Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 世界サッカーシリーズ — 第09篇、全22篇

ミュンヘン

もっとも自由にプレーしたあのチームと、勝ち取れなかったあの優勝

(起点:1974年西ドイツ・ワールドカップ)

Han Qin (秦汉) · 2026年

一 ミュンヘンへの二つの道

1974年のワールドカップ決勝は、ミュンヘンで、西ドイツ対オランダの一戦だった。後世の人々がこの大会を語るとき、思い出すのはほとんど決勝で敗れたあのチームのことばかりだ。

オランダは無敗のまま決勝まで勝ち進んだ。グループステージではウルグアイに2-0、スウェーデンと0-0、ブルガリアに4-1。第2ラウンドでは3連勝、アルゼンチンに4-0、東ドイツに2-0、ブラジルに2-0。6試合を終えて、決勝までに失点はわずか1点だった。彼らがピッチで見せていたのは、それまで誰も見たことのないサッカーであり、世界はたちまちそれに恋をした。

それは並みの強豪ではなかった。そのプレーぶり自体が、一つの宣言のようなものだった。選手たちのポジションは絶えず入れ替わり、プレッシングは四方から押し寄せ、チーム全体が一つの生き物のように、ピッチの上で呼吸し、脈打っていた。各自が持ち場を守り、決まった手順でプレーするサッカーを見慣れた者が、初めてこの戦い方を目にすれば、視界がこじ開けられるような衝撃を覚えたはずだ。それは勝ち、しかも美しく勝ち、新鮮に勝ち、サッカーとはこうもあり得るのかと人に思わせる勝ち方だった。

西ドイツが歩んだのは別の道だった。開幕戦はチリに1-0、オーストラリアに3-0で勝ち、続くハンブルクでの一戦では東ドイツに0-1で敗れた。第2ラウンドではユーゴスラビアに2-0、スウェーデンに4-2、ポーランドに1-0。ポーランド戦では76分にミュラーが決勝点を挙げ、ようやく決勝進出を果たした。

後に物語を語る者たちが、しばしば混同してしまう事柄が二つある。一つは、スコアの勢いという点では、決勝に進んだオランダのほうが明らかに上回っていたということ。もう一つは、西ドイツは決してまぐれで決勝に滑り込んだ攪乱者ではなかったということだ。彼らは1972年の欧州王者であり、ベッケンバウアー、ミュラー、マイヤーというその顔ぶれは、代表チームの背骨であると同時に、当時台頭しつつあったバイエルンという偉大なクラブの土台でもあった。二つの道、二つのサッカーが、ミュンヘンでぶつかり合った。そして、世界中に記憶され、サッカーを書き換えたあのチームが、敗れた。

これが1974年という大会がまず突きつけてくる奇妙な事実である。一つのワールドカップで、優勝したのは一方のチームなのに、記憶されているのはもう一方だ。優勝杯を手にした西ドイツは、後の語り草の中では、かえってあの美しいチームの背景へと退いてしまった。記録によって確定された王者と、人の心によって追認された勝者が、まったく別の二つのチームに分かれて宿ってしまったのだ。そして、その敗れたチームが何をピッチで演じていたのか——それこそが、この一切を理解するための出発点である。

ミュンヘンへの二つの道は、実のところ、二つのサッカー観が同じ地点へと収斂したものでもあった。オランダが体現していたのは、理想へ向かってひたすら駆け抜けるサッカーであり、美と自由についてのある構想を、ピッチの上で極限まで実現しようとするものだった。西ドイツが体現していたのは、地に足のついたサッカーであり、求めるのは目の覚めるような輝きではなく、あらゆる局面をしっかりと固め、勝つべきところで勝ち切ることだった。この二つのサッカーそのものに優劣はなく、ただサッカーというものに対して抱く期待が異なっていただけだ。そして決勝戦とは、この二つの期待が正面からぶつかり合う場だった。

歴史がもっとも好んで仕掛ける冗談とは、見るからに勝つべき側に見える者を、負けさせることである。理想の高さでも、プレーの華やかさでも、世界を魅了した度合いでも、オランダはいずれの尺度でも上回っていた。しかし、最終的な結果という一点においては、勝ったのは西ドイツだった。この落差こそが、これから語るすべての物語の源である。美に属するはずだった勝利は、最後には実利のものとなり、そして美は、別のやり方で、人々の記憶の中に、失ったものを取り戻すことになる。

二 ポジションを取り払ったあの戦い方

オランダが見せたあのサッカーには、後に一つの高らかな名がつけられた。トータルフットボールである。

その最も確かないくつかの仕組みは、誰もが一致して認めるところだ。ピッチ上に固定されたポジションはなく、攻撃であれ守備であれ同じこと。選手は絶え間なくポジションを入れ替える。プレッシングは徹底して激しい。すべてはスペースの創出とその支配を軸に組み立てられている。監督リヌス・ミケルスが好んだ基本布陣は、一般に4-3-3とされるが、本当に重要なのはその番号ではなく、この構造が流動的であって、硬直したものではないという点にある。

「流動的」という言葉は抽象的に聞こえるが、ピッチに落とし込めば、きわめて具体的なものになる。サイドバックが一気に押し上がって攻撃の先鋒になることもあれば、フォワードが中盤まで、時にはさらに後方まで下がって組み立てに加わることもある。ミッドフィルダーがサイドを埋めることもあれば、前線まで上がることもある。ポジションはもはや一人の人間に貼られた身分の札ではなく、誰もがいつでも代わりに入り込める、一つ一つの空所と化した。誰がその空所に近ければ、その者が埋めに行き、埋め終えればまた入れ替わる。チーム全体は、それぞれの役割を持つ11個の部品ではなく、絶えず組み替えを続ける一つの力のかたまりだった。

