Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 世界サッカーシリーズ — 第06篇、全22篇

チリ

奇跡と野蛮はもともと同じもの

(切り口:1962年チリワールドカップ)

Han Qin (秦汉) · 2026年
この篇の目次

一 連覇

1962年、ブラジルはチリで再びワールドカップを掲げた。決勝でチェコスロバキアを3対1で破り、連覇を果たしたのである。

連覇を達成したブラジルは、ほとんど4年前のままのチームだった。1958年と1962年の決勝の先発メンバーを並べると、11人のうち8人が変わっていない。ジウマール、ジャウマ・サントス、ニウトン・サントス、ジト、ガリンシャ、ジジ、ババ、ザガロが、以前と同じ持ち場にいた。大会を通じて起用した選手も、わずか12人。基本となる先発11人に、控えのアマリウドが一人加わっただけだ。依然として、1958年の顔ぶれを中心に組まれたチームだった。

ワールドカップの歴史において、2大会続けて優勝することは、いつの時代も当たり前ではない。4年前に頂点に立ったチームが、ほぼ同じ顔ぶれで4年後にも頂点に立つには、並外れた安定性が要る。ブラジルを支えたのは、すっかり入れ替えた新しい陣容ではなく、何度も力を証明してきた中核だった。1958年の決勝に出た8人が、1962年の決勝でもなじみの持ち場に立っていた。こうして4年間、自分たちのあり方を保てるチームは、もはや何人かの天才がたまたま集まっただけのものではない。確かな形を持ち、時の流れにも耐えられる構造になっていたのだ。

けれども、その構造がどれほど安定していようと、この大会の勝ち方は4年前とは違った。1958年は、絶頂期にあった天才たちが思う存分に力を発揮し、晴れやかに、美しく勝った。1962年は、戦力を失い、荒んだ空気にさらされ、予期せぬ出来事に見舞われながら、最後まで踏ん張り抜いた。同じ優勝杯でも、一方は軽やかに掲げられ、もう一方は重くのしかかった。そして、この重い優勝杯こそが、ふだんは隠れているサッカーの別の顔を、いくつも照らし出した。

チームが順風満帆に勝っているとき、サッカーは単純に見える。技術に勝る側が、相手のゴールにボールを入れる。それだけだ。ところが1962年のように順境が崩れ、偶然、荒々しい感情、制御を失う瞬間が次々に襲ってくると、勝利の光に隠されていたこの競技の顔が、一つずつ現れる。これは技術だけを競うものではなかった。運も、感情も、人間のあまり見栄えのよくない部分も入り込んでいる。そこまで見えて、初めてサッカーの全体像が見えたことになる。

1958年と1962年の2大会は、サッカーのまるで違う二つの姿を映している。一つは順境の明るさ。天才が存分に腕を振るい、勝利が自然とついてくる姿だ。もう一つは逆境の陰影。偶然や険悪な感情、制御不能な事態に相次いで見舞われ、つまずきながら勝利をつかむ姿だ。この二つを合わせて、ようやくこの競技の顔がそろう。同じ選手たちが4年という時間の中で、サッカーの最も明るい面と、最も複雑な面を演じてみせたのである。

今回の優勝は、別の顔をしていた。1958年の優勝は、あまりにも長く待ち続けた国が、一群の天才と、言葉にしきれないわずかなひらめきを頼りに勝ち取ったものだった。そこには、若くして成功を手にした者の晴れやかさがあった。1962年の優勝は、それよりはるかに重く、複雑だった。大会の途中で最も輝く星を失い、殺気の漂うピッチを戦い抜いた。そして、そこで誰よりも光った選手は、同じ試合の中で、世界中が息をのむような奇跡を見せる一方、退場処分を受けるほど粗暴な行為にも及んだ。

このワールドカップはのちに、ほとんど正反対の二つの出来事で記憶される。一つはガリンシャの天才ぶり。ペレの負傷後、ほぼ一人の力でブラジルを決勝へ引っ張っていった。もう一つは「サンティアゴの戦い」と呼ばれたチリ対イタリア。ワールドカップ史上、最も野蛮な試合の一つである。片方は我を忘れるほど美しく、片方は目を背けたくなるほど醜い。人はこの二つを別々に語りがちだ。まるで前者こそがサッカーの本質で、後者はサッカーの恥であるかのように。だが、ここで語りたいのは、まさにこの二つが切り離せないということなのだ。

二 ペレの負傷

物語の転機は、早々に訪れた。

この大会、ペレは最高の滑り出しを見せた。初戦のメキシコ戦は2対0。ザガロの先制点をアシストし、2点目は自ら決めた。すべてが1958年のあの少年の続きを思わせた。ただし、今度の彼は、世界中が認めるサッカー界の第一人者だった。

つまりペレは、けがを抱えてチリに来たのではない。最高の状態でやって来た。1962年の彼は、まだ自分の力を証明しなければならなかった1958年の少年とは違い、世界中が認める最高の選手になっていた。ブラジルの連覇を支える最大の切り札は、当然彼のはずだった。おそらく、あらゆる準備も采配も、彼が最初から最後までプレーすることを前提にしていたのだろう。

