Non Dubito Essays in the Self-as-an-End Tradition
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鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ · 第21篇、全26篇

第21篇:トルーマンとアイゼンハワー――戦時を常態へと鋳固める

Han Qin (秦汉) · 鑿構周期律 · アメリカ大統領シリーズ · 2026年
この篇の目次

一、戦時を常態に変える

わずか数時間で戦時国家を引き継いだ後継者は、その後、この構が熱戦から冷戦へ移る舵を取った。戦争の中で鍛え上げられた安全保障国家を、半世紀にわたる常態へと鋳固めるのである。1945年にローズヴェルトが亡くなり、トルーマンが大統領に就任してから、1961年にアイゼンハワーが退任するまでの16年間。このシリーズが追ってきた、制度が拡張する一方で制衡を受け入れざるをえなくなる長い流れの中に置けば、この時期の最も大きな変化は、単に冷戦が始まったというだけでは捉えられない。

まず、この時期の構造についての見取り図を示しておこう。1945年から1961年にかけて本当に重要なのは、戦時の行政権の拡大、軍備の動員、情報機関の組織化、そして外交と軍事における大統領の裁量を、冷戦が半永久的な構造として固定したことである。1947年の国家安全保障法は、国家安全保障会議、中央情報局、軍事と行政を一元的に調整する仕組み、独立した空軍を、すべて制度として定着させた。さらに1950年のNSC第68号文書は、地域を限った、限定的な構想だった封じ込めを、世界規模で長期にわたる戦略的動員の青写真へと押し広げた。この構造への学界の評価は、長く分かれたままである。ソ連からの圧力と核時代の危険に対する必要な応答だったと見る立場もあれば、アメリカの立憲政治の内側に、行政権の長期的な集中、市民的自由の縮小、予算をめぐる政治における常時の戦備を生み出したと見る立場もある。

この判断をシリーズ全体に戻してみると、その重みがはっきりする。前篇で見たように、第二次世界大戦は、この構の行政国家をかつてない規模にまで膨らませ、巨大な戦時の身体を育てた。今回の話で最も大切なのは、その身体が、終戦後に大幅に縮小されながらも、第一次世界大戦後のように単純に平常へ戻る道をたどらなかったということだ。第17篇を思い出してほしい。第一次世界大戦の終結後、アメリカは速やかに平常への復帰に向かい、戦時の国家機構を大幅に縮めた。ところが今回は違った。第二次世界大戦後、アメリカは大規模に復員し、戦時の兵力や動員機構を縮小した。それでも冷戦のもとで、軍事、情報、戦略調整の中核的な能力は国家の安全保障という名で再編され、半世紀続く常態へと鋳固められたのである。

これまでの数篇で辿ってきた行政権拡大の長い道筋では、拡張にはそのつど、具体的な危機が必要だった。戦争や大恐慌が、その正当性を与えていた。いま冷戦が用意したのは、終わることのない危機である。本来なら戦争の終わりとともに縮むはずの安全保障上の権力に、長期にわたり持ち出せる理由が生まれた。この篇で追うのは、まさにこの構がどうやって戦時を常態に変えたのか、そしてその常態化が、自らにどれほど深いジレンマをもたらしたのかという問題である。そのジレンマを最後に名指しするのは、五つ星の将軍から大統領になった一人の男だ。退任の告別演説で、彼自身が「軍産複合体」という名を与えることになる。

二、トルーマン、原爆、そして冷戦への転換

トルーマンが大統領になった経緯そのものに、制度が突然、一人の人間を歴史の中心へ押し出すという意味が刻まれている。1945年4月12日にローズヴェルトが亡くなったとき、トルーマンは副大統領になってわずか82日だった。その短い数週間に、原爆計画や対ソ関係について、体系立った説明はほとんど受けていなかった。副大統領在任中、原爆の開発について知らされたことは一度もない。就任して初めて、それらの問題が突如として目の前に現れた。陸軍長官スティムソンから、この巨大な計画の全貌を正式に説明されたのは、すでに4月25日になってからだった。最高機密をほぼ何も知らなかった人物が、こうしてわずか数週間のうちに、人類初の核兵器と世界規模の冷戦について決断を下す立場に立たされたのである。