だが、そのように誰と誰の区別もつかないような一つの力のかたまりであってすら、避けて通れない核が存在した。ポジションは入れ替え可能でも、クライフという人間だけは入れ替えがきかなかった。ここには微妙な点がある。誰もが代替可能だと謳うこの戦い方は、いざ動き出すと、一人の代替不可能な人間に高度に依存していたのだ。位置を入れ替えるのは他の者たちであり、その周りを回っているのは彼だった。これは矛盾ではない。ただそれが示しているのは、全体性と流動性をどれほど強調しようとも、全体を生き生きと動かすあの閃きは、結局のところ、ある特定の一人の人間の上に落ち着かざるを得ず、溶かして消すことも、平等に分け与えることもできないということだ。

この戦い方の魂は、クライフだった。彼は名目上センターフォワードだったが、実際にはピッチ中を遊弋し、下がってきては局所的な数的優位をつくり出し、相手の守備ラインを引き伸ばして歪めた。その間、味方が入れ替わり立ち替わり、彼が空けたポジションを埋めていった。後の統計によれば、クライフは1974年に36回のチャンスを創出しており、これはあるデータベースにおいて単一大会でのチャンス創出数として最多を記録する数字だという。この大会では、永遠に記憶される一つの動きも生まれた。グループステージのスウェーデン戦で、クライフはフェイントでスウェーデンの守備選手の重心を崩し、その身のこなしは後に「クライフターン」と呼ばれるようになった。ただし正確に言えば、似たような引き技はそれ以前にも誰かがやっていた。1974年が本当にやってのけたのは、その動きを一つのシンボルへと変え、永遠に彼の名を刻みつけたことだった。

クライフはこの体系の頭脳であり、同時にその発動機でもあった。彼のいる場所に、常に危険があった。彼が下がってくれば、相手のセンターバックは板挟みになる。ついていって守備ラインを崩すか、放っておいて彼に悠々と組み立てさせるか。彼の遊弋は、相手に絶えずこの二つの悪い選択肢のあいだで決断を強いた。36回というこの数字は、彼個人の能力の証明というより、この戦い方全体が彼を中心に回っていたことの証明というべきだろう。彼はどこかのポジションに立つ一選手ではなく、この流動の哲学を動かし続けるための軸そのものだった。

「クライフターン」と呼ばれるようになったあの動きもまた、この哲学の縮図だった。その神髄は、派手さにあるのではなく、不意を突く方向転換によって一瞬で相手を置き去りにし、自分のためにスペースを切り開くことにある。スペースを支配するというこの営みが、この動きの中では、わずか一秒ほどの瞬間に凝縮されている。それが世界中に記憶され続けているのは、単に美しいからだけではなく、あの戦い方が最も核心に置いていた追求——スペース、自由、意表を突くこと——を、まさに生き生きと演じてみせたからだ。

もちろん、トータルフットボールはクライフ一人の独り舞台ではなかった。中盤を休みなく往復し続けたネーケンスは、この戦い方を走り切らせるエンジンであり、サイドを切り裂くレンセンブリンク、攻守の切り替えを担ったクロルやハーンといった面々もまた、この機械に欠かせない部品だった。体系のために走ることをいとわない、この一群の選手たちがいなければ、クライフの遊弋もそもそも成り立たなかった。この戦い方の魅力は、まさに一人の天才と、脇役に徹する一群の名手を同時に必要とする点にあり、そのどちらが欠けても回らなくなる。

この戦い方が指し示していたのは、一つの魅惑的な理想だった。固定されたポジションを取り払い、誰もがどこにでも現れられるようにし、サッカーを徹底した流動そのものへと変えることである。

三 自由とは、より重い束縛である

人はともすればトータルフットボールを、サッカーが構造から抜け出したものと見なしてしまう。固定されたポジションがなくなり、誰もが自由になった、と。

しかし、ここには気づかれにくい一つの転倒がある。固定されたポジションを取り払うことは、束縛を取り払うことにはならず、むしろそれを頂点にまで押し上げてしまう。誰もが固定されたポジションを持たないという状態を成り立たせる前提は、誰もがどのポジションでもプレーできるということだ。ピッチ全体の空間を読めなければならず、誰かが空けた場所をいつでも埋められなければならず、疲れを知らずに走り続けなければならない。いわゆる自由とは、極めて重い代償と引き換えに得られたものだった——超人的な体力、超人的な理解力、超人的な規律である。

この点は、ピッチの上ではきわめて素朴な形で表れる。持ち場を守るサッカーが一人の選手に課す要求には限りがある。自分の一坪の土地さえ守っていればよく、走る範囲も、目を配るべき空間も、境界のあるものだ。しかし、いったん固定されたポジションを廃止すれば、一人ひとりが責任を負うべき範囲は、理論上、ピッチ全体になる。彼はいつでも必要とされる場所に現れられるよう構えていなければならず、それはつまり、ほとんど一瞬たりとも止まっていられないということだ。この戦い方を極限まで突き詰めれば、体力と集中力への消耗は、通常のサッカーの何倍にも達する。

束縛は消えたわけではない。ただ居場所を移しただけだ。もとの「持ち場を守れ」という一句から、今の「どのポジションでも埋められなければならない」という一句へと。この二つの要求のうち、どちらが軽いか。明らかに前者である。もっとも自由に見えるサッカーこそが、もっとも過酷な要求を課すサッカーなのだ。それは構造がないのではなく、構造を、並みのチームではとうてい担いきれない高さにまで引き上げたにすぎない。

