

2016年、ドイツサッカー連盟が委託した調査は、重要ではあるが、決して口を封じるものではない一つの説明を示した。この資金は、FIFAを経由して、あの元幹部への古い貸付金を返済したものだとされたのである。しかし『ガーディアン』は、その調査の公表された結論に基づいて、ドイツが票を買って開催権を勝ち取った可能性は排除できない、と書いている。したがって、最も手堅い書き方はこうならざるをえない。資金があの元幹部の手元に戻ったという経路は、調査によって指摘されている。しかし、この資金がそもそもなぜ発生したのか、それが本当に招致投票の見返りに関わるものだったのかどうかは、この調査によって徹底的に解明されたわけではない。

そして2020年、この帳尻は、最後にして最も奇妙な結末を迎えることになる。スイス側の刑事手続きは、いかなる実体判断も下さないまま、公訴時効の完成によって打ち切られたのである。FIFAは当時、公に失望を表明し、この事件がこのように何の結論も出ないまま終わってしまうのは憂慮すべきことだと述べた。この一言は、まさにこの事件について今日最も重要な性格づけの境界線を、正確に言い当てている。すなわち、この事件は「解明されて」終わったのではなく、「時効が完成して」終わったのだ、ということである。その後もドイツ国内で進められた手続きは、より多くの部分が、あの670万ユーロをめぐる税務・会計上の記載に集中していった。かなり後になってからも、ドイツの裁判所が扱っていた焦点は、税務申告や取引の記載表現であって、2000年のあの招致に票の買収があったかどうかについて、すでに確定した刑事上の判断を下すことではなかった。

これもまた、構が自らを閉じきれずにいる一つの姿であり、しかも今度は新しい種類の姿である。1966年のウェンブリーのあのゴールがはっきりしなかったのは、見えなかったからであり、真相は人間の目の限界の外側に取り落とされていた。2006年のこの招致をめぐる帳尻は、それとは違う。誰も調べなかったからではない。むしろその逆で、『シュピーゲル』も調べ、サッカー連盟の委託調査も調べ、スイスの検察も立件までした。しかし調べ尽くした果てに、最も肝心な問い――あのお金が本当に票を買うための金だったのかどうか――は、依然として宙に浮いたままだった。そして今回、それを宙に浮かせたままにしたのは、暗闇でもなければ、あの手の届かない動機でもなく、もっと冷たい何か、すなわち時間だった。構の中にある、あの最も証拠を重んじる機械には、自分自身の時計が備わっている。その時計の針が最後まで進み、時効が来れば、手続きは自動的に停止する。事件は立証されることもなく、反証されることもなく、ただそのようにして時間に引き取られ、永遠に宙に吊るされたままになる。最も閉じたがっていたはずのその機械は、今回、答えを出せなかったのではない。答えを出す間もなかったのだ。その時計のほうが、先に鳴ってしまった。

このような止まり方は、真相を突き止めることよりも、あるいは潔白を証明することよりも、人をいっそう落ち着かなくさせる。事実だと立証されれば、余項は定まり、悪いなら悪いとはっきりする。潔白だと判明すれば、疑いの雲も晴れる。しかし、時効の完成によるこの止まり方は、そのどちらも与えてくれない。有罪だとも宣告しないし、無実だとも宣告しない。ただ、時間が来たので、もう問わない、と宣告するだけである。こうしてあの問い――そのお金は本当に票を買う金だったのかという問いは、答えを待つ問いから、二度と答えられることのない問いへと変わり、証明されることも反証されることもないまま、そこに宙づりにされている。それは解決されたのではなく、ただ棚上げされただけなのだ。構の中にある、本来なら真相に迫っていくはずのその手続きが、最後に迫り着いたのは、真相ではなく、それ自身の締め切りの日付だった。その日が来れば、自動的に仕事を切り上げ、まだ手の届いていない答えを、あらゆる疑問もろとも、そのままそっくり、そこに残していく。もう誰も、それに触れに戻ってくることはない。

こうしてドイツ2006は、並べて置くことはできても、一つに練り合わせて書くことはできないものとなった。開催国のあの夏の本物の社会的熱気、あの改善された国家イメージは、本物であり、当時の記録が大量に残っている。そして2015年以降、招致資金にまとわりついたあの疑惑の雲もまた、本物であり、長きにわたってまとわりつき続けたあげく、2020年、時効の完成によって、永遠に宙づりにされてしまった。どちらも本物の史実である。ただ、あとのほうの事実は、今日に至るまで、司法機関によって、一片の実体判断という形で、完全に明らかにされたことは一度もない。おとぎ話は本物である。そして、おとぎ話の底にある、あの帳尻の合わない勘定もまた、本物なのである。

