アステカ
両の手とひとつのゴール、同じ男の四分間
(切り口:1986年メキシコワールドカップ)
この篇の目次
一 四分間に同居したもの
1986年6月22日、メキシコシティのアステカ・スタジアム。ワールドカップ準々決勝、アルゼンチン対イングランド。後半、試合開始から51分と55分。
この二つの時刻は、その後何度も並べて語られ、サッカー史で最も名高い一組になった。それぞれが伝説的だから有名なのではない。あまりにも近すぎるのだ。同じ男が、同じ試合の、わずか四分の間に見せたものなのに、まるで別々の世界からやって来たかのようだった。
51分、マラドーナがボールを競って跳び上がる。ボールはイングランドのGKシルトンを越え、ネットに収まった。スロー映像にははっきり映っている。ボールを押し込んだのは頭ではなく、左手だった。チュニジア人主審のビン・ナセルはゴールを認め、イングランドの選手たちがすぐさま詰め寄った。
抗議はその場で起きた。試合後になって徐々に騒ぎが大きくなったのではない。マラドーナがまだ喜んでいるうちに、主審はセンターサークルを指して得点を認め、イングランドの選手たちは周囲に集まってハンドだと訴えた。だが、主審の合図はもう出ていた。判定にリプレーも映像審判も使えなかった時代、センターサークルを指したその手が最終判決だった。いくら取り囲んでも覆らない。イングランドの選手たちは、あのゴールが得点として認められるのを、ただ見ているしかなかった。試合後、マラドーナは有名な一言を残す。少しはマラドーナの頭、少しは神の手によるゴールだった、と。
よくできた言葉である。否定はしていない。かといって認めてもいない。紛れもない人間の手を、するりと神に預けてしまった。聞いた者はみな、何を言っているのかわかる。それでも本人は一言も白状していない。抜け目なく、とぼけていて、ほとんど開き直りに近い、あっけらかんとしたところもある。この言葉が世界に広まったのは、何かを明らかにしたからではない。誰の目にも明らかな不正を、憎みきれない話にしてしまったからだ。
55分、今度は自陣でボールを受けると、そのまま疾走し、イングランドの選手を次々に抜き、GKまでかわして無人のゴールに流し込んだ。のちに「世紀のゴール」に選ばれる得点である。
自陣で左足が最初にボールに触れてから、イングランドのゴールへ転がり込むまで、十数秒しかかかっていない。その十数秒でピッチの半分以上を駆け抜け、飛び込んでくる相手を一人、また一人と置き去りにした。力任せの突進ではない。一歩一歩が、あらかじめ測ってあったかのように正確だった。重心をひとつずらすだけで、守備の足が空を切る。最後に飛び出したGKをかわすと、ゴールが大きく口を開けた。あとは軽く押し込むだけだった。その十数秒、アステカ全体が息をのみ、次の瞬間、爆発した。
何年もたってから、人々はこのゴールを何度となくコマ送りで見直した。ボールタッチを数え、走った距離を測り、何秒かかったか、何人抜いたかを確かめた。数字には少しずつ違いがある。最初に受けたタッチを一回に数えるのか。同じDFと二度対峙したら一人なのか、二人分なのか。距離は直線で測るのか、ドリブルの軌跡を追うのか。基準が違えば数字も少し変わる。だが、どう数えても、あのゴールの偉大さは数字の中にはない。数字は速さも、距離も、難しさも裏づけてくれる。それでも、三十年以上たってなお人が息をのむのはなぜか、その理由までは測れない。測るほどよく見えるものもあれば、測った途端にこぼれ落ちるものもある。
四分間。同じ男が同じ試合で、まず片手でゴールを盗み、次に両足でサッカー史上最も澄みきったゴールを決めた。半分は不正、半分は天才。半分には腹が立ち、半分には舌を巻く。その二つは別々の人に割り振られたのではない。同じ男が、立て続けにやってのけたのだ。
二つのゴールの間に何年もあり、別々の試合の出来事だったなら、まだよかった。切り離して覚えればいい。一方は恨み、一方は褒めれば済む。ところが、この二つは同じ試合の四分間に押し込まれ、ぴったり隣り合い、どうしても離れてくれない。あの手だけを覚えて、あの独走を忘れることはできない。独走だけを称賛して、あの手はなかったことにするわけにもいかない。時間が二つを釘づけにし、観る者すべてに、正反対の感情を同時に抱えるよう迫った。この四分間こそ、この大会で最も解きがたいものだった。
解きがたいのは、事実がわからないからではない。事実は明快だ。51分は手、55分は足。どちらにも異論の余地はない。難しいのは、これほど明らかな二つの事実が、まったく逆の判断へと向かっていることだ。しかも同じ男、同じ試合、同じ四分間に属している。事実がはっきりするほど、かえって判決を下せなくなる。
二 見えているのに届かない
まず、あの手から始めよう。