これこそ、鑿構周期律の中でもっとも硬い道理が、サッカーの上に現れた姿である。束縛は消し去ることのできないものであり、取り除いたと思っても、実はそれをある場所から別の場所へ追いやったにすぎない。徹底して自由な戦い方によって構造の限界から逃れようとしても、結局のところ、その戦い方自体が、より過酷な一つの構造となる。

これはトータルフットボール一つだけの運命ではなく、限界から逃れようとするあらゆる試みに共通する宿命である。限界とは、押しつぶせば別の場所から膨れ上がってくる、そういう類のものだ。ここでそれを押し平らにすれば、あそこで頭をもたげる。ポジションの限界を取り消せば、待っているのは体力と理解力の限界であり、立ち位置についての要求を緩めれば、締め付けられるのは一人ひとりの全面的な能力への要求である。総量は変わらない。ただ、ある形から別の形へと移り変わるだけだ。真に徹底した自由は、サッカーのピッチには存在しない。それがほかのどこにも存在しないのと同じように。

この一段を理解した上で改めてトータルフットボールを見れば、目が一段と冷めるはずだ。それは確かに美しく、確かに新しく、確かにサッカーをかつてない場所へと連れて行った。しかし、それがもたらしたのは、自由が構造に勝利したことではなく、構造そのものの世代交代だった。旧い構造は硬直しており、杓子定規で、理解しやすいものだった。新しい構造は流動的で、柔軟で、捉えどころがない。しかし突き詰めれば、両者はどちらも構造であり、どちらも選手に対するある種の制約と要求である。トータルフットボールが入れ替えたのは構造の様式であって、構造そのものではない。それが構造を取り消したと思い込む者は、その華麗な外見に欺かれているのだ。

これはまた、なぜ真にトータルフットボールを実践しきれたチームがごくわずかしかないのかも説明してくれる。選手への要求があまりにも高く、技術と知性の双方で傑出した選手たちが同時代に一斉に現れた、あの世代のオランダ人たちによって、かろうじて支えられるほどのものだったのだ。選手が代われば、時代が代われば、この戦い方はたちまち、その要求に耐えきれずに崩れ去るだろう。旧い束縛から逃れようとすればするほど、その戦い方を実践する者への要求は、往々にしてより過酷になる。自由は決して無料ではない。その請求書は、選手一人ひとりの両脚と頭脳に記されている。

だから、トータルフットボールはサッカーが枷から抜け出したものだと言うよりも、サッカーが自分自身に、より精巧で、しかしより重い枷をはめ直したものだと言うほうが正しい。この新しい枷は見た目こそずっと美しく、選手を何にも縛られず、どこへでも自由に現れられる存在のように見せる。しかし、その自由の代償は、もはや固定されたポジションの陰に隠れて手を抜くことができないということであり、常にピッチ全体を肩に担ぎ続けなければならないということだ。もっとも洒脱に見える戦い方が、実は裏側でもっとも疲れる戦い方なのである。これこそ、あの法則の逆説的なところだ。束縛を自由という上着の下に隠し、あまりにうまく隠したせいで、人々には自由しか見えず、束縛は見えないのである。

サッカーがそうであるように、ピッチの外の多くの物事もまた、そうでないことがあろうか。誰かが、あらゆる人を徹底して自由にできる仕組みを見つけたと言い出したときは、少し用心したほうがいい。なぜなら、あの法則に従えば、約束された自由が徹底していればいるほど、そこに密かに上乗せされる束縛は、往々にしてより重くなるからだ。ただし、その束縛は、気づかれにくい場所へと巧みに移されているだけである。トータルフットボールがピッチの上で演じたのは、まさにそうした一つの寓話だった。

四 それもまた、天から降ってきたものではない

トータルフットボールは、1974年に天から降ってきたものではない。

それをミケルスがたった一人でアムステルダムで無から発明したものだと語るのは、あまりにも単純すぎる。それには一本の長い血脈がある。さかのぼれば、イングランド人のジミー・ホーガンがおり、オーストリアのあの奇跡のチームがおり、1950年代のハンガリー「黄金チーム」がおり、アヤックスの往年の監督ジャック・レイノルズがいる。

これらの名を連ねてみれば、それは数十年にわたり、いくつもの国境を越える一本の見えない糸である。ホーガンはパスと動き出しを重んじるサッカーの理念を欧州大陸に持ち込んだ。オーストリアの、あの1930年代の奇跡のチームは、それを行雲流水のようなスタイルへと昇華させた。ハンガリー「黄金チーム」は五十年代に、さらにそれを世界中が目を見張る高みへと押し上げた。この糸は途切れたことがない。ただ、異なる時代、異なる場所で、異なる顔つきをして頭をもたげてきただけだ。オランダのトータルフットボールは、この糸のもっとも新しく、もっとも眩い一度の顕現であって、その源そのものではない。

ハンガリー「黄金チーム」というこの糸は、1974年と、その二十年前の大会とを、密かに結びつけている。1954年、まさにあの世界中から期待された、この上なく華麗にプレーするハンガリーが、決勝でより実利的な西ドイツに敗れた。二十年後、ほとんどそっくりそのままの筋書きが、もう一度演じられた。ただ、その美しき大本命がハンガリーからオランダへと変わっただけで、しかもそのサッカーの血脈には、まさにかつてのハンガリーの遺伝子が流れていた。美しい側が、実利的な西ドイツによって足止めされる——このことを、西ドイツ人は二十年のあいだに二度もやってのけたのである。