ところが第2戦、0対0で終わったチェコスロバキア戦で負傷する。FIFAの公式記述とロイターの報道によれば、この試合で太ももの肉離れを起こし、その後は大会が終わるまでピッチの外から見守るしかなくなった。後年の記述には鼠径部の負傷とするものもあるが、最も信頼できる説明は、グループリーグ第2戦のチェコスロバキア戦で太ももの肉離れを起こした、というものだ。正確な部位がどこであれ、肝心な事実は変わらない。ペレのこのワールドカップは、グループリーグの段階で終わった。

連覇を狙うチームにとって、これは大会が始まったばかりで切り札を抜き取られたようなものだった。全力を注ぎ、最大のスターを中心に練り上げた計画は、第2戦で筋肉を一か所傷めただけで、大半が役に立たなくなった。その筋肉がいつ傷むか、そもそも傷むのかどうかは、誰の計画にも入っていない。いくら周到に準備していても、こんなふうに降ってくる偶然は防げない。できるのは、それが降りかかったあとに、自分たちには何が残っているか、どんな道ならまだ進めるかを見定めることだけだ。

連覇を目指すチームが、グループリーグで最高の選手を失う。それは本来、致命的な事態のはずだった。ブラジルはまず、グループを突破しなければならない。最終戦のスペイン戦では、一時リードを許した。ペレに代わって先発に入ったアマリウドが、残り20分の間に2点を決め、2対1と逆転して、ようやくチームを決勝トーナメントへ送り込んだ。こうしてアマリウドは、前線でペレの役目を引き受けることになった。本来なら主役ではなかった選手が、別の選手の負傷によって、スポットライトの下へ押し出されたのである。

アマリウドがその位置に入ったとき、ブラジルは実はひどく難しいことをやっていた。大きな大会の最中に、急きょ自分たちの戦い方を書き換えたのだ。ペレがいなくなれば、前線の連係も、ボールのないところでの動きも、最後の仕上げも、すべて調整し直さなければならない。それでもこのチームは、見事にかみ合わせを作り直し、勝ち進むほどに安定していった。切り札を抜き取られた計画は、そのまま崩れ落ちるどころか、新しい生き延び方を生み出した。

ペレの負傷は、大会全体に一本の隠れた筋を通した。最有力候補の一つだったチームの優勝シナリオが、第2戦の偶発的な出来事で半分破られ、その場で書き直さざるをえなくなった。結局、連覇は予定した道を最後まで歩いて達成されたのではない。予定が崩れたあと、そのつどつなぎ合わせて実現したものだった。これこそ、サッカーではいつものことなのだ。どれほどよくできた筋書きも、誰にも書き切れない不測の出来事の手で、書き換えられていく。

この隠れた筋が興味深いのは、最後にはブラジルを倒すことなく、むしろ別の選手たちに道を開いた点だ。ペレが負傷していなければ、アマリウドは大会中ずっとベンチに座っていたかもしれない。ガリンシャが神業を見せたあの2試合も、あれほどすべてを懸けるしかないところまでは、追い込まれなかったかもしれない。一人を倒した偶然が、振り向けば別の誰かを舞台へ押し上げている。偶然は奪うだけではない。与えることもある。ただ、誰に与え、誰から奪うかを決めるとき、誰の計画にもお伺いを立てはしない。

1962年のブラジルが幸運だったのは、偶然に見舞われなかったからではなく、見舞われても受け止めきれたからだ。同じ負傷でも、土台の浅いチームなら、そこから総崩れになったかもしれない。ブラジルはアマリウドやガリンシャの力で、その打撃を少しずつ吸収した。偶然は誰にも等しく降りかかる。だが、それを受け止められるかどうかは、チームによって大きく違う。この受け止める力こそ、成熟した一つの「構」と、寄せ集めのスター軍団を分ける最も大切な違いなのである。

ここには、あとで何度も現れる意味が、すでに潜んでいる。チームで最も優れた選手が倒れても、チームまで倒れることはなかった。人を替え、勝ち方を替えて、それでも前へ進んだのだ。

三 一人で背負うガリンシャ

ペレがいなくなったあと、このチームを背負ったのはガリンシャだった。

準々決勝のイングランド戦はブラジルが3対1で勝ち、ガリンシャは2得点を挙げた。FIFAの回顧では、あの試合にこそ彼の最もまばゆい姿があり、名人芸と呼ぶべきプレーだったとされている。準決勝のチリ戦でも、ガリンシャは再び2得点。ブラジルは4対2で勝った。決勝トーナメントの2試合で、計4得点。その曲がった両脚で、一歩ずつブラジルを決勝へ運んでいった。

その2試合のガリンシャには、どんな守備陣も打つ手がなかった。FIFAの回顧は、イングランド戦での彼を、最もまばゆく輝いていた姿としている。右サイドから何度も単独で突破し、相手のディフェンダーを右へ左へと翻弄して、自分で決めるか、相手にとって最も危険な場所へボールを送り込む。脚の障害ゆえに早々と選手の道を閉ざされてもおかしくなかった男が、ワールドカップの決勝トーナメントで、誰よりも鋭く、誰にも止められない存在になった。

