第22回 ケネディとジョンソン――包摂と戦争拡大のパラドックス
この篇の目次
一 包摂と戦争拡大のパラドックス
前回の末尾で予告したように、下から湧き上がったあの運動は、いよいよ頂点へ向かう。若い大統領が暗殺され、その後を継いだ老練な立法家が、一世紀ものあいだ押さえ込まれてきた人種をめぐる余項を、連邦法というかたちで、正面から、大規模に引き受けることになる。ケネディが就任した1961年から、ジョンソンが退任する1969年まで。この十年にも満たない期間は、最も深いところに押し込められていた余項が、かつてない力をもって、この「構」の中心へと再び押し寄せた時代だった。そして同時に、その同じ大統領制国家が、一歩ずつ、遠い国の戦争へ自らを引きずり込んでいった時代でもあった。
まず、この時期を貫く構造をはっきりさせておこう。果たされないままだった普遍主義の約束が、アメリカの制度の中へ最も深く、しかも最も矛盾したかたちで入り込んだ。その核心は、ひとつの対照に凝縮できる。一方では、長く政治共同体の外に締め出されてきた黒人たちが、ついに連邦のルールを書き換えさせた。他方では、その同じ大統領制国家が、ベトナムで行政権を膨張させ、対外秩序をどう扱うかという問題を、戦争の泥沼へと拡大していった。互いに無関係な二つの歴史が走っていたのではない。国内で人々を包摂する動きと、国外へ秩序を力ずくで押し出す動きが同時に進む。そこに、この時代の構造的なパラドックスがある。
本稿で何より押さえたいのは、この構が、自分の掲げた原則をひとりでに実現してくれるわけではない、ということだ。独立宣言に「すべての人は平等」と書かれていても、その恩恵が自然にすべての人へ届くわけではない。もともと外へ排除されていた人々が、危険を冒しながら何度も何度も突きつけて初めて、この構は、自らが果たしてこなかった普遍主義の約束と向き合わされる。1960年代の公民権運動は、そのように制度を動かした偉大な営みだった。排除されていた余項は、どうやってこの構にルールの書き換えを迫ったのか。そして、なぜ同じ体制が、その余項を国内で受け入れながら、国外では軍事介入を拡大していけたのか。本稿が追うのは、この二つの問いである。
二 ケネディという瞬間
ケネディ神話の輪郭が生まれたのは、1960年の大統領選挙だった。だが、その勝利は、きわどいものだった。選挙人票では303対219でニクソンを破ったものの、全国の一般投票の得票率の差は1ポイントにも満たない。圧倒的な信任ではなく、薄氷の勝利から始まった。この出発点は重要だ。国内政策ではしばしば慎重になり、議会での票読みには保守的で、その一方、イメージの力を使って政治的な行動の余地を広げなければならなかった。ケネディのこうした姿勢は、ここから理解できる。
もっとも、「キャメロット」の物語を見直すなら、イメージと実績は切り分けなければならない。後にケネディ政権を彩ることになるこの呼び名は、主として暗殺後、ジャクリーン・ケネディが形づくるのに力を貸した、記憶の枠組みだった。これを再検討する歴史研究が重視するのは、公民権問題でケネディが長く漸進策にとどまっていたことだ。優先順位が高かったのは、外交と冷戦の危機だった。包括的な公民権立法を本格的な軌道に乗せたのは、ようやく1963年になってからである。草の根の運動が公然と圧力をかけ、バーミングハムとアラバマ大学で危機が起こり、アメリカの国際的なイメージが傷つく代償も、もはや無視できなくなっていた。
冷戦の指導者としての権威も、一連の危機を通じて形づくられた。キューバ危機は通常、二つの超大国が冷戦期に直接対峙し、核戦争へ最も近づいた出来事とされる。従来の物語では、冷静で自制心に富んだケネディが収めた勝利として描かれがちだった。だが、機密解除された資料を踏まえる再評価は、もっと慎重だ。核戦争にならずに済んだ背後には、多くの偶然があり、意思疎通が機能しない中での幸運があり、核魚雷を搭載した潜水艦が発射に踏み切りかけた件のように、後になってようやく実態が見えてきた危険もあった。多くの研究者がそこを強調している。手腕は発揮されたが、安全な危機ではなかった。決断は下されたが、余裕があったわけではない。そう書く方が正確だろう。一方、ベトナムでは、ケネディは全面戦争を始めた大統領ではないにせよ、介入を明らかに拡大した。アメリカの軍事顧問は、就任当初の数百人から、1963年末には1万6千人以上へ増えていた。