この血脈をたどるのは、誰かから功績を奪い取るためではなく、ある根深い錯覚を打ち破るためだ。すなわち、偉大なものは常にある天才がひとりで無から創り出す、という錯覚である。事実はほとんどの場合、そうではない。一見、何もないところから忽然と現れたように見えるどんな新しいものも、根元を掘り起こしてみれば、必ず先人たちの長い影を掘り当てることになる。それらは先人の肩の上に立って育ったものであり、石から飛び出してきたものではない。トータルフットボールの功績をすべて誰か一人の頭に記すのは、確かに語るには単純で楽だが、それはより真実で、より人の心を打つあの継承——幾世代もの人々が、異なる場所で、同じ一つの発想を、少しずつ前へ押し進めていったという継承——を消し去ってしまう。

ヒデグクティが1953年にやってのけたあの引いたセンターフォワードと、クライフが1974年にやってのけたあの遊撃するセンターフォワードとのあいだには、二十数年の隔たりがあり、二つの国の隔たりがある。しかし、固定されたポジションから抜け出し、流動によって相手をかき乱そうとするあの意気込みは、一脈相通じるものだ。この角度から見れば、オランダのトータルフットボールは、一度の発明というより、数十年をかけて力を蓄えた末に、あの夏、ついに誰の目にも見える奔流となって噴き出した一筋の潜流だったと言うべきだろう。ハンガリーのこの糸は、とりわけ具体的である。1953年のイングランド対ハンガリー戦で、ヒデグクティは引いたセンターフォワードというこの役割を演じてみせた。彼はセンターフォワードのラインから下がり、他の者たちを自分より前に押し上げさせ、より深い領域へ入り込む動きによって、通常型のセンターフォワードを想定した相手の硬直した守備をかき乱した。それは1974年のあの完全な体系ではなかったが、後にミケルスとクライフに結びつくことになるあのポジション流動の論理の、文献に残る先触れだった。ハンガリー人自身がこう語ったことがある——ホーガンは我々が知るすべてを教えてくれた、と。

だから、より手堅い言い方をするなら、ミケルスがサッカーの流動性を発明したのではなく、レイノルズ、ホーガン、オーストリア、ハンガリーへとさかのぼれる、あの長い血脈の上で、ミケルスはこの戦い方を体系化し、極限まで推し進め、それを世界中に広めた人物だった、ということになる。構には、そもそも清らかな出自などない。トータルフットボールもその例外ではない。それは無から生じた奇跡ではなく、一本の古い川が、オランダというこの区間で、新たな高みへと導かれたものなのだ。

「発明」というこの言葉をミケルスから取り除いたところで、彼の功績は少しも減らない。歴史のあちこちに散らばっていた理念を集大成し、極限まで推し進め、勝つことができ、後世に伝わる一つの完全な体系へと凝縮させたこと——これはすでに、途方もない創造である。ただし、その創造は無から物を生み出したのではなく、先人が整えた河床の上に、より大きな水を引き込んだものだった。それを忽然と現れた神話として語ることは、かえって、数十年にわたって連なる、本当に興味深いあの血脈を覆い隠してしまう。

五 先行、そして敗北

決勝は1974年7月7日、ミュンヘンで行われた。

その立ち上がりは、サッカー史上もっとも確かに記録された場面の一つである。オランダがキックオフした直後、次々とパスがつながれ、記録によれば16本目に至って、ようやく西ドイツの選手がボールに触れた。続いて、クライフがボールを持って西ドイツのペナルティエリアに切れ込み、ヘーネスに倒され、イングランド人の主審ジャック・テイラーがPKを宣告した。これはワールドカップ決勝史上、最初のPKだった。ネーケンスが一発でこれを沈め、この得点は開始からわずか88秒で決まったもので、今なお男子ワールドカップ決勝史上最速のゴールである。オランダがリードした。西ドイツはまだ、ろくにボールにも触れていなかった。

この立ち上がりは、まるでこのオランダというチームのために誂えられた比喩のようですらある。16本のパスがつながれ、相手がボールに触れられない——これは、スペースを支配するというあの哲学が、もっとも余すところなく示された瞬間だった。開始1分半とかからずリードを奪ったことは、まるで運命がこの美しいチームを手招きしているようであり、この優勝はお前たちのものだ、とでも言っているかのようだった。あの瞬間、世界中の誰もがおそらく、オランダが勝つ、それも自分たちのプレーにふさわしいやり方で勝つのだと感じていた。

あの立ち上がりのPKそのものにも、確かな重みがある。それはワールドカップ決勝史上最初のPKであり、この点は伝説などではなく、動かぬ記録である。スペースの支配を金科玉条とするチームが、決勝の立ち上がりから、相手にボールを触れさせない一連のパス回しによって相手を反則へと追い込み、そこからPKを得た——これはほとんど、あのサッカー哲学が、もっとも率直なやり方で世界に向けて開幕の弁を述べているようなものだった。あの瞬間のオランダは、自分たちがそうありたいと思う姿を、余すところなくピッチの上で演じきっていた。

しかし、物語はここで方向を変える。25分、西ドイツもまたPKを得た。テイラーの説明によれば、ヤンセンがヘルツェンバインに対して足をかける、あるいは足をかけようとする動きがあったという。テイラーは後年、このPKの判定は単に最初の得点との帳尻を合わせるためだったのではないかと問われるたびに、それを否定し続けた。ブライトナーがこれを確実に沈めた。そして43分、ミュラーが決勝点を挙げる。西ドイツ2-1。より実利を重んじ、より構造の安定したチーム——ベッケンバウアーが後方でリベロを務め、ミュラーが前線で仕留め役を担う——が、もっとも自由にプレーしたあのチームを打ち破ったのである。

