Non DubitoEssays in the Self-as-an-End Tradition
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SAE · Rights Theory · 日本語編集・再構成版
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権利ではないもの

Han Qin (秦汉)

まず五つの混同を外す

権利はしばしば「誰かから与えられたもの」と語られる。しかし贈与なら、与え手が撤回できる。基本的権利の根拠は、権力者や制度の好意が続くことに依存してはならない。1215年のマグナ・カルタが政治的圧力のもとで承認され、まもなく無効化され、再発布を重ねて伝統になった事実は、紙上の承認と権利の最終的根拠が同じではないことを示す。

権利は許可でもない。許可は、もともと存在しなかった法的資格を作ることがある。これに対し、発言や身体の不可侵といった基本的権利では、正当化を要するのは行為する主体ではなく、それを制限する側である。

権利は権力とも同一ではない。権力が弱い人にも権利はあり、強い人の能力がそのまま権利になるわけでもない。権利は権力の及ばない私的領域というだけでもない。制度が認め、執行する権利には権力が必要だが、権力は権利の道徳的根拠を自動的には作らない。

法律と利益だけでも足りない

法は権利に公的な形、手続、救済を与える。だが法的有効性、現実の執行可能性、道徳的正当性は分けて考えなければならない。奴隷制を有効にした法があったことは、有効な法的地位が常に正当な権利だったことを意味しない。

利益も重要だが、利益と権利は同義ではない。多くのものが価値や利益を持つ一方、権利は誰が第一人称でその保護の位置に立つかを問う。利益は何を守るべきかを示せても、主体としての地位を単独では説明しきれない。

自由と権利主体

ここでいう自由は、障害が一つもない状態ではない。脅迫によって選択肢が一つにされた状態とも違う。自分の行為理由がなお自分のものとして形成され、検討され、引き受けられること――その内的必然が自由の核になる。

子どもや意思を表明できない人は、権利を自力で行使できない場合があっても、権利主体としての地位を失わない。保有、本人による行使、代理や支援を通じた行使は別の問題である。動物の地位はなお開かれた問いであり、苦痛、選好、抵抗を理論の外へ追い出してよい理由にはならない。

五つの混同を外すと、次の問いが残る。権利はどこから来て、どのような構造を持つのか。