あれが誤審だったことに争いはない。大事なのは、どのように誤審が起きたかだ。主審のビン・ナセルはのちに、手は見えず、ヘディングだと思ったと説明している。線審の合図を待っていたが、問題の側を担当していたブルガリア人線審ドチェフは旗を上げなかった。その後、二人の言い分は食い違った。一人は、よく見えなかったので線審を待っていたと言う。もう一人は、その場でおかしいと感じていたが、当時の連携の仕方では、今のように即座に主審と相談できなかったと言う。一致していたのは、あの瞬間、どちらもゴールの成立を止められなかったという一点だけだった。
ここには、思う存分責めれば済む悪人がいない。主審が職務を怠ったのではない。当時の役割分担に従い、線審の合図を待っていた。線審も怠けていたのではない。その時代の連携の仕組みに制約され、胸に生じた疑念を間に合うように伝えられなかった。それぞれは当時の手順にかなうことをしていた。それが合わさった結果、世界中に見えていたハンドが見逃された。「構」に穴が開くとき、往々にして、原因は誰かの悪意ではない。皆が自分の持ち場で、一見間違っていないことをしている。その持ち場と持ち場の隙間から、するりと抜け落ちてしまうことがある。
ここには、見覚えのある問いが潜んでいる。二十年前、ウェンブリーのあのゴールに決着がつかなかったのは、見えなかったからだ。ボールが速すぎて、人の目が追いつかなかった。1986年の手は正反対だった。テレビの前の何億もの人が、たちまち見て取った。スローで流せば一目瞭然である。だが、見えていたから何だというのか。当の二人には見えていなかった。1986年には、その二組の肉眼以外に、彼らの判断を正せるものがなかった。判定が下り、記録が閉じる。イングランドの選手たちはその場で主審を囲んで抗議したが、判定は動かなかった。確認できる資料の範囲では、試合結果を変えうる正式な異議申し立ては記録に残っていない。
こうして、古い問いが新しい姿を現す。見えないから届かない。それなら理解はできる。はっきり見えているのに、なお届かない。そのほうがつらい。真実は人間の視力の限界の向こうで失われたのではない。なんとも居心地の悪い隙間に落ちた。場外では何億もの人が見ていたのに、場内で見るべき二人が見ていなかった。そしてあの時代、場外で見えたものを場内に持ち込むことはできなかった。
これは技術の隙間だった。1986年、ピッチ上の判定を正す手段は、ほぼゼロだった。主審一人と線審二人の肉眼が、判定の道具のすべてだった。見落とせば救済の手立てはない。一方、観客席やテレビの前では、何億もの人が、実はもっと鮮明な映像を手にしていた。スロー映像、別角度の映像、繰り返し流れるリプレー。おかしな話である。最も正確に見るべき三人の手段が最も乏しく、遠く離れた何億もの人のほうがよく見えていた。なのに、その視界は場内の役にはまるで立たなかった。真実がなかったわけではない。無数の画面に、明るく映し出されていた。ただ、そこから三人の目へと届ける道が一本もなかったのだ。構の手が届かなかったのは、見えなかったからではない。その場を担当する二人の目が見たものだけを有効と決めていたからだ。それ以外の目にどれほどはっきり見えていても、しょせん場外で見えたものだった。
この衝突は、構が譲れない一線を、もう一度照らし出した。ひとたび判定が下れば、それで終わり。世界中に誤りを見抜かれても、構は振り返って直そうとしない。誤りがわからないのではない。直すことに耐えられないのだ。事後の逆転を認めれば、どの試合も差し戻してやり直せるようになり、本当に終わったと言える試合が一つもなくなる。構は誰の目にも明らかな不公正を背負ってでも、終局の線を守ろうとする。1966年には判然としないゴールを守り、1986年にははっきり見える手を守った。守っていたのは同じ一線である。
その線を守る代償は、誰にも見えた。世界中が知っている誤りが、記録にそのまま文字で残った。イングランドは悔しさをのみ込み、そのまま何十年ものみ込み続けた。だが、線を守らなければ代償はもっと大きい。終局を覆せるとなれば、どの試合が終わったのか、どの結果が確定したのか、誰にも言い切れなくなる。構はそこで、試合に終止符を打つ力を失う。二つの害を秤にかけ、見える不公正を背負ってでも、終止符を打つ権限を守ったのだ。これは冷酷さではない。裁定することで成り立つものが、二つの悪い選択肢のうち、より耐えられると考えたほうを選んだのである。
三 もう半分にある異論の余地なきゴール
四分後のゴールは、この問いのもう一方の極だった。
あの手が構の届かない死角だったとすれば、このゴールは、そもそも構が手を伸ばす必要のない場所にあった。
同じ男が、同じ試合で、今度は自陣から走り出し、イングランドのフィールドプレーヤー四人を立て続けに抜き、さらにGKをかわしてネットを揺らす。よく見かける技術分析では、タッチは十一回、所要時間はおよそ十秒から十一秒、距離は五十から六十メートルとされる。
