Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · 世界サッカーシリーズ — 第03篇、全22篇

マラカナン

判定された勝利と、閉じ込められない偶然

(起点:1950年ブラジルワールドカップ)

Han Qin (秦汉) · 2026年

一 まだ蹴られていない試合を、先に勝ったと判定する

1950年7月16日の午前、リオデジャネイロ。優勝を決めるはずのその試合はまだキックオフさえしていなかったが、地元紙『オ・ムンド』はすでに一面にブラジル代表チームの写真を掲載していた。そこに添えられた一文の大意は、これぞ世界チャンピオンである、というものだった。その新聞が街頭に並んだとき、キックオフまでにはまだ何時間もあった。

これは後世の伝説ではない。その新聞の現物は今日まで残っている。試合前に優勝を刷ってしまうという行為を支えていたのは、無謀さではなく、当時国じゅうが分かち合っていたひとつの確信——ブラジルは必ず勝つ、この件はすでに決まっている、残るはただの形式にすぎない、というものだった。

フットボールを凍結させようとする衝動は、今回もまた別の顔をまとっていた。〈創建〉の章では、守護者が凍結させようとしたのはゲームの形だった。ファシズムの章では、政権が凍結させようとしたのはゲームの意味だった。そして今回、ある国家が凍結させようとしたのは、一つの試合の結果である。それはキックオフの前から、勝敗をすでに書き終えた事実として扱い、まだ宙づりであるはずの結末を、あらかじめ確定した答えへと閉合させてしまった。

だが、フットボールというものは、よりによって、あらかじめ判決を下されることを最も頑固に拒む。

フットボールには、他の競技にはあまり見られない構造がある。得点がきわめて少ないということだ。一試合でせいぜい一点か二点、時にはゼロということもある。これはつまり、九十分間のあいだどちらが押していたか、どちらのシュートが多かったか、どちらがより勝つに値したか——そのどれもが、最終的なスコアがどちらに転ぶかを保証しないということだ。ひとつの偶然の瞬間、ひとつの偏球、不意を突いた一発のロングシュート、漏らすはずのなかった一本のニアポストへの流し込み、それだけで試合全体の優位が帳消しになる。得点が稀であればあるほど、ひとつひとつのゴールの重みは増し、重みが増せば増すほど、偶然が動かせるものは大きくなる。これがもし一試合で何十点も入るような競技であれば、強弱は繰り返される得点のなかでゆっくりと均され、本当に強い者は最後まで持ちこたえて勝つことが多く、運が大波を起こすことはない。だがフットボールのスコアはあまりに薄い。薄すぎて、偶然がその中に安定して住みつき、たった一発の運が試合全体の理屈を覆い隠してしまえるほどなのだ。

ここには実は、人が最も認めたがらない亀裂が隠されている。勝つに値することと、実際に勝つこととは、別のことなのだ。あるチームは試合を通して相手を押し込み、より才能に恵まれ、より評価も高く、より優勝カップにふさわしいとされながら、それでも負けることがある。フットボールは「値する」者に賞を出すのではない。ただあの薄いスコアにしたがって賞を出すのであり、スコアが認めるのはゴールであって、道理ではない。この「値すること」と「得ること」のあいだの亀裂は、得点が雨のように降る競技であれば繰り返される得点によって埋められていくが、フットボールにおいては常に開いたままであり、開いたまま偶然の住処となる。ある国家が自分たちは「勝つべきだ」と思い込めば思い込むほど、その亀裂が口を開けたとき、いっそう信じることを拒むのである。

これこそが、本章が追おうとしている余項である。確定性とは人為的な構であり、偶然とは、この構が決して閉じ込めきれないものだ。ある国家は、まだ蹴られていない試合を先に勝ちと判定することができる。しかし、あの一点二点のゴールがだれの足に落ち、だれのゴールに入るかまでは判定できない。1950年のブラジルは、たった一日の午後をもって、その判決がどれほど脆いものかを思い知ることになる。

二 戦後の復帰と、その尋常ならざる大会方式

1950年大会の方式は、後世の人々が記憶している姿とはかなりかけ離れている。まずこれを正しておかなければ、あの午後の出来事は語りきれない。

ワールドカップが1950年に再開されたとき、前回大会からすでに十二年が空いていた。1942年と1946年の二大会は、戦争とその戦後処理のために開催されなかった。ある世代の選手たちにとっては、最も充実すべき歳月がまるごと戦火のなかで消えてしまい、ワールドカップが再開されてようやく、緑の芝生は砲火によって真っ二つに断ち切られていた線をふたたびつなぎ直すことになった。ブラジルが戦後最初の大会を主催したが、最終的に本大会に出場したのは十六か国ではなく十三か国だった。大会前と大会後に相次いでチームが棄権したためである。組み分けも不揃いで、あるグループは三か国、別のグループはわずか二か国となった。インドが抽選前に、フランスが抽選後に、それぞれ棄権したからである。フランスの棄権は、記録によれば日程への不満が理由とされる。その日程では、およそ三千キロ離れ、気候もまるで異なる二つの都市のあいだをチームが行き来させられることになっていた。こうした欠場と棄権によって、この「ワールド」カップはまたしても世界全体を集めきることができず、この大会が誕生した当初から抱え続けているあの裂け目を、なおも引きずることになった。

ブラジルが戦後最初の大会を主催したことには、この国にとって特別な重みがあった。長らく自分を世界の周縁に置かれた存在だと感じてきた国が、このワールドカップを、そして当時世界最大であった新築のスタジアムを借りて、自分の到来を世界に宣言しようとしたのだ。そのためにマラカナンを建設し、大々的な大会を開催し、国じゅうの自己期待のすべてを、大きな期待を背負った一つのチームに賭けた。この背景を踏まえてはじめて、あの敗戦がなぜあれほどの痛みとなったのかが理解できる。失われたのは一つのトロフィーだけではなく、この国が周到に準備していた、自分がついに世界にふさわしい存在になったという、あの宣言でもあったからだ。