あの二つ目のPKについては、後々まで論争が続いている。主審テイラーは死ぬまで自分の判定に誤りはなかったと言い張った一方、フォクツは何年も後の1997年になって、西ドイツに与えられたあのPKは誤審だったのではないかという、別の見方を口にしている。決着のつかないほかの古い係争と同じく、PKが与えられたことは確定した事実だが、それが正当だったかどうかは、永遠に決着のつかない論争になった。しかし、あのPKが与えられるべきだったかどうかにかかわらず、見過ごしてはならないことが一つある。西ドイツの勝利は不当なものではなかったということだ。彼らは一つの物議を醸す判定にまぐれで乗じて優勝をかすめ取ったのではない。彼らは自分自身の成熟した戦術を備えた、正真正銘の強豪であり、劣勢に立たされた状況から、試合を力ずくで引き戻したのである。

では、なぜオランダはあれほど夢のような立ち上がりから、坂を転げ落ちるように敗北へと向かったのか。後世の人々は数多くの説明を与えてきたが、そのどれ一つとして動かぬ証拠と呼べるものはない。ある者は、あの早すぎるリードがかえってオランダを緩ませ、相手をもてあそぶ気持ちを起こさせ、優位を広げることを忘れさせたのだと言う。またある者は、西ドイツのマークと修正が徐々に効き始めたのだと言う。これらの説はいずれもそれなりの理があるが、どれも事後のつぎはぎであって、その場で検証できた事実ではない。実際のあの試合は、無数の攻防、無数の選択、無数のめぐり合わせが撚り合わさった結果であり、それをただ一つの原因に帰することは、その原因がどれほどもっともらしく聞こえようとも、一種の事後的な単純化にすぎない。

確かなのは、ただ一つの素朴な事実だけだ。オランダはリードし、追いつかれ、逆転され、最後には敗れた。残りはすべて、それぞれの思惑に基づく解釈にすぎない。そして西ドイツの側は、正々堂々と勝ったのである。ワールドカップ決勝で、開始2分足らずでビハインドを背負うという逆境の中、体勢を立て直し、スコアを追いつき、さらに逆転する——これはすでに一つの見事な力量である。この力量は、トータルフットボールのように華やかではなく、伝説として語り継がれにくいものだが、それは紛れもなく実在するものであり、そして最終的にあの優勝杯の行方を決めたのは、まさにこの力だった。

ベッケンバウアーは西ドイツのこのチームの中で、いわく言いがたい役割を演じていた。彼が守備ラインの後方で務めていたのは、リベロと呼ばれるあのポジションであり、特定の相手を死守する必要はなく、状況に応じて動き回ることができ、後方でカバーすることも、後方から攻撃を仕掛けることもできる役どころだった。これもまた、固定されたポジションのある種の緩みだったと言える。言い換えれば、ピッチの上は片方がすべて流動的で、もう片方がすべて硬直的だったわけではない。西ドイツにもその柔軟性はあった。ただし、その柔軟性は、より安定した全体の上に築かれたものであり、チーム全体を流動の中に溶かし込んでしまうものではなかった。この二つのチームは、流動性と安定性を、異なる配分で調合していたのである。

オランダはどのようにしてリードを失ったのか。もっとも手堅い答えは、その一部しか戦術によるものではない、というものだ。直接確かめられるのは、あのリードが25分までしか持たず、前半が終わるまでに局面はすでに覆されており、西ドイツは先に1点を失った状態から勝利したという事実である。後の戦術的な振り返りは、フォクツがクライフに徹底したマンマークをつけたこと、そして西ドイツがベッケンバウアー、ヘーネス、オーフェラートを通じて試合をますます締め上げていったことを、繰り返し強調する。しかし、それは後世による解釈であって、その場で得られた統計的な実証ではない。これを後世の戦術分析として扱うなら問題ないが、その場で動かぬ証拠だったかのように扱うのは、行き過ぎというものだろう。

六 優勝を逃した側が、勝者として記憶される

あの優勝杯は、西ドイツが持ち去った。しかし、あの伝説は、オランダに残された。

1974年のこのオランダは、サッカー史上もっとも称賛される、優勝を逃したチームの類型となった。クライフは後に、こんな趣旨の言葉を残している——おそらく本当の勝者は自分たちなのだ、なぜなら世界がより鮮明に記憶しているのは、自分たちのチームのほうだから、と。しかし、この言葉は記憶についての一つの事実を語っているのであって、彼らが何らかの客観的な意味において本当により優れていた、ということを語っているのではない。

この二つのことは、しばしば混同されるが、その重みはまるで違う。記憶は公平ではない。見て心地よいサッカーをするチームは、たとえ敗れても、より記憶されやすく、より懐かしまれやすく、何度も引き合いに出されて語られやすい。一方、堅実にプレーし、勝利は収めてもさほど華やかでないチームは、かえってそうした懐旧の情に押しやられ、片隅に追いやられやすい。こうして、ある種のねじれが生じる。もっとも堅く記憶されている者が、必ずしも勝者とは限らず、もっとも広く語り継がれている者が、必ずしも頂点に立った者とは限らない。しかし、堅く記憶されていること、広く語り継がれていることは、結局のところ、勝ったこととは同じではない。

