Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ · 第25篇、全26篇

第25篇:ジョージ・H・W・ブッシュとクリントン――「歴史の終わり」という幻想

Han Qin (秦汉) · 鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ · 2026年
この篇の目次

一 完結の幻想が最も強まったとき

続いて登場した外交に通じた老練な大統領は、ソ連解体と短期決着の戦争という局面を経験した。そのあとを継いだ若い大統領は、冷戦の対抗者が姿を消した一極の時代に、新たな繁栄の到来を告げた。多くの人が「歴史の終わり」を語り始めた時代である。1989年のジョージ・H・W・ブッシュの就任から、2001年初めのクリントン退任までの12年間。この構造が抱える永遠のせめぎ合いに、ついに終止符を打てるように見えたのが、この時期だった。本篇が追うのは、その終止符が、なぜ結局は打たれなかったのかという問いである。

まず、この時期を構造の面からどう捉えるかを明らかにしておこう。本シリーズ全体の長い時間軸に置いてみるなら、この12年間を、制度が自らを完成へと導く勝利の軌跡として描くのは適切ではない。歴史上の位置をより正確に言えば、冷戦は確かに終わり、ソ連の体制は確かに崩壊し、自由民主主義と市場資本主義の組み合わせは、普遍的な訴求力をなお備えた唯一の制度として、当時、多くの人に受け止められていた。しかし、勝利を手にしたかに見えたまさにそのとき、新たな緊張が別の姿で現れ始めていた。1989年、フクヤマはこの空気を、人類のイデオロギーの進化が終点に達し、西洋の自由民主主義が普遍化していくという言葉で捉えた。それに対し、やや遅れて登場した批判者たちは、ハンチントンからその後の民主主義理論家に至るまで、民族、宗教、文明、主権、そして成長の果実の分配に対する市民の不満は、冷戦が終わったからといって消えはしないと繰り返し指摘した。

本シリーズの議論に引き寄せれば、この判断の重みはいっそう明確になる。歴史終焉論は、シリーズを通じて論じてきた「完結の幻想」が、最も強い形をとって現れたものだった。フクヤマが捉えたのは、現実の歴史的瞬間に生まれた、まぎれもない自信である。冷戦の敵は倒れ、自由民主主義と競い合える、より高次の普遍的な制度の形は、もはや存在しないかに見えた。だが、まさにここで、本シリーズは最も根本的な疑問を投げかける。その自信が本物であっても、そこから歴史の終わりにまで議論を押し進めれば、それこそが完結の幻想の最も典型的な形になる。なぜなら、人々が終点を宣言していたその同じときに、新たな余項は、すでにこの構造の内側で、ひそかに形を取り始めていたからである。

二 父ブッシュと冷戦の平和的な幕引き

ブッシュは政権に就くと、レーガン政権末期の対ソ政策をそのまま引き継ぐことはせず、まず対ソ関係の戦略的な見直しに着手した。外交経験が豊かで、急がず、慎重で、相手を追い詰めることを好まない。そのやり方には、彼の外交の流儀がよく表れている。今日の研究が明らかにしているように、1989年の秋から冬にかけて、ブッシュ政権は当初、ドイツ統一を公の場で語ることにかなり慎重だった。東ドイツやソ連の強硬派を刺激し、改革を妨げるおそれがあったからである。1989年11月9日、民衆がベルリンの壁を押し開いたあとも、ブッシュは意識的に勝ち誇った反応を避けた。のちの公式の総括は、その意図を率直に記している。政権は、東欧の変動を米国が自らの事業として仕立て上げているように、ワシントンが見られることを望まなかったのである。

こうした自制は、消極姿勢を意味しなかった。ドイツ統一で重要だったのは、米国が統一を支持すると同時に、それをより広い安全保障の枠組みに組み込んだことだ。最大の争点は、統一後のドイツがNATOに残るかどうかにあった。最終的な「2プラス4」の取り決めは、ドイツのNATO残留を認める一方、東部への部隊の駐留とソ連軍の撤退をめぐって妥協を図った。この時期の流れは、三つの節目から捉えられる。1989年11月9日にベルリンの壁が崩れ、1990年10月3日にドイツが正式に統一され、1991年12月25日にはゴルバチョフが辞任し、翌26日にソ連が正式に解体した。今日の研究によるブッシュ評価のうち、忘れてはならないものがある。米国は東欧の独立と民主化を支持した。しかし同時に、数多くの決定的な局面で、ワシントンの政策は事態を主導するものではなく、起きた変化に対応するものだった。