さらに重要なのは、1950年大会には、そもそも単独の決勝戦というものが設計されていなかったという点だ。四つの組の首位——ブラジル、ウルグアイ、スウェーデン、スペイン——が最終の総当たりグループに進み、そのグループ内の成績によって優勝が決まる仕組みだった。ブラジルはユーゴスラビア、スイス、メキシコを退けてこのグループに進み、ウルグアイはフランスの棄権もあって事実上一試合しか予選を戦わず、ボリビアに8-0で大勝してグループを突破した。最終グループでは、ブラジルがスウェーデンを7-1で血祭りにあげ、スペインを6-1で一蹴した一方、ウルグアイはスペインと2-2で引き分け、スウェーデンには3-2で辛勝した。最終節を迎える前の勝ち点は、ウルグアイが3、ブラジルが4。当時の勝利二点制のもとでは、ブラジルは7月16日のその試合で引き分けさえすれば世界チャンピオンになれるが、ウルグアイは勝たねばならなかった。

したがって、後世に決勝戦として記憶されているあの試合は、厳密に言えば決勝ではなく、最終総当たりグループの最終節にすぎない。ブラジルは勝つ必要すらなく、負けさえしなければよかったのだ。後の語りはこの層を消し去り、ブラジルが「決勝戦」で優勝を失ったという話にしてしまったが、当時の実際の状況は、引き分けでさえ優勝という有利を握っていた圧倒的な本命が、最後の関門を守りきれなかったというものだった。あの金色のカップを手にするために、ブラジルに必要だったのはただ「負けないこと」だけであり、それすらも成し遂げられなかったのである。

このブラジル代表チームは、実際その期待にふさわしいチームだった。最終グループの二試合で7-1、6-1というスコアを叩き出し、二試合で十三得点。前線に並ぶアデミール、ジジーニョ、ジャイールは、当時の南米で最も華麗な攻撃陣であり、そのプレーは行雲流水のごとく、国じゅうが陶然と見とれていた。まさにその最初の二試合があまりに美しかったからこそ、「必勝」という確信はごく当然のことのように思えたのだ。相手をこてんぱんに叩きのめしてきたチームが、あと一敗さえしなければ戴冠できる——そういう局面を前にして、優勝の号外をあらかじめ刷っておくことは、ほとんど自然な成り行きのように見えた。新聞はただ、国じゅうの心の中ですでに出来上がっていた結論を、一足先に紙に刷っただけなのだ。確定性というこの構は、まさにこの一見隙のない優位の上に築かれており、それが隙のないものに見えれば見えるほど、一つのゴールによってひっくり返されたときの落差は凄まじいものとなる。盤石に見えたチームが、その日失ったのは一試合だけではなく、あの盤石に見えた世界そのものでもあった。

試合前の天秤も正しく置き直しておく必要がある。ブラジルが世論と民心において圧倒的な本命だったこと自体は間違っていない。何しろスウェーデンとスペインを完膚なきまでに叩きのめしたばかりであり、決戦は地元リオデジャネイロの目と鼻の先で行われるのだ。だがウルグアイは、後になって物語に無理やり押し込まれた無名の存在などではない。最終グループを無敗で戦い、わずか一点差につけていたからこそ、優勝の行方を最終日まで持ち越させることができたのだ。後に流布した「ブラジルは楽勝するはずだった」という簡略化された言い方は、試合前の予想を正確に反映してはいるものの、ウルグアイがまさに残された四強の一角であり、最終節を一つ勝てば優勝を持ち去れる立場にあったという事実を消し去っている。低く見積もられながらも最後まで生き残っていた相手は、決して偶然のすべてではない。だが偶然は、しばしばまさにこうした過小評価の中から這い出してくるものなのだ。

三 番狂わせの前の番狂わせ

この大会における本当の意味での偶然は、実はあの有名な午後よりも前に、すでに一度予行演習を済ませていた。

B組において、アメリカ合衆国が1-0でイングランドを下した。1950年6月29日、ベロオリゾンテでのことだ。得点したのはゲッチェンス。あの1950年のアメリカ代表は、急ごしらえの、大半がセミプロ選手からなるチームで、試合前にはたった一度しかチームとして練習していなかったと言われる。そして、あの唯一のゴールを決めたゲッチェンスは、ハイチ生まれで、当時はアメリカ国籍すら持っていなかった。そのようなチームが、近代フットボール発祥の地をひっくり返してしまったのである。

この対戦は、紙の上ではほとんど懸念の余地がなかった。片や百年を超える蓄積と満身の自負を抱くフットボールの母国、片や急遽かき集められ、試合前にようやく顔を合わせたばかりのアマチュア選手たち——その中で勝敗を決めた者にいたっては、この国の国民ですらなかった。だが終わってみればスコアは1-0、紙の上で懸念などなかったはずの側が勝ったのだ。紙の上の蓄積と自負は、ピッチの上で自動的にゴールへと換金されるわけではなく、ゴールが入らなければ、どれほど深い蓄積があろうと一試合にすら勝てない。