並べてみると、ひとりの人間にできたこととは思えない数字だ。ワールドカップのノックアウトステージで、相手が全力で囲い込もうとする中、たった一人でボールを運び、十秒ほどでピッチの半分以上を渡りきる。四人を抜き、さらにGKを抜く。その間、パスは一度もなく、立ち止まりもしない。あの道のりを切り分ければ、一つ一つの動きだけでも途方もなく難しい。それを彼は一息に、一本の線へとつないだ。流れる雲や水のように、苦もなくやっているように見えた。最も難しいことが、最もたやすいことに見えてしまう。天才が人を魅了し、同時に人の目を欺くのは、まさにそこだ。FIFAはのちに、この得点を「世紀のゴール」に選んだ。
このゴールの何より特別なところは、争うべき点が一つもないことだ。ハンドを見極める必要も、オフサイドを測る必要も、判定を論じる必要もない。あとから説明して片づけるべきものが、これっぽっちもない。最初から最後まで白日の下にあり、すべてが見えていて、誰にもけちをつけられない。ただ、そういうゴールだった。英語のテレビ実況をしていたデイヴィスは、とっさに言った。このゴールに議論の余地はない、まぎれもないサッカーの天才の技だ、と。スペイン語の実況をしていたモラレスは、のちにゴールそのものと肩を並べるほど長く語り継がれる一言を叫んだ。「宇宙の凧よ、君はいったいどの星から来たんだ」。
一方は冷静で、きっぱりと言い切る実況。もう一方は、興奮のあまり言葉もおぼつかないほどの実況。けれども指しているものは同じだ。このゴールには、もう言うことがない。よすぎて、弁護など必要ない。あの手との最も深い違いは、ここにある。あの手には、果てしない弁護がいる。判定は正しかったのか、得点なのか、認めてよかったのか。今も議論は終わらない。だがこのゴールには、弁護の言葉が一つもいらない。ゴールそのものが、自分自身を証明している。
二つを並べると、四分間の両極が姿を現す。ハンドのゴールには、判定、真相、得点として認めるべきかという争いがつきまとい、今も収まらない。「世紀のゴール」には、争いがまったくない。判定によって完成させてもらう必要がなく、いかなる判定による否定も寄せつけない。前者は構の届かない余項である。判定の隙間に落ち、公正とは何だったのか、永遠に決着がつかない。後者は構の裁定をまるで必要としない。ゴールそのものであり、自明で、自足していて、外からの裏づけを求めない。同じ男が、同じ試合の四分間に、一方の手でサッカーが最も仲裁を必要とする顔を差し出し、もう一方の手で、最も仲裁を必要としない顔を差し出した。
二つの顔が一緒になると、サッカーという競技が、マラドーナの身体を借りて自分を打ち明けているようにさえ見える。一方には、決着のつかない争い、判定、誤審、よかったのか悪かったのかがあふれている。ルール一式と審判団をそろえ、際限なく裁き続けなければならない。他方には、疑いを差し挟めないほど純粋な美がある。ゴールがあそこまで見事なら、どんな裁定も余計なものになる。サッカーは仲裁を求めるあの手であり、仲裁を求めないあの独走でもある。そして、その二つはもともと一つなのだ。
四 構にはこの男を裁けない
これこそ1986年の本当の難問だった。構が向き合っていたのは善人でも悪人でもない。四分間に、不正も天才も極限までやってのけた男だった。
構はマラドーナを、ただのいかさま師と裁くことができない。あの手しかなかったなら、話は簡単だ。ハンドで勝利を盗んだ不正者として、恥辱の柱に縛りつければよい。だが四分後、彼はあの反論を許さないゴールを決めた。一点の濁りもないゴールだった。そこに表れた技量は、「いかさま師」という一言では片づけられない。かといって、純粋な天才と裁くこともできない。あの独走だけだったなら、それも簡単だ。実力だけで世界を征した英雄として、神殿に祭ればいい。だが、その四分前には、まぎれもなく手でゴールを盗んでいる。あの手は確かにそこにあった。言い逃れはできない。
どちらも真実で、しかも極限まで振り切れた真実だ。「汚点のある天才」ではない。汚点という言葉では軽すぎる。天才が本体で、ハンドはたまたま犯した失敗のようになってしまう。「たまに才能を見せるいかさま師」でもない。不正と天才の両方が頂点に達し、同じ人間の中に収まっている。そんな男に、すっきりした判決は下せない。いかさま師だと言えば「世紀のゴール」が承知せず、英雄だと言えば、あの手が承知しない。
人は、この裁けなさに耐えられない。誰かを見ると、頭はすぐに札を貼りたがる。善人、悪人、天才、いかさま師。貼ってしまえば安心できる。ところがマラドーナは、その安心をくれない。四分間で両方向を頂点まで押し上げ、どんな札ももう半分を覆い隠せなくした。早く判決を出したい人は、あの手だけを見て生涯いかさま師と罵るか、あの独走だけを見て生涯神とあがめるかに走った。けれど、どちらもしていることは同じだ。まるごとの人間を半分削り落とし、残った半分を既製の枠へ押し込んでいる。彼は、裁ききれない人間なのだ。
