ウェンブリー
勝敗には判定を下せても真相は確定できない
(切り口:1966年イングランド・ワールドカップ)
この篇の目次
一 発祥の地がようやく勝った
1966年、イングランドは自国でワールドカップを掲げた。それは今に至るまで、同国が手にした唯一の優勝杯である。
この出来事には、ひときわ重い意味があった。サッカーという競技のルールを定め、世界に広めたのは、そもそもイングランドの人々だった。ところが、その発祥の地は長いあいだ、ワールドカップから距離を置き、澄ましていた。1930年の第1回大会には出場すらしていない。生まれたばかりの大会より、自分たちのほうが格上だと思っていたのである。世界中へボールを送り出した国が、かつて見向きもしなかった優勝杯を自国でようやく手にするまでには、何十年もの歳月がかかった。
この落差は際立っている。競技のルールを定めたのは、この国だ。近代サッカーの原型が育ったのも、この国の工場や学校だった。それなのに、世界中へボールを送り出した当の国が、ワールドカップの誕生に際しては他人事という顔をした。よその人間が始めた大会など、自分たちの格にふさわしくないと思ったのだ。自分はサッカーの親であって、ピッチに立つ一参加者ではない。そんな気位を下ろし、本気で優勝杯を争うようになるのは、それから何十年も後のことだった。
だから1966年は、サッカーが帰るべくして故郷へ帰った年というより、かつて高みから見下ろしていた発祥の地が、ようやく皆と同じ場所に降りてきた年だったのだ。偶然に左右されるピッチに立ち、ほかの国々と同じように勝負をして、このときは、たまたま勝った。その勝利に、ほかの国より強い資格があったわけでも、特別な運命があったわけでもない。自国開催ならではのさまざまな利点に、今も決着のつかないあのゴールが重なり、優勝杯が地元に残った。それだけのことである。
それを認めても、イングランドの優勝が本物であることは少しも損なわれない。チームは確かに勝ち、選手たちは確かに力を尽くした。ウイングを置かないあのチームには、実際、優れたところもあった。退けたいのは、その勝利を、見えない運命の力に導かれてサッカーが発祥の地へ帰ってきた物語に仕立てることだけだ。勝利は勝利である。それを生んだのは90分と延長の30分に実際に起きたすべてであり、誰にもはっきりとは説明できないあのゴールも、その中に含まれる。運命の後光で飾り立てる必要などない。
後年、「フットボールが帰ってくる」という言葉が広く歌われるようになった。世界をひと回りしたサッカーが、生まれた場所へようやく戻ってくる、という意味である。ただし、これは1966年の言葉ではない。1996年の欧州選手権のために作られた歌に由来し、イングランドが再び大きな大会を開催したその夏、初めて本格的に響き渡った。イングランドとサッカーの起源、そして1966年の優勝を結びつける感情自体は、確かにそれ以前からあった。しかし「フットボールが帰ってくる」という、まさにその言い回しが生まれたのは1996年であって、1966年ではない。
この二つの年を区別するのは、揚げ足取りではない。1996年の大会に向けて書かれた合言葉が、いつの間にか1966年の出来事にかぶせられている。その取り違えこそ、発祥の地の優勝を、すべてが収まるべきところに収まった物語にしたいという欲求の強さを示している。人々はこの出来事を、何としても美しく語りたかった。だから30年後の歌詞まで、あの瞬間の心情を表していた言葉として、さかのぼって認定してしまったのである。
この区別が大事なのは、「フットボールが帰ってくる」という口当たりのよい言葉の中に、よく考えれば成り立たない意味が潜んでいるからだ。サッカーはもともと発祥の地へ帰るはずだった、イングランドが自国で優勝したのは運命どおりの帰着だった、とでもいうように。だが、事はそれほど都合よく運んでいない。発祥の地が自国で勝ったのは、運命がめでたく成就したからではない。実際に一つの勝利が起きた、ということにすぎない。しかも、その勝利が公正に手にされたものだったかどうかは、当日から今日まで決着のつかない疑問として残り続けている。
二 ウェンブリーのあのゴール
疑問が生まれたのは、決勝だった。
1966年7月30日、ウェンブリー。イングランド対西ドイツは、90分を終えて2対2となり、延長戦に持ち込まれた。西ドイツのハラーが12分に先制し、18分にハーストが同点に追いつく。78分にはピータースがイングランドにリードをもたらしたが、90分、西ドイツのウェーバーが再びスコアを並べた。
一進一退の決勝だった。先制したのは西ドイツだった。イングランドが追いついてからリードを奪い、西ドイツが再び同点に戻した。なかでもウェーバーの90分のゴールは、試合終了の笛が鳴るほとんど直前に、手にしかけていた優勝杯をイングランドからもう一度奪い返した。規定の90分が終わって2対2。勝負の行方は、追加された30分へと丸ごと持ち越された。ウェンブリーを埋める9万人を超す観衆が、固唾をのんでいた。