広島と長崎への投下の決定を考えるときは、まず政府の説明と歴史研究上の論争を分けておかなければならない。1945年8月6日の声明で、トルーマンは原爆を戦争の終結を早めるためのものと説明し、太平洋戦争を迅速かつ決定的に終わらせるという枠組みの中に置いた。近年の研究も、1945年夏のアメリカの政策決定者たちは、使うか使わないかを長く議論したわけではなく、戦争を早く終わらせ、通常戦での死傷者を減らす手段として原爆を見ていたと指摘する。ただし同時に、核の独占が戦後の対ソ関係にもたらす、軍事以外の利得も、アメリカの当局者は確かに考えていた。歴史家たちの議論はいくつかの立場を並べて示すのがよく、こちらで決着をつけるべきではない。伝統的な見方は、日本の軍と政府はなお頑強であり、本土上陸と莫大な死傷者を避けるために原爆が必要だったとする。修正主義の見方は、日本はすでに崩壊寸前で、原爆の使用はソ連に力を見せつけるためでもあったと強調する。さらに近年の中間的な見方は、両者にはそれぞれ誇張があると考える。日本は無条件降伏の用意ができていたわけではないが、ソ連への威嚇も動機の一つだった可能性は高い。ただし、それが唯一の動機でも、第一の動機でもなかった、というのである。原爆、ソ連の参戦、日本国内の政治的危機、天皇の裁断が重なり合っていたことを示すのが、より慎重な書き方だろう。

原爆の決断を、このシリーズが辿る行政権の長い流れに戻してみれば、そこには、かつてなかった一線を越えたことが見えてくる。前の数篇では、リンカンの戦時緊急権からローズヴェルトの総力戦動員まで、大統領の権力が段階的に拡大する様子を追ってきた。しかし原爆は、その権力を、それまで想像もできなかった極限へ運んだ。一人の人間の一つの命令で、数秒のうちに一つの都市を丸ごと消し去ることができる。これは、行政権の規模が大きくなったという話だけではない。行政権が引き起こしうる結果の性質そのものが、根底から変わったのである。

原爆から冷戦への転換は、ある一瞬に起きたわけではない。1946年から1949年にかけて、いくつもの節目が連なっていた。ケナンの長文電報と1947年の「X論文」は、封じ込めを政策に落とし込める説明の枠組みへと仕立てた。1947年3月12日のトルーマン・ドクトリン演説は、その枠組みを公のものにした。続いて、制度と同盟のより具体的な実践が始まる。1948年、マーシャル・プランは経済協力法として成立し、議会が承認した資金は最終的に120億ドルを超えた。それは西ヨーロッパの経済復興計画であるとともに、アメリカの対外経済援助を長期的な外交の道具に変える重要な一歩でもあった。同年6月にはベルリン危機が起こり、米英は空輸を開始して、合計230万トンを超える物資を運んだ。1949年に成立した北大西洋条約機構は、アメリカが西半球の外で参加した初めての平時の軍事同盟だった。冷戦の起源についての責任を論じるなら、誰か一人が冷戦を始めたという話に縮めず、三つの立場を明示するのがよい。伝統派は、ソ連の東ヨーロッパへの拡張に重点を置く。修正派は、アメリカの門戸開放型の経済的・戦略的拡張をより重く見る。ポスト修正派は、安全保障のジレンマ、誤算、そして双方が自国の安全への要求を最大限に押し広げていく相互作用を重視する。

三、安全保障国家の制度的な土台

1947年の国家安全保障法は、この篇で最も重要な制度上の節目である。この法律は、外交と軍事を担う機関に大規模な再編を求め、外交政策の立案と実施に大いに役立つ一連の新しい機関を生み出した。具体的には、国家安全保障会議を設け、中央情報局を確立し、陸海軍の体制を組み替え、国防省への道筋を定め、空軍を独立した軍種とした。

制度史から見れば、この法律の重要性は、機関の名前にはない。戦時に臨時で行っていた調整を、大統領の周囲に置かれる常設の安全保障政策決定機構へと作り替えたことにある。1950年のNSC第68号文書は、さらに強い戦略的なイデオロギーを、この構造に与えた。文書はいくつかの道を示していた。孤立主義に戻るのか、直接戦争をするのか、現行の政策と外交努力を続けるのか、それとも自由世界の政治・経済・軍事の力を急速に築き上げるのか。最後の道が、以後数十年にわたるアメリカの世界的な封じ込め戦略の骨格となった。その論理のもとで、軍事、産業、科学研究を、長期にわたり莫大な資金を投じて制度的に動員することが正当化されたのである。