そして、裁ききれないと認めることこそ、人に対する最も誠実な態度である。人間はもともと白か黒かで済むものではない。ただ、多くの人の白と黒は、こちらに直視を迫るほど濃くないだけだ。マラドーナはそれを四分間に凝縮した。一語で片づけられないほど濃くしたのである。彼にすっきりした判決を下したい衝動は、どんな複雑な人間でも一枚の札に単純化したいという衝動と同じだ。1986年の四分間は、その衝動を逃げ場のないところまで追い込んだ。人にも出来事にも、どうしても裁けないものがある。二つの面をそのまま置いておくしかない。どちらの面も、もう一方を消してはくれない。そのことを、誰もが認めざるをえなくなった。
そこに、この競技の最も誠実なところがある。誰かを美化することも、醜いところを隠すこともしない。一人の人間の、最も矛盾した二つの面を、同じ試合にそっくり並べて、こちらに向き合わせる。スタンドで歓声を上げたいのに抗議もしたかった人たち。その瞬間の戸惑いは、ものがわかっていなかったからではない。まさに誠実だったからだ。目の前の男は、実際に歓声と抗議の両方に値していた。その困り果てた気持ちを抱えられる人こそ、あの四分間を本当にわかっている。
五 本人は実際に何と言ったのか
「神の手」という言葉は、のちに数えきれないほど繰り返された。では本人は、いつ、実際に何と言ったのか。時系列を一つずつほどいておきたい。
その日、アステカ・スタジアムのミックスゾーンで語ったのが、あの言葉だった。「少しはマラドーナの頭、少しは神の手」。通信社の英語配信を通じ、英米のメディアへと広がっていった。これが最も早く、最も確かめやすい発言である。
同じ年の後半には、もっとはっきりしたことを言っていた。1986年11月、通訳を介した発言を引用し、「もちろん神の手なんかじゃない。僕だ」と語ったとする報道がある。これは大切な資料だ。よく言われる「本人が認めたのは何年もあとのこと」という説明が正確でないとわかるからである。1986年のうちに、手と神の言い回しより露骨な、本人の白状ともいえる発言は、すでに現れていた。
2005年になると、自分のテレビ番組で、世界中の視聴者に向かい、あれはハンドだったとはっきり認めた。このときが、正式に白状した瞬間として記憶された。だから、いつ認めたのかを語るには、二段階を分けなければならない。1986年中にも、認めたと受け取れる発言はあった。2005年には、全世界に向けて、もう逃げ道のない公開の告白があった。
この時系列そのものが、語りが記憶をどう選ぶかを示している。より早く、より率直な告白は、1986年の報道の中に静かに眠り、ほとんど誰も覚えていない。もっと曖昧で、もっと気の利いた名言のほうは繰り返し引用され、誰もが知るところとなった。真相が欠けていたわけではない。1986年にはそこにあった。ただ、響きがよくなかったから、何十年も顧みられなかった。2005年のテレビでの告白が、白状するという行為を、もう一度物語にしてくれたのだ。人々は真相を知らなかったのではない。真相を洒落た一言でくるんだほうの話が、好きだったのである。
時系列を整理するのは、正確さのためだけではない。そこには、語りの癖が見える。人は「もちろん神じゃない、僕だ」という率直な言葉より、手と神のとぼけた言葉を覚えていたがる。とぼけた言葉には物語があり、抜け目なさがあり、何度でも味わえる曖昧さがある。率直な言葉には事実しかなく、あとを引く味がない。
人の記憶は、忠実な録音機であったためしがない。物語好きの編集者なのだ。同じ本人の口から出た言葉でも、耳に心地よいほうを残し、平板なほうをそっと削る。手と神の言葉は、この不正に伝説の輝きをまとわせた。単なる反則ではなく、抜け目ない神話のようにした。「もちろん神じゃない、僕だ」は、その輝きを突き破って、下にある素朴な事実をむき出しにした。記憶は神話を持ち去り、事実を置いていった。事実を知らなかったからではない。神話のほうが語りやすかったからだ。同じ男が自分の口で二通りに語ったのに、語りは好きなほうを選び、もう一方を記憶から薄れさせた。繰り返し伝えられるのは、いちばん真実に近い一言ではない。いちばん話にしやすい一言なのである。
六 復讐の意味はいつ生まれたのか
この試合の背後には、本物の戦争が重く横たわっていた。
1982年、イギリスとアルゼンチンはマルビナス諸島をめぐって戦った。4月2日から6月14日までの七十四日間。アルゼンチン兵は六百人余り、イギリス兵は二百人余りが戦死し、島の民間人三人も戦火で命を落とした。