本当の争いの種は、延長戦で生まれた。101分、ハーストがペナルティーエリア内で反転して強烈なシュートを放つ。ボールはクロスバーの下側をたたき、ゴールライン付近の地面へ激しく落ち、外へ跳ね返った。ボール全体がラインを越えていたのか。スイス人主審のディーンスト自身にも確信がなかった。彼はその側の線審、バフラモフのもとへ確認に走った。この線審はソ連の人で、アゼルバイジャン出身だった。ロシア系ではない。それでも後にイングランドでは、長いあいだ「あのロシア人線審」と呼ばれることになる。ディーンストは後年、ゴールだと自分に告げたのはバフラモフの表情や態度だった、と述べている。
こうしてゴールは認められた。イングランドが3対2で先に出る。ハーストは120分にも得点し、最終スコアは4対2となった。一つのチームが、主審さえはっきり見届けられず、線審の表情や態度を頼りに判断するしかなかったゴールによって、ワールドカップの優勝をつかんだのである。
ディーンスト主審の立ち位置からは、ボールがラインを越えたかどうか、もともとよく見えなかった。これは本人も認めている。そこで、その側にいた線審に判断を委ねた。だが、線審も近くにいたわけではない。彼が示したものも、くっきり見届けた末の結論というより、瞬間の反応だった。距離を隔てた二人が、身ぶりと表情によって、わずか数秒のうちにワールドカップの行方を決める。出来事そのもののあまりの重さと、それを支える根拠のあまりの薄さ。この落差は、目をそらしようがないほど大きい。
実のところ、これはサッカーではいつも起きている。ただ普段は、これほど目立たない。一つの試合には、審判が一瞬で決めるしかない場面が無数にある。オフサイドかどうか、ハンドかどうか、ラインを越えたかどうか。その判定の大半は試合の大勢に関わらず、間違いがあってもそのままになり、深く問われない。ところが、それがワールドカップ決勝の、優勝を左右するゴールに重なった途端、普段は見過ごされている危うさが際限なく拡大される。巨大なピラミッドの頂点が、数秒しかない、よく見えもしなかった一つの判断にのしかかっているのだ。
人々があのゴールにいつまでもこだわるのは、もしかすると、この危うさのためなのかもしれない。そこでは、人々が信じたい一つの幻想が破れてしまった。最高峰の大会の優勝は、誰にも異論のない実力によって、明快に決まるはずだという幻想である。しかし現実は、ワールドカップの王座でさえ、審判にも見えなかった一瞬にかかることがあると突きつける。その事実は、ひどく居心地が悪い。だから人々はあのゴールを何度でも論じ続けるほうを選び、栄光の頂点もこれほど頼りない土台に立っているのだとは、なかなか認めようとしない。
この頼りなさこそ、本来のサッカーの姿である。ただ、たいていは隠れている。金色に輝く優勝杯の一つひとつの背後には、同じような瞬間が無数にある。ポストに触れ、内側ではなく外へ跳ねたシュート。取られたオフサイド、取られなかったオフサイド。審判の一瞬の判断。こうした偶然を取り除けば、歴史は別の姿になっていたかもしれない。だが振り返るとき、人はいつも結果ばかりを見つめ、そこへ至る道にびっしり並んでいた偶然を、ことごとく見落としてしまう。
三 あのラインを越えていたのか
あのボールは、結局ラインを越えていたのか。
今日になっても、答えは出ていない。疑いは後から生まれたものではなかった。当時のアメリカの雑誌にも、テレビのリプレーをもう一度見た後でさえ、その場の観察者のうち、確かにゴールだったと誓える人はほとんどいなかった、という記述がある。つまり疑問は、ゴールが認められたその瞬間から存在していた。負けたドイツの人々が、後になって悔しさから持ち出したものではない。
これは重要な点だ。疑いが試合後にだけ生まれ、負けた側だけから出たのなら、負け惜しみとして片づけることもできる。ところが実際には、その瞬間、中立の傍観者さえ太鼓判を押せなかった。あのゴールが疑わしいのは、立場が生んだ偏見のせいではない。その瞬間そのものが曖昧だったのである。誰が見ても、十全の確信をもって答えることができないほどに。
面白いのは、あのゴールをめぐって育ったさまざまな話が、それ自体でさらに芝居を付け足していることだ。線審はアゼルバイジャン人だったのに、イングランドでは長くロシア人線審として記憶された。まるで、より大きな東西対立の背景に彼を据えて初めて、あの判定にもそれらしい意味が生まれるかのように。普通の人間が一瞬のうちに下した普通の判断だった、というだけでは、人々は納得できない。もっと重々しい意味をかぶせたくなる。たとえそれが、根拠もなく付け加えた意味であっても。