チリとの準決勝でも、敵意に満ちた空気の中で、ガリンシャは2得点を挙げた。こうした重圧のもと、一人の選手が決勝トーナメントで2試合続けて2点ずつを決め、連覇を目指すチームを背負って進む。ワールドカップの歴史を見ても、数えるほどしかない活躍だ。人々がのちに「一人でワールドカップを勝ち取った」と語ったのも無理はない。それほどの衝撃は、確かにあった。ただ、その言い方は結局、ほかの選手たちが果たした、同じく欠かせない貢献を覆い隠してしまう。

とはいえ、ほかの選手の功績を認めても、ガリンシャの重みは少しも減らない。チームに光を放つ場所がいくつもあったとしても、最もまぶしいあの光を、誰かが代わりに放つことはできない。ババやジトは、ある部分を補うことはできる。だが、ガリンシャが右サイドから守備陣全体を機能不全にする、あの何かまでは補えない。どんな戦術の中でも計算できず、練習で作り出すこともできないものだ。それは、曲がった脚を持つあの一人だけのものだった。ペレを失っても持ちこたえられるチームでも、ガリンシャのような選手まで一人もいなかったなら、おそらく決勝には届かなかっただろう。個人には代えの利かない力があり、仕組みだけですべてをまかなうこともできない。どちらも欠かせないのである。

ここには、個人とシステムの微妙な関係が、よりはっきり表れている。システムは個人なしには成り立たない。最もまぶしいあのひらめきを、システム自体は生み出せないからだ。個人もまた、システムなしには成り立たない。どれほど輝くひらめきでも、ボールを受ける者や、空いた場所を埋める者がいなければ、役に立たない独演に終わる。互いを必要としながら、どちらも相手を丸ごと取り込むことはできない。本当に強いチームとは、この両方がちょうどそろったチームであって、どちらか一方にすべてを賭けたチームではない。

1962年のブラジルには、ちょうど両方があった。誰にも代わりのできないガリンシャのひらめきがあり、ペレを失ったあとも素早く組み直せる構造があった。片方でも欠けていれば、おそらく優勝はできなかった。だから成功をガリンシャ一人のおかげにしても、長く磨き上げてきたシステムだけのおかげにしても、話の全体は見えない。本当の答えは、いつも両者の間にある。なお、得点の正確な時刻には、データベースによって多少の食い違いがある。デジタル記録のなかった時代には珍しくないことだ。だが、スコア、得点者、そしてガリンシャが試合を支配したことに疑いはない。

この2試合の活躍から、広く語り継がれる言葉が生まれた。あのワールドカップは、ガリンシャが一人で勝ち取ったのだ、と。

文字どおりに受け取るなら、それは言い過ぎだ。そこに捉えられた真実は、確かにある。ペレの負傷後、ガリンシャは誰よりも際立っていたし、決勝へ至るトーナメントで4点を挙げた。けれども、ブラジルが優勝できたのは、彼一人の力ではない。グループリーグのスペイン戦でアマリウドが2点を決めたからこそ、突破できた。ババはイングランド戦、チリ戦、チェコスロバキア戦で得点した。決勝で決定的な勝ち越し点を挙げたのはジトだった。あのロマンに満ちた言い方は、ガリンシャが中心にいたことを捉えてはいる。だが、勝敗を実際に決めた働きが、何人もの選手に分かれていたことまでは語れていない。

それを見定めるのは、ガリンシャを小さく扱うためではない。このチームの本当の強さを、正確に見るためだ。強かったのは、ガリンシャが一人いたからではなく、最も頼りにしていた選手を欠いても、別の誰かが前へ出られたからである。ペレが倒れれば、アマリウドがいる。ガリンシャが徹底的に封じられれば、ババがいる、ジトがいる。一人の光だけに頼るチームはもろい。その光が消えたとたん、チーム全体が暗くなる。1962年のブラジルには、光源がいくつもあった。ペレを失っても最後まで行けた根本の理由は、そこにある。

このことは、4年前の大会から見えてきた意味にもつながっている。チームが最も頼る選手がペレであれ、ガリンシャであれ、一人ですべてを決めることはできない。いかにガリンシャが神がかっていても、そのクロスを得点に変える者が必要だし、彼が封じられたときには、ほかの誰かが立ち上がらなければならない。個人は代わりが利かない。だがチームは、決して誰か一人の一人芝居ではない。ペレを失ってもやっていける。それでも、ある意味では、ガリンシャ一人しか残らないチームであってはならないのだ。

四 一人の人間にある二つの顔

しかし、ブラジルを決勝まで背負っていった、そのガリンシャが、チリとの準決勝ではもう一つの場面を残している。

彼はまず2点を決めた。それが天才の顔だった。そして試合終了が近づいた83分ごろ、退場処分を受ける。広く伝えられている説明では、相手から繰り返しファウルを受けたすえ、チリのエラディオ・ロハスに膝を入れたという。報復の動作だった。ついさっきまでドリブルでスタジアム全体を驚嘆させていた男が、次の瞬間には、粗暴な一撃で自らピッチを去る羽目になった。