本シリーズの文脈で見れば、調整、同盟、手続き、自制を重んじた父ブッシュのスタイルは、これまでの数篇で追ってきた帝王的大統領制を、逆の側から照らすものだった。それはまた、彼が湾岸戦争にどう臨むかを予告していた。そこでも軸になったのは、国連の授権、国際的な連合、限定された目標であり、大統領が一方的に、際限なく進める戦争ではなかった。

三 湾岸戦争と新世界秩序

1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻した。これは、冷戦後の秩序が直面した最初の大きな試練となった。ブッシュは議会演説で、米国の目標を明快に列挙した。イラクはクウェートから無条件で撤退しなければならない。クウェートの正統な政府は復帰しなければならない。湾岸の安定は確保されなければならず、米国民は保護されなければならない。同じ演説で、彼は「新世界秩序」という言葉も掲げた。弱肉強食の論理に代わり、法の支配が通用する国際環境を思い描いていたのである。

1990年11月29日に採択された国連安全保障理事会決議678号は、イラクが1991年1月15日までに撤退しない場合、クウェート政府に協力する加盟国が「あらゆる必要な手段」を用いることを認めた。最終的に参戦した連合は34か国からなり、複数のアラブ諸国も加わっていた。地上戦は1991年2月24日に始まり、わずか4日間でクウェート市を解放した。ブッシュは戦争の目的をはっきりと限定していた。「われわれの目標は、イラクを征服することではなく、クウェートを解放することだ」。そして停戦を宣言する際には、こう述べた。「クウェートは解放された。イラク軍は打ち破られた。われわれの軍事目標は達成された」。

本シリーズの議論に戻れば、この戦争は、帝王的大統領制の際限のない戦争とは、ほぼ正反対の姿を示している。これまで見てきたように、朝鮮戦争からベトナム戦争にかけて、大統領の戦争権限は、宣戦布告を経ず、目標を曖昧にしたまま、介入を次々と拡大する方向へ膨らんでいった。湾岸戦争は、それとは別の可能性を示した数少ない例だった。国際的な授権、明確な目標、自制に支えられた限定戦争である。ブッシュはこのとき、大統領の戦争権限に、同盟、目標、期限という枠を自らはめた。この制約は、個人の選択だけによるものではなかった。1991年1月には議会も法律で武力行使を認め、その目的を国連決議に結びつけていた。しかし、授権をどう解釈し、どこで進撃を止めるかには、なお大統領の判断と他の勢力による制衡が関わる。法の枠組みと個人の自制の組み合わせが、その後の戦争でも自動的に備わる保証はなかった。

四 父ブッシュの内政の行き詰まりと1992年

冷戦の幕引きと湾岸戦争だけを描くなら、父ブッシュの政権は、ほぼ成功を収めたように見えるだろう。それでも彼が再選を逃し、一期で退いたのは、国際舞台での成功が、国内政治の安定へと自動的につながるわけではなかったからである。最も象徴的なのが税をめぐる公約だった。1988年の大統領候補指名受諾演説で、ブッシュは、のちにその国内政治の遺産をほとんど覆い隠してしまう言葉を、明瞭に口にしていた。「よく聞いてほしい。新たな税は課さない」。しかし1990年11月、彼は結局、包括予算調整法に署名した。経済状況も軽く扱うことはできない。1989年から1992年にかけて、米国の世帯所得の実質中央値は約6%下がり、貧困人口は540万人増え、貧困率は12.8%から14.5%へ上昇した。この数字を見れば、湾岸戦争であれほど高い支持を集めても、再選を確保できなかった理由がわかる。外交でどれほど華々しい瞬間を迎えても、賃金や雇用、家計の収入をめぐる有権者の絶え間ない不安には及ばなかったのである。

もっとも、ブッシュの内政上の遺産を公約違反だけで語るのも、実像を歪める。1990年の「障害をもつアメリカ人法」は、公民権の範囲を押し広げた法律として、十分に描かなければならない。障害者を、社会生活のさまざまな領域で差別から守る法律である。本シリーズにとって、この立法は重要だ。税や景気後退の影の下でも、冷戦勝利の喧騒のなかでも、かつて排除されていた人々を平等な市民として迎え入れる歩みは、歴史の最も深いところで、なおひそかに続いていた。そのことを思い出させるからである。社会生活のなかで長く顧みられなかった障害者は、1973年リハビリテーション法第504条などの既存の保障に加え、適用範囲が大きく広がった連邦の差別禁止の保護を得た。すべての人は平等である。その約束がひとたび書き記されれば、誰に適用するかという範囲を、永久に固定しておくことはもはやできない。