ここには、このシリーズにとってとりわけ重要な判断がある。安全保障国家は、対外姿勢が強硬になったというだけのものではない。連邦政府の内部で、権力の重心が組み替えられたということでもある。これは、シリーズの長い筋道にそのままつながる。ニューディールと第二次世界大戦は、すでに連邦の能力を大きく引き上げていた。冷戦はその能力を、国家の安全保障という名のもとで制度化した。ニューディールは、すでに長期に存続する行政機関を残していた。ここで新しかったのは、行政国家が初めて持続的な形を得たことではない。戦時の安全保障上の権力が、熱戦の終わりとともに撤去する予定のない構造へと再編されたことだ。国家の安全保障は、こうして一群の半永久的な行政能力を、憲政の中心に固定したのである。

この「半永久的」という点は、何度でも強調する価値がある。この時期に安全保障上の権力がとった新しい形を示しているからだ。シリーズで歩んできた道を振り返ってみよう。ジャクソンの権力拡張は彼個人に向けられた民衆の支持を軸とし、リンカンの拡張は南北戦争の緊急事態を、ローズヴェルトの拡張は大恐慌と第二次世界大戦を軸としていた。こうした拡張はいずれも、具体的な危機によって正当化された。ニューディールの制度が数多く残ったとしても、人々はなお、戦争が終われば緊急の動員も縮むと期待した。安全保障国家の成立は、安全保障の領域で、その期待をひときわ実現しにくいものにした。冷戦は、いつか終わる戦争としてではなく、幾世代にもわたって続きうる長期の対峙として構想されたからである。

四、朝鮮戦争と大統領の戦争権限

朝鮮戦争は、大統領の戦争権限の拡張にとって、戦後の最も重要な先例の一つとなった。1950年に北朝鮮が南へ侵攻すると、アメリカは国連の名のもとに「警察行動」を始めた。呼び名以外は、何から何まで戦争だった。トルーマンは、議会に正式な宣戦布告を求めなかった。行動を、国連の指揮する警察行動として位置づけたのである。

そのため、この戦争には二つの意味がある。対外的には、冷戦がヨーロッパでの封じ込めから、アジアでの熱戦に移る決定的な転換だった。国内では、行政府が最高司令官の権限と国際機関の授権に依拠し、正式な宣戦布告なしに大規模な戦争へ入るという形を、先例として残した。後のベトナム、レバノン、グレナダ、さらに近年の戦争の授権をめぐる論争も、ほとんど必ず、この実践の出発点である朝鮮戦争を振り返ることになる。支持する側が、国連安保理の決議や、突然の侵略に対応する緊急性を強調しても、批判する側は、大統領が議会を迂回するうえでの大きな節目と見る。ジャクソン判事はかつて、一度正当化された権限の逸脱は、弾を込めた武器のように法の中に残り、後の者に使われるのを待つことになると述べた。朝鮮戦争は、まさにその、弾を込めた武器だった。

だが、ほかならぬ同じ戦争が、逆向きの先例も残した。トルーマンによるマッカーサーの解任は、この構における文民統制の典型的な場面である。1951年4月11日、トルーマンは、マッカーサーがアメリカ政府と国連の政策を全面的に支持できないため、極東の司令官を交代させると発表した。この出来事の制度的な意味は、極めて不人気で、政治的な代償が甚大な状況でも、トルーマンが軍に対する文民の最終的な統制を貫いたことにある。この二つの出来事を並べてこそ、冷戦期の大統領の二つの顔が見える。同じトルーマンが、一方では宣戦布告なしで軍を用いる先例を拡張し、他方では危機の中で、軍は選挙で選ばれた文民に従わなければならないという共和政の原則を、改めて確認したのである。

五、マッカーシズムと制度による軌道修正

マッカーシズムを描くなら、マッカーシーという一人の狂人が大騒ぎした、という枠組みでは足りない。第二次赤狩りの制度的な背景に戻して捉えるのが、最も確かな道だ。マッカーシーの有名な演説よりずっと前の1938年には、下院非米活動委員会が設立され、いわゆる共産主義者の浸透を継続して調査していた。トルーマン自身も1947年、大統領令第9835号に署名し、連邦職員の忠誠を審査する仕組みを作っている。つまり、マッカーシズムは何もないところから現れたのではない。安全保障国家と冷戦への恐怖がすでに形をなしていた状況の中で、さらに激化して生まれたものだった。