これらの数字が、試合の背景を最も重く染めている。アルゼンチンの六百余りの家族、イギリスの二百余りの家族が息子を失った。それは1986年のあの午後から、わずか四年前のことだった。二十二人がアステカの芝で一つのボールを追いかけていたとき、スタンドでもテレビの前でも、両国はまだあの戦争から抜け出していなかった。ボールは丸い。だが、それが転がるのは、傷の癒えるにはほど遠い歴史の上だった。戦争から四年たち、二つの国がアステカで顔を合わせた。戦後という背景はそのときから現実にあり、当時のメディアもそれを意識していた。イングランドの記者たちには、だまされたという不満があふれていた。アルゼンチンの記者たちはハンドを否定せず、むしろうまくやり遂げたマラドーナに感嘆をにじませた。この分裂は、すでにその場にあった。
ただ、はっきりさせておきたい。当時の分裂を生んだのは感情であって、できあがった解釈の枠組みではなかった。イングランド人はだまされたと感じ、アルゼンチン人は胸のすく思いがした。どちらも、その場で湧いた素朴な感情だ。それを一つの民族による他の民族への象徴的な復讐へと高め、何度でも引用できる枠組みに固めたのは、あとのことである。その場にあったのは、熱気の立つ感情の塊だった。温度が下がり、形の整った物語になるのは、のちのことだった。
では「復讐」という枠組みは、いつできたのか。ここは丁寧に述べなければならない。確かに言えることは二つある。第一に、戦争から四年後に対戦したのは、当時の事実である。第二に、マラドーナ本人は何年もあとになって、あのゴールを象徴的な復讐として、繰り返し明言した。だが、広く引用される「試合前はみんな、サッカーとマルビナスは関係ないと言っていた。でも、あそこで多くのアルゼンチンの子どもたちが彼らに殺されたことを、僕らは知っていた。これは復讐だった」という言葉は、主として後年の引用や紹介に現れる。1986年の当日の公開発言として、一語ずつ裏づけられるものではない。
これは重箱の隅をつつく話ではない。戦後四年の対戦という背景は、歴史がこの試合に与えたもので、誰にも消せない。一方、この勝利、とりわけあの手を、一国への復讐として明確に語る解釈は、のちにマラドーナ自身が何度も自分の手で補強したものだ。一方は当時の状況、他方はあとからの意味づけである。あとからの意味づけを当日の発言として書けば、1986年のマラドーナに、何年もあとになって言った言葉をしゃべらせることになる。ある試合が特定の意味に取り込まれるのは、往々にして試合当日ではない。その後の長い年月に何度も語り直され、ついにはその意味が最初からボールにくっついていたように見えるのである。
意味をあとから確定していく作業は、たいていこの道をたどる。出来事が起きた日には、多くの場合、出来事そのものと、まだ形にならない感情の塊しかない。意味はあとから、一層ずつ塗り重ねられる。長く厚く重ねるうち、後世の人が振り返ると、その意味は生まれつきのものに見えてくる。マラドーナが跳び上がって手を出したその瞬間、心にあったのはマルビナスであり、復讐だったかのように。だが、あの手はおそらく、ピッチで隙を突いた行為、勝つための一計にすぎなかった。大きな意味は年月が追加したもので、生まれたときから備わっていたのではない。
だからといって、その意味が偽物だというのではない。戦争は現実だった。死傷者も、両国のわだかまりも、この試合をただの試合以上に重く受け止める感情も、現実だった。あとから意味を認めることは、捏造と同じではない。確かにあった歴史を受け止めている。それでも、あとからの意味づけは、やはりあとからのものだ。マラドーナ自身も含め、後年の人々が時のこちら側からあの瞬間を振り返り、与えた意味である。それを、あの日の手がすでに背負っていた使命だと言い換えれば、とっさの抜け目ない行為を、計画された復讐へと事後に格上げすることになる。前者は実際に彼がしたこと。後者は、あのときそうしていたかったと、のちに彼が願ったことだ。
ここは、とりわけ気をつけなければならない。真実は、復讐を消し去る側にもない。戦争も感情も現実で、その背景は消せないからだ。反対に、復讐を当日の動かぬ宣言として扱う側にもない。最も誠実に書くなら、当時の状況は状況として、あとからの意味づけは意味づけとして、両方を並べておく。もっと語りやすい一つの話に溶かし合わせないことだ。
一つの語りやすい話にすること。それが最大の誘惑であり、最も深い歪みでもある。一人の選手がピッチ上で、片手と両足を使ってイングランド戦に勝った。これがそのときの状況だ。その勝利を、戦争に敗れた民族がサッカーを通じて尊厳を取り戻す寓話へと昇華させる。これがあとからの意味づけだ。前者は具体的で、こまごまとしていて、抜け目なさや運が入り込んでいる。後者は壮大で悲壮感があり、歴史の重みを帯びている。あとからの意味づけは、まるごと虚構なのではない。本物の戦争と本物の感情を受け止めている。ただ、それが当日の発言を装った瞬間、隙を突いた一瞬の行為と、熟慮の末の宣言が、一緒くたになってしまう。