同じ試合、同じ人間に、二つの顔があった。一瞬前には奇跡、そのあとには野蛮。

同じ人間の二つの顔が、同じ試合で現れると、あまり気持ちのよくない問いを避けられなくなる。両者は、いったいどんな関係にあるのか。手っ取り早いのは、二つを切り分けることだ。奇跡を見せた方こそ本当のガリンシャで、退場になった方は、一時の気の迷いで我を失っていただけだとする。だが、この切り分け方は、よく見ると成り立たない。

成り立たないのは、二つの顔が、同じ内なる力を使っているからだ。追い回され、囲まれ、行く手をふさがれても、ガリンシャがそこを抜け出せたのは、後先を顧みない度胸と血の熱さがあったからだった。何度も蹴り倒されたすえ、ついに膝でやり返したのも、まさしく同じ度胸と血の熱さによる。それは何かを生むときには天才であり、制御を失うときには野蛮になる。けれども、もとはずっと同じものだ。絶体絶命の場所からドリブルで相手を抜くガリンシャを望みながら、いつもおとなしく、決して腹を立てないガリンシャも望むのは難しい。その二人は、もともと一人なのである。

それを認めるのは、あの膝蹴りをかばうことではない。ファウルはファウルであり、罰すべきものは罰しなければならない。ただ、理解することと、許すことは別だ。理解するとは、一人の人間を丸ごと見ることである。半分に切って、片方を神棚に上げ、もう片方を罵ることではない。ガリンシャは、美しか生まない神でも、騒動ばかり起こす乱暴者でもない。途方もない才能と、ごく普通の人間の気性や弱さを持った人だった。そういう血の通った人間として彼を見る方が、完璧な伝説としてあがめるよりも、はるかに実像に近いし、敬意もこもっている。

ところが、後年に語られる天才の物語の多くは、その全体像こそを、なかなか本人に返そうとしない。人は天才を傷一つない偶像に仕立てたがる。怒りっぽさも、弱さも、制御を失った姿も、すべて消して、華やかな面だけを残そうとする。だが、消されたものこそ、その天才を彫像ではなく、あの生身の人間たらしめていたものだったりする。ガリンシャの偉大さには、初めから彼の不完全さが含まれている。二つは切り離せない。

このことを十分に考えれば、ピッチで感情が爆発する場面にも、もう少し理解が及ぶようになる。激しいぶつかり合いや、歯止めが利かなくなる瞬間には、もちろん醜い面がある。だが、それも人を最も深く動かす瞬間も、もともとは同じ土壌から育ってきた。美しい花だけが咲き、雑草は一本も生えない土など、どこにもない。

ガリンシャを語るとき、人はいつも前の顔を語りたがる。無人の野を行くようにボールを運ぶ天才。変形した脚で、最も自由なサッカーをした男。その姿は本物だ。けれども、もう一つの姿も同じように本物である。相手に蹴られて怒り、膝で仕返しをして、退場を命じられた男。純粋な芸術家としてだけ語れば半分を落とすし、粗野な選手としてだけ語れば残りの半分を落とす。彼は一人の人間だった。人をうならせるひらめきも、歯止めが利かなくなる怒りも、その身に同時に宿っていた。しかも、その二つは、互いに干渉しない別々の部屋に住んでいたわけではない。

むしろ逆だ。あの奇跡を生み出させたものと、あの粗暴な行為に走らせたものは、同じであった可能性が高い。ピッチの上で、自分のすべてを投げ出す激しさである。勝敗をどうでもいいと思い、体がぶつかっても心が動かない人には、おそらくガリンシャのドリブルも、ガリンシャのファウルもできない。その力がよい方へ向かえば天才になり、悪い方へ向かえば野蛮になる。根は一つなのだ。

五 サンティアゴの戦い

この話を試合全体の大きさにまで広げたものが、あのサンティアゴの戦いだった。

1962年6月2日、サンティアゴのナショナル・スタジアム。チリ対イタリア。英国のテレビ解説者はのちに、自分が見た中で最も愚かで、最もぞっとさせられ、最も吐き気を催し、最も恥ずべきサッカーだったと評した。主審を務めたのは、イングランドのケン・アストンである。

最初から一触即発の試合だった。大地震に見舞われたばかりのチリは、国を挙げてこのワールドカップを開催し、世界に自分たちの力を示す機会にしようとしていた。一方、イタリアは強いチームと、尊大な態度を携えてやって来た。二つの感情がピッチでぶつかると、理性はたちまち拳に席を譲った。

ピッチで何が起きたかは、はっきりしている。観客は、唾を吐く姿を、両足で飛び込むタックルを、拳を、乱闘を、そして警官が入ってくるところを見た。イタリアのフェリーニは退場を命じられても立ち去ろうとせず、最後には警官に両脇を抱えられて連れ出された。チリのレオネル・サンチェスは、イタリアのマスキオを殴って鼻を折ったが、主審も副審も、その一撃を見ていなかった。その後、イタリアのマリオ・ダビドも、サンチェスを蹴って退場になった。試合はチリが2対0で勝った。ワールドカップ史上、最も暴力的で、最も秩序を失った試合の一つである。