この結果が持つ意味は、単なる珍談奇聞の域をはるかに超えている。イングランドにとって、これが初めてのワールドカップ出場だった。近代フットボールの規則も、組織も、この競技そのものも、すべて英国から世界へと広まったものであり、イングランド人は常々この競技の本家を自任し、他人が始めたこのワールドカップに参加するために身を低くすることを、長らくよしとしてこなかった。だがようやく重い腰を上げて出向いてみれば、一度しか練習していないアマチュアの寄せ集めチームにグループステージで足をすくわれ、チリには勝ったもののアメリカに敗れ、続いてスペインにも敗れて、結局グループを突破できず、最終グループの外に締め出されてしまった。自称フットボールの宗主国は、自らの初めてのワールドカップにおいて、あらかじめ定められていたはずの軌道からいきなり突き落とされたのだ。イングランド人とブラジル人は、実は同じ種類の過ちを犯していた。両者とも、紙の上の優位を、ピッチの上で運命づけられた結果だと思い込み、強弱などとうに書き記されており、試合とはただの形式にすぎず、当然の結末を持ち帰るだけだと考えていたのだ。しかしフットボールは、決してだれのためにも結果をあらかじめ署名してはくれない。それは、自分は盤石に勝てると思い込んでいる者たちに対して、終了のホイッスルが鳴るまで何一つ決まってなどいないのだと、繰り返し思い知らせる。イングランドはベロオリゾンテで先にその洗礼を受けた。そして、この教訓を最も聞き分けるべきだった開催国の番が回ってくるのは、リオデジャネイロを待たねばならなかった。

同じ大会の中で番狂わせが二度続けば、偶然はもはや孤立した異常事態には見えなくなる。それはフットボールという構そのものに刻まれた構造的な裂け目なのだ。得点の少ない競技は、そもそも番狂わせのための余地をたっぷりと残している。弱いチームであっても、守りきり、一つか二つの瞬間さえつかめれば、紙の上の強弱を地面に押さえつけることができる。イングランド戦はまさにそれだった。アメリカはあの1-0を守りきったのだ。そして1950年大会は、まるでこの裂け目を極限まで演じてみせようとするかのように、そうした瞬間を立て続けに二度も用意した。一度は自負に満ちたイングランドの頭上に落ち、もう一度は、まさにリオデジャネイロで、あの最も自信に満ちた開催国を待ち構えていたのである。

四 あの十一分間

最終節は1950年7月16日、マラカナンスタジアムで行われた。主審はイングランドのジョージ・リーダー。ウルグアイが2-1でブラジルを破った。得点の順序ははっきりと記録されている。フリアサが四十七分、スキアフィノが六十六分、ギッジアが七十九分である。

前半は無得点に終わった。後半が始まってまもなく、ブラジルはフリアサによって膠着状態を破る。スタジアム全体が、まるですでに書き終えられた結末を祝っているかのようになり、およそ二十万人がこのゴールを戴冠の祝砲として待ち受けていた。ところがウルグアイがスキアフィノによって同点に追いつく。そして、残り十一分というところで、ギッジアが決勝点を叩き込んだ。およそ二十万人を収めたマラカナンは、その瞬間、死んだような静寂に包まれた。何年も後になって、ギッジア自身が広く知られる洒落た台詞を残している——マラカナンを沈黙させた人間は、歴史上たった三人しかいない、教皇と、フランク・シナトラと、そして自分だ、と。むろんこれは後になっての述懐であり、1950年当日にその場で言われた言葉ではない。しかし、この言葉はあの瞬間の重みを的確に捉えている。一発のシュートが、戴冠のためにやって来たスタジアムまるごとを黙らせたのだ。

あの午後の感情の曲線は、ほとんど偶然によってへし折られた放物線だった。フリアサが得点したとき、およそ二十万人の歓声は屋根を吹き飛ばさんばかりで、あの書き終えられたはずの結末がついに実現したかのようだった。スキアフィノが同点に追いついたとき、その歓声には初めて不安が混じり始める。そして七十九分にギッジアが二点目を叩き込むと、右肩上がりだったはずの曲線は断崖のように急落し、巨大な音の波はほんの数秒のうちに抜き取られ、あとにはほとんど重さを感じさせるほどの静寂だけが残った。スタジアム全体は、もともと確定した事実を目撃するためにやって来ていたはずなのに、実際にそこで目撃したのは、よりによって確定性がその場で砕け散る様だったのだ。

ウルグアイが持ちこたえられたことは、ある一人の人物と切り離せない。主将オブドゥリオ・バレラである。後の回想の中では、彼の言葉として広く語り継がれているものがいくつかある。ある伝えでは、試合前に彼が仲間たちに、満員のスタンドなど見るなと言い、あのスタンド席の連中はみな木でできているのだと言ったとされる。また別の伝えでは、その意味をより簡潔な一言に要約して、ピッチの上ではしょせん十一人対十一人にすぎないと言ったとされる。さらに、彼がわざと、ブラジルの優勝を先んじて報じたあの新聞を持ち出し、チーム全体の反骨心を煽ったという記録もある。これらの言葉の正確な文言は、伝えられ方によって異なっており、逐語的な実録としてではなく、根拠のしっかりした後世の回想として受け止めるほうが穏当だろう。だが、それらが指し示している事実そのものは本物である——国じゅうが結末はすでに決まったと思い込んでいたそのとき、あの十一人は、あらかじめ書かれた筋書きを受け入れることを拒んだのだ。

バレラが拒んだのは、まさにあの確定性という構そのものだった。スタンドを埋めたおよそ二十万人、新聞にあらかじめ刷り込まれた優勝、国じゅうの確信——それらが合わさって、ブラジルの必勝を判定する、風ひとつ通さぬ判決となっていた。だが、その判決がどれほど分厚くとも、ピッチの上のあの十一分間を押さえ込むことはできなかった。一つのゴール、七十九分の一つのゴールが、それをまるごとひっくり返してしまったのである。