後には、技術を使って決着をつけようとした人々もいた。オックスフォードの研究者たちは、二つの異なる角度から撮られた古い映像をもとに再現を試みた。結論は、ボールはライン上に落ちており、誤差を最大限に見積もっても、ボール全体がラインを越えるまでには、なお少なくとも3インチ足りなかったというものだった。ところが2016年には、現代の技術を用いた別の再現が反対の結論を出した。あのゴール判定は正しかった、というのである。どちらも古いフィルムから逆算した結果であって、当時作動していたゴールライン・テクノロジーの記録ではない。権威ある機関が改めて裁定を下したわけでもない。結局、この論争に本当の決着をつけた者はいない。
二つの再現が逆の結論に達したこと自体、多くを物語っている。使ったのは同じ古い映像であり、真相を明らかにしたいという思いも同じだった。だが真剣に計算を重ねるほど、互いに食い違う答えが出てきた。それは、どちらかの計算が雑だったからではない。あの映像に含まれる情報そのものが、唯一の、疑う余地のない結論を支えるには足りないからだ。どれほど精密な物差しを使っても、測るもの自体がぼやけていれば、得られる値もぼやけたままである。
この疑問が何より割り切れず、同時にどうしようもないのは、そこだ。今はまだ答えが見つからなくても、技術が進み、材料がそろえば、いつかすべてが明るみに出る。そういう謎とは違う。これは出発点からして、確かな答えを得られない問いなのである。すべてを決めたあの瞬間は、記録された時点ですでに曖昧だった。後世の人間が何度見返せるとしても、残っているのはその曖昧さだけだ。曖昧なものをいくら問い詰めても、確実さは出てこない。
だから、この論争はいつまでも続くことになる。ドイツでもイングランドでも、世代が変わるたびにファンがあの古い映像を持ち出し、それぞれの言い分を譲らず、誰も相手を説得できない。理性的でないからではない。論じている対象そのものに、すべての人を納得させる答えがないからだ。証拠が出れば収まる論争もある。だが、この論争は永遠に宙づりのままだ。終わらせるための証拠が、最初から存在しないのだから。これは、結審の日を持たない事件となった。
この疑問がこれほど長く語り継がれているのも、まさに解けないからだ。結論の出た争いは、論じ合ううちに熱が冷めていく。いつまでも結論の出ない争いは、世代から世代へと受け渡される。どの世代も、自分たちなら何か新しい手がかりを見つけられるかもしれないと思い、届かない答えに、もう一度手を伸ばさずにはいられない。その生命力を生んでいるのは、決着がつかないという事実そのものだ。永遠に閉じられない問いのほうが、早々に閉じられた答えより、長く生きるのである。
線審本人をめぐっては、こんな有名な伝説も生まれた。晩年、あの判定の理由を尋ねられた彼が、ただ一言「スターリングラード」と答えたという。ドイツ人がかつてあの街で負った借りを、今こそ返すときだった、という意味だ。いかにも劇的な話だが、検証には耐えない。バフラモフがその言葉を口にした証拠は一つもなく、本人も否定していた、と指摘する歴史家がいる。したがって、この「スターリングラード」は後からこじつけられた伝説として扱うほかなく、実話にしてはならない。
四 記録には決着がついても真相にはつかない
あのゴールの公式記録には、決着がついている。スコアは4対2。ハーストはハットトリック。優勝はイングランド。あの日から今日まで、いかなるサッカーの機関も、さかのぼって結果を書き換えてはいない。記録という次元では、この件はすでに確定しており、争う余地はない。
しかし、そのすっきりした記録の下には、永遠に閉じられない問いが押し込められている。あのボールは、本当にラインを越えていたのか。この問いを記録で解くことはできない。記録は、結果が何だったかを教えてくれる。だが、その結果が正しかったかどうかまでは教えてくれない。
普段、この二つは重なっているため、つい同じものだと思ってしまう。たいていのゴールは、誰の目にも明らかに入っている。記録された結果と、実際に起きたことはぴたりと一致する。そういうときは、記録がそのまま真相であり、両者を区別する必要もない。だが、あのライン上に宙づりになったボールに出会うと、二つは裂けてしまう。記録は残り、しかも明快な結論を出さなければならない。一方の真相は、誰の手も届かない場所へ引いてしまう。
試合には、結果が必要だ。あのゴールも、認めるか、認めないかのどちらかであり、第三の選択肢はない。しかも審判は、その場で、数秒のうちに決めなければならない。いつまで待っても得られない確かな答えを求めて、試合をそこで止めておくわけにはいかない。先へ進めなければならず、スコアが必要であり、勝敗をつけなければならない。この、何としてもつけなければならない決着は、それ自体が一つの「構」、現実に上から押しつけられる判定なのである。
サッカーのあらゆる結果は、突き詰めれば、そうして押しつけられた一つの構である。90分の試合には、最後に必ずスコアがつく。一つのシュートは、入ったと認められるか、認められないかであり、その中間に曖昧な場所はない。このルールの体系は、混沌として連続し、偶然に満ちた現実を、節目ごとに二者択一の判定へと収束させる。たいてい、それは問題を起こさない。現実のほうが十分にはっきりしているからだ。しかし根底にあるのは、あくまで不確かなものを、力ずくで確かなものに変える操作である。