オランダがこれほど堅く記憶されているのは、一部には、まさに彼らが敗れたことに由来する。もし美しいチームが順当に優勝していたなら、その美しさは優勝という円満さに回収されてしまい、語るとすれば、しょせんまた一つの強者が頂点に立った物語にすぎなくなる。しかし、美しいチームが敗れたとき、その美しさには悲劇の色合いが加わり、求めて得られなかったという物寂しさが宿り、かえって人を惹きつけ、いつまでも忘れがたいものになる。オランダの不朽は、手に入れられなかったあの優勝と引き換えに得られたものだ。これは残酷に聞こえるが、それこそが記憶というものの実際の働き方であり、記憶は円満よりも、悔いを好むのである。

ここには一つの根本的な区別がある。記録は記録であり、人心は人心である。記録は冷たい。それが認めるのは、帳簿に記された2-1というスコアだけであり、世界チャンピオンという称号が西ドイツに渡ったという事実だけだ。人心は熱い。それは記録を迂回し、栄冠をひそかに、自分がより好む対象へと書き換えてしまう。この二つの判定基準には、それぞれの理があり、それぞれの死角がある。厄介なのは、人々がしばしば人心の偏愛を、記録の訂正であるかのように誤解してしまうことだ。オランダがより堅く記憶されているという事実が、あたかもオランダが本来優勝すべきだったことの証明であるかのように。しかし、記憶の偏愛は、ピッチの上で出た結果を変えることはできない。どれほど深い懐旧も、スコアボードに刻まれたあの一点の差を埋めることができないのと同じである。

とはいえ、オランダが敗れてなお、これほど長く懐かしまれ続けているというのも、また一つの見事なことである。それは、人々がサッカーを見るとき、見ているのは結果だけではない、ということを物語っている。あるチームがピッチで演じたもの——その気風、その想像力、サッカーというものへのその理解——は、時として一つの優勝杯よりも、人の心を打ち、時の淘汰にも耐えうるものである。優勝は西ドイツのものだ。これは間違いない。しかし、後の人々のサッカーへの想像力を本当に変えたのはどちらのチームかと問えば、その答えは、おそらくオランダに軍配が上がるだろう。この二つ——ピッチの上の勝敗と、歴史への影響——は、そもそも同じ一つのことである必要はないのだ。

こうして1974年は、一つの鮮やかな対照を残すことになった。二つのチームが、それぞれ一つずつのものを持ち帰った。西ドイツは、あの重々しく、白紙に黒字で記された優勝杯を持ち帰り、オランダは、優勝杯こそないが、優勝杯よりも長く残る伝説を持ち帰った。どちらがより重いか。この問いにはおそらく永遠に標準解が与えられないだろう。なぜなら、それはどんな物差しで測るかによって決まるからだ。ピッチの物差しで測れば、西ドイツが勝った。人心と歴史の物差しで測れば、オランダもまた勝った。二本の物差しから、二人の勝者が測り出される。そして、これこそが1974年のもっとも特別なところなのである。

ここで二つのことを分けて考える必要がある。「本来勝つべきだった」「もっとも強かった」というのはいずれも評価であり、「世界チャンピオン」こそが記録である。オランダが無敗のまま決勝まで勝ち進んだこと、アルゼンチンとブラジルを完膚なきまでに叩きのめしたこと、西ドイツがボールに触れる前にすでにリードを奪っていたこと——これらは確かに事実であり、いずれも「本来勝つべきだった」という見方を支持する。しかし同時に、西ドイツが前回大会の欧州王者であったこと、絶頂期にあったベッケンバウアーとミュラーを擁していたこと、そしてピッチの上で確かに2-1で勝ち切ったこともまた事実である。「最強」とは一つの判断であり、「世界チャンピオン」とは確定した一つの結果である。

そして、この中には、さらに深い一つの転倒が隠されている。オランダが不朽の存在となったのは、まさに彼らが敗れたからにほかならない。もし彼らが勝っていたなら、彼らはただもう一つの世界チャンピオンにすぎず、ほかの優勝チームと何ら変わりないものになっていただろう。まさにあの敗北こそが、彼らをあの永遠のロマンの象徴へと鋳造したのだ。世界中で語り継がれるあの美しさは、彼らが勝ち取れなかったあの決勝戦の上に築かれている。記録が奪い去ったものが、かえって神話を育てる養分となったのである。付け加えておくべきは、「美しき敗者」というこの評は、その場での賞賛そのものは本物だったとしても、この完全に定型化された言い回し自体は、多くの部分が後になって少しずつ構築されたものだ、ということだ。

このことを認めるのは、オランダのファンの興を削ぐためではなく、二つの真実を、それぞれあるべき位置に据え直すためである。このチームがどれほど美しくプレーしたか、世間がそれをどれほど深く愛したか——これは一つの真実であり、誰にも否定できない。しかし、西ドイツがあの日の午後、確かに勝ったこと——これももう一つの真実であり、同じく否定できない。前者の真実を、オランダが本来優勝すべきだったという話にまで膨らませれば、それはその境界を踏み越えることになるし、後者の真実を、西ドイツはただまぐれだったというところまで縮めてしまうのも、同じく不公平である。美しさはオランダのものであり、優勝は西ドイツのものだ。この二つは、もともと両立し得るものであって、どちらが本当の勝者かを、無理に争う必要などないのである。

七 この戦い方すら、後には一つの定型となった

トータルフットボールには、もう一つ、意味深長な結末がある。

その魂はもともと流動であり、あらゆる固定に対する反対だった。ところが後に、それ自体が一つの固定された、祭り上げられたものへと変わってしまった。名の通った一つの哲学、教科書に書き込まれた一つのラベル、一つの記念碑として。固定されたポジションを取り払ったあの戦い方が、自ら一つの固定された金字塔になってしまったのだ。構造を解体するあの否定が、最後には一つの新しい構造へと凝り固まった。