これこそが、フットボールの低得点構造の最も鋭い部分である。あの午後のブラジルが、必ずしもより優れたチームでなかったとは言えない。しかしフットボールは「より優れている」という基準では決済しない。それはただあの薄いスコアだけを認めるのであり、そのスコアは一瞬で書き換えられるほど薄いのだ。九十分間の優位も、国じゅうの期待も、あらかじめ刷られた新聞も、ギッジアのあの一撃の前ではすべて無効になった。とはいえ、ウルグアイも天から降ってきた番狂わせなどではない。もともと残された強豪の一角であり、バレラのような運命を受け入れない人物がいて、二十万人のブーイングに耐えぬく強靭さがあった。この試合を純粋な異常事態として、フットボールの論理に対する裏切りとして語るのは正確ではない。ウルグアイは、勝たねばならず、かつ実際に勝つ実力もあった試合に勝ったのである。偶然が偶然であるのは、弱者が理由もなく強者に勝ったからではなく、結末がだれかによってあらかじめ書き記されたことなど一度もなかったからだ——たとえ国じゅうがそれをすでに書き記されたものだと思い込んでいたとしても。

ギッジアのあの決勝点は、後に何度も静止画として切り取られ、繰り返しゴールキーパーのバルボサの責任にされてきた。あの位置でニアポストを抜かれるべきではなかった、というわけだ。あるゴールがだれの守るゴールに入ったかによって、その人物は最も容易に、すべてを崩壊させた張本人として名指しされてしまう。しかし、あの十一分間に本当に起きていたのは、最後まで生き続けていた一つのチームが、だれにも予測しえない瞬間をつかみ取り、国じゅうの確信を根こそぎ引き抜いたということだった。そのすべてをゴールキーパー一人の一つのミスへと圧縮するのは、後になってからのことであり、それもまた、偶然に名前を与えようとするもう一つの試みにすぎない。

しかもウルグアイは人口わずか数百万の小国でありながら、まさに1930年の第一回ワールドカップの優勝国でもあった。この、幾度となく巨人たちに低く見積もられてきた小国は、またしても、だれもが思い描いていた筋書きの外側で、優勝を持ち去ってしまったのである。低く見積もられた側こそが、しばしば偶然の潜む場所なのだ。

五 偶然を受け入れられない:スケープゴートの製造

もし物語がギッジアのゴールで終わっていたなら、それはただの痛ましい敗北にすぎなかっただろう。1950年を数十年経っても癒えない傷に変えたのは、試合に負けたあとに起きたことである。

ある国家が、偶然を受け入れられなかった。

偶然は、最も消化しがたいものだ。それは、これほど大きな痛みの背後に、まともな理由が何一つないということを意味する。憎める相手も、追及できる相手も、指さして「お前のせいだ」と言える対象も、何一つないということだ。それは、あなたが持てるすべてを傾け、国じゅうの期待をすべて賭けたにもかかわらず、結果が一発のロングシュートの運にかかっていたということを意味する。こうした理由なき痛みに、人は耐えられない。だから人は理由をでっち上げる。たとえその理由が間違っていたとしても、間違った理由があるほうが、そもそも理由など存在しないと認めるよりはまだましなのだ。名も顔もある元凶がいれば、果てしなく広がる痛みを一つの指し示せる点へと収斂させることができる。そして指し示せる一点は、たとえ指し示す相手を間違えていたとしても、手のつけようのない虚空よりはましなのである。

ブラジルがでっち上げた理由は、数人の選手の名前だった——ゴールキーパーのバルボサ、そしてビゴーデとジュヴェナウである。これは後になって事後的に定められたことではなく、当時から始まっており、しかもそれが数十年にわたって追及され続けた。チーム全体の、しかも偶然による敗北を、二、三人の頭上に押しつけることは、あの理解しがたい崩壊に、目に見える元凶を据えつけることに等しい。元凶が見つかれば、あの消化しきれない偶然は、名も顔もある一つの原因の中に閉じ込められる。

この責任追及は、実に速く、そして苛烈だった。あのスタジアムがまだ死んだような静寂に包まれているうちから、罪人を探す視線はすでにさまよい始めていた。つい先ほどまで国じゅうが英雄として期待していたチームが、瞬く間に国じゅうから糾弾される対象へと変わり、そして糾弾には具体的な一つ一つの顔が必要とされる。チーム全体の敗北を、一つの偶然の瞬間を、二、三人の罪へと換算する——この換算は感情的には実に都合がよい。なぜならそれによって、あの覆いつくすほど広がり、行き場のなかった失望が、ついに落ち着ける場所をいくつか見つけるからだ。その代償として、選ばれたこの数人は、本来だれか一個人に属するはずのなかった重みを、国全体に代わって背負わされることになる。

しかしこの原因は偽物である。真相は、あの試合があまりに紙一重だったということ、ウルグアイに本物の実力があったということ、そしてギッジアがだれにも計算しえない瞬間をつかみ取ったということだ。どの選手一人としてこの敗北を「引き起こした」わけではない。だれか一人の選手だけで勝利を「引き起こす」ことができないのと同じことである。スケープゴートの仕組みがしようとしているのは、まさにこの真相を覆い隠すことにほかならない。なぜなら、真相の中で最も核心にある偶然というものこそ、それが最も直視したくないものだからだ。偶然を認めることは、この痛みには追及すべき先などないと認めることに等しく、追及すべき先のない痛みは、元凶のある痛みよりも、いっそう人の心を落ち着かなくさせる。そこでスケープゴートが作り出され、偶然の座に成り代わった。目に見える一人の人間が、目に見えない運のかわりに罪を負わされたのである。