この力ずくの操作から、サッカーは逃れられない。他の物事のように「保留」「疑義あり」「後で考えよう」としておくことができない。笛が鳴れば試合は続く。ボールがゴールラインに達したら、その場でゴールかどうかを判定しなければならない。立ち止まって、申し分のない答えを待つという贅沢は許されないのだ。だからこそ、自ら下す判定の中には、どうしても便宜的な決着にとどまるものもあると、受け入れなければならない。真相がわからないまま、それでも試合を進めるために、下すほかない判断なのである。
この「そうするほかない」という事情が、サッカーを、もう少し余裕のある分野から隔てている。歴史上の謎なら、未解決のまま後世に託せる。科学の問題なら、いったん答えを保留し、もっとよい実験を待てる。どちらにも、待ち続ける余地がある。サッカーには、それがない。どの試合も90分で結果を出さなければならず、どの問題のある判定も、その場で決着をつけなければならない。時間に追われ、判断せずにはいられないこの状況は、一つの事実をとりわけ鮮明にあらわにする。人は時に、はっきり見えたから判断するのではない。判断しないわけにはいかないから、覚悟を決めて一つの判断を下すのだ。
このことを見据えるのは、審判を否定するためでも、サッカーのルールを覆すためでもない。むしろ、現実がしばしば曖昧だからこそ、結果を出すべきときに判断の重荷を引き受ける人が必要になる。何一つ決めようとせず、すべてを疑いのまま残す審判は、試合を完全に麻痺させてしまう。問題は、判定すべきかどうかではない。下さざるをえないその判定には、初めから間違う可能性が含まれており、絶対の真理としてあがめるべきではないと、人々が認めるかどうかである。判定の限界を認めることと、その権威を尊重することは矛盾しない。
だが、現実はいつも都合よく応じてくれるわけではない。ボールが明らかにラインを越え、判定と真相がぴたりと一致することもある。反対に、ライン上に宙づりのまま、誰にも確かなことが言えない場合もある。それでも判定は必要だ。そのとき下された判定は、もはや真相を忠実に記したものではない。答えを出さなければならない問いに、出すほかない答えを与えただけである。記録はそれで閉じられる。しかし真相まで一緒に閉じられたわけではないし、閉じることもできない。
こうして、あのウェンブリーのゴールのような事態が生まれる。試合には結果が欠かせないから、判定を下さなければならない。ところが、その判定に対応する真相は、誰にもはっきりとはわからない。そこで下す判定は、すでに事実を記録する行為ではなく、解けない問いに無理やり答えを書きつける行為になっている。その答えは、いったん書かれれば変更できない記録となる。一方、それが指し示すはずだった真相は、永遠に外へ置き去りにされる。
答えが記録に入った途端、そこには、あたかもそれが真相であるかのように見せる権威が宿る。後世の人がそのページを開けば、イングランド4対2と、明快に書かれている。まるであのボールも、当然ゴールであるべきだったかのようだ。記録はスコアの横に、「この1点は、実は誰もはっきり見ていなかった」と小さく注記してはくれない。当時のためらいも、言い争いも、割り切れなさも、すべて隠し、断固とした結果だけを残す。そうして時がたつほど、あのゴールは当然のものに見えてくる。最初にあった疑わしさのほうが、そのゴール自身の生んだきれいな記録によって、少しずつ覆い隠されていくのだ。
だからあの記録は、証明によって閉じられたのではなく、閉じることを強いられたのである。決着がついたのは、試合のルールがそれを要求したからであって、ボールがラインを越えたかどうか、誰かが本当にはっきり見たからではない。判定は断言できても、真相は未決のまま残る。その二つはあの瞬間に別々の道を歩み始め、二度と重ならなかった。後に真相まで確定させようとして行われたことは、技術による再現であれ、繰り返される議論であれ、どれも成功しなかった。あの一瞬はすでに過ぎ去り、残された証拠は、もとから曖昧だったからである。
五 はっきりしないのはあのゴールだけではない
あの大会のイングランドをめぐって、はっきりしないことは、あのゴール一つだけではなかった。
発祥の地が自国で果たした優勝は、公正に手にされたものだったのか。当初から、とりわけ南米で疑いの声が上がった。イギリスの外交文書には、当時の記録が少なからず残っている。イングランドは西ドイツと結託して大会全体を操作した、と訴える南米の抗議者がいた。審判への不満を口にする者もいた。何百本もの罵倒の電話がかかってきて、この一件によって二国間関係が不当に損なわれていると記したイギリス大使館さえあった。これらの文書が確かに立証していることはある。疑惑を訴える声が、いかに大きかったかということだ。だが立証されるのは告発の規模であって、告発の真偽ではない。言い換えれば、多くの人がイングランドは不正をしたと信じていたことはわかる。しかしイングランドが本当に不正をしたかどうかは、文書からはわからない。ここにもまた、決着のつけられない問いがある。