公民権をめぐるケネディの本当の転機は、1963年6月11日、アラバマ大学での危機を受けて行った国民向け演説にある。その夜、彼は公民権を何よりもまず道徳の問題だと述べ、公共施設での人種隔離に対処するよう、議会へ明確に求めた。大切なのは、これをケネディが突然目覚めた孤立した瞬間として扱わないことだ。草の根の運動が、行政府の長に政策の優先順位を変えさせたのである。本稿の中でのケネディは、約束を本格的に実現した人物というより、実現への窓が開く、その前奏を担った人物として捉えるのがよい。
三 公民権運動の高まり
1960年代の公民権運動を、少数の偉人の演説と大統領の署名だけで語る。現代の歴史研究は、そうした書き方からますます距離を置いている。運動を支えた土台から見た方が、はるかによく説明できる。1960年の学生たちによる座り込みは、学生非暴力調整委員会の結成に直接つながった。主な担い手は黒人の大学生だった。平和的な直接行動を戦略とし、エラ・ベイカーの影響を受けながら、南部キリスト教指導者会議とは組織としての独立を保った。
この運動を理解するには、少なくとも四つの力を並べて見ておきたい。南部キリスト教指導者会議は黒人教会のネットワークを足場に、道徳的な訴えを強く打ち出す大規模な非暴力デモを組織することに長けていた。学生非暴力調整委員会は、より若く、より地域に根ざし、個々の郡や町で有権者登録、活動家の育成、組織づくりに長く取り組もうとした。全米黒人地位向上協会は、訴訟、立法への働きかけ、有力者どうしの調整で引き続き強みを持っていた。そして人種平等会議は、フリーダム・ライドのように州境を越える直接行動で、重要な役割を果たした。
その過程の転機となったのが、バーミングハムである。ここでマーティン・ルーサー・キングが実践した非暴力は、単に善意や良心へ訴える思想ではなかった。明確な戦略設計があった。公然と、目に見えるかたちで、繰り返し非暴力行動を起こし、地元だけではもはや封じ込められない危機を生み出す。狙いは相手に恥をかかせることではなく、制度と世論に、悪そのものを直視させることだった。『バーミングハム獄中書簡』は、その戦略をさらに説明している。既存の協議の道が塞がれているなら、「建設的な緊張」を生み出して、交渉への道をもう一度開かなければならないのである。
ワシントン大行進は、また別の力を示した。1963年8月28日、仕事と自由を求めるこの行進に、およそ25万人が集まった。リンカーン記念堂の前で「私には夢がある」と演説したキングは、独立宣言、奴隷解放宣言、聖書の言葉、そしてアメリカの憲法体制が約束してきたものを、一つの場に重ね合わせた。それは道徳的な宣言であると同時に、アメリカが振り出した不渡り小切手への政治的な告発でもあった。本シリーズの流れで見れば、ここでもまた、あの物差しが取り出されている。建国の文書に刻まれた「すべての人は平等」という一文だ。奴隷制廃止論者はそれで奴隷制を測り、ハーラン判事はそれをもとにプレッシー判決への反対意見を書き、ダブルV運動は「四つの自由」で人種の序列を測った。そして今、ワシントンに集まった25万人が、同じ約束を手に、アメリカは自らの理想を裏切っていると再び告発したのである。
暴力による反撃も、書き落とすわけにはいかない。人々を包摂していく道は、決してなだらかな前進ではなかったからだ。1963年9月、バーミングハムの16番街バプテスト教会が爆破され、黒人の少女4人が命を落とした。1964年のミシシッピ・フリーダム・サマーも、極度の危険の中で進められた。この時期の南部の政治は、法律が一つできれば社会もそれについてくる、という一直線の物語からは程遠かった。連邦の立法と、地元での暴力は、同時に存在していた。
四 ジョンソンとルールの書き換え
ケネディの暗殺で、歴史の流れは急変する。ジョンソンはエアフォース・ワンの機内で宣誓し、大統領に就任した。国は衝撃と悲嘆に包まれた。彼はそこで開いた道徳的、政治的な機会をただちに捉え、それまでならもっと先送りされかねなかった課題を、一気に前へ進めた。