このようなことは、ブラジルだけに起きるものではない。偶然によってひどく傷つけられた集団はどこであれ、だれかに責任を負わせようとしがちだ。なぜなら、一人の人間を追及するほうが、だれも追及できないという事実を受け入れるよりも、はるかに容易だからである。この観点から見れば、スケープゴートはブラジル人がとりわけ残酷だからではなく、人間が偶然に直面したときに示す本能的な反応にすぎない。汲み取るべきなのは、まさにこの本能の背後にある理解可能な痛みのほうだ。ある国家が全部の熱望を賭け、それを一瞬にして失った——それには出口が必要なのである。しかし、本能が理解できるということは、その本能が生み出した冤罪までもが見逃されてよいということにはならない。ある国家がなぜスケープゴートを探そうとするのかを理解することと、それが間違った人間を選び、無実の人間を陥れたのだと指摘することは、けっして矛盾する二つのことではない。

偶然を、罪ある一人の人間にすり替えること——これが1950年が残した最初の、そして最も深い鑿の痕である。しかし、偶然に成り代わったのが、なぜよりによってこの三人だったのか。

六 なぜあの三人だったのか

恥辱の柱に釘打たれたあの三人、バルボサ、ビゴーデ、ジュヴェナウは、あのブラジル代表チームの中の黒人選手だった。

これは現代の批評家が発明したことではない。すでに数十年前から、ブラジルフットボールを研究する学者たちはこの規則性に気づいており、1950年の敗北を「その三名の黒人選手」に帰責されたものとして記述していた。後のブラジルの学界は、この点をさらに深く掘り下げ、より率直に語るようになる。現代の研究が指摘するところによれば、1950年の敗北が人種をめぐる一つの劇へと転化したのは、まさに非難が比喩的なかたちで黒人選手の上に集中的に注ぎ込まれたからであり、バルボサは一つの記号となって、黒人は情緒が不安定で、理性に欠け、ゴールを守るにふさわしくないという一連の人種的偏見が、彼を介して何度も何度も複製されていった。当時流布していた言い方の一つに、黒人選手や混血選手は肝心な場面になると崩れる、というものがあった。さらに別の研究は、当時のメディアが白人選手を批判する際にはプレー内容を対象にしていたのに対し、有色人種の選手を批判する際には、人格や胆力、信頼できるかどうかといった、人種色を帯びた言葉づかいを用い、比喩という一枚のヴェールを通して黒人選手を「頼りにならない人間」として刻印しながら、同時に露骨な人種差別の言葉は避けていた、と指摘している。言い換えれば、人種によって符号化されていたのは、だれが責められたかということだけでなく、どのように責められたかということでもあったのだ。

ここまで来ると、あの仕組みは完成する。偶然を受け入れられない国家は、敗北に対して一つの原因をでっち上げる必要があるが、その原因をどこに置くかは、空白の中から適当に選ばれるわけではなく、あらかじめ用意された溝の中に落ち込んでいく。その溝とは、すでに存在していた一連の人種的偏見である。元凶を必要とする衝動と、あらかじめ出来上がっていた人種的偏見とが、寸分の隙もなくぴたりと重なり合い、元凶の人選は、ほとんど偏見によってあらかじめ選び出されていたも同然になる。試合が始まるよりも前から、この偏見はすでに容疑者を用意しており、あとはただ一つの敗北がそれを現実のものにするのを待つばかりだったのだ。スケープゴートの仕組みには、こうして二重の閉合が隠されている。まず偶然を有罪の原因の中に閉じ込め、次にその原因を、肌の色にしたがって、本来何一つ咎められるべきところのない数人に、あらかじめ割り当てるのである。

ここに含まれる不公正さは、だれかが声高に宣告するまでもなく、事実そのものだけですでに十分に重い。この三人は何一つ間違ったことをしていない。彼らはただ、間違ったタイミングに、あの偏見の中で「頼りにならない」と判定される顔をたまたま持っていたにすぎない。一つの偶然による敗北の重みをすべて彼らの上に押しつけることは、認知における怠慢であると同時に、具体的な人間に対する具体的な害でもある。一つの国家が偶然に向き合おうとしなかった代償を、この三人が支払わされたのだ。

ここでも正確に言っておかねばならない。当時のすべてのブラジル人が、自覚的な悪意をもって黒人選手に罪を着せていたわけではない。人種による符号化というものは、むしろ一つの言語、一つの無自覚な偏見の中で作動するものなのだ。白人選手を批判するときは「今日は調子が悪かった」と言い、黒人選手を批判するときは「こういう人間は頼りにならない、持ちこたえられない、肝心な場面で踏ん張れない」と言う。前者は一回のプレーを対象とし、後者は一つの人間のカテゴリーそのものを対象とする。まさにこの、言葉づかいの中に隠された二重基準こそが、非難を音もなく肌の色の理に沿って流し込み、あの三人の上へと流れ着かせたのである。だれかが汚い言葉を叫ぶ必要すらない。一つの出来合いの言語が、その汚れ仕事を代わりにやってのけたのだ。

後になって、ブラジル自身のフットボール博物館ですら、この読み直しを固定するに至った。博物館は、古い公共の記憶がバルボサの生涯を「1950年の敗北」へと圧縮してしまったこと、そしてこの記憶が主にスポーツ関係者、記者、知識人によって構築されたものであり、しかも彼らが「偶然ではなく」全員白人であったことを指摘している。博物館はこのために常設展示を改め、バルボサが二点目を失った直後に跪いているあの象徴的な写真を撤去し、代わりにはっきりとした一文を掲げた。ブラジルの敗北は不当にもジュヴェナウ、ビゴーデ、バルボサ——1950年チームの「三名の黒人選手」に帰責されたのだ、と。かつて有罪を宣告するために使われていた一つの記号が、正されるべき一つの不公正として、あらためて認識し直されたのである。そして、この訂正それ自体こそが、抑え込まれていたあの真相が、幾年もの後にふたたび地表を突き破って現れたものにほかならない。