ここでは、二つのことをとりわけ慎重に分ける必要がある。文書が証明するのは、多くの人々が、イングランドは不正をしたと強く信じていたことだ。それは人々が何をどう信じたかに関する事実であり、確かなものである。だが、それによってイングランドが実際に西ドイツと結託して大会を操作したと証明されるわけでは、まったくない。あることを信じる人がどれほど多く、声がどれほど大きくても、そのことが真実になるわけではない。両者を混同すれば、イングランドに濡れ衣を着せるか、実際にあった不公正を免罪してしまうことになる。現実に確かめられるのは、声の大きさまでなのだ。その先には、決めようのない霧が広がっている。
開催国の有利さも、この霧の一部である。自分たちのホームで戦うチームには、慣れた芝があり、地鳴りのような声援がある。微妙な判定で、審判が無意識にホーム側へほんの少し傾くこともある。そうしたものは実際に存在する。だが、あのゴールの判定や、あの大会の行方を、それがどの程度左右したのかは、数値にすることも、確かな事実として突き止めることもできない。イングランドの優勝をすべてそれで説明することもできなければ、影響は皆無だったと言い切ることもできない。曖昧なものとして、そのまま宙に浮いている。
不当な扱いを受けたと感じる南米のチームやファンにとっては、この曖昧さ自体が苦痛だった。イングランドの不正を証明する動かぬ証拠は出せない。それでも、あの大会のあれこれが自分たちに不公平だったという実感は確かにある。不満を訴えても晴らせないこの境遇は、明文化された判決よりつらい。はっきりした不公正なら、少なくとも抵抗し、異議を申し立てられる。だが、ぼんやりした疑惑のかたまりを前にしては、争うべき相手すら定まらない。そのやり場のなさは、何百本もの罵倒の電話となるか、何年たってもあの優勝杯の正当性を認めようとしない態度になるしかなかった。
イングランドの側も、おそらく心から晴れやかな気持ちになるのは難しかっただろう。決着のつかない論争を抱えた優勝には、栄光の中にどうしても薄い影が差す。何年たっても、1966年を語るとき、優勝杯だけでなく、あのゴールを避けて通ることはできない。勝利も記憶され、疑わしさも記憶された。二つは結びつけられ、互いを振り払えない。こうした勝利の代償とは、おそらくそういうことなのだろう。勝利として確かに数えられはするが、すべての人から留保なく認められるわけではない。
疑いには、現実のきっかけもあった。あの大会のジャッジは、確かに論争続きだった。イングランドとアルゼンチンの準々決勝では、アルゼンチンの主将ラティンが35分に退場を命じられた。当時はまだレッドカードもイエローカードもなく、退場は審判が言葉と身ぶりだけで伝えていた。ところが主審は西ドイツ人で、スペイン語を話せない。ラティンにはドイツ語がわからない。言葉が通じないまま、二人の言い争いは何分も続いた。ラティンはキャプテンの腕章を示し、通訳を呼んでほしいと求め、説明を得ようとして、最後にようやくピッチを去った。何より言葉を尽くす必要のある場面で、選手は相手に自分の言うことを理解してもらうことさえできず、ただ退場させられるのを受け入れるしかなかった。
この場面も、後にあの大会を象徴するものの一つになった。競技を続ける資格を奪われようとしている選手が、一言二言の弁明さえできない。自分の命運を握る相手と、そもそも言葉が通じないからだ。判定は下されようとしているのに、その間には言語の壁が立つ。彼にできるのは、自分の立場を示す腕章を掲げ、むなしく通訳を求めることだけだった。ここでルールの執行が突き当たったのは、この上なく基本的な壁である。人と人の間で、意味さえ伝わらないという壁だ。
こうした、その場で明快に決着をつけられず、激しい言い争いになる場面が、後にレッドカードとイエローカードの誕生を促した。「サンティアゴの戦い」と同じく、1966年のこれらの紛争も、ケン・アストンがカード制度を考案するもう一つのきっかけとなった。その制度が正式に使われるのは、1970年になってからである。ルールはまたしても、自分では封じ込められなかった混乱の中から、鑿で削り出すように、新しい一片を切り出したのだった。
しかしカードが解決したのは、警告と退場を、以前より明瞭に伝えることだけだった。ラティンがあの瞬間に直面していた本当の困難、つまり言語の隔たり、判定をめぐる争い、そして資格を奪われる選手が弁明できないという問題は、解けない。審判の意図は伝わりやすくなっても、審判の判断が正確になるわけではない。表現の隙間は埋めても、判断そのものの隙間は埋まらない。そしてその隙間は、ゴールライン上のあのボールが示したものと、実は同じ隙間なのである。