これはほとんど皮肉な味わいさえ帯びた結末である。固定を打ち破ることをすべての要諦とした戦い方の、最終的な運命は、自分自身が一つの新しい固定へと変わることだった。後の指導者たちがトータルフットボールを語るとき、それは仰ぎ見るべき、学ぶべき、再現すべき古典として語られる。それは一つの動詞——今まさに起きている、生きた否定——から、一つの名詞——そこに祭られた、死んだ金字塔——へと変わったのだ。それは旧い構造を否定しながら、自らは新しい構造として祭り上げられ、次の世代がまた否定しに来るのを待つ身となった。

こうして鑿構周期律は、トータルフットボールという存在の上で、一つの完全な周回を完成させた。それ自身は、それ以前のあらゆる固定的な布陣に対する一撃の鑿であり、一度の高らかな否定だった。しかし、この一撃の鑿が下された後、それは否定の状態にとどまることなく、急速に一つの新しい構へと凝固し、新しく祭り上げられた正統になった。そして一つの構は、それが誕生した当初どれほど異端であったとしても、いったん立ち上がってしまえば、次の一撃の鑿の対象となる運命を免れない。後のサッカーは、まさにトータルフットボールへの研究、模倣、そして超克を踏み台にして、前へと歩み続けてきたのである。

この点を見て取れば、サッカーの進化というものについて、また別種の感慨が湧いてくるだろう。それは、ある究極の完璧さへ向かって一直線に上っていく道ではなく、一巡また一巡と繰り返される鑿と構、否定とその再否定なのだ。どの世代も、自分たちこそ最良の戦い方を見つけたのだと思い込み、心血を注いでそれを一つの高峰へと築き上げる。そして次の世代がまずやることは、あらゆる手立てを尽くしてその高峰を鑿り開き、乗り越えて、その向こうにまた新しい高峰を築くことだ。トータルフットボールは、その中でもとりわけ眩い一つの高峰だが、それもほかの高峰と同じく、結局は乗り越えられるためのものであって、そこに永久に立ち止まっているためのものではない。

これはまた、なぜどんな戦い方であれ、それをサッカーの究極の形態として祭り上げることが、必ず空しい結末を迎えるのかという理由でもある。トータルフットボールは、その最も輝いていた時期、まるでサッカー進化の終着点であるかのように見えた。あたかも、それ以後のサッカーは、それが指し示した方向へ進んでいきさえすればよいかのように。しかし、歴史はそのようには進まなかった。それは吸収され、改造され、後に続く世代がそれぞれのやり方でさらに鑿り続けてきた。終着点は、一度として本当に訪れたことがない。なぜなら、そもそも終着点など存在しないからだ。

それだけではない。当時もっとも先進的だったこの戦い方でさえ、やはり狙い撃ちにされ、攻略され、決勝で敗れたのだ。後のサッカーは、トータルフットボールのところで立ち止まりはしなかった。それはこの戦い方を吸収し、研究し、封じ込め、そしてそれを乗り越えて前へ進んだ。究極の体系を作り出すことによって、この循環から逃れることはできない。その究極の体系は、たちまち次に乗り越えられるべき構になるのだ。

これこそ、鑿構周期律のもっとも純粋な一度の実演である。一撃の鑿——固定されたポジションに対するトータルフットボールのあの否定——が下された後、それは一つの構となり、後の世代がまた鑿り開き、また乗り越えなければならない一つの金字塔になった。もっとも固定から逃れたがっていたあの戦い方が、自ら固定されてしまったのだ。時代遅れにならないサッカーを演じ切れる者などいない。それは、二度と鑿られることのない構を鑿り出せる者などいないのと同じことである。

この点は、いつかは究極の戦法が現れると待ち望んでいる者たちにとっては、耳の痛い話だろう。しばらくおきに、サッカーのピッチには革命的だと祭り上げられる新しい戦い方が現れ、人々はそのたびに、これで勝利の究極の答えを見つけたと思い込む。しかしトータルフットボールの運命が示しているのは、究極の答えなど存在しないということだ。どれほど先進的な体系であっても、一度定型化すれば、相手に研究され攻略されるための的を提供することになるし、いったん古典として祭り上げられれば、後の世代の想像力を縛る枠組みになってしまう。今日の革命は、明日には革命される対象になる。これはサッカーの欠陥ではなく、サッカーが決して終わることなく、常に新しいものを見せ続けてくれる理由そのものなのだ。

八 結び

これらすべてを結びにまとめよう。

1974年、サッカーはそのもっとも野心的な試みの一つを実行に移した。トータルフットボールというこの戦い方によって、固定されたポジションの限界から逃れ、徹底した自由を演じきろうとしたのだ。これは一つの美しい夢だった。しかし、それは鑿構周期律のいくつかの壁にぶつかることになった。

第一の壁は、束縛を取り除こうとしても、束縛は消えず、ただ場所を変えて現れるということだ。徹底して自由なサッカーとは、もっとも過酷な要求を課すサッカーであり、自由のもう一つの顔は、一人ひとりの上にのしかかる、より重い負担である。第二の壁は、このもっとも進取的な戦い方であっても、やはり一つの決勝戦の扉を閉め切ることはできなかったということだ。それはリードを奪い、より美しくプレーし、世界中に愛されながら、それでも敗れた。もっとも先進的な体系であっても、しょせんはまた一つの、狙われ、乗り越えられていく構にすぎない。第三の壁は、流動をその魂としたこの戦い方が、最後には自ら一つの固定された金字塔へと硬直し、逆に後の世代が鑿り開くべき対象になってしまったということだ。