ジョンソンの強みは、理念がケネディより純粋だったことではない。立法を実現する手腕が、はるかに上だったことである。1964年の公民権法案は上院で長い議事妨害に遭ったが、6月10日、ついに71対29で討論終結の動議が可決された。賛成したのは、共和党27人と民主党44人の連合だった。ここに、現代の政党対立の図式を持ち込んではならない理由がある。この立法闘争を分けていた亀裂は、今日の意味での民主党対共和党というより、南部の人種隔離派と、超党派の公民権連合とのあいだにあった。1964年公民権法の制度史上の意義は、人種隔離に抗する手段を、個別の訴訟や行政命令から、全国に通用する成文法のルールへと進めたことにある。同法は公共の場での差別を禁じ、学校やその他の公共施設で人種統合を進め、雇用における差別を違法とした。
1965年投票権法はさらに直接的に、ジム・クロウ時代に投票権を奪い、閉ざしていた仕組みを逆転させた。適用対象となる地域で、識字テストなどの差別的な試験や手段の使用を停止し、連邦の有権者登録審査官と事前審査の制度を置いた。この法律を生む感情的、政治的な導火線となったのが、セルマだった。1965年3月7日、約600人のデモ参加者がエドマンド・ペタス橋で、アラバマ州警察と地元の法執行機関による暴力的な阻止に遭い、ジョン・ルイスは頭蓋骨を骨折した。その8日後、ジョンソンは議会演説で「私たちは必ず勝利する」と語り、セルマで起きたことを、アメリカ全体の民主主義の正統性が問われる試練として位置づけた。ここは特に強調しておきたい。大統領が一方的に運動を指導したのではない。先に橋の上で血を流した人々がいたからこそ、大統領は包括的な立法に踏み切らざるをえないところへ押し出されたのである。
ジョンソンの功績は、この運動を始めたことにはない。彼が始めたわけではなかった。ケネディにはなかった立法の手腕を持ち、運動がこじ開けた窓が閉じる前に、その機会を、長く残る法律へと素早く鋳固めたことにある。一言でいえば、運動が制度に窓を開かせ、ジョンソンがその窓を法律にした。前者がなければ、制度に課題を突きつけることはできなかった。後者がなければ、運動の勝利を、持続するルールとして定着させることは難しかった。
五 なぜ今回は南北戦争後の再建より長く続いたのか
投票権法の成立後に起きた数字の変化は、ルールが本当に書き換わったことを示す、最も確かな証拠の一つだ。黒人を中心とする非白人の有権者登録率は、アラバマ州では成立前の19.3%から51.6%へ、ミシシッピ州では6.7%から59.8%へ上がった。統計表の分類は「非白人」である。本シリーズにとって、この数字はとりわけ重要である。第12回で見た、ジム・クロウ体制によって投票権への道が閉ざされた事態を、1965年の法律が実質的に覆した。そのほとんど直接の証拠になるからだ。
ここから、本稿で答えずには済ませられない問いが浮かぶ。なぜ今回の包摂は、南北戦争後の再建期よりも長く持ちこたえたのか。第11回を思い出してほしい。再建期にも、人種平等への前進は一時かなり遠くまで達していた。ところが、クー・クラックス・クランの暴力、南部の抵抗、連邦軍の撤退によって、一段ずつ、再び周縁へ押し戻された。あのとき守れなかった前進を、今度はなぜ守れたのか。答えの核心は、投票権法がつくった制度の仕組みにある。再建期の保護も、憲法や連邦法に書き込まれていた。だが実施には、北部が関与を続け、連邦が執行を続ける意思が必要だった。その意思が薄れれば、保障も骨抜きにされえた。1965年の法律は、個別の違反をそのつど追及する方法への依存を減らそうとした。第5条の事前審査によって、連邦の監督を、ルールが変わるより前へ移したのである。もちろん、この法的な仕組みの実施と維持にも、政治と司法の支えは必要だった。これは決定的に重要な制度設計だった。南部が新たな抜け道を考え出すたび、個別の訴訟を起こして追いかける。その繰り返しをやめ、差別の歴史を持つ地域には、選挙のルールを何か一つでも変える前に、まず連邦の承認を得るよう求めた。連邦の監督は、受け身で後を追うものから、先回りして入口を押さえるものへと変わったのだ。
長く持ちこたえる包摂と、もろい包摂。その重要な違いは、ここにある。余項の権利を制度の歯車にしっかりと組み込むほど、そのつどの政治の風向きへの依存を減らせる。ただし、その歯車を動かし続ける支えまで不要になるわけではない。