この点でも、描き方の釣り合いを失ってはならない。ヴェノナ計画の機密解除によって、単純すぎる物語は維持しにくくなった。ソ連のスパイの脅威は、すべてが空想だったわけではない。連邦捜査局はヴェノナを通じて、ソ連のスパイ活動に関わった108人を特定し、そのうち64人は、それまで把握していなかった人物だった。マンハッタン計画、国務省、財務省などの重要な部門にも、ソ連の情報活動は実際に浸透していた。しかしヴェノナがスパイ網の存在を立証したからといって、マッカーシーの手法や告発の質を擁護したり、その制度的な影響を不問に付したりすることはできない。全米にテレビで生中継された陸軍・マッカーシー公聴会では、証人をいたぶり、手続きも礼節も顧みない彼の姿があらわになった。1954年12月2日、上院は67対22で彼を譴責した。理由は、上院委員会に対する侮辱的な振る舞い、調査の妨害、上院の規範を損なう行為だった。

このシリーズの枠組みに戻すと、マッカーシズムは、冷戦の圧力のもとで、閉じようとする衝動がまたも顔を出した出来事である。第8篇では、リンカンが南北戦争中に人身保護令状の権利を停止した。第16篇では、ウィルソンが第一次世界大戦中、スパイ法によって反戦者を訴追した。第20篇では、戦時国家が血統だけを理由に日系アメリカ人を拘禁した。そして今度は、冷戦への恐怖が、安全の名のもとに疑わしい者や異論を押し潰そうとする衝動を、再び呼び起こした。ハリウッドのブラックリスト、知識人の沈黙、社会全体を覆った萎縮効果を、マッカーシー一人の責任にすることはできない。議会の委員会、連邦の忠誠審査、雇用主とメディアの網、そして公衆の恐怖が、互いに連動したものとして見る必要がある。ただし、この構のもう一つの面も書かなければならない。最終的には、この行き過ぎを修正したのである。こうした閉合への衝動を描くうえで最も誠実なのは、制度が最終的に自らを正したことと、そこまでに生じた現実の被害を、同時に書くことだ。上院がようやくマッカーシーを譴責したとき、無数の人の職業人生はすでに壊され、無数の人の沈黙はすでに根づいていた。どんなに遅れて軌道を修正しても、その被害を取り戻すことはできない。

ここには、この構について覚えておくべき一つの規則性が潜んでいる。その開かれた性質、競争のある政治、自由な言論、独立した司法は、確かに自己修正の能力を与えている。一線を越えたマッカーシーも、最後にはその仕組みによって引きずり下ろされる。修正の仕組みを持たない閉鎖的な体制よりも、この構に粘り強さがあるのはそこだ。だが、修正には代償があり、時間の遅れもある。これは、一線を越えた瞬間に自動で作動し、すぐさま回路を断つ安全装置ではない。言論を通じ、公聴会を通じ、何度もの投票を通じて、ようやく動き出す、緩慢な過程なのである。

六、排除された人々を迎え入れる初期の歩み

冷戦とマッカーシズムの影の外には、この時期を逆向きに流れるもう一本の筋がある。長らく排除されてきた余項である黒人が、連邦の行政権によって、少しずつ再び迎え入れられ始めたのだ。トルーマンの時代は、この包摂の過程の初期の一幕として描く必要がある。1946年、トルーマンは大統領公民権委員会を任命した。委員会は1947年の報告書『これらの権利を確保するために』で、リンチへの対策、人頭税への反対、恒久的な公正雇用慣行委員会の設置、司法省の公民権に関する機能の強化を提言した。1948年2月、トルーマンは議会にその実施を求めたが、南部の上院議員は直ちに、長時間の議事妨害で阻止すると脅した。その結果、かえってトルーマンは、行政の手段にいっそう頼らざるをえなくなった。

大統領令第9981号は、そうした行政の手段から生まれたものだった。この命令は、軍に属するすべての人員が、人種、肌の色、宗教、出身民族にかかわらず、平等な待遇と機会を享受することを大統領の方針として定め、その速やかな実施を求めた。軍内部では相当な抵抗に遭ったものの、朝鮮戦争中に人種統合は大きく進み、戦後も続けられた。ここには、明示しておきたい三つの制度的な意味がある。第一に、議会の立法が滞る中で、大統領令が人種平等を直接に推し進めた。第二に、安全保障国家の中核組織である軍が、人種隔離の撤廃を早くから進める重要な場となった。第三に、そしてこのシリーズにとって最も重要な点だが、排除された人々を迎え入れる過程は、先に社会の合意ができ、後から制度がついてきたのではない。制度の側がまず、その扉を少し押し開いたのである。