六 街に迎え入れられた北朝鮮代表
あの大会には、もう一つの話がある。あの決着のつかない疑問とは別の面を、ちょうど照らしてくれる話だ。
北朝鮮代表がワールドカップに出場したのは、この大会が初めてだった。イギリス政府はもともと、その来訪を歓迎できずにいた。北朝鮮を国家として承認していなかったからである。政府はビザの発給拒否まで検討していた。それでも最後に拒まなかったのは、FIFAが明確に通告したからだ。出場資格を得たチームを締め出すなら、大会の開催地を変更することもありうる、と。
どこか奇妙な話である。政治上は承認されていない国のチームが、異国の小さな街で、普通の住民たちに少しずつ受け入れられ、好かれていく。スタンドの人々は、国同士の承認がどうしたという話には、それほど関心がなかった。目の前にいるのは、懸命に戦い、生き生きとしたサッカーを見せるチーム。それだけだった。あの夏、政治の計算と、ピッチのそばで生まれた素朴な好意は、別々の道を進んでいた。実際にチームがミドルズブラへやって来ると、地元のファンは徐々に彼らを身内のように感じるようになった。とりわけ、あの大番狂わせを演じた後はそうだった。
7月19日、北朝鮮はイタリアを1対0で倒した。当時の新聞は、1950年にアメリカがイングランドを破って以来、ワールドカップ最大の番狂わせだと伝えた。この試合では35分、イタリアの選手が一人、衝突で負傷してピッチを離れている。あの大会では選手交代が認められていなかったため、イタリアは一人少ないまま戦うしかなかった。その7分後、パク・ドゥイクが決勝点を挙げた。
ポルトガルとの準々決勝で、北朝鮮は一時、さらに驚くべきものを見せた。開始25分で、3対0のリードを奪ったのである。ところがその後、ポルトガルのエウゼビオが一人で4得点を挙げ、チームは5対3の逆転勝ちを収めた。奇跡を起こしたチームは、3点を先行した後、相手のさらに大きな奇跡にのみ込まれた。
3点をリードしながら、最後は5対3で敗れる。この展開は、ただの番狂わせ以上に胸に迫る。そこでは奇跡が、ひときわもろく見える。偶然が北朝鮮をあれほど高く持ち上げておいて、次の瞬間には気を変え、容赦なく地面へたたきつけたかのようだ。一つのチームは、25分のうちに生涯最高のサッカーをすることができる。そして続く1時間で、そのすべてをたった一人に消し去られていくのを、見届けることにもなる。
北朝鮮の物語と、あのゴールラインをめぐる疑問を並べたとき、最もはっきりする違いは、出来事そのものがどれだけ明瞭かということだ。北朝鮮がイタリアに勝ち、ポルトガルに負けた。どのスコアも明快で、争うところは一つもない。その劇的な力は、ひたすら偶然そのものの気まぐれにあり、判定への疑いにはない。決勝のあのゴールでは、逆に、一つの判定がはっきりしないことこそがドラマのすべてだった。どちらも忘れがたい瞬間ではある。一方は運命の移ろいやすさに思いをはせさせ、もう一方は真相のつかめなさに心を縛りつける。忘れられないという点では同じでも、その中身はまったく違うのである。
北朝鮮の物語には、もう一つ、とりわけ心を動かされるところがある。遠い東方からやって来た、自分たちの国さえ相手に承認されていない選手たちが、異国のスタンドを前に、本来は自分たちのものではなかった拍手を勝ち取った。政治は彼らの国を外に締め出した。しかしサッカーは、あのとき、あの場所で、彼らと一つの街の見知らぬ人々を結びつけた。そのつながりが深かったとは言えない。大会が終われば、ほどけてもいった。それでも、実際に起きたことには違いない。サッカーは時に、政治にはできないことができる。本来なら隔てられていたはずの二つの集団を、一つの試合によって、しばらくのあいだ同じ側に立たせることができるのだ。
もちろん、その温かさを大げさに語ってはならない。北朝鮮は結局敗れ、大会は結局終わった。隔たりを越えたあのつながりも、やはり一時的で、浅いものだった。サッカーは、ある時、ある場所で、硬くこわばったものを少しやわらげることはできる。だが、そのもの自体を変えることはできない。与えてくれるのは一つの挿話であって、答えではない。美しく語りすぎれば、その限界をかえって見落とすことになる。それでも、たとえ挿話にすぎなくても、あの夏のミドルズブラで、それは確かに起きたのである。
この話は、あのゴールラインの疑問と、見事に対照をなしている。北朝鮮の番狂わせにも、3対0からの崩壊にも、判定のつかないところはない。スコアは明らかで、誰もそこを争わない。そこにあるのは純粋な偶然だ。偶然がイタリアを倒し、また偶然が、つかみかけていた勝利を跡形もなく消した。偶然という刃は、いつでも両側を斬る。奇跡を成就させることもできれば、向きを変え、その奇跡を根元から削ぎ落とすこともできるのである。
七 ラムゼイはウイングを外した