六 「偉大な社会」と境界の書き換え
公民権法と投票権法が、政治共同体の一員である資格を書き換えたものだとすれば、「偉大な社会」は、連邦国家がどこまで責任を負うか、その境界を書き換えるものだった。ジョンソンが1964年に行った「偉大な社会」演説そのものは、むしろ未来像の提示に近い。本当に重要なのは、その後に積み重なった立法である。最も長く残った制度的な遺産の一つが、メディケアとメディケイドだ。1965年、それぞれ社会保障法の別個の規定として成立し、ほぼすべての65歳以上の高齢者と、一部の低所得者へ医療保障を広げた。その後、福祉国家を大きくすべきか小さくすべきか、どんな議論が起ころうとも、この二つの制度は今なお、アメリカの社会政策を支える骨格の一部である。
境界の書き換えという点で、1965年移民国籍法も重要な位置を占める。冷戦の最盛期に成立したこの法律は、出身国によって移民を制限する、アメリカの長年の制度を廃止した。第17回で述べたように、1924年移民法はもともと、北欧・西欧出身者を優遇し、それ以外の地域から来る人々を制限するためのものだった。1965年の法律は、1924年以来続いてきた、その出身国別割当の原則を根本から取り払った。長期的な影響は大きい。1960年には、アメリカに暮らす外国生まれの人々のおよそ75%がヨーロッパ出身だった。それが1980年には39%へ下がり、ラテンアメリカとアジアの出身者が、合わせて半数を超えるようになった。
この二つを本シリーズの中に置き直すと、どちらも、この構の最も深い余項の、異なる側面にほかならない。公民権立法が書き換えたのは、内側にいる人の成員資格と、平等に扱われる資格だった。移民法が書き換えたのは、外側から共同体へ入るための合法的な道筋だった。多くの歴史家が1964年から1965年を、ニューディール以来、連邦国家を最も大きくつくり変えた時期と見るのも、このためである。
七 ベトナムでの戦争拡大
だが、本稿のパラドックスは、ベトナムを見て初めて全体の形を現す。国内で大規模な包摂が進むのと同時に、大統領の戦争権限は、またしても膨張していた。1964年8月、議会はトンキン湾決議を可決し、ジョンソンに、ベトナムで軍事行動を取る広範な権限を与えた。その重要性はベトナムだけにとどまらない。現代の大統領制を典型的に示しているからだ。まず危機を語る言葉で幅広い授権を取りつけ、次に行政府が、自らの戦争拡大の論理に従って、その権限を使う。そして、トンキン湾事件そのものも不透明だった。後に機密解除された研究は、8月4日に起きたとされる「2度目の攻撃」の公式説明に、重大な問題があると明らかにしている。2度目の攻撃はあったという政府の筋書きを守るために、情報が選別されて使われていたのである。
戦争は、その後急速に拡大した。1965年は、軍事顧問を送り込む戦争から、地上で直接戦う戦争へ移る分岐点だった。3月にアメリカ海兵隊がダナンへ上陸し、年末には駐留米軍が18万5千人近くになった。1968年には約53万6千人に達し、その一年だけで米軍の死者は1万6899人を数えた。この拡大の責任を誰が負うのか。歴史研究に単一の答えはない。三つの層に分けて考える方がよいだろう。第一に、ジョンソン本人だ。権限の獲得、拡大のペース、国民に向けて語った楽観的な見通しに、彼は直接の責任を負っている。第二に、顧問団と軍部である。両者は、戦争の負担も、アメリカが引き受ける約束も、絶えず積み増していった。第三に、その背景をなす構造だ。ケネディ時代にすでに背負っていた約束、冷戦の封じ込めの論理、そして南ベトナムを失えば大きな政治的代償を払うことになるという、威信をめぐる政治が、戦争拡大を支えていた。
ジョンソンと顧問たちは、南ベトナムの敗北が、冷戦全体にさらに大きな連鎖反応を引き起こすことを恐れた。しかもジョンソン自身は、1965年以降に後退すれば、かえって国内の立法まで頓挫しかねないと信じていた。ベトナムか「偉大な社会」か、二者択一をしたのではない。後者を守るには、まず前者を引き受けなければならないと考えていたのだ。あまりにも重い誤算だった。国内の「偉大な社会」を守ろうとして、彼は国を戦争へ引きずり込んだ。その戦争が、最後には、守ろうとしたものすべてに牙をむくことになる。