博物館のあの「偶然ではなく全員白人であった」という一文が明らかにしているのは、さらに深い事柄である。一つの公共の記憶は、けっして中立に育ってくるものではない。それは、ある特定の人々によって、ある特定の言葉で、繰り返し語られることによって初めて、形として固まっていくのだ。だれがマイクを握っているか、だれが記事を書いているか、だれが著述をなしているか——それによって、この記憶がだれの頭の上に責任を据えつけるかが決まってくる。1950年のあの、黒人選手を恥辱の柱に釘打った記憶は、まさに画一的な一群の人々によって構築されたものであり、彼らの偏見が、当然の成り行きとして一つの国家の「共通認識」へと姿を変えたのだ。そして数十年後、別の一群の人々がふたたびそれらの資料をひもといたとき、あの釘打たれていた真相は、ようやく記憶の隙間からふたたび地表を突き破って現れる機会を得たのである。余項の保存は、ここでは別の姿をとる。押し込められた公道は消えてなくなるわけではなく、ただ、それをふたたび語ることのできるだれかを待っているだけなのだ。

七 バルボサの五十年

これらすべての仕組みと、そして訂正の底には、一人の具体的な人間がいる。生涯にわたってゴールを守り続けながら、たった一試合の結末によって、残りの人生を奪われた男である。

バルボサは晩年、広く語り継がれる一言を残している。七十九歳の誕生日前後に、彼はこう言った。ブラジルの法律における最も重い刑期は三十年だが、自分はこの「服役」を、すでに五十年も続けている、と。もう少し早い時期、1993年のある証言では、彼はこう問うている。自分はいったいどんな罪を、どんな咎を犯して、四十年あまりも罰せられねばならないのか、と。言葉づかいには多少の違いがあるが、その根底にある自己認識は一貫している。彼は自分の人生の後半を、社会によって強いられた、決して満期を迎えることのない服役として理解していたのだ。一人のゴールキーパーが、たった一つの失点のせいで、生涯まるごとを服役として生きることになったのである。

この服役を言い渡されたのは、バルボサ一人だけではない。ビゴーデとジュヴェナウも、同様に生涯それを背負わされた。ただ、バルボサはゴールを守る立場にあり、あのゴールが彼の目の前をかすめて入ったために、彼はこの冤罪の最も刺々しい顔となり、他の二人の分までも、あわせて自分の身に背負い込むことになったのだ。本来ならチーム全体で、いや、そもそも追及しようのない偶然によって分担されるべきだった一つの敗北が、最終的には三人の上にのしかかり、しかもとりわけ重く、一人の上にのしかかったのである。

この服役は、言葉の上だけのものではなかった。1994年のワールドカップの前、バルボサはブラジル代表の合宿地を訪れようとしたが、門前で締め出され、選手たちに会うことを許されなかった。理由は、彼が不運をもたらすかもしれない、というものだった。かつて代表チームのゴールを守った人間が、数十年後、自分の祖国のチームによって不吉な存在として扱われ、門の外に締め出されたのである。一つのゴールが彼の守るネットに入り、この国はほぼ半世紀を費やして、彼にそのゴールの償いをさせ続けた——一度の見舞いすら許されないところまで。普通の失点であれば、他の人間の身に起きたことなら数年もすれば薄れていくものかもしれない。だが彼の身では、それは凝り固まり、生涯にわたる烙印となった。なぜなら彼は必要とされたからだ——国じゅうが「お前のせいだ」と指さすことのできる、その相手として。つまるところ、彼が償っていたのは、けっしてあの一つのゴールではない。一つの国家が偶然を消化しきれなかった、その痛みなのだ。その痛みはあまりに大きく、一人の人間の一生をもって埋め合わせるほかないほどのものだったのである。

ここまで来ると、これ以上は彼に代わって語るべきではない言葉もある。一人の人間が、スケープゴートを必要とする一連の仕組みによって選び出され、その仕組みが彼に演じさせようとしたのは、一つの原因、一人の元凶、国じゅうの苦悩を盛るための一つの容器だった。だが彼は原因などではない。彼は一人の人間であり、自分自身の生涯を持っていた。そしてその生涯は、失点したあの一つのゴールをはるかに超えるものだった。スケープゴートの仕組みが最も見誤っていたのは、まさにこの点である。それが求めているのは一つの記号だが、記号の下には常に、記号の中には収まりきらない、一人の生きた人間がいる。博物館があの跪く写真を撤去したことは、単に一枚の図版を差し替えたということではない。数十年間、容器として扱われ続けてきた一人の人間を、あらためて一人の人間として取り戻したということなのだ。この遅れてきた回復は、たとえ国家全体によって数十年釘打たれ続けたとしても、あの生きた人間が、ついにその記号の中に完全に釘づけにされることはなかったのだということを物語っている。

八 白いユニフォームから黄色いユニフォームへ、そして遅れてきた名前

1950年以後、この国はあの敗北の上に、さらに別のものを何層にも重ねていった。そして、これらの後から重ねられた層についても、それがいつ、どのように重ねられたのかを、きちんと区別しておかねばならない。