八 収束

これらすべてを、ここで収束させよう。

2006年のワールドカップは、語りがいかにして事実に先回りし、そして事実が、いかにして幾度となく、その語りのとおりには進んでくれなかったかをめぐる、一つの大会だった。

ジダンのキャリアには、あらかじめ完璧な結末が、老いた英雄が有終の美を飾るという句点が、書き上げられていた。しかし110分になると、その句点は、それを書いた当の生身の人間自身の手によって、打ち砕かれた。彼は、物語を円満な結末へ運ぶための道具になることを拒み、その結末を壊してでも、自分が一人の人間であることの、あの譲れない何かを守り抜いた。そして、彼が暴力を振るう前にすでに投票で選ばれていたあのゴールデンボールは、語りが確かにかつて事実に先回りしていたことを証明する、凝固した証拠となった。最優秀選手という結論を先に書き記し、そのあとで事実が真正面からぶつかってきたのに、それはもう取り戻すことができなかったのである。一つのゴールデンボールと、一枚のレッドカードが、同じ一人の人間の上に落ち、どちらも相手を消し去ることができない。構は彼にすっきりとした性格づけを与えようとして、最後までそれを果たせなかった。

イタリアは祖国のサッカー界が最も汚れていた瞬間に優勝杯を掲げ、泥の中に花を咲かせる物語は、すでにそこで待ち構えていた。しかし醜聞は事実であり、優勝もまた事実であって、あの電話ゲートが処理したのはクラブとリーグであり、ワールドカップの舞台そのものではない。この二つの事実は、並べて置くことしかできず、どちらも相手の代わりに、痛快な結論を書き記すことは許されない。そしてドイツのあの夏のおとぎ話は、それが終わったばかりのときから、映画と公式の語りによって、すでにおとぎ話として語られていた。だが、おとぎ話の底にあるあの招致をめぐる帳尻は、何年も調べられながら、ついに解明されることはなく、最後には、証明されることも、反証されることもなく、時効と呼ばれる一つの鐘に引き取られて、永遠にそこで止まったままとなった。

この三つは、構が自らを閉じきれずにいる、三つの顔である。一つは、生身の人間が自らの手で、書き上げられた結末をひっくり返してしまう顔。一つは、二つながら真である事柄が、どうあっても一つの痛快な結論へと崩れ落ちることを拒む顔。そしてもう一つは、時効という名の鐘が、真相よりも先に、一足先に鳴り響き、問いを永遠に宙づりにしてしまう顔である。語りが求めているのは、いつだって、閉じることのできる一つの円、始まりと終わりのある、隙間なく合わさった物語である。しかしこの三つの顔を合わせて言えることは、実は同じ一つのことである。この円には、どうしても閉じきれない何かが、常に残るということだ。あるものは、そもそも円の中に入ることを拒む。あるものは、一つでいながら二つを兼ねてしまい、英雄として扱えば英雄であり、向こう見ずな乱暴者として扱えばそれもまた真である。そしてまたあるものは、円がまだ描き終わらないうちに、円を描いていたその手自身が、先に止まってしまうのである。

目に見えるものは、ますます増えていく。ジダンのあの一撃は、数億の人間が、コマ送りで飽きるほど見た。吹かれては響いた、あの二つの判定も、バルコニーを埋め尽くしたあの国旗の群れも、FIFAへ送金されたあの670万ユーロも、すべて記録として残され、明るみに晒されている。しかし、見えることは、決して、はっきり分かることと同じではない。むしろ、見える映像が積み重なれば積み重なるほど、本当に手の届かないいくつかの場所が、いっそうくっきりと目立ってくるのである。あの一撃を引き起こした言葉が、結局どの言葉だったのかは、聞き取れないまま。あのレッドカードの背後でヘッドセットの中を伝わっていたものが何だったのかは、再生できないまま。あのお金が、結局、票を買うための金だったのかどうかは、解明できないまま。語りはいつも、一つの出来事を、先回りして、円満に閉じられる物語として書き上げようとする。しかし、そこにはいつも、一人の生身の人間が、一つの未解決の事件が、一つの帳尻の合わない勘定があって、そのように閉じられることを拒み、頑固に物語の縁にとどまり続け、その円満さに穴を穿つ。循環は止まっていない。それは、今もなお回り続けている。