あの大会のイングランドの優勝は、戦術の面でも、しばしば一つの整った呼び名にまとめられる。「ウイングを置かない布陣」である。
この呼び名が捉えている事実は、確かにある。ラムゼイ監督のイングランドは、決勝トーナメントでは従来型のウイングに頼らなくなっていた。決勝の先発では、スタイルズが中盤の底を担い、ボビー・チャールトンが前寄りの位置で攻撃を組み立てる中心となった。ボールとピータースは両サイドから内へ絞り、タッチラインに張りついて、靴に白線の粉をつけながら走るような純粋なウイングではなかった。ハントとハーストは、最前線の二本の槍である。ピッチの幅は、両サイドバックのコーエンとウィルソンが攻め上がることによっても、ある程度確保された。ウイングから次々とクロスを送り込むのではなく、中央の支配とコンパクトな守備を重視するやり方だった。後世の呼び方は、幅を狭くした4・4・2と4・1・3・2のあいだで揺れている。だが本当に大切なのは、後からどんな数字を振るかではなく、従来のウイングを外したということである。
これは、引き算によって勝つサッカーだった。肝心なのは、何か目新しいものを付け加えたことではない。長いあいだ当然と思われていたもの、ウイングを取り除いたことだ。当時は、サイドの選手がタッチライン沿いをドリブルし、クロスを入れるのが、ほとんど攻撃の標準装備だった。ラムゼイは、あえてその標準装備を撤去した。代わりに得たのは、中央でのより密な支配と、守備のときに整った陣形である。ほかの者が切り落とせない部品を、思い切って切り落とした。その勇気が勝利を生んだ。
取り除くことで勝つという発想は、サッカー史の中で孤立しているわけではない。後世に革新としてたたえられる戦術の多くは、核心にあるのが足し算ではなく引き算だ。誰もが必需品だと思っているものの中に、実は捨ててもよいものがあると見抜く。そして捨てることで、かえって別の余地が生まれる。一つの構が前に進むのは、多くの場合、次々と積み重ねて満杯にするときではない。一見、そこにあるのが当然に見える一片を、誰かが勇気をもって取り外すときなのである。
ただし、ラムゼイの成功を、ウイングを置かないという一手だけにすべて帰してしまうのも、事後の整理である。実際の1966年のイングランドは、最初から最後まで同じやり方で戦っていたのではない。試合を重ねながら試し、調整し、最終的に決勝トーナメントで、後世に記憶されるあの姿に落ち着いた。迷いと修正に満ちた過程を、監督が初めから確信を抱き、会心の一手で勝ち切った話にする。それは聞こえこそよいが、事実ではない。記録によってならされたあのゴールと同じように、現実の過程は、後の語りよりもずっとごつごつしている。
こうして、あの大会のイングランドの物語には、曖昧なゴールから歯切れのよい「ウイングを置かない布陣」という呼び名まで、至るところに同じ力が働いているのが見える。でこぼこした現実を、きれいな語りにならしてしまう力だ。その力のおかげで、歴史は話しやすく、覚えやすく、伝えやすくなる。しかし同時に、うまく整わない真実の部分は、絶えず、ひそかに刈り込まれていく。
それでも「ウイングを置かない布陣」という整った名の下には、整ってなどいなかった過程が隠れている。後年の文章の多くは、まるでイングランドが大会を通じて、一度も変わらない布陣を使っていたかのように書く。だが、より確かな記録から言えることは、ずっと限られている。ラムゼイは大会前も大会中も、試し続け、調整し続けていた。後に「ウイングを置かないチーム」と呼ばれる姿が本当に固まったのは、決勝トーナメントである。試行錯誤を繰り返して磨かれたものが、後から一つの小気味よい名前に収められ、初めから確信をもって選び取った妙手のように語られた。これも、記録によってならされたあのゴールと同じことだ。現実の過程はいつでも粗く、後の語りは、それをすっきり整えようとする。
粗い過程を一つの明快な呼び名にならしたくなる衝動と、曖昧なゴールを断定的なスコアに収めたくなる衝動は、実は同じものである。人は明快さを、ほとんど本能のように求める。試行錯誤し、回り道をした準備の過程も、「ウイングを置かない布陣」の一言に縮めれば覚えやすい。ライン上の、誰にも確かなことが言えない一瞬も、ゴールと判定してしまえば話が早い。だが、その明快さは後から押しつけられたものだ。それによって消されるのは、真実の中にある、はっきりとはしないけれど、しばしば何より大事なしわなのである。
八 結び
ここまでの話を、一つにまとめよう。
1966年、サッカー発祥の地は自国でワールドカップを制した。この国の優勝は、この一度だけである。後世の人々はそれを、一つの円満な結末として、サッカーが故郷へ収まるべくして収まった出来事として語った。だが、その円満さは後から加えられたものだ。発祥の地の優勝は、運命ではない。そしてこの優勝は、勝ち取った瞬間から、決着のつかない疑問をいくつも引きずっていた。ラインを越えたかどうかというあのボール。大会操作の告発。そして、何とも言い切れない開催国の有利さである。