最も目立つ層は、ユニフォームの色である。ブラジルの今や象徴となっているあの黄色いシャツは、1950年以後の余波に属するものだが、その由来は、「負けたから色を変えた」という口当たりのよい簡略化された説明よりも、はるかに精緻なものだ。1953年、「コレイオ・ダ・マニャン」紙はブラジルスポーツ連盟と共同で、新しい代表ユニフォームの公募を行った。規定では、デザインにブラジル国旗の四色を用いること、そしてユニフォームに「ブラジル」の文字や直接的な国旗の図案を入れないことが求められた。古い白いシャツを取り替えることになったのは、1950年以後、その白いユニフォームが世論の感情の中で、すでに敗北によって汚点をつけられ、この国にふさわしくないものと見なされるようになっていたからである。三百一人の応募があり、最終的に選ばれたのは、わずか十九歳のアルディール・ガルシア・シュレーだった。彼は何百枚もの下絵を描いたが、最も難しかったのは、国旗の四色を一着のユニフォームの中に調和よく詰め込むことだった。最終的に彼が出した結論は、上着全体を黄一色にし、残りの色は縁取りと、ショートパンツ、そしてストッキングに割り振るというものだった。これが、1930年から1950年まで着用されてきた白いシャツに取って代わった、あのカナリアイエローの由来である。ユニフォームの色は変わったが、その変更という行為の底に隠されていたのは、あの敗北を国家の身体から洗い流したいという願いだった。その後に起きたことには、意味深長な皮肉が含まれている。この、一つの敗北を埋葬するために生まれた黄色いシャツは、のちに世界フットボール界で最も目を引き、最も人々の心に浸透したユニフォームとなり、黄色はほとんどブラジルフットボールそのものの代名詞となった。敗北の灰の中から選び出された一つの色が、最終的には勝利の図像として身にまとわれることになったのである。敗北は埋められたがっていたのに、まさにその埋められた場所から、後のあらゆる栄光の下地となる色が育っていった。これもまた、偶然が一筆で消し去られることを拒む、もう一つの注釈なのだ。

もう一つの層は、一つの名前、一つの心的状態に与えられた名前である。ネルソン・ロドリゲスは、ブラジルフットボールのこの心的状態を「雑種犬コンプレックス」complexo de vira-latasと名づけた。これは、ブラジル人が世界の前で、とりわけフットボールにおいて、常に自分を一段劣った位置に置いてしまうことを意味する。だが、この言い回しは1958年に属するものであり、1950年に属するものではない。この時間差は非常に重要だ。それはロドリゲスが1958年5月に書いた一篇のコラムに由来しており、その文章の中で彼は、五十年このかたブラジルフットボールは自分自身を信じることを恥じてきたと書き、この劣等感を、ウルグアイに敗れたあの試合にはっきりと結びつけている。つまり、後に無数に引用され、あたかも1950年のその場ですでに存在していたかのようなあのコンプレックスは、実は八年後になって名づけられ、その後にさかのぼってあの敗北に結びつけられたものだったのだ。一つの心的状態に名前が与えられると、今度はその名前のほうが、もともと説明のつかなかったあの痛みに、あるべき意味を定めてしまうのである。

現代の歴史学は、1950年をめぐるあのより大がかりな文化的物語を、さらに複雑なものにしている。ある研究が指摘するところによれば、ブラジルフットボールにおける黒人選手を扱った1964年のある著作の増補版が、後のスポーツ的記憶が1950年を語る際の主要な母体となり、人種、道徳、政治の各層にわたる解釈は、事後になって初めて、この敗北の支配的な意味へと一段一段押し上げられていったのだという。この研究者はさらに、この準優勝への国じゅうの執着があまりに深く、それに比べれば、あの大会の他の多くの試合について人々はほとんど何も知らないに等しい、と述べている。これはあの敗北の重みを否定しようとするものではなく、後の語りが、その意味を凝固させ、そして狭めていったということを指摘しているのだ。一つの試合には、本来いくつもの語り方がありえたはずだ。ウルグアイの粘り強さとして語ることもできたし、偶然の無常として語ることもできた。あの世代のブラジルの攻撃陣の華麗さとして語ることもできたし、新しいスタジアムが初めて二十万人を収容した盛況として語ることもできた。しかし後の記憶は、ほとんど一つの方向にだけ収斂していき、国家の劣等感、人種、運命をめぐる単一の寓話へと収められてしまった。その結果、あの大会の他の試合や、他にありえた語り方は、この独占的な物語に覆い隠され、ほとんどだれの記憶にも残らなくなってしまったのである。一つの意味が独り勝ちしていく過程は、まさに他の意味が一つひとつ締め出されていく過程にほかならず、締め出されたそれらの語り方の中にこそ、本来この試合の真実により近い姿が隠されていたのだ。

これら後から重ねられた層は、みな同じことをしている。黄色いシャツに着替えることは、汚点をつけられた白いユニフォームを、敗北もろとも埋めてしまいたいという願いだった。一つのコンプレックスに名前をつけることは、あの首尾一貫しない痛みに、筋の通った心理学的な説明を見つけたいという願いだった。人種、道徳、運命の意味を積み上げることは、一つの偶然による敗北を、この国の本質をめぐる一つの寓話であるかのように読ませたいという願いだった。どの層も、あの試合の本当の姿を覆い隠そうとする試みであり、そしてあの試合の本当の姿とは、ただ、力の拮抗した、一つの偶然の瞬間によって決まったフットボールの試合にすぎない。これらすべての意味が重ねられる前には、それはただそれだけのものだったのだ。

とはいえ、これはこれらの意味がすべて根拠のない虚構だったということではない。一つの敗北は、確かに一つの国家の心に本物の傷を残す。劣等感にせよ、執着にせよ、それらはけっして無から生まれた感情ではない。だが、感情は感情として、それを一つの国家の本質に関する定論へと固めてしまうことは、また別の話である。前者は人として当然のことだが、後者は、偶然を釘づけにして殺そうとする、もう一つの鑿にほかならない。一つの試合の偶然を、一つの民族の運命づけられた宿命として語ることは、かつてそれを数人の選手の運命づけられた過ちとして語ったことと、同じ手法を用いている——どちらも、あの理由なき痛みに、一見筋の通って見える理由を見つけようとしているのだ。ただ今回、釘打たれたのは、もはや数人の具体的な人間ではなく、国家全体が自分自身について抱く想像そのものである。