1992年の大統領選挙には、世紀の変わり目を思わせる政治再編の姿が現れた。クリントンは一般投票の43%を得て、選挙人票370票を獲得した。ブッシュは37.4%で、選挙人票は168票だった。これに対し、ペローは一般投票の18.9%を集めながら、選挙人票を一票も得なかった。ペローの存在は、少なくとも一つのことを示している。1992年にはすでに、財政や既成政治に失望した有権者が、無所属候補に全投票のほぼ5分の1を与えるほどの規模に達していたのだ。それ自体が、形成されつつあった新たな余項の、まだかすかな、初期の現れだった。

五 クリントンとニュー・デモクラッツ

クリントンを、伝統的なニューディール・リベラリズムの当然の継承者として描くべきではない。より正確には、民主党指導者会議の流れをくむ「ニュー・デモクラッツ」の政治家である。彼は1990年から1991年にかけて同会議の議長を務め、そのなかで1992年の大統領選に向けた政策構想を形にした。この路線は、リベラリズムの現代化と位置づけられ、機会、責任、共同体を重んじた。それを表すのが、あの言葉である。「保守かリベラルかということではない。共和党か民主党かという区別にも収まりきらない。これは、新しいのだ」。

本シリーズのなかで考えると、クリントンによるこの書き換えは、前篇で見た国家の役割をめぐる争いの続きにほかならない。レーガンによる断絶の核心は、財政規模の変化にはなかった。彼が終わらせたのは、ローズヴェルト以来、徐々に形づくられてきた政治の常識だった。彼は、福祉国家の拡大を正当化する語りを、政治の中心線から押しのけた。クリントンのニュー・デモクラッツ路線が持つ最も深い意味は、レーガンに覆された旧来の常識を取り戻そうとしなかったことにある。むしろ、レーガンが組み替えた政治の言葉を、大幅に受け入れたのだ。そこでも責任が強調され、財政規律が重んじられ、際限なく拡大する連邦国家への警戒が保たれた。このことは、前篇の判断を裏づけている。レーガンが変えた政治言説は、きわめて長く生き続けた。その持続力は、政敵が政権に就いてさえ、彼の定めた言説の枠の内側で自らを定義し直さなければならなかったほどなのである。

六 福祉の縮小と刑事司法の拡大

クリントン時代に、本シリーズの主題が最もよく表れているのは、連邦国家が、ある領域では縮みながら、別の領域では膨らんでいった、その不均衡にある。政権初期の最大の挫折は医療改革だった。1993年の改革案は、すべての国民を医療保障の対象とすることを中核に据えていた。しかし、保険業界、医療団体、共和党による組織的な反対に加え、策定過程の秘密主義をめぐる批判、法案の複雑さ、民主党内部の懸念が重なり、1994年、法案は成立に至らなかった。同年の中間選挙は、その抵抗を制度のなかに定着させた。共和党が上下両院の多数を同時に奪還し、40年ぶりに両院を支配したのである。ギングリッチは「アメリカとの契約」を掲げ、きわめて攻勢的な政策課題を打ち出した。

1996年の「個人責任・就労機会調整法」は、連邦の福祉の枠組みを書き換えた。未成年の子を扶養する家庭に対する、給付総額に上限を設けない従来の連邦扶助を終わらせ、現金給付を、就労要件と受給期限のある「貧困家庭一時扶助」へと改めた。連邦資金による給付の期間は、全国共通の原則として60か月に限られた。支持者はこれを、従来型福祉の終焉であり、労働参加を促し、各州が独自の試みを行う余地を広げる改革だと捉えた。一方、批判者は、福祉の受給者が減ることと、貧困が構造的に緩和されることは同じではないと強調した。新たな規則は、最も弱い立場にある家庭に対して、強い懲罰性を帯びてもいた。これとは逆の方向に進んだのが、1994年の犯罪対策法だった。米国史上最大規模のこの法律には、警察官10万人の増員と、刑務所建設に充てる97億ドルが盛り込まれていた。のちの批判は、とりわけ、財政的な誘因を通じて、量刑の厳罰化、収監の拡大、地方の法執行体制の増強を結びつけた点に集中した。今日の研究も、この法律を、大量収監を制度的に推し進めたものとして明確に位置づけている。