この大会が最も深く残したものは、ウェンブリーのあのゴールが教えてくれることだ。試合では勝敗をつけなければならず、ゴールは認めるか認めないかを判定しなければならない。それがルールの鉄則であり、曖昧さは許されない。ところが現実のほうは、時に曖昧なままでいる。あのボールは、ライン上に宙づりになっている。それでも判定は必要であり、記録は閉じられなければならず、イングランドは優勝した。記録の次元では、明快で、すでに決着している。しかし、その下にある真相、ラインを越えたかどうかという問いは、永遠に宙づりのまま残された。勝敗には判定を下せても、真相は確定できない。この二つは、あの瞬間から二度と一つにはならなかった。
これは実のところ、あらゆる記録の宿命である。過去について私たちが残す記録は、試合のスコアであれ、歴史についての定説であれ、すべて、決着をつけなければならないある瞬間に、強いて下された判定だ。見た目には、整然として、確実で、疑う余地がない。だがその下には、記録よりはるかに曖昧な現実が押し込まれていることが多い。記録の明快さの一部は、現実にあった曖昧さをひと筆で消すことと引き換えに得られているのである。
このことがわかれば、記録と伝説によって形作られた人々にも、もう少し思いを寄せられる。ラティンは、理不尽に騒いで退場させられたアルゼンチンの悪漢として記憶された。だがあの瞬間の彼は、必死に弁明しようとして、それを言葉にして届けることさえできなかった一人の人間だった。バフラモフは、イングランドに肩入れしたロシア人線審として記憶された。実際にはアゼルバイジャン人であり、一瞬のうちに、自分でも完全な確信を持てていたとは限らない判断を下した人にすぎない。記録と伝説は、生きた人間を記号へと押しつぶす。記号がひとたび出来上がると、血の通った人間は、その後ろに隠されてしまう。
だから1966年の大会が後世に残したのは、発祥の地の優勝杯だけではない。記録と真相をめぐる、一つの難問も残した。記録とは、物事に決着をつけるために、人が強いて下す判定である。真相とは、その判定の下にある、しばしば手の届かないものだ。たいてい二つは近くにあり、人は区別する必要を感じない。だが、ウェンブリーのあのゴールのように、両者の隙間をはっきり引き裂いて見せる瞬間が、必ずある。そのとき初めて人は、過去を記憶するよりどころにしてきた、あの整った記録の下に、これほど多くの説明しきれないしわが隠れていたことを認めざるをえなくなる。
この難問は、サッカーだけのものではない。私たちが生きるうえで頼っている、過去についての知識は、ほとんどすべて、何らかの形で整理され、判定された記録である。どんな記録の下にも、当時すでにはっきり見えず、後になればなおさら確かめようのない曖昧さが、いくらかは埋もれているのではないか。サッカーは、ルールがあまりに明快で、一瞬一瞬があまりに密に詰まり、論争があまりに目立つからこそ、誰もが抱えながら、めったに深く考えないこの問題を、大きく映して人々の前に置く。ウェンブリーのあのゴールは、サッカー界の一つの未解決事件というより、あらゆる記録に共通する限界を映し出す鏡なのである。
そして、もしかすると最も難しいのは、個別の未解決事件を受け入れることではない。その限界自体を受け入れること、どの記録も見かけほど確かではないと認めることなのかもしれない。
後世の人々は、それを宙づりのままにしておくことに、どうしても耐えられなかった。だから技術による再現が行われ、終わりのない議論が続き、当人さえ否定した「スターリングラード」の伝説が生まれた。これらの試みは、永遠に答えの出ない問いを、人がいかに受け入れがたいかを、そのまま示している。だが手を伸ばすほど、届かないことがわかる。あの一瞬は過ぎ去り、残された映像は初めから曖昧だった。誰であろうと、その曖昧さから、揺るぎない真相を無理に引き出すことはできない。
そして、これらの疑問に巻き込まれた二人の人間はどうか。言葉の壁の向こうで腕章を掲げ、通訳を求めても得られなかったアルゼンチンの主将。数秒の判断を下し、その後の人生の大半を、その判断と、口にしたこともない一言によって規定された線審。二人とも生身の人間だったのに、この論争の中で一つの記号へと押しつぶされた。記録には決着がつき、伝説は語り継がれる。それなのに、あの瞬間を本当に生き、判断し、争った人々のほうが、整った記録と、にぎやかな伝説に覆い隠されやすいのである。
あのボールが本当にラインを越えたかどうか、もはや誰にも明言できない。そして、そのわからなさ、判定は下せても真相は確定できないという板挟みこそが、60年たった今も、この試合をめぐる論争を生かし続けている。古い映像をまた持ち出すたびに繰り返される議論は、ある事実をもう一度確かめているにすぎない。記録の上では確定できても、真相は永遠に定まらないことがある。循環は止まっていない。今も回り続けている。