冷戦は、ある意味では、黒人の市民としての権利を認めることを、国家戦略上の必要にも変えた。ここから分かるのは、公民権の前進と安全保障国家が、無関係に走る二本の線ではないということだ。ときには互いを押し進め、互いの力を借りる。自由のために戦うと称する国は、自国の内側にある人種抑圧とどう向き合うのか。戦時中のダブルV運動がすでに先取りしていたその問いは、冷戦の中で、この構がもはや避けて通れない戦略上の問題になった。

七、ブラウン判決、リトルロック、連邦による強制

アイゼンハワーの時代になると、公民権を前に進める重要な節目は、司法と連邦による執行から生まれた。1954年のブラウン対教育委員会判決の核心は、プレッシー判決を覆したことだけにはない。最高裁は、人種で隔離された公立学校が、少数人種の子どもから平等な教育の機会を奪っており、公教育の領域には「分離すれども平等」という原則の居場所はもはやない、と明言した。隔離された教育施設は、それ自体が不平等である。それが判決の核心だった。

このシリーズにおけるブラウン判決の位置は、ひときわ意味深い。第12篇を思い出してほしい。人種隔離に合憲の印を押したのは、ほかならぬプレッシー判決だった。そのときのハーラン判事の、われわれの憲法は肌の色を見ないという反対意見は、この構の司法の記憶に埋められ、芽吹く日を待つ種となった。それから数十年。その種が、ついにブラウン判決で芽を出した。ジム・クロウの高い壁の中で半世紀以上も押さえつけられていた余項、プレッシー判決が背を向けた平等の約束を、最高裁がようやく再び拾い上げたのである。

しかしブラウン判決後の歴史は、連邦権力による前進が、自然に実現するものではないことも、すぐさま示した。州の抵抗、地元の暴力、裁判所命令への妨害を前に、強制執行によって、ようやく困難な一歩を踏み出すことが多かった。1957年9月、アーカンソー州知事オーヴァル・フォーバスは、州兵を動員して9人の黒人学生の入学を阻んだ。騒乱が激しくなると、アイゼンハワーは大統領令第10730号によってアーカンソー州兵を連邦の指揮下に置き、第101空挺師団をリトルロックへ派遣して、連邦裁判所の命令を執行させた。この光景は、極めて象徴的である。かつて軍を使ってストライキを鎮圧し、ボーナス・アーミーを追い払った連邦の強制力が、今度は数人の黒人学生を校門まで護衛するために使われた。同じ道具である連邦軍が、再建期の後、再び人種平等を強制的に実現する方向へ、大規模に投入されたのである。

一方、モンゴメリーのバス・ボイコットは、司法と行政による上からの前進を、下からの社会運動につないだ。1955年12月1日、ローザ・パークスはバスの席を譲ることを拒んで逮捕された。その後、約13か月に及んだボイコットによって、マーティン・ルーサー・キングはたちまち全米の注目を浴びるようになった。包摂の過程は、すでにホワイトハウスや裁判所から一方向に押し進められるだけではなく、下から湧き上がる運動の力を持ち始めていたのである。

八、アイゼンハワーの中道と見えない権力

アイゼンハワーは長いあいだ、世間のイメージの中で、ゴルフばかりの大統領、あるいは消極的な大統領という薄っぺらな姿にされてきた。しかし現代の歴史研究が加えた重要な修正の一つが、いわゆる「隠れた手の大統領制」という見方である。後の研究者が文書記録の中に見いだしたのは、眠りこけた儀礼的な指導者ではなかった。舞台裏で一貫して議題を掌握し、内部の対立を調整し、公の場では意図的に抑えた姿勢を保つ大統領だった。マッカーシーに間接的な道を通じて対処したやり方は、その隠れた手の流儀をよく示している。内政でも、アイゼンハワーはニューディールを解体しようとしたわけではなく、穏健な保守の中道を選んだ。

冷戦の戦略では、アイゼンハワーは通常「ニュールック」と呼ばれる安全保障政策を持ち込んだ。そしてこの時期を描くには、中央情報局の秘密工作も欠かせない。現在の研究では、1953年のイランのクーデターについて、アイゼンハワーが日記に、アメリカはモサデク政権の打倒とシャーの復位を助けたと記していたことが、公に認められている。1954年のグアテマラについても、公式の回顧は、一連の秘密工作計画の存在を示している。これらの資料は、安全保障国家のもう一つの拡張を示すのに格好の材料だ。大統領の正式な外交・軍事権限を広げるだけでなく、秘密工作や秘密予算と、民主的な説明責任との間にある灰色の領域まで、広げたのである。