七 一人のワールドカップと十一人のチーム
マラドーナはあまりにまぶしかった。この大会がしばしば、彼一人のワールドカップと語られるほどに。便利な言い回しだが、事実ではない。
事実として、彼はこの大会で五得点、五アシストを記録し、チームの全十四得点のうち十得点に直接関わった。前人未到の数字だった。だが同じく事実として、決勝で先制したのはブラウン、追加点を挙げたのはバルダーノ、決勝点を決めたのはブルチャガである。ベスト16のウルグアイ戦で唯一のゴールを決めたのはパスクッリで、イングランド戦の終了間際にゴールライン際でクリアしたのはオラルティコエチェアだった。このチームには、はっきりした骨組みがある。先発十一人には、それぞれの持ち場があった。マラドーナと、ぼんやりした十人の影ではない。
その骨組みは、一人ずつ名前を挙げられる。決勝の先発には、プンピード、ブラウン、クシューフォ、ルジェリ、バティスタ、ジュスティ、オラルティコエチェア、ブルチャガ、エンリケ、マラドーナ、バルダーノがいた。彼以外の選手は背景の書き割りではない。現実にこのチームの十一分の十を占めていた。一人の背後に広がる影へとぼかしてしまったのは、マラドーナのせいではない。語りが手間を省いた結果だ。
さらに大切なのは、マラドーナが存分に力を発揮できる枠組みを、ビラルド監督が組み上げていたことだ。最終ラインは三人。サイドと中盤が広い範囲をカバーし、守備の負担を引き受ける。前方ではマラドーナに、つなぎ、運び、最後のパスを出す役割を託した。チームメートの中には後年、ビラルドのあの設計図が、マラドーナの最高の力を引き出したのだと、はっきり語った者もいる。
この言葉には、見落とされやすい意味がある。天才は、自由にすればするほどいいわけではない。天才を収めるのに、ちょうどよい構造が必要なのだ。マラドーナにばらばらのチームを渡せば、いかに並外れた力があっても、後ろへ下がって守備を補い、ボールを受け、本来する必要のない仕事までしなければならない。それでは、かえって切れ味が鈍る。ビラルドの設計図は、それらを彼から引き受け、最も決定的なプレーだけに、全エネルギーを注げるようにした。構造は天才と対立するものではない。よい構造は天才の増幅器だ。天才には、自分を受け止められる構造がいる。背後の骨組みがなければ、どれほどの天才も一人では支えきれない。
「一人のワールドカップ」という言葉の問題は、マラドーナを大げさに褒めたことではない。彼には、それだけの称賛に値するものがある。問題は、ほかの人を消してしまうことだ。十一人のチームと、監督が丹念に組み立てた構造を、一人の独舞に押し縮めてしまう。大勢で成し遂げたことを一人の天才の手柄にしてしまいたい衝動と、これは同じである。天才は本物だ。だが天才は、真空の中で一人光っているわけではない。他人が築いた骨組みの上に立ち、脇役を引き受けた人々に支えられている。
このことは、前に登場したいくつものチームが、別々の形で見せてくれた。最も自由だったあのオランダにも、ただ一人の核は欠かせなかった。最もまぶしいマラドーナにも、背後の無言の骨組みは欠かせない。天才と構造は、どちらかがどちらかに取って代わるものではなく、互いを成り立たせるものだ。だが語りは天才を好み、構造には冷たい。一つのきらめく名前は、それぞれの役を果たす十一人の名前より、ずっと書きやすく、覚えやすいからである。歴史のスポットライトはいつも一人に当たり、その人を支えた者は光の外に置かれる。語りが一人の男にすべてを背負わせたがるのは、その話がいちばん簡単だからだ。けれど、いちばん簡単な話は、しばしばいちばん多くの人を取りこぼしている。
八 開催を引き受けたスタジアムと八か月前の地震
これらすべてが起きたのは、危機の中で開催を引き受けた国だった。
1986年のワールドカップは、もともとメキシコで開かれる予定ではなかった。開催国はコロンビアに決まっていたが、FIFAが求めたインフラ整備と財政保証の条件を満たせず、1982年秋に正式に返上した。その後、1983年にメキシコが引き受け、ワールドカップを二度開催する史上初の国となった。
ところが開幕のおよそ八か月前、1985年9月19日、メキシコシティを大地震が襲った。犠牲者数は長く論争の的であり、断定的な数字を一つ挙げるのは適切ではない。少なくとも数千人が亡くなり、一万人近く、あるいはそれ以上と記されることも多い大災害だった。正確な総数には、いまだ決着がついていない。震災後、開催地を変えるべきかは、実際に真剣に議論された。FIFAは一時、西ドイツへ移す可能性にも言及した。最終的に、首都の主要スタジアムは検査で致命的な構造上の問題がないとされ、大会はメキシコにとどまった。