この三つの壁が、合わせて語っているのは同じ一つのことである。構造から逃れることはできない。それを新しい高みへ押し上げることはできるし、まったく新しい、魅惑的な相貌を見せることもできるし、それを使ってかつてない美を演じきることもできる。しかし、それを取り消すことはできず、その外側へ跳び出すこともできない。トータルフットボールは、この道理を極限まで演じきった。それが構造から逃れることにもっとも近づいた一度の試みだったからこそ、その失敗は、これ以上ないほど説得力を持つのである。それすらも逃れきれなかったのなら、もはや誰にも逃れられないということだ。

そして、これらすべての道理の下には、なお一群の具体的な人間が立っている。あのオランダというチームは、美という抽象的な象徴などではなく、名前を持ち、疲れを覚え、ミスを犯し、負けた後には悲しむ、十一人の生身の人間だった。世界中が彼らを永遠のロマンとして祭り上げたが、その厚い愛情の中には、気づかれにくい一つの見落としも隠れている。人々が愛しているのは、あの抽出され純化された美の理想であって、実際にミュンヘンの芝生の上に立ち、実際に優勝を勝ち取りたいと願い、そして最後に実際に敗れた者たちの、それぞれの喪失感は、かえってこの後光によって、そっと覆い隠されてしまったのだ。勝者として記憶されることは、実際には敗れた一群の人間にとって、必ずしも慰めであるとは限らない。

1974年のこの物語は、いくつもの事柄を、同じ一つの大会の中に重ね合わせている。あらゆる束縛から逃れようとした戦い方が、よりによってもっとも束縛の重い戦い方であったこと。もっとも美しくプレーしたチームが、よりによって優勝を勝ち取れなかったこと。もっとも固定に反対したはずの理念が、よりによって自らもっとも祭り上げられた固定になってしまったこと。明らかに敗れた一群の人間が、よりによって勝者として記憶されたこと。これらの転倒は、一見それぞれ無関係に見えるが、その骨の髄では同じ一つのことを語っている。どれほど逃れたいと願おうとも、あの循環は、あなたが逃れ出たと思ったまさにその場所で、あなたを待ち受けているのだ。

トータルフットボールというこのもっとも壮麗な脱出の試みは、最終的には脱出しきれなかった。しかし、その失敗は、その偉大さを少しも減じるものではない。むしろ逆に、それがあれほど力を尽くして試み、あれほど高く飛んだからこそ、それがぶつかったいくつかの壁が、これほどはっきりと見えるのである。それは自らの運命によって、あの法則を、サッカー史上もっとも美しい一つの教訓へと演じきったのだ。

そして、その敗れたチームが、真の勝者として記憶された。これは記憶の厚い情けだが、同時にひそかにいくつかのことを消し去ってもいる。誰もがポジションを入れ替えられると謳われたあの戦い方は、実のところ、最後までクライフという一人の入れ替えのきかない人間から離れられなかった。美の象徴へと鋳造されたあの選手たちもまた、一人ひとりが本当に勝ちたいと願い、そして本当に敗れた生身の人間だった。神話は彼らを高々と掲げながら、彼らそれぞれの、具体的な、血の通った喪失感をも、いっしょくたに覆い隠してしまった。優勝は、ある一つの判断によって敗者へと追認されたが、あの優勝杯は、結局のところ、もう一方のチームが持ち去ったものなのである。

結局のところ、1974年のあのミュンヘンのスタジアムに収められていたのは、サッカーの一つの永遠のジレンマだった。一方には、美と自由を極限まで追い求める衝動があり、もう一方には、勝ち負けというものを律儀にやり遂げる本分がある。この二つは、しばしば両立しない。オランダは前者を選び、後世半世紀にわたって語り継がれるサッカーを演じきったが、あの日の午後、スコアを守り切ることはできなかった。西ドイツは後者を選び、さほど目の覚めるようなプレーはしなかったが、あの優勝杯を確かに手にして持ち帰った。どちらの選択がより正しいのか。この問いに答えはない。なぜなら、それが問うているのは正誤などではなく、あなたがそもそもサッカーから何を求めているのか、ということだからだ。ある者はあの瞬間の勝利を求め、ある者はあの色褪せることのない美を求める。そしてサッカーの懐の深さとは、まさにこの二種類の人間を同時に受け入れられる点にこそある。どちらも、相手を説き伏せる必要などないのだ。

まさにそれゆえにこそ、この大会は記憶の中で、これほど長く生き続けているのである。それはきれいさっぱりとした答えを一つ差し出す代わりに、より深い一つの問いを、そのあらゆる緊張関係もろとも、そのまま残していった。もっとも強い者が必ずしも優勝するとは限らず、優勝した者が必ずしも記憶されるとは限らず、もっとも逃れたがっていた者がかえってもっとも強く縛られ、もっとも自由だった者がかえってもっとも重い代償を払う。これらの舌を噛みそうな転倒は、歴史の過ちなどではなく、歴史がもともとそういうものだということなのだ。1974年を理解すれば、サッカーが標準解を持つ算術の問題などでは決してないことがわかるはずだ。それはむしろ一枚の鏡に近く、そこに映し出されているのは、完璧さへの人間の憧れであり、そして、その憧れが永遠に届くことのない、ほんのわずかな距離である。

究極の戦い方によって循環から逃れようというこの発想そのものが、なお循環の内側にある。もっとも自由なサッカーも一つの決勝戦を守り切ることはできず、もっとも流動的な戦い方も結局は自ら一つの定型と化し、そして、あの勝ち取れなかった優勝は、かえって数多くの真に勝ち取られた優勝よりも、長く記憶され続けている。循環は止まっていない。それは今もなお、回り続けているのである。