この二つを並べて見ることが、本節の要点である。同じ時期に、連邦国家は福祉の領域で後退しながら、刑事司法の領域では、むしろ力強く拡大していた。さらに警戒すべきなのは、急膨張するこの刑罰国家が、人種をめぐる余項の、新たな懲罰的形態になったことである。第22篇で論じたとおり、1960年代の公民権立法は、黒人を法の上で平等な市民として包摂した。しかし、その包摂は同時に、法律では届かない実質的な不平等を浮き彫りにした。1990年代になると、解決済みと思われていた人種問題は、大量収監という新しい形で再び現れた。刑務所のなかで、アフリカ系アメリカ人が人口比をはるかに上回る割合を占める。その事実は、法の上の平等と実質的な不平等のあいだに、一度も埋まったことのない亀裂があることを、ひときわ鮮明に示す新たな証拠となった。包摂が新たな排除を生む。ここでも、またそのことが確かめられたのである。

七 グローバル化、ニューエコノミー、そして国内の余項

1990年代のなかで、グローバル化の絶頂として最も描かれやすいのは、貿易と技術がほぼ同時に前進したことだ。北米自由貿易協定は1994年1月1日に発効し、関税を段階的に撤廃するとともに、投資、サービス、知的財産、紛争解決の各分野で制度の統合を進めた。クリントンが推進した、より広範な貿易自由化には、世界貿易機関や、中国への恒久的正常貿易関係の付与も含まれていた。公式の記録によれば、2000年4月の失業率は3.9%に下がった。4%を下回ったのは1970年1月以来、初めてのことだった。世帯所得の中央値も、当時の過去最高に達した。

だが、この楽観は、初めから誰もが等しく分かち合っていたものではない。本篇を締めくくるうえで、ここが最も重要な点になる。ここでは、どちらも簡単には消し去れない二組の事実を、並べて見なければならない。一方には、北米自由貿易協定、世界貿易機関、そしてインターネット革命が、貿易と投資を促進し、供給網の統合、生産性の向上、消費者が享受する利益の拡大を実際にもたらしたという事実がある。2000年に成立した対中恒久的正常貿易関係の立法は、その後のさらなる統合への道を開いたものであり、その影響を、1990年代の繁栄をすでにもたらしていた原因として扱うことはできない。他方、その同じ過程が米国内に生み出した損失は、特定の場所に激しく集中し、自然に回復することの難しいものだった。とりわけ製造業を基盤とする地域社会、地域間の発展の断絶、労働組合の政治活動や社会保障を組み直す圧力に、その損失が表れていた。製造業の雇用を長期にわたって検討した今日の研究は、雇用が1979年を頂点として、全体として減少してきたことを示している。所得分配の研究も、1979年以来、米国の所得格差が総じて拡大し続けてきたことを明らかにしている。つまり、1990年代後半の繁栄を、誰もが同じ速さで豊かになったことと同一視するわけにはいかない。高所得層ほど所得の伸びが速く、所得全体に占める取り分も大きかったのである。

1999年11月、シアトルで開かれた世界貿易機関の閣僚会議は、本来、新たな多国間交渉を開始するはずだった。しかし、大規模な街頭抗議と運営の混乱によって大きく揺さぶられ、結局、期待された成果を得られなかった。シアトルの抗議は、まさに、形を取りつつあった余項が、大きな声を伴って姿を現した出来事だった。世紀の変わり目の米国は、世界規模でルールを広げていく主たる推進役であると同時に、そのルールに対する社会の反発が、最も早く表面化した場所の一つでもあった。

八 弾劾と2000年の不確かな決着

クリントンの外交は、介入と自制が併存していたものとして描くのが、最も適切だろう。ソマリアでは、1993年10月のモガディシュの戦闘でブラックホーク・ヘリコプター2機が撃墜され、米兵18人が死亡した。クリントンはその4日後には、戦闘部隊を撤収させると発表した。一方、バルカン半島では、ボスニア、そしてのちのコソボの危機に対し、NATOの空爆と制裁は、最終的にミロシェヴィッチに国際的な平和維持部隊を受け入れさせた。これと並べて考えなければならないのがルワンダである。米国は介入を主導する役割を担わなかった。そのことは、その後の米国外交史において、最も長く反省と再検討が続く問題の一つとなった。テロの脅威も、すでに姿を現していた。1993年の世界貿易センター爆破事件、1998年にほぼ同時に起きたケニアとタンザニアの米国大使館襲撃事件。それらは、まだ時代を語る中心的な主題にはなっていなかった脅威を告げる、不吉な予兆だった。