ここで「最も暴力的な試合の一つ」とし、「最も暴力的な試合」と言い切らないのには理由がある。本当に史上最も暴力的だったかどうかを、正確に比べることはできない。ただ、それだけですでに十分重い事実もある。絶対的な断言を付け足して、話を大きくする必要はない。鼻を折るフック、二人の退場処分、警官に抱えられて連れ出される選手、何度もピッチに入る警官たち。それを並べるだけで、試合の秩序がどうなっていたかは、誰の目にも明らかだ。

しかし、この野蛮さは、何もないところから湧いてきたのではない。そこへ至る、たどって確かめられる道筋がある。試合前、イタリアのメディアは辛辣な筆致でチリを侮辱し、そもそもワールドカップを開催する資格のある国なのかと疑問を投げかけた。チリのメディアも、それに劣らず国家主義的で、容赦のない言葉を返した。両国の新聞は、まだボールを蹴り始めてもいないうちから、一つのスポーツの試合に火をつけ、国の威信を懸けた対決へと変えてしまった。22人が実際にピッチに立ったとき、その足元にあったのは、もはやただのボールではない。メディアがあおり立てた両国間の敵意のすべてだった。

だから、この試合の野蛮さを、どちらか一方の選手が生まれつき粗野だったという話で片づけてはいけない。それはピッチの外の民族感情から何度も油を注がれ、ついにピッチの中で燃え上がった大火だった。一つの試合を「国の威信」という器に入れると、もはやただの試合ではなくなる。そこへ注ぎ込んだ国の誇りと屈辱の分だけ、いざピッチに立ったとき、激しい敵意が燃え上がるかもしれない。

これこそ、一つの試合を国の威信という器に入れる代償だ。試合自体は、22人が一つのボールを奪い合うにすぎない。そこに、それほど大きな憎しみがあるわけではない。憎しみは外から注ぎ込まれる。メディアの記事が一本また一本と憎しみを積み上げ、二つの国が互いに募らせてきた感情が、そこに出口を見つける。それらがすべて90分間にのしかかると、ピッチは火のついた火薬樽になり、選手たちは、もっと大きな対立を代わりに戦う者になる。

だからこそ、サンティアゴの戦いを、野蛮人が暴れただけだと罵っても、肝心なところが見えていない。あの暴力には、その場で自制を失った選手の責任がある。だが、そこに火をつけた導火線は、試合のずっと前に、ピッチの外の人々が仕込んでいた。メディアは一つの試合を民族の尊厳を懸けた戦争として描き、サポーターは国全体の感情を22人の肩に載せた。それがピッチで爆発すると、人はまた、そこで拳を振るった数人ばかりを見る。本当に目を向けるべきなのは、外から内まで火が伝わっていった、あの導火線なのだ。

サッカーの歴史では、この導火線に何度も火がつけ直されてきた。一つの試合を国と国の対決にまで引き上げることは、この競技にとって最も古く、最も危険な誘惑である。それは試合にスポーツをはるかに超える重さを背負わせ、何億もの人の心をとらえることができる。だが、その重さはいつでも、ピッチの暴力やスタンドの衝突へと変わりうる。サンティアゴの戦いは、この誘惑が実らせた、とりわけ苦い果実の一つにすぎない。サッカーを何か別のものの身代わりにすると、サッカーがサッカーでなくなってしまうかもしれない。あの試合は、そのことを知らせている。

そして、最もやりきれないのは、試合を国家間の戦いへと引き上げたがる衝動が、ほとんど根絶できないことだ。国があり、国どうしが競うかぎり、ワールドカップのような舞台には、どうしてもスポーツ以上の意味が託される。人はただ一つの試合として見ることができない。そこに自分の国を見、尊厳を見、勝ち負けの向こうにあるもっと大きなものを見ようとする。この余分な重さこそが、ワールドカップが人の心を揺さぶる理由であり、ひとつ間違えば憎悪を燃え上がらせる根でもある。

六 美と暴力は同じ根から生まれる

ガリンシャのあの試合と、サンティアゴのあの試合は、実は同じことの二つの面を語っている。

サッカーはいつも、自分を美の芸術、純粋な喜びとして語りたがる。ポルトガル語には「美しいサッカー」を意味する言葉がある。そこに込められているのも、こうした美への憧れだ。サンティアゴの戦いは、その憧れの裏面である。醜く、荒れ狂い、目を背けたくなるサッカーの顔だ。人は本能的に、美こそがサッカーの本質であり、暴力はその堕落、起きるはずではなかった事故のようなものだと考える。

その気持ちはわかる。誰だって、自分の愛するものは純粋で、醜さはたまたまついた汚れにすぎず、拭えば済むと思いたい。残念ながら、話はそれほどきれいにはできていない。

この二つは、切り離せないのだ。

サッカーを美しくするものと、暴力的にするものは、同じものだ。そこへ身を投じる人々の激しさである。何が何でも勝とうとする意志、火のついた情熱、高速で体がぶつかり合う緊張、一つのゲームを何よりも重く受け止める真剣さ。それらがガリンシャの奇跡を支え、同じそれらがサンティアゴの乱闘を燃え上がらせた。美と暴力は、この激しさが二つの方向へ進んだ結果だ。別々のことではない。一つのことの、二つの面なのである。