八 引き裂かれた1968年
戦争の反撃を受けたのは、国内の政治連合だった。1968年のテト攻勢以降、介入の継続に反対する抗議は、アメリカ国内で目に見えて激しくなった。3月31日、ジョンソンは北ベトナムへの爆撃を制限すると発表し、同時に、次の大統領選挙で民主党の指名を求めず、受けもしないと表明した。象徴的な光景といってよい。内にも外にも、かつてないほど権限を広げた大統領という地位が、ついには戦争の重圧に耐えかね、自らに限界を設けざるをえなくなったのである。
国内もまた、公民権立法が成立したからといって、安定した統合の時代に入ったわけではなかった。1965年のワッツ暴動は6日間続き、34人が死亡、千人以上が負傷し、4千人近くが逮捕された。1967年からの都市暴動を受け、ジョンソンはカーナー委員会の設置を迫られた。委員会が示した有名な診断は、アメリカは二つの社会へ向かっている、一つは黒人の社会、もう一つは白人の社会で、両者は隔離され、不平等だ、というものだった。1964年から1965年を、きれいに筋の通った勝利の歴史にしてはならない。ルールが書き換わったのは事実である。だが、新しいルールができただけで、貧困、警察との衝突、都市の人種隔離、そして平等とはそもそも何を意味するのかをめぐる大きな隔たりが、ひとりでに解消されたわけではない。
公民権運動の内部も分かれ始めていた。1966年、「ブラック・パワー」が運動の中心的な言葉の一つになる。抽象的な人種統合論には満足せず、黒人の自己決定、自立、そして権力の分け前を求める主張だった。その後、キングも次第に、経済的な正義、北部の都市が抱える問題、反戦の立場へと、議論の重心を移していった。そして1968年、キング暗殺、ロバート・ケネディ暗殺、シカゴの民主党大会をめぐる会場内外の混乱と、衝撃が続いた。この時代は、到底きれいには収まらないかたちで幕を閉じたのである。
九 おわりに
ケネディとジョンソンの、十年にも満たない時代を本シリーズの流れに戻してみると、何より心に留めておきたいのは、本稿を貫いてきたパラドックスである。同じ大統領制国家が、同じ時期に、歴史上最も深い国内の包摂を成し遂げ、その一方で、最も危険な対外的な戦争拡大を行った。
国内での包摂は、実際に起こり、深い意味を持つ変化だった。一世紀近く押さえつけられてきた、人種をめぐる余項が、ついにこの構にルールを書き換えさせた。しかも今回の書き換えは、再建期よりも長く持ちこたえた。鍵は、包摂をさらに、法の機構に組み込まれた執行可能なルールとして具体化し、そのつどの政治的な選択への依存を減らしたことにある。とりわけ投票権法の事前審査制度は、連邦の監督を、ルールが変更されるより前へ移していた。
しかし、この包摂は、最初から二重の限界を伴っていた。第一は、すでに見てきたあの道理である。包摂そのものが、新たな排除を生み出す。法の上で平等な資格が認められると、実質的、経済的な不平等は、かえっていっそう目につくようになる。ワッツの炎、カーナー委員会の「隔離され、不平等」という診断、ブラック・パワーの台頭。いずれも、ルールの書き換えは確かに起きたが、人種をめぐる余項を閉じ切るにはほど遠かったことを示している。問題はただ、新たな、より深い段階へ進んだのだ。第二の限界は、パラドックスのもう一方の側、ベトナムから来た。戦争の負担と都市の暴動が、重なってジョンソンを押し潰した。再建期以来、最も偉大な公民権立法の担い手であり、同時に、あの戦争を拡大した最大の責任者でもあった大統領は、3月31日、ついに再選を目指さないと宣言せざるをえなくなった。その後に相次いだ暗殺が、この時代の崩壊をいっそう深めた。
次に登場するのは、秩序を取り戻し、戦争を終わらせると約束した大統領である。彼は、ベトナムですでに姿を現していた、歯止めのきかない行政権の拡張衝動を国内へ持ち帰り、さらに新たな頂点へ押し上げる。だが今度、彼を待ち受けているのは、遠い国の戦争ではない。この構が古くから備えていた抑制と均衡が、最も直接的に、最も徹底して反撃してくる。それがニクソンの物語だ。長く伸びてきた行政権という一本の線が、「帝国的大統領制」の頂点で、いかにして最も深い危機にぶつかったのか。その物語へ進もう。