1998年から1999年にかけてのクリントン弾劾は、1990年代の政治的分極化が、最も集中的に噴き出した出来事だった。下院は最終的に、1998年12月19日、二つの弾劾条項を可決した。一つは大陪審に対する偽証、もう一つは司法妨害である。しかし1999年2月の上院の弾劾裁判では、どちらについても、有罪認定に必要な3分の2の賛成に届かなかった。制度史の観点から見れば、それは正式な責任追及であると同時に、きわめて強い党派的な意思表示でもあった。

2000年の大統領選挙は、制度が動き続けながらも、論争のただなかでしか動けないという姿を、極限まで押し出した。ブッシュ対ゴア事件で、最高裁は2000年12月12日、フロリダ州の再集計を打ち切った。7人の判事は、郡ごとに手作業の再集計基準が異なるなど、その時点の集計方法に平等保護に関わる憲法上の問題があると認めたが、合憲的な手続きを作り直せるかどうかで判断が分かれた。5人の多数意見は、フロリダ州法についての解釈に基づき、州議会は連邦法の「セーフハーバー」の期限を守ろうとしており、その日までに合憲的な再集計を終えることはできないとした。5対4で決まったのは、この再集計の終了である。連邦法が期限後の集計を一律に禁じていたわけではない。ここで何が起きたのかに、目を向けてほしい。これほど僅差で、これほど争いの激しい大統領選挙にあっても、この構造は、誰もが納得する合意へと閉じ切ることはなかった。すべての人を心から納得させたわけでも、争いそのものを消したわけでもない。裁判所、州の手続き、そして全国の政治心理が互いに作用するなかで、かろうじて、実行に移せる決着を与えただけである。手続きは終えたが、余項は取り除けなかった。これは、本シリーズ全体の、ほとんど完璧な縮図といってよい。この構造がなしうるのは、あらゆる争いが消え失せる完結した終点に到達することでは、もともとない。自らの手続きによりながら、先へ進み続けるための暫定的な答えを、どうにか差し出すことなのである。

九 結び

父ブッシュとクリントンの12年間を本シリーズのなかに置き直したとき、最も記憶に留めるべきなのは、本篇を貫くあの判断である。「歴史の終わり」は、この構造における最後の、そして最も強力な、完結の幻想だった。

この時代の自信は本物だった。冷戦は平和のうちに終わり、巨大な敵対体制が解体した。短期間で勝利を収めた戦争がベトナムの影を払い、貿易のルールは世界へ広がり、インターネット革命は経済を作り替えていた。失業率は30年来の最低水準に下がり、所得は過去最高を記録した。こうした出来事の表面には、歴史はもう進むべき方向を選び終えたのだという、強い感覚が確かに満ちていた。フクヤマが捉えたのは、まさにこの、本物の自信だった。

しかし本シリーズの議論全体が指摘しようとしているのは、この自信を歴史の終点にまで押し進めたとき、そこに生まれるものは幻想だということである。なぜなら、人々が終点を宣言していたのと同じ瞬間に、新たな余項は、この構造の内側で、すでにひそかに形を取っていたからだ。福祉は縮小し、刑罰国家は拡大していた。解決済みと思われていた人種問題は、大量収監という新たな姿で再び現れた。グローバル化は繁栄を生んでいたが、その繁栄の分配はきわめて不均等だった。製造業が衰退した地域社会、分断された地域、深まる格差のなかで、根深い憤りが積み重なっていた。シアトルの街頭抗議は、すでにそれを大きな声で予告していた。政治は両極へと分かれ、弾劾は党派の武器となり、大統領選挙は、ついには裁判所の手でかろうじて決着をつけなければならなかった。

この二組の事実、一方の凱旋と繁栄、他方の縮小、拡大、不均衡、そして争いは、互いを打ち消すものではない。どちらも、同時に成り立っていた。そして、まさにこの同時性こそが、この構造はいまだ終点に達していなかったことの、最も強い証拠なのである。得意の絶頂にあったそのとき、構造はまたしても、完結を拒んだのだ。削り、築く循環は、なお回り続けている。