試合を面白くするのは何か、考えてみればいい。選手が命懸けで走ること。相手にほんのわずかな得もさせまいと食い下がること。勝ち負けを何よりも大事にして打ち込むこと。心身のすべてを懸ける、その激しさがあればこそ、鳥肌が立つ瞬間が生まれる。けれども同じ激しさが、制御を失い、一線を越えたとたん、悪質なタックルになり、振り抜かれた拳になり、サンティアゴのような乱闘になる。美と暴力は、同じ井戸の水を飲んでいる。

だからサッカーの暴力は、この競技からいつまでも取り除ききれない余項なのだ。非難することも、罰することも、あらゆる手を尽くして抑えることもできる。だが、サッカーを人の心に響かせている激しさを残したまま、暴力だけを根こそぎ抜くことはできない。その激しさは、美の源であると同時に、暴力の源でもあるからだ。前者を求めるなら、後者がいつ顔を出してもおかしくないという危険も受け入れなければならない。完全に飼い慣らされ、敵意の火がまったく燃え上がらなくなった競技には、おそらくもう人の心に火をつける力もない。

ここには、あまり認めたくない真実がある。私たちがサッカーを愛するのは、まさにその激しさ、そのなりふり構わぬところ、人間の最も原初的な勝ちたいという心を解き放つ瞬間である。それなのに、いつでも清潔で、礼節を守り、決して一線を越えないでほしいとも願う。この二つの願いは、一部で衝突している。炎の光と熱は欲しいが、決して誰にもやけどをさせないでほしい。それはほとんど不可能だ。できるとしても、せいぜいその炎を炉で囲み、傷つく人を減らすことまでである。火そのものを消すことはできないし、消すべきでもない。

サッカーが百年以上にわたって人々の心を揺さぶり続けてきたのは、どれほど行儀がよいかではなく、どれほど偽りがないかによる。人間の最も本能的な勝負心、最も原初的な情熱を、隠さずそこにさらす。勝てば狂喜し、負ければ泣き崩れ、頭に血が上れば手さえ出る。この飾らない生々しさがあるから、もっと体裁のよい多くのものよりも、深く心を打つ。そして、この偽りのなさと、ときおり顔をのぞかせる野蛮さは、同じものの両端なのだ。この偽りのなさを求めるなら、その野蛮さの危険も、一緒に引き受けなければならない。

このことがわかると、サッカーの暴力を非難する声も、もう少し複雑な思いで聞くことになる。非難すべきものは、もちろん非難しなければならない。人を殴るのは人を殴ることであり、言い訳の余地はない。同時に、この競技が人を動かすあの激しさを保っているかぎり、こうした暴走はいつでも再び起こりうるのだと理解する必要がある。非難はそれを減らせても、なくすことはできない。これは暴力を擁護することではなく、どこから来るのかを冷静に見定めることだ。

こうした冷静さがあってこそ、サッカーへの愛は、独りよがりな思い込みで終わらずに済む。何かを愛するとは、輝かしい面だけを愛することではない。その影も、その危うさも、ともに引き受けることだ。サッカーの美と暴力は、もともと一つになっている。本当にそれを理解する人が受け入れるのは、その全体であって、都合よく美化し、見たくないものをすべて消した姿ではない。

準決勝でガリンシャが見せた二つの顔は、このことを最もはっきり演じている。同じ力が、あの2得点を生み、あの膝蹴りも生んだ。前者だけを残して、後者を削ることはできない。同じ根から伸びているからだ。暴力を燃え上がらせかねない激しさをすべて抜き去ったサッカーからは、おそらく心を動かすプレーも生まれない。暴力は、美が振り払えない影なのである。二つは一緒にやって来て、一緒にあるほかない。

これが、この競技にはいつまでも収まりきらない余項だ。サッカーの美をどこまでもたたえることはできる。だが、その美を享受しながら、同じ根を持つ暴力だけをきれいに取り除くことはできない。その暴力は、外から紛れ込んだ汚れではない。この激しさ自身が持つ、もう一つの顔なのである。

七 ルールがいつまでも追いつけないもの

振り払えないこの暴力に対して、サッカーにできるのは、ルールを設けることだ。

ところが1962年のピッチは、まさしくルールの力が及ばないところを映し出した。サンチェスの一撃は、審判が見ていなかったため、何の罰も受けなかった。人の鼻を折りながら、そのままピッチにとどまった。フェリーニは退場を命じられても居座り、警官に抱え出されなければならなかった。そしてガリンシャは、準決勝で確かに退場処分を受けたのに、結局は決勝でもプレーした。