国家の安全保障という名のもとに、大統領は中央情報局に命じて、他国の政府を転覆させることができる。しかも、公の議会討論や国民への説明を経ず、通常の目に見える説明責任を迂回して行われうる。一部の議会小委員会には秘密の監督経路があったが、公開の討論や十分な審査の代わりにはほど遠かった。安全保障国家は、行政権を大きくするだけではない。その一部を、見えないものにしてしまう。そして、見えない権力こそ、この構の制衡が最も縛りにくい権力である。そもそも見えないものを、どうやって制衡すればよいのか。

九、告別演説と閉じ切らないことへの要請

1961年のアイゼンハワーの告別演説は、この篇の、さらには安全保障国家の誕生史の締めくくりとして、そのまま置くことができる。演説で彼は、アメリカはいまや巨大な常設の軍需産業を作り出しており、巨大な軍事組織と巨大な軍需産業の結びつきは、アメリカの経験ではまったく新しいものだと述べた。そして、あの有名な警告を発する。政府の意思決定において、軍産複合体が不当な影響力を手にするのを警戒しなければならない。誤った場所に置かれた権力が破局的に台頭する危険は、現に存在し、これからも存在し続けるからだ。さらに重要なのは、その直後に付け加えた言葉である。警戒を怠らず、十分な見識を備えた市民だけが、巨大な産業と軍事の機械を、自由な社会の平和的な目標に適切に結びつけさせることができる、というのだ。

この数言は、シリーズの構造的な主題を、ほとんどそのまま言い表している。安全保障国家は、外から降ってきた偶発的な出来事ではない。この構が自ら進化する中で生み出した、新しい権力の塊なのである。五つ星の将軍出身で、この戦争機械を自ら指揮した大統領が、退任にあたって、その機械を警戒せよと言う。そのこと自体が、この権力の塊の重さを物語る。それはすでに、それを統御する資格を誰よりも持つはずの人物さえ、この構の自由の核心を、逆に食い侵しはしないかと心配するほど大きくなっていた。

アイゼンハワーが示した処方箋、すなわち、警戒を怠らず十分な見識を持った市民という言葉は、このシリーズの核心に置いて考えるに値する。その深い意味は、新しい法律や新しい機関で、この権力の塊を一度きりで永遠に封じ込めるとは言っていないことにある。シリーズの言葉で言えば、制度が自らの進化によって生み出した権力の塊に向き合う唯一の道は、この構を閉じ切り、永遠に通用する規則一式に見張りを任せることではない。まさに逆に、この構を絶えず閉じ切らないまま保つことである。いつまでも目を開き、問い続け、警戒する役目を決して他に明け渡さない、開かれた状態を保つのである。

トルーマンとアイゼンハワーの16年間をシリーズの中に戻したとき、最も覚えておきたいのは、この構がどうやって戦時を常態へと鋳固めたかということだ。戦後には大規模に復員したが、冷戦と核時代の圧力に直面するなかで、安全保障分野の中核的な能力を、大統領を中心とする半永久的な安全保障国家へと再編したのである。マッカーシズムは、安全至上の空気の中で、この構の閉じようとする衝動が再び一線を越えた出来事だった。最終的には修正されたものの、すでに現実の被害を生み出していた。その一方で、長く排除されてきた人種の余項もまた、この冷戦の時代にこそ、大統領令、司法の判決、冷戦の戦略上の必要、そして台頭しつつあった社会運動の力を借りて、再び迎え入れられ始めた。同じ時代のこの構は、安全の名のもとに閉合へ近づきながら、公民権の方向には再び開いていった。その最後の知恵は、アイゼンハワーの簡潔な戒めに凝縮されている。自ら生み出した巨大な権力の塊を前に、唯一の守りは、決して閉じ切ることなく警戒し続けることにある。

次に登場するのは、下から立ち上がった運動が、いかにして頂点へ向かうのかという物語だ。一人の若い大統領が暗殺され、その後を継ぐ熟練の立法家は、丸一世紀にわたって押さえつけられてきた人種の余項を、連邦法という形で正面から、大規模に受け止めることになる。それがケネディとジョンソンの物語である。最も深い余項が、1960年代に、それまでにない力でこの構の中心へ再び湧き上がってくる物語だ。