開催地変更が当時、本当に検討されたことは記しておきたい。後世の想像ではない。地震の直後、FIFAはこの件のための協議を設け、西ドイツへ大会を移す可能性を挙げていた。地震の衝撃はそれほど大きかったのだ。準備の進んでいたワールドカップが、国を変えて開くことを真剣に考えるほどに。結局、移転しなかった。一つにはスタジアムが検査を通ったからだが、おそらくもう一つには、ワールドカップというものの慣性があまりに大きく、いったん動き出したら止めにくかったからでもある。
ここでは、並んで進んでいたもう一つの現実を落としてはならない。ワールドカップの抽選会が予定どおり行われたそのとき、会場の外では抗議する人々が、震災で家を失った多くの人が、まだ十分な住まいを確保できていないと訴えていた。四年に一度の祭典はいつもどおり準備される。一方で復興は、完成にはほど遠い。この二つは1985年末のメキシコシティに、同時に存在していた。ワールドカップが真空で行われたことはない。固有の傷や困難を抱えた現実の上で、いつもボールは蹴られる。八か月前の瓦礫が片づかなくても、試合は始まった。ここに誰かの落ち度があるわけではない。ただ、どれほどサッカーが大きくても、それは暮らしの上に重なる一層にすぎず、その下の層には、それ自身の重さがあるということだ。
この層はのちに、大会の栄光に隠れがちになった。人々はマラドーナを覚えている。あの四分間を覚え、アルゼンチンの優勝を覚えている。だが、それが八か月前に大地震に襲われたばかりの街で起きたことは、めったに思い出されない。栄光には、それを受け止める土地の傷を、まぶしさで見えなくしてしまう力がある。傷はずっとそこにある。スタジアムの歓声は傷を覆ったが、埋めたわけではない。この大会に水を差したいのではない。どれほど輝かしい四分間の下にも、サッカーとは関わりのない、ずっしりとした現実が敷かれていたことを、覚えておきたいのだ。
九 決勝を揺さぶった七分間
優勝までの道は、平坦ではなかった。
1986年6月29日、アステカ。決勝、アルゼンチン対西ドイツ。23分、ブルチャガのフリーキックにブラウンが頭を合わせて先制する。56分にはバルダーノが追加点を奪い、2対0。勝負は決まったかに見えた。ところが西ドイツは七分間で二点を返した。74分にルンメニゲ、81分にフェラー。2対2になった。
あの七分間は、あらゆる段取りを嘲笑した。ワールドカップ決勝での二点差は、もう半分はトロフィーに手がかかっているようなものだ。西ドイツはわずか七分で、その手をはねのけた。二本のコーナーキック。老練な西ドイツは好機をつかんで二点を返し、結末の書かれたはずの決勝を、再び先の見えないところへ押し戻した。安全を保証してくれるリードなどない。書き換えられない筋書きもない。ピッチはいつだって、いちばん気の緩んだ場所に、肝を冷やす瞬間を残している。
そして84分。マテウスに厳しくマークされていたマラドーナが、それでも決定的なスルーパスを通す。受けたブルチャガが抜け出し、決勝点を奪った。3対2。アルゼンチンは二度目のワールドカップを掲げた。
この結末も、あの古くからの話を繰り返している。構がどれほど周到に用意しても、一試合のうねりを囲い込むことはできない。2対0で安泰と思えば、七分間で2対2になる。2対2で延長かと思えば、三分後には3対2になる。決勝の行く末を、誰かがあらかじめ決めることはできない。試合は自分で曲がり、肝を冷やさせ、最後の瞬間に、誰かの一本のスルーパス、誰かの一度の飛び出しに身を委ねる。今回の曲がり角でも軸になったのは、あの手の持ち主だった。ただし今度は、潔白な足を使った。同じ両足が、あの四分間には「世紀のゴール」を生み、決勝には勝利を決めるパスを送った。それは、手でゴールを盗みもした男の足だった。
あの四分間という比喩が、ここまで完全な形で響き返したことは、ほかにないのかもしれない。両足も、両手も、天才も、あの抜け目なさも、ずっと同じ男の中にあった。アステカの準々決勝から、アステカの決勝まで。切り離して、こちらの半分は英雄、あちらの半分はいかさま師、とすることはできない。一人の人間なのだ。そして、その切り離せない男が、アルゼンチンを頂点へ導いた。
十 結び
ここまでのことを、一つに結び合わせよう。
1986年のメキシコは、ほとんど単純化しようのない一人の男を、全世界の前に置いた。四分間、両の手、ひとつのゴール。半分はサッカーが最も仲裁を必要とする争いであり、半分は最も仲裁を必要としない完璧さだった。その両方が、マラドーナ一人に宿った。構はすっきりした判決を与えたくても、与えられない。いかさま師だと言えば、あの異論の余地なきゴールが承知しない。英雄だと言えば、言い逃れようのない手が承知しない。