なぜガリンシャが決勝に出場できたのか。のちの説明は、完全には一致していない。FIFAの回顧が強調するのは、チリ国内で公然と、政治的な色合いも帯びた支援が広がり、アレッサンドリ大統領まで彼の出場を望んで動いたことだ。別の説明では、案件はFIFAの規律委員会にかけられたが、主審はファウルを自分の目では見ておらず、線審の報告を聞いて判断していたことが、ガリンシャが処罰を免れる助けになったとされる。また、より一般的な史実上の訂正として、1962年には、退場が自動的に1試合の出場停止を意味したわけではなく、別途、規律に関する手続きで裁定する必要があったという点もある。結果は確かだ。彼は決勝でプレーした。けれども、そこへ至った仕組みは、後年の語り方によって異なる姿をしている。

ただ、正確な仕組みがどれであったにせよ、一つ明らかなことがある。退場処分を受けた選手を再び決勝のピッチへ送り出したのは、サッカーのルールそのものの論理ではなく、ルールの外にある力だった。一国の大統領の意向、世論の支援、事情を酌み、融通を利かせられる手続き。ここでは、ピッチの外から伸びた手が、ルールをそっと動かしたのである。

だからといって、ルールが何の役にも立たないわけではない。ルールがなければ、ピッチはとうにただの闘技場になっていただろう。秩序を乱す事態の大半を食い止めてきたのは、確かにルールの功績だ。ただ、難しいのは、ルールは決して隙間のないものにはならないということだ。執行するのは人間であり、人は見落とす。裁定には手続きが要り、手続きは圧力に左右される。紙の上では中立で明快でも、情熱と利害にかき回される現実に入ったとたん、必ずいくつかの隙間が口を開ける。そこから、ピッチの外の力が入り込む。

ここに、ルールの根本的な難しさがある。本来は中立で、明快で、一度決めたことは揺るがないはずなのに、実際に執行しようとすると、隙間風が吹く。一発の拳を見落とし、居座る人間を退かせられず、政治や世論の圧力のもとで、すでに下された退場処分がもたらすはずの結果まで打ち消してしまう。ピッチの秩序は、それだけで完結した、隙間のない体系では決してなかった。いつも隙間があり、そこから外の力が、民族の感情が、政治の意志が染み込んでくる。

1962年のような混乱の中からこそ、ルールは新しい一片を継ぎ足そうとし始めた。サンティアゴの戦いで主審を務めたケン・アストンはのちに、こうした暴力的で混乱した試合の経験から、警告と退場を黄と赤のカードではっきり示すという案を練り上げていった。1962年のあの試合も、1966年のイングランド対アルゼンチンも、その経験に含まれる。このカード制度は、ルールがあの混乱から新たに削り出した一片だった。

ただし、カード制度の発明をすべてサンティアゴのあの一戦に帰するのは、言い過ぎになる。より確かなのは、激しく荒れ、判定も難しかったいくつもの試合でアストンが積んだ経験が、合わさってこの案につながった、という説明だ。1962年の試合は、その重要な源の一つではあっても、唯一の原因ではない。

しかし、カード制度の話で本当に大切なのは、それがどこから生まれたかではなく、それを使っても閉じ込められないものは何か、ということだ。カードは退場と警告を明確にした。けれどもカードが2枚加わったからといって、ピッチのファウルや荒々しい感情、こそこそした反則が消えるわけではない。それらは形を変えて残り、ルールはさらに追いかけるしかない。カードのあとにも、より細かな条文や、新しい手段を加えていく。一つの構が古い穴をふさぐと、新たな穴に出会い、そこから次の構が生まれる。この追跡に、終わりはない。

終わりのないこの追跡こそ、ルールというものの宿命なのだ。どのルールも、前のルールがふさげなかった穴をふさぐために作られる。そして新しいルールもまた、古い穴をふさぐと同時に、新たな穴を残す。一片を削り、一片を継ぎ足す。その継ぎ足した部分にまた亀裂が入り、再び削って、再び継ぐ。初めはほんの数条だったものが、今日では分厚い一冊になったサッカーのルールの歴史も、そんな終わりのない道を歩んできた。規定はますます緻密になっていく。それでも最も根本にある隙間は閉じられない。その隙間の先にあるのは、サッカーの命の根だからだ。

だから、いつかルールがサッカーからあらゆる乱れを取り除くと期待するより、削っては継ぐこの循環は、もともと止まらないのだと認めた方がいい。止められないのは、ルールを作る人の知恵が足りないからでも、条文が細かさに欠けるからでもない。相手にしているもの、美も暴力も生むあの激しさが、そもそもルールに消せるものではないからだ。ルールにできるのは、それと渡り合い、破壊力をできるだけ小さくすることまでである。根こそぎ取り除くことはいつまでもできないし、そうすべきでもない。

だが、この新しい一片もまた、閉じきれない構がもう一つ増えたにすぎない。カードによって警告と退場はいくらか明確になったが、ピッチの暴力を本当に封じきることはできなかったし、これからも決してできない。その暴力は、サッカーが生きるための激しさに結びついているからだ。その激しさをルールでなくすことはできない。なくせば、サッカーそのものをなくすことになる。だからルールは、何度でも追いかけるほかない。新たな一片を削り出し、まだ穴があると気づき、さらに新しい一片を削り出す。それでも、あの何かにはいつまでも追いつけない。それは、この競技の命の根が落とす影だからである。