九 収束:偶然は閉じ込められず、人もまた収めきれない

ある国家が、かつてまだ蹴られていない試合を先に勝ちと判定し、宙づりの結末を、あらかじめ確定した事実へと閉合させてしまった。新聞は優勝をあらかじめ刷り、スタンドにはおよそ二十万人が座り、国じゅうが勝敗はすでに決まったと思い込んでいた。だがフットボールは、七十九分の一つのゴールによって、この判決をまるごとひっくり返してしまった。低得点の構造は、あの薄いスコアの中に常に偶然を住まわせており、偶然とは、いかなる確定性の構をもってしても決して閉じ込めきれない余項なのである。たとえ国じゅうが結末はすでに書き記されたと思い込んでいても、それは書き記されてなどいなかった。それはずっと、あの一発のロングシュートの運の中に宙づりになっていたのだ。

試合に負けたあと、この国家は偶然を受け入れられず、そこで第二の構を作り出し、あの追及しようのない痛みを、名も顔もある数人の人間の中に閉じ込めた。そしてこの元凶の人選は、すでに存在していた一連の人種的偏見によってあらかじめ割り当てられ、三名の黒人選手の上に落ち着いた。この構もまた、閉じ込めようとしたものを閉じ込めきれなかった。真相は依然として、あの試合があまりに紙一重だったこと、ウルグアイに本物の実力があったこと、そしてだれ一人としてあの敗北を単独で引き起こせなかったことにある。そのさらに後には、黄色いシャツが白いユニフォームを覆い隠し、遅れてきた一つの名前があの痛みを覆い隠し、人種、道徳、運命という幾重もの意味が、力の拮抗した一つのフットボールの試合を、一つの国家的寓話へと語り変えてしまった。一つひとつの層は、みなあの試合の本当の姿を覆い殺そうとするものであり、そしてどの層の下にも、本当の姿は依然として残っている。

これらすべての構を通り抜けて、二つの、収めきれないものが残る。一つは偶然そのものである。フットボールの低得点構造がそれを下支えしており、「より優れた」チームが必ずしも勝つとは限らず、必然について、宿命について、だれが勝つに値するかについてのいかなる言説も、一つのゴールによっていつでも覆されうる。もう一つは人間である。元凶に仕立てられたあのバルボサは、生涯にわたってゴールを守りながら、五十年もの刑罰を科された。だが彼はけっして一つの原因などではなく、いかなる記号の中にも収まりきらない一人の生きた人間だったのだ。幾年もの後、一つの博物館が彼の跪く写真を撤去し、彼をあらためて一人の人間として認め直した。まさにこの二つの収めきれないものが、それぞれ遅ればせながら、地表を突き破って現れたのである。

この二つのものは、実は同じ一つの事柄の両面である。フットボールに偶然があるからこそ、結末はあらかじめ書き記されることがなく、そして、あらかじめ書き記されない結末とは、だれも勝つべく運命づけられてなどおらず、だれも負けたことのために死ぬべく運命づけられてなどいない、ということを意味する。偶然を、罪ある一人の人間にすり替えることは、前半を否定すると同時に、後半をも打ち砕くことになる。それは一方では結末はもともと掌握可能であったかのように装いながら、他方ではその掌握しえなかった部分を、一人の生きた人間の勘定に押しつけているのだ。だから偶然を認めることは、むしろ人間に対する一種の寛大さなのである。それは、いくつかの敗北はだれ一人として全責任を負いきれるものではない、なぜならそれはそもそもだれの掌握の内にもなかったのだから、ということを意味する。一つのゴールがただそのように転がり込んできてしまう可能性を、平然と受け入れることさえできれば、もはやだれかを探し出して、彼を数十年にわたって釘づけにする必要もなくなるのだ。

この物語によって押しつぶされたのは、バルボサのような人間だった。この物語によって過小評価されたのは、バレラのあの「十一人対十一人」という言葉だった。押しつぶすにせよ、過小評価するにせよ、結局のところ、人間を本当の意味であの書き終えられた筋書きの中に収めることはできなかったのだ。1950年が後世に残したのは、だれが責められるべきかについての答えではなく、より素朴で、しかしより受け入れがたい一つの事実である。すなわち、あの試合はけっしてあらかじめ書き記されてなどいなかった。フットボールというものそのものが、けっしてあらかじめ書き記されることを拒み続けるのと、ちょうど同じように。

この教訓を、ブラジルは数十年、幾世代にもわたる繰り返しの回顧を経て、ようやく少しずつ聞き取れるようになった。人を恥辱の柱に釘打つことから、博物館があの写真を撤去するまでのあいだに横たわっているのは、まさに一つの国家が偶然と和解することを学んでいく、長い長い過程である。和解とは、あの試合を忘れることではない。ようやく認める気になれたということだ——あの試合の結末には、だれにも掌握できない部分があり、だからこそ、だれもそのために生涯をかけて罪を贖う必要などない、と。

この先どこへ向かうべきかを定めた者などだれもいない。そして、まさにこの計算のつかなさこそが、この競技を一試合また一試合と、常にもう一度プレーする価値のあるものにし続けているのだ。次のゴールによって永遠に書き換えられうる結末——それこそが、フットボールの最も魅力的で、そして最も誠実なところである。それはだれにも運命づけられた勝利を約束しようとはしない。だからこそ、だれにも、あの敗北における運命づけられた罪人であることを求めてはならないのだ。循環は止まっていない。今もなお回り続けている。