あの四分間が不朽なのは、まさに単純化を拒むからだ。あまりに多くの伝説は、語りによって滑らかに磨かれてから広まる。角を落とされ、矛盾を消され、わかりやすい英雄か悪人だけが残る。だが、この四分間は磨ききれない。あの手とあの独走は、がっちりはまり込んだ二つの角のようで、どちらも引き抜けない。どの世代が語り直しても、不正と天才という二つの言葉を、一緒に口にしなければならない。一方だけを残すことは許されない。磨きならされることを拒む物語だけが、その重みを丸ごと保てる。彼は二つの面のまま置いておくしかない。すべての本物の人や出来事と同じく、片面ではもう片面を消せない。
この二面性は、マラドーナだけの例外ではない。普遍的なものを、彼が極限まで押し進めたのである。誰にでも割り切れないところはある。人前に出せない面と、誇れる面がある。ただ、多くの人では両方の色が薄く、善人とか悪人とかいう大ざっぱな言葉でごまかせてしまう。マラドーナは両方の色を最大限に濃くした。どんな大ざっぱな言葉でも包めないほどに。ひときわ明るく磨かれた鏡のような人だった。映し出したのは、実は人間に共通する真実である。人間はもともと、一語で言い尽くせるものではない。
四分間はまた、構の古くからの境界を、いくつか描き直した。見えても届かないという境界。1966年の「よく見えない」は、1986年には「見えても役に立たない」へと進んだ。真実は何億もの人の目の前にありながら、当の二人の目の隙間でつかえ、場内へ入れなかった。終局は変えられないという境界。それによって、世界中が見たあの手は、記録に動かぬものとして残った。そして、語りの境界。語りはいつものように事後も忙しく働いた。気の利いた言葉を拾い、率直な言葉を捨てる。あとから認められた復讐の意味を、そっと当日へ運び込む。十一人のチームを、一人の独舞として書く。構にこの男を裁くことはできない。それでも語りには、何度でもその顔を作り直す手が、いくらでもある。
2017年には、マラドーナ自身がビデオ・アシスタント・レフェリーへの支持を表明した。あの時代にこれがあれば、自分の「神の手」はそもそもゴールとして認められなかった、と認めたのである。1986年の判決を覆したのではない。かつて持たなかった目を、構がようやくあとから手に入れたのだ。
その目は遅すぎた。三十年遅かった。1986年の手を照らすことはできない。あの手は、とっくに記録と伝説の中に固まり、もう誰にも動かせなくなっていた。目が照らせるのは、これからの試合だけだ。構はそうやって先へ進む。新しい力が生まれるたび、かつての一つの悔いが、それを生み出すまで追い立てている。だが、その力を生ませた悔い自体は、新しい力の恩恵を永久に受けられない。技術は論争を追う。けれど、いつも一歩遅い。誤りが固まってから、もっと早く開いているべきだった目を補う。それでも、そんな目を手に入れたところで、わかるのはその手が一線を越えたかどうかだけだ。一人の人間を見通せるわけではない。不正と天才を四分間に凝縮した男を、どちらか一面に裁くことは、相変わらずできない。技術は一つの手には追いつける。まるごとの一人には追いつけない。
この一文は、ほとんど大会全体への注釈になる。人々はますます精密な技術を発明し、ピッチの論争をすべて裁ききろうとする。ゴールラインを越えたのか。オフサイドは何センチか。ハンドは意図的だったのか。技術は確かにどんどん強力になり、一つの手が一線を越えたかどうかは、もはや隠し通せない。だが、どんなに優れた技術も、相手にするのは孤立した一瞬一瞬だ。一回のタッチ、一回の反則。瞬間は裁けても、一人の人生は裁けない。あの手は反則だったと教えてくれても、手で不正を働きながら「世紀のゴール」も決めた男を、結局どう記憶すべきなのかは、決して教えてくれない。人間は瞬間より大きい。はるかに大きい。
二十一歳でワールドカップの舞台に立ち、のちに高く祭り上げられたあの二つの名前。それぞれの持ち場を持った十一人。骨組みを築いた監督。危機に際して大会を引き受けたスタジアム。そして八か月前から片づかずにいた瓦礫。それらはみな、この優勝の下で、それぞれに生きていた。最もまぶしい男に、完全に覆い隠されたものは一つもなかった。そして最もまぶしい男自身も、すっきりした一つの説明に、丸ごと収められたことはなかった。
人々はいくつもの言い方を試してきた。史上最高の選手だと言う人がいる。手で不正を働いたいかさま師だと言う人がいる。貧しい人々の英雄だと言う人も、もてはやされて身を持ち崩した放蕩息子だと言う人もいる。どの言葉も彼の一部をつかみ、どの言葉も彼のすべてを収められない。あまりに満ちていて、どんな器にも入りきらず、いつも半分があふれ出す。あの四分間は、彼の一生の縮図だった。半分は光、半分は影。どちらかを取り出そうとすると、もう半分もついてきて、振りほどけない。半分は手、半分は足。裁ききれないから、消しきることもできない。四分間に起きたことは、四分間が過ぎても、幾度となく繰り返される。人が替わり、試合が替わり、争いの形が替わっても、裁けず、消せないあの板挟みは残る。循環は止まっていない。今も回り続けている。