八 結び

ここまでの話を、束ねてみよう。

1962年、ブラジルは連覇を果たした。その事実だけでも、一つの構のしなやかな強さがわかる。最も優れた選手を失っても、人を替え、勝ち方を替えて、それでも最後までたどり着く。それは、チームが誰か一人に縛りつけられてはいないことの証明だ。

こうしたしなやかな強さは、成熟した構だけが持つものだ。寄せ集めたばかりのチームは、中心選手を失えば、しばしばばらばらになる。だが、本当に形をなした構造なら、その打撃を吸収し、自らを組み直し、動き続けることができる。1962年のブラジルが示したのは、まさしく後者だった。ペレを失っても持ちこたえられたのは、ブラジルがずっと前から、ペレだけではなかったからだ。

それでも、このしなやかさにも手の届かないところがある。一つの構は選手一人の離脱には耐えられるが、サッカーをあるときには高みへ押し上げ、あるときには暴走させる激しさまでは受け止めきれない。ペレの代わりを立てることはできても、ガリンシャの奇跡を求めながら、彼の怒りは拒むというわけにはいかない。ルールをますます細かくすることはできても、美と同じ根を持つ暴力を、完全に封じ込めることはできない。しなやかさで人の入れ替わりには対処できるが、この競技の骨の髄にある、どうしても閉じない隙間までは扱えないのだ。

こうして1962年の大会は、二つのものを、はっきりと並べて見せた。一つは成熟した構のしなやかな強さである。偶然に耐え、戦力の欠落に耐え、切り札を失っても優勝する。もう一つは、そのしなやかさでも包み込めない余項。サッカーを美しくも暴力的にもする激しさ、ルールがいつまでも追いつけない隙間だ。前者は、一つの構造がどこまで強くなれるかを見せる。後者は、どれほど強い構造にも、なお閉じ込められないものがあることを見せる。

この二つは、どちらが欠けてもサッカーの全体にはならない。しなやかな強さだけがあり、閉じない隙間がなければ、サッカーは結末を予測できる冷たい機械になり、見る楽しみがなくなる。隙間から来る混乱だけがあり、それを受け止めるしなやかさがなければ、今度は拾い集めようのない破片に砕け散ってしまう。二つが互いを支えるからこそ、この競技は安定を保ちつつ、いつも意外なことの起こる余地を残している。だが、この優勝は軽やかに手に入ったものではなかった。民族感情に火をつけられた敵意の中で、奇跡を起こすことも、退場処分を受けることもある一人の天才を頼りに、もぎ取ってきたものだった。

この大会が最も深く残したものは、優勝杯ではない。サッカーの二つの顔を、すべての人の前に同時に広げてみせたことだ。一方はガリンシャのドリブル、美の顔。もう一方はサンティアゴの乱闘、暴力の顔。人はいつも前者だけを欲しがり、後者は根絶できる偶発的な出来事だと思いたがる。だが、二つの顔は、同じ激しさが向かう二つの方向であって、どちらも相手と離れてはいられない。天才でありながら怒りを持たないガリンシャを作れないように、美だけがあって暴力のないサッカーも作れない。前者を求めれば後者もついてきて、後者もまた前者につながっている。この取引は、サッカーが生まれたその日から、キャンセルできないのだ。

ルールはその暴力を閉じ込めようとする。そこでカードができ、ますます細かい条文が次々に加わった。確かに効き目はある。けれども、あの何かを完全に封じ込めることは、いつまでもできない。封じきるには、サッカーをサッカーたらしめている激しさを、先に抜き去らねばならないからだ。それはルールにできることではなく、すべきことでもない。だからルールは、いつまでも追いかけ、いつまでも削り続け、それでも最後の一歩が届かない。その一歩が届かないことは、ルールの敗北ではない。むしろ、サッカーがまだ生きている証拠なのである。

ガリンシャについて人が覚えているのは、たいてい、そのドリブル、その奇跡、曲がった両脚から生まれた自由だけだ。けれども、彼はあの膝蹴りも放ったし、退場を命じられてピッチを去ったこともある。最もまぶしいひらめきと、歯止めの利かなくなる怒りを持つ、一人の人間だった。その先の人生にも、さらに多くの浮き沈みが待っていたが、それはまたあとの話である。ここでは、1962年にブラジルを決勝へ背負っていき、同じピッチで別の顔ものぞかせた彼を覚えておけばいい。どれか一つの面だけに単純化されることを拒む、生身の人間だった彼を。

あの激しさが必ず美へ向かうと定めた者はいない。必ず暴力へ向かうと定めた者もいない。まして、まだ現れてもいないうちから、片方だけに押しとどめられる者などいない。それはしばしば、二つの方向へ同時に進む。奇跡と野蛮が、ときには同じ人間、同じ試合、同じ力から生まれる。先の読めなさ、美と暴力がいつまでも同じ根を持つという、この難しさがあるからこそ、一試合また一試合と、サッカーは人をはらはらさせながら、目を離せなくする。ルールは何度も削り、激しさは何度も湧き上がる。どちらも相手を完全には屈服させられない。循環は止まらず